わかたんかこれ  猿丸集の部立てと歌群の推測 その1 最初の3首

前回(2020/5/18)、 「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ」と題して記しました。

今回 「わかたんかこれ 猿丸集の部立てと歌群の推測 その1 最初は3首」と題して記します(上村 朋)。

 

1.『猿丸集』は歌群設定されているか 

① 2回にわたり、『猿丸集』の最初の2首と最後の2首の歌の現代語訳を再確認し比較検討した結果、最初の2首は歌集の序を、最後の2首は後記として編纂者の希望を含意した歌でもある、と推測しました。残りの48首も一定の方針で編纂されている可能性を示唆した4首でした。

② この4首の検討を踏まえて歌集すべての歌52首を対象に、歌群あるいは部立ての想定を、勅撰集と同様に試み、その編纂方針検討に資するものとします。

③ これは、歌集全体の配列から、これまでの『猿丸集』各歌の現代語訳(試案)をチェックしようとする作業でもあります。

 

2.歌群の想定方法

① 『猿丸集』は、歌群設定がされている、という仮説をたて、歌群を想定します。② 『猿丸集』の理解は、2020/5/11現在の理解、即ち巻頭歌の新訳などを含む現代語訳(試案)とします(付記1.参照)。

③ 『古今和歌集』などで試みてきたように、部立て、詞書、歌意、前後の歌との関係及び作者の立場などより歌群の想定をします。前後の歌との関係は、詞書や歌本文に用いられている語句、景や類推した主題などを参考に確認します。

④ 想定する歌群は1案とします。詞書からの部立て推定作業で、『猿丸集』歌はほぼ恋歌となりましたので、恋歌にある歌群を最初に模索します。その想定にあたり障害となる事柄(想定した歌群の視点から生じた当該歌の疑問点)がある場合は、その指摘にとどめ、それが解消するものとして想定します。その後解消の検討を行うこととします。

⑤ 想定した結果を、13首ずつの表(表1~表4)にして示します。上記の障害となる事柄(疑念)は、「(・・・?)」という表記で表に示します。なお後半の26首の表は次回に記します。

 

3.歌群の想定

① 想定した歌群(案)は、上記の障害となる事柄(疑念)を残して次のようになりました。

 

第一 相手を礼讃する歌群:3-4-1歌~3-4-3歌 (3首 詞書2題) 

     この歌群は歌集の序ともとれる内容の歌群である。

第二 逢わない相手を怨む歌群:3-4-4歌~3-4-9歌 (6首 詞書5題)

第三 訪れを待つ歌群:3-4-10歌~3-4-11歌 (2首 詞書2題)

第四 あうことがかなわぬ歌群:3-4-12歌~3-4-18歌 (7首 詞書4題)

第五 逆境の歌群:3-4-19歌~3-4-26歌 (8首 詞書3題)

第六 逆境深まる歌群:3-4-27歌~3-4-28歌 (2首 詞書2題)

第七 乗り越える歌群:3-4-29歌~3-4-32歌 (4首 詞書3題)

第八 もどかしい進展の歌群:3-4-33歌~3-4-36歌 (4首 詞書4題)

第九 破局覚悟の歌群:3-4-37歌~3-4-41歌 (5首 詞書2題)

第十 再びチャレンジの歌群:3-4-42歌~3-4-46歌 (5首 詞書4題)

第十一 期待をつなぐ歌群:3-4-47歌~3-4-49歌 (3首 詞書2題)

第十二 今後に期待する歌群:3-4-50歌~3-4-52歌 (3首 詞書2題)

      この歌群は、歌集編纂者の後記とも思える歌群である。

② 『猿丸集』全52首の歌に「題しらず」の歌がなく、詞書が十分参考とすることでき、想定した歌群(案)は、男である作者が、男と思われる相手におくる歌とみなせる最初の3首を除き、3-4-4歌以下の歌は恋歌の部の恋の進行順にネーミングした歌群の配列となりました。

③ 上記の障害となる事柄(疑念)のある歌は、次のように、『猿丸集』前半26首では6首あります。その解消案を下記に記します。残りの26首に関しては次回に記します。

3-4-3歌 (疑念は)作者の性別

3-4-6歌 (疑念は)歌意など

3-4-7歌 (疑念は)歌意など

3-4-9歌 (疑念は)詞書の意と歌意など

3-4-12歌 (疑念は)歌意など

3-4-18歌 (疑念は)作者の性別、歌意など

3-4-21歌 (疑念は)歌意など

 

表1 2020/5/11 現在の現代語訳(試案)に対する『猿丸集』各歌の歌群想定(案)(1~13歌)            

(2020/5/25 現在)

歌番号等

作者と相手の性別と歌区分

類似歌の歌番号等

『猿丸集』歌の歌意

詞書でのポイントの語句

歌本文でのポイントの語句

想定した歌群(案)

共通の語句・景

3-4-1

男→男

 返歌

2-1-284

ふみに記された所説を知らしめる偈の賛歌

ものよりきて&

ふみ*

きみこそみえめ

相手を礼讃する歌&歌集の序を兼ねる歌

ふみ*

あひしりたりける人

(はぎ)はら

3-4-2

男→男

 返歌

2-1-572

紫草に覆われた野原は関心を呼ぶと詠う賛歌

同上

むらさきの&しむ

同上

ふみ*

あひしりたりける人

(むらさき)の

3-4-3

女(男か?)→男

 往歌

1-1-711

あらためて男に感謝している歌

 

さすがに&うらみて

 

こと(にして)*

同上

あひしりたり(あだなり)ける人

(月くさ)の

3-4-4

女→男

 往歌

2-1-1471 

訪れない男への嫌味をいう歌

ほととぎす

 

しかなくこゑ

逢わない相手を怨む

ほととぎす

さと

3-4-5

男→女

 往歌

2-1-3070の一伝

女々しい男の述懐の歌

いれたりける

かねて

同上

 

くさ

(いもが)かど

3-4-6

男→女

 往歌

2-1-2717の一伝

噂のたった女を慰める歌(怒っている歌か?)

なたちける

な(のみ)*&こひ(わたる)

同上

 

しながどり

なたつ

3-4-7

男→女

 往歌

1-3-586&

『神楽歌』41

富士山の噴火を例として、女を慰める歌(女に怒っている歌か?)

同上

 

ゐなのふじはら*

&を*

同上

 

しながどり

なたつ

3-4-8

女→男  往歌

2-1-293

2-1-1767

来訪の途絶えているのを嘆く歌

やまがくれ

 

ひとりともしも

同上

3-4-9

男→女 往歌

2-1-2878

女を詰問する歌(詞書の理解は?)

いか&有りけむ

ひとまつを&いふはたがこと

同上

すがのね

3-4-10

女→男 往歌

2-1-1538

母となった女の来訪を促す歌

をみなへし

(あきはぎ)てをれ

訪れを待つ

 

をおみなへし

 

3-4-11

男→女 往歌

2-1-1613

慕うのは、親の説教でも変わっていないと詠う歌

しか

 

しかも&ぎしのぎ

 

同上

 

しか

3-4-12

男→女

往歌

2-1-1967

訪問が叶わなかった翌朝女に不満を言った歌(語句の理解?)

 

いもにもあはで

あうことかなわず

たまくしげ

3-4-13

男→女

往歌

2-1-2998

自分でも驚くほど女に強く懸想したと詠う歌

おもひかく

 

より(にけるかも)

同上

あづさゆみ

きみ

注1)『猿丸集』の歌番号等:『新編国歌大観』の「巻数―その巻の歌集番号―その歌集での番号」

注2)作者と相手の性別と歌区分:立場(性別)は詞書と歌からの推計。歌区分は発信(往歌)と返事(返歌)の区分。

注3)類似歌の歌番号:類似歌の『新編国歌大観』による歌番号等。

注4)「(・・・?)」:想定した歌群を前提とした場合、当該現代語訳(試案)にある障害となる事柄(疑念)

注5)「*」:語句の注記。以下の通り。

 3-4-1歌および3-4-2歌:「ふみ」に、『猿丸集』の暗喩がある

 3-4-3歌:二句の「こと」は「事」。 五句の「こと(にして)」は「殊(に)」(別格の意)。

 3-4-6歌:「な(のみ)」は儺。儺やらい・追儺(ついな)という邪気払いの儀式において追い払う悪鬼。

 3-4-7歌:a富士山の貞観の大噴火(864年~866年。北麓にあった広大な湖の大半を埋没させた。溶岩流の上が後年青木ヶ原樹海となる)は割れ目噴火。

b「を」は男(作者)。

注6)『神楽歌』:『新編日本古典文学大系42 神楽歌催馬楽梁塵秘抄閑吟集』記載の『神楽歌』。番号は『神楽歌』において『新編日本古典文学大系42』が付した歌番号。

 

表2 2020/5/11 現在の現代語訳(試案)に対する『猿丸集』各歌の歌群想定(案)(14~26歌)

                                                     (2020/5/25 現在)

歌番号等

作者と相手の性別と歌区分

類似歌の歌番号等

丸集』の歌の歌意

詞書でのポイントの語句

歌本文でのポイントの語句

想定した歌群(案)

共通の語句・景

3-4-14

男→女

往歌

2-1-498

強く懸想した男が思いを遂げたいと訴えた歌

おもひかく

 

わがままにして

あうことかなわず

まま*

3-4-15

男→男

往歌

2-1-2642&

2-1-2506

ますかがみに立ち現れないと相手が遠ざかったことを嘆く歌

かたらひける人

 

こひ(わぶ)

同上

 

ますかがみ*

 

3-4-16

男→男

往歌

2-1-1934&

2-1-1283

妹の相手の男の約束不履行をやんわりなじっている歌

同上

(いもにあはぬ)かも

同上

 

なのりそのはな

3-4-17

男→男

往歌

1-1-760

「妹」が相手に懇願する歌を代作した歌

同上

 

こひ(こそ)&おも(ひそめけん)

同上

みなせがは

3-4-18

男(女?)→男

往歌

2-1-786&

2-1-1905

今年も除目のなかったことを嘆いている歌(恋の歌?)

わざとしもなくて

した(ゆたふ)

同上

はふくず

3-4-19

女→男

往歌

 

2-1-3005

賭け事の魔性に惹かれてしまうと詠む歌

いみじきを

たまだ(すき)*&かけ(ねばくるし・たれば)

逆境の歌

たまだすき

 

3-4-20

女→男

往歌

1-1-490

親は無駄な願いをするもの、と詠う歌

同上

 

こひ

同上

 

をかべのまつ

 

3-4-21

男→不明(男?)

往歌

 

2-1-3683

(2-1-869歌を知るか?)

強風の景を天女の動きに例えた歌(逆境を予告か?)

