わかたんかこれの日記 正述心緒の歌

2017/7/25  前回、「万葉集にみそぎは6首か」と題して記しました。

 今回は、「正述心緒のみそぎ」と題して、記します。

万葉集』に、「みそき」表記等の検討対象の歌は、6首しかありませんでした。先に示した「現代語訳の作業仮説の表」を基本にして、423歌と953歌に続き、作詠時点順に今回は2407歌以下の検討を行います。

 

1.各歌の検討その3  

2-1-2407   正述心緒       よみ人しらず

    たまくせの きよきかはらに みそぎして(身祓為) いはふいのちは いもがためこそ

 

① この歌は、「巻十一 古今相聞往来歌類之上」の正述心緒と題された、よみ人しらずの歌であり、巻の成立時点として推計した作詠時点(天平10年(738))には伝承されてきた歌です。当時の相聞歌でよく知られた愛唱歌の一つと言ってよいと思います。

ですから、地名は、随時差し替えら得る歌であると、理解してよいと思います。

作者は、みそぎをする場所に、「たまくせの きよきかはら」という「みそぎ」をするのに良い場所であることを「いも」に訴えています。実際は、住んでいるところの近くの名もない小川であっても、「いも」に逢うために越えるべき川であっても、旅行中の休息に立ち寄った川であっても、言霊を信じて言葉でその川を飾っています。

さらに、実際はみそぎをしていなくともこの歌の利用者は言い募って歌ったのでしょう。要は「いも」への思いを作者は大きな声で言いたいのですから。

なお、阿蘇氏は、羈旅中に詠んだ相聞歌という説を支持しています。

② 三句「みそぎして」の万葉仮名は「身祓為」です。この歌より作詠時点の古い423歌は、「みそぎてましを」が「潔身而麻之呼」、 953歌は、「みそぎてましを」が「潔而益呼」 です。この用字の違いは今不問としても、「みそき」表記の意味と四句にある「いはふ」表記との関係は確認する必要があります。

 河原は、953歌にあるように、みそぎもすれば、祓もする場所ですので、この歌の「みそき」表記の行為(イメージ)は、先に示した「現代語訳の作業仮説の表」のうちの、A0,B0,C0,D0,I0が該当しそうです。

 なお、同表では、次のようにイメージしています。

A0:罪やけがれなどから心身を霊的に清める。水使用(浴びなくともよい)

B0:罪やけがれなどから心身を霊的に清める。はらいを行う。

C0:はらいとみそぎを行い罪やけがれなどから心身を霊的に清める。

D0:(はらいのなかの一行為である)贖物(あがないもの)を供え幣(ぬさ)等の祓つ物の力を頼む

I0:祭主として祈願をする

 

③ 四句「いはふいのちは」の万葉仮名は「齋命」です。

「齋ふ」意は、『古典基礎語辞典』によると、「忌む・祈るの「イ」(タブーを示す)+接尾語「這ふ」あ(「忌み」「謹慎」「接触禁止」を繰り返し実行する意)に発する語であろう。『萬葉集』の用例はいずれも安全や幸福を護り、よい事を求めるという予祝的な意味をもった呪術的な行為のことをいう」、と指摘しています。「平安時代に入ると、呪術行為をいうものはほとんど姿を消し、将来の安全・幸福・吉事を願い祈ることから、その訪れを喜んで祝福するという意を示すようになる。」とも指摘しています。そして語釈として、「将来の安全・幸福・吉事を求めて、けがれを清め、忌みつつしむ。潔斎をする。斎戒をする。家の中を掃かない、櫛を使わないなど日常生活のちょっとした行為にいう。」、「将来、恋人と結ばれるようにと紐の結びを解かないなど、みずからが求める幸福に類似する呪術行為をする。」「よい事を求めて神事を行う。祝言を述べ、捧げ物をして、幸福や安全を祈願する。」「神秘的な呪術の力によって幸福などを守る。守護する。大切にする」「幸福を願い祈る。」「幸福の訪れを喜ぶ。」を、あげています。

『角川新版古語辞典』では、「斎ふ」について、「凶事が起こらず、吉事が起こる事を願って、「守るべき掟を守り、つつしむべきことをつつしんで吉事の起こるのにそなえる」意、と説明し、語釈として「物忌みする。慎んで神を祭る。祈る。」と「守る。大切にする。」をあげています。

『例解古語辞典』では、「斎ふ」を、「心身を清め、神に無事を祈る。また、大切に守る」と説明しています。

これらから、この歌の作詠時点頃、「いはふ」と言う行為は、将来への期待を込めて身を慎むとか霊的に自らを守るような行為をすることと理解してよいと思います。「いのち」は、作者の生命の意です。

