2017/7/17 前回、「みそぎとは」と題して記しました。
今回は、「みそぎの現代語訳の例」と題して、記します。
1.「みそき」表記と「はらへ」表記に関する仮説
① 現代における「みそぎ・禊」、「はらい・祓」という用語の意味を確認し、和歌における「みそき」表記等がどのような行為あるいは行事などを指すのかを、『萬葉集』などの各歌の検討の前におおまかに検討・整理します。
三代集には、詞書に「祓したる云々」とあって、歌には「みそぎする」という表現がある歌があります。『貫之集』には、「みなづきのはらへ」と題して「みそぎする」と歌にあります。
「みそぎ」という行為が、人々の生活に溶け込んだものであって、いろいろの場面で行われていた結果と思われます。
どのように各歌を現代語訳するか、の事前の整理です。
② 現代語でのみそぎ等の意味は前回検討したように、次のとおりとします。
現代の 「みそぎ・禊」は、その行為を、川などで水を浴びるという民族学的行為と捉え、それにより霊的に心身を清めることとなる行為をいうものとする。罪やけがれなどに対して効果がある行為である。また、個人の行為であり、グループで行う行事とか儀式全体を指す言葉ではない。
現代の「はらい・はらえ・祓」は、その行為を、(神道における)神事と捉え、それにより霊的に心身を確実に清めることとなる行為をいうものとする。罪やけがれなどに対して効果がある行為である。個人の行為であり、グループで行う行事とか儀式全体を指す言葉ではない。
ここに「(神道における)神事」とは、贖物(あがないもの)を捧げ神を招き、願い又は感謝を申し上げた後に昇神を願う一連の手順があるであろうと推測できる事柄を指し、プロの神主や幣の存在とか玉串拝礼とか直会とかの有無を問いません。定義をするにあたってこれらの確認を要しないこととした、ということです。
③ このような定義の「みそぎ」および「はらえ・はらい」という言葉を用いて、当該和歌における「みそき」表記のイメージを現代語訳するものとし、その訳語例を、作業仮説として表に示します。この表を以後「現代語訳の作業仮説の表」ということにします。
表 「みそき」表記のイメージ別の現代語訳の作業仮説 (2017/7/16現在)
和歌での「みそき」表記のイメージ |
現代語訳(案) |
イメージ番号 |
||
自らが行う |
自らが主催する行事・儀式 |
自らが参加している行事・儀式 |
||
罪やけがれなどから心身を霊的に清める。水使用(浴びなくともよい)。 |
A11その罪に対してみそぎ(または略式のみそぎ)をする A12そのけがれに対してみそぎ(または略式のみそぎ)をする A13みそぎをしてその神の接遇をする資格又は許しを得る。 |
A2その罪に対してみそぎ(または略式のみそぎ)をする A22そのけがれに対してみそぎ(または略式のみそぎ)をする |
―― |
A0 |
罪やけがれなどから心身を霊的に清める。はらいを行う。 |
B11その罪に対してはらいをする B12その罪に対して素朴な神事ではらいをする B13はらいをしてその神の接遇をする資格又は許しを得る。 B14そのけがれに対してはらいをする |
B21その罪に対して神事の一環としてはらいをする) B22その罪に対して素朴な神事としてはらいをする B23はらいによりその神の接遇をする資格又は許しを得る。
|
B31その罪に対して神事の一環としてはらえを受ける。 B33その罪に関して神事に加わりその神の接遇をする資格又は許しを得る。 |
B0 |
はらいとみそぎを行い罪やけがれなどから心身を霊的に清める。 |
C11その罪に対してみそぎ又は略式のみそぎをし・・・はらいをする。 C12みそぎのほかはらいを行いその神の接遇をする資格又は許しを得る。 |
C21その罪に対して霊的に清める神事を主催する。 C22そのけがれに対して霊的に清める神事を主催する。 |
