わかたんかこれ 猿丸集第41歌その4 同じ詞書の歌3首

前回(2019/2/25)、 「猿丸集第41歌その3 秋歌の一組の歌」と題して記しました。

今回、「猿丸集第41歌その4 同じ詞書の歌3首」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第41 3-4-41歌とその類似歌

① 『猿丸集』の41番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-41歌  なし(3-4-39歌の詞書(しかのなくをききて)がかかる。)

秋はきぬもみぢはやどにふりしきぬみちふみわけてとふ人はなし

3-4-41歌の、古今集にある類似歌 1-1-287歌  題しらず     よみ人しらず

      あきはきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、両歌とも全く同じであり、詞書のみが、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、飽きられて捨てられたと詠うのに対して、類似歌は、秋の紅葉の景を楽しむ親しい人がいない、と詠っています。

 

2.~12. 承前

 (類似歌1-1-287歌が記載されている『古今和歌集』巻第五秋歌下の配列の検討よりはじめて、2首一組の歌が並ぶ未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292)」にある歌として1-1-287歌と1-1-288歌の一組を、現代語訳(試案)しました。その結果、1-1-287歌は、下記14.③に示した第2案の道をふみわけて私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)はいない」と理解するケースとなりました。)

 

13.3-4-41歌の詞書の検討

① さて、次に、3-4-41歌を、検討します。まず詞書です。詞書が特段記されていないので3-4-39歌の詞書「しかのなくをききて」がかかります。

 3-4-39歌の詞書の現代語訳(試案)を引用します。

「鹿が鳴くのを聞いて(詠んだ歌)」

③ 同じ詞書の歌である3首の歌を検討した後、この詞書を再度確認します。

 

14.3-4-41歌の現代語訳を試みると

① 詞書に従い、歌の現代語訳を試みます。

詞書にある「鹿が鳴く」とは、妻恋を連想させますが、同じ詞書であった3-4-39歌では、鹿狩りの標的となっている鹿の鳴く声を、意味していました。

② 初句「秋はきぬ」と、「あき」が漢字で表現されています。当時は清濁抜きの平仮名で和歌が書き記されているものであるので、写本作成時の問題と割り切る理解もあり得るところですが、漢字使用は詞書にいう「しかのなく」のが秋であることを強調しているという『猿丸集』の編纂者の意図とすると、初句「秋はきぬ」の「秋」に「飽き」が掛かっていることを示唆している、と思います。『猿丸集』の歌は、ここまで圧倒的に男女関係を詠う歌でした。

③ この歌は、類似歌と、清濁抜きの平仮名表記において全く同じです。類似歌を検討した際、文として可能性ある解釈の案を提案しています。それを、再掲します。(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第41歌その2 とふ人はなし」(2019/2/18付け)の「3.⑬」参照

 

1案(作中人物が女性で、男女関係を詠う歌)

「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。私は、もみぢはやどにふりしきぬ」、と今認識した。それは「秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所も例外ではなく「あきはきぬ」という状況になっている、と今認識した。」(次の文)。「このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、道をふみわけて「私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)、はいないと断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」(最後の文)」

 

2案(作中人物は男性で、官人・僧侶の人間関係を詠う歌)

1-1-287歌は、「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識に至れば、熟慮してもしてもしなくても道をふみわけてあの人乃至私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)はいない」と断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」

ただし、類似歌は、道をふみわけて私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)はいない」と理解するケースとなりましたので、それを除きます。

 

3案(作中人物が男性で、男女関係を詠う歌)

「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識に至れば熟慮しようとしまいと「道ふみわけて 男性(=A=作中人物=私)が訪ねる(様子をたずねる)ところの人(B=女性)、はいない、と断定してよい(あるいはせざるを得ない)(最後の文)」

 

4案(作中人物が男性で、官人・僧侶の人間関係を詠う歌)

「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。私は、もみぢはやどにふりしきぬ」、と今認識した(次の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、道をふみわけて男性(=A=作中人物=私)が訪ねる(様子をたずねる)ところの人(B=不定、はいない」

④ そのなかに、この歌の現代語訳(試案)もあることになります。

この歌と類似歌とは異なる歌であるのがここまでの『猿丸集』の歌の常でしたので、この歌の現代語訳(試案)は、類似歌の解釈案を除いた案となります。(及びブログ「わかたんかこれ 猿丸集第41歌その3 秋歌の一組の歌」(2019/2/25付け)の「11.」と「12.」参照)。

これらから、『猿丸集』の歌は圧倒的に男女関係の歌が多いことを条件にすると、

3-4-41歌の作中人物が男性の場合は、上記の第3

3-4-41歌の作中人物が女性の場合は、上記の第1

が、候補となります。

上記の第3案と第1案は、既に指摘したように、それが悲観すべきことか、喜ばしいことなのかは、不明(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第41歌その2 とふ人はなし」(2019/2/18付け)の「3.⑬」参照)なので、最初に悲観的な歌の可能性を検討します。

その場合、妻恋より悲観的なのは鹿狩りの標的となっている鹿であり、詞書でいう鹿は、後者となります。

⑤ 上記の各案は仮訳なので、悲観的の歌として、現代語訳を試みます。

3-4-41歌の作中人物が男性(上記の第3案)

(鹿狩にあい鹿が鳴く絶望的な)秋となってしまった。もみぢはわが屋敷内外にふり敷ききってしまった。彼女が私に飽きたということをこれらが否応もなく私に突きつけているのだ。道をふみわけて私が訪ねようとするひとはいない、ということになってしまった。」

 

3-4-41歌の作中人物が女性(上記の第1案)

(鹿狩にあい鹿が鳴く絶望的な)秋となってしまった。もみぢはわが屋敷内外にふり敷ききってしまっている。あの人が私に飽きたということをこれらが否応もなく私に突きつけているのだ。(私を大切に思い)錦と見まがうもみぢを踏みわけてでも私のところを訪ねようとするひとではなくなったのだ。」

作中人物の性別は、同じ詞書の歌3首との関係にヒントがあるかもしれません。

⑥ 次に、喜ばしい歌として検討します。

作中人物が女性の場合、喜びの歌とも考えられます。例えば、

「(鹿狩にあい鹿が鳴く)秋は来た(まもなく鹿は捕らえられるだろう。飽きたあの人との関係も終る)。

秋は、黄葉の季節に入り、すでに(順調に)わが屋敷に降り敷いてくれた。それでもう訪ねて来る人はいない。(存分にこれからの人生を楽しめる目途がたった。)」

当時の秋という季節を詠む歌には、「かなしい秋・惜しい秋」という雰囲気の歌が多くあり、『古今和歌集』秋歌も同じ傾向です。それに対して、この案ではそれには程遠い理解の歌となります。

また、この歌を、誰に示したかを考えると、今交際している男性か、周囲に仕える者が候補となります。前者は、「このような決着が着いた」と報告するようなものであり、当時の貴族の女性が示しすの疑問です。後者も、聞いたとしても人に話すまでもないことです。

3案は作中人物が男性として喜びの歌となりますが、男の性として今の相手にあらためて伝える可能性はもっと低いと思います。

⑥ このため、3-4-41歌は、作中人物の性別がまだ定まっていない悲観的な歌としての上記の両案となります。

 

15.この歌と類似歌とのちがい

① ここまでの検討をまとめると、次のようになります。

② 詞書が違います。この歌3-4-41歌の詞書は、詠むきっかけの情報を明らかにしています。これに対して類似歌1-1-287歌の詞書は、題しらずであり、詠む事情を不問とし、ただ、部立で秋の歌であることを示しているだけです。

③ 初句にある「秋」の掛詞の有無が違います。この歌は、「飽き」を掛けています。類似歌は、それがありません。

④ 作中人物の性別がはっきりしていません。この歌は、今のところ未定であり、類似歌は男性です。

⑤この結果、この歌は、姓未定の作中人物が、飽きられて捨てられたと詠うのに対して、類似歌は、秋の紅葉の景を楽しむ親しい人がいない、と詠っています。

16.共通の詞書とこの3首の検討

① 3-4-39歌から3-4-41歌の詞書は、「しかのなくをききて」でした。

同じ意の詞書と仮定して各歌の理解を試みてきましたので、横並べをして検討します。

② 歌を再掲します。

3-4-39歌 しかのなくをききて

あきやまのもみぢふみわけなくしかのこゑきく時ぞ物はかなしき

3-4-40歌    (詞書は3-4-39歌に同じ)

