わかたんかこれの日記 万葉集にみそぎの歌は6首か

2017/7/20  前回、「みそぎの現代語訳の例」と題して記しました。

 今回は、「萬葉集にみそぎの歌は6首か」と題して、記します。

 

1.萬葉集』で「みそき」表記の検討対象となる歌

① 「みそき」表記あるいは「はらへ」表記のある歌を、抽出して、検討資料とします。

②  『新編国歌大観』所載の『萬葉集』から、句頭に「みそき」表記のある歌と句頭に「はらひ」又は「はらふ」又は「はらへ」表記のある歌を探すと、次の表のとおりです。

動詞の終止形「みそく」表記の歌は、ありません。また、句の途中にくる「・・・みそき(く)」表記(三代集にある句「たかみそき、せしみそき、とよのみそき」、その他「いも(の)みそき」など)も、ありません。

「はらへ」については、動詞「はらふ」の各活用形も抽出したところ、句頭の「はらひ」、「はらふ」および「はらへ」があります。句の途中にくる「・・・はらへ」の例が1首(2-1-4055歌)あります。

③ 現代語訳を主として阿蘇瑞枝氏の『萬葉集全歌講義』(笠間書院)から引用させていただいています。

表 『万葉集』の歌で、句頭の「みそき」表記と句頭の「はらひ又ははらふ又ははらへ」表記の歌

(作詠時点順)

作詠時点

歌番号

   歌

詞書

萬葉集全歌講義』(阿蘇瑞枝 笠間書院)より  

696以前:高市皇子

199

・・・天のしたをさめたまひ(一伝、はらひたまひて(治賜<一伝、払賜而>)) をすくにを・・・

 割愛

・・・天下をお治めになられ(あるいは、お従えになられて)国々を・・・

723以前:兄弟の死

423

・・・よのなかのくやしきことは・・・わがやどに みもろをたてて まくらへに いはひへをすゑ・・・ひさかたの あまのかはらに いでたちて みそぎてましを(潔身而麻之呼) やまの  ・・・

石田王卒之時丹生王作歌一首幷短歌 

・・・この世の中でこの上なく残念なことは・・・わが家に祭壇をしつらえて・・・天の川原に出かけてみそぎをするのだったのに・・・

727以前:神亀4年

953

・・・ちどりなく そのさほかはに すがのねとりて しのふくさ はらへてましを(解除而益呼) ゆくみづに みそぎてましを(潔而益呼) ・・・

四年丁卯春正月勅諸王諸臣子等散禁於授刀寮時作歌一首幷短歌

・・・岩の上に生えている菅を採って、(春に惹かれる心を)お祓いして除いておくのだったのに、流れる水で禊ぎをすればよかったのに・・・

738以前:巻七作者不明歌

1748

さきたまの をさきのぬまに かもぞはねきる おのがをにふおけるしもを はらふとにあらし(掃等尓妻毛斯)

 割愛

(私の試訳)・・・ 自分の尾に降りかかった霜を払っているのであろう

738以前:天平10年

2407

たまくせの きよきかはらに みそぎして(身祓為) いはふいのちは いもがためこそ

 正述心緒

清らかな久世の川原で身を清めて命の長いことを願うのは、誰のためでもない。大切な妻のためです

738以前:天平10年

2407西

たまくせの きよきかはらに みそぎして(身祓為) いのるいのちも いもがためなり

 正述心緒

 

746以前:巻四成立

629

きみにより ことのしげきを ふるさとの あすかのかはに みそぎしにゆく(潔身為尓去

八代女王天皇歌一首

あなたのせいで噂が激しいので、故郷の明日香川にみそぎをしに行きます

746以前:巻四成立

629イ

一尾云 たつたこえ みつのはまへに みそぎしにゆく(潔身四二由久)

八代女王天皇歌一首

ある本には下の句が「竜田を越え三津の浜辺に禊をしに行きます」とある

748以前:天平20年

4055

なかとみの ふとのりとごと いひはらへ(伊比波良倍)  あかふいのちも たがためになれ

造酒歌一首

中臣氏の唱える立派な祝詞を唱えてお祓いをして無事を祈る命も、誰のためでしょう。あなたのほかにはいないでしょう

751以前:天平勝宝3年

4278

・・・くにみしせして あもりまし はらひたいらげ(掃平) ちよかさね

 割愛

(私の試訳)・・・国見をなさって天降り賊を伐ち平らげ 千代も続けて・・・

合計

10首

「みそき」表記 6首

「はらへ等」表記 5首

 

 