C3その罪に対して霊的に清める神事に参加する。 |
C0 |
(はらいのなかの一行為である)贖物(あがないもの)を供え幣(ぬさ)等の祓つ物の力を頼む |
D1贖物を供えて祓つ物を自らの身に寄せ擦る等をする |
D2贖物を供えて祓つ物を身に寄せ擦る等を指示する |
D3贖物を供え祓つ物を自らの身に寄せ擦る等をしてもらう |
D0 |
贖物を供え共同体に迷惑かけたことの許しを乞う |
E1原初の祓をする |
―― |
―― |
E0 |
神祇令に定める大祓をする |
―― |
F2大祓する。<天皇のみ> |
―― |
F0 |
神祇令に定める大祓に仕える |
G1命により大祓の執行の中の役を務める。 |
―― |
G3命により大祓の儀式を執行する。 |
G0 |
由の祓 |
H1みずから由のはらえの儀式を行う |
H2由のはらえの儀式を主催する又は実施を命じる |
―― |
H0 |
祭主として祈願をする |
I1祭主として・・・を祈願する |
I2祭主として・・・の祈願祭をする |
―― |
I0 |
祈願してもらう |
―― |
―― |
J3祈願祭に加わる |
J0 |
夏越しの祓 (民間の行事)又は六月祓(民間の行事) |
J1民間行事の夏越しの祓をする |
J2民間行事の夏越しの祓を主催する |
J3民間行事の夏越しの祓に参加する |
K0 |
喪明けのはらへ |
L1喪の明けたことを告げるためにみそぎはらえをする |
L2 喪の明けたことを告げる儀式を主催する。 |
L3 喪の明けたことを告げる儀式に参加する。 |
L0 |
お祓いの神事の時によむ言葉 |
―― |
―― |
M3神事によむ言葉(祝詞) |
M0 |
禊・祓ともになく、「羽を羽ばたく」「治める・掃討する」等の動詞 |
略 |
略 |
略 |
N0 |
注1)「はらへ」表記の場合でも「和歌でのイメージ」欄のイメージであればこの表を適用する。
注2)「現代語訳」欄の「――」は、論理的に該当しないことを表わす。
注3)「和歌でのイメージ」欄において、「祭主として祈願をする」又は「祈願してもらう」には、「祈願成就の感謝をする(又はをしてもらう)」も含まれる。
2.時代背景、ものの考え方 その1
① このような現代語訳の作業仮説をたてた背景を、記します。キーワードは、「祭」、「律令体制」、「大祓」、「はらへ」、「罪」、「けがれ」、「怨霊」です。
② 都が奈良盆地内などを転々としている以前から、氏族が祀る神は、氏単位に祀っていたので、氏の構成員を束ねる者が、祭主とともに今でいう神官役(執行役)を、自らが勤めていました。それが祭です。祭るには、客人を丁重にもてなす作法が重視され、神饌を奉献することから祭がはじまります。
祭主は、参加者を代表して、神に願いや感謝などを申しあげ、神に参加を乞い宴席を設け、神が悦ぶ舞その他を参加者が演じ、加護を願いました。神社があるわけではなく、集まるところが氏ごとに決まっていました。 射弓や競馬を奉納する祭もあります。
③ 白村江の戦い以後、中国の唐を模して、律令による政治を目指し、支配の及ぶ限りの地域に住む人々を治め、地域外の者をも慕いよるようにと、天皇を中心とした体制として近江令などチャレンジ後701年成立させた大宝律令を、天皇は施行しました。祭政一致が建前でした。
先人の研究によると、当時の人口は、北海道と沖縄を除いて750年頃559万人、900年頃644万人と推計しています。『日本史学年次論文集『古代(一)』(学術文献刊行会編1992年版』)における井上満郎氏の論文「平安京の人口について」によると、「初期ないし前期平安京の人口は12万人前後。逆算すると貴族・官人と天皇・皇族つまり宮廷文学に参画できると思われるのは1万5千人」です。