ある(をみて)

 

(あまをとめごが)も

 

同上

 

(よせくる)なみ

 

3-4-22

男→女

往歌

 

2-1-3749&

1-3-872

作者のために親どもとのいさかいに苦しむ女を思いやる歌

いみじういふ

ちりひじ

同上

 

ちりひじ

 

3-4-23

男→女

往歌

 

2-1-122

今は逢うことがかなわない熱愛の相手を慰めている歌

同上

 

いづるみなと

同上

 

おほぶね

3-4-24

男→女

往歌

 

2-1-439

逢えない状況でも愛は変わらないと女に訴えている歌

同上

 

ひとごとの

 

同上

たま

3-4-25

男→女

往歌

 

2-1-120

相手の女が作者を愛しているのを信じている、と訴える歌

同上

こひてあるずは

同上

あさぎり

3-4-26

男→女

往歌

 

2-1-2354

毎晩逢いたいけど周囲の事情から我慢の時だと恋人に訴える歌

同上

よなよなこひは*

同上

やました風

  • 表1の注参照。
  • 「*」:語句の注記。以下の通り。

3-4-14歌:「まま」は、「儘・随」。「思い通りであること・事実のとおりであること」の意。

3-4-15歌:「ますかがみ」は、霊魂を行き来させるドアだから、作中人物と相手が近くにあってもよい譬え。

3-4-19歌:「たまだ」は、接頭語「玉」+名詞「攤(だ)」(賭け事遊びの一種)。

3-4-26歌:四句「よなよなこひは」は、「夜ごとの私の願いは」。

    第三者に起因して逢えない状況が依然として続いていることを示している。

 

4.想定歌群の検討その1

① 歌群(案)の想定にあたり、障害となる事柄(想定した歌群の視点から生じた当該歌の疑問点)を解明します。次いで、第一と第十二の歌群の特異性の可否、類似歌の影響等を検討します。

② 『猿丸集』の前半部(3-4-1歌~3-4-26歌)にある、歌群想定にあたり障害となった事柄(想定した歌群の視点から生じた当該歌の疑問点)がある歌6首は、以下のように解消の目途がたちました。

③ 3-4-1歌と3-4-2歌は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその1」(2020/5/4付け)及びブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2」(2020/5/11付け)で「ふみ」に関する歌と理解したところですが、次の歌3-4-3歌の配列を検討し、「相手を礼讃する歌群」という名前にしました。

3-4-1歌は、「あひしりたりける人」のもたらした「ふみ」に記された所説を知らしめる偈の賛歌です。それは「あひしりたりける人」を尊敬していることになり、歌では「はぎはら」(「ふみ」を暗示か)を詠っています。次の3-4-2歌は、「巻頭第2歌の新訳」(付記1.参照)で「むらさきの」を詠い、それは「ふみ」を暗示しているかにみえます。この歌も間接的にそれをもたらした人を尊敬していることになります。

④ 3-4-3歌は、前後の歌とともに歌意を再確認した結果、最初の歌群「相手を礼讃する歌群」の3番目の歌とみるのが妥当となりました。

 この3-4-3歌は、「あだなりける人」に感謝しています。形容動詞「あだなり」は「こころもとない」意のほかに「粗略である・無益である」の意もありました(ブログ「わかたんかこれ第3歌 仮名書きでは同じでも」(2018/2/19付け)では同音異議の語句としての検討を失念していました)。

 そして「人」とは、特定の人物や自明の人物などを直接名指すことを避けている表現であり、恋人に限らず用いられている語句です。そうすると、「あだなりける人」とは、「異体歌の歌であるのに研究対象にしている人、とか粗略な論で歌の解釈をする人」の意ともなり得ます。また、3-4-1歌と3-4-2歌の詞書にある「あひしりたりける人」と同一人物を指すとみることが可能です。

 そのため、3-4-3歌の作者は男であり、「ふみ」を「いかがみる」と差し出した人物を評価している歌、となります。現代語訳は細部を見直す必要があるかもしれませんが、歌意は、ほぼ変わらないままで、この「相手を礼讃する歌群」の歌とみなせます。

 3-4-4歌からは、恋の歌、それも相手を怨む歌であり、3-4-3歌の感謝の意の歌とは、ベクトルが反対です。このため、3-4-3歌は配列からは3-4-1歌と3-4-2歌と同一の歌群にある歌とみなせます。

⑤ 3-4-6歌は、その詞書の文章は「なたちける女のもとに」だけであり、作者の感情は記されていません。作詠の動機も記されているようにはみえまません。現代語訳(試案)では、慰める歌と理解しましたが、揶揄している歌とも怒っている歌とも理解可能です。そのため、「逢わない相手を怨む歌群」にある歌となり得ることになります。

ただし、同じ詞書のもとにある3-4-7歌と同じベクトルの歌であることが条件です。なお、現代語訳(試案)は、少々訂正をしたほうが良いことになります。

⑥ 3-4-7歌も、詞書は「なたちける女のもとに」だけです。四句の「を」は名詞「男」、五句の「いろ」は「(作者の)態度」と理解し、相手を慰める歌として現代語訳(試案)を得ました。

 その現代語訳(試案)で「逢わない相手を怨む歌群」にあることを意識すれば、怒り心頭の歌に変わり得ます。(試案)の細部の訂正はあるものの、3-4-6歌とともに同じベクトルの歌として「逢わない相手を怨む歌群」にある歌となり得ます。

⑦ 3-4-9歌は、その詞書の現代語訳(試案)が「どのような事情のあった時であったか、女のところに(おくった歌)」となりました。しかし、3-4-6歌の詞書や単に「女のもとに」とある3-4-12歌の詞書と比較すると、詞書にある「いかなりけるをりにか」と言う語句の理解に物足りない点があります。同音異義の「いか」と言う語句の確認を怠っていました。

 「いか」は、「五十日(いか)の祝い」の略称でもあります。詞書「いかなるをりにか有りけむ、女のもとに」とは、「五十日の祝いをした折にであったか、女のもとに(おくった歌)」、とも理解可能です。「五十日の祝い」とは、子供が生まれて50日目に行う祝いであり、父または外祖父などが箸で餅を赤子の口へ含ませる儀式です。

 そうすると、歌の初句にある「人(まつ)」とは自明の人物を直接名指ししない言い方であり、その祝いの儀式の主人公である赤子を指すか、その場で名指しされた人物を指しているのではないか、と想像できます。三句「すがのね」が「乱る」にかかる枕詞でもあるので、作者は祖父とすると、例えば、

 「(この子はもう)人を待つ、と言われるのは誰のお言葉ですか、すがのねのように赤子の紐がほどけてきた(などと、)と言うのは、誰のお言葉ですか。(私は長く待てないのに。)」

と理解すると、睦言の歌ではなく、きつい詰問調でもありませんが、「逢わない相手を怨む歌群」(3-4-4歌~3-4-9歌)の最後に配列されている違和感はだいぶ薄まります。

 この歌の前に配列してある3-4-8歌は、待ち人来たらずで女性が一人で一晩過ごすのを嘆いている歌であり、この歌は、会話をするまで待つとしても何年か先という長期間は、寂しいですよ、となります。3-4-10歌は、女が男に訪れを促している歌であり、3-4-9歌と歌群は別になってよい、と思います。

⑧ 3-4-12歌の詞書は、歌をおくった人の性別が分るだけですが、作者が男であることも容易に推測できる文章です。現代語訳(試案)の検討時、二句にある「あけまくをしき」の「あく」の理解が不十分でした。初句「あけまくをしき」は「開く」や「明く」の枕詞ですが「飽く」の枕詞ではありませんので、上句は、「関係改善ができる機会となるはずの夜」という意に修正をしたいと思います。その意でも、「あうことかなわずの歌群」の歌になり得ます。

⑨ 3-4-18歌は、詞書にある「あひしれりける人」を現代語訳(試案)では男と思い込んでいるのですが、詞書の文章は、女が作者であることを否定しているものではありません。この詞書と一つ前の詞書とが時系列の順に編纂者がならべたのであるならば、歌の「をととしも・・・」は、一つ前の詞書の返歌がない期間を(大袈裟ですが)示していることになります。それならば、この歌は恋の歌となり得ます。ただし現代語訳は細部が変わるところがあるかもしれません。

 3-4-19歌の詞書は女を「おやどもがせいす」としており、女の置かれている立場がこの歌と異なりますので、3-4-18歌と3-4-19歌は別の歌群に属する、と思えます。

⑩ 3-4-21歌は、「強風の景を天女の動きに例えた歌」です。この歌の前後の歌をみると、3-4-19歌は「賭け事の魔性に惹かれてしまうと詠む歌」であり、大人なのに自制できないでいるという(少なくとも)順調な環境における歌ではありません。3-4-20歌は、「親は無駄な願いをするもの、と詠う歌」、3-4-22歌は、「作者のために親どもとのいさかいに苦しむ女を思いやる歌」であり、作者は順調な環境になく、3-4-23歌も女を慰めるしかない、という状況での歌です。

 このように、前後の歌は、順調な環境ではなく逆境にある作者の歌であり、その間に配列されている3-4-21歌も、現代語訳(試案)は、強い風で「あまをとめご」が苦労していると作者が詠んでおり、逆境に「あまをとめご」がいるのを詠んでいるとも理解できます。現代語訳(試案)はこのままでも、「逆境の歌群」の歌となります。

⑪ このように、『猿丸集』の前半26首における、障害となる事柄(疑念)のある歌は、想定した歌群を否定しないでその疑念の解消が可能となりました。

 想定した歌群は、前半26首においては、矛盾の少ない歌群の連続である、と思います。

⑫ また、連続する歌で共通の語句・景の有無をみてみました(表の「共通の語句・景」欄)が、『猿丸集』の前半26首では3首連続している語句はなく、語句のつながりも不明でした。

⑬ 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。次回は、後半の26首の歌群を検討します。

(2020/5/25   上村 朋)

付記1.想定作業の前提である『猿丸集』の理解について

① 『猿丸集』の理解は、「2020/5/11現在の理解、即ち巻頭歌の新訳などを含む現代語訳(試案)」とします。

② 具体には、次のブログに当該歌の現代語訳(試案)を記しています。

  3-4-1歌~3-4-2歌:最終的に、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその1 いひたりける」(2020/5/11付け)及びブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ」(2020/5/18付け)に記す現代語訳(案)。即ち「巻頭歌詞書の新訳」、「巻頭歌本文の新訳」及び「巻頭第2歌の新訳」という現代語訳(案)。

  3-4-3歌~3-4-50歌:2018/2/19付けのブログ「わかたんかこれ 猿丸集第3歌 仮名書きでは同じでも」から、2019/9/30付けのブログ「わかたんかこれ 猿丸集第50歌 みぬひとのため」に記す現代語訳(案)。(3-4-**歌の現代語訳(試案))。例えば、3-4-9歌の現代語訳(試案)はブログ「わかたんかこれ 猿丸集第9歌 たがこと」(2018/4/2付け)に記載があります。

  3-4-51歌~3-4-52歌:最終的に、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ」(2020/5/18付け)に記す現代語訳(案)。即ち「3-4-51歌の現代語訳(試案)」と「掉尾前51歌の新解釈」及び「3-4-52歌の現代語訳(試案)」と「掉尾52歌の新解釈」という現代語訳(案)。

(付記終わり 2020/5/25  上村 朋)

 

わかたんかこれ  猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ

 前回(2020/5/11)、「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその1 いひたりける」と題して記しました。

 今回 「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ」と題して記します(上村 朋)。

 

1.~5.承前

(『猿丸集』の編纂方針を推測する方法のひとつとして、歌集の巻頭歌と最後の歌(掉尾の歌)を一組の歌とみることが出来るか検討をする。『猿丸集』の歌と当該類似歌は特定の同音異義の語句の意を異にしていること等を再確認し、詞書を共通にする3-4-1歌と3-4-2歌の新たな現代語訳(巻頭歌詞書の新訳と巻頭歌本文の新訳と巻頭第2歌の新訳)を得た。その新訳は、詞書にある「ふみ」(書き付け)について詠っており、両歌は、詞書とあわせて、歌集の特色を示唆し、歌集の編纂の意図を示す「この歌集の序」になり得る内容である、と推測できた。)

 

6.最後の歌3-4-52歌

① 次に、最後の歌(掉尾の歌)を検討することとし、『新編国歌大観』から引用します。

3-4-52歌  やまにはな見にまかりてよめる(3-4-51歌に同じ)

    こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

 

② 3-4-52歌について現代語訳(試案)を、2019/11/4付けブログより引用します(付記1.参照)。

3-4-52歌 

 建物と建物の間のところにゆき、桜の花を見て、(その後に)詠んだ(歌)

「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」

 

  現代語訳(試案)について、注記をします。

A 詞書にある「やま」には、(花が咲いている山とかという)特段の形容がありません。

B 詞書にある「やま」とは、「屋間」(建物と建物の間)です。屋敷に(手引きを得たりして)入り込んだ、という想定ができます。

C 詞書にある「はな」とは、同じ詞書のもとにある歌3-4-51歌の検討の際、女性を暗喩している、と推測し、この歌でもそのように推測できました。

D 詞書にある「みゆ」とは、「物が目にうつる・見える」と理解しました。このほか、「(人が)姿をみせる・現れる」、「人に見えるようにする」とか「妻になる・嫁ぐ」の意があります(『例解古語辞典』)。