注1)     歌番号は、『新編国歌大観』の『萬葉集』による。

注2)     ()書きは『新編国歌大観』における該当句の万葉仮名である。

注3)     歌番号2407については、『新編国歌大観』の訓(新訓)のほか西本願寺本の訓を例示した。「みそき」表記の歌としては、併せて1首と数える。

注4)     赤文字は、「はらへ」等の表記をさす。青文字は、「みそき」表記をさす。

注5)     現代語訳は、私の試訳のほかは『萬葉集全歌講義』(阿蘇瑞枝 笠間書院 2006/3)より より引用させていただいている。

 

④ 「みそき」表記の歌が、『萬葉集』に6首あります(『新編国歌大観』所載の歌としてカウントして6例)。検討対象としては、2407歌と2407西歌を合わせて1首とカウントして5首となります。作詠時点が、723年以前から746年以前の間の歌です。

⑤ 「みそき」表記のある句の万葉仮名は次のとおりです。

「禊」という漢字が4首に用いられ、「身祓」という漢字が1首(2407歌)に用いられています。

 423    潔身而麻之呼

 953    潔而益呼

 2407歌   身祓為 (2407西歌も同じ)

 629歌   潔身為尓去

 629歌イ  潔身四二由久

⑥ 953歌には、はらひ又ははらふ又ははらへ」表記もあります。作詠時点を神亀4年(727)以前と推計していま

⑦  「はらひ又ははらふ又ははらへ」表記の歌が、『萬葉集』に5首あります。作詠時点が696年以前から751年以前の間の歌です。

⑧ 「はらひ又ははらふ又ははらへ」表記のある句の万葉仮名は次のとおりです。

 199歌   治賜<一伝、払賜而

 953歌   解除而

1748  掃等尓妻毛斯

4055  伊比波良倍

4278   掃平 

「みそぎ」と混用のおそれのある「はらへ」の意に通じそうな漢字のある歌は、「解除」という漢字を用いた953歌と発音を借りているのみとみられる「伊比波良倍」という漢字を用いた4055歌の2首と思われます。

199歌の治賜<一伝、払賜而>」と、4278歌の「掃平」は、征討する、あるいは土地と人などを支配する意であり、1748歌の「掃等尓妻毛斯」は、鳥が羽ばたいて霜を払い落す意であり、ともに「みそぎ」と混用のおそれのある「はらへ」の意に通じさせるような漢字の用い方ではありません。

⑨ 結局、『萬葉集』所載の歌では、次の6首が検討対象となります。

423歌、953歌、2407歌、629歌、629イ歌、4055

なお、2407歌の四句「いはふいのちは」の万葉仮名は「齋命」です。

⑩ この6首について、阿蘇氏は、4首を現代の「みそぐ」という言葉で、別の1首を「身を清めて」という言葉で訳しています。残りの1首には「みそき」表記がありません。この6首に現代のことばとしての「みそぎ」の意のことばがあるどうかを確認します。

 

2.検討方針の再確認

① 目的は、1-1-995歌が詠われた頃の通念として、「みそぎ」はどのような事柄を指す言葉であったのかの解明です。

 現代の「みそぐ」の意および「はらへ」の意は、前回の定義に従います。

③ 作詠時点の推計は、2016/3/31の日記に従います。

④ 和歌は、上記のように、『新編国歌大観』の「巻番号―歌集番号―歌番号」で示します。そして和歌における「みそぎ」という表現部分を、「みそき」表記、ということとします。

⑤ 私見を記すことになりますが、同趣旨の見解がすでに公表されている論文・記事等にあれば、私見はその見解を改めて確認しようとしているものです。

⑥ 文字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものである、という考えを前提とします。

 

3.各歌の検討その1 

2-1-423  石田王卒之時丹生王作歌一首短歌

・・・よのなかのくやしきことは・・・わがやどに みもろをたてて まくらへに いはひへをすゑ・・・ひさかたの あまのかはらに いでたちて みそぎてましを(潔身而麻之呼) やまの  ・・・

 

① 歌番号でみたとき、2-1-423歌は、『萬葉集』で「みそき」表記がある最初の歌です。推計した作詠時点でみても最初の歌です。

② この長歌の作者は、詞書にある石田王の延命あるいは病気平癒を自らが祈りたかったが、それも出来ないうちに石田王の死を知って、嘆いています。

 「よのなかの くやしきことは」の語句以後、作者は、自分が行うべきであった行動を、順に並べ、最後に「みそぎて(ましを)」を置いています。延命祈願等のためには、さらに「(のりとを)あげ」が少なくともありますが、それを略して動詞「みそぐ」を最後にしてそれに助動詞「まし」をつけています。