④ 氏族の神をはじめ、古代の神は、祟りが神の重要な属性であると観念されており、天皇が、祟る神に殺されるという事態はありうるとされている時代です。天皇は、伊勢大神にも出雲大神にも地域の神にも緊張関係を維持して統治(生活)しています。律令のなかの神祇令は、国が緊張関係を維持している神々を列記し、天皇が一元的に祭るべく(祟りをできるだけ予測し、神を鎮める等)、神祇体制を定めています。(『日本神道史』(岡田荘司編 吉川弘文舘2010)
⑤ また、言霊信仰がありました。大宝律令施行後200年余たって成立した『古今和歌集』でも、その仮名序は、次のように記しています。
「やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。・・・ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるはうたなり。」
この文章は、「天地を振動させたり、目に見えない鬼や神を感動させたり・・・することができるのは歌である」(『古今和歌集』(久曽神昇氏 講談社学術文庫)と、宣言しています。「死者はその子孫のみに幸を与え、それ以外の者には災いを被らせるので、人々はその祖先のみを神(氏神)として祭り、それ以外は鬼として恐れるのである」(久曽神氏)。その神と鬼とを自由に扱う手段を我々は持っている、と宣言しています。
⑥ 今判明している養老律令での神祇令は、「天神地祇を祭る」規定として中国・唐の「祠令」を参考に作られていますが、「大祓」と「大嘗祭」(即位時の祭祀)に関しては日本独自の規定です。祭政一致の政体における、天皇始め官人等の諸々の罪を浄化する「大祓」は、国家の行事という位置付けです。「大祓」は恒例の大祓と臨時のものがあります。
⑦ 恒例の大祓は、陰暦6月晦日と12月晦日に行われます。(事前に御禊をし、)当日、担当の中臣氏の官人が御祓麻を天皇に上り、東西の文部が祓刀を天皇に上り、かつ祓詞を読みます。次に、百官男女が祓所に集合して、祓詞を読み、卜部が解除(はらへ)をする。」というものです。担当の官人も禊に相当する行為を事前に行います。
百官男女(の官人)が集合する祓所は、朱雀門前です。前回の「大祓」から今回の「大祓」までの期間に朝廷に関わる者が犯した罪(以下に説明します)を、(天皇は)祓えつ物(御祓麻など)を置き祓の用具を用意し神聖な荘厳な祝詞(天津祝詞の太祝詞事)の言葉をよく知った担当のものに宣読させるので、聞き届けてくれと願い、聞き届けてもらった旨を、官人に伝え、集まった者をも卜部が解除(はらへ)をして、祓えつ物を河に流します。担当の官人は、天皇に報告後、常態の勤務体制に戻る、ということです。(『日本思想体系3 律令』(岩波書店1976))
その朱雀門前の儀式は、地上の支配を神々から委ねられている天皇が、神々の怒りを買うようなことを天皇に仕える者がすること(罪)を見逃してきたかもしれないことを、手順を尽くして許していただいた(それは皆の罪も遠くへ追い払うことを許していただいた)と宣言する儀式と理解できます。言霊信仰につつまれた儀式です。
⑧ 大祓は、先の「現代語訳の作業仮説の表」における「神祇令に定める大祓」(表の番号F0のイメージ)に該当しますが、具体には、天皇が「贖物(あがないもの)を供え幣(ぬさ)等の祓つ物の力を頼みはらう」(表の番号D1のイメージ)ことを含んでいます。
⑨ 『岩波講座天皇と王権を考える5』における三橋正氏の論文「ハラエの儀礼」によると、朝廷における大祓の初見は、壬申の乱後の天武天皇5年(676)です。その後朝廷は律令の規定を守って年2回の恒例の大祓を行い、また臨時の大祓をも実行しています。
臨時の大祓とは、祭(神事)の場に清浄性をもたらす「神祇大祓」、災厄などの異常な状態を払い除く「除災大祓」、諒闇・喪服終了を示す「釈服大祓」などです。さらに、平安時代に入り、「禊」との混用が進み大祓は変化します。天皇の清浄性が求められ、由の大祓が主流となります。
由の大祓は、宮中で行う神事のとりやめが対象です。なお、由の祓とは、忌服などのために神事がとりやめとなったとき、その由を神に申し上げる祓のことで、上流貴族も行っています。