わがやどにいなおほせどりのなくなへにけさふくかぜにかりはきにけり

3-4-41歌    (詞書は3-4-39歌に同じ)

秋はきぬもみぢはやどにふりしきぬみちふみわけてとふ人はなし

 

③ 3首の現代語訳(試案)も再掲すると、次のとおり。

詞書:3首共通であり、

 「鹿が鳴くのを聞いて(詠んだ歌)」

 

3-3-39歌の現代語訳(試案) (ブログ「わかたんか 猿丸集第39歌その3 ものはかなしき」」(2019/1/28付け)参照)

「(狩で追いつめられている鹿の鳴き声が聞こえてくる。)秋の色になった山で落葉した黄葉を踏みわけて鳴いている鹿の声を聞く時は、定めとはいうものの、かなしいものである。」

この歌は、聴覚に届いた情報をもとにして作中人物が秋の感慨を詠ったという建前の歌です。

勢子のざわめきや犬の吠えたてるかのような鳴き声も聞こえたでであろうと推測するのですが、その中から鹿の鳴き声にのみを聴き取り、作中人物はこの歌を詠んだということになります。

そして、作中人物は、男性でも女性でも良い歌である、と思います。

 

3-4-40歌の現代語訳(試案) (ブログ「わかたんか 猿丸集    」(2018/  付け)参照)

「(妻恋をしきりにしている鹿の鳴き声が聞こえ、)わが屋敷の門に、田に行くはずの「いなおほせ鳥」が来て鳴いていて、同時に今朝の風にのり雁がきた。「異な仰せ(を伝える)鳥」と一緒で届いた便りは、やはり秋(飽き(られた)の便りだった。」

 悲恋となる便りが届くかという予想のとおりであったと作中人物が愚痴っているのが、この歌ではないでしょうか。

この3-4-40歌の類似歌1-1-208歌は、雁がいろいろのものをもたらすという歌群の中にあり、田を守る我が田小屋に来た「いなおおせ鳥」を詠い雁(妻の便りが届く)が来たと詠います。類似歌の「いなおおせ鳥」は田の作業を主として担当する男が待ち望んでいるものですから、この歌で「わがやど」と言っている作中人物に、男を想定してよい、と思います。女ではありません。

 

3-4-41歌の現代語訳(試案) 

上記15.⑤に記載

 

④ この3首は、同じ詞書のもとに『猿丸集』に並んで記載されています。編纂者が、連作であると理解して詠むことを勧めていると見ることができます。詞書の意は共通で、作中人物は3首とも男性か女性のどちらかになります。

作中人物を確認すると、

3-4-39歌 男性・女性とも可能

3-4-40歌 男性

3-4-41歌 男性・女性とも可能

このため、この3首の作中人物は、男性と見做すこととします。3-4-41歌の現代語訳は上記15.⑤に記載の第3となります。

⑤ 詞書も同一の意のものとみなし、3-4-40歌の現代語訳はつぎのように修正します。(下線部分)

3-4-40歌の現代語訳(試案)

「(鹿狩りにあった鹿の鳴き声が聞こえ、)わが屋敷の門に、田に行くはずの「いなおほせ鳥」が来て鳴いていて、同時に今朝の風にのり雁がきた。「異な仰せ(を伝える)鳥」と一緒で届いた便りは、やはり秋(飽き(られた)の便りだった。」

⑥ この3首は、「かなしい秋」・「悲嘆している作中人物」であることが共通しています。

同じ意の詞書と仮定してこの3首の歌は理解して差し支えなかった、と言えます。

 

⑦ 検討が長くなり時間を要しましたが、3-4-39歌から3-4-41歌は、ようやく一段落しました。この3首も、作中人物の性別も確定できたうえ、その類似歌とは異なる意の歌になりました。共通の詞書によってそうなりました。

さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-42歌  女のもとにやりける

はぎのはなちるらんをののつゆじもにぬれてをゆかむさよはふくとも

その類似歌  古今集にある類似歌1-1-224歌    題しらず      よみ人知らず」

萩が花ちるらむをののつゆじもにぬれてをゆかむさ夜はふくとも

 

『猿丸集』の歌は、この類似歌と、趣旨が違う歌です。

⑧ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2019/3/4  上村 朋 (e-mailwaka_saru19@yahoo.co.jp)

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第41歌その3 秋歌の一組の歌

前回(2019/2/18)、 「猿丸集第41歌その2 とふ人はなし」と題して記しました。

今回、「猿丸集第41歌その3 秋歌の一組の歌」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第41 3-4-41歌とその類似歌

① 『猿丸集』の41番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-41歌  なし(3-4-39歌の詞書(しかのなくをききて)がかかる。)

秋はきぬもみぢはやどにふりしきぬみちふみわけてとふ人はなし

3-4-41歌の、古今集にある類似歌 1-1-287歌  題しらず     よみ人しらず

      あきはきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、両歌とも全く同じであるものの、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、飽きられて捨てられたと詠うのに対して、類似歌は、秋の紅葉の景を楽しむ親しい人がいない、と詠っています。

 

2.~4 承前

 (類似歌を最初に検討することとし、類似歌が記載されている『古今和歌集』巻第五秋歌下の配列より、類似歌1-1-287歌は、2首一組の歌が並ぶ未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292)」にあり、対となる歌が1-1-288歌である、ということがわかりました。そして1-1-287歌について作中人物の性別と「とふ」行為を検討し、その仮訳を、4案得ました。)

 

5.対の歌の検討 「ふりかくす」

① 古今集にある類似歌1-1-287歌と対となっている1-1-288歌の現代語訳を、改めて試み、この2首を比較し、1-1-287歌の(『古今和歌集』における)趣旨の検討に資するものとします。

最初に、1-1-288歌を、再掲します。

1-1-288歌  題しらず    よみ人しらず

       ふみわけてさらにやとはむもみぢばのふりかくしてしみちとみながら 

 

② 訳例として久曾神氏の訳を引用します(『古今和歌集(二) 全訳注』講談社学術文庫

 「もみぢを踏み分けて行って、なおも訪ねようかしら。もみぢ葉が主人の心を汲んで、散りかくしてしまった道であるとみながらも。」

 氏は、「その家に住んでいる人は、世をのがれてわび住まいをしている人」と推測し、「前の歌の答えととれる」と説明しています。

契沖も1-1-287歌との問答歌とみているそうです。

片桐洋一氏は、この歌について、「前歌(1-1-287歌)の趣旨に疑問を呈し、反対の意向をもって応じている」としています。そして「問答的な贈答歌」であり、「待つ女」の嘆きに対して「私を来させまいとしているのを知って訪ねてゆけようか」と応じた(のがこの歌)」と評論しています。そして、当時の男女の贈答歌の典型にそって「よみ人しらず歌二首をこのように配列して、歌物語にも類した一つの世界を作り上げた撰者の遊びを興味深くおもう」と評しています。

③ 私は、この2首が秋歌として「未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292歌」にあることにもっと留意してよい、と思います。ブログ「猿丸集第41歌その1 秋歌下は皆2首一組」(2019/2/11付け)で、この歌群は「もみぢの散るのを惜しみ、それによる悲しみをこらえているかにみえる」と推測しました。

この1-1-288歌では、「もみぢばのふりかくし(てや)」と1-1-287歌の「紅葉はふりしきぬ」より、「もみぢば」の自立的な行為という詠み方をしていますので、もみぢする、ということについての確認から始めたい、と思います。

巻第五秋歌下を通覧すると、もみぢするのは、人間の技ではありません。秋を司る神か露とか霜などです。1-1-288歌の上記のような訳例の理解は例外になります。

四季の移り変わりで生じているものですので天帝が直接意思を及ぼしているかもしれません。だから、もみぢして落葉し道を「ふりかくし」ているのは、官人でも女性でもありません。

そして「ふりしいた」もみぢは、流水や風で消えていっています。もみぢした山は、落葉が始まりそれほどの日時が経たないうちに錦を畳んでしまいます。道も路面がわかる状況に戻ります。

