わかたんかこれ  猿丸集第3歌 仮名書きでは同じでも 

前回(2018/2/5)、 「第2歌とその類似歌は」と題して記しました。

今回、「第3歌 仮名書きでは同じでも」と題して、記します。(上村 朋)

. 『猿丸集』の第3 3-4-3歌とその類似歌

① 『猿丸集』の三番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌は、次の歌です(『新編国歌大観』より引用します。)

3-4-3 あだなりける人の、さすがにたのめつつつれなくのみありければ、うらみてよめる

   いでひとはことのみぞよき月くさのうつしごころはいろことにして

 

3-4-3歌の類似歌 1-1-711歌 題しらず    よみ人しらず

   いで人は事のみぞよき月草のうつし心はいろことにして

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じですが、詞書が、この歌3-4-3歌とその類似歌1-1-711歌とでは、異なります。

③ 二句と五句にある「こと」に関して、この歌3-4-3歌はともに平仮名で表現し、その類似歌1-1-711歌は「事」と「こと」とかきわけています。そのほかの語句もかき分けられているのがあります。

④ この二つの歌の検討結果のまとめは、下記8.に記します。

 

2.類似歌の検討その1 配列されている巻について

① 諸氏が既に現代語訳を示している類似歌を、先に検討します。

類似歌1-1-711歌は、『古今和歌集』巻第十四 恋歌四にある「題しらず よみ人しらず」の歌です。

巻第十四は、1-1-677歌の「題しらず よみ人しらず」の歌で始まり、1-1-746歌の同じく「題しらず よみ人しらず」の歌で終ります。恋が知れ渡った(巻第十三恋歌三)のち、次に逢うまでの苦しみや迷いを詠い、恋が立ち消えてしまった歌で終わっています。

② この1-1-711歌の前後の歌をみると、708歌から710歌は喩えにより作者より離れて行く人を詠い、711歌からの3首は言葉と本心の違いを詠っています。諸氏の現代語訳を参考とすると、そのように理解できます。

708歌から711(さらに713)歌までは、みな「題しらず よみ人しらず」の歌であり、『古今和歌集』の編纂者が、作者名を隠すため故意によみ人しらずとしていないとすれば、古い時代の歌より巻第十四の趣旨にあう歌を選び、編纂者はここに配置していると、見なせます。

 1-1-711歌の元資料も、諸氏の現代語訳のような、恋の歌である可能性がたかいのではないかと思います。

③ 小沢正夫氏と松田成穂氏は、巻第十四について、「巻十三に引き続いて「逢う恋」の歌で始まるが、ひとたび逢えば恋しさはますます激しくなる。そして、逢う機会の少ないのを嘆き、・・・最後は、再会を誓う形見を主題とした歌で終るが、中ごろに、心変わりや離別を悲しむ歌が出るのは、配列の混乱といえよう」と解説しています(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』の頭注より)。

 久曾神氏は、「(五巻の)恋歌は恋愛の過程に従って約五十項に類別しているようであるが、明確に断定しがたい」と解説しています(講談社学術文庫古今和歌集』)。 

 いずれにしても、1-1-711歌は、次に逢うまでの間に詠まれた歌としての理解でよいようですが、詠みだす事情は、元資料にもなかったのか、編纂者の意図なのかわかりませんが、詞書には記されず、「題しらず」となっています。

3.類似歌の検討その2 歌の「こと」と「うつしごころ」 

① 三代集の時代、和歌は清濁抜きの平仮名で表現されたものと言われています。それを、諸氏は、底本を校訂し、読解の便をはかるため、詞書と歌本文を適宜、仮名書きの語を漢字にあるいは漢字表記の語を仮名書きにするなどして示し、校注・訳をしています。

 この歌(1-1-711)でいうと、二句にある「事」は、「こと」とか「言」と示されていたりします。また、五句にある「こと」はまた別の意味であると諸氏は理解しています。四句の「うつし心」も「うつしごころ」と示したりしています。

和歌においては、ひとつの語句に、(和歌の内容を豊かにする)同音異議の語句が用いられるのはよくあることですので、 それの有無をも検討対象となります。

② 諸氏による1-1-711歌の訳例を示す前に、三句にある「月草」について説明します。月草は、今の露草(即ち螢草)を言っています。その花で摺って染めた色は移りやすい(変わりやすい)。月草で摺った藍色は水に落ちやすいという理解が当時の作者たちにあります。『萬葉集』等の例をのちほど示します。

 

・「いやもう、人は調子がいいのは言葉だけだよ。月草で染めたように、心は移りやすく表面と本心とは違うのです。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』。)

