わかたんかこれの日記 屏風の需要

2017/6/19  前回、「紅葉もみぢのたつたかは」と題して記しました。

 今回は、「屏風の需要」と題して、記します。

 

1.歌の披露の場について

① 前々回、「たつたかは」表記の最初の歌1-01-283歌の表現を検討し、賀の行事などにおける屏風の「倭絵」(屏風絵)の中にのみ「たつたかは」があるのではないか、と推計しました。

 今回、屏風絵と称されるものについてもうすこし検討します。

② 諸氏は、平安時代の和歌の最も栄えた行事形態は、屏風歌と歌合であり、和歌がその場で存在する形態は、その装飾性にある、と指摘しています。

天皇や上流貴族の通過儀礼の場は、(天皇・上流貴族の権威を賭けた)公的な場になってゆき、その場を彩るものとして屏風が重宝されています。朝廷が賀の儀を行った最も古い記録は825年の嵯峨上皇の四十賀です。これ以前に、私的な賀の宴の積み重ねがあったはずです。

③ 歌合も屏風歌とほぼ同じ頃に誕生しているものです。初期の歌合は勝負を楽しむ上流貴族のものであり、専門歌人は依頼されて歌の提供をする立場です。専門歌人にはそれだけの需要があったということであり、彼らはそれに応える努力をしています。

 記録に残っている最初の歌合は、仁和元年(885)の「在民部卿家歌合」です。在原行平が主催した歌合です。屏風歌と同様に萌芽的な歌合が先行してあったのではないでしょうか。

 歌合とは、ウィキペディアなどによると、左右二組より詠んだ歌を1首づつ提出しその優劣を争う遊び及び文芸批評の会です。参加者の役割は方人(かたうど;歌を提出する者)、念人(おもいびと;自陣の歌を褒め、弁護する役)と判者とがあります。このほか歌を朗詠する者がサポートします。左右両陣の念人による一種のディベートによって判者の判定を導くものです。当初からこのような整然としたものであったかどうかは、よくわかりません。

④ また、中国から伝来の曲水宴(ごくすいのうたげ)が天皇主催で奈良時代から平城天皇の大同3(808)に中断するまでありました。

大伴家持が主催したときの歌が『萬葉集』にある(作詠時点は天平勝宝2(750))ように、私的に曲水宴は行われ和歌を披露することもあったようです。

桓武天皇延暦15(795)5月の曲水宴で天皇が古歌を誦しています。『類聚国史』によれば、「天皇、古歌を誦し給ひて曰く、いにしへの野中ふる道あらためば あらたまらむや 野中ふる道。尚侍従三位百済王明信に勅して之に和せしめ給へども成すを得ず。天皇自ら代わりて和し給ひて曰く、君こそは忘れたるらめにぎ玉のたわやめわれはつねのしらたま。侍臣万歳を称す。」とあります。

これらから、詩文はもちろんですが和歌も詠まれていることが分かります。

 参加できる者は、参加にあたり準備に専門歌人も動員したのではないでしょうか。

(曲水宴は、水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという行事である。略して曲水、曲宴ともいう(『広辞苑』第2版))

⑤ そのほか、『萬葉集』の最後の歌(家持作)のように、また遣唐使や地方官への赴任時の公私の送別の宴など、官人には、歌を披露・朗読する機会が多々あったと見られ、その場に相応しい伝承されてきた歌は何度も朗唱されています。『古今和歌集』のよみ人しらずの歌には、このような伝承歌も相聞に関する伝承歌とともに含まれていると思われます。

大伴家持には、「二十五日、新嘗祭肆宴して詔に応へし歌六首」という詞書を持つ歌が『萬葉集』にあります(2-1-4273~4278歌)。天平勝宝3(751)が作詠時点です。新嘗祭は原則毎年行われます。また「京に向ふ路上 興に依りて預め作りし侍宴応詔の歌一首幷短歌を并せたり」という詞書を持つ歌」と言う詞書を持つ家持の歌(2-1-4266,4267)もあります。

⑥ このように、和歌は披露する公的な場に限っても700年代半ば以降の例が多数記録にあります。

 

2.屏風歌とは

① ここに「屏風歌」というのは、出題された題が、絵で示され、それに応じて詠った歌と認めらる歌を言うこととします。諸氏の定義と少し異なっています。

屛風歌とは、具体的には、次のa~eのいずれかに該当する歌を指します。

 a屏風という室内の仕切り用の道具に描かれた絵に合せて記された歌

 b障子その他の(本来和歌を書きつけたり貼り付けたりするものではない)紙などに書きつけた歌

 c屏風という室内の仕切り用の道具の絵と対になるべく詠まれた歌(上記a,bを除く)

 d絵を示され詠めとの下命に応えた歌(上記a~cを除く)

eそのほか絵を題とみなして詠んだ歌で上記以外の歌

② 上記のabに該当する歌は、実際に屏風や障子などに記された(貼り付けられた)歌と信じられる歌ですが、c以下は、絵と対になって道具その他に張り付けられたものと伝えられていない歌です。aの先行形態として、唐絵という中国に材をとった絵に詩文を書きつけたスタイルがあったと諸氏は言っています。

