わかたんかこれの日記 平安初期のあふさか その2

2017/4/27   前回、「平安初期のあふさか その1」と題して記しました。

 今回は、「平安初期のあふさか その2」と題して、記します。

 「あふさか」表記を冠している1050年までの歌で関や山を詠み込んだ歌は、「逢ふ」等を含意する「あふさか」という土地の名にことよせて作者は意を述べていることがわかりました。

 今回は、「あふさか」のその他の景物の描写のある歌や清少納言の関にまつわる歌などを検討し、初期の「ゆふつけとり」表記の歌の理解に資することとします。

 

  1. 平安遷都後の「あふさか」表記36首の考察: しみつ

① 「あふさかのしみつ」表記の歌でも、「あふ」に、「(貴方に)逢う」を掛けて詠まれているかどうかを、確認します。

 検討対象の歌は、次の3首です。

1-01-537歌: 『古今和歌集』 第十一 恋歌一 題しらず     よみ人しらず

    相坂の関にながるるいはし水いはで心に思ひこそすれ  

 作詠時点が850年以前の歌で、相坂の清水を詠んだ最古の歌です。久曽神氏は、「相坂の関」とは、恋しい人に逢う意をほのめかしているのであろう、と指摘しています。障害(関)があっても逢いたいと思う気持ちが途切れることのないことを、いはし水は、象徴しています。

 

1-03-0170歌 『拾遺和歌集』 第三 秋 延喜御時月次御屏風に    つらゆき

    あふさかの関のし水に影見えて今やひくらんもち月のこま

 年中行事である相坂の関で行われる駒引きを詠った歌です。畿内と畿外の堺で、連綿と続く行事(を行う朝廷)の永遠性を寿ぐかのように、絶えることのない「清水」を詠み込んでいます。

 

1-01-1004歌 『古今和歌集』 第十九 雑体 

「ふるうたにくはへてたてまつれるながうた」の反歌        壬生 忠岑

    君が世にあふさか山のいはし水こがくれたりと思ひけるかな

 今上天皇の御代に逢い、作者が感じたその恩徳が世に行き渡る様を、絶えず流れでるという清水で、象徴させている歌です。       

 このほか、「あふさか」表記がないものの「せき」と「しみつ」の表記がある1-2-0801歌もあります。

 

1-2-0801歌 『後撰和歌集』 第十二 恋四 

あひしりて侍りける人の、あふみの方へまかりければ       よみ人しらず

    関こえてあはづのもりのあはずともし水にみえしかげをわするな

 この歌の「せき」表記は「逢う」ための障害の意です。その障害に喩えた相坂の地の清水は尽きることはなく、その水面に映った私の影がいつまでも消えずにあるように、(関まで送っていった)私を忘れないで、と作者は詠っています。

 この歌では、「あふさか」の地にある清水は、「逢う」まで作者の気持ちが尽きることのないことを象徴しています。

② このように、「あふさかのしみつ」表記は、絶えることのないことを象徴しています。相坂の地の清水も、官道を往来または送迎で官人には馴染みのものであったと思われます。

 

2.平安遷都後の「あふさか」表記36首の考察: ゆふつけとり

① 三代集での「あふさかのゆふつけとり」表記の歌5首は、作詠時点順に示すと、次のとおりです。

1-1-536歌 相坂のゆふつけどりもわがごとく人やこひしきねのみなくらむ

1-1-634歌 こひこひてまれにこよひぞ相坂のゆふつけ鳥はなかずもあらなむ

1-1-740歌 相坂のゆふつけ鳥にあらばこそ君がゆききをなくなくも見め

1-2-982歌 関もりがあらたまるてふ相坂のゆふつけ鳥はなきつつぞゆく

1-2-1126歌 相坂のゆふつけになく鳥のねをききとがめずぞ行きすぎにける

 これらの歌すべての「あふ」表記には、「逢ふ」が掛かっています。そして「逢ふ」前の時間帯(当時の常識としては夕べ)に「ゆふつけとり」が鳴いています。それも官道が通過する(関が設けられ山も近い)「あふさか」という(逢ふを掛けることのできる名の)集落近くで、日常的に歌人たち(ほとんどが官人です)が聞くことができていた鳥だから、実際に親しみもあったのでしょうか。

 そして、夕べに鳴くという理解がすべて可能です。

 また、作中の主人公は、鳴く声を、気を引いているかに、聞きなしています。あるいは期待が高まる(はず)と聞いています。

② 三代集以外で、「あふさか」と「ゆふつけ」の表記がある1050年以前の歌が、『新編国歌大観』に2首あります。

 一つが、5-417-21歌。923年以前の作詠時点で、「・・・あふさかの ゆふつけとりの ゆふなきを・・・」と表記されている『平中物語』の歌です。ゆふつけとりが夕方に鳴いています。