具体的にもみぢの散る様子の描写を、この歌群と前の歌群でみると、

1-1-281歌と1-1-282歌は、山のもみぢを詠い、「ちりぬべみ」、「ちりぬべし」と描写

1-1-283歌と1-1-284歌は、流水のもみぢを詠い、「みだれて流る」、「もみぢば流る」と描写

1-1-285歌と1-1-286歌は、風に舞うもみぢを詠い、「ふきなちらしそ」、「かぜにあへずちりぬる」と描写

1-1-287歌と1-1-288歌は、地にふりしくもみぢを詠い、「やどにふりしきぬ」、「ふりかくしてしみち」と描写

1-1-289歌と1-1-290歌は、林の木の葉が散る状況を詠い、明るさの違う光に対応して「(月の)てらせる(葉)」、「色のちくさにみえつる」と描写

1-1-291歌と1-1-292歌は、散り切ってしまう・錦なくなる状況を詠い、「よわからし」、「ちりけり」と描写

このように人間(歌では官人等)の意志に応じたかのような表現をしていないことで統一している、と見たほうが、素直です。

1-1-287歌にある動詞「ふりしく」は、雪に対して『萬葉集』に数例ありますが、もみぢに対して用いるのは『古今和歌集』で初めてであり三代集ではあと1例(1-2-412歌)だけです。しかも三代集では「雪」に用いている歌がありません(付記1.参照)。

1-1-288歌にある動詞「ふりかくす」は、『萬葉集』に無く、三代集で雪に対して1例(1-3-1177歌)、もみぢに対して1(この歌1-1-288)だけです(付記1.参照)。

④ 1-1-283歌が「わたらば錦なかやたえなむ」と詠うように、『古今和歌集』の歌には、もみぢし落葉した状況に対して、人工的な手を加えるより消えるのを待とうという姿勢が強い。作中人物である官人は、待つのが善い方法である、としているようです。

また、雪が「ふりしく」実景は、都近くの比叡山で、道の立体的な形態がわからなくなるほどのこともあったかもしれません。「もみぢ」が「ふりかくす」という表現は、当時において斬新なものであるものの、譬喩としては、もみぢが「ふりかくした」道も、時が立てば自然と見えてくるもですよね、と相手に念押しされる表現だと、思います。

1-1-288歌の作中人物は臨時の通行止めにあっているだけであり、訪問が物理的に不可能となったとは理解してもらえない譬喩となっています。

⑤ このように、この一組の歌が、もみぢその他に関して共通のものを持ち、何かを対とした歌であるために、問答歌というのが必須の条件ではありません。しかし、この2首は諸氏において問答歌か、とみる方もいますので、その検討を行い、次いで単独の歌2首としての理解を試みます。

 

6.一組の歌の検討その1 案の組み合わせ

① 私は、前回(「わかたんかこれ 猿丸集第41歌その1 秋歌下は皆2首一組」(2019/2/11付け))で、1-1-287歌と対となっているこの歌を、次のように理解したと記しました。

1-1-288歌  題しらず      よみ人しらず 

「もみぢを足で払いつつわざわざ訪れましょうか。美しいもみぢが主人の心を汲んで散り隠してしまっている道と知りながら」

 

今から思えば、もみぢが散ることについて理解が不足していました。

② この歌(1-1-288歌)の現代語訳を、改めて試みるものとします。

作中人物の行為(関係する動詞)は、「ふみわく」と「とふ」の二つがあり、「ふりかくす」という行為は作中人物の行為ではありません。

この歌は、倒置した疑問文という構成の一文の歌とみることができます。あるいは、疑問の理由を、あとの文(三句以下)に述べているという構成の二つの文からなる歌とか、2つの文「ふみわけてさらにやとはむ」(二句まで)と「もみぢばのふりかくしてしみちとみながら(とはむか)」(三句以下)という繰り返し呼び掛けている文からなる歌、とも見えます。

また、文脈からは、作中人物と相手はなんらかの関係があると言えますが、二人の性別が直接表現されていません

③ 歌が、1つの文から成っているならば、「ふみわけて」とは、後段にある「ふりかくしてしみち」を行くことを意味します。官人の行動とすると、1-1-287歌にある「みちふみわけて」と同様に、「なんとしても貴方のところへ向かう」、という意です。歩くことに限定されません。女性が必死に向かう、という理解は蓋然性が低いと思います。

後段における「(ふりかくしてし)みち」は訪問先に至る一般の道路でなければなりません。1-1-287歌と同様に、門前あるいはあがるべき建物の手前に到着してから「とふ」のはおかしい。

作中人物が関わる「ふみわける」と「とふ」という行為に関する語句の間にある、「さらにや」とは、

副詞「さらに」+間投助詞「や」であり、「あらためて・そのうえに(批判的な気持ちで・・・する)」の意です。

歌が、2つの文から成っていれば、「ふみわけて」とは、足で分けながらすすむ、という徒歩に限定もできます。この場合、作中人物は、1つの文から成っている場合と同様に、男性の蓋然性が高い。

以上をまとめると、つぎのとおり。

第一案:歌は一文:作中人物は男性。相手は不定。何としても行くのかと問う。

第二案:歌は二文で後の文は前の文の理由:作中人物は男性。相手は不定。徒歩でも行くのかと問う。(何としても行くのかと問うのでは第一案と同じに意になるので。)

第三案:歌は二文で、繰り返し:作中人物は男性。相手は不定。行く方法は問題としていないで、行くのかと問う。

どの案も、もみぢしているこの時期に行くのは困難であることを性別が不明の相手に訴えている点は、変りません。作中人物と相手との関係が、歌の理解に及ぼす影響が大きいと思われます。

 

④ 作中人物と相手との関係で整理し直すと、可能性のある現代語訳に、つぎのようなものがあります。

11案:作中人物が男性で相手が女性 男女関係の歌

なんとしてでも、今、貴方をあらためて訪ねる(様子をたずねる)ことにしましょうか、(秋の女神が)紅葉させ葉を落させそれによって隠してしまった道となっているかにみえるのですが。」(上記第一案をベース)

結局この歌の作中人物は、訪ねる(様子をたずねる)ことを未だに躊躇しています。この歌の返事次第です、と見えます。この場合隠されてしまった道は、風が吹けば見えてきます。だから、今、もみぢしている時期が訪問に都合が悪い、つまり、もうしばらく我慢してください、我慢しましょう、という意が強いと思います。例えば、身内で反対している人が居るとか、喪に服さざるを得ないとかが、想定できます。

 

12案:作中人物が男性で相手が男性 官人・僧侶の人間関係の歌 その1

なんとしてでも、あなた(又はあの人を)あらためて訪ねる(様子をたずねる)ことにしましょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落させそれによって隠してしまった道となってみえるのに。(私にはもみぢの錦を断ち切れませんが。)」(上記第一案をベース))

結局この歌の作中人物は、第11案の作中人物と同様に訪ねる(様子をたずねる)ことに躊躇しています。今、もみぢしている時期が訪問に都合が悪い、つまり、もうしばらく我慢してください、という意が強いと思います。例えば公的に往来を遠慮する事態が作中人物か相手にあることが想定できます。徒歩でも行くのかという理解(上記の第二案ベース)は、官人として最善を尽くすならば手段を問わないはずだから、あり得ないと思います。

作中人物の性別以外に第11案との大きな違いは、訪ねる人が、この歌を送った人のほかに、作中人物と歌を送った人とが共に訪ねるべき相手が居ることを想定できることです。その訪ねる時期の相談をしている歌ともとれます。訪ねる人を詞書などからで限定できないので可能性のある想定をしたところです(1-1-287歌との関係で限定することになります)。

 

13案:作中人物が男性で相手が不定 官人・僧侶の人間関係の歌 その2

動詞「とふ」は、「自分にはっきりわからないことを相手に向ってたずねること」がもともとの意であり、「訪ねる(様子をたずねる)」には、「求婚する・無沙汰の見舞いをする(とぶらふに近い意)・弔問する

」(『古典基礎語辞典』)意もあります。「とふ」を「求婚する」意を掛けて用いている、と推定すると、「ふみわけて」を、現状から一歩踏みだす意と理解し、

なんとしてでも、あらためて求婚のステップを踏むことなのでしょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落させそれによって隠してしまった道(一時的なことである)のようにみえるのに。」(上記第三案をベースとする)

このような内容の歌であると理解すると、作中人物である男性が相談を持ち掛けられてその返事をしたという官人・僧侶の人間関係の歌のひとつと見ることができます。作中人物である男性は、何かの仲立ちをした官人などが想定できます。

 

⑤ 1-1-288歌を、これらのいづれかの歌と理解し、2首一組の歌が並ぶ未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292)」に配列されている対の歌(1-1-287歌と1-1-288歌)を、突き合わせることとします。

1-1-287歌の現代語訳(試案)4案ありました(ブログ「猿丸集第41歌その2 とふ人はなし」(2019/2/18付け)の「3.⑬」参照)。突き合わせる組合せが次のように多くあります。