E 歌の初句にある「こむよ」の「こ」は、動詞「来」の未然形であり、「来」とは、目的地に自分がいる立場でいう「行く」の意です。

F 歌の初句にある「こむよ」の「よ」とは、「夜」です。

G この歌は、いつか来訪できるようにとおだやかに粘り強く願っている恋の歌です。

 

7.同じ詞書のもとの歌3-4-51歌の再検討

① 同じ詞書のもとにある歌が、直前にありまので、3-4-52歌の検討前に確認しておきます。

3-4-51歌  (3-4-52歌に同じ(やまにはな見にまかりてよめる))

            をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ

② 3-4-51歌について現代語訳(試案)を、同じ詞書の歌である3-4-52歌との整合を検討した2019/11/4付けブログより引用します(付記1.参照)。

   3-4-51歌 (詞書は割愛)

   「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならば手放すのには忍びないものにも思われるよ、桜の花は。だから、さあ、ここに宿をかりて、散るまで(近付きを得るまで)じっと見定めよう。(貴方との仲をじっくりと育てよう。)」

  現代語訳(試案)について、注記をします。

A 詞書の注記は、3-4-52歌の注記(上記6.② A~D)を参照ください。

B 歌の二句「をしげなるかな」とは、作者の感慨です。

C 歌の三句「さくらばな」とは、未婚の女性(あるいは単に作者が思いを寄せる女)を暗喩しています。

③ 3-4-1歌に準じて、3-4-51歌の現代語訳(試案)を再検討します。

  3-4-1歌と同じように、同音異議の語句の類を確認します。

 第一 二句「をしげなるかな」とは、「作者の思い」であり、類似歌(1-1-65歌)での「をしげにもあるかな」とは「桜の思い」の意です。

 第二 五句にある係助詞「(ちるまで)も」は、類似歌にある係助詞「(ちるまで)は」と意が異なります。

係助詞「は」は、この歌で「他と対比して限定する気持ちを加えていい立て」(『例解古語辞典』)ています。

係助詞「も」は、類似歌で「類似の事態の一つとして提示する意を表し」(同上)ています。

 この歌は、「折る」と詠い、特定の一本の桜木(特定の一つ)が咲いている状況に注目して詠んでおり、類似歌は、山に咲く複数の桜(それも『古今和歌集』の配列からみれば散り始め)を詠んでいます。(2019/10/17付けのブログでは、この歌は「ちるまでも」で「ほかの楽しみとともに散るまでの間を(見よう)」の、意。類似歌は「ちるまでは」で、花の散ることだけを、強調していると指摘したところです。)

④ この2点から、詞書にある「はな」及び歌にある「さくらばな」が、山に咲いている複数の桜を指すのではなく山の中の特定の桜であり、散り始めに限定されていないのではないか、と推測できます。

 そうすると、『猿丸集』歌は、類似歌と異なる意の歌となっていた3-4-50歌までの延長上に、この2首もあるとみて、類似歌は『古今和歌集』巻第一春歌上にあるので、この歌は、桜が女性を意味する恋の部の歌と考えられます。

⑤ このため、上記の現代語訳(試案)は妥当な訳である、と思います。

 

8.最後の歌3-4-52歌の再検討

① 次に、3-4-52歌における同音異議の語句を、3-4-1歌の場合に準じて再検討します。

 第一 詞書にある「やま」とは、「屋間」、つまり「建物と建物の間(の空間)」と理解しました。このほか、一般的な「山」もあり、夕方の牛車での出来事を詠う3-4-28歌では、「やま(のかげ)」が、「(牛車の車の)「輻(や)の間(にみえる鹿毛(かげ・馬)(と騎乗の人物)によってできた蔭)」、即ち、「夕日でできた随伴している乗馬の官人の影(が乗馬の影とともに伸びてきた)」の意でした。「輻(や)」とは、「轂(こしき)」とまわりの輪をつなぐ棒で放射状に並んでいるものをいい、鹿毛とは、馬の毛色の名前であり馬を指す代名詞でもあります。(付記1.参照)。

 第二 詞書にある「はな」とは、「桜の花」であり、女性をも意味するものの、このほか、桜が暗喩しているものは、歌本文のみからは浮かびません。

 第三 歌にある「こむよ」の「よ」は、『新編国歌大観』で、「世」という表記になっていません。「よ」と読む名詞は「世」のほか「夜」、「節」、「余」などもあります。名詞「よ」を修飾する語句「こむ」は、四段活用の動詞「籠む・込む」の連体形、及び「動詞「来」の未然形+助動詞「む」の連体形」が候補になります。

 前者の意は、「こもる」、「混雑する」及び「複雑に入り組む」、および「のみこむ・承知する」があります。ただ、「のみこむ・承知する」の用例は式亭三馬の『浮世風呂』が示されています(『例解古語辞典』)。

 現代語訳(試案)は後者で理解して「(当然)来るだろう」(「む」は推測の「む」)としました。そのほか「来よう」(「む」は意思・意向の「む」)の意もあります。

 「よ」は、「はやなりななむ」(二句)と期待・希望されていますので、「よ」が何か別の状態に変化するか何かに入れ替わるかことができるということなので、名詞「よ」の候補はしぼられて「世」・「夜」となります。「こむよ」が、「籠む」+「よ」では、「こもる「世・夜」」とか「複雑に入り組む「世・夜」となり、「はな(女性)見にまかりて」という詞書で恋の歌となるのに、困惑する事態を予測するのは不思議なことではないでしょうか。

 第四 「よ」が「世」であれば、「来む世」となり、類似歌の現代語訳(試案)における俗信の「次の世」のほかに、仏教の説く輪廻説による「三世のひとつである「来世」(宗教的あるいは倫理的要因により決まる次の生であり、本人の好み優先で生れ変われる世ではない)もあります。また、「(来るであろう)男女の仲」(例えば『源氏物語』(帚木)においての「よのなか」)もあります。

② このように、同音異義の語句が詞書にも歌本文にもいくつかあるのが確認できました。そのため、現代語訳の別案を試みるため語句の意を整理すると、次のような表が得られます。あわせて(『古今和歌集』巻第十二恋二にある)類似歌(1-1-520歌)での意も記します。

表3. 3-4-52歌での同音異義語の組合せ   (2020/5/18 現在)

語句の例

上記の(試案)での意

別の意の案1

別の意の案2

類似歌の意

詞書)やま

「屋間」建物と建物の間の空間

「山」

 

「(牛車の車の)「輻(や)の間」(3-4-28歌での「やま」)

――

詞書)はな

山に咲く桜(特定の女性を指す)

 

 

――

歌)こむよ(初句)

「来む夜」(「む」は意思・意向の助動詞)

「来む世」来るだろう時代・時世(「む」は意思・意向の助動詞あるいは推測の助動詞)

「来む世」仏教で説く来世(「む」は推測の助動詞)あるいは「籠む夜・世」

「来む世」俗信の「次の世」(「む」は意思・意向の助動詞)

歌)むかし

「来む夜」が到来した時点からみた「昔」(作詠時点)

 

仏教で説く来世からみた「昔」(仏教で説く現世・作者が現に生きている世)

俗信の「次の世」からみた「昔」(作者の生きている世)

歌)なり(ななむ)

成る

 

慣る・馴る

成る

歌)(なりな)なむ

推量の助動詞「む」

意思・意向の助動詞「む」

 

推量の助動詞「む」

 

③ この表において、詞書にある「やま」を「別の意の案1」欄の「山」と仮定すると、作者が「むかしと思はむ」と詠うことに「山」がどのようにかかわるのか、詞書に記す意があるとは思えません。「別の意の案2」の「「輻(や)の間」の意でも同じことが言えます。

④ 次に、歌にある「こむよ」の「別の意の案1」欄の「「来む世」来るだろう時代・時世」を検討します。

 この場合、作者が待つ時間の単位に「時代」というまとまった長い年月を要する恋を、詠むかどうかが問題です。詞書に「やまにはな見にまかりて」とあり、作者は女性が視認できるくらいの近くにまで忍んできて詠んでいるのに、なんと気が長い作者か、という印象になります。詞書の「はな」は桜木の花であり1年という単位で「見にまかる」ものではありません。恋の歌として時代・時世の意では不自然です。

⑤ 次に、「別の意の案2」欄の「仏教で説く来世」では、作者の希望が通る「来世」ではないので、下句を詠みだすことができません。「籠む夜・世」でも、上記①の第三で検討したように、下句を詠むのは不思議なことです。

⑥ 助動詞「む」は、二つの意があります。

⑦ このため、「こむよ」の候補は類似歌と上記の(試案)の案だけになります。

⑧ また、この歌と類似歌は違う趣旨の歌であるという、ここまでの『猿丸集』の傾向からいえば、この歌は、類似歌とは異なる部立ての歌なると予想でき、女性への思いを詠った歌となります。

⑨ このため、「はな」に暗喩があると理解とした上記の現代語訳(試案)が、妥当な理解である、と思います。

 

9.同じ詞書の歌2首を比較して

① 3-4-51歌と3-4-52歌については、上記のように、詞書にある「はな」の意に女性の意を重ねて理解ができました。

 このため、この両歌は、一つの詞書におけるペアの歌である、と言えます。

② 両歌は、ともに当該類似歌と歌の内容が異なり、当該類似歌はほかの『猿丸集』歌の理解に直接影響を及ぼしていません。これは、『猿丸集』のほかの歌の傾向と同じです。

③ 勅撰集のように編纂された歌集は、各部立の巻頭歌と掉尾歌が、その部を象徴するような歌・あるいは部立ての理由を類推させるような歌によくなっています。この歌集の最後にある同一の詞書における2首なので、この2首にも、同じようなことを、『猿丸集』の編纂者がしているかどうかをみてみます。この両歌に詠う「はな」に、歌集編纂に関係する何かを象徴・暗喩させているかどうか、です。

 詞書は、「はな」は、「やま」のなかにある「はな」である、と言っています。「やま」にある桜木のなかの特定の「はな」を見に行っているので、女性のなかでも特定の女性を暗喩していました。もう一つ暗喩するとすれば、『猿丸集』の最後の歌における暗喩であるので、数ある歌集のなかでの『猿丸集』という見立てが可能です。

④ 詞書の「やまにはな見にまかる」とは、「数々の歌集があるがこの『猿丸集』に親しみ」、と理解できる文となります。

⑤ このように詞書の意を解釈して3-4-51歌を検討します。 3-4-51歌の文の構成は、

文A:(私か誰かが)をりとらば (文Bの条件)

文B:(桜の木は)をしげなるかな(と思うと私は考える)

文C:さくらばな (呼びかけ)

文D:いざ (私は)やどかりて (文Eの条件)

文E:(私は、さくらばなが)ちるまでもみむ

となっていると分析し、現代語訳(試案)を試みてきました(付記1.参照)。

 この構成を前提として、「はな」を『猿丸集』とみなして(試案)にならい、現代語訳を試みると、

「誰か曲解したならば、『猿丸集』は、それを惜しいと思う様子を示すと私は考える。『猿丸集』よ、さあ、私は何とかとどまるところを借用して(後世に『猿丸集』を伝える努力をして)、『猿丸集』が正しく理解されるところまでをみたい。」

試みたこの現代語訳は、五句の「む」だけ現代語訳(試案)を離れ、意思・意向の助動詞と理解したものです。以後「掉尾前51歌の新解釈」といいます。

⑥ 同様の解釈で3-4-52歌を検討します。 3-4-52歌の文の構成は、

文F:こむよにもはやはやなりななんめのまへに (詞書からの結論、決意あるいは予想)

文G:(めのまへに)つれなき人をむかしと思はむ (文Fの再確認)

の二つの文から成ると分析し、現代語訳(試案)を試みてきました(付記1.参照)。

 この構成を前提として、「はな」を『猿丸集』とみなして(試案)にならうと、

 「来るだろうそのような時代にも、早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)『猿丸集』になんの反応もみせない歌人たちを昔そんなこともあったのだ、と思えよう。」

