わかたんかこれの日記 700年代のたつたとは

2017/5/25     

 前回、「からころも+たつ 女性往生」と題して記しました。 

 平安時代初期、「からころも」がいろいろの縁語を紡ぎ出しているのを、記しました。

 今回は、「700年代のたつたとは」と題して、初期の「たつた」の検討を記します。

 

1.検討対象

① 「たつたのやま」あるいは「たつたやま」という表記は、「たつた」という土地にある(または、に深い関係のある)「やま」の意であると見ることができます。諸氏は、生駒山地の南端、大和川の北側の山塊としています信貴山の南から大阪府柏原市にまたがる山地一帯の総称として用いられていたのではないかと言われています。今日、その名を冠した山はありません。

「たつた」という名を冠した竜田村が、明治22年以前にあります(現在の斑鳩町に位置します)。また、龍田大社と現在名乗っている神社の地は、明治22年以前には立野村というところであり、竜田村の西南にあたります。諸氏のいう「たつた(の)やま」は、さらにその西側に位置します。

② 「たつた(の)やま」表記の歌は、『萬葉集』からあります。三代集になると、「たつた(の)かは」と「たつたひめ」という表記がみられます。このように「たつた」表記が広がって行く過程に、今検討している1-1-995歌があるので、この歌の作詠時点の前後の期間に、ひろく「たつた」表記された歌の抽出し、「たつたのやま」の意味するところを検討します。

 まず先例を『萬葉集』で確かめ、「ゆふつけとり」表記の検討で対象とした1050年ころまでの「たつた」表記の資料として三代集を採りあげます。

③ 「たつた」表記は、歌の中で句頭以外にも表記されている場合があります。例えば、勅撰集では次のような例があります。

1-09-3301歌  新勅撰和歌集 巻第五 秋歌下  

 秋 秋歌よみ侍りけるに                正三位家隆

   しろたへのゆふつけどりもおもひわびなくやたつたの山のはつしも

4-15-948歌  明日香井和歌集上 仁和寺宮五十首 詠五十首和歌

      秋 十二首 夕紅葉             右兵衛督藤原

   くれかかるゆふつけどりのおりはへてにしきたつたの秋のやまかぜ

 

 今回は、このように句の途中に「たつた」のある歌は、気付いた歌のみ対象に加え、原則は、句頭にある「たつた」表記の歌を検討対象とします。句頭にある「たつた」表記に続いて表記される仮名については、五十音すべてを確認しました。

 

2.『萬葉集』の「たつた」表記の歌

① 「たつた」表記を、『新編国歌大観』所載の『萬葉集』で確かめると、次の表に示すように15首ありました。もう一首「たつたみの」という表記(万葉仮名で「立民乃」)の2-01-2653歌がありましたが、地名あるいは山の名に関係しないのが明らかなので、今考察対象から除外しています(15首に含めていない)。

  表 作詠時点別「たつた」表記の歌一覧(2017/5/19現在)

作詠時点

たつたやま

たつたのやま

たつたひこ

たつたこえ

712以前

2-1-83&起つ

 

 

 

730以前

2-1-881

 

 

 

732以前

 

2-1-976

2-1-1751&起つ

2-1-1753&起つ

2-1-1752

 

736以前

 

2-1-3744

 

 

738以前

2-1-1185

2-1-2215&発つ

2-1-2218

2-1-2298

2-1-2198&裁つ

 

 

 

746以前

 

 

 

2-1-629イ

748以前

2-1-3953&起つ

 

 

 

755以前

2-1-4419

 

 

 

 

 

 

 

 

8首

5首

1首

1首

注1)歌番号等は、『新編国歌大観』による。「629イ」は、629歌の一伝の意で、同書が使用している。

注2)「&起つ」等とは、「たつた」の意に、同音二意の二つ目の意である。一つ目は、共通に「地名とおぼしき名」である。

注3) この15首のほか「たつたみの」(立民乃)とある2-1-2653歌があるが、「地名とおぼしき名」で無いので考察対象から除外している。

 

② 「たつた」表記は、どの歌も地名とおぼしき「たつた」の意があります。さらにほかの意を掛けている歌が6首あります。みな「たつた(の)やま」という表記であり、「たつた(の)やま」に、同音二意を用いていると言えます。

2-1-83歌 ・・・おきつしらなみ たつたやま・・・   「起つ」を掛ける

2-1-3953歌 ・・・わがなはすでに たつたやま ・・・「起つ」を掛ける  

2-1-2215歌 ・・・とくとむすびて たつたやま・・・ 「発つ」を掛ける

2-1-1751歌 ・・・しらくもの たつたのやまの・・・ 「起つ」を掛ける

2-1-1753歌 ・・・しらくもの たつたのやまを・・・  「起つ」を掛ける

2-1-2198歌 ・・・からころも たつたのやまは・・・ 「裁つ」を掛ける

 

