わかたんかこれ 第5歌 ゆきすぎかねて

前回(2018/2/26)、 「第4歌 ものおもひ いふ女」と題して記しました。

今回、「第5歌 ゆきすぎかねて」と題して、『猿丸集』に関して記します。(上村 朋)(追記 さらに理解を深めました。2020/7/20付けブログや2020/8/3付けブログを御覧ください。(2020/8/3))

 

. 『猿丸集』の第5歌 3-4-5歌とその類似歌

① 『猿丸集』の五番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-5   あひしりたりける女の家のまへわたるとて、くさをむすびていれたりける

   いもがかどゆきすぎかねて草むすぶかぜふきとくなあはん日までに

 

3-4-5 歌の類似歌 2-1-3070歌の一伝   題しらず  よみ人しらず   

   いもがかど ゆきすぎかねて くさむすぶ かぜふきとくな ただにあふまでに 

 (・・・風吹解勿 直相麻弖尓)

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、五句の数文字と、詞書が、異なります。

③ この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

 

2.類似歌の検討その1 歌の配列から 

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌2-1-3070歌の一伝は、 『萬葉集巻第十二 古今相聞往来歌類之下 にある相聞歌の部にある「寄物陳思歌一百五十首」の二番目のグループ(2-1-2976~)にある歌です。2-1-3070歌には五句が異なる歌が伝えられているとして、『萬葉集』にある歌が、「2-1-3070歌の一伝」です。

「寄物陳思」とは、「正述心緒に対して他物を譬喩に用ゐ、或は他物を機縁とした恋愛歌」(土屋文明氏 『萬葉集私注 六』48p)のことです。

土屋氏は、「その譬喩には、序の方法を用ゐたものが多く、枕詞を用ゐたにすぎぬものもある。また正述心緒との区別のはっきりしないものもある。分類は後から施されたものであるから、それは止むを得ないことである」、と理解しています

② 二番目の寄物陳思という部類は、愛しい人を着物に喩えている歌に始まり、着物の下紐や鏡などなどのあとに、ヤマスゲの根の歌が続きます。

この歌の前後の歌は、つぎのとおりです。

 

2-1-3068歌 あひおもはず あるものをかも すがのねの ねもころごろに わがおもへるらむ 

2-1-3069歌 やますげの やまずてきみを おもへかも あがこころどの このころはなき

2-1-3070歌 いもがかど ゆきすぎかねて くさむすぶ かぜふきとくな またかへりみむ

   (一伝にいふ ただにあふまで)

2-1-3071歌 あさぢはら ちふにあしふみ こころぐみ あがもふこらが いへのあたりみつ

2-1-3072歌 うちひさす みやにはあれど つきくさの うつろふこころ わがおもはなくに

即ち、ヤマスゲを引き合いに自分が想い続けているうったえ、この歌となり、裸足で茅の目を踏む例えで恋の苦しみを詠い、逢える状況に今はないがそれでも月草の染料のような移し心は毛頭ないという歌に続きます。

③ この歌の前後の歌は、みな片想いの最中の歌です。作者の苦しみを種々訴えている歌から、この歌になり、次に、それでも恋心は変らないと詠っています。

このような配列からは、この歌は、片想いの最中の歌のはずである、といえます。

 

3.類似歌の検討その2 くさむすぶ

① 訳例を示します。

・「あの娘の門前を 素通りできず 草を結んでおく 風よ吹き解くな また来て見よう(またじかに逢うまで)」

『新編日本古典文学全集 萬葉集』)

三句の「くさむすぶ」とは「草や木の枝を結ぶのはまじないの一種。結び目が解けない間、その願い事がかなうという信仰による」、としています。

・「いとしいあの子の門口を通り過ぎがたい思いで、草を結んだ。風が吹いて結び目を解いたりしないでほしい。直接逢うまで。」(阿蘇瑞枝氏の現代語訳)

三句の「くさむすぶ」とは、「草に限らず、松の枝、衣の紐を結ぶ行為は、生命の無事、長寿、無事なる再会など痛切な祈願の成就を期する呪術の一つであった。ここは、妹との逢会を願っての行為であろう」と説明しています。

・妹が門を行き過ぎ難いので、草を結ぶ。風よ、吹き解くなよ。又来つて見よう。(土屋文明氏の2-1-3070歌の現代語訳)

 氏は「處女に求婚する為に、その家の門に来てたちさまよふ男の心持である。・・・「またかへりみむ」、では満足し得ない心が、もっと直截に「ただにあふまで」、としたのであろう。二つの別の心持であるが、それぞれに受け入れられる」と評しています。

 また、氏は、「草むすぶ」のは「交會」のシンボルであったのか、将来の幸運を得るという俗信があったのか」と推測しています。

② 動詞「むすぶ」について検討します。

『古典基礎語辞典』によれば、「むすぶ(結ぶ)」の原義は、「紐・枝・草や手の指などの端と端とを絡めて、しっかりつなぐこと。さらに漢語「結番」の訓読によるものか、複数のものを一連のつながりとする意味でも用いられた。」と説明し、他動詞aとして、「旅の無事や長寿、多幸を祈って、松の枝や草の端と端とをつなぐ。」とし、例として2-1-143歌と2-1-3070歌(一伝ではない五句が「またかへりみむ」の歌)をあげています。

 また、別の他動詞bとして、「心と心をつないでひとつにする。契りを交わす。約束をする。前世からの因縁を有する。なお、恋の和歌では、上記bの意や男女が再び逢うまでの契りとして相手の衣の紐や下紐をしっかりつなぐ意と重ね合わせて用いられることが多い。」と説明しています。

