わかたんかこれの日記 三代集のみそぎとはらへ

2017/ 8/21  前回、「万葉のみそぎも祈願 三代集は」と題して記しました。
 今回は、「三代集のみそぎとはらへ」と題して、記します。
 三代集の「みそき」表記等の歌21首を検討します。

 

1.三代集の「みそき」表記と「はらへ等」表記の検討
① 『萬葉集』と三代集において句頭などに「みそき」表記のある歌と句頭などに「はらひ」又は「はらふ」又は「はらへ」表記のある歌(三代集間の重複歌を除く)歌(6首+21首)を、「現代語訳の作業仮説の表」(2017/7/17の日記参照)による「みそき」等のイメージの分類をして、作詠時点別に、表にすると、次のとおりです。但し、1-1-995歌は当面分類を保留し、同表に用意のないイメージは「表外」のイメージとしています。

表 『万葉集』と 三代集の「みそき」表記はらへ等表記歌の作詠時点別 「現代語訳の 作業仮説の表」 のイメージ別一覧 (2017/8/3現在 )

 期間

 「現代語訳の作業仮説の表」のイメージ

 計

 西暦

A13or

B13or

C12

B11

I0

K0

L0

N0

表外

保留

(首)

701~750

 

2-1-629*

2-1-629イ

*

2-1-423

2-1-953

2-1-2407

2-1-4055

 

 

2-1-199

2-1-1748

2-1-4278

 

 

 9

~850

 

 

1-1-501

 

 

 

 

1-1-995

2

851~900

 

 

 

 

 

 

 

 

0

901~950

 

 

 

 

 

 

1-3-293

 

 

 

 

 

 

1-2-162

 

 

 

 

 

 

1-2-215

1-2-216

1-3-133

 

1-1-416

1-1-733

1-2-275

1-2-478

1-2-770

1-2-771

 

 

11

951~1000

 

 

 

1-3-292

1-3-595

1-3-134

1-3-1291

1-3-254

 

1-3-594

1-3-662

 

7

1001~1050

 

 

 

 

 

1-3-1341

 

 

1

三代集の計 (計)

1 (1)

1 (1)

1 (1)

6 (2)

1

8

2 (2)

1(1)

21

(8)

注1)歌番号等は『新編国歌大観』による。
注2)イメージに関するA0,A11等は、2017/7/17の日記記載の「現代語訳の作業仮説の表」による整理番号である。「表外」とは同表にない現代語訳(のイメージ)、の意であり、すべて朝廷の特定の儀礼であった。
注3)「はらへ」表記に関しては、上記の表中の「和歌での「みそき」表記のイメージ」を「和歌での「はらへ」表記のイメージ」と読み替えて適用している。
注4)歌番号等に「*」印の歌2首のイメージは、正確には「A11orB11orC11」である。
注5)1—01-995歌は分類を「保留」とした。今後検討する。
注6)赤字の歌番号等の歌は、「みそき」表記のある歌である。そのほかは「はらへ等」表記の歌である。
注7)作詠時点の推定は、2017/3/31の日記記載の「作詠時点の推計方法」に従う。

 

② 「現代語訳の作業仮説の表」 のイメージについて のイメージについて のイメージについて のイメージについて のイメージについて 説明 します。

・イメージ  B11 は、その罪に対してはらいをする 意です。

「はらい」とは、「その行為を(神道における)神事と捉え、それにより霊的に心身を確実に清めることとなる行為で、罪やけがれなどに対して効果がある行為」の意です(2017/7/17 日記参照)。「神道における」とは、仏式でなくキリスト教式でもない意であり、「はらい」は「陰陽道伊勢神道やその他の古来からの呪法」における神事のひとつという認識です。(「神道における」は「現代の神社や陰陽道などにおける」という表現にしたほうが誤解が生じないかもしれません。)
・イメージI0 は、祭主として祈願をする意です。
・イメージN0 は、「禊・祓ともになく、「羽を羽ばたく」「治める・掃討する」等の動詞」です。「払う」意も、このイメージになります。