③ 「たつた(の)かは」あるいは「たつたひめ」表記の歌はありません。「たつたひこ」は、表にあるように1首ありました。

④ 1-1-995歌と同じように、「からころも」に引き続き「たつた(の)やま」表記のある歌が、1首(2-1-2198歌)あります。

⑤ 句頭にある「たつた」表記を確認していたところ、「たつた」表記がないものの、大和と難波宮の往来に官人が用いていた道の春を、高橋虫麻呂が詠っている歌がありました。諸氏がいう「たつた(の)やま」を越え(あるいは通過し)ている道と思われます。

そのため、当時の「たつたのやま」の実態を検討する材料とすることとします。

⑥ なお、作詠時点は、今までと同様に、2017/3/31の日記に記す推計方法に従っています。

3.『萬葉集』巻九の高橋虫麻呂の歌

① 高橋虫麻呂が、「春三月諸卿大夫等下難波時歌二首幷短歌反歌」と題して4首、また、「難波経宿明日還来之時歌一首合せて短歌」と題して2首詠った歌が、『萬葉集』にあります。2-1-1751歌から2-1-1756歌です。

 前者の作詠時点は、小島憲之・木下正俊・東野治之氏に従うと、高橋虫麻呂の庇護者であった藤原宇合が知造難波宮事として尽力し、その功成った天平4年(732)三月に難波へ下った時点となります。あるいは、その時点の景を後年詠んだ歌かもしれませんが、ここでは、この時点を作詠時点と推計します。

 後者は前者と同一の作者が桜を詠んでいるので、前者と同じ年の歌と推計しました。(記述は推計方法に従い732以前)

② 順に歌を、「たつた」表記を中心に検討します。

「春三月諸卿大夫等下難波時歌二首幷短歌反歌」       高橋虫麻呂

2-1-1751  しらくもの たつたのやま(万葉仮名:竜田山)の たきのうへの をぐらのみねに さきをゐる さくらのはなは・・・

2-1-1752  わがゆきは なぬかはすぎじ たつたひこ(万葉仮名:竜田彦) ゆめこのはなを かぜになちらし

2-1-1753 しらくもの たつたのやま(万葉仮名:立田山)を ゆふぐれに うちこしゆけば たきのうへの さくらのはなは さきたるは ちりすぎにけり・・・

2-1-1754  いとまあらば なづさひわたり むかつをの さくらのはなも をらましものを 

③ 阿蘇瑞枝氏は、『萬葉集全歌講義』において、「1751~1754歌は桜の花を主題とし、題詞の諸卿大夫等下向は歌の本質と関係ない契機に過ぎない。宇合及その周辺の貴族たちに提供された歌であったのだろう」と指摘しています。

④ 2-1-1751歌の「たき」は、大和川の急流を指します。小島憲之・木下正俊・東野治之氏は、「大阪府柏原市峠の亀ノ瀬附近の大和川の急流をいうか」と、指摘しています。

 作者高橋虫麻呂は、難波へと向かう官道が、「大和川の流れをみることができ、山桜が咲いている峰をも近くに見ることができる道である」ということを教えてくれています。その道は「たつたのやま」と称される山塊にあります。

⑤ 2-1-1752歌の「たつたひこ」は、山桜に春風をあてる神かその春風を防ぐことを任務としている神です。「かぜになちらし」と願っているので、後者が妥当ではないでしょうか。

 延喜式巻九の神明帳には、大和国平群郡に竜田比古竜田比女神社二坐とあります。その「竜田比古」を指していません。ペアで祭っている神の一方にのみに祈願するという風習は、聞いたことがありません。

⑥ 2-1-1753歌からは、官道に、青森県奥入瀬の渓谷に沿う道のように、流れにすぐ足を休ませられる道とかうっそうとした木々の木蔭を辿る道というイメージはなく、川の流れを崖下に聞き足元が乾いたしっかりした道、という印象を受けます。

⑦ 2-1-1754歌は、川を挟んで道のある反対の岸にゆくのは簡単ではないことを、難しいのは川を渡ることであることを、示しています。川に流れ込む渓流ではなく道と並行して流れる川(多分大和川)の対岸の山桜をイメージしていると理解できます。

⑧ 「難波経宿明日還来之時歌(難波で一泊し翌日帰って来た時の歌)一首合せて短歌」

2-1-1755歌 

  しまやまを いゆきめぐれる かはそひの をかへのみちゆ きのふこそ わがこえこしか ・・・ をのうへのさくらのはなの・・・きみがみむ そのひまでには やまおろしの かぜなふきそと うちこえて なにおへるもり かざまつりせな  

