わかたんかの日記 995歌の現代語を試みると 

(2017/12/28)  前回「古今集の配列からみる1000歌」と題して記しました。

今回、「995歌の現代語訳を試みると」と題して、記します。(上村 朋)  

(追記:その後の検討で、現代語訳を改めました。3-4-47歌は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌その4 暁のゆふつけ鳥」(2019/8/12付け)に記し、1-1-995歌は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌その3 からころもは着用者も」(2019/8/5付け)に記しました。「からころも」の定義が拡充するなどがありました。1-1-995歌の現代語訳を同上のブログより引用すると、つぎのとおり。

「誰がみそぎをして祈願したか(それは私である)。そして、「あふさかのゆふつけ鳥」がないたのだ!だから、(相手からみれば)一冬だけの使い捨てのからころも(外套)のような存在かと沈んでいた私は、たつたのやまで繰り返し声をあげているのだ。壁を越えることができたのだ。」

(2020/4/18 上村 朋))      

 

1.その時代、ことばは共有されている

① 『古今和歌集』記載の歌である1-1-995歌は、題しらず・よみ人しらずの歌であるので、『古今和歌集』の撰者より前の時代の歌と現代ではみられています。撰者の時代まで伝えられたこの歌は、撰者の伝えたい意を含む歌として、巻第十八の終わりの方に配列されているようにみえます。それを前回検討してきました。

② 歌の理解のため、1-1-995歌に用いられていることば(語句)の当時の意味を、その前に確認しています。資料として、『萬葉集』と三代集記載の歌で1-1-995歌の各々の語句を用いている歌を用い、作詠時点を推定し、暦年でいうと900年プラスマイナス150年程度の期間における語句の意味の変遷を確認しました。(下記4.参照)

 ことば(語句)は、その時代時代の人々に共有されており同時代の資料でそれを確認できるだろう、という仮説を信じた方法であり、一般に研究者もよく行っている方法です。研究者は、さらに厳密に資料の信頼性確認やその後の推移から振り返るということも含め仮説の検証を厳しく行っていると思います。

③ そうして確認したことから、1-1-995歌とその前後の歌各1首を現代語訳(試案)すると、つぎのようになりました。

 

2.現代語訳(試案)その1

① 最初に、『新編国歌大観』より1-1-995歌とその前後の各1首を引用します。

1-1-994   題しらず     よみ人しらず

風ふけばおきつ白浪たつた山よはには君がひとりこゆらむ

1-1-995   題しらず     よみ人しらず

   たがみそぎゆふつけ鳥かからころもたつたの山にをりはへてなく

1-1-996歌   題しらず       よみ人しらず

わすられむ時しのべとぞ浜千鳥ゆくへもしらぬあとをとどむる

②現代語訳(試案)は、次のとおり。

1-1-994歌の作者は、順調ではないものの、事の終る(たつたやまを越える)前であっても、関係修復の良い展開を確信しています。そのような歌を『古今和歌集』の撰者は選んでいます。

 題しらず   よみ人しらず

 「風が吹けばいつでも沖には白波が立ちます。そのようなはっきりした原因があって私との間に「たつた山」ほどの障害ができてしまいました。今は二人の間は暗闇のなかと変りない状況ですが、あなたはひとりで乗り越えてゆくのでしょうか」(ブログ2017/12/21参照)

1-1-995の作者は、配列の検討からいうと、順調ではないものの、「良い展開の予測」を詠っている歌のはずです。そのような歌を撰者は選んでいます。2案あります。1案にできませんでした。

 題しらず   よみ人しらず

1案「誰のみそぎだろうか、その結果、あの相坂ゆふつけ鳥があの一年で使えなくなる「からころも」を裁つ」に通じ、隔てる存在の象徴の「たつたの山」に現れて、遠慮しがちに鳴いている。これはすこし望みがあるよ。逢う予感を感じるというゆふつけ鳥が鳴いているのだから。」(五句は「折り+延へて+なく」あるいあは「居り+延へて+なく」

2案「誰が禊をしているのか。逢う予感を予想させる感じさせるという相坂のゆふつけ鳥が、疎外感のあるたつたの山に出張ってまで、長々と鳴いているのだから、新たに発つというたつたの山になりそうだよ。」(五句は「おりはへて+なく」

 作者は、ある人が禊(個人的祈願)をしたと聞き、「相坂のゆふつけとり」と「たつたの山」の語句を用いて批評をしたのでないか、と思われます。

 

1-1-996歌の作者は、事前に、良い展開を予測して詠っています。そのような歌を撰者は選んでいます。

 題しらず   よみ人しらず

 「私が忘れ去られるであろうときに、私を思い出してくださるようにとて、千鳥がゆくえも知らず飛び去るときに砂浜に脚跡を残すように、私もこれからどうなるかわからないが、この文字(歌)を残しておくことである(この『古今和歌集』もこの文字(歌)の一例であります)。」(ブログ2017/12/18参照)

 