この表現から、手順を踏んで行うべきであった一連の延命祈願の行事を「「みそぎて(ましを)」の語句に込めていると判断できます。そして、それが仏教に頼らないで神を頼った一連の行動をとれなかったことを悔やんでいる意となっています。

そのため、この歌での「みそき」表記のイメージは、前回の「現代語訳の作業仮説の表」を参考にすると、順に行う行動の一つとしては、作業仮説のA0を意味しますが、最後に示した行動「みそぎて(ましを)」で代表しているものは、祈願全体であり、作業仮説のI0に相当します。

③ 祈願であるので、その儀式などに、当然「みそき」表記の行為があります。その行為は同表のA13に相当する「みそき」表記です。

④ 「みそぎてましを」の句に、現代語訳を試みるとすれば、「みそぎをしてあなたの延命を必死に祈願(という行事を速やかにこな)していたら、人々から聞かされたように(あなたが初瀬にある山に、あの高い山に)」となるのではないでしょうか。

この歌での「みそき」表記は、現代の「みそき」表記と同じ意味ではありません。

⑤ 土屋文明氏は、この歌を「死者のために、死の穢れをはらうための「みそぎ」」と説明し、また、「単なる近親者として習俗に従ってよみがえりを願っている心持を述べているとすると、(この詠い方は)自然に受け取れる」と言っています(『萬葉集私注』)。後者に同感です。

 

4.各歌の検討その2 

2-1-953歌 四年丁卯春正月勅諸王諸臣子等散禁於授刀寮時作歌一首短歌

まくずはふ かすがのやまは・・・もののふの やそとものをは かりがねの(折不四哭) きつぐこのころ かくつぎて つねにありせば ・・・まちかてに わがせしはるを かけまくも あやにかしこく いはまくも ゆゆしくあらむと あらかじめ かねてしりせば ちどりなく その佐保川に 岩におふる すがのねとりて しのふくさ はらへてましを(解除而益呼) ゆくみづに みそぎてましを(潔而益呼) おほきみの みことかしこみ ももしきの おほみやひとの たまほこの みちにもいでず こふるこのころ

 

① 2-1-953歌には、左注があります。作者は、勤務中上司が職務上の指示をだそうとしたら一人も居らず、持ち場を離れて春の野でそろって遊んでいたことが発覚し、外出禁止の刑を受けた者たちの一人だと分かります。

 また反歌2-1-954歌)が、あります。「皆さんが今梅や柳を楽しんでおられるように、職場の近くの佐保の野にでて遊んだだけなのに、おおげさに外出禁止という処罰が知れ渡ってしまった」(試訳)と詠い長歌ともども外出禁止令のために春を楽しめない不運を嘆いています。

この歌と反歌から、自らの勤務態度の反省は薄いとみられます。「いはまくも ゆゆしくあらむと あらかじめ かねてしりせば」と自らの職務に関するマニュアルの存在も知らないことを白状し、知っていれば遵守するために祓をしたのに禊をしたとのにと開き直り、作者らを指揮監督する者から事前に指導や注意もなかったと、暗に訴えています。

 

② この歌の作詠時点は、左注により神亀4年(727)なので、大宝律令後の養老律令の時代です。恒例の大祓も順調に行われている頃です。養老律令の神祇令9条に、「前の件、諸の祭、神に供せむ調度及び礼儀、斎日は皆別式に依れ」とあり、「斎」とは「いみ」、「ものいみ」の意であり、(祭に臨む前は)タブーにふれないように謹慎する意にあたります(『日本思想体系3律令岩波書店)。これは、「現代語訳の作業仮説の表」のA13又はB13の「神の接遇をする資格又は許しを得る」と捉えることができます。この略式が現代の一般的な神事の執行にあたっての「みそぎ」と思います。神祇令に「禊」という漢字は使われていません。その斎が大祓の前に行われ、そして大祓中で祓を行っています。この祓は、同表のD1に近いものであります。

③ 作者は、2-1-423歌と違って「ましを」という表現を、2回使っています。

「はらへ」表記と「みそき」表記を、共に「ましを」の語句を付けた対句として用いています。対句となったこの二つの行為は修辞上対等なものです。しかしながら、一連の行為・儀式の途中にこの二つがある場合の順番は、今日の一般的な神事の儀式の場合は「神の接遇をする資格又は許しを得る」意の「みそき」表記が先であり、この歌の順番と異なります。