 もうひとつが、5-419-672歌。999年以前の作詠時点で、「ほのかにもゆふつけどりときこゆればなほあふさかをちかしと思はん」と詠われている『宇津保物語』の歌です。ゆふつけとりがかすかでも鳴いたのが聞こえたので、逢うことも近いと推理するのは当然でしょうと詠っています。聞いたのは後朝の別れの際に聞いたことでないことがはっきりしているので、明け方が対象外となり、夕べという時間帯が有力となります。少なくともこの歌も夕べに鳴くことを否定できていません。

 この2首も「あふさか」で鳥が「なく」ことに意味があり、それも夕べが有力な時間帯です。

③ 「夕べ」とは、日が落ちてゆき訪れた夕闇の空に、それまで見えなかった星がひとつまたひとつと見えてくるころ合いです。続々と星が見えて来ることは、逢いたい人との距離がどんどん縮まっていることを予感させたのではないでしょうか。夕べとは、特に星がみえる夕べとは、人と逢う・逢えることの期待感を膨らましてよい、星がみえることは予祝でもある、と感じ取っていたのではないでしょうか。

④ 1050年以前に作詠された「あふさか」表記の歌35首(景物でカウントすると36首)の、「あふさか」には「逢ふ」が含意されていることが確認できました。そのため歌人、「あふさかのゆふつけとり」という表記ならば、「逢ふ」を含意する「あふさか」の地の鳥であり、官道が通過する地であるので往来する官人もよく聞いた鳥で夕べによく鳴く鳥というイメージを共通にしている思われます。  

⑤ 鳥の種類は次回検討します。

⑥ この時代、「あふさか」表記のない、単に「ゆふつけとり」という表記だけの歌は、「あふさかのゆふつけとり」の略称か、あるいは「逢ふ」を含意する「あふさか」という表現を積極的に作者が避けたかという推測が成り立ちます。

3.三代集以外の歌集等での「あふさかのゆふつけとり」など

① 今、最古の「ゆふつけとり」表記を理解するには、『古今和歌集』成立時点の前後150年程度の期間(750~1050年)の検討を要するとして作業をしています。

② この間に詠まれた歌で「あふさかのゆふつけとり」関連の歌を広く探すと、先の2首のほか、清少納言の歌が、勅撰集に1首あります。

 この歌は、函谷関の故事(鶏鳴の空音で、開門が早まり関を通過でき、つまり目的を達成した)が、相坂の関(鳥が鳴いたので貴方と逢える)に通用しない、と詠っています。鳥は、函谷関の故事にならうと、夜が明けたことを鳴いて知らせるという鶏となります。いままで検討してきた結果の夕べに鳴く鳥では、ありません。

 

1-4-939歌 『後拾遺和歌集』 巻第十六 雑二 

 大納言行成ものがたりなどし侍りけるにうちの御物忌にこもればとていそぎかへりてつとめてとりのこゑにもよほされてといひおこせて侍りければ、よぶかかりけるとりのこゑは函谷関のことにやといひにつかはしたりけるをたちかへりこれはあふさかのせきにはべりとあればよみはべりける    清少納言

    よをこめてとりのそらねにはかるともよにあふさかのせきはゆるさじ

 この歌は、長徳4年(998)か翌年頃のことと諸氏が指摘しています。作詠時点を、今999年以前と、推計します。 小倉百人一首にあり、『枕草子』にある話です(池田亀鑑氏校訂岩波文庫版136段)。その『枕草子』には、返歌が記されています。

    返歌                     行成

    逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか

 作者行成は、鳥ではなく、関で返事をしました。函谷関と違い、官道に設けられた相坂の関は通行自由だったのが実態だったようで、「よりによって相坂の関にかこつけて断るのはおかしいではないか(心にもない断りですね)」と、揶揄しています。

 なお、『後拾遺和歌集』と『枕草子』を比較すると、「とり」と言う表現は同じですが、「函谷関のことにや」と言う表現が『枕草子』では、「孟嘗君のにや」(能因本の『枕草子』では「孟嘗君のかや」)という表現になっています。

 『後拾遺和歌集』によれば、行成が昨夜退席した理由を「夜深かかりけるとりのこゑ」にせき立てられてと事実ではないことを承知で言ってきたので、清少納言は「その鳥は函谷関の鳥ですか。空鳴きの鶏ですね(嘘は言わないで。貴方が逃げ出したのでしたね)」と返事をしています。行成に、折り返し「相坂の鶏」ですと返されたので、この歌を返したしたところ、行成の返歌がありました。