以下に検討した結果を、歌の理解が難しかったケースに「→×」印、限定条件をつければ理解可能だったケースに「→△」印、理解可能であったケースに「→〇」印を、両歌の最終的な現代語訳候補にさらに「→◎」印を付しています。

1-1-287歌が第1案(作中人物が女性で、男女関係を詠う歌)の場合

1-1-288歌の第11案が1-1-287歌との問答歌 (ケースA)      →×

両歌の案がそれぞれ単独歌           (ケース単独A)  →〇

1-1-287歌が第2案(作中人物は男性で、官人・僧侶の人間関係を詠う歌)の場合

1-1-288歌の第12案が1-1-287歌との問答歌 (ケースB)      →△

両歌の案がそれぞれ単独歌           (ケース単独B)  →〇→◎

1-1-288歌の第13案が1-1-287歌との問答歌 (ケースC)     →×

両歌の案がそれぞれ単独歌           (ケース単独C)  →×

1-1-287歌が第3案(作中人物が男性で、男女関係を詠う歌)の場合

1-1-288歌に問答歌としえ突き合わすべき歌無し  (ケースD)  →×

両歌の案がそれぞれ単独歌           (ケース単独D)  →×

1-1-287歌が第4案(作中人物が男性で、官人・僧侶の人間関係を詠う歌)の場合

1-1-288歌の第12案が1-1-287歌との問答歌  (ケースE)    →△

両歌の案がそれぞれ単独歌           (ケース単独E)  →〇

1-1-288歌の第13案 1-1-287歌と問答歌  (ケースF)      →×

両歌の案がそれぞれ単独歌           (ケース単独F)  →〇

 

7.一組の歌の検討その2 ケースAとケース単独AF

① 以下ケースごとに検討します。最初に、ケースAの現代語訳()を再掲し、検討します。

作中人物が女性の男女関係の歌である1-1-287歌は第1案となり、作中人物が男性の1-1-288歌の第11案となります。

女性が、「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。私は、もみぢはやどにふりしきぬ」、と今認識した。それは「秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所も例外ではなく「あきはきぬ」という状況になっている、と今認識した。」(次の文)。「このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、道をふみわけて「私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)、はいないと断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」(最後の文)」

と詠い、男性が

なんとしてでも、今、貴方をあらためて訪ねる(様子をたずねる)ことにしましょうか、(秋の女神が)紅葉させ葉を落させそれによって隠してしまった道となっているかにみえるのですが。」(上記第一案をベース)

と詠いました。

② このケースの1-1-287歌の現代語訳()(第1案)は、「秋になっても状況は変わらない」と詠っているところであり、(前回のブログで指摘したように)悲観的な状況なのか喜ぶべき状況なのかは、歌だけではわかりません。

問答歌として第1案は悲観的な状況を詠っているとすると、このような歌を相手に送っているのだから、それはポーズのみとみなければなりません。当時の男女関係の歌のやりとりでの常套手段のひとつです。歌を送られた男性は、この機会に別れようとしないで、時期を待て、と返事をしています。1-1-287歌の「A=男性」に1-1-288歌の作中人物は当たらないと主張していることになります。

ただし、1-1-287歌を構成する三つの文は、完了の助動詞「ぬ」で終る文二つに続き最後の文も言い切っており、曖昧さを残していないのが、男女関係の歌として気になります。文の表面の意味通りに認識した、と相手から通告され(貴方のその態度が原因で男女関係を打ち切ると宣言され)たら、多くの代償を払っても復縁できるかどうかわかりません。だからこの歌は男女関係の継続を願う気持ちを残していないかにとれるところが欠点になります。

また、この返歌となる1-1-288歌も行くのを断るのに、行く道がもみぢにふさがれている、と詠う表面の理由は、もみぢは風により消失しまい、理由を失うことになるなど誠実さを反論される恐れが多分にある表現です。強い決意を述べているかの調子の歌と対等な強い決意が感じにくい、誠意のない断り方です。

だから、男女関係の問答歌としていぶかしく、不自然です。

なお、諸氏が男女の問答歌と指摘しているのは、このケースAの作中人物の組み合わせであろう、と思います。

③ 第1案の作者の状況は、もうひとつあり、「秋になっても状況は変わらない」のは「喜ぶべき状況」ということです。問答歌として考えると、これに対する返歌が、「今の時期が訪問に都合が悪い」という意では返歌になっていません。

④ 次に問答歌ではなくそれぞれが単独の歌とみることができるか(ケース単独A)というと、それは可能です。1-1-287歌と1-1-288歌は、ともに地にふりしくもみぢを詠い、「やどにふりしきぬ」、「ふりかくしてしみち」と描写が対照的ですから。(これは以下のケース単独B~Fでも同じです。さらに、下記11.での検討を経ることになります。)

⑤ だから、ケースAの元資料は、一組になっていた歌ではなく、別々の機会に詠われたものと推量します。

 

8.一組の歌の検討その3 ケースB

① 次にケースBの現代語訳()を再掲し、検討します。

作中人物が男性の官人・僧侶の人間関係の歌である1-1-287歌は第2案となり、作中人物が男性の(同じように)官人・僧侶の人間関係の歌えある1-1-288歌の第12案となります。

男性が、「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識に至れば、熟慮してもしてもしなくても道をふみわけてあの人乃至私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)はいない」と断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」

と詠い、男性が、

なんとしてでも、あなた(又はあの人を)あらためて訪ねる(様子をたずねる)ことにしましょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落させそれによって隠してしまった道となってみえるのに。(私にはもみぢの錦を断ち切れませんが。)」(上記第一案をベース)

と、詠いました。

② この2案は、訪ねる相手の限定をしていません。問答歌であれば、互いに了解事項として詠っているとみることができます。

その場合、1-1-287歌の案の作中人物が、「私を訪ねる人はいない」と詠う場合、嘆いているか怒っているとみれば、「私は(も)ゆけません(貴方のところに行かない)」と返歌するのはおかしいですが、喜んでいるとみれば、この返歌は有り得ますが、肯定文で返すのが普通であると思います。

③ また、1-1-287歌の案の作中人物が、「あの人(2者であるあなた)を訪ねる人はいない」という場合でも「ゆくな」と1-1-287歌の案の作中人物が言っているとしなければ問答歌になりません。そのためにはもみぢの散る時期は行くなという理解となります。しかしながら、返事の歌は疑問形にしないで、肯定した文で十分です。ぴったりした返歌とは理解しにくい。

④ 「あの人(第3者の誰か)を訪ねる人はいない」という場合でも「ゆくな」と1-1-287歌の案の作中人物が言っているとみなければ問答歌になりません。つまりもみぢの散る時期は行くなという理解となります。しかしながら、返事の歌は疑問形にしないで、肯定した文で十分です。ぴったりした返歌とは理解しにくい。

 

9.一組の歌の検討その4 ケースCとケースD

 次にケースCは、作中人物が男性の官人・僧侶の人間関係の歌である1-1-287歌は第3案となり、作中人物が男性の1-1-288歌は第13案となります。

男性が、「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識に至れば、熟慮してもしてもしなくても道をふみわけてあの人乃至私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)はいない」と断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」

と詠い、男性が、

なんとしてでも、あらためて求婚のステップを踏むことなのでしょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落させそれによって隠してしまった道(一時的なことである)のようにみえるのに。」

と詠いました。

② この2案の組み合わせを問答歌と見るならば、男性が同じ男性とのカップルに関して相談しているかになり、当時の官人にとっては公にはしない事態であり、勅撰集には編纂者が排除する類の歌となってしまいます。

③ 次にケースDは、作中人物が男性の男女関係の歌である1-1-287歌の第3案なので、問答歌ならば1-1-288歌の作中人物が女性になるはずですが、その案がありません。

 

10.一組の歌の検討その5 ケースEとケースF

① 次に、ケースEの現代語訳()を再掲し、検討します。

作中人物が男性の官人・僧侶の人間関係の歌である1-1-287歌は第4案となり、作中人物が男性の官人・僧侶の人間関係の歌は第12案となります。

男性が、「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。私は、もみぢはやどにふりしきぬ」、と今認識した(次の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、道をふみわけて男性(=A=作中人物=私)が訪ねる(様子をたずねる)ところの人(B=不定、はいない」

と詠い、男性が

なんとしてでも、あなた(又はあの人を)あらためて訪ねる(様子をたずねる)ことにしましょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落させそれによって隠してしまった道となってみえるのに。(私にはもみぢの錦を断ち切れませんが。)」(上記第一案をベース)