この歌と養老律令は、同時代のものと言えますので、「はらへ」表記を「みそき」表記の前に置いた作者の意図を考えてその意味を検討しなければなりません。

④ 作者が、「ましを」という反実仮想の意の言葉を繰り返しているので、どちらかをしたかった、という理解より、両方を行う気持で詠っているとするのが妥当であろうと思います。そうすると、二つの考え方があります。

第一は、佐保川で事前に行うべきであった行為は、総括的には一つと理解すべき行為(あるいは儀式)であり、それにはそれを総称する名前のほかに二つの略称があって、この二つを並べてその行為(あるいは儀式)を強調したのだという理解です。

つまり、単独の行為としての「はらへ」表記と「みそき」表記の行為が含まれる行為(あるいは儀式)である、ということであり、この行為(あるいは儀式)のイメージは、「現代語訳の作業仮説の表」のC0はらいとみそぎを行い罪やけがれなどから心身を霊的に清める)あるいはI0祭主として祈願をする)に相当することになります。なお、総称する名前の候補に、「○○の禊祓」という言い方と「○○の祓禊」がありますが、略称を言う場合「みそき」表記がなぜ後なのか、という疑問が生まれます。

第二は、佐保川で事前に行うべきであった行為として、やるべきものを列挙したという理解です。「はらへ」表記と「みそき」表記を同時に行ってもその効果が相殺されるものではなく、効果は同じように期待できるので、一つに絞らないでこの二つを行うべきであった、という理解です。

この行為のイメージは、同表のB0罪やけがれなどから心身を霊的に清める。はらいを行う。)とA0罪やけがれなどから心身を霊的に清める。水使用(浴びなくともよい))になります。

しかし、詠うにあたって、第一と同様に、はらへとみそぎの順番に疑問が残ります。

⑤ いずれにしても、一連の行為がどのような罪あるいは穢れを対象にしているのかを解明しなければなりません。

 ここに、罪とは、(前々回の「みそぎとは」で記したように)現代の「はらえ・はらい・祓」の対象の罪である「道徳あるいは宗教上、してはならない行い」(『新明解国語辞典』の定義における一つの意)として、検討することとします。

また、穢れとは、(前回検討したように)不浄なものと観念したもので「日本における共同体で、本来の状態から不安を感じる状態にかわり不浄と認定したとき生じているもので、一定の霊的な手段を講じて無くすべきもの・身から離すべきものと、信じられていたもの」として、検討することとします。

なお、穢れの例をあげると、平安時代における、人畜などの死や人畜などの疫病やそのほか人畜などの生理的に異常な状態を引き起こしているもの、です。

⑥ 新編日本古典文学大系』の萬葉集の現代語訳などでは、この歌でのはらいやみそぎをする対象に言及していません。

阿蘇氏は言及し、「はらへ」表記と「みそき」表記のある句の前後を、「こういうことになろうと、前もってわかっていたら、・・・春に惹かれるその思いを払い除いておくのだったのに、流れる水でみそぎをするのだったのに」と訳してしています。「春に惹かれるその思い」の原因がただひとつであるとすると、両方をこの語句が修飾しているとも理解できます。阿蘇氏もそのようにみて訳しているものと思います。

それでは、この歌の「春に惹かれるその思い」は、罪でしょうか。それとも、けがれでしょうか。

⑦ その前に、佐保川で事前に行うべきであった行為の検討における、罪とけがれを、検討します。まず、罪、です。

第一にあげた、その行為が総括的には一つと理解すべき行為(あるいは儀式)であれば、そのイメージは、C0あるいはI0のいづれかです。

 前者(C0)であれば、その対象となる罪があるはずです。いや、罪を自覚して詠っているはずです。処分を受けた時点から振り返ると、職場放棄以前に既に作者らにとって犯してしまったと彼ら自身が思った罪とは、

・規律違反を気にしない気分になって職務専念義務を忘れたこと

・具体の職務が生じる春雷などの発生予測を怠っていたこと

・そもそも職務に関するマニュアルを知らず職務内容の理解とその運用に未熟すぎたこと

・発令を受けた際、任務遂行のために不断の自己研鑽を条件とされていた(と当然推測される)が、それを怠っていたこと

・春の訪れに対する常識の不足(年齢が若くとも官人としての教養が足らなかったこと。「春に惹かれるその思い」をコントロールできなかったこと)