「いはふいのち」とは、「将来への期待を込めて身を慎むとか霊的に自らを守るような行為を怠らずしているその我が身」の意となるでしょう。

④ 「みそき」表記の対象が罪であるとすると、その罪とは、禊をする時までの諸々の罪、でしょう。

⑤ 「みそき」表記の対象がけがれであるとすると、「いはふ」ことをさせない何物か、です。(けがれとは、不浄なものと観念したもので、「日本における共同体で、本来の状態から不安を感じる状態にかわり不浄と認定したとき生じているもので、一定の霊的な手段を講じて無くすべきもの・身から離すべきものと、信じられていたもの」と今考えて、検討しています。

「みそき」表記は、あるいは、単に神の接遇をする資格又は許しを得ることが目的かもしれません。

⑥ この歌は、五句にいう「いも」のために、作者が「いはふ」ことをしていることを強調し、三句「みそぎして」は、そのための前処理の行為として表現しています。前処理の行為に「いはふ」行為の意味を含めないで作者は用いていると思われます。

そのため、この歌の「みそき」表記は、「いはふ」行為との違いをはっきりさせるため、作者は水を使用する「みそぎ」のイメージで用いている可能性が高く、同表のA0の行為(イメージ)を指し、その意味は、

A11:その罪に対してみそぎ(または略式のみそぎ)をする

A12:(そのけがれに対してみそぎ(または略式のみそぎ)をする

のどちらかです。しかしながら、この歌を歌う人(利用する人)は、このような罪あるいはけがれを意識するでしょうか。「いはふ」ための前処理としては、もうひとつ、神に誓う、という行為もあります。その場合、「神の接遇をする資格又は許しを得る」(A13,B13,C13)ための「みそぎ」という行為があり得ます。神に誓うという行為の略称として「みそき」表記をした、と理解することも可能です。

そうすると、この歌では、先に示した「現代語訳の作業仮説の表」のI0のイメージとなります。

とにかく「いも」が好き!を言う歌だということです。

⑦ なお、巻第二十に、 「二月廿二日信濃国防人部領使上道得病不来 進歌数十二首、但拙劣歌者不取裁之」と題して、4425~4427歌があります。その一首が、

2-1-4426歌            主計埴科郡(はにしなのこほり)神人部子忍男

ちはやぶる かみのみさかに ぬさまつり いはふいのちは(伊波負伊能知波)

 ももちちがため

と詠っています。『萬葉集』で「いはふいのちは」表記の歌は2407歌とこの歌の2首だけです。

⑧ また、巻第十二「古今相聞往来歌類之下」に、悲別歌と題した歌に、

2-1-3215歌     作者名無し

ときつかぜ ふけひのはまに いでゐつつ あかふいのちは(贖命者) いもがためこそ

が、あります。『萬葉集』で「いもがためこそ」表記の歌は2407歌とこの歌の2首だけです。

 

⑨ この2407歌の現代語訳を試みると、つぎのようになります。

 「みそき」表記は、I0のイメージが適切です。

「玉のように美しく「くせ」の地を流れる河の、さらに清い河原に出掛けて、私は禊をして必ず守る、と誓いました。また逢うときまで身を慎み霊的に守ってくれるいくつかのおまじないも欠かさないでいよう、と。そんな私は、愛しいお前のために気を引き締めているのです。(愛しているよ、愛しているよ。」

⑩ 現代語訳は、「文字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものである、という考え」(2017/3/31の日記参照)で試みました。最初に記したように、この歌は伝承歌(愛唱歌)であるので、初句~三句を、丁寧に訳さなくとも構わない(ほかの地名等に簡単に入れ替えられるように)と思いますので、次のような現代語訳(案)もあると思います。このときの「みそき」表記は、I0でもA0のA11でもA12でもどちらでもよい。この歌の利用者は拘っていません。

「「くせ」の地を流れる美しい河の清い河原で禊をして、次に逢うまで私が身を慎み霊的に守ってくれるいくつかのおまじないも欠かさないでいるのは、愛しいお前のためなのだ。」

 

2.各歌の検討その4  

2-1-629  八代女王天皇歌一首       八代女王

きみにより ことのしげきを ふるさとの あすかのかはに みそぎしにゆく(潔身為尓去)  一尾云 たつたこえ みつのはまへに みそぎしにゆく>

 

① 題にいう天皇は、聖武天皇です。作者が天皇と親しい関係になったことから作者を非難する声が多い、というのが「ことのしげき」と思われます。今で言うならば、ブログかツイッターで誰かが作者の行動に対して指摘した事柄を、多くの人が種々反応しその反応に亦反応がある、という状態、つまり、非難しているという内容は二の次で、反応数の多さを「ことのしげき」という表現は意味しています。

彼らがどのような立場から作者を話題としているのか、その理由を、詞書や歌において明らかにしていません。

② この歌は、「ことのしげき」に関して「みそき」表記の行為は、作者のみが行えば足りる、というスタンスで、詠われています。天皇が行う必要性を、天皇自身や作者や非難している彼らも論外としている、と思われます。

