わかたんかそれ 葬るところ

800年代の和歌について、「わかたんかこれ・・・」と題して記している上村朋です。その話題から離れて表記について記します(2017/10/26)。

 

1.平安京風葬地 

和歌で、ゆふつけ鳥とか八声の鳥という表現のある歌を探しているとき、「とり」の検索で「とりべの」を詠う歌にであった。

鳥辺野は、東山三十六峰のひとつ、音羽山から阿弥陀ケ峰の麓、東福寺に居たつ一帯を指し、平安時代、京の三大風葬地のひとつであったそうである。

 竹林征三氏によれば、三大風葬地とは、鳥辺野と化野(あだしの 西の嵐山の麓)と蓮台野北の船岡山の麓である。寺に弔って葬られる死者は高僧か高貴な身分の者に限られ、民衆には葬式も墓も許可されていない。

さらに、水葬地があった。鴨川の川原(三条河原~六条河原)である。鴨川の一番大切な役割は死者の遺体を流し去ることであり、洪水は都市を清潔に保つためになくてはならないインフラシステムであったのである。

 衛生面で平安京は長持ちのするシステムを持っていたのである。もっとも前期の平安京人口は12万人という推定がある。全国緒人口は、鬼頭宏氏らによると北海道を除いて800年ころ550万人前後(耕地面積800千町歩前後)という推定である。

 

2.散骨

 平安時代は、人口に占める比率から言えば、散骨タイプが大変多かった。現代は微々たるものであるが増えてきている。

 私の父は、生地を離れ、墓守は叔父にお願いし、自分は献体申し込みを済ませた。その後は海への散骨を希望し、そのようにした。

 母は、献体はやめ、それにならってくれと希望し、そのようにした。散骨の位置は異なる。

 私らは、樹木葬の手配を済ませている。そこには名前を刻む石がある。風葬ではない。変則の両墓制か。

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