この訳例は、二句の表現を「言のみぞよき」としている歌として示したうえ、四句の「うつし心」は、「移りやすい心」(移し心)と「本心」(現し心)の二つの意を掛けていると理解しての訳となっています。五句の「こと」は、「違う(「異」)」と理解しています。以下、この訳例を第一の訳ということとします。

 

・「いやもう、あなたはお口だけがりっぱであるよ。(月草で染めたものがすぐ色がかわるように)移り気は格別であって。」(久曾神氏。)

この訳例は、二句の表現を「ことのみぞよき」としている歌として示したうえ、四句の「うつし心」は、「移し心」とのみ理解しての訳となっています。五句の「こと」は、「格別(「殊(に)」)と理解しています。以下、この訳例を第二の訳ということとします。

この二つの訳は、二句の「こと」を、「言」(貴方が口にする言葉)と理解した現代語訳です。しかし五句の「こと」の意は異なっています。

③ 今引用している『新編国歌大観』では、最初に示したように、二句を「事のみぞよき」としています。

「事」は、「言」と同源だそうですが、

「世の中に起こる事がらや現象」

「(政務、仕事、また行事などを含んで)人のするわざ、動作、ふるまい」

「一大事・変事・事故」等

の意があります(『例解古語辞典』より)。

『新編国歌大観』記載の『古今和歌集』の底本の作成者が「ひらかな」の和歌表現で「こと」とあるところを「事」と記しているので、『古今和歌集』の編纂者の意図に忠実に現代語訳を試みるには、作者が「事」の意で、この歌を詠った可能性も考慮しなければなりません。また、「事」の意であったとしても、第一の訳や第二の訳のように訳せるかどうか、確認を要します。作者が、二句の「事」に「言」を掛けているかも確認を要します。

④ 「事」の意味別でこの歌の初句と二句の理解を試みます。

 二句の「事のみぞよき」の「事」が、「世の中の云々」の意では、初句と二句をひとつの文章として理解するのが困難です。

「人のするわざ、動作、ふるまい」の意に、「事」を理解すると、初句と二句は「(人は誰でも、)そのふるまいのみは良い」あるいは「(凡そ人たるもの)そのふるまいのみが判断基準によい」という意味になるかと思われます。そのふるまいの代表的な例である「言」(貴方が口にする言葉)を用いて「事」を現代語訳することは、前後の(詞書を含めた)文脈から可能となるでしょう。しかし、その文脈でそのように限定しないで詠っている歌という可能性を否定しきれません。

 また、「一大事・変事・事故」の意と理解すると、二句は「(人は誰でも)一大事のみが良い」あるいは「(凡そ人たるもの)一大事の時のみがその人の評価によい」という意味になるかと思われます。これは、初句と二句にまたがる一つの文章として意味が通ります。

このため、『新編国歌大観』の文字使いの和歌を現代語訳する際、「事」を、素直に理解して「言」の意ではなく、「事」の意で無理がないか、また、これに付随して五句の「こと」が「異」とかの一義になるのか、の検討を試みることとし、第一の訳や第二の訳との比較をすることとします。

④ なお、「事にす」という連語があり、『例解古語辞典』には、「これでよしとする。それで満足する。また、えらいことを考える」と、説明し、十三世紀前半成立の宇治拾遺物語3・6の例をあげています。

⑤ もう一語、検討を要する詞があります。四句にある「うつし心」です。上記の第一の訳にみられるように「うつし心」には、「移し心」と「現し心」の意があります。その意味するところはだいぶ違います。

 「移し心」は、名詞「移し」+名詞「心」として成り立ちます。

 名詞の「移し」は、『例解古語辞典』には、

aよいかおりをほかの物に移すこと。また移したかおり。

b草木の花の色を紙や布にしみこませておき、必要の際すぐに衣を染められるようにしてあるもの。

c移し馬の略等

とあります。

 これによれば、「うつし心」とは、

 Aかおりをほかにうつす心、

 Bほかのものにすぐ移せるこころ、

という理解になります。

 四句にある「うつし心」は、第一の訳では「心は移りやすく」、第二の訳では「(月草で染めたものがすぐ色がかわるように)移り気」となっていますので、Bの意であり、「注目あるいは興味をほかに移せるとか移っていったこころ」の意とみることができます。