③ このブログの連載最初にあげた疑問が次の3点(ブログ2017/3/29参照)の答えがでました。

1-1-995歌の作者が何を語りかけてきているのか。

・「みそぎ」をすることと「ゆふつけ鳥」の関係が分からない。鶏は通常山中ではなく人家近くにいる。

1-1-994歌と1-1-995歌の「たつたの山」のイメージが違う。

 これらは、次のように理解できました。

・作者は、ある人が禊(個人的祈願)をしたと聞き、「相坂のゆふつけとり」と「たつたの山」によりその行動を批評したのでないか、3-4-47歌とは違う批評である、と思われます。即ち、

「みそぎ(祈願)は、何らかの前向きの応答があるはずのものである。それに祈願するものは気づかなければならない。例えば、「相坂のゆふつけ鳥」が場違いと思われる「たつたの山」に来てでも鳴いてくれているのは、前向きの成果と捉えたらよい」(すぐにではないが着実に進むだろう)

・みそぎをすることとゆふつけ鳥の結びつきは、この歌の中だけのこと。一般化できない事象である。作者が例えとして言っているだけ。ゆふつけ鳥の調達をみそぎ(祈願)の必須条件と当時の世の人々が考えていない。

1-1-994歌と1-1-995歌の「たつたの山」は、(万葉集歌人たちとおなじ)隔てる存在として、共通のイメージとなった。この二つの歌の作者は、都に居る、と推定できます。

④ 1-1-995歌と清濁抜きの平仮名表記がおなじとなる3-4-47歌は、『猿丸集』の配列と詞書に従えば、まったく別の歌であることが分かりました。主要な語句の多義性を活用していることを詞書がはっきりと示していました。

⑤ 3-4-37歌は、つぎの歌です。

  あひしれりける女の 人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける

 たがみそぎゆふつけとりかからころもたつたのやまにをりはへてなく

 

 3-4-47歌の現代語訳(試案)はつぎのとおりです。(ブログ2017/11/27参照)

詞書:「作者と交際のあった女が、ある人を、あることで頼み込んで、思いどおりの状態にならなかったのであろうか、いつもその人が哀訴するかの意向であるのを見定めて、言い寄ったのであったという(歌)。

 

歌:「誰がみそぎして、逢う予感を感じるゆふつけ鳥を聞けたのかなあ、(そうでしょう貴方)。場違いなたつたの山に居るゆふつけ鳥が鳴いているのを聞いてもねえ。たつたのやまのたつは、あの一年で使えなくなるからころもをたつに通じているよ。(あたらしいからころもを求めたらいかが。相談相手になっている私がいますよ。)

(これは、次の訳をもとにしたものです)「誰のみそぎだろうか、その結果、逢う予感を感じるゆふつけ鳥が現われたのは。相坂にいるはずのゆふつけ鳥だろうか、一冬だけで使い捨てのからころもを「裁つ」ではないが、場違いにも絶つに通じてしまう音を持つ竜田の山に。たつたのやまであるので、逢うと言う予感を与えようという気持ちを抑えて抑えて(折り+延へて)鳴いている。」

 

3.現代語訳(試案)の妥当性

① 1-1-995歌に用いられている語句について900年前後の意味を、多くの事例から帰納的に求めています。(下記4.参照)

② 1-1-995歌以前に、「ゆふつけ鳥」と「あふさか」(逢う坂)がともに登場する歌が既に詠われているのに、その前例に従っていない。つまり「逢う予感」という伝統を継いでいないのは、順境の場の歌ではない。

 これは巻十八におく歌に「ゆふつけ鳥」という語句の用いるのに、一理あるところです。

③ 「たつたの山」という語句の「隔てる存在」のイメージの伝統を引き継いで、かつ3-4-47歌とは別の歌意の歌となっています。

④ 譬喩としてたつたの山を詠っている1-1-994歌と同じイメージのたつたの山となります。このほか1-1-991歌から1-1-1000歌までの歌意に、配列上の配慮に一貫性があります。

⑤ この歌は、作者が、誰かが「みそぎ」をしている情報を得て、人の話によって、その効果について意見を述べた、と理解でき、みそぎの場所とたつたの山との位置関係を無理なく説明できる。

⑥ なお、 共通項に関しての予想がどうなったかをみると、次のとおり。

・作者:不明とした予想は、変わらない

・相手との関係:個人的な独り言と予想したが、夫婦間あるいは恋愛関係の二人か友人関係なのか分からないが送った相手がいたこととなった。このほうが配列上の馴染みがある。

・歌の主題:良い展開を予測と予想したが、手掛かりがあるという歌なので、この予想に該当する。

・拠るべき説話がある:「相坂のゆふつけ鳥」を予想したが、さらに「たつたの山のイメージ」も拠るべき説話としてよい。

 

4. 主要な語句の定義

① 1-1-995歌が詠われたころから『古今和歌集』前後の語句の意味は、つぎのようであると確かめました。

第一 初句の「たがみそぎ」の「みそぎ」は、 万葉集』と三代集の「みそき」表記の歌(1-1-995歌を除く)より、「みそき」表記の一番可能性が高いイメージが、「祭主が祈願をする」であると思われます。