 諸氏の定義の多くは、少なくとも eを含めていないと思われます。

③ 平安時代中期における屏風詩歌資料集を作成した田島智子氏は、勅撰集・私撰集・私家集・日記などより、詩の資料(ごくわずかであった)、屏風歌、歌絵などの絵に詠み合わされた歌を、屏風詩歌としています。その内訳は古今集時代については、744首、後撰集時代については、938首、拾遺集時代については、282首を数えています。

小町谷照彦氏は、『新日本古典文学大系6』で、『拾遺和歌集』には、詞書・左注等から、屏風歌が169首、障子絵歌11首、 紙絵歌、扇絵歌などその他の歌を含め合計187首の屏風歌類(絵に添えた歌)があると、指摘し、竹鼻績氏は、『拾遺抄注釈』で、『拾遺抄』での屏風絵は95首と指摘しています。

④ 屏風の絵柄に登場させた山や川は、唐絵の屏風であればそれにふさわしい有名な山名を詠み、またはその有名な山を想起するように(あるいは想起した)詩文を屏風に添えていたといいます。

倭絵の屏風に描かれた山や川に和歌を添えるとなると、唐絵屏風に倣い、その川の名前や山の名前も和歌にふさわしい名前を歌人たちは使おうとしたはずです。

⑤ このようなことから、歌人は屏風歌や歌合のために修練を積んでいたのではないかと思われます。

西山秀人氏は、「古今伝授の三鳥のひとつとして知られる稲負鳥が後撰集前後の時期に屏風歌の素材となった。古今集では稲負鳥は収穫期に来て鳴く鳥(1-1-208歌、1-1-306歌)です。 古今集時代の屏風歌は田の番に明け暮れる田守の労苦をうたうのに(対し)、後撰集時代の屏風歌に仮庵や露のほかに稲負鳥を登場させた。歌語「苗代水」も屏風歌に導入している。鶴は万葉集古今集に見えず、後撰集からだが屏風歌を除くと四季詠の歌には皆無に近い。恋歌には詠まれた。」と指摘しています。(「後撰集時代の屏風歌―貫之歌風の継承と新表現の開拓」(『和歌文学論集5』:風間書房1994

⑥ また、『古今和歌集』の歌の詞書は、他の歌集にある同一の歌(重複歌)のそれと比べると、撰者が言葉を選んでいると指摘している人がいます。撰修の方針に従ったのでしょうが、歌の供給元である屏風歌への歌人の私家集にみえるこだわりに比べると、『古今和歌集』では屏風歌と明示した歌が18首とあまりにも少ない。屏風歌であったことを古今和歌集』の詞書の文面から切り捨てられている可能性が濃厚であると指摘している人がいます

⑦ そうであるとすると、『古今和歌集』において、屏風絵に相応しい川として新たに「たつたかは」表記は登場したのではないかと推測できます。この推測は、神田龍身氏が『ミネルヴァ日本評伝選 紀貫之』(2009)で行った屏風絵と屏風歌と古今集の関係の考察の延長上のものであります。

⑧ 小松英雄氏は、「古今集における)詞書は、「そういう和歌として読むように」という撰者の方向付けである。既成の観念連合を利用してイマジネーションを刺激し、龍田川の美しい情景を脳裏に再構成させる表現である。(1-01-300歌も1-01-302歌も同じである。)」と『みそひと文字の抒情詩』で述べていますが、そのような共通の認識を成立させたのには、屏風歌という歌人たちが競って活躍できる場があったことが働いていると推定できます。

 

3.屏風とは

① そもそも、屏風は、当時どのように使用され、それにどのような絵や歌が求められたのでしょうか。

 当時の貴族は、後年寝殿造と呼ばれる住居に住んでいました。南面した主屋である寝殿を中心にして東西に副屋を置き、柱などの木部は素木仕上げで彩色せず内部は板敷であり、間仕切りはほとんどありません。

貴族の生活にとり儀式を行う比重が大きかったので、固定的な間仕切りは不都合であったと思われます。寝室となる部屋(塗籠)のみ間仕切りされていましたが、次第に寝殿中央近くに置かれた帳台が寝るところとなり、昼は畳を敷き居所として、その周囲を屏風や几帳を使って区画していました。

屏風は、公的な行事用に上流の貴族が求めただけでなく、官人の多くが実用品として必要としたものです。その実用品にも自らの趣味・たしなみを反映できるならそれを心がけているでしょう。現代の私たちがインテリアに拘り、車の購入に時間を掛け、スマホやそのアプリやSNSを楽しむことと同じように。