『例解古語辞典』によれば、「つないで一続きにする」意を第一にあげ、「結び目をつくる」意を第二にあげています。

③ この歌の「くさむすぶ」の「くさ」は、特別な種類の草を指しているのではなさそうです。諸氏は草の種類に注目していません。

「むすぶ」ということばの意味が、同種の物の二つをからめて一つになった状態にする行為であるので、「むすぶ」に対する当時の俗信は、「同じ願いを持っている(はず)であるもの同士の意志が天に通じる」ようにと願って少なくとも一方が何かを「むすぶ」とそれが実現の方向にむかうと信じる、というものであったのかと推測します。そうすると、自然にほどけてしまうのは、願いが叶わないという予兆と信じたのでしょう。

 「下紐をむすぶ」ことが『萬葉集』の男女の間の歌によく詠われていることから類推すると、「草をむすぶ」とは「下紐をむすぶ」ほどの関係に至っていない、片想いか夢想の段階での一方的な願いに用いられた俗信なのであろうと思われます。

 ともかくも、この歌の作者は、一方的に何かを願っている(願をかけるという類で呪詛をする類ではない)と言えます。

 

4.類似歌の検討 その3 現代語訳

① この歌の作者は、「いもがかど ゆきすぎかねて」草を結んでいます。「ゆきすぎかねて」の意は、

・動詞「行き過ぐ」の連用形+副詞「かねて」(通過するにあたり、あらかじめ(草を結んだ。草を結んで持って来た)

・動詞「行き過ぐ」の連用形+接尾語「かぬ」(ただ通過することができないので)

が、考えられますが、前者は、「いもがかど」近くで「草結ぶ」ことに俗信がさらにあるとすると説得的ですが、それが不明です。このため、諸氏とおなじように、後者の意として、この歌を理解します。

② この歌は、『萬葉集』の歌の配列からいうと、片想いの「いも」の家(「かど」)に来たけれども、となります。来た理由はともかく、会う手立てがないことがわかったので、それならば、と俗信を作者は実行したのではないか。しかし、予想できた結末に対して俗信を実行した、という副詞「かねて」を支持したい気持ちがあります。

③ 現代語訳は、土屋氏の理解がよいと思います。すなわち

「妹が門を行き過ぎ難いので、草を結ぶ。風よ、吹き解くなよ。直接あうまでは。」

④ この歌での「寄物」は、歌の配列からいうと、次の茅の目や月草につながる「草」かもしれません。そうすると、作者の深い愛を喩えているのが、どこにでもある雑草、となります。踏まれても踏まれてもひたむきに成長する点が変らぬ愛を象徴しているのでしょうか。

片想いの段階での俗信で使用している「草」では、歌に用いるのにはどうかという気もしますが、土屋氏の指摘しているように、「寄物陳思」という部類分けは、『萬葉集』の編纂者が後ほどしたものでありますし、この歌の作者の気持ちはよくわかります。

5.3-4-5歌の詞書の検討

 3-4-5歌を、まず詞書から検討します。

 「あひしりたりける女」は、動詞「あひしる」の連用形+助動詞「たり」の連用形+回想の助動詞「けり」の連体形+名詞「女」であり、「たり」は「動作がすでに終わってその結果が存続している」の意です。

「(詠嘆の気持ちをこめて言うのだが)交際していたことのある女」、の意となります。だから、ここでは、別れた女の意、となります。

 動詞「あひしる」の意は、互いに親しむ、であり、既に継続的な行為を意味しています。

③ 「いれたりける」の「たり」は、助動詞の連用形で、「動作・作用が引き続き行われる意」です。「いれたりける」は、「投げ入れたり、蹴る」、の意です。

④ 詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「以前交際していたことのある、あの女の家の前を通り過ぎる、ということになり、草を、結んで投げ入れたり、(地面に生えている)草を蹴る(その時の気持ちを詠った歌)。」

63-4-5歌の現代語訳を試みると

① 動詞「あふ」は、第一に調和する意があります。そして、似合う、夫婦になる、対面する、遭遇する、等の意に発展しています。

② 二句「ゆきすぎかねて」は、「行き過ぎ、予て(用意の)」の意ではないでしょうか。

③ 以上の検討を踏まえて、詞書に留意して3-4-4歌の現代語訳を試みます。三句切れと理解します。

貴方の家の前を通り過ぎることとなったので、予て思っていたように草を、結びましたよ。対面できる日までは結んだ草をほどかないで、風よ。

④ 作者は男です。この歌は、女に届けられています。女は、その後、結ばれた草を邸内で探させ、ほどかせたでしょう。俗信を信じていないとしても。

⑤ 結ぶことへの俗信があるので、投げ入れることへの俗信も作者の時代にあったのでしょうか。

 

7.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌は、詠む発端を具体に示していますが、類似歌には、一切ありません。

② この歌の作者は、昔のことばの綾の文言を思い出して、約束を果たせ、といやみを言っているかにみえます。さらに、結んだ草を投げ入れることに俗信があるならば、いやがらせに当たります。これに対して、類似歌は、片恋でもまだあきらめていないと、詠います。

③ この結果、この歌は、女々しい男の述懐の歌であり、類似歌は、恋の歌となります。

④ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-6歌  なたちける女のもとに

   しながどりゐな山ゆすりゆくみづのなのみよにいりてこひわたるかな

3-4-6歌の類似歌

類似歌は万2-1-2717歌の一伝:巻第十一の 「寄物陳思 よみ人しらず」

       しながとり ゐなやまとよに ゆくみづの なのみよそりて こひつつやあらむ 

(・・・名耳之所縁而 恋菅哉将在)

 

 この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/3/5   上村 朋)