と詠いました。

② この2案を問答歌としてみると、最初の歌は、作中人物にとってもみぢの散る時期に「訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(B=不定)」はいないと指摘し、次の歌の作中人物もそうであるべきである(あなたも訪ねないはず)、と伝えた歌であり、返歌は、わたしが「訪ねるでしょうか、そのようなことはしません」と詠っていると理解することになります。問答歌として成り立つものの、なぜ肯定文で返歌しないのか、気になります。

③ なお、このBには、1-1-288歌の作中人物(1-1-287歌の作中人物からみて第2者もあり得ます。

④ この2案の作中人物がこのようなやりとりを必要としたのは、例えば公的に往来を遠慮する事態がこの2首の作中人物か共に訪ねるべき相手にあることが理由として想定できます。

⑤ ケースFは、ケースCと同様であり、1-1-287歌の常識を疑います。

 

11.一組の歌の検討その6 歌群において

① 以上のように問答歌の各ケースの可能性を整理すると、上記6.⑤に、「→*」で示したようになり、問答歌としては、ぎこちないケースがあるのみです。

② この2首は、『古今和歌集』秋部下にある「未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292)中の一組の歌であり、恋の歌にもなり得る1-1-285歌と1-1-286歌という対の歌のあとに位置しているこの2首は、そのような歌を続ける必然性はありません。問答歌でも単独の歌2首としても男女関係の歌としての理解は除外してもよい、と思います。

③ 単独歌としては、そのため、1-1-287歌は、男性が官人・僧侶の人間関係を詠うとする案が現代語訳の候補となります。即ち、第2案と第4案です。

2案は、もみぢがふりしく景を前にして、作中人物を訪ねる(様子をたずねる)人のいないことを嘆いている、と理解すると、「かなしい秋」の歌の一つと見做せます。この景を独り占めして満足している歌と理解するには、この歌群に配列してあるのが解せません。

「あの人(2者であるあなた)を訪ねる人はいない」とか「あの人(第3者の誰か)を訪ねる人はいない」という理解より、「作中人物を訪ねる(様子をたずねる)人のいない」というのは、作中人物にとって切実な「かなしい秋」を詠っている、と思います。

④ 第4案は、もみぢがふりしく景を前にして、作中人物が訪ねる(様子をたずねる)人のいないことを詠っており、共に楽しむ人の居ないことを喜んでいるかに見えたり、さらに良い景を共に楽しみたいがそのような人がいないとも見えます。前者は、この歌群に配列される歌ではありませんが、後者は有り得ますが、まず、目の前の景を共に見れないのを悲しんでいるほうが、単独の歌としては素直です。

⑥ 次に、単独歌としての1-1-288歌は、男性が普通の官人・僧侶の人間関係を詠うとする案が現代語訳の候補となります。即ち、第12案です。もみぢが散りしいていることを理由に、交友関係にある男性・女性に対して送った断りの歌あるいは相談している歌、と理解する場合です。

⑧ この結果、適切な現代語訳の候補は、問答歌の案を含めて、1-1-287歌は、第2案であり、1-1-288歌は、第12案となりました。(以上の結果は、上記6.の⑤に符号で示してります。)

12.一組の歌の検討その7 現代語訳の試み

① 現代語訳を仮訳のままとしてきましたので、ここに2首の現代語訳をあらためて試みます。

② 類似歌等2首を、再掲します。

3-4-41歌の、古今集にある類似歌 1-1-287歌  題しらず     よみ人しらず

      あきはきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし

その歌と対となっている歌 1-1-288歌  題しらず     よみ人しらず

ふみわけてさらにやとはむもみぢばのふりかくしてしみちとみながら

③ 1-1-287歌を、第2案で試みます。作中人物は男性です。

「秋は確かに来てしまった。もみぢはわが屋敷内外にふり敷ききった(見頃である)。それなのに、道をふみわけてまで私を訪ねようとするひとはいない(悲しい秋である)。」

漢詩には、親しくしていた友が傍にいない、と嘆く詩が多々あることを思い起こす歌となっています。

 

④ 1-1-288歌を、第12案で試みます。作中人物は男性です。

「なんとしても、あなたをあらためて訪ねることができましょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落とさせそれによって隠してしまった道となってみえるのに。(私には、もみぢの錦を断ち切るれません。)」

 

⑤ この2首の歌は、「人に会えないという、かなしい秋となってしまった」、という趣旨の歌ではないか、と思います。対の歌として、共通なのは、「散るもみぢ」のほか「親しくした人に会えない」が加わっている、と思います。(付記2.参照)

⑥ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、3-4-41歌の現代語訳を試み、同じ詞書の『猿丸集』3首の歌の再検討をしたい、と思います。

2019/2/25  上村 朋 (e-mailwaka_saru19@yahoo.co.jp)

付記1.「ふりしく」・「ふりかくす」の用例

① 『萬葉集』の例

(雪が)ふりしく:2-1-1643歌  2-1-1838  2-1-4257   2-1-4305

ふりかくす:無し

② 三代集

(雪が)ふりしく:無し

(もみぢが) ふりしく:1-1-287歌  1-2-412

(もみぢが)ふりかくす:1-1-288歌  1-3-1177

付記2.『古今和歌集1-1-287歌と1-1-288歌の元資料について

① 1-1-287歌と1-1-288歌は、『古今和歌集』では、一組の歌になっている。問答歌であったかの検討などで元資料の歌に言及したが、この2首の元資料の歌は、別々の歌であった。その理由つぎのとおり。

② この2首は、ともに題しらず・よみ人しらずの歌であり、『古今和歌集』の編纂者は、問答歌を示す詞書をもちいていない。これは別々の事情で詠まれた歌であることの可能性を否定していない。

③ 1-1-287歌は、作者が秋を満喫している歌でもある。つまり古い歌の題しらず・よみ人しらずの歌であってよい。作中人物が女性であれば、「来てくださいな、と誘っている」歌のほか、別れる男女の間の進展として何の音沙汰もない状況を順調な推移と見ているならば、秋を満喫し満足の意を表わしている歌にもなる。同文の別の意の歌であった可能性がある。

④ 1-1-288歌の「ふりかくす道」の道に注目するならば、「もみぢ」より「雪」のほうが、隠しやすい。断りの歌であってもその三句の「もみぢばの」が、「雪ふかく」とか「白雪の」とかになっていたのではないか。

推測した1-1-288歌の元資料の歌の1例  題しらず    よみ人しらず

       ふみわけてさらにやとはむもしらゆきのふりかくしてしみちとみながら 

⑥ 散るもみぢに関する歌を一組の歌として「未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群」に配列する構想が先にあり選ばれ、必要に応じ手を入れたのではないか。

古今和歌集』には、雪を詠う歌から「ふりしく」を除外しており、「ふりかくす」という語句も秋の歌の1-1-288歌のみである。

(付記終り 2019/2/25)

 

 

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第41歌その2 とふ人はなし

前回(2019/2/11)、 「猿丸集第41歌その1 秋歌下は皆2首一組」と題して記しました。

今回、「猿丸集第41歌その2 とふ人はなし」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第41 3-4-41歌とその類似歌

① 『猿丸集』の41番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-41歌  なし(3-4-39歌の詞書(しかのなくをききて)がかかる。)

秋はきぬもみぢはやどにふりしきぬみちふみわけてとふ人はなし

3-4-41歌の、古今集にある類似歌 1-1-287歌  題しらず     よみ人しらず

      あきはきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、両歌とも全く同じであるものの、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、飽きられて捨てられたと詠うのに対して、類似歌は、秋の紅葉の景を楽しむ親しい人がいない、と詠っています。

 

2. 承前

 (類似歌が記載されている『古今和歌集』巻第五秋歌下の配列を検討し、類似歌は、2首一組の歌が並ぶ未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292)」にあり、対となる歌が1-1-288歌である、ということがわかりました。)

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳の試みその1

① 1-1-287歌の現代語訳の例を示します。

  • ・ 「物さびしい秋になってしまった。木々のもみじ葉は、すでにわが家の庭に散り敷いてしまった。しかし、道を踏み分けて訪ねてくれる人はないことである。」(久曾神氏 『古今和歌集(二) 全訳注』講談社学術文庫
  • ・ 「寂しい秋が来た。紅葉はわが家の庭にいっぱい散っている。その紅葉に埋(うず)まった庭の小径を踏み分けて、私を訪れる人は一人もいない。」(『新編日本古典文学全集11古今和歌集』)

 

 