・イメージK0 は、「夏越しの祓(民間の行事)又は六月祓(民間の行事)」です。朝廷の行う「大祓」を真似たような、民間人が個人・家門単位に行うところの、現についている穢を除きかつ過去の罪による義務・欠格を神々からチャラにしてもらう行事の全体を指します。原則として旧暦六月晦日の行事であり、この行事全体を夏越しの祓とも六月(みなづき)祓ともいいます。「平安時代には一般的に川などの水で身を清め、祓具に茅輪(茅を輪の形にして紙をまいたもの)を用い、くぐり抜け」(竹鼻氏)、またみずからに着いている穢れを人形などに移し川などの水に流すという行事であり、後には陰陽師が進行を司るようになりました。

「からさき」(唐崎)は現在の近江八景の一つの地を言い、祓をする場所として有名であり、『蜻蛉日記』と『更科日記』には作者が京から赴き夏越しの祓をしている場面があります。
・イメージL0 は、「喪明けのはらへ」です。喪の明けたことを神に告げ、喪服から通常の服に着替えるために行う祓です。喪中で使用していた服や身の回り品を川に流す民間の行事であり、祓うことが目的の行事です。この祓以後、通常の生活に戻ります。喪服の処理の実際は種々あったようです。
・イメージ「表外」とは、「現代語訳の作業仮説の表」に用意のなかった現代語訳の(イメージの)意であり、三代集においては、朝廷の行う儀式をさしていました。

 伊勢の斎宮となった皇女は、内裏で天皇とお別れの挨拶の儀をした後、伊勢に下りますがその途中で「みそぎはらへ」をしながら下ります。延喜式5 巻6 条 (河頭祓)などに規定があります。また、即位にともなう行事である大嘗会に先立ち10 月に天皇賀茂川に臨幸して行われる祓があります。大嘗会の御禊(という儀式)であり、文武百官や女官が供奉する晴儀です。祓うことが目的の行事です。1-3-662 歌の作者は、それを見物したのでした。

③ 三代集の歌を、イメージ別にみると、
・I0 は初期に2 首あるだけである。それも「みそき」表記の歌である。I0 のイメージの歌が851年以降詠われていない。なお分類を保留している1-1-995 歌はこの初期に詠われている「みそき」表記の歌である。

・K0 は、901 年以降にあり、「みそき」表記も「はらへ等」表記もある。
・N0 は、901 年以降の「はらへ」表記のみである。
・表外は、951 年以降にあり、朝廷の二つの行事を「みそき」表記している。
・恋にからむ祈願が全然詠まれなくなっている。この傾向が当時の歌人にあるのかどうかを、945 年歿と言われている貫之など三代集の歌人の歌で確認を要する。
などを指摘できます。

④ 三代集の歌を、作詠期間より検討すると、
・850 年以前の歌は2 首しかない。I0 の歌1 首(1-1-501 歌)と分類保留の歌1 首(1-1-995 歌)である。
・851~900 年に「みそき」表記等の歌は詠まれていない。
・901~950 年に「みそき」表記の歌は3 首あり、A13orB13orC12 が1 首、B11 が1 首及びK0 が1首である。「はらへ等」表記の歌は8 首あり、K0 が2 首そしてN0 が6 首である。
・951~1000 年に「みそき」表記の歌は3 首あり、K0 が1 首及び朝廷の儀式が2 首である。「はらへ等」表記の歌は4 首あり、K0 が2 首、L0 が1 首及びN0 が1 首である。
・「みそき」表記のイメージは、時代がさがるにつれて、I0 のイメージが消えるものの、種々なイメージが加わってきた、と言える。
・「はらふ等」表記は、払うなど、「祓ふ」以外のイメージ(N0)がどの作詠期間でも多い。
などを指摘できます。