2-1-1756歌

  いゆきあひの さかのふもとに さきををる さくらのはなを みせむこもがも 

⑨ 2-1-1755歌の「しまやまを いゆきめぐれる かはそひの をかへのみち」を、阿蘇氏は、「島山を行き巡っている川沿いの岡辺の道」と現代語訳しています。

「をかへのみち」とは、「岡へと向かっている道」であり、この歌は、大和国から河内国へ向かう道の道順の景色を表現しています。即ち、「(大和盆地を河内に向かう道は、山にかかり)川に並行した道を、その川に直角の谷の尾根尾根を九十九折に順に辿ってゆく道(山腹を縫うように作られている道)となりそのように山が迫ってきているところを通過すると、川沿いのなだらかな岡にたどり着く道」(を昨日通過して・・・)の意となります。 

⑩ 2-1-1755歌の「なにおへるもり」とは、「名に負へる社」の意であれば、その杜は、神社を囲んである森林を指し、神をまつってある場所を指しています。比喩的にそのまつっている神を指す場合もあります。この時代の社であればこのように形容できる状況が通常です。つまりどこにでもある社です。昭和の時代でも鎮守の杜というのはどこにでもある光景でしたし、今でも同じでしょう。

⑪ 2-1-1755歌の「かざまつりせな」について、阿蘇氏は、「風祭りは、風災を鎮め豊作を祈る祭り。また花を散さないでくれと風に祈る花鎮めの祭りにもいう。ここは、後者。鎮花祭は、大神、狭井二社の祭。春花の飛散する折の疫病を鎮めるための祭りという。」と解説しています。しかし、前者も後者も朝廷が主催する祭であり、作者が「かざまつりせな」と指示できる祭ではありません。疫病退散ではなく花を散さないでという理由で個人的に大神、狭井二社を祭ることをするでしょうか。

 作者の虫麻呂は「たつたのやま」を越えているところです。国堺とか郡堺とか峠とかにまつられている「たむけの神」に祈ったのではないでしょうか。

⑪ 「あふさか」の検討で採りあげた2-1-1022歌には、詞書に「相坂山を越え」とあり、歌に「たむけのやまを けふこえて」とあります。このほか、「あふさか」を越える際には、2-1-3251歌で「あふさかやまに たむけくさ 」と詠い、2-1-3235歌で「あふさかやまに たむけして 」と詠われています。

 「たつたのやま」を越える道にも同じような「たむけの神」がまつられていたと理解してよいと思います。その「たむけの神」に花を散すなと、祈った、ということです。

 2-1-1752歌の「たつたひこ」は、この「たむけの神」であるかもしれません。

⑫ 2-1-1756歌の「いゆきあひの さか」について、『新編日本古典文学全集 7万葉集②』で、小島憲之・木下正俊・東野治之の三氏は、「「い」は接頭語。国境の坂。隣り合った国の境を双方の国の神が同時に出発し、出逢った地点で決めたという「行き逢い坂」の伝説は各地にある。ここは、大和と河内との境にある亀ノ瀬の北の地名峠の辺りをさしたものであろう。」と指摘しています。

 阿蘇氏は、行逢坂がほとんどの場合、山の峠ではなく、一方へ山を降りたところの国境などに偏って存在していることに注目した井出至氏が、(この歌の)「いゆきあひの坂の麓は、竜田の風神が大和側に祀られていることなどを考え合わせて、竜田山の大和側の山麓であった」ものと推定していることを、紹介しています。

⑬ 2-1-1756歌は、2-1-1755歌の反歌です。「かざまつり」という祭を作者がしようとする「たむけの神」が「たつたのやま」を降りきったところに鎮座していたと思われます。人家の無い場所と思われます。

⑭ 高橋虫麻呂のこの6首の歌からは、次のことが読み取れました。

大和国河内国の往来に使用している官道は、山腹を縫うように作られている道であること。

大和国側の山の麓から急坂となること。 そのため並行する川を見下ろす道となること。

・その麓には山桜が咲き誇ること。

・その山桜を愛でるのは旅人であり、山の麓にも集落が無いようであること。

「たつたのやま」という表記は一つのピークではなくこのような官道が通過する山塊を指していること。

⑮ 当時、難波と奈良の都とを結ぶ官道に、竹内峠を通過する道などがありますが、対岸に桜を採りに行きにくい川があるのは大和川に沿った道です。

 これらから、大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側には、山腹を縫うように作られた官道が通過して、その通過する山塊を「たつ(の)やま」と高橋虫麻呂が言っていることが確認できました。このやまは、諸氏が既にいっている山塊と同じです。

 では、2-1-83歌などの作者も、この山塊を「たつた(の)やま」と歌に詠っているかを、次に確認します。

 次回は、引き続き700年代のたつたのやまについて記します。

御覧いただき、ありがとうございます。

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