 「現つ心」は、形容詞「現(うつ)し・顕(うつ)し」の語幹+名詞「心」として成り立ちます。

 形容詞「現(うつ)し・顕(うつ)し」は、『例解古語辞典』には、上代語であって、

 a生きている。この世にある。

 b気が確かである。

とあり、 「現し心」も立項しており、

 cはっきりした意識をもっていること。正気。

 d本心。

とあります。

 そうすると、この1-1-711歌のように、平仮名で表現されている和歌に現れる「うつしこころ」は、この歌が詠われた頃、「移し心」(すなわち「注目あるいは興味をほかに移せるとか移っていったこころ」)と「現つ心」(正気とか本心)の意味の使い分けはどのようにされているのか、用例から演繹できるならば確認をしたいと思います。

 

4.類似歌の検討その3 「うつし心」などの先行例等

① 「うつし心」は1-1-711歌の先例があります。

今検討している歌1-1-711歌は、『古今和歌集』記載の歌であるので、「うつし心」という語句の先例と並行例の確認のため、『萬葉集』と三代集と三代集の成ったころ成立したと思われる歌集を対象とします。

② 『新編国歌大観』の『萬葉集』は、西本願寺本を底本に校訂を加え、西本願寺本による訓と現代の万葉学の立場で発刊当時における最も妥当と思われる新訓を示しています。この二つの訓を確認することとします。(西本願寺本による訓は、仙覚の新点ですので、三代集の成立ころの訓であると言いきれないのですが、当時の訓の確認が間に合いません。)

清濁抜きの平仮名表記で「うつしこころ」という語句のある歌は、次の表のようでありました。

 

表 『萬葉集』における「うつしこころ」表記の歌(『新編国歌大観』による)(2018/2/11現在)

歌番号等

西本願寺本による訓

現代の訓

万葉仮名

2-1-1347イ

うつしごころや

(くれなゐの)うつしごころや(いもにあはずあらむ)

事痛者 左右将為乎 紅之 写心哉 於妹不相将有

2-1-2380

うつしごころも

(ますらをの)うつしごころも(われはなし)

健男 現心 吾無 夜昼不云 恋渡

2-1-2802

しまごころにや

(たまのをの)うつしごころや(としつきの)

玉緒之 嶋意哉 年月乃 行易及 妹尓不逢将有

2-1-2972

うつしごころも

(うつせみの)うつしごころも(われはなし)

虚蝉之 宇都思情毛 吾者無 妹乎不相見而 年之経去者

2-1-3072

うつしごころは

(つきくさの)うつろふこころ(わがおもはなく)

内日刺 宮庭有跡 鴨頭草 移情 吾思名国

2-1-3073

うつしごころは

(つきくさの)うつろふこころ(われもためやも)

百尓千尓 人者雖言 月草之 移情 吾将持八方

2-1-3225

うつしこころや

(たまのをの)うつしこころや(やそかかけ)

玉緒之 徒心哉 八十梶懸 水手出年船尓 後而将居

 

注1)歌番号等は、『新編国歌大観』の巻数―当該巻における歌集番号―当該歌集における歌番号。

2)「うつし心」表記相当の万葉仮名部分の現代語訳(試案)は、次のとおり。

2-1-1347イ歌:写心:「現し心」(紅の花のようなしっかりした心)

2-1-2380歌:現心:「現し心」(ますらおの覚めた心)

2-1-2802歌:嶋意:当時の木簡の例より嶋は寫の誤字か。:「現し心」(正気のこころ)

2-1-2972歌:宇都思情:「現し心」(世間でよくある分別ある心)

2-1-3072歌:(鴨頭草)移情:「移し心」(変わりやすいこころ、または変ってゆくこころ)

2-1-3073歌:(月草之)移情:「移し心」(変わりやすいこころ、または変ってゆくこころ)

2-1-3225歌:徒心:「現し心」(正常な判断力を保っている心・平常心)

 

③ 表にあるように、現代の訓で「うつしごころ」に該当する万葉仮名には、「移情」がありません。「移情」は「うつろふこころ」という訓になっています。それに該当する二つの歌では、「鴨頭草 移情」、「月草之 移情」と、「つきくさの」と形容されています。

この二つの歌は、西本願寺本の訓では、「うつしごころ」という訓になっています。

西本願寺本の訓が、三代集成立の頃『萬葉集』の訓とおなじかどうかは未確認ですが、「つきくさ」のイメージに「それから作る染料で摺ったものはすぐおちる」ことも付いて回っているので、『萬葉集』から推測すると、「つきくさのうつしごころ」という表現のみが、三代集成立の頃は「月草の移し心」の意である可能性が高い、といえます。