第二 二句にある「ゆふつけどり」は、最古の「ゆふつけとり」表記の歌(作詠時点が849年以前)の3首のうち2首にある、「相坂のゆふつけ鳥」の略称として生まれたものです。「あふさか」という表現は、「逢ふ」あるいは「別れそして再会」のイメージがついて回ることを前提として用いられ、「あふさかのゆふつけとり」を、「逢ふ」ことに関して歌人は鳴かせています。(ブログ2017/04/27の日記等参照。 943年以前と推計した1-10-821歌以後暁の鶏の意となりました。

「あふさかのゆふつけどり」は、(1-1-995歌を除いた考察結果でいうと)巣に向かう前の情景に登場する鳥たち」の意であり、「夕告げ鳥」であり、「逢う」前の場面の歌に登場しています。(ブログ2017/05/01の日記参照))

そもそも「たつたのやま」と「ゆふつけ鳥」の関係は、和歌の世界ではこの歌で生まれています。

第三 三句にある「からころも」は、外套の意(官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着」の意です。なお、外套の意とは、片岡智子氏の説を基本としており、耐用年数1年未満の材料・製法の衣も含むものであり、耐用年数が短いので親しいものにはよく新調してあげる(裁つ場合もある)、ということになり、季節感もあるものです。(ブログ2017/5/19の日記参照)

第四 四句にある「たつたのやま」は、萬葉集』にある「たつた(の)やま」表記の意(大和と難波を隔てる山々を主とするイメージ)を引き継いできたものの、「たつた(の)かは」の創出ころと重なる時点ですので、所在地不定の紅葉の山、というイメージであるかもしれません。また、800年代には、「あふさかのゆふくけとり」が先行歌としてあるので、アンチ「あふさかのゆふくけとり」と意でたつた(の)やま」とともに詠まれる「ゆふつけとり」は理解されています。

また、「たつたのやま」の「たつ」は、多義性のあることばです。前句の「からころも」との関係では、「裁つ」の意です。そして「たつたのやま」という山の名の一部を構成しています。そのほかに立つ・発つ・絶つ・起つ等の意があるのでそれを用いている歌があります。

第五 五句にある「をりはへてなく」の「をり」は多義性があります。居り、折り、連語の「をりはふ」です。(ブログ2017/11/27参照)

連語の場合の「をりはへてなく」は、聞きなす一フレーズの時間が長いのではなく、そのフレーズの繰り返しが止まらないで長く鳴き続けているのを、いいます。(ブログ2017/04/07参照)

 

5.謝意と検討の限界

① 2017年3月29日以来ブログに記してきましたが、これで1-1-995歌の検討を一応終ります。

古今和歌集』巻第十八の配列のなかにある1-1-995歌の現代語訳(試案)の2案にたどりつきました。良い展開を予想する歌というベクトルが同じですが、1案にするのは後日の事とします。今日までご覧いただきありがとうございます。

② 先人の研究成果を得て検討を進めることができました。順不同ですが書物で接した本居宣長氏、片岡智子氏、久曾神昇氏、小松英雄氏、竹鼻績氏、三橋正氏ほか多くの方々とインターネットで閲覧させていただいた多くの方々に深く謝意を表します。

③ ここまでの検討での指摘が、すでに公表されている論文・記事等にあれば、これはその指摘を確認しようとしているものです。

④ 今回の検討には、前提としている条件がいくつかあります。

・作詠時点の推計方法が、諸氏の成果を十分参照できず勅撰集の成立等としたこと。個人家集と専門の研究者の成果にあたれば、さらに、例えば誰が主催の歌合のとき歌かなどと、年月日を特定できる歌があります。

・検討材料を、『万葉集』と『三代集』が主体としたこと。従って同時代の歌のすべてに当たっていないこと。例えば、源順には、「みそき」表記の歌があります。また屏風歌や歌合と年中行事等の関係(題詠の盛況)の確認・考察を省いていることがあります。

・歌の資料として『新編国歌大観』に拠っていること。原本批判を割愛しています。

歌人別の生活・宗教観を考慮していないこと。日記類、儀式書などでの検討が手薄です。また個人史や律令・政治に関する事がらが孫引きであること。

④ 今回の検討で、再確認したことがいくつかありました。

・その歌集におけるその歌は、その詞書と一体のものであり、その意味で歌は歌集の素材であることです。

・その歌は、それ自体だけで、理解されるのも自由であることです。一つの歌が、色々に解釈されていることです。利用されている、と言ってもよいと思います。二重三重の意味が生じている場合・意味を盛り込んでいる場合もあります。『伊勢物語』にある歌がその一例であり、今日の他分野の作品とのコラボ・アンサンブルも一例であります。

・歌の鑑賞は、詠う楽しみを誘われるものでありました。

 

⑤ このブログ「わかたんかこれ」は、和歌や短歌の検討を中心に、これからも記します。まず、『猿丸集』の全歌に関して記します。

②  「わかたんかそれ」も続けます。私と上村五十八の短歌等の創作とエッセイを中心に、記します。

③  御覧いただき、ありがとうございます。(上村 朋)

<2017/12/28 >