 この現代語訳は、初句にある「こむよ」を、表3、の「別の意の案1」である「来るだろう時代・時世」と理解し、また四句にある「つれなき人」を、現代語訳(試案)が「作者につれなし」と理解したところを「猿丸集につれなし」と理解したものです。以後「掉尾52歌の新解釈」ということとします。

⑦ 形容詞「つれなし」とは、「何か見聞きしても反応を示さないとか、心に思っていることを顔色に出さないとかいうのが基本的な意味」であり、「なんでもないようだ・平気なようだ」とか「無常だ、つれない」の意です。(『例解古語辞典』)

⑧ このように、同じ詞書にある両歌が「掉尾前51歌の新解釈」と「掉尾52歌の新解釈」という理解ができますので、「はな」が『猿丸集』を暗喩し、この歌集の最後にある2首に、歌集編纂者は、『猿丸集』を後世に残す決意を詠い、今後理解が深まることに期待していると詠っていることになります。このような特別な意をこの2首に込めている、と言えます。

 

10.巻頭歌と最後の歌は一組の歌とみなせない

① 巻頭歌の2首と最後の2首について、別々に歌集のなかでの役割をみてきたところ、巻頭歌1首と最後の歌1首とが一組ではなく、巻頭の詞書のもとにある2首と最後の詞書のもとにある2首とが少なくとも一組である、とわかりました。では、この4首を一組の歌群ととらえ、いわゆる巻頭歌と最後の歌(掉尾の歌)として編纂者が扱っているか、を検討します。

 この4首以外に編纂者が特別視している歌があれば、それを加えて再検討することとし、今はこの4首と歌集の関係を検討します。

② 検討してきた4首を改めて記すと、次のとおり。

3-4-1歌 

  あひしりたりける人の、ものよりきてすげにふみをさしてこれはいかがみるといひたりけるによめる

    しらすげのまののはぎ原ゆくさくさきみこそ見えめまののはぎはら

3-4-2歌   (詞書は3-4-1歌に同じ)

    から人のころもそむてふむらさきのこころにしみておもほゆるかな

3-4-51歌  

  やまにはな見にまかりてよめる

    をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ

 

3-4-52歌  (詞書は3-4-51歌に同じ)

    こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

③ それらに試みた現代語訳を改めて記すと、次のとおり。暗喩が2つある3-4-51歌と3-4-52歌は2案を示します。

3-4-1歌  「旧知であった人が、ものの道理より説いた書き付けを、菅笠に載せて差し出し、「これはどのようにご覧になりますか」と(言いつつ)、一節を吟じたので、詠んだ(歌)」(「巻頭歌詞書の新訳」)

   「(ふみに記された所説を)知らしめる偈となっていますね、「真野のはぎはら」は。真の野原と言えるすばらしい萩が一面に咲く原を行きつ戻りつして楽しむように、(これにより)和歌のすばらしさを味わえます。」 (「巻頭歌本文の新訳」)

     

3-4-2歌   (詞書は「巻頭歌詞書の新訳」に同じ)

   「から人が衣を染める材料という紫草に覆われた野原。その野原は、強い関心をいだくものだと、自然に思われてくるなあ。」 (「巻頭第2歌の新訳」)(三句にいう「むらさきの」という野原が詞書にいう「ふみ」をさします)

      

3-4-51歌  建物と建物の間のところにゆき、桜の花を見て、(その後に)詠んだ(歌)

    「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならば手放すのには忍びないものにも思われるよ、

桜の花は。だから、さあ、ここに宿をかりて、散るまで(近付きを得るまで)じっと見定めよう。(貴方との仲をじっくりと育てよう。)」(3-4-51歌の現代語訳(試案))

 

3-4-51歌の別案  (詞書は3-4-51歌の現代語訳(試案)に同じ)

    「誰か曲解したならば、『猿丸集』は、それを惜しいと思う様子を示すと私は考える。『猿丸集』よ、さあ、私は何とかとどまるところを借用して(後世に『猿丸集』を伝える努力をして)、『猿丸集』が正

しく理解されるところまでをみたい。」(「掉尾前51歌の新解釈」)

 

 3-4-52歌   (詞書は3-4-51歌の現代語訳(試案)に同じ)

    「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」 (3-4-52歌の現代語訳(試案))

 

 3-4-52歌の別案  (詞書は3-4-51歌の現代語訳(試案)に同じ)

    「来るだろうそのような時代にも、早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)『猿丸集』になんの反応もみせない歌人たちを昔そんなこともあったのだ、と思えよう。」 (「掉尾52歌の新解釈」)

 

④ 3-4-1歌と3-4-2歌の詞書の「ふみ」が「書き付け」を指しており、3-4-51歌と3-4-52歌の詞書の「はな」が『猿丸集』を指しているとなると、この4首は、『猿丸集』に明確な編纂方針のあることを示唆している、と言えます。

 歌集の最初の2首は、この歌集を紹介し、最後の2首は、この歌集理解を将来に期待していると述べている、とみなせます。この4首によって、勅撰集にみられる巻頭歌と最後の歌のような役割を果たしています。

⑤ 『猿丸集』の全52首を個々にその類似歌とともに一応検討して得た感触と、この4首の理解から、『猿丸集』の編纂方法を予想してみると、つぎのことが言えます。

 即ち、『猿丸集』の編纂者は、和歌とは、言葉をこれまでの用例を踏まえ発展的ににも用いて作者が詠んでいるものであり、そのような和歌を編纂した歌集も、歌集全体が編纂者の一つの作品となるように、言葉を吟味し、歌を配列しているものである、ということを主張し、52首の歌集編纂によりその実例を示そうとしたか、ということです。

 和歌の言葉遣いについては、良く知られた歌を類似歌として提示し『猿丸集』歌との対比により具体的にそれを示せています。

 しかし、歌集については、歌集のなかで別の歌集との対比がそもそも無理です。それで、詞書の言葉遣いと最後の詞書の歌2首に別案を編纂者は用意し、歌集が一つの作品であることを強く示しているのかもしれません。

⑥ なお、歌集最初の2首は、「ふみ」に関する題詠と理解できるので、別案はない、と思います。

⑦ 私の念頭に浮かんだのは、『猿丸集』編纂者が熟読していたであろう『古今和歌集』です。

序がある歌集です。その序の役割を『猿丸集』では最初の詞書のもとにある2首が担っている、と今回推測したところです。

そして、巻第十八雑歌下の配列を想起してください(付記2.参照)。

久曾神昇氏は、『古今和歌集』が収載している歌を和歌と歌謡に大別し、大別した和歌のうちの短歌で十八巻を構成し、残りの和歌に一巻、歌謡に一巻という構成であると指摘しています。次いで、短歌である1-1-1歌から1-1-1000歌の1000首の最後の歌群は「述懐(離別・疎遠・詠歌)」であると指摘しています。

 その短歌の最後の歌(1-1-1000歌)は、次のような歌です。

1-1-1-1000歌  

歌めしける時にたてまつるとて、よみておくにかきつけてたてまつりける  伊勢

     山河のおとにのみきくももしきの身をはやながら見るよしもがな  

 これに相当するかに見えるのが、『猿丸集』の最後の詞書のもとにある2首である、と推測しました。

⑧ 『猿丸集』の特徴を、2018/1/15付けブログに記しました。それは、上記の4首が一組であるとの考察前の私の意見でした。そのうち、次の点は、上記の4首からも確認できました。

 第一に述べた「 『古今和歌集』と違い、序が無い。しかし、しっかりした独自の方針に従い編纂されている。」、

 第五に述べた「各歌そのものは、類似の歌がベースにあって、創作され、この歌集に記載されていると思われる。したがって、歌そのものは類似の歌と異なる歌意を持っている。(類似の歌の異伝歌などではない)」、

 そして、このように4首のみからでも、この2点が歌集成立後千年も経た2020年にも確認できるのですから、第七に述べた「完成した『猿丸集』を、後年書写にあたった歌人たちは、他の歌集と同様な扱いをしており、書写にあたりわざわざ詞書を書加たり添削等の操作を受けた可能性は低い。」ということは編纂者の願いが実現しているのではないか、と思います。

⑨ 今回の検討結果をまとめると、つぎのようになります。

第一 巻頭の歌と最後の歌(掉尾の歌)の検討をしたが、結局その二つの歌の詞書のもとにある歌計4首を材料としての検討となった。以下のことはこの4首のみから指摘できたことであり、『猿丸集』全体の構成・配列が見極められたものではない。

第二 『猿丸集』の編纂者は、巻頭の歌と最後の歌(掉尾の歌)のみを特別視していない。巻頭の詞書のもとの2首と最後の詞書のもとの2首を特別視している。

歌集の最初の2首は、歌集の序の役割を兼ねており、最後の2首は編纂者の希望を述べる後記の役割を兼ねている。

第三 歌集の最初の2首の詞書にある「ふみ」と最後の2首の詞書にある「はな」は、この『猿丸集』を指している。

第四 この4首の詞書の文章は、歌本文ともども類似歌を参照するよう誘うような記述方法をとり、論理的に最小限な文章にとどめている。『古今和歌集』の詞書の文章も同じである。

第五 この4首から推測すると、 『猿丸集』の編纂者は、『古今和歌集』の編纂方法に学んでいるかにみえる。歌集全体でも『古今和歌集』の歌を類似歌に多く採用し、『猿丸集』の理解が進めば、『古今和歌集』の歌の理解が進み、さらに序を置いていない『後撰和歌集』と『拾遺和歌集』を含め、三代集の理解が深まることを期待しているのではないか。

第六 歌集名からの推測(「類似歌に関して、当時における新解釈をいくつかの歌について『猿丸集』編纂者は採用していることを、古人の説の理解によるものであるとして示しているのではないか」)は、この4首にも該当し得る。

 ただし、歌集の実際を現時点で総括すれば、52首からなる『猿丸集』は、「日本語の論理と表現方法を追求して歌集の編纂者の方針のもとに配列されている歌であり、例歌として52首以上も類似歌を暗黙に示している歌集」であろうとなり、新解釈を訴えることが『猿丸集』の眼目ではない。

第七 3-4-1歌の初句「しらすげ」を「いひたりける」人とは3-4-2歌の「巻頭歌第2歌の新訳」の「からひと」に重なるならば、遠来の人を意味し、歌集名にある人物「猿丸」を想起させる。

第八 歌集は、詞書に言葉を費やさずさらに漢字多用の表記方法も採用せず、類似歌を暗示するというアイデアを用いて編纂されている。52首の配列を構想した後、類似歌探しに編纂者が苦労したと思われる歌は、『猿丸集』編纂に必要としている歌なのであるから、歌集編纂上特別の役割を担っているのかもしれない。

 ⑩ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただき、ありがとうごさいます。

 次回から、歌本文をも対象に、『猿丸集』の配列の検討にすすみたい、と思います。

(2020/5/18  上村 朋)

付記1.『猿丸集』の歌の現代語訳(試案)は、次のブログから引用して検討した。

3-4-1歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第1歌とその類似歌」(2018/1/29付け)

 (これは、一部補綴を2020/5/11にした後の記述である)

3-4-2歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第2歌とその類似歌は」(2018/2/5付け)

(これは、改訳を2020/5/11にした後の記述である)

3-4-28歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第28歌その2 やまのかげ」(2019/9/10付け)

3-4-51歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第51歌 をしげなるかな」(2019/10/7付け)   (詞書を4案に、歌本文を2案にまでしぼりこんだ)

3-4-52歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第52歌その4 はな見」(2019/11/4付け

 (詞書と3-4-51歌と3-4-52歌の現代語訳(試案)がそれぞれ1案となった)

     ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその1 いひたりける」(2020/5/11付け)

 

付記2.『古今和歌集』の巻第十八にある1-1-995歌)前後の歌の検討を、次のブログに示した。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌 その1 失意逆境の歌か」(2019/7/22付け) (1-1-1000歌はその付記1.⑥にも記す)

 ブログ「わかたんかこれの日記  配列からみる古今集の994歌」(2017/12/18付け)

 ブログ「わかたんかこれの日記  配列からみる古今集の1000歌」(2017/12/25付け) 

(付記終わり 2020/5/18  上村 朋)

 

 

 

 

 