⑤ 三代集歌を『万葉集』歌と比較すると、
・「みそき」表記の歌は、『萬葉集』に5 首あるうち、よみ人しらずの歌が、1首だけ(2-1-2407 歌 相聞歌)ある。三代集の「みそき」表記の歌8 首では、作詠時点順で最初の4 首(1-01-501 歌 1-01-995 歌 1-02-162 歌 1-02-216 首)がよみ人しらずの歌である。
・「みそき」表記の歌は、『萬葉集』では、祭主として祈願の意(I0)が多いが、三代集では8 首の「みそき」表記の歌のうち、夏越しの祓の意(K0)と表外の意が各2 首で合わせて半数を示す。この4 首は、儀式あるいは行事を「みそき」表記が意味している。
・「はらへ等」表記の歌は、『萬葉集』では、4 首あり、祭主として祈願の意(I0)が1 首と「羽を羽ばたく払う等の動詞」の意(N0)の歌が3 首であった。三代集では「羽を羽ばたく・払う等の動詞」の意(N0)の歌がやはり多く、13 首中8 首と6 割を超えている。その他に夏越しの祓の意(K0)の歌が13 首中4 首、「喪明けのはらへ」の意(L0)の歌が同1 首であり、儀式あるいは行事を「はらへ」表記が意味している歌が新たなイメージとして登場している。
などを指摘できます。

 

3.『貫之集』での「みそき」表記等の歌の検討
① 「みそき」表記の歌は、『平中物語 <貞文日記>』などの物語類にもあるが、ここでは、作詠時点が何年間もある歌集として、『貫之集』をとりあげ、作者の紀貫之が、「みそき」表記と「はらへ」表記をどのように用いていたかを、検討することとします。
② 『新編国歌大観』記載の『貫之集』において、次の条件のいづれかに該当する歌を抽出すると、次の表のように12 首ありました。
a 禊に関すると思われる歌。具体的には、索引で「みそき(して、する、つつ」あるいは「みそく」とある歌。
b 祓に関すると思われる歌。具体的には、索引で「はらふ(る、れば、」あるいは「はらへて(そ、も、なかす)」とある歌。
c 六月祓に関すると思われる歌。具体的には、詞書に「六月はらへ」の類のある歌、あるいは歌に「なつはらへ」の類のある歌。

 

表『貫之集』の「みそき」表記と「はらへ」表記関連の歌(2017/8/6 現在)

作詠時点

 

巻名

歌集番号

歌番号

 歌

表記1

表記2

「みそき」「はらへ等」表記のイメージ

906以前:延喜6年

3

19

11

みなづきのはらへ

みそぎする川のせみればから衣ひもゆふぐれに浪ぞ立ちける

みそき

 

夏越しの祓(K0)

914以前:延喜14年

3

19

37

夏(35~37)

住みのえのあさみつ塩にみそぎして恋忘れ草つみてかへらん

みそき

 

 

 

夏越しの祓(K0)

 

918以前:延喜18年

3

19

107

はらへしたる所

この川にはらへてながすことのはは浪の花にぞたぐふべらなる

 

はらへて

夏越しの祓 (K0)

919以前:延喜19年

3

19

132

六月ばらへ

おほぬさの川のせごとにながれても千年の夏はなつばらへせん

 

なつはらへ

夏越しの祓(K0)

937以前:承平7年

3

19

353

<記載なし>

つらき人わすれなむとてはらふればみそぐかひなく恋ひぞまされる

みそく

はらふ

祭主として祈願する (併せてI0)

937以前:承平7年

3

19

363

みなづきにはらへしたる所

はらへてもはらふる水のつきせねばわすられがたき恋にざりける

 

はらへても&はらふる

夏越しの祓(K0)(はらへて:祓う

 はらふる:払う)

937以前:承平7年

3

19

366

こまひき

都までなづけてひくはをがさはらへみのみまきの駒にぞありける

 

はらへみの

その他(駒引)(表外:名詞+名詞)

938以前;承平8年

3

19

403

六月はらへ

御祓(みそぎ)つつおもふこころは此川の底の深さに

かよふべらなり

みそき

 

夏越しの祓(K0)

939以前:天慶2年

3

19

415

夏ばらへ

川社しのにをりはへほす衣いかにほせばかなぬかひざらん

 

 

その他 (川社)(記載なく対象外)

941以前:天慶4年

3

19

484

夏かぐら

行く水の上にいはへる河社川なみたかくあそぶなるかな

 

 

その他(川社)(記載なく対象外)

943以前:天慶6年

3

19

529

<記載なし>

玉とのみみなりみだれて落ちたぎつ心きよみや夏ばらへする

 

なつはらへ

夏越しの祓(K0)