淳和朝天長年間(824~834)から大祓の朱雀門(大内裏の南側にある正門)前の儀式が建礼門(内裏の紫宸殿の南にある)前でも行われるようになりました。
国家秩序を象徴する儀礼の面影は消えて、神を恐れる個人としての天皇の祓となった大祓は、宗教的な習俗へと様変りしました。臨時大祓は、矮小化されながらも実質的な機能を持った儀礼として継続し続けました。必要とされる形に矮小化されたからこそ、命を持った儀として大祓は存続しました。
例えば、『古今和歌集』成立後の延喜15年(915)の10月には、紫宸殿大庭・建礼門・朱雀門で疱瘡を除くため大祓を行っています。また同日建礼門前で鬼気祭というのも行っています。(三橋氏)。それに伴い、贖物の用意や儀式実行などの経費を負担する部署が朝廷のなかで徐々に変わってきています。
3.時代背景、ものの考え方 その2
① 大祓は、律令施行以前からある「はらへ」の観念に基づいています。
その当時の「はらへ」の意は、「贖物(あがないもの)を供え幣(ぬさ)等の祓つ物の力を頼み罪を祓う意です。「現代語訳の作業仮説の表」の「贖い物を供え共同体に迷惑をかけたことの許しを乞う」(同表のE0)となります。
② 一例をあげます。
『日本書紀』孝徳天皇条の646年の旧俗廃止の詔にある「祓除(はらへ)の悪用」は、人が溺れ死ぬのを見せた、貸した甑(こしき)が倒れて穢れた、などと、迷惑をお前は周りのものにかけたではないかと因縁をつけ贖い物を差し出させて「はらへ」を強要して物品を巻き上げる事例です。現代語訳の作業仮説である同表のE0の悪用です。
この旧俗の廃止の詔にある例から推測すると、現代の刑法上の罪も含まれますが、周りに不安を生じさせたことも、その共同体の中で罪とされていたと思われます。
祓は、衛生観念から生まれた共同体の自己防衛であったと北康宏氏(『岩波講座日本歴史第2巻』(論文「大王とウジ」)は指摘しています。疫病が共同体の中で流行するとなると、その原因となっている霊的なものを突き止めて贖い物を供え除去しようとしているのが、律令施行以前からある「はらへ」の姿といえます。
このときの贖い物は、共同体のリーダーの所有(あるいは指示による分配)に、なったのでしょうか。
③ 今日の神道においては、祓の起源を、『古事記』の速須佐之男命(はやすさのおのみこと)の高天原追放においていますが、それは大祓が対象としている罪に反映しています。具体には、中臣氏が百官に聞かす祝詞(大祓詞)に、神に「はらふ」ことをお願いするものとして列記されています。
例えば、
天つ罪: 畔放ち(田のあぜをこわす罪)
屎戸(神を祀ろうとする場所を汚す罪)
国つ罪: 生膚断ち(人の膚を傷つける罪、但し被害者が生きている場合)
死膚断ち
子と母と犯す罪
高つ神の災(高いところにいる雷神が家屋に落ちて生ずる災禍)
畜仆し蟲物する罪(畜類を殺してその血を取り、悪神を祭って憎む相手をのろう呪術
を行う罪)
などです。
すなわち、罪の種類をみると、農業など生業を営むことの妨害、祭祀の場の冒涜、近親相姦の類があり、さらに、共同体が被る自然災害(に示されるように神を十分もてなしできなかったこと)と相手に呪いをかけることがあります。
しかし、謀反、国家への反逆、税金の不払いは含まれていません。これらを罪として祓うことをしていないことは、天皇として許すことのできない犯罪であったのでしょう。 これらに対する刑法典は別途あり、皇子が処罰を受けている例もあります。
④ つまりこの祝詞にいう「罪」は、
神より地上の支配を譲られた天皇が人々に安寧な生活を保障できなかったという罪
神がそれとなく教えてくれた過ちに天皇自らが素早くこたえられなかったという罪