「月草の移し心」とは、上記3.⑤で示した「移し心」(すなわち「注目あるいは興味をほかに移せるとか移っていったこころ」)と重なり、 その意は、前後の語句にもよりますが、概略「月草で染めた色がすぐ褪めてゆくようにすぐ変わってゆく(あるいは変わった)心」です。

④ 次に、『新編国歌大観』の三代集をみると、「うつしこころ」表記の歌は、1首しかありません。即ち、この1-1-711歌です。三代集成立頃に詠まれた可能性があるのは実質1首ということになりますが、この歌も編纂者が匿名にしたのではなく、本当に「よみ人しらず」の時代の歌であるとすれば、より萬葉の時代に近い歌ということになります。

ちなみに、「つきくさ」表記の歌は、3首あります。そのうちの1首が「つきくさのうつし心」とある1-1-711歌です。残りの2首は次の歌ですが、ともに『萬葉集』の2-1-1355歌という古歌の引用といえます。この2-1-1355歌は、『人丸集』にもあります(3-1-28歌)。

1-1-247歌 題しらず(245~248

   月草に衣はすらむあさつゆにぬれてののちはうつろひぬとも

1-3-474歌 題しらず

  月草に衣はすらんあさつゆにぬれてののちはうつろひぬとも

現代語訳は、「露草の花で衣を摺って染めよう。たとえ、朝露にぬれた後には、はかなく色褪せるとも」(小町谷照彦氏訳。将来あなたは心変わりするかもしれないが今はともかく結婚しよう、と詠う)

(参考)2-1-1355歌 つきくさに ころもはすらむ あさつゆに ぬれてののちは うつろひぬとも

3-1-28歌   つきくさに衣はすらんあさ露にぬれてののちはうつろひぬとも

 

1-1-247歌等の初句の「月草に」とは、「月草の移し心」の意に通じる使い方です。

 

⑤ 三代集以外の三代集の時代に成立したという歌集として、『新編国歌大観』第3巻の歌集番号1~99番の歌集をみてみると、「うつしこころ」表記の歌は、『猿丸集』の3-4-3歌を含めて8首あります。

『人丸集』 3-1-192歌 (詞書なし) 

ますらをのうつし心もわれはなしよるひるわかずこひしわたれば

『猿丸集』 3-4-3歌 詞書と歌は上記のとおり。

『敦忠集』 3-18-107歌 宮

   たのみつつとし月くさにへにければうつしごころにうたがはれける

『敦忠集』 3-18-108歌 かへし

   君をおきてわれはたれにかつきくさのうつしごころのいろもかはらむ

馬内侍集』 3-62-95歌 人をかたらひて、あふをりあはぬときありしかば、あふぎのはなしてそそきたるに、かきておこせたりし

   つき草のうつし心やいかならんむらむらしくもなりかへるかな

和泉式部集』 3-73-430歌 うへのきぬをはりきりて、いとをしき事いひて

   つゆくさにそめぬ衣のいかなればうつし心をなくなしつらん

『公任集』 3-80-385歌 かげまさが露草のうつしきこえたりける、やりたまふとて

   朝夕につねならぬよを難くまにうつし心もなくなりにけり

『入道右大臣集』 3-87-40歌 中宮御方裁菊夜

   きくのはなこころにそめてわすれめやうつしごころのあらんかぎりは

 このうち、『入道右大臣集』は、藤原頼宗の歌集です。頼宗は藤原道長の次男で康平8年(1065)歿、『後拾遺和歌集』以下に42首入集しています。

⑥ この8首の「うつしこころ」表記の意が、「現し心」であるか又は「移し心」であるかを検討すると次の表の通りです。

「つきくさの うつしこころ」と清濁抜きの平仮名表記できる歌は、3-4-3歌と3-18-108歌と3-62-95歌の3首だけです。

 3-4-3歌は今検討対象なので、後ほどの検討とします。

3-18-108歌は、「うつしごころの『いろ』」と詠っています。またこの歌は3-8-107歌の返しの歌ですので、「うつしごころ」は「移し心」の意と思われます。

 3-62-95歌は、作者は逢う約束を破られているので、「移し心」をなじって詠っています。

 なお、三代集には、動詞「うつろふ」を用いた歌が50数首ありますが、「こころ」を直接修飾しているのは

1-2-1156歌の一首です。

 結局8首のうち、4首が「現し心」の意でした。すべて「つきくさの」という形容をされていません。「つきくさの」と形容された歌(表中の*印の歌)は、3首あり、検討保留にしている3-4-3歌を除く2首は、「移し心」の意でした。

 

表 私歌集における「うつしごころ」の意別内訳(3-1~3-99を対象とする)(2018/2/11現在)