945以前:天慶8年

3

19

539

はらへ

うき人のつらき心を此川の浪にたぐへてはらへてぞやる

 

はらへて

祓う(A12orC11)

 注1)歌番号等は『新編国歌大観』による。
注2) 「「みそき」「はらへ等」表記のイメージ」欄は、2017/7/17 の日記記載の「現代語訳の作業仮説の表」による整理番号である。「表外」とは同表にない現代語訳(のイメージ)、の意である。
注3)同表中の「和歌での「みそき」表記のイメージ」を「和歌での「はらへ」表記のイメージ」と読み替えて適用している。
注4)全て屏風歌(屏風絵の料の歌)であった。

 

③ この12 首のうち、歌中において「みそき」表記のある歌は、
 3-019-011 歌(K0)

 3-019-037 歌(K0)

 3-019-353 歌(併せてI0)

 3-019-403 歌(K0)

の4 首だけです。このうち3-019-353 歌だけは「はらへ等」表記もあり、I0 のイメージの歌でした。

④ なお、この12 首のうち、屏風歌(屏風絵の料)と詞書で明記している歌が9 首、入集した『新古今和歌集』の詞書で屏風歌と明記しているのがこのほか1 首あります。そのほかの歌も、『貫之集』の構成から屏風歌として詠まれた歌と判断でき、「たつた」の検討で示した屏風歌・障子歌であったとする推定の基準の仮説に照らすと、12 首すべてが屏風・障子の為に詠まれた歌となります。

⑤ イメージ別にみると、
・イメージI0 の歌は 1 首 3-019-353 歌(併せてI0)のみである。但し留意すべきことがあるので、後述する。
・イメージK0 の歌は 7首ある。このうち3-019-037 歌の理解を後述する。
・イメージがA12orC11 の歌が、1 首ある。この歌(3-019-539歌)の現代語訳は後述する。
・イメージ表外の歌は「こまひき」と詞書のある1 首である(3-019-366 歌)。地名が並んだための「はらへ」表記となっている。
・そもそも「みそき」表記等がない歌が2 首ある(3-019-415 歌 3-019-484 歌)。

などを指摘できる。
⑥ 貫之は、屏風の歌として詠んでいるので、歌題が、「六月はらへ」とか「夏かぐら」とか「夏」とか「はらへしたる所」と与えられ、季節でいうと旧六月が多い。わずかに歌題不明の歌が2 首あるだけであり、そのためイメージK0 の歌が多くなっています。

 別の見方をすると、「みそき」表記などは、四季の歌ではほかの時期に用いることなく、恋の歌でも用いることがほとんど用いない作歌態度を貫之はとっていた、ともいえます。
⑦唯一、イメージI0 として用いられていると推定された3-019-353 歌は、課題が不明の歌のひとつです。『新編国歌大観』は、この歌を収載にあたり、底本とした陽明文庫本にもないものの誤脱歌と推定して他本から補った歌としている歌の一つです。『貫之集』の巻一から巻四までがこの歌以外は明らかに屏風歌あるいは障子絵の歌であるので、この歌も屏風・障子の為に詠まれた歌と歌集編纂者かあるいは書写した者は理解したのだと推定できます。
田中喜美春・田中恭子両氏は、3-019-353 歌を「薄情なあの人をきっぱり忘れ忘れようと、祓えをしてみたけれど(川で身を清めたけれど)みそぎの甲斐もなく恋しさがつのったことだ。」と現代語訳しています(『私歌集全釈叢書20 貫之集全釈』(田中喜美春・田中恭子著 風間書房 1997/1)。
 屏風の絵などがどのようなものであるかが伝っていないので、祝いの席の屏風に相応しいかどうか、及び屏風・障子の為に詠まれた歌かどうかの確認ができません。貫之の歌であることの確認もままなりませんが、とにかく『貫之集』記載の歌であるので、貫之の生きていた時代の歌であろうということだけで今「みそき」表記の検討の対象にしておきます。
 この歌の「はらふ」は「祭主として祈願をする」行為全体、「みそぐ」はその祈願の儀式のなかの一場面の行為と理解できます。
⑨ 課題が不明の歌のもうひとつは、3-019-529 歌です。この歌は、歌に「夏この歌は、歌に「夏ばらへする」としており、これは、ここでいう夏越しの祓の別名です。島田智子氏は「作詠時点は天慶6 年(943)4 月。尚侍貴子四十賀屏風。」としています(『屏風歌の研究 資料編』( 2009))。
⑩ 3-019-37 歌(K0)は、「延喜十四年十二月女四宮御屏風のれうのうた、ていじゐんの仰によりてたてまつる十五首(29~43)」のうちの「夏」と詞書のある歌です。住之江という禊をするのに適している地で「みそぎ」していますので、旧六月の絵の屏風を仮定して、その「みそぎ」を夏越しの祓と今回整理しましたが、朝廷の公的儀式で「住之江」に出向いたところの絵も考えられます。
 何れにしても、この歌は、お祝いの席を飾る屏風の歌であるので、住之江のもうひとつの名物である忘れな草もついでに詠っていますが、「みそぎ」を行う目的とは関係ない事柄であると整理しました。