② 久曾神氏は、つぎのように指摘しています。

  • ・ 二句にある「やど」は、庭先。家の周囲。
  • ・ 一句と三句が同音の「ぬ」で切れ、歯切れのよいリズムを感じる。さらに、寂しい秋、散るもみぢ、訪れる人とてないわが家と、寂しいものをそのリズムにのせて詠んでいる。

③ 『新編日本古典文学全集11古今和歌集』では、次のような指摘があります。

  • ・ 1-1-285~286歌は風に舞う紅葉を1-1-287~288歌は地に散り敷く紅葉を詠うという、みごとな対照。
  • ・ 「秋」とだけいって、寂しい時節であることを暗示する。
  • ・ 「やど」は庭先。
  • ・ 「しく」には(単独で)しきりに・・・する、の意もあるが、ここでは「降る」と複合した「しく」で「敷く」のほうが解しやすい。(今確認すると、『古今和歌集』での「ふりしく」の用例はこの歌以外に4例あり皆雪の場合(1-1-322歌、1-1-324歌、1-1-363歌、1-1-1005歌)です。)
  • ・ ふりしく:一面に降り満ちたことで、必ずしも深く降り積もったことではないと、322歌で景樹はいう。
  • ・ 1-1-287歌の紅葉を雪にかえると1-1-322歌となる。

④ 片桐洋一氏は、この歌について「色彩豊かに情景化している」が「(最後に最も発したい嘆声をおいており)、私は、むしろ「・・・はないし、・・・はないし、・・・はない・・・」という「つぶやき」として聞きたい」と評論しています(『古今和歌集全評釈』講談社 1998)。この文に続けて「そのように読むと、「秋はきぬ」の「秋」に「飽き」の意が沿って来るのを消し去ることが出来ない。「秋は悲しい」という把握には、漢詩の影響が強く見られるのだが、漢詩の影響がなければ秋は悲しくなく、寂しくなかったとは思えないからである。」と評しています。またこの歌は(山里に閑居している趣があり)「待つ女」の立場にたって詠んだ歌、と氏は指摘しています。

⑤ さて、歌の検討をしたいと思います。

二句にある「やど」とは、『例解古語辞典』によれば、漢字では「宿」であり、「(庭も含めて)家とか住んでいる所」、「家の戸口。また屋敷」とか「泊まる所」の意があります。どちらの訳例も屋敷内の景、と理解していると思われます。もみぢする木々が庭にどの程度あるかを考えると、「ふりしく」とは、屋敷内の観賞用として作った邸内の一部をさして言ったか、作中人物の心象風景の象徴として表現した、と思われます。

山里に屋敷を構えていたとしても、邸内の一部観賞用としてのエリアとその背後の部分(いわゆる借景)に(実際には)もみぢがふりしいているのでしょう。

なお、この「やど」は、誰の「やど」かというと、「やど」に「ふりしきる」のを作中人物は直接見ている(直視した視覚の情報を得ている)ので初句から三句までからは、初句の「あきはきぬ」と認識した作中人物の「やど」が第一候補になります。第二候補は、作中人物が泊まっている場所となります。

⑥ また、久曾神氏が指摘するように、この歌は、終止形の動詞が3つあり、3つの文、即ち、3つの事柄を順に並べたてています。最初の文が次の文をはっきり修飾していることを指し示す語句はありません。

3つの文は、作中人物が、その時視覚とか感覚などで得た情報を記憶していることに突き合わせて(心に)思ったことを順に3つ並べている文とみてよいので、その思考を追ってみたい、と思います。

⑦ まず、歌に登場する人物、即ち作中人物(初句「あきはきぬ」と発した人)と「道ふみわけてとふ人」はどのような人物なのか、を推測します。

3つの文は、作中人物が発したものです。

最初の文は、「私は、「あきはきぬ」、と今認識した。」ということです。他人がそう言ったという伝聞の文ではありません。(「ぬ」は完了の助動詞です。別の理解も有り得ますので、後述します。)

次の文は、「私は、「もみぢはやどにふりしきぬ」、と今認識した。」ということです。そして「秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所も例外ではなく「あきはきぬ」という状況になっている、と今認識した。」、ということをも作中人物は確認したことになります。(別の理解も有り得ますので、後述します。)

この二つの文は、倒置されている、とも考えられます。作中人物は、「やど」に目をやって、心の中を整理し、おもむろに、ものを言う場合の順序として最初に総論を口にしたのかもしれません。「もう世の中すべてに秋がきたのではないか。私が視覚で今得たものは、紅葉がふりしく「宿」であり、それは秋の景の典型的なものなのだから」、という理解もこの2つの文に対して可能です。

この2つの文(和歌の句の並びで理解すると上句)は、秋の景に関する感慨を述べているとも言えます。

最後の文は、「このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、「道ふみわけてとふ人はなし」と断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」ということです。

最後の文は、自分のだした結論を表現している文といえます。最後の文の構成上主語は「人」であり、述語は「なし」となります。この「人」と作中人物との関係をストレートに示している語句が歌のなかにありません。しかしながら、3つの文は、同一の人物(作中人物)が発した言葉なので、「人」は作中人物ではないことだけは確かなことです。

また、「なし」と作中人物が言い切るその理由も、はっきりした語句に示されていません。最初の文と次の文(をあわせた上句)における認識と何かを突き合わせた結果の結論である、としかわかりません。

⑧ その何かについては、最後の文の主語「人」を修飾している語句にヒントがあるかもしれません。その語句「道ふみわけてとふ」は、「道ふみわく」と「とふ」の二つの行為を表わし、連続して行っているのが主語となっている「人」です。行為ごとに検討します。

⑨ 最初に「道ふみわけ(る)」という行為を検討します。「道ふみわけて」という語句には、主語が省かれています。この語句は、「誰かが道をふみわけている」ことを表現しており、文脈上、その誰かは「とふ人」です。

その「ふみわける」道は、現実には屋敷内の道か屋敷に至る道路のどちらかでしょう。前者を検討すると、寝殿造りのような建物配置で屋敷の門(入口)とあがるべき建物の入口との間に、訪れた者が歩くべき道があるとは、『年中行事絵巻』(闘鶏、六月祓の場面等)をみても寝殿造りの研究者諸氏の意見にもみえません。

つまり、庭の小径という人工的な道が、訪れた者が建物にあがるまでの動線上に設けられていたとは思えません。寝殿造りの建物には、階(きざはし)があります。そこに主たる客は車や輿を寄せて昇段(建屋に上がる)しています。

「道ふみわけて」とは、男性の官人・僧侶の行動として理解すると、当時の交通は水路経由か道路経由であるので、歩行という手段のみを指している訳ではなく、「出向きたい」の言い換えではないか。たどり着くのが困難な道(流路)を、馬や牛車を利用してもしなくても(また浅瀬を徒歩で渡ってでも)なんとしても目的地へ向かう、という意にとれます。庶民ではない女性の行動としても、交通手段は同じであり、目的地へ向かう意に変わりありません。

だから、「道」は屋敷に至る道路を、指していることになります。歌に詠まれていることを考慮すると、「ふみわける」のは、男性の官人・僧侶を意味している蓋然性が高い。もう少し正確に言うと、「人」は作中人物ではないので、「作中人物を除いた男性の官人・僧侶」の蓋然性が高いことになります。

⑩ 次の行為「とふ」は、文のなかで「とふ」という語句が直接「人」を修飾しているので、「とふ」という行為にかかわるのは「人」です。「とふ」という行為は、「誰か(A)が(目標とする)誰か(B)をとふ(訪ねる・様子をたずねる)」ことです。この最後の文における「人」は、Aを指すのか、あるいは、Bを指すのかが不分明です。

前者であれば、この最後の文における主語述語である「人なし」という語句の意は、「(Bを)訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A)はいない」の意となり、後者であれば、「(Aが)訪ねる(様子をたずねる)ところの人(B)はいない」、となります。

⑪ 前者の場合、Aは、文脈上「道ふみわける」人と同一人物です。そうすると、男性の蓋然性が高い。「人なし」とは、「訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)、はいない」の意となります。

男性がいないと言っているので、この最後の文は、男女関係についての発言ならば女性が発しています。同僚・同好等の官人・僧侶の人間関係についての発言ならば(女官に可能性のあることを否定しないものの)男性が発している蓋然性が高い。

そして、この3つの文は、同一の人物(作中人物)が発した言葉であるので、この歌(1-1-287歌)は、

  • ・ 女性である作中人物が、男女関係を詠い、Aが男なのでBは女性 (現代語訳の第1案と以下言う)
  • ・ 男性である作中人物が、官人・僧侶の人間関係を詠い、Aが男なのでBは不定 (第2案)