検討保留

「現し心」の意

「移し心」の意

「現し心」と「移し心」を掛ける

「現し(心)」と「うつし」を掛ける

「現し心」の現代語訳(試案)

 

3-1-192

 

 

 

正常な判断力を保っている心

*3-4-3

 

 

 

 

 保留

 

 

3-8-107

 

 

<対象外>

 

 

*3-8-108

 

 

<対象外>

 

 

*3-62-95

 

 

<対象外>

 

3-73-430

 

 

 

本心

 

 

 

 

3-80-385

正気

 

3-87-40

 

 

 

本心

注1)番号は、『新編国歌大観』の巻番号―当該巻の歌集番号―当該歌集での歌番号

2)歌番号に「*」のあるのは、「つきくさの うつしこころ」と清濁抜きで平仮名表記できる歌

注3)「うつし」とは、草木の花の色を紙や布にしみこませておき、必要の際すぐに衣を染められるようにしてあるもののうち、露草(月草)(によるところ)のうつし、を言う。

 

⑦ 三代集の時代の「つきくさ」表記の歌も念のため確認しますと、『新編国歌大観』第3巻の歌集番号1~99集のなかに、上記にあげた3首のほかに4首あります。

 

『人丸集』 3-1-24歌 (詞書なし)

   つき草に衣ぞそむる君がため色どり衣すらんと思ひて

 「つき草」は染料であり、染めてもすぐ褪せるが、色どりの美しい衣をつくるために、と詠っています。本気で色どり衣を作ろうとしているのですかと疑いたくなりますが、褪める色は何回でも染め直すように、貴方に何回もアプローチします、という恋の歌と理解しました。

 

『人丸集』 3-1-28歌  (詞書なし)

   月草に衣はすらんあさ露にぬれてののちはうつろひぬとも

 「月草」は染料であり、染めてもすぐ褪せるので、気が変わることの比喩となっています。

 

和泉式部続集』 3-74-248歌  あじきなき事のみでくれば、人の返事たへてせぬに、いかなればかかるをといひたるに

   つきくさのかりにたつなのをしければただそのこまを今はのがふぞ

 「つきくさ」は染料であり、染めてもすぐ褪せるので、噂がすぐ消えた(としても)、を引き出しています。

 

能因法師集』 3-85-123歌 東国風俗五首(123~127

   つきくさにころもはそめよみやこ人いもをこひつついやかへるがに

 「つきくさ」は、染料であり、染めてもすぐ褪せるので、染めた衣を見る度に「移し心」という言葉を思い出し都に居る妻を気遣う気持がたかまるであろうと、この歌は詠っています。

 

 このように、「つきくさ」表記は、染めてもすぐ褪せる染料、という特徴を歌に用いているといえます。

⑧ 『萬葉集』と三代集と三代集と並行して成立したと思われる歌集の歌の検討をまとめると、つぎのとおりです。

・歌に、「つきくさのうつしこころ」表記とある場合は、「移し心」である。

・単に「うつしこころ」とある歌では、「現し心」である。

1-1-711歌は、「つきくさのうつしこころ」であり、「移し心」の意の可能性が高い。

・掛詞として歌にあるのは、「うつし」と「現し心」の1例である。「移し心」と「現つ心」とを掛けている可能性が残っているのは、検討保留としている1-1-711歌である。つまり、掛詞として用いているのは例外である。

 なお、ここまでの検討におけるつきくさ(月草)は、当然植物のツユクサを意味しているところですが、襲の色目の名前でもあり、表がはなだ色(薄い藍色)で裏が薄はなだ色の色目のことを指す場合も和歌によってはあり得ます。

 

5.類似歌の現代語訳を試みると

① 以上の検討を踏まえて、『新編国歌大観』に記された3-4-3歌の類似歌1-1-711歌の現代語訳を、試みます。

 歌は、つぎのような表現でありました。

   いで人は事のみぞよき月草のうつし心はいろことにして

② 1-1-711歌が、『古今和歌集』巻第十四恋歌四にある歌であることに留意し、主要な語句の意味は、つぎの通りとします。

・二句の「事」は、「(政務、仕事、また行事などを含んで)人のするわざ、動作、ふるまい」あるいは「一大事・変事・事故」、の意とします。

・三句~四句の「月草のうつし心」は、「「月草からの染料のような移し心」(ほかのものにすぐ移せるこころ、

あるいは移したこころ)の意とします。

・五句の「こと」は、いまのところ未確定で、「事」、「言」、「異」、「殊」などを検討します。

③ 五句の「いろ」も、いまのところ未確定です。名詞「色」として、いくつかの意味があります。『例解古語辞典』には、

・色彩

・美しさ。華美。

・豊かな心情。情趣。

・恋愛・情事。

・種類・品。

・顔色・態度等

とあります。

④ 五句の「いろことにして」の「いろ」を、「移し心の(人が、今関心を寄せている)色(色彩)」と仮定すると、「こと」は「異」がふさわしい。「貴方の月草からの染料のような移し心の現在の色は、前と異なって(別になって)しまっている」、の意となります。