わかたんかこれ   猿丸集の巻頭歌など その1いひたりける

 前回(2020/4/27)、「わかたんかこれ 猿丸集の理解のまとめ その1」と題して記しました。

 今回 「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌など その1いひたりける」と題して記します(上村 朋)。

 

1.猿丸集の詞書などの検討結果

①『猿丸集』は、詞書もある52首の和歌からなります。その歌集の編纂方針を推測する方法のひとつとして、巻頭歌と最後の歌(掉尾の歌)を一組の歌とみて、検討したい、と思います。

② 先に、『猿丸集』という歌集名を検討し、

「類似歌に関して、当時における新解釈をいくつかの歌について『猿丸集』編纂者は採用していることを、古人の説の理解によるものであるとして示しているのではないか」

と推測しました。(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の構成 歌集名から」(2020/1/6付け)) 

③『猿丸集』の詞書のみを対象に検討し、次の三点等を指摘しました。

第一 『猿丸集』の編纂者は、歌集の常として、巻頭歌と最後の歌(掉尾の歌)は特別視しているのではないか。少なくとも3-4-1歌の詞書の文言は、この歌集のなかで独特なものである。

第二 3-4-1歌は、恋の歌集を象徴する歌というよりもこの歌集の序の役割をも担っているのではないか。但し、最後の3-4-52歌の詞書は3-4-51歌と同じであり、巻頭歌と最後の歌(掉尾の歌)の関係の確認は、歌本文をみなければ断言はできない。

第三 詞書のみからの検討では、歌集名の検討で得た、『猿丸集』は類似歌に関する新しい理解を示した歌集、という推測を捨てられない。 (ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の詞書その3 部立て」(2020/4/13付け))

④ また、『猿丸集』記載のすべての歌にある類似歌について、その共通の役割の有無を検討し、 次の点等を指摘しました。

第一 『猿丸集』の各々の歌から想起できる類似歌は、その『猿丸集』の歌に用いている語句の意を限定する役割を持っている。『猿丸集』の歌が当該類似歌で用いている語句の意を限定しているという想定は、萬葉集歌が類似歌にあることからあり得ない。

第二 『猿丸集』の歌の理解に、当該類似歌以外の類似歌は関与していない。類似歌同士は互いに独立しているといえるし、『猿丸集』の歌の配列に影響を及ぼしていない。

(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の  理解その1」(2020/4/24付け))

⑤ 『猿丸集』歌の詞書と歌本文とそして類似歌でも同様に、多くの同音異義の語句が用いられていることを確かめてきました。上記②と④は、和歌の理解のためには、歌集編纂者と作者が用いている語句に細心の注意を向けよ、と言っていることになります。まさに「和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすもの」ということです。

⑥ それに改めて留意し、『猿丸集』の巻頭歌と最後の歌(掉尾の歌)の関係を検討したい、と思います。

⑦ 和歌は、『新編国歌大観』より引用します。

 

2.巻頭歌と最後の歌(掉尾の歌)

①『猿丸集』にある52首の和歌の、最初と最後の和歌は次のとおりです。

3-4-1歌 

あひしりたりける人の、ものよりきてすげにふみをさしてこれはいかがみるといひたりけるによめる

   しらすげのまののはぎ原ゆくさくさきみこそ見えめまののはぎはら

3-4-52歌  

やまにはな見にまかりてよめる

   こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

② 3-4-1歌の現代語訳(試案)を、2018/1/29付けブログより引用します。(付記1.参照)

3-4-1歌  

交友のあった人が、地方より上京してきて、スゲに手紙を添えて、「これをどのようにご覧になりますか」と、私に、言い掛けてきたので、詠んだ(歌)

   しらすげも花を咲かせている真野の野原に、赤紫に咲く萩を、あなたは旅の行き来によく見るのではないでしょうか。萬葉集の歌の真野のはりはらではなく赤紫に咲く萩の野原を。(紫衣の三位への昇進も望めるようなご活躍にお祝い申し上げます。)

 現代語訳(試案)について、注記をします。

A 詞書にある「すげ」とは、3-4-1歌の類似歌に詠われている真野(現在の神戸市長田区付近)の当時の代表的景物でもありますが、特別な植物ではなくありふれた植物です。当時菅笠の材料などになっています。だから、交友のあった人自身は上京が栄転ではない(待命の辞令などか)と思っていることを示しています。「スゲ」の花の色はだいだい色などもあります。

B 詞書にある「ふみ」とは、手紙か書物か漢詩か学問の意のうち、ここでは手紙か漢詩であり、上京にあたっての感慨を記してあったのでしょうか。

C 歌にある「はぎ」の花は、紅紫で、長さ1~2cmあり、多数が穂に集まって咲き、美しい植物であり、秋の七草のひとつです。そして二句と五句で「はぎはら」を繰りかえし詠っています。衣服令の規定では、礼服の色が、一位は深紫、三位以上は浅紫。四位は深緋、五位は浅緋となっています。

D  この歌は、相手(あひしりたりける人)を称賛しているか励ましています。

③『猿丸集』には、これらの詞書のもとでの和歌が、それぞれもう1首づつありますので、引用しておきます。

3-4-2歌   (詞書は3-4-1歌に同じ)

    から人のころもそむてふむらさきのこころにしみておもほゆるかな

           (現代語訳(試案)は付記2.参照)

3-4-51歌  (詞書は3-4-52歌に同じ)

    をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ

           (現代語訳(試案)は次回に記す)

 

3.最初の歌3-4-1歌の再検討

① 以上のほか、詞書のみからの検討で、『古今和歌集』の部立てを『猿丸集』に当てはめると、3-4-1歌のみが雑部の歌ではないかと推測しました。歌本文にあたって部立てを確認してみると、付記3.に記すように、他の歌にも雑部と推測できる歌があり、3-4-1歌の部立ての特異性は無くなりました。

② 次に、3-4-1歌の詞書の「すげにふみさしていかがみるといひたりける」に「よめる」(返事した)というのは、直接問いかけられている場面を記述していることになりす。『猿丸集』の各歌の詞書を通覧すると、このような場面設定の詞書は、このほか3-4-35歌しかありません。この歌は、詞書に「ほととぎすのなきければ」とあり、歌に「ほととぎす」を詠っています。これと同様な状況を3-4-1歌に想定すれば、詞書に「これをいかがみる」とあるのに対して、「これをこのように見た」と歌に詠んでいるはず、ということになります。

③ 上記の現代語訳(試案)においては、代名詞「これ」を、差し出された「ふみに書かれている内容」より相手の境遇を「このように見た」と理解したものになっています。「ふみに書かれている内容」そのものを評価し詠ったという理解ではありません。

「ふみ」という語句には、書物の意などもあり、また、「これ」という代名詞は直前に話題になった事物を指しているので話題を確認して然るべきであり、いうなれば同音異議の語句のひとつとして「ふみ」を扱っていないままの(試案)と言えます。

④ また、3-4-2歌と詞書が同じということから、二つの歌の類似歌に役割をしっかり分担させていたか、上記「1.④」の第二の確認について、上記の(試案)では不安のあるところです。

⑤ このため、同音異議の疑いのある語句を再確認してから、改めて現代語訳を試みることとします。

第一 詞書にある「もの」とは、「出向いて行くべき所」の意のうち「地方」であると上記の(試案)では理解しました。事例に「ものへゆく(まかる)」とか「ものへこもる」があるものの、「ものより来」の事例は不明です。「もの」には、このほかに、「普通のもの。世間一般の事物。」や「ものの道理」の意もあります。

第二 詞書にある格助詞「より」とは、「動作・作用の、時間的・空間的な起点や出自などを示す。」や「移動する動作の経過するところを示す。」や「その動作・作用が行われるための手段・方法を示す(・・・によって)。」とか「動作・作用を比較する基準となる物ごとを示す。」の意などがあります(『例解古語辞典』)。

上記の(試案)では、「空間的な起点」の意としましたが、動詞「来」は「来る」のほか、「行く。目的地に自分がいる立場でいう。」があり、ほかの意の理解も可能です。

第三 詞書にある「ふみ」とは、上記の(試案)では「手紙」か「漢詩」とし、「あひ知る人の所感が記されているのではないか」と理解しました。しかし「書物」の意もあり「歌の解釈を説明した書き付け」という理解も可能です。つまり、旧い和歌などについて正解にたどり着く経緯なども記したいくつかの歌に関する書き付け」という理解です。

第四 詞書にある「これ」とは、「ふみを書いた人の感慨を読み取って推量したこと」の意、と上記の(試案)では理解しましたが、内容を問わず「書き付けた書類の内容そのもの」ともとれます。「あひ知りたりける人」が来て作者との間で話題としたのには、2案あることになります。

第五 詞書にある「みる」とは、上記の(試案)では「思う。解釈する」意としました。このほか「見定める」等の意もあります。

第六 詞書にある「いふ」とは、「言ふ」であり、上記の(試案)では「ことばを口にする」と理解しましたが、このほか、「詩歌を吟ずる。口ずさむ。」とか「(・・・だとして)区別する。わきまえる。」の意もあります。

第七 歌本文にある「しらすげ」とは、植物の「シラスゲ」と上記の(試案)で理解しています。このほか、動詞「領る」+尊敬の助動詞「す」+名詞「偈」とみる語句「知らす偈」(お治めになる偈)という理解があり得ます。((動詞「知る」+使役の助動詞「す」+名詞「偈」にも理解できます。))

「偈」とは短い韻文(詩歌・詩句)を言い、仏教では、経典や論書のなかに現れる韻文の部分をさし「仏の徳をたたえ、また教理を述べた、短い韻文を言います。例えば、

 七仏通誡偈:諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸佛教

  諸行無常偈:諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽

 親鸞が書かれた正信偈(しょうしんげ):帰命無量寿如来・南無不可思議光・法蔵菩薩因位時・在世自在王仏所・覩見諸仏浄土因・国土人天之善悪・建立無上殊勝願

第八 歌本文にある「きみ」について、上記の(試案)では、「代名詞(対称・あなた。)」の意としましたが、このほか「君(自分の仕える人・主人・主君)」とか「気味(香りや味)。けはい・趣・味わい。」とか「気味(気持ち・心持)」の意もあります。

第九 歌本文にある「見ゆ」とは、「物が目にうつる・見える。」の意としました。このほか、「人が姿を見せる」とか「人に見えるようにする・見せる」の意もあります。

第十 歌にある「はぎはら」とは、「一面にハギの茂っている平地」の意であり、歌語です(『例解古語辞典』)。

⑥ このように、同音異義の語句が詞書にも歌本文にも多くあるのが確認できました。そのため、現代語訳の別案を試みるため語句の意を整理すると、次のような表が得られます。あわせて類似歌(2-1-284歌)での意も記します。

表1. 3-4-1歌での同音異義語の組合せ(案)   (2020/5/11 現在)

語句の例

上記の(試案)での意

別の意の案1

別の意の案2

類似歌での意

詞書)ものよりきて

地方より上京して来て

ものの道理より説いて

世間一般の事物

――

詞書)ふみ

手紙か漢詩に示された著者の感慨

歌に関した書き付け

 

――

詞書)さす

添える

差し出す

 

――

詞書)これ

ふみの著者が記した感慨

ふみに記した(客観的)内容

 

――

詞書)(いかが)みる

思う、解釈する

見定める(評価する)

見せる(説明する)

――

詞書)いひたり

ことばを口にした(私に話しかけた)

詩歌を吟じた

「(・・・だとして)区別した」

――

歌)しらす

「白スゲ」

「領らす偈」お治めになる偈(所説を述べた偈)

 

「白スゲ」

歌)真野

地名

真の野原

 

地名

歌)きみこそみえめ

「君こそ見えめ」あなたこそ見るのではないか

「気味こそみえめ」

「趣・味わい」こそみせてくれる(または見ることができる)

「君こそ見えめ」あなたこそ姿を現すのではないか

「君こそみらめ」あなたこそ見ることが出来るでしょう

歌)はぎはら(原)

ハギが咲く野原(その色より、上位の礼服の色である紫)