 

⑪ 3-019-539 歌(A12orC11)は、「同じ八年二月うちの御屏風のれう廿首(536~545)」のうちの1 首で「はらへ」と歌題が与えられています。

 田中喜美春・田中恭子両氏は、3-019-539 歌を「冷淡なあの人の薄情な心をこの川の浮いている波にことよせて祓え清めてやることだ。」と現代語訳しています(『私歌集全釈叢書20 貫之集全釈』(田中喜美春・田中恭子著 風間書房 1997/1)。
 夏越しの祓という行事ではなく、「あの人の薄情な心を」「祓え清める」という行為と捉えていますので、何かを祈願するというよりも、あの人が薄情な心とさせている穢れを祓え清める、の意と理解できます。そうすると、これは、波にことよせているので、A12 またはC11 と整理できます。

このため、この歌の「はらへ等」表記のイメージは、A12 またはC11 と見なします。(なお、このような詠いぶりの歌も屏風歌として可能であることには、違和感を感じます。)

⑫ このような『貫之集』における「みそき」表記等の用い方をみると、3-019-539 歌も「祭主として祈願をする」(I0)イメージではなく、祈願の歌もありますが、恋にからむ祈願の意の「みそき」表記は、主流にはなっていない、ということが分かりました。
⑬ なお、3-019-539 歌については、田中喜美春・田中恭子両氏の説以外の理解もあり得ます。

 歌題(詞書)は、「はらへ」であり、よくある「六月はらへ」ではないので、屏風の絵は、月並屏風の旧六月の場面ではなく、名所を描いた一連の屏風の一つであるという理解です。例えば、歌題の「はらへ」にかかわる名所としては、からさきや住之江やあすか(かは)などが、あります。

 いずれにしても、祝いの場面を飾る屏風の歌なので、「あの人の薄情な心を」「祓え清める」という行為を詠っているという理解以外の理解を試みる価値があると思います。 
⑭ 一般に、祓をするのには罪を人形に移します。「うき人」の罪を移した人形が作中人物の手元にあるはずもありません。
3-019-539 歌は、次のとおりです。
   うき人のつらき心を此川の浪にたぐへてはらへてぞやる

 初句~二句は、「私の気持ちを重くさせるつらい人に対して、心苦しく思っている私の心を」と現代語訳できます。

 この「つらき心」を、「はらへ(てぞ)やる」とこの歌は詠っています。

 「て」は接続助詞で、活用語の連用形につくので、「はらふ」という動詞が下二段活用の他動詞とわかります。

 「やる」が補助動詞であるならば「動作が進む意」より「動作を遠くまで及ぼす意」のほうが妥当です。そうであると、「はらふ」の意は、「祓う」より「払う」意ではないか。
⑮ その場に居ない人の心を、「祓う」のが屏風に添える歌としてふさわしいとは思いません。
「つらき心」とは、自分の断ち切れない気持ちをさし、「たぐへて」とは必ず遠ざかる波に強制的に連れてさってもらうことをさしています。
 このような理解も、出来ます。
 次回は、三代集の「みそき」表記の歌で、よみ人しらずの歌について、記します。
 ご覧いただき ありがとうございます。(上村 朋)