 この場合、初句と二句に示された作者の感慨が、作者と相手の間に既に溝ができていることを示しているとすれば、色が別になったこと(関心がほかの女性に移ったこと、作者を離れたこと)を歌の中で繰り返し指摘していることになります。

⑤ 五句の「いろことにして」の「いろ」を、「移し心(の人)の色(恋愛・情事)」と仮定すると、「こと」は「殊」がふさわしい。「貴方の月草からの染料のような移し心を持っている人の恋愛は特別であって、奔放ですね」、の意となります。

 この場合、初句と二句に示された作者の感慨に重ねて、五句は「以前にもあったが、今回もまた」という理解になります。

⑥ 五句の「いろことにして」の「いろ」を、「移し心の(人の)色(顔色・態度)」と仮定すると、「こと」は「殊」がふさわしい。「貴方の月草からの染料のような移し心を持っている人の態度は別格なのだな」、の意となります。

 この場合、初句と二句に示された作者の感慨が、「事」による感慨なので、下句でその「事」を繰り返し指摘していることになります。

⑦ このため、繰り返しをする必要はないとすれば、この歌の「いろことにして」の「いろ」は、「移し心(の人)の色(恋愛・情事)」と理解するのが妥当ではないかと思います。また、「うつし心」は掛詞になっていません。

⑧ なお、初句にある「人」は、男を指す場合が三代集でも多いので、この歌は女の立場から詠んだ歌であろう、と思います。恋愛関係の歌ですので、男の立場からの歌との理解もあり得ます。

⑧ このような検討の結果、現代語訳(試案)は、つぎのようになります。

・二句の「事」を「(政務、仕事、また行事などを含んで)人のするわざ、動作、ふるまい」と理解した場合

「(そういうものだと聞かされてはいましたが)いやもう、男の人は本当に見かけのふるまいだけはご立派にされて。月草からの染料のような移し心を持っている人の恋愛は勝手であって、奔放ですね」(私のように愛想をつかされないように注意しなさい)」、の意となります。

・二句の「事」を「一大事・変事・事故」と理解した場合

 三句以降の現代語訳(試案)が上記になると、「事」を「一大事・変事・事故」と理解した「(凡そ人たるもの)一大事の時のみがその人の評価によい」では、今回例外的に生じた「うつし心」で男を評価するかになり、「月草の」という比喩が無駄になっています。今日まで、ちょくちょく作者から離れては戻る(あるいは許しを乞い)のが、作者からみた「うつし心」の持ち主であったのではないでしょうか。

 

⑨ 先に引用した第一の訳と第二の訳もそうですが、二句の「こと」を「事」と理解した上記の現代語訳(試案)も不自然な訳ではありません。このように理解できる1-1-711歌は、結局、いま親密にしている男が、自分と交際しつつ他の女性との交際はともかく(当時は天皇はじめ貴族は一夫多妻が普通です)自分をないがしろにしていることを非難あるいは嘆いているあるいは突き放しているかの歌と理解できる、ということです。

 初句~二句は、相手を「ひと」と一般化して批判をし、やんわりと相手の不実を責め立てているのがこの歌である、と思います。

⑩ 三代集の時代、和歌は清濁抜きの平仮名で書いていたと言います。この歌を送りつけられた男は、この歌の作者に対する自分のふるまいを顧みて二句の「こと」を、「事」か「言」のどちらかに理解したと思います。男として当然返しの歌を届けたはずですが、どのように返歌したのか、『古今和歌集』は割愛しています。

三者の立場で鑑賞する場合は、鑑賞者の様々な理解でよいのであり、「こと」を「言」とも「事」とも理解するのは妥当であると思います。

 

6.3-4-3歌の詞書の検討

① このように類似歌1-1-711歌を理解して、3-4-3歌を検討します。まず、詞書の「あだなりける人の、さすがにたのめつつつれなくのみありければ、うらみてよめる」を検討します。