と、いうことになります。

⑫ 後者の場合、Aが、文脈上「道ふみわける」人と同一人物であるのは変りませんので、Aは男性の蓋然性が高い。「人なし」とは、「男性(=A)が訪ねる(様子をたずねる)ところの人(B)、はいない」の意となります。「人」の性別を限定できません。

そして、この3つの文は、同一の人物(作中人物)が発した言葉であるので、この歌(1-1-287歌)は、

  • ・ 男性である作中人物が、男女関係を詠い、Aが男性なのでBは女性 (第3案)
  • ・ 男性である作中人物が、官人。僧侶の人間関係を詠い、Aが男性であってBは不定 (第4案)

と、いうことになります。

⑬ 3つ目の文に登場する人物を中心に検討してきたところですが、ここまでの検討により3つの文を現代語訳で並べると、つぎのとおり。

 

第1案:作中人物が女性で、男女関係を詠う歌

「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。私は、もみぢはやどにふりしきぬ」、と今認識した。それは「秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所も例外ではなく「あきはきぬ」という状況になっている、と今認識した。」(次の文)。「このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、道をふみわけて「私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)、はいないと断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」(最後の文)」

別案:「もう世の中すべてに秋がきたのではないか(最初の文)。私が視覚で今得たものは、紅葉がふりしく「宿」であり、それは秋の景の典型的なものなのだから(次の文)。このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、道をふみわけて私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)、はいないと断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる(最後の文)。」

この第1案は、作中人物は悲観しているのか喜んでいるのか、その感情は分かりません。(以下の案もみな同じです)。作中人物は、秋になっても状況は変わらない、と詠っています。

上記3.①で紹介した現代語訳の例は、この第1案で女性の作中人物が悲観している場合に、相当すると思います。一般に、このような悲恋の歌は、歌集編纂上では恋部にあります。秋部にこの歌をおいてあるのが、少しきになります。

 

第2案:作中人物は男性で、官人・僧侶の人間関係を詠う歌 

「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識に至れば、熟慮してもしてもしなくても道をふみわけてあの人乃至私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)はいない」と断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」

別案:「もう世の中すべてに秋がきたのではないか(最初の文)。私が視覚で今得たものは、紅葉がふりしく「宿」であり、それは秋の景の典型的なものなのだから(次の文)。このような認識に至ったのであるので、もう、このうえ道をふみわけてあの人乃至私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)はいない」と断定してよい(あるいはせざるを得ない)(最後の文)。」

この第2案は、少なくとも秋の景が終わるまで、特定の誰かあるいは作中人物(男性)のところに人は来ない(あるいは禁止状態が続く、と詠っています。あるいは、だから行けないという断りの歌かもしれません。

 

第3案:作中人物が男性で、男女関係を詠う歌

「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識に至れば熟慮しようとしまいと「道ふみわけて 「男性(=A=作中人物=私)が訪ねる(様子をたずねる)ところの人(B=女性)、はいない、と断定してよい(あるいはせざるを得ない)(最後の文)」

別案:割愛

この第3案は、男性の作中人物が、女性に断られてしまったと詠っています。第1案と同じく、それが悲観すべきことなのか、喜ばしいことなのかは不明です。恋歌とすれば普通であれば前者であろうと推測しますが。

 

第4案:作中人物が男性で、官人・僧侶の人間関係を詠う歌

「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。

私は、もみぢはやどにふりしきぬ」、と今認識した(次の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、道をふみわけて男性(=A=作中人物=私)が訪ねる(様子をたずねる)ところの人(B=不定)、はいない」

別案:割愛

この第4案は、男性の作中人物が、行きたくとも行けない心境を詠っている、という想像もできます。

⑭ このように、この歌2-1-287歌は、題しらず よみ人しらず」の歌なので、多くの理解が可能なのが、判りました。3つ目の文における主語述語の「人なし」と作中人物が断定した理由など歌より具体的に限定できれば、また『古今和歌集』の配列を考慮すれば、理解の幅は狭まるはずです。

4.類似歌の検討その2 現代語訳の試みその2

① 3つ目の文における主語述語の「人なし」と作中人物が断定した理由を、次に検討します。

手掛かりは、この歌が構成されている3つの文の並び順や、『古今和歌集』秋歌下に、「未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群」という歌群に置かれていることしかありません。この歌は、「もみぢばのふりかくしてし」と詠う1-1-288歌と対になっています。

この歌(1-1-287歌)の詞書等(「題しらず よみ人しらず」)から得る情報は、『古今和歌集』編纂当時からみて古い歌らしい、ということだけです。

② 最初の文は、「秋」という時期を言って、期日が来た、ということを確認している文と理解すると、「秋」という季節(時期)までに解決される事がらがあってそれがまだ解決していないことを示唆する文である、といえます。「秋」とい季節は毎年毎年訪れるものであり、それも万人に訪れますので、秋が来たのが、「人なし」の直接の理由とはとてもおもえません。次の文「もみぢはやどにふりしきぬ」は、秋もふかまったが、その状態が継続していることを再確認している、とも理解可能です。

上記3.にあげた現代語訳の第1案や第3案のように男女関係を詠っている歌であれば、「人なし」と作中人物が断定するのは、秋になっても続いている男女の不仲あるいは進展のないことを確認したことが理由かと推測できます。悲しいことはよく歌に詠われていますが、縁が切れたことの確認であるという喜びともとれます。

最初の文「あきはきぬ」(歌の初句)の「あき」に「飽き」を掛けてあれば、前者です。

「秋は悲しい」時期なのだという漢文学の影響のある歌とすると、作者が秋を満喫していることはなく、前者です。

③ 上記3.にあげた現代語訳の第2案や第4案のように、官人・僧侶の人間関係を詠っている歌であれば、交友関係や禁忌(喪中その他)や地方勤務、その他公的に遠慮すべき事情において、時間の経過が問題の自動的終了・解除あるいは自然消滅を促したり、自然発生させたりすることがある、と思います。巻

子や親に関してもあると思いますが、秋歌下の歌群での配列からは唐突に思えます。

④ このように、理由から確実に1案に絞ることができません。上記3.にあげた現代語訳の4案から1案に絞り込むには、1-1-287歌と対となっている歌との比較が要るがわかりました。

⑤ 次回は、それを行い、類似歌の現代語訳を改めて行い、3-4-40歌の検討を行います。

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2019/2/18  上村 朋 (e-mailwaka_saru19@yahoo.co.jp)

 

 

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第41歌その1 秋歌下は皆2首一組

前回(2019/2/4)、 「猿丸集第40歌 いなおほせどり」と題して記しました。

今回、「猿丸集第41歌その1 秋歌下は皆2首一組」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第41 3-4-41歌とその類似歌

① 『猿丸集』の41番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-41歌  なし(3-4-39歌の詞書に同じ。「しかのなくをききて」)

秋はきぬもみぢはやどにふりしきぬみちふみわけてとふ人はなし

3-4-41歌の、古今集にある類似歌 1-1-287歌  題しらず       よみ人しらず

      あきはきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、両歌とも全く同じで、詞書だけが、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、飽きられて捨てられたと詠うのに対して、類似歌は、秋の紅葉の景を楽しむ親しい人がいない、と詠っています。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

古今集にある類似歌1-1-287歌は、古今和歌集』巻第五 秋歌下にあります。

② 巻第五 秋歌下の歌の配列を最初に検討します。巻第四 秋歌上の検討を行った3-4-28歌の検討時と同様に行ったところ、古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分した歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示そうとしていることを知りました。秋歌下では、つぎの14歌群となります。(付記1.参照)

 

     秋よぶ風を詠う立秋の歌群(1-1-249歌~1-1-251歌)

     もみぢすと秋の至るを詠う歌群(1-1-252歌~1-1-257歌)

     紅葉と露の関係を詠う歌群(1-1-258歌~261歌)

     紅葉の盛んな状況を詠う歌群(1-1-262歌~1-1-267)

  (ここまでは紅葉の歌)

     菊の咲きはじめを詠う歌群(1-1-268歌~1-1-269)

     菊の盛んな状況を詠う歌群(1-1-270歌~1-1-277)

     再び咲く菊を詠う歌群(1-1-278歌~1-1-280歌)

  (ここまでは菊の歌)

     散り始めるもみぢを詠う歌群(1-1-281歌~1-1-282)

     未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292)

     水面を覆うもみぢを詠う歌群(1-1-293歌~1-1-294)