 公の場で用いられるためには、官人の住いの屏風を対象に歌が詠まれあるいは古歌が撰ばれていた時期があったことは想像に難くない。

弘仁12(821) 嵯峨天皇は内裏式3)を編纂させています。これは宮廷の年中行事を制度化した最初の書物です。

 宮中で行われる年間の行事の名を書き連ねた衝立障子(年中行事障子)が、仁和元年(885)が宮中おかれました。また、上流貴族も我が家の年中行事障子を持っていました。行事を行うには吉日を選んだといいます。儀式を滞りなく行うことがいかに重視されていたかということです。

② 高橋和夫氏は、「屏風は、字義通り防寒具であり、視界を遮る居住区画を示すもの。日本建築を文明化する方法が、屏風使用による建物の使用であった。屏風はその空間の居住者の思想体系の断片的表現となる。」と指摘しています。(「行為と和歌」『和歌文学論集5』:風間書房1994) さらに、「画題が日本の景物になるのに時間を要しし、賛も漢詩の時代がある。屏風歌と屏風の画題が四季に変移する景物の相と、風俗の大系とが、整って来る寛平・延喜に隆盛になるのは、屏風の絵に託した、環境と行事の自主的な認識が形成される時期と一致している。これは、屏風製作の発注者が、その制作によって記念すべき一時点(通過儀礼の祝儀)で、時間的・空間的に表現される思想を得ようとした一つの形態であり、院政期になって、専門歌人の社会的地位が高くなり、歌自身が思想性を持ち始めると、歌人たちに装飾的和歌を作るような職人性がなくなった」と論じています。

③ 田中喜美春氏と田中恭子氏は、「倭絵が誕生したのは九世紀委後半と考えられている。中国人が描いた唐絵に対し、日本の風土における日本人の絵画が生まれた。文化の独自性が自覚的に意識されたことを示す顕著な事例である。造形芸術の質的変化は、言語文化にも変化をもたらした。唐絵に描かれた詩に代えて歌を書かせることになった。倭絵に和歌が書かれた屏風は、平安朝に入っての中国化政策に質的変化が生じてきていることを典型的に示している」と論じています(『私家集全釈叢書20 貫之集全釈』)。

 また次の指摘をもしています。

屏風は、もともと室内において空間を仕切る調度である。そこに絵を描いたのは、美的な欲求のなせるわざに違い無いが、人生の転機を迎えた儀式が屏風の前で行われる時、その屏風は、その儀式にこめられた意味の一部を担っていたと考えなければならない。賀賛、成人式などの儀式の屏風の絵は、ほとんど月次と四季である。この画題は、日本における一年を留めることにほかならない。太陽との関係で生ずる四季、月との関係で計られた一周期を留めることによって、めぐる時間を留めたことになる。この屏風の前に居るということは、留められた時空の中に生を存在させるということである。あるいは、その人間がその時空を所有するということである。儀式、あるいは祝宴に四季。月次屏風を配するのは、永遠の時間と生活空間とを創出する舞台装置である。新成人、被賀者は、そのような時空に生きることを予祝される。したがって、歌は、言葉によって祝意を達成しようとする。

言葉のもつ呪力を信じての行為であり、ここに言葉についての厳粛な認識がある。屏風の絵をとらえて言寿いでみせるのが成人式を含めて年寿を祝う屏風歌だったのである。

⑤ 屏風は、その儀式を仕切る者が実際の発注者であり、通常は儀式にふさわしい絵柄のタイプを指定し絵(倭絵)が先に決まり12双等に仕立てられます。

⑥ 通過儀礼は、五位六位の官人も程度の差こそあれ行うべきものと理解されていたはずです。着任し下向の際の餞も頻繁にあり、勅撰集に別れの歌があります。

儀式はともに食す場であり、参加できることはその集団の一員の証しであります。寿ぐ言葉を常に用意しているのが官人でありますので、それを助ける専門歌人の需要はいくらでもありました。 

 

4.屛風歌の例

① 上記2.の定義における屏風歌の例を挙げます。

② 「a屏風という室内の仕切り用の道具に描かれた絵に合せて記された歌」の例

1-1-357 内侍のかみの右大将ふぢはらの朝臣の四十の賀しける時に、四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた   春                      そせい法し

   かすがのにわかなつみつつよろづよをいはふ心は神ぞしるらむ

 この歌は、巻第七賀歌にあります。詞書によりaの要件をクリアする歌です。詞書にある「うしろの屏風」とは、宴席の主賓の背後にあたる位置に置かれる屏風のことです。右大将ふぢはらの朝臣とは右大将藤原定国で、四十の賀は延喜5年(905)年であり、この年をこの歌の作詠時点と推計しました。

 