② 「あだなりけるひと」とは、はかなくこころもとないと思っていた男、の意です。助動詞「けり」には、詠嘆をこめて回想する意があります。

③ 「さすがに」とは、形容動詞「さすが(なり)」の連用形です。その意は、「そうでもないようす」となります。

どの語句を形容しているかというと、「ありければ」ではないでしょうか。

 「さすがに」を、副詞と理解すると、その意味は、『例解古語辞典』には、「そうはいってもやはりさすがに」であり、上代の「しかすがに」、中世には「さすが」ともなったと解説しています。

もうひとつ、この語句は、動詞「さす」の終止形+接続助詞「がに」と分解できますので、その確認をします。

動詞「さす」はいくつかの意があります。漢字で示すと、「差す・指す」(指名する・めざす・差し出す)、「(水などを)注す」、「(戦場で旗などを)挿す」、「刺す」(縫いつける)、「(光などが)射す」、「(火を)点す」などです。四段活用の動詞なのでその終止形と連体形が「さす」です。

 接続助詞「がに」は、「・・・する(してしまう)ほどに、あるいは・・・し(てしまいそうに、という気持」を表して、あとの用言を修飾する語です。そのため、後段の文章とのつながりからはこの理解は難しくなりました。

 

④ 「・・・ありければ」とは、・・・+動詞「有り」の連用形+助動詞「けり」の已然形+助詞「ば」と分解できます。

 動詞「あり」とは、ここでは「時が経過する」、の意で、助動詞「けり」には、詠嘆をこめて回想する意があります。そのため、「・・・ありければ」は、「・・・という状況のままであったということに思い当たり」というほどの意となります。

助詞「ば」は、あとに述べる事がらの起こるまたはそうなると考えられる、その理由原因を表わす接続語です。

⑤ 「うらみてよめる」とは、名詞「裏」+動詞「見る」の連用形+接続助詞「て」+動詞「詠む」+完了の助動詞「り」の連体形+省略された名詞「歌」、と分解できます。

「見る」とは、ここでは「思う・解釈する」とか、「見定める・見計らう」、の意です。

 「裏」とは、「内部・奥」とか「裏面・内側」などをも指すことばです。

「うらみてよめる」とは、ここでは、相手の今までの交際その他を(よくよく)考え合わせた結果、詠んだ歌、という意となります。

 「うらみてよめる」を、「恨みて詠める」の意とすると、「さすがに」の語句が、この文章で浮きます。また、わざわざ詞書で断らなくても、1-1-711歌の第一の訳をこの3-4-3歌の訳ともみなせますので、なぜわざわざ詞書に付け加えているのかが疑問です。

⑥ 以上の検討を踏まえた、3-4-3歌の詞書の現代語訳(試案)は、つぎのとおりです。

「心許ないと思っていた人が、そうでもないのではないか、私には頼みになるように思わせながら素っ気ない態度ばかりとっていたと見えていたが、と思いなおし、よくよく相手の気持ちを見定めたので、詠んだ(歌) 」

⑦ 「人」という語句は、この『猿丸集』の詞書には、9首にあります。この3-4-3歌でも詞書全体の文章から推理すると男を指していると思えますが、残りの8首も、検討すると「男」を指して「人」と言っていると理解できますので、この歌も「男」を指しているとの理解が妥当であると思います。

 この歌は、女の立場で詠んだ歌と言えます。

7.3-4-3歌の現代語訳の試み

① 詞書に留意して現代語訳を試みます。

 詞書は、相手の男のいままでの作者に対する接し方、態度への理解の反省をし、この際よくよく考えてみた、と言っているので、初句から二句の男に関する一般論の「こと」は「事」です。

 個別論としての下句において、「いろ」は、「あだなりける人」が作者に対する態度を指していると理解できますので実質は「事」を「いろ」と言っているのではないでしょうか。

② 五句の「いろことにして」の「いろ」は、だから「移し心の(人の)色(顔色・態度)」の意であり、五句の「こと」は「殊」がふさわしい。「月草からの染料のような移し心を持っている(あなたであるけれども)その態度は別格なのだな」、の意となります。

 初句と二句に示された作者の感慨が、「事」による感慨なので、下句で繰り返し指摘していることになりますが、一般論の感慨に対して、個別論での感慨を詠んでいます。

③ 三句~四句の「月くさのうつしごころ」は、作者の相手の男を指しています。

④ 3-4-3歌の現代語訳を試みると、次のとおりです。

「いやもう、男の方は本当にすること為すことがご立派でありますね。月草で染めたものがすぐ色の褪めるように変る移し心をお持ちであっても。そのように思っていたあなたのふるまいは、特別でしたね(移し心を持っていても貴方は別格でした。あなたを信じています)。