をさして言っていると理解できます。「己の指導力不足の結果を不問としてください、信頼してこれからも導いてください、贖物をいっぱい御覧のようにそなえますので。」という祈願が大祓という儀式と理解できます。 いうなれば、統治者のすることに異を唱えないように、神が満足すべき状態をつづけるか気をそらせることをしています。祭に通じるものがあります。
この罪は、現代の「はらい・はらえ・祓」の対象となる罪(であると前回記した)「道徳あるいは宗教上、してはならない行い」のうち、支配者である天皇の場合に合致します。
大祓の後、天皇は自動的に、(神を十分もてなすことを忘れていなかった)元の状態に戻ったということです。官人等も自動的に元の状態(現状からいえば浄化した状態、本来の天皇の命令指導を正しく受け止めてまじめに実行できる状態)になるのです。
⑤ 支配している地域が平穏でないのが、天皇の罪であるとの感覚であるならば、貴族の氏上にあっては、一族の隆盛が衰えるのは自らの罪と観念しなければなりません。これを一私人として考えれば、栄達が父より後れるのは、一族に対する罪ともなり得ることです。
また、希望がかなわないでいる状況も、祓いを必要とする状況と認識できます。自覚していない罪を犯して神の怒りを買った結果が今の状態である、と認識すれば、祓をして神の怒りを鎮めるということになります(怨霊の祟りの場合もあります)。このように、神と向き合う(を接遇する)機会は度々あり、霊的に身を清めなければならないことが度々ある生活を、天皇や貴族はしています。
⑥ そのため、怒っている神をいかに知るかが重視され、その技術は中務省の下に設置された陰陽寮へと組織化されています。陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行っています。また、令では僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられています。この日本の陰陽道は、日本特異の発展を遂げたものです。
4.時代背景、ものの考え方 その3
① 茂木貞純氏は、「けがれとは、穢・汚。a清浄と正反対の状況。b語源は、西宮一民氏の説(『上代祭祀と言語』)が妥当。すなわち「不意に、思わず、はからずも受ける損傷」をいう。突然に襲われる、その意外さのかもしだす不気味さによって忌み嫌われる感情が起こり、それが社会的に伝染していくことを怖れ忌むこととなった。」 と説き、例として、死、お産・月経をあげ、触穢を避ける思想を生み、ケガレは祓によって清められる、と説明しています (『日本語と神道 日本語を遡れば神道がわかる』(講談社)。
穢の特色は、その呪的な強い伝染力です。特に死穢は不可抗的に死者の家族や血縁関係を汚染するので、その家族が別の家で着座するとその別の家の全員に汚染します。また、死葬には30日の忌がかかるので、この期間は公事に参加できない、とされています。
② 櫛木謙周氏は、「穢観念の歴史的展開」(『日本古代の首都と公共性』(塙書房、2014年))で次のように述べています。
「藤原実資は日本の穢れは天竺(インド)・大唐(中国)にはないものであると解しており(『小右記』万寿4年(1027)8月25日条)、藤原頼長も穢れの規定は(中国からの移入である)律令にはなく、(日本で独自に制定した)格式に載せられていることを指摘している(『宇槐雑抄』仁平2年(1152)4月18日条。)日本における穢れの思想は神道の思想や律令法で導入された服喪の概念とも絡み合って制度化されるなど、複雑な発展を遂げていった。・・・政治的な罪を起こした者を「穢れ」と表現して京から追放したり、強制的に改名させて姓などを奪う(天皇に仕える資格を剥奪する)事で天皇の身の清浄性を維持する事が行われている。」
③ 『世界大百科事典』の「けがれ」の項では、
「人畜の死や出血や出産などの異常な生理的事態を神秘的な危険と客体化したものである。罪や災いと同様に共同体に異常事態をもたらす危険とみなされて回避や排除の対象となるが、穢れは、災いとともに、生理的異常や災害など自然的に発生する危険であり、また罪穢は災いとちがって共同体内部に生起する現象だといえよう。穢が、罪や災いと異なる点は、その呪的な強い伝染力にある。」と説明しています。また、