ハギが咲く野原(人々がハギ同様に愛するはずの所説)

 

――

 

⑦ 各語句の意を、表1の「別の意の案1」にして、改めて詞書の現代語訳を試みると、

「旧知であった人が、ものの道理より説いた書き付けを、菅笠に載せて差し出し、「これはどのようにご覧になりますか」と(言いつつ)、一節を吟じたので、詠んだ(歌)」

この試案を、「巻頭歌詞書の新訳」ということとします。

⑧ 同様に、表1の「別の意の案1」によって、改めて歌本文の現代語訳を試みると、

「(ふみに記された所説を)知らしめる偈となっていますね、「真野のはぎはら」は。真の野原と言えるすばらしい萩が一面に咲く原を行きつ戻りつして楽しむように、(これにより)和歌のすばらしさを味わえます。」

「まののはりはら」と「まののはぎはら」は一文字の違いだけで示唆するところが全く違います。類似歌の2-1-284歌と異なる歌意にもなっています。

この訳を、「巻頭歌本文の新訳」ということとします。

⑨ 「しらすげ」が、「領らす偈」であれば、「あひしりたりける人」が「いひたりける」一節は、「まののはぎはら」であり、そしてこのように3-4-1歌の作者が称賛する事柄を示してくれた「あひしりたるける人」とは、歌集名にその名を冠した「猿丸」という人物を指しているのではないでしょうか。

「猿丸」とは、『古今和歌集』の真名序に登場する猿丸大夫とは別の、『猿丸集』編纂者が昔の歌人として仮想した人物です。

⑩ 同音異議の語句に関して、この「巻頭歌詞書の新訳」と「巻頭歌本文の新訳」は、3-4-1歌の類似歌にある語句とは異なる意で用いており、また3-4-2歌の類似歌にある語句「むらさき」あるいは「むらさきの」の意に無関係な現代語訳です。

 

4.同じ詞書のもとの歌3-4-2歌の再検討

① 上記3.のように3-4-1歌を理解すると、同一の詞書のもとにある3-4-2歌も現代語訳をあらためて試みる必要があります。

② 3-4-1歌と同じように、同音異議の語句の確認から始めます。

第一 歌にある「から人」とは、これまでの現代語訳(試案)(付記2.参照)においては、『萬葉集』の時代よりの先祖が朝鮮出身の染色職人の意としましたが、外国からきた人、あるいは遠来の人、と素直な理解もあります。この場合、「から人」は詞書にある(「もの」を地方と理解したら)「あひしりたる人」を指す語句であるということになります。

第二 歌にある「そむ」とは、これまでの現代語訳(試案)では、四段活用の「染む」であり、「色がつく・染まる」とか「(心に)深くしみる」という意があります。

第三 歌にある「しむ」とは、これまでの現代語訳(試案)では、「しむ」は、四段活用の「染む」であり、「深く感じる・身にしみる」の意としていますが「うるおう・ひたる」の意もあります。このほか、下二段活用の「染む」ならば「(「こころにしむ」などの形で)深くうちこむ・強い関心をいだく」の意がありますし、「占む」の意もあります。(『例解古語辞典』)。

第四 歌にある「むらさきの」とは、これまでの現代語訳(試案)において、「むらさき」を色名としさらに「紫の色と同じ(色の礼服を着用されている)貴方」の意としました。このほか、(ムラサキグサの名高いところから)「匂ふ」や「濃(こ)」にかかる枕詞となっている「むらさきの」とか、紫草が多く生えている場所をいう名詞「紫草野」(むらさきの)の意もあります。

第五 歌にある「おもほゆ」とは、一意であり、「(ひとりでに)思われる」です。

第六 歌にある「はぎはら」とは、「一面にハギの茂っている平地」をさす歌語です(『例解古語辞典』) 

③ このように、同音異義の語句がいくつか歌本文に確認できました。そのうえ詞書が改まっています。

 そのため、現代語訳の別案を試みるため語句の意を整理すると、次のような表が得られます。あわせて類似歌(2-1-572歌)での意も記します。

表2. 3-4-2歌での同音異義語の組合せ(案)   (2020/5/11 現在)

語句の例

上記の(試案)での意

別の意の案

類似歌での意

歌)から人

遠来の人

同左

韓からきた人(を祖先とする染色職人)

歌)そむ

四段「染む」

同左

同左

歌)むらさきの

「紫(色)の」

名詞「紫草野」(ハギが咲く野原)

「紫(色)の」

歌)しむ

四段「染む」 深く感じる

下二段「染む」 強い関心をいだく

四段「染む」 深く感じる

 

 

④ 「むらさきの」を名詞「紫草野」とするなどとし、表2.の「別の意の案」により、あらためて現代語訳を試みると、

「から人が衣を染める材料という紫草に覆われた野原。その野原は、強い関心をいだくものだと、自然に思われてくるなあ。」

この試案を「巻頭第2歌の新訳」と称することとします。

⑤ 「巻頭第2歌の新訳」は、三句にいう「むらさきの」という野原(詞書にいう「ふみ」をさします)を注目する、と詠います。類似歌(2-1-572歌)においては、三句にいう「むらさき」は色彩(と紫衣の礼服を着用できる大伴旅人)を意味しており、今までの上司である大伴旅人が、空間的に遠方となることからの述懐を詠っています。詞書も類似歌と異なり、このように、歌においても、「ふみ」に示された所説に対する述懐と官人の述懐という違いが鮮明です。

⑥ これまでの現代語訳(試案)と類似歌は、述懐内容が異なるものの官人として上司に対する述懐であるのは共通しており、詞書が類似歌と異なる割には、歌の違いが少ないところでした。

『猿丸集』歌と当該類似歌は、歌の意がこれまでの検討ではどの歌においても異なっており、3-4-2歌では「巻頭第2歌の新訳」のほうが、その差異がよりはっきりしており、良い現代語訳である、と思います。

⑦ また、この歌の類似歌は、この3-4-2歌にある語句の理解に関わっていますが、3-4-1歌にある語句の理解に影響を及ぼしていません。これまでの現代語訳(試案)では「むらさき」の意に色名として3-4-1歌と共通であると理解していました。

⑧ 「巻頭第2歌の新訳」は、衣服令に関係ない歌となりました。「ふみ」を、3-4-1歌と同じように「あひしりたりける人の持ってきた「書き付け」と理解して詠っています。「あひしりたけるひと」の1つの行動を詠い、その人物全体の評価を詠っていません。

 

5.同じ詞書の歌2首を比較して

① 3-4-1歌と3-4-2歌は、「巻頭歌詞書の新訳」のもとにおける「巻頭歌本文の新訳」と「巻頭第2歌の新訳」のもとで、詞書にある「ふみ」(書き付け)を話題とした歌であり、ペアの歌として理解できます。

② 両歌とも、その類似歌とともに同音異義の特定の語句を用いていても歌の内容が変わっています。これは、『猿丸集』のほかの歌と同じ傾向の歌です。

③ 両歌は、詞書にある「ふみ」(書き付け)により、詞書とあわせて、歌集の特色を示唆し、歌集の編纂の意図を示す「この歌集の序」になり得る内容である、と思います。

④ 次回は、『猿丸集』の最後の歌を再検討し、『猿丸集』の巻頭歌と最後の歌(掉尾の歌)の関係をみてみたい、と思います。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

(2020/5/11  上村 朋)

 

付記1.『猿丸集』の歌の現代語訳(試案)は、次のブログから引用して検討した。

3-4-1歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第1歌とその類似歌」(2018/1/29付け)

    (これは、一部補綴を2020/5/11にした後の記述である)

3-4-2歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第2歌とその類似歌は」(2018/2/5付け)

    (これは、改訳を2020/5/11にした後の記述である)

3-4-21歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第21歌 あまをとめ」(2018/7/1付け)

3-4-27歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第27歌  ともなしにして」(2018/8/27付け)

3-4-28歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第28歌その2 やまのかげ」(2018/9/10付け)

3-4-31歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌その2 まつ人」(2018/10/9付け)

3-4-32歌:ブログ「わかたんかこれ 「猿丸集第32歌 さくらばな」(2018/10/15付け)

3-4-50歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第50歌 みぬひとのため」(2019/9/30付け)

3-4-51歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第51歌 をしげなるかな」(2019/10/7付け)

    (詞書を4案に、歌本文を2案にまでしぼりこんだ)

3-4-52歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第52歌その4 はな見」(2019/11/4付け)

    (詞書と3-4-51歌と3-4-52歌の現代語訳(試案)がそれぞれ1案となった)

付記2.巻頭歌と詞書を同じくする3-4-2歌の(今回検討する前の)現代語訳(試案)はつぎのとおり。

① 詞書は割愛する。「遠方からおいでになった人(貴方)の衣が染まるという紫の色に、(官人が)強い関心をいだくように貴方には自然とそのように思うようになるのですね。(今までのようなご交際がお願いできないと思うものの。)」

② この歌は、相手(あひしりたりける人)の帰京を祝うもののこれから疎遠になることを残念に思っている詠嘆の歌として理解した。

③「からひと」というという表現のある歌は、三代集に見えない。

④ 3-4-1歌と3-4-2歌は、「むらさき」が詠み込まれている。礼服が紫衣である相手(あひしる人)を称賛する歌と疎遠になることを残念に思っている歌の組み合わせとなっており、再会の歌と疎遠の歌との組み合わせでもある。

付記3.歌本文からの部立ての推測

① 詞書のみより行った部立ての推測で恋以外の部立てとなった歌8首について、その歌本文からの部立ての推測を、2020/4/30現在の歌の理解で行った。

② その8首の推測は、以下のように雑部の歌が5首となった。

③ 3-4-1歌は ハギの花が見えるでしょう、と詠い、花の美しさを愛でるより花を直視できるかどうかを詠っており、部立てはやはり雑となる。

④ 3-4-21歌は、強い風による自然の営みを天女の動きに例えて詠い、部立てはやはり雑となる。

⑤ 3-4-27歌の詞書にある「ものへゆきけるみち」は、火葬を行おうと(例えば鳥辺野の特定の地点へ)行く途中」と理解でき、「違な野」の景を詠う。このため、部立ては雑となる。

⑥ 3-4-28歌は、夕方の牛車での出来事を詠う。季節を問わない。このため、部立ては雑となり得る。

⑦ 3-4-31歌の四句にある「まつ人」とは、「魔つ人」の意で、「私の恋の邪魔をする(仏教の第六天魔王のような)人」の意。この歌は、待ち人との間にたち邪魔しようとする人をきらった女の歌。このため、部立ては恋に変わり得る。

⑧ 3-4-32歌は、「さくらばな」とは「鼻まで赤くしている人」の意。この歌は、山寺での花見における飲食の席で酔っ払った男をはげましている歌。このため、部立ては雑となる。

⑨ 3-4-50歌での「みぬ人」の動詞「みゆ」は、「視覚に入れる。見る。ながめる。」ではなく、「(異性として)世話をする。連れ添う。」の意。この歌は、思いを寄せる人へのきっかけを求めている歌であり、この歌の部立ては恋に変わり得る。

⑩ 3-4-51歌は、作者の感慨が二句に表現されている、女性への思いを詠った歌であり、部立ては恋に変わり得る。

(付記終わり 2020/5/11  上村 朋)

 

 

 

 

 

 

 

 

わかたんかそれ 強力な防護方法がないのは怖い 

  2020年4月26日は、チェルノブイリ原発事故から34年目でした。上村 朋です。

 向かってくるものに対して、強力な防護方法(盾)を知らないと、身に着けていないと、怖い。それによって社会全体が緊張を強いられます。自分だけは上手に切り抜けられると盲信して行動する人がでてきて、それも社会の緊張を増します。

 新型コロナウイルスに対して、日本列島にいる人たちが今そのような状況です。

 盾になるワクチンは開発中であり、医療用防護服などや接触防護システムが現場に行き渡らず、研究者・従事者・その協力者のノウハウ・勇気に頼っているのは、情けないです。

 相手は変異を活発にしているそうで、それを止める手立てが今ありません。鉾がありません。

 