③ 二句「ことのしげきを」の「を」について、『古典基礎語辞典』では、「『萬葉集』には約1300例の格助詞ヲが使われているが、その9割が、目的格を示す」とし、なかでも「身体的動作を表わす他動詞の対象を示すときに使った例が多い」と説明し、続けて「下にくる動詞によって微妙に意味が変わり、用法的に格助詞ニに近いものや格助詞ヨリに近いものなどが生じた」と説明しています。

 この歌で考えると、「ことのしげき」を目的格とできるのは五句にある「みそぎし(にゆく)」です。そうすると 「みそき」表記の対象には、罪か穢れがあるはずですから「ことのしげき」が罪か穢れとなってしまいます。

 あるいは、「ことのしげき」を動作の起点を示すと理解すると、五句にある「みそぎしにゆく」の発端を示すことになります。

④ 阿蘇氏は、2-1-629歌の「注」において、「みそぎは水辺に行き水に漬って身の汚れを除く行為。423歌に既出。ここでは、天皇に愛されていることを嫉まれ人々に悪く言われて身が穢れたから、みそぎで身を清めるのであろう。」と説明しています。

「ことのしげき」を、動作の起点を示すという解釈です。人々に悪く言われて(原因)身が穢れた(結果)のだから、身が穢れている状況の解消のために作者は「みそぎ」をする、と阿蘇氏は理解しています。

穢れについて検討します。臣下だけに穢れが生じるような原因が、この歌の「ことのしげき」ということになります。男女の間のことで、穢れが一方にのみに生じるでしょうか。穢れが何なのかわかりません。

ここに、けがれとは「日本における共同体で、本来の状態から不安を感じる状態にかわり不浄と認定したとき生じているもので、一定の霊的な手段を講じて無くすべきもの・身から離すべきものと、信じられていたもの」と定義して考察しています。伝染性が、けがれの必須の要件ではありませんが、後世の平安時代には、見たり触れたりするのを避けています。穢れた者からの文や歌を読んだ者(天皇あるいはその側近)に穢れは伝染しないのでしょうか。

なお、罪とは、「道徳あるいは宗教上、してはならない行い」という定義です。

⑤ そもそも、みそぎもはらえも、それをした当事者にのみに効果があるものです。この歌を献上された天皇はこの歌を読むことに不安を感じることなく、不浄でもないと理解しています。そう信じているからこそ作者は天皇にこの歌を献上し、『萬葉集』のこの巻の編集者も記載したと考えてよいと思います。

そうすると、作者が行う行為(みそぎする)の対象は、穢れではなく罪の可能性が高い。世人から非難を受けた点は、身の程を知らないなどの類の、臣下のみに言われる道徳的な非難でありそれは罪である、という意識です。だから、この歌での「みそき」表記の意味は、罪を対象に行う、同表のA11B11又はC11に相当すると考えられます。

A11:その罪に対してみそぎ(または略式のみそぎ)をする

B11:その罪に対してはらいをする

C11:その罪に対してみそぎ(または略式のみそぎ)をし、・・・はらいをする

「ことのしげき」とは、臣下のみに言われる道徳的な非難が多かった(原因)、ということを指した言葉であり、それで作者は自分の置かれている現状を罪と理解し(結果)、禊をする決意を述べたのがこの歌である、ということになります。「を」は動作の起点を示すと理解した解釈です。

「ことのしげき」が罪では、天皇に罪が及びかねません。

⑥ みそぎを済ました後、作者はどこへ行ったのでしょうか。一番可能性が高いのは、みそぎに行く前に住んでいたところに戻ったという推測です。

だから、この歌は、近くにこれからも住みますが、天皇からお呼びがかかっても応じられません、罪を再度私は犯したくありません、と天皇に申し上げたのがこの歌の意と思います。お別れの挨拶歌です。

土屋氏は、「みそぎしにゆく」について、(ことのしげきが生じた際の)当時の普通の習慣に本づくものであったろうが、その事を利して甘えかかって居る気持ちであろう、と評しています。

 

3.各歌の検討その5  

2-1-629イ歌  八代女王天皇歌一首       八代女王

きみにより ことのしげきを たつたこえ みつのはまへに みそぎしにゆく(潔身為尓去)  

 

① 2-1-6291イ歌は、2-1-629歌と、みそぎをする場所が変わっているだけです。「みそき」表記の意味は同じです。「みつのはまへ」は住吉の御津であり、従来からみそぎを行う場所として著名だと諸氏は言っています。平安時代にも著名な場所となっています。

② 次回は、6首のうちの最後の歌、家持の造酒歌一首(4055歌)を、検討します。

御覧いただき、ありがとうございます。(上村 朋)