・そのほか(年末の大祓の後)新春となって本人も知らないうちに犯した官人としての諸々の罪

などが思い当たります。

後者(I0)であれば、祈願の筋があるはずです。天皇から戴いた命令の忠実な執行のためご加護を、という類でしょうか。その祈願には「神の接遇をする資格又は許しを乞う」ための「はらへ」表記と「みそき」表記が必ず含まれているはずです。清めるその対象の罪は、本人が意識していようといまいと関係なく犯した諸々の罪です。

第二にあげた、その行為としてやるべきものを列挙したという理解であれば、B0A0の組み合わせとなります。本人が意識していようといまいと関係なく犯した諸々の罪です。この場合は第一の前者と同じものが罪となるでしょう。

⑧ 次に、佐保川で事前に行うべきであった行為の検討における、けがれを、検討します。

第一にあげた、その行為が総括的には一つと理解すべき行為(あるいは儀式)であれば、そのイメージは、C0あるいはI0のいづれかです。

前者であれば、その対象となるけがれがあるはずです。処分を受けた時点から振り返ると、職場放棄以前に既にけがれていた、と彼ら自身が思ったけがれとは、

・規律違反を気にしない気分にさせられる興奮状態であったこと(それは清らかな心理状態ではありえないことであり、不浄の状態になっていた。しかも全員がそうなっていたので伝染性のものから生じている)

・具体の職務が生じる春雷などの発生予測を一時的に怠っていたこと(同上)

・「春に惹かれるその思い」を一時的にコントロールできなかったこと(同上)

後者であれば、祈願の筋があるはずで、春に執着してしまうきっかけに逢わないように、というのが一例です。そして「神の接遇をする資格又は許しを乞う」ための「はらへ」表記と「みそき」表記が必ず含まれているはずです。清めるその対象のけがれは、本人が意識していようといまいと関係なく身に生じてしまった諸々のけがれです。

⑨ 阿蘇氏が指摘した、この歌の「春に惹かれるその思い」は、作者らにとり、罪と認識できるし、また、けがれとも認識できます。

 反歌を考慮すると、阿蘇氏のいうように、作者として、外出禁止の処分を受けているという作詠時点で「春に惹かれるその思い」を何とかしておけばと反省し、「はらへてましを」と「みそぎてましを」と詠っている、と理解せざるを得ません。反省すべき点がほかにもあるにもかかわらず、です。

 具体的には、罪よりも春に惹かれるその思い」を一時的にコントロールできなくした」けがれをはらいたかったと詠ったと理解するのが作者の意に沿うと思われます。「ましを」の語句を付けた対句の検討ではあり得ないと思いましたが、ここでは、「はらへ」表記でも、「みそき」表記もどちらかでもしておけば、の意で対句としたようです。同表のB0A0が該当すると思います。

⑩ この歌からうける印象は、作者の罪とけがれに対する理解が狭小である、ということです。外出禁止の処分を受けている身であってもまだ春に惹かれるその思い」が強い歌であり、官人としては失格者です。この歌は、処分を受けた後でも謹慎の態度をとっていないこと(抗議の姿勢であること)の証拠とされる要素を含んでおり、『萬葉集』のこの巻の編纂者は、作者を不明としています。土屋氏は「作者未詳は責任の追及を恐れたためとみえる」と推測しています。

 なお、この歌のある6巻の作者未詳歌は、この歌のほかには1002歌と宴の席で披露があった1012,1016,1021歌だけです。

⑪ この歌が記載されている「巻第六 雑歌」は、年代順の行幸従駕の歌から始まっています。そして山部赤人の「歌一首幷短歌」が、作詠時点不明だが内容の類似から記載すると左注してあり、その次にこの歌があります。内容は様変りしていますが「歌一首幷短歌」であり、この953歌後は短歌となります。天皇に求められた歌でもないので、このようなことが起こるほど治まっていた世の例示でこの巻に記載したのでしょうか。

なぜ「はらへてましを」が「みそぎてましを」より先に詠っているのか。この巻の編纂者が作者らを庇って錯綜させたのではないでしょうか。

⑫ なお、1-1-995歌との比較でみるならば、この歌には、生きている動物を必要とすることを示唆るような「みそき」表記と「はらへ」表記はありませんでした。 

⑬ この歌の現代語訳を試みると、第二のその行為としてやるべきものを列挙したという理解つぎのようになります。

「・・・ 千鳥が鳴いている佐保川に行き、・・・、春の楽しみに向かう気持の高ぶりに勤務中捕らわれないように、春を迎えたら日々祓をして禊をも(どちらでも構わないのですが)しておけばよかったのにと今は思っています。・・・

⑬ 次回は、2-1-2407歌などの検討を記します。

御覧いただき、ありがとうございます。(上村 朋)