「火、食物、水は神聖性を伝染せしめる要素で、穢の汚染源にもなるとともにその浄化の手段にも用いられ、服忌や斎戒には別火、斎食、水浴が重視される」、「一定期間の非日常的な謹慎のあと禊すなわち水浴による清めを要する」と解説しています。
④ 貞観式で、「穢」(けがれ)の規定が成立します。承和~貞観年間(834~877)に「穢を近づけると祟りをなす」という考えが定着し、穢れ重視が社会に定着したということです。穢れは、これを忌避する、忌(いみ)または服忌(ものいみ)の対象となったものです。
この規定は、朝廷としての「穢」です。即ち、統治をまっとうするために天皇が避けるべき「穢」であり、天皇の命を受ける官人にとって、職務を行うために避けるべき「穢」です。「百姓」の者が自らの家族のために避けるべき「穢」がこれと同一のものであるかどうかは分かりません。
⑤ 検非違使という令外官が確認できるのは弘仁7年(816)です。検非違使の本職は京における非違(法律違反)を担当していますが、次第に、律令に定めのある刑部、京職、衛府、弾正台などの職務を吸収し、軍事・司法を実質担当し、市司の職も兼務し、民生を担当してゆきます。祭における橋・道路の検分・清掃・行列の護衛をしています。京における掃除担当職を引き受けています。つまり清め仕事を一手に引き受けています。
祭政一致の建前から天皇とその近くにいる者の清浄性を保つのが重視された結果、直接穢れを生じたりその恐れがあるものから遠ざかるようになってゆきました。
⑥ 実例をみると、宮中の伊勢神宮などの古伝祭祀の場合、仏事などの仏教的要素はそれが穢を忌まぬがゆえに不浄とみなされ忌避の対象となっています。
また、政治的な罪を起こした者を「穢れ」と表現して京から追放したり、強制的に改名させて姓などを奪う(天皇に仕える資格を剥奪する)ことをしています。
これらのことをも意味するものが穢れです。
⑦ 今、ここで用いようとしている現代語での「みそぎ」の定義(上記1.②の現代の「みそぎ・禊」)では、罪やけがれにも効果あり、としましたが、
その罪とは、前回記したように「道徳あるいは宗教上、してはならない行い」としています。
また、けがれとは、「昔の考え方で不浄とされる事柄。忌服、月経、お産など。」(『新明解国語辞典』での定義のひとつ)が妥当すると思いますが、過去用いられた「けがれ」という言葉を検討するためには、「昔の考え方で」というところをもう少し具体にしなければなりません。
けがれとは、「日本における共同体で、本来の状態から不安を感じる状態にかわり不浄と認定したとき生じているもので、一定の霊的な手段を講じて無くすべきもの・身から離すべきものと、信じられていたもの」といえます。例えば、平安時代における、人畜などの死や人畜などの疫病やそのほか人畜などの生理的に異常な状態を引き起こしているもの、これがけがれです。
けがれに対して、儀式を伴ってこれを忌避する、忌(いみ)または服忌(ものいみ)を平安時代の天皇・貴族などは行っています。穢れているのは、健常でない状態と認識されていました。
現代語の辞典『大辞林』は、けがれを、第一に「けがれること。特に精神的にみにくいこと。よくないこと」、第二に「名誉をけがすこと」、第三に「死・疫病・出産・月経などによって生じると信じられている不浄。罪・災いとともに、共同体に異常をもたらす危険な状態とみなされ、避け忌まれる」。と説明しています。
⑧ 怨霊(うらみをいだいている政治的敗北者の霊)はタタると信じられ、病気や事故も怨霊の仕業と考えている時代、身に覚えのある人間は慎重に対処してゆきます。