1-1-932 屏風のゑによみあはせてかきける        坂上これのり

   かりてなほ山田のいねのこきたれてなきこそわたれ秋のうければ

この歌は、『古今和歌集』巻十七雑上の巻尾の歌です。坂上これのりは、『古今和歌集』成立時存命であり、作詠時点の推計は905年となりました。詞書は、「作詠した歌は屏風に料紙に書家が書いて貼られた」という意であり、aの要件をクリアします。 1-1-352歌の詞書「・・・屏風によみてかきける」の意も同じです。

 

1-1-928 ひえの山なるおとはのたきを見てよめる      ただみね

   おちたぎつたきのみなかみとしつもりおいにけらしなくろきすぢなし

 この歌は、詞書の「みて」を、「現地に赴いて滝を見た」と理解するか、「滝を描いた絵を見た」と理解するかの二通りの理解があります。後者を採ると、aの要件をクリアした歌あるいは、cまたはeの要件をクリアした歌と見なせます。

 

 

1-1-335 梅花にゆきのふれるをよめる    小野たかむら朝臣

   花の色は雪にまじりて見えずともかをだににほへ人のしるべく

巻第六冬歌にある。この歌は、aをクリアしています。作詠時点は、作者の没年(仁寿2年(852)と推計しました。仮に作者20歳の時とすると822年です。

 

③ 「b障子その他の(本来和歌を書きつけるたり貼り付けたりするものではない)紙などに書きつけた歌」の例

1-3-560 廉義公家のかみゑに、たびびとのぬす人にあひたるかたかける所  藤原為頼

   ぬす人のたつたの山に入りにけりおなじかざしの名にやけがれん

詞書にある「かみゑ」とは、屏風絵・障子絵や絵巻・絵冊子に対して一枚の紙に描いた小品の絵のことである。作詠時点は作者藤原為頼没年の長徳長徳4年(998)と推計しました。

 

④ 「c屏風という室内の仕切り用の道具の絵と対になるべく詠まれた歌(上記a,bを除く)」の例

『貫之集』には、屏風歌を秋と題して一つの下命に対して秋6首あるいは7首たてまつっている例があります。また春8首の例、合計27首たてまつった例があります。これらのうちの歌はcの要件に該当してしまったものがあると考えられます。

⑤ 「d絵を示され詠めとの下命に応えた歌」に該当する屏風歌

1-01-930 田むらの御時に女房のさぶらひにて御屏風のゑ御覧じけるに、たきおちたりける所おもしろし、これを題にてうたよめとさぶらふ人におほせられければよめる     三条の町

 この歌は、倭絵を題にした一番古い和歌の例として、『和歌大辞典』があげている歌です。作詠時点は文徳天皇の御代(850~858)となります。

日常の(通常の政務もふくめて)場に屏風があったから下命されています。即ち、描かれた絵を題にして詠めと下命できるほど文徳天皇の近くには唐絵にしろ倭絵にしろ屏風には絵が描かれており、画賛した詩や和歌を貼ってある屏風が身近にあったことになります。

 

1-1-294 二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題によめる    なりひら

ちはやぶる神世もきかず竜田河唐紅に水くくるとは

この歌の作詠時点は、876以前:陽成天皇即位以前となります。

「御屏風」が、転居のお祝いなどの行事に用いられたものとすると、この歌は書きつけられ(貼り付けられ)ている可能性があります。詞書は、屏風に書きつけたとなっていないうえに、『古今和歌集』の賀の部の歌でなく巻第五秋下にある歌ですので、今はdの例として示しました。作詠時点は陽成天皇即位以前(876以前)と推計しました。

⑥ また、屏風歌を下級の官人用に詠んだ例もあります。

後撰和歌集』には、詞書に「忠房朝臣つのかみにて、新司はるかたがまうけに屏風てうじて、かのくにの名ある所所をかかせて、さび江という所にかけりける」とあるただみねの歌(1-02-1105歌)があります。

⑦ これらの例歌を作詠時点に並べると、つぎのとおりです。

852年以前 1-1-335歌

850~858間 1-1-930歌

876年以前 1-1-294歌

905年        1-1-357歌

905年以前 1-1-932歌

905年以前 1-1-928歌

998年   1-3-560歌

  朝廷における最初の賀の儀である嵯峨上皇の四十賀が行われた天長2年(825)以前の歌を挙げられませんでした。上皇の賀の規定は律令に規定がないからこそ、公的な賀となったことが特記されているわけです。これに先行して私的な賀の例があり式次第なども検討されたではないでしょうか。

  その時代の屏風歌は明確に記録されていないのではないかと推測します。『古今和歌集』のよみ人しらずの歌を見直さなければなりません。

⑧ 次回は、800年前後の屏風歌の有無を記します。

 ご覧いただき、ありがとうございます。

 <2017/6/19  >