 かくれんぼなら鬼がタッチできなくなる呪文や安全エリア(という盾)があります。さらに鬼の行動を制限するルール変更が可能という鉾があります。

 

 原発については、稼動していようとしていまいと(日本列島では)大地震原発を襲う恐れがあります。大地震にも盾がありません。原発を攻撃目標の1つに想定しているグループもないということはありません。

 強力な盾は原発廃止であり、水や土などから完璧に放射能を除染するシステムです。

 しかし廃止するにも何十年もかかり、終了するまでは稼動している場合と同じであり、原発廃止が強力な盾といえるかどうか。

 原子核エネルギーに替わる安全で経済的なエネルギーが鉾と言えるでしょう。

 御覧いただきありがとうございます。(2020/5/4   上村 朋)

わかたんかそれ 攻撃できないので怖い

 悪さをするものに、攻撃する方法が今ないのは、怖いです。上村 朋です。

 二つ例を挙げます。

 新型コロナウイルス

 攻撃する方法がなくとも楽しいこともあります。かくれんぼ。

 鬼に捕まることがないと自信満々の人と、運が悪い人が捕まると思っている人も楽しんでかくれんぼをしています。捕まるまでのスリルを楽しんでいる人の方が多いと思いますが、捕まった人たちは、皆、またかくれんぼが出来る状態にリセットすることが約束されています。新型コロナウイルスとは違います。さらに新型コロナウイルスの猛威は、個人単位だけでなく社会のシステムも攻撃しています。

 攻撃と防ぐのに尽くしている方々、治療に献身的に携わっている方々に感謝します。健康にどうぞ留意してください。

 

 放射能事故。

 9年たった福島原発の今の対策も放射能の発生をやめさせるものではありません。

 34年たったチェルノブイリ原発事故の4号炉を覆う石棺とかそれを覆うシェルターも防ぐだけであり、放射能の発生をやめさせるものではありません。

 最終的な目標は事故炉を安全に解体することです。(1986年4月26日チェルノブイリ原発事故は起こり、現在でも半径30km以内は居住が禁止されているそうですシェルターは、100年間放射性物質の放出を防ぐとされています。1992年、IAEAは報告書を発表し、全体として「安全文化の欠如」が事故の原因と指摘しています。)

 ご覧いただきありがとうございます。(2020/4/38  上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集の類似歌の理解のまとめ その1

 前回(2020/4/13)、「わかたんかこれ 猿丸集の詞書その3 部立て」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集の類似歌の理解のまとめ その1」と題して記します。(今、新型コロナウイルスに感染しないよう、していたとしても感染させないよう、心がけています。上村 朋)

 

1.歌本文も対象とした編纂方針検討の前に

① 『猿丸集』のすべての歌には、類似歌がありました。だから、類似歌は、『猿丸集』の詞書の一部を成しているかあるいは左注のような位置付けになり得ます。

② そのため、類似歌として共通の役割の有無を、歌本文も対象とした編纂方針検討の前に、確認しておきます。編纂者は類似歌の扱いをどのようにしているかの検討ということになります。これは、歌集名の検討で得た、『猿丸集』は類似歌に関する新しい理解を示した歌集、という推測の確認のひとつでもある、と思います。

③ 『猿丸集』の検討は、付記1.に示すことを前提としています。

歌集は編纂者の編纂者の作品であるので、使用している語句の編纂者の時代における用い方を確認し、判明あるいは推測した編纂方針に従った各歌の理解を、心掛けたところです。

久曾神昇氏は、『古今和歌集』について「きわめて整然と類別せられており、撰者貫之の几帳面な性格をしることができる。鑑賞にあたっても、排列はつねに注意すべきである」(講談社学術文庫古今和歌集(四)』「解説」)と指摘しています。しかし、その排列には諸氏に論があるところであり、三代集はみな然りです。

④ 類似歌である62首について私が試みた現代語訳も、当該歌集の編纂方針を模索し、それに基づく当該歌集の配列からの要請、詞書、用いている語句の当該歌集編纂時の意味、文の構成、歌の左注、当該歌の元資料が当該歌集編纂者の許に蒐集される経緯(特によみ人しらずの歌)などの検討結果でした。諸氏と異なる結果となった場合もあるところです。

 

2.類似歌の理解が分れる所以 

① 『猿丸集』の類似歌は、萬葉集に30首、古今集に24首、拾遺集・千里集・神楽歌等に8首の計62首あります。『新編国歌大観』(角川書店)により引用し、現代語訳を試み、その経緯と結果は、「わかたんかこれ 猿丸集・・・」と題した、2018/1/15以降2019/11/4付けまでの上村 朋のブログに記してあります。 

② 歌の理解は、おおまかなところ、各歌本文と当該歌集との関係の取り扱いにより、いくつかのパターンがあります。詞書などより当該歌本文(31文字)を重視した理解、詞書との整合をも重視した理解、編纂された歌集の1首として理解などがあり、歌は鑑賞されてきています。

 私の現代語訳(試案)は、編纂された歌集の1首(歌集における歌)として理解すべく検討した結果です。

③ 各類似歌の私の現代語訳(試案)の理解と諸氏の理解を、歌集における歌という理解をベースにして主観的ですが、次の三段階で判定すると、下記の表1が得られます。

 理解の一致度A :その歌集における歌として、諸氏における有力な理解と同じ。 

 理解の一致度B :その歌集における歌として、諸氏における有力な理解とほぼ同じでも異なるところがある。例えば、作者の訴えたいことをもっと明確に訳出したい、詠っている景の意味をもっと明確に訳出したい、など。 

 理解の一致度C :その歌集における歌として趣旨が異なる。例えば、作者の訴えたいことが異なる、詠っている景の意味のベクトルが異なる、など。

 その結果、Aが16首、Bが25首、Cが21首(類似歌は計62首)となりました。

④ 類似歌の新しい理解となった歌がBとCの計46首(62首の74%)あることになりますが、16首が諸氏の理解と同じとなりました。

このことからは、歌集名の検討で得た、『猿丸集』は類似歌に関する新しい理解を示した歌集、という推測は、誤りであり、『猿丸集』は、旧来の歌によく似ていても新しい歌を創作し編纂した歌集、ということになりそうです。「猿丸」と冠したのは、歌の意を換骨奪胎したのが古の人である(編纂した者の意思ではない)、という建前の宣言という推測は変わりません。

表1  『猿丸集』の類似歌において現代語訳(試案)の理解と従来の理解の差異の理由一覧   (2020/4/27 現在 )

                (萬:『萬葉集』歌 古:『古今和歌集』歌 )

歌番号等

 

類似歌の詞書(相当)の部分

理解の一致度

理由1(配列等歌相互)

理由2(語句関係)

3-4-1

 

萬284: 黒人妻答歌一首 (雑歌)

C

配列の考察

固有名詞の順序

3-4-2

 

萬572: 大宰師大伴卿、・・・の駅家に餞する歌四首(571~  574 )

   C

――

紫根染法の比喩

3-4-3

 

古711: 題しらず  よみ人しらず (恋四)

 B

――

「こと」と「月草のうつしこころ」の理解

3-4-4

 

萬1471: 弓削皇子御歌一首 (夏雑歌)

A

(土屋氏)

――

ホトトギス」の理解

3-4-5

 

萬 3070ノ一傳: 題しらず (古今相聞往来歌・四茂野陳氏)

 A

(土屋氏)

――

「草結ぶ」の理解

3-4-6

 

萬 2717の一伝: 題しらず (古今相聞往来歌・寄物陳思)

  B

阿蘇氏)

配列の考察

「しながどり」の理解

3-4-7

 

a拾遺586:詞書なし (神楽歌)

 B

――

「しながどり」の理解

3-4-7

 

b神楽歌41: 伊奈野(41~43) 本 (神楽歌 大前張(おおさいばり))

  B

元資料の理解

 

「しながどり」の理解

3-4-8

 

a萬293: 間人宿祢大浦初月歌二首(292,293)(雑歌)

   C

配列の考察

「出来月」と「夜隠」・「夜窂」の理解

3-4-8

 

b萬 1767: 沙弥女王歌一首 (雑歌)

   C

題詞(詞書)の理解

「出来月」と「夜隠」・「夜窂」の理解

3-4-9

 

萬2878: 題しらず (古今相聞往来歌・正述心緒)

   C

配列の考察

萬葉仮名の理解

3-4-10

 

萬1538: 石川朝臣老夫歌一首 (秋雑歌)

   C

配列の考察

女郎花の植生の理解

3-4-11

 

萬1613: 丹比真人歌一首 (秋相聞)

A

――

鹿と野原との関係

3-4-12

 

萬1697: 紀伊国作歌二首(1696,1697) (雑歌)

  B

配列の考察

「ころもで」の理解

3-4-13

 

萬2998: 一本歌曰<2997の異伝>(古今相聞往来歌・寄物陳思)

 B

――

梓弓は末の有意の枕詞

3-4-14

 

萬498: 田部忌寸櫟子任大宰時作歌四首(495~498)

   C

詞書(題詞)の理解

「にほへるやま」の理解

3-4-15

 

a萬2642: (古今相聞往来歌・寄物陳思)

  B

――

「まそかがみ」の理解

3-4-15

 

b萬 2506; 題しらず(古今相聞往来歌・寄物陳思)

 A

――

「まそかがみ」の理解

3-4-16

 

a萬1934: 問答(1930~1940)

 A

――

 

3-4-16

 

b萬1283: 旋頭歌

 A

――

 

3-4-17

 

古760: 題しらず よみ人しらず(恋五) 

  B

――

「みなせがわ」の理解

3-4-18

 

a萬786: 大伴宿祢家持贈娘子歌三首(786~788) (相聞) 

 A

――

 

3-4-18

 

b萬1905: 寄花(1903~ 1911)(春の相聞)   

  B

詞書(題詞)の理解

「ふじ」の理解

3-4-19

 

萬3005: 題しらず (古今相聞往来歌・寄物陳思)

 A

(土屋氏)

――

 

3-4-20

 

古490: 題しらず   よみ人しらず (恋一)

 A

(久曾神氏)

――

 

3-4-21

 

萬3683: 海辺望月作歌九首(3681~89)

  B

 

「あま(の)をとめ」の主たる仕事の理解

3-4-22

 

a萬3749:(右四首中臣朝臣宅守上道作歌(3749~ 3752))(相聞)

 A

(土屋氏)

――

当時の「船」の理解

3-4-22

 

b拾遺集 872: 題しらず  よみ人しらず (恋四)

 A

――

 

3-4-23

 

萬122: 弓削皇子思紀皇女御歌四首(119~122)

  B

詞書(題詞)の理解

 

3-4-24

 

萬 439: 和銅四年辛亥河辺宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首(437~440) (挽歌)

   C

(2案を認める)

詞書(題詞)の理解

作者の理解

3-4-25

 

萬120: 弓削皇子思紀皇女御歌四首(119^122)

 A

――

 

3-4-26

 

萬2354: 寄夜 (よみ人しらず 冬相聞)

 B

――

「かねて」の理解

3-4-27

 

萬1144: 摂津作 (雑歌)

  B

――

「しながどり」と「やどり」の理解

3-4-28

 

古204: 題しらず  よみ人しらず (秋上)

 B

配列の考察と詞書の理解

作者の位置の考察

3-4-29

 

萬2841: 左注右一首、寄弓喩思 (古今相聞往来歌・譬喩)

  B

(2案とも)

――

「あづさゆみ」の比喩と

「ゆづかまきかへ なかみさし」の理解

3-4-30

 

a人丸集216: 題しらず

 A

――

 

3-4-30

 

b拾遺集954: 題しらず (人まろ 恋五)

   C

配列の考察

「ものはおもはじ」の理解

3-4-31

 

古34: 題しらず  よみ人しらず (春上)

  B

――

梅のある場所の理解

3-4-32

 

古50: 題しらず  よみ人しらず (春上)

  B

配列の考察

 

3-4-33

 

古122: 題しらず  よみ人しらず (春下)

 C

配列の考察

(山吹と作者の位置関係)

「なつかし」の理解

3-4-34

 