⑤ この歌は、一般論を述べ、相手の男は色々あったがその基準をクリアする方であった、と詠っているとも理解できます。

 

8.この歌と類似歌との違い

この歌3-4-3歌とその類似歌1-1-711歌は、清濁ぬきの平仮名表記をすると全く同じですが、次のように違いのあることが分かりました。

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-3歌は、この歌を相手に送る具体の事情を示し、 類似歌1-1-711歌は「題しらずで」で、細かい作詠事情が不明です。

② 五句の「いろ」の意が違います。この歌は、「特定の「移し心の(人の)色(顔色・態度)」の意であり、二句にある「こと」全体を言っており、類似歌は、「特定の人の「移し心(の人)の色(恋愛・情事)」の意であり、二句にある「こと」に該当する事例を指しています。

この歌では、初句と二句に示された作者の感慨が、男が普通に行う「事」に関するものであり、下句では移し心の持ち主である相手の男性の「事」の具体的な場合の評価をし、相手の男性を高く評価していると詠っています。

類似歌では、相手の男性を突き放しています。

③ この結果、この歌3-4-3歌は、相手の気遣いや愛情に感謝していることを相手に伝え、類似歌1-1-711歌は相手の不誠実なことを責めているか揶揄しています。類似歌の現代語訳が、第一の訳、第二の訳、または現代語訳(試案)のどれにおいても(1-1-711歌での二句の「こと」の意が、「言」であっても「事」であっても)、この二つの歌は同じことを詠っていません。

④ この歌3-4-3は、類似歌1-1-711歌と清濁抜きの平仮名表記では全く同じですので、3-4-3歌の理解は、『古今和歌集』にもし記載されていないのであれば1-1-711歌本文の理解としてはあり得ることです。

しかしながら、1-1-711歌は、『古今和歌集』第十四にある恋歌です。第十四の配列のなかで理解しなければなりません。別の言い方をすると、記載されている歌集とその歌の詞書により、歌本文の趣旨の限定が行われています。このため、3-4-3歌のこの現代語訳(試案)は、1-1-711歌の現代語訳にはなり得ません。次に逢うまでの煩悶を詠う巻第十四に、長年親しくしていた人との間の事を詠うこの3-4-3歌をおくことはできません。この二つの歌は、前回記したように、「趣旨が違う歌」であります。

⑤ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-4   ものおもひけるをり、ほととぎすのいたくなくをききてよめる 

      ほととぎす啼くらむさとにいできしがしかなくこゑをきけばくるしも

 

3-4-4 歌の類似歌 2-1-1471:弓削皇子御歌一首」  巻第八のうち夏雑歌にある。

     ほととぎす なかるくににも ゆきてしか そのなくこゑを きけばくるしも 

 

 この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑦ ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。 2018/2/19   上村 朋)

付記1.3-62-95歌の現代語訳(試案)について

① むらむら:副詞。叢叢・斑斑。:ここかしこ。群がっているさま。名詞「むらむらしさ」は、心が定まらず、むらがあること。

② 詞書の現代語訳(試案):ある人と親しくなり、逢う約束のあったその日、訪れてこなかったときがあった。そのとき、扇をばらばらにして、けばだったそのひとつに書きつけてもたせた(歌)

③ 現代語訳(試案):月草で染まったような移し心のあなたは、どうなるのでしょう。(このように)ほつれ乱れてしまう状態になり果ててしまうのですね。

付記2.3-80-385歌の現代語訳の例について

① 『新日本古典大系28 平安私家集』の『公任集』(後藤祥子校注)より引用すると次のとおり。

② 詞書の現代語訳:藤原景斉が露草のうつしを公任に無心したとき、露草のうつしを渡すとて(詠んだ歌)

③ 露草のうつしとは、月草の花弁の青い汁を紙に吸わせたもの。景斉は『小右記』によれば小野宮家に親しい家司層の男か。

④ 歌意:「朝晩、無常を嘆いている間に、私は正気もなくなってしまったよ(うつしの貯えもなくしてしまったので、そんなに多くあげられませんよ)」

⑤ 「うつし」は、「移し」と「露草のうつし」を掛けている。

付記3.3-85-123歌について

① 能因が東国の風俗に触れて詠った歌と題した5首のうち最初の一首が3-85-123歌です。124歌以後は、御坂路など東国の地名・習俗が詠み込まれていますが、この123歌にはなく、反語としてなのか「みやこ人」の語句があります。

2018/2/19の付記を終る。2018/2/19  上村朋)