桓武天皇は、息子安殿(あて)親王(後の平城天皇)の病気の原因を陰陽師にうらなわせ、早良親王の祟りと認識させられています。そして早良親王(崇道天皇の号を800年に贈る)の鎮魂を遺言して亡くなります(806年)。その後、863年御霊会で早良親王の霊を橘逸勢らの霊とともに祀っています。
六歌仙怨霊説は高橋克彦氏の発見と井沢元彦氏が紹介しています。文徳天皇の後継者争いの敗者に連なる者が6歌仙。「ことのは」は、神をも動かすという哲学を実践したもの。即ち、敗者に加担したものの顕彰を恐らく紀貫之らが行い、六歌仙を怨霊としないための鎮魂であり、文徳天皇に襲いかかる(はずの)怨霊を慰めたもの、と理解しています。
菅原道真は903年に大宰府で亡くなり、後種々なることを京に起こしたと信じられました。道真の怨霊を怖れた人々は、947北野の地に道真の御霊(ごりょう)を祀り(北野天神)、さらに正暦3年(993)太政大臣を追贈しています。
井沢氏は、源氏物語は怨霊信仰の産物であり、ライバルの源氏姓の者たちを代表した光源氏が物語の中で栄えることで(そしてそれを世に知らしめて)ライバルの源氏姓の者が怨霊化するのを阻止している、と説いています。政争の敗者の怨念を鎮めるには、霊を満足させることでありそれが鎮魂であると、説いています(『逆説の日本史』)。
さらに時代がさがって『太平記』について、丸谷才一氏が「怨霊(御霊)の活躍を詳しく書いた本が出来たら、怨霊はきっと気分をよくしておだやかに振る舞うはずだ――わたしは『太平記』の作者の狙いはそこにあったと思います」(『鳥の歌』、ただし引用文は現代仮名遣いに改めた)を井沢氏は紹介しています。
⑨ 今「みそき」表記を検討している期間中である10世紀には、陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れ、その弟子の一人が陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明(延喜21年(921)~寛弘2年(1005年))です。
⑩ 祓は、国家・地域の公的なものから、平安中期以後は貴族社会をはじめ個人のための病気平癒や安産祈願など、私的祈祷(私的に祈願してもらうということで、同表のI0とかJ0の類)に広がり、これにはおもに陰陽師が関与しました。本来、神職は所属する神社の神々に奉仕することになっており、外部に出掛けて個人のために私祈祷を執行することには制限がありました。このことが、民間陰陽師を生み、庶民へ向けて祓祈祷を拡大していくことになります。そして十世紀になり、神祇官が管轄していない、陰陽道の河臨祓・七瀬祓が国家的祭法とされました(これらは同表に例示なし)(『日本神道史』(岡田荘司編 吉川弘文舘2010))。
三橋氏のいう「神を恐れる個人としての天皇の祓となった大祓は、宗教的な習俗へと様変り」です。天皇自身の夏越しの祓ともいえるものに変化していって名目上残ったということです。
⑪ 民間行事の六月祓は夏越しの祓の別名であり、神祇令に定める恒例の大祓と同様に一定期間の罪やけがれを貴族らが行ったもので、各家において年中行事化したものです。『権記』寛弘7年(1010)六月30日条に「六月祓例の如」とあり、『御堂関白記』長和4年(1015)閏卯6月29日条に「家祓常の如」とあります。
⑫ 「はらへ」を、絵巻で探すと、時代は下がりますが、『年中行事絵巻』の巻十に「六月祓」(みなづきのはらへ)の場面があります。
上流貴族の敷地内での六月祓が描かれており、庭の遣水(人工の川)から離れた木の根元に棚と陰陽師の席がしつらえられ、陰陽師が遣水に向かっています。そして室内では幼児が女房の差し出す茅の輪をくぐっています。この絵巻では「六月祓」に関する河原での行事の絵はありません。
しかしながら、この絵巻のような場面に対して「みそぎ」という表現を用いている歌もあります。
⑬ 次回は、『萬葉集』の「みそき」表記などを、記します。
御覧いただき、ありがとうございます。(上村 朋)