古121: 題しらず  よみ人しらず (春下)

   C

配列の考察

(山吹と作者の位置関係)

花期の理解

3-4-35

 

古147: 題しらず  よみ人しらず (春下)

 A

(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

――

 

3-4-36

 

古137: 題しらず  よみ人しらず (春下)

  B

配列の考察

「うちはぶく」の理解

3-4-37

 

a古185: 題しらず  よみ人しらず (秋上)

 

   C

配列の考察

「おほかた」と「あき」と「かなしき物」の理解

3-4-37

 

b 千里集38:秋来転覚此身衰 ちさと 

   C

序と配列の考察

「おほかた」と「あき」と「わが身」の理解

3-4-38

 

古198: 題しらず  よみ人しらず (秋上)

  B

配列の考察

「あき萩も」の理解

3-4-39

 

a古215:これさだのみこの家の歌合のうた よみ人知らず(秋上)

  B

 

配列の考察

牡鹿の行動の理解

3-4-39

 

b新撰萬葉集113:<詞書無し>(秋歌三十六首)

 

   C

競詠の詞書とその歌の理解

「秋は悲し」の理解

3-4-39

 

c寛平御時后宮歌合82:<詞書無し>(秋歌二十番)

   C

番えられている歌の理解

「秋は悲し」の理解

3-4-40

 

古208: 題しらず よみ人しらず(秋上)

   C

配列の考察

「雁」と「わがかど」の理解

3-4-41

 

古287: 題しらず よみ人しらず(秋下)

  B

配列の考察と文体の理解

「とふ人」と「道」の理解と作者の性別推定

3-4-42

 

古224: 題しらず よみ人しらず(秋上)

 A

(久曾神氏)

――

 

3-4-43

 

古307: 題しらず よみ人しらず(秋下)

   C

配列の考察

「もる」の理解

3-4-44

 

萬2672: 題しらず  よみ人しらず (古今相聞往来歌類之上 寄物陳思)

  B

配列の考察

「ゆふづくよ」と「あさかげ」の理解

3-4-45

 

萬154:石川夫人歌一首(挽歌)

 B

配列の考察

 

3-4-46

 

古1052: 題しらず よみ人しらず(誹諧歌)

   C

部立てと配列の考察さらにペアの歌の理解

「なにぞ」と「かるかや」の理解

3-4-47

 

古995: 題しらず  よみ人しらず(雑歌下)

   C

配列の考察

「ゆふつけとり」と「たつたのやま」と「からころも」の理解

3-4-48

 

古817: 題しらず よみ人しらず(恋五)

  B

部立てと配列の考察と「寄物」の理解

「あらをだ」と「すきかへす」の理解

3-4-49

 

古29: 題しらず よみ人しらず(春上)

 C

配列の考察

「よぶこどり」と「おぼつかなし」の理解

3-4-50

 

古54: 題しらず よみ人しらず(春上)

  B

配列の考察

「たき」の理解

3-4-51

 

古65: 題しらず よみ人しらず(春上)

 A

――

「惜しげ」の理解

3-4-52

 

古520: 題しらず  よみ人しらず (恋一)

   C

配列の考察

「こむ世」と助動詞「む」の理解

 (首)

 

62 (同種の詞書なし)

 

A:10+4+2=16

 

B:12+11+2

=25

C:8+9+4=21

(重複有り)

A該当の歌:無し

B該当の歌:

16

C該当の歌:20

 

A該当の歌: 5

 

B該当の歌:23

 

C該当の歌:21

注1)歌番号等:『新編国歌大観』における巻番号―その巻における歌集番号―その歌集における歌番号。但し、3-4-7歌の類似歌の神楽歌は『新編日本古典文学大系42 神楽歌催馬楽梁塵秘抄閑吟集』における歌番号。

注2)「題しらず」とは、詞書のない歌(無記)をも含む。古今集歌には作者(「よみ人しらず」)を付記した。「題しらず」も詞書の1種なので、すべての類似歌62首にみな詞書がある(計62)。

注3)「類似歌の詞書(相当)の部分」欄の()内は類似歌の記載された歌集の部立て。ただし3-4-21歌の類似歌の場合は詠う時点を記した。

注4)「理解の一致度」欄のA,B,Cの意は、つぎのとおり。

理解の一致度A :その歌集における歌として、諸氏における有力な理解と同じ。 

理解の一致度B :その歌集における歌として、諸氏における有力な理解とほぼ同じでも

異なるところがある。例えば、作者の訴えたいことをもっと明確に訳出したい、詠っている景の意味をもっと明確に訳出したい、など。 

理解の一致度C :その歌集における歌として趣旨が異なる。例えば、作者の訴えたいこ

とが異なる、詠っている景の意味のベクトルが異なる、など。

注5)「理解の一致度」欄の計は、A,B,C別に「萬葉集歌数+古今集歌数+その他の歌数」を記す。Aの計は16首、Bの計は25首、Cの計は21首となった。

注6)理解の一致度Aにおける(阿蘇氏)とは同氏の『萬葉集全歌講義』での理解を、(土屋氏)とは同氏の『萬葉集私注』での理解を、(久曾曾神氏)とは同氏の『古今和歌集』(講談社学術文庫)での理解を指します。

注7)類似歌62首の内訳は、『古今和歌集』にある類似歌24首、『萬葉集』にある類似歌30首及びその他の歌集(歌合)にある類似歌8首である。2首の類似歌があるのは、3-4-7歌、3-4-8歌、3-4-15歌、3-4-16歌、3-4-18歌、3-4-22歌、3-4-30歌および3-4-47歌、3首あるのは3-4-39歌である。

 

3.類似歌の役割

① 理解の一致度がAの歌16首は、配列等歌の相互の関係も納得のゆくものです。

② 理解の一致度がBの歌25首は、配列等歌の相互の関係を再確認した結果の歌が16首、配列等歌の相互の関係は従来の理解でも納得いくが用いている語句(とその前提の)社会通念の理解が異なっているものが23首でした。(重複している歌があります。) 

③ 理解の一致度がCの歌21首は、配列等歌の相互の関係を再確認した結果の歌が20首、そして全ての歌において語句等の理解が異なっていました。(重複している歌があります。)

④ 歌の理解において、同音異議のある語句が多々用いられている語句の意の確定は、詞書や配列等や類似歌(この『猿丸集』歌と違う意で用いられているはずなので)の存在が根拠になっています。

⑤ 類似歌における私の現代語訳(試案)は、付記1.を前提にして、諸氏の理解より、各歌を歌集の歌としての理解をしていた、と言えます。

⑥ 歌集の編纂者による部立て、歌群の配置、歌の順序が、歌の理解に欠かせないものです。しかし、『新編国歌大観』記載の歌集は、完成時のものではなく伝本であり、編纂方針を歌集自体あるいは別途の文書に明確に記されていて今日まで残っているものも無くり見ることもなく、編纂方針は歌と歌集の理解を行う者の推測に過ぎない、という限界があります。

⑦ 『猿丸集』歌との関係で類似歌の共通的な事柄として、次のようなことを指摘できます。 既に指摘していることとも重なる点もあります。

第一 『猿丸集』の各々の歌から想起できる類似歌は、『猿丸集』の編纂者が歌集のなかで明示的に示しているものではない。しかし、『猿丸集』成立時に活躍している歌人には、十分想起できる歌(想起が難しいと思われる歌も1,2ある)が類似歌となっている。

第二 『猿丸集』の各々の歌から想起できる類似歌は、その『猿丸集』の歌に用いている語句の意を限定する役割を、持っている。『猿丸集』の歌が当該類似歌で用いている語句の意を限定しているという想定は、萬葉集歌が類似歌にあることからあり得ない。

第三 このため、『猿丸集』の歌が、類似歌の元資料の時代の創作でも類似歌が記載されている歌集編纂時期の創作でもなく、それ以後の創作であることを類似歌が示していることになる。

第四 『猿丸集』の歌の理解に、当該類似歌以外の類似歌は関与していない。類似歌同士は互いに独立しているといえるし、『猿丸集』の歌の配列に影響を及ぼしていない。⑧ 類似歌について、諸氏の主たる理解のほかに私が試みた現代語訳の理解が生じた理由については、つぎのようなことが指摘できます。

第十一 類似歌記載の歌集の編纂方針が各自の推測であるので、いくつかの案にまで収斂するとしても編纂方針のとらえ方が複数あり得るし、現にそうなっている。

第十二 用いられている語句の当時の意味の理解が、歌に沿って行われるのが普通であり、ハンディな古語辞典の訳語ではニュアンスが正確に表現できない場合も多い。類似歌の理解でも同様であり、複数の理解が有り得るし、現にそうなっている。

第十三 類似歌記載の歌集における元資料歌には推測の域のものがある。元資料の作詠事情、記録され編纂者の許に集まった経緯などが歌の理解に影響を及ぼしている場合がある。

 ⑨ 上記⑦のような役割を持っているのが類似歌であるとして、歌本文をも検討対象とした『猿丸集』の編纂方針をみてゆきたい、と思います。

⑩ 次回は、『猿丸集』の巻頭歌と最後の歌(掉尾の歌)を一組ととらえて検討します。常の歌集ならば、巻頭歌と最後の歌(掉尾の歌)は特別視して編纂されているからです。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2020/4/27  上村 朋)

付記1.『猿丸集』検討の前提

① 『猿丸集』の検討は、最初のブログ「わかたんかこれ  猿丸集とは」(2018/1/15付け)」で記した、次のことを前提としている。

第一 文字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものである、という考えを前提とします。

第二 上村朋が「わかたんかこれ・・・」と題して記したブログ(2017年以降たました)で検討した語句については、その結果(成果)を前提とします。その他は、必要に応じ、用いられている期間に配慮して用例より演繹することとします。

第三 これまでのブログでの指摘がすでに公表されている論文・記事等にあれば、その公表されている事がらを確認しようとしているものに相当するのがこの一連のブログとなります。

第四 歌は、『新編国歌大観』(角川書店)によります。『新編国歌大観』より引用する歌には、番号を付し、「同書の巻番号―その巻での家集番号―当該歌集での番号」で表示するものとします。例えば、『猿丸集』の五番目の歌は、「3-4-5歌」と表示します。

第五 『猿丸集』の歌が異体歌であるとされる所以の歌を諸氏が指摘しています。歌そのもの(三十一文字)を比較すると先行している歌がありますので、それを、(『猿丸集』歌の)類似歌、と称することとします。

② そのうえで、次のことも前提としている。

第十一 上村朋が「わかたんかこれ 猿丸集・・・」と題して記したブログ(2018年以降に記し、2020年4月13日付けまでのブログ)で検討した結果(成果)を仮説として前提に置きます。

第十二 仮説(と今称したブログでの検討成果)には、語句の理解、類似歌が記載されている歌集の理解、『猿丸集』の52の歌とその各々の類似歌と参考とした歌の理解並びに当時の社会に関する理解が含まれます。そしてすべて首尾一貫したものであるという検証が終わっていない状況のものです。

第十三 仮説は、だから、矛盾している事項がある可能性も有り、誤解である場合もある、という内容です。

第十四 仮説は、必要に応じて改めることとしますが、仮説全体の検証は後程改めて行うこととします。

   (付記終わり 2020/4/27   上村 朋)

 

 


 

 

わかたんかそれ 緊急事態宣言後

 上村 朋です。「わかたんかこれ 猿丸集・・・」はちょっとお休みし「わかたんかそれ 緊急事態宣言後」と題して記します。

 

 私は、今のところ熱もなく、ご飯もおいしくいただけ、保菌者ではなさそうな感じです。ストレスはたまっているのでしょう、時々声が大きくなります。

 保育園の園児が元気に散歩しているのを、衛生用品の買いに出たとき見かけました。通りの向こうに見たのですが、癒されました。保育士の方々、園児たち、元気をありがとう。

 お子さんを保育園に預けている方々、ライフライン・医療システムを支えていたいている方々、ありがとうございます。

 みなさんご自身とご家族の安全を優先してください。コロナウイルスのほか春の嵐もあるのですから。

(2020/4/20  上村 朋)