このやり取りの時点は、1-10-821歌が既に披露された後ですが、清少納言は、相坂と「夜明け前の鶏」の関係を知らなかったのです。知っていれば、「夜深かかりけるとりのこゑ」から函谷関ではなく直ちに1-10-821歌も思い浮かべて(「また逢ふ」あるいは「後朝の別れ」などに喩えた)返事をしたためたでしょう。「また、中宮定子様のサロンにきてくださいな」という返事です。

 行成は、最初の書面で鳥を記しました。関の話題としたのは清少納言です。和歌に関する知識の差が明らかです。勅撰集入集は行成が9首、清少納言はこの1首です。

 『枕草子』によれば、返歌があった後「返しもえせずなりにき。いとわろし。」と中宮定子側の評価を清少納言は記し、行成が前日からこの歌の後までの一連のやり取りを楽しく源経房などに披露したという伝聞も紹介しています。当時においても、相坂と(夕べのゆふつけ鳥ではなく)「夜明け前の鶏」の関係の認識は、まだ一部の者に限られていたことの例証であります。

 行成は、詳細を極める日記「権記」が著名で、平安中期の政情・貴族の日常を記録したことで重要視されており、能吏として寛弘四納言の一に列し、当代の能書家として三蹟の一人に数えられています。中宮定子との良き関係は保っていたい者のひとりであります。

② ちなみに、『枕草子』では、鶏への言及は115段だけのようです。

1段(「春は曙・・・」)で、秋について「夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすの寝所へ行くとて、三四、二みつなど、とびいそぐさへあはれなり」と記し、鳴き声より視覚に訴える鳥を挙げています。

41段(「鳥は、・・・」)で、おふむから始まり、ほととぎす、くひな・・・うぐひす・・・とありますが、鶏にへの言及はありません。

72段(夜烏どものゐて・・・「」)では、「木づたひて、寝起きたる声に鳴きたるこそ・・・」、また、73段(「しのびたる所にありては・・・」)では、「(夏夜通し起きていて)ただゐたる上より烏のたかく鳴きて・・・」、と夜明け前の烏の鳴き声を描写しています。

115段(「つねよりことにきこゆるもの・・・」で、元旦の「鳥の声」を挙げています。これは時を告げる鶏鳴を指しています。

③ 詩文では、関と鶏の取り合わせの歌が詠まれている例があります。

例えば、弘仁9年(818)成立という勅撰漢詩集『文華秀麗集』には、函谷関を脱出した孟嘗君の故事を踏まえた詩である「故関聴鶏」などがあります。

また、長和元年(1012)4月頃成立されたとされている『和漢朗詠集』には、題に「鶏」は無く、「暁」の題で「・・・函谷に鶏鳴く」、擣衣の題で「・・・夜夜幽声到暁鶏」とあるのみです。勿論「ゆふつけとり」という用語の例もなく、国内の関と鶏を取り合わせた詩文もありませんでした。

函谷関の故事から「ゆふつけとり」という表記は生じなかった、と言えます。

④ 1050年までに成立した類題和歌集があります。976~982年頃成立という『古今和歌六帖』です。この和歌集は、「ゆふつけとり」を詠む歌を第二帖「宅」の項目の「にはとり」の項に分類しています。平安中期において鶏の別称と歌人たちが認めていたことは間違いありません。第六帖「鳥」の項目には「とり」「つる」「ほととぎす」などが立項されています。なお、この歌集は、943年以前に詠まれた1-10-821歌の後に成立した歌集です。

 『古今和歌六帖』記載の、「ゆふつけとり」表記の歌は、次の3首です。『新編国歌大観』記載の勅撰集に重複している歌があるので、その歌(この日記でいう代表歌)で示すと、

 1-1-634歌 849年以前の作詠と推計したよみ人しらずの歌。

 1-1-740歌 890年以降の作詠で 閑院。

1-1-995歌 作詠時点と作者が634歌と同じ。

 「あふさか」という形容を除けて『古今和歌六帖』は記載しています。

⑤  成立時点が天永2年(1111)~永久3年(1115)の間と言われている『俊頼髄脳』があります。検討の期間後の成立ですので、検討を割愛します。

⑥ 話題を、「あふさか」に戻します。詩文に「相坂」の文字はなく、三代集等に残された和歌では上にみてきたとおりです。

三代集の歌人たちは、「あふさか」には、「逢ふ」あるいは「別れそして再会」のイメージがついて回ることを前提として、関(障害)、山(乗り越える対象)、清水(絶えないこと)及びゆふつけ鳥の鳴き声(期待の高まり、1-10821歌以後は特に再会への期待)のイメージを歌人は共有しています。また、その共有のうえで、「相坂のゆふつけ鳥」の略称としての「ゆふつけ鳥」も生まれたと理解できます。

⑦ 次回は、「ゆふつけとり」と「あふさかのゆふつけとり」に関して記します。

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