     充分山に残るもみぢを詠う歌群(1-1-295歌~1-1-300歌)

     水面を流れるもみぢを詠う歌群(1-1-301歌~1-1-305)

  (ここまでは落葉の歌)

     秋の田を詠う歌群(1-1-306歌~1-1-308)

     限りの秋を詠う歌群(1-1-309歌~1-1-313)

  (ここまでは、あきはつる心の歌)

 

③ このように、巻第五秋歌下は、秋を呼ぶ風などを詠う立秋の歌群で始まり、巻第四秋歌上に登場しなかった菊と紅葉のみを詠い、限りの秋を詠う歌群で終っています。巻第四秋歌上が、立秋の歌群で始まり、雁を詠むなど晩秋の歌となり、をみなへしの歌を経て秋の野を詠み再び初秋の歌で終っているのは、巻第五の巻頭を立秋の歌を置くための工夫ではないかと思えます。なぜそのように『古今和歌集』編纂者はしたのでしょうか。

2巻にわかれた春歌をみると、巻第一春歌上は、立春の歌で始まり、山里の桜が咲き残っている歌でおわりました。巻第二春歌下は、(立春を詠った歌を置かずに)山桜の花が「うつろふ」歌ではじまり、弥生つごもりの歌で終っていました。山の桜の景の歌が春歌上と春歌下に継続してあります。

これに対して、巻第四秋歌上と巻第五秋歌下は、詠う景が替わり、秋を、リセットしたかの感じです。景が多様であることからの止むを得ないことなのか、集まった歌の秀作をみて秋の感慨としての違いを強調しているのかわかりません。

とにかく、歌群が構成されていることを前提に、古今集にある類似歌1-1-287歌を理解できると思います。巻第一春歌上などと同じように、巻第五秋歌下にあると認められた歌群は、それぞれ歌群ごとに趣旨があると思われます。

④ さて、巻第五秋歌下は、菊に寄せたいくつかの歌群が終わった後、落葉によせた歌群が、「散り始めるもみぢを詠う歌群 (1-1-281歌~1-1-282歌)」から始まります。その次に、類似歌1-1-287歌がある歌群「未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群 (1-1-283歌~1-1-292歌)」があり、そして「水面を覆おうもみぢを詠う歌群 (1-1-293歌~1-1-294歌))」となります。

落葉によせた最初の歌群の歌は、つぎのとおりです。

 1-1-281歌  題しらず    よみ人しらず

     佐保山のははそのもみぢちりぬべみよるさへ見よとてらす月影

 1-1-282歌  みやづかへひさしうつかうまつらで山ざとにこもり侍りけるによめる  藤原 関雄

     おく山のいはかきもみぢちりぬべしてる日のひかり見る時なくて

この2首を比較すると、共に「もみぢ」の散りはじめを詠んでいるという共通項がありますが、1-1-281歌は、作者にとり比較的身近な山(佐保山)の月夜の景であり、1-1-282歌は、奥山の秋晴れの昼の景であり、散り始めるもみぢを対の歌により示している、と見えます。

なお、共通項のある歌が対となっているかどうかは、下記の⑦及び⑧により、類似歌のある歌群でも確かめられ、巻第五秋歌下のすべての歌でも確かめられました(付記3.参照)。

また、1-1-281歌以下1-1-305歌までの落葉の歌のもみぢし落葉する場所を通覧すると、普段は人の入らぬ山の景が多く、そのほかは、山里または都の景が4首(1-1-286歌~1-1-288歌と1-1-299歌)、山寺の景が1首(1-1-292歌)、河口と海が3首(1-1-293歌、1-1-301歌、1-1-304歌)です。

⑤ 類似歌のある歌群の歌を、示します。

 

 1-1-283歌  題しらず    よみ人しらず

     竜田河もみぢみだれて流るめりわたらば錦なかやたえなむ

          この歌は、ある人、ならのみかどの御歌なりとなむ申す

 

 1-1-284歌  題しらず    よみ人しらず

     たつた河もみぢば流る神なびのみむろの山に時雨ふるらし

          又は、あすかがはもみぢばながる  此歌右注人丸歌、他本同

 1-1-285歌  題しらず    よみ人しらず

     こひしくは見てもしのばむもみぢばを吹きなちらしそ山おろしのかぜ

 1-1-286歌  題しらず    よみ人しらず

     秋風にあへずちりぬるもみぢばのゆくへさだめぬ我ぞかなしき

 1-1-287歌   (上記1.参照)

 1-1-288歌  題しらず    よみ人しらず

     ふみわけてさらにやとはむもみぢばのふりかくしてしみちとみながら

 1-1-289歌  題しらず    よみ人しらず

秋の月山辺さやかにてらせるはおつるもみぢのかずを見よとか

 1-1-290歌  題しらず    よみ人しらず

     吹く風の色のちぐさに見えつるは秋のこのはのちればなりけり

 1-1-291歌  題しらず    せきを

     霜のたてつゆのぬきこそよわからし山の錦のおればかつちる

 1-1-292歌  うりむゐんの木のかげにたたずみてよみける    僧正へんぜう

     わび人のわきてたちよるこの本はたのむかげなくもみぢちりけり

⑥ この歌群の歌は、(入れ子で)対となっているとの指摘があります。

平沢竜介氏は、「川に散りしいた紅葉を詠う冒頭の2首(1-1-283~284歌)は、次ぎにある山に散りしいた紅葉の歌2首(1-1-285~286歌)と対応している。またこの2首(1-1-285~286歌)は、散る紅葉として同じく散る紅葉の歌2首(1-1-289~290歌)が対応する。」と指摘しています。

また、1-1-285歌~1-1-288歌は、述懐性の強い歌群と諸氏は認め検討が行われています。

⑦ 古今和歌集』歌の諸氏の現代語訳を参考にし、元資料の歌の視点2などを考慮すると、「未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群 (1-1-283歌~1-1-292歌)」の歌として、各歌は次のような歌である、と理解できます。(視点2(元資料の歌が詠われた(披露された)場所の推定)は、付記1.の表3参照)

 

1-1-283歌  題しらず      よみ人しらず 

「あの竜田河にはさまざまな色の落葉が流れているはずだ。鹿などが渡ろうとすればその美しい錦が切れてしまうだろう(惜しいなあ)。」

     この歌は、人のいうところでは、「平城天皇のお歌」であるという

小松英雄氏の意見(『みそひと文字の抒情詩』)に従い、三句にある「めり」は作者が見たことからの推量を表わす意であり、見たものは「「たつたかは」を隠している山々(多分紅葉している)」と推測する。その山々とは屏風に描かれている山々である。(ブログ「わかたんかこれの日記 はじめの歌がたつたかは」(2017/6/12)参照)。また、貴人は、踏み石の無い川を渡ろうと思わないし、踏み石があったとして貴人が渡ったとしても踏み石以外のものが「錦」が切るようなことはない。なお、この歌は三代集記載の「たつたかは」と表現している歌のなかで、元資料の歌の作詠時点を推計すると最古の歌である。小松英雄氏は「(この歌以降)大和を流れる川の名以上の知識は「たつたかは」に不要」と指摘している。地理上の場所が不定の河の名が「たつたかは」でありそこは紅葉の名所なのである。

 

1-1-284歌  題しらず      よみ人しらず 

「竜田河が美しく紅葉した葉が流れている。だから、上流のかんなび山である三室の山には時雨が降り、木の葉を散しているに相違ない。」 

(五句にある「しぐれ」とは、「晩秋から初冬にかけて、風が吹いて空が暗くなりさっと降ってくるにわか雨」(『古典基礎語辞典』)なので、眼前の竜田河を流れるもみぢ葉は山のあちこちを時雨が移っていってくれているものの時雨にも息切れがあり途切れるのだと理解した歌。作者が眼前にする竜田河周辺は晴れていることになる。左注が元資料の歌であり、それを屏風歌として利用する際か、『古今和歌集』の秋歌の巻に置くた対の歌を意識して編纂者が「たつかがは」としたか。)

   

1-1-285歌  題しらず      よみ人しらず 

「紅葉は貴方を思い出させてくれる。だから美しい紅葉をせめて散り敷く落葉であっても見て偲びたいから、山おろしの風よ吹き散らさないでおくれ。」

(元資料の歌は、相聞の歌。「恋しい」のは、二人のありし日のこと。もみぢの盛んなことを「偲ぶ」(なつかしむ、賞美する)というより、ここでは、もみぢにまつわる人事に関する事がらを「偲ぶ」意。動詞「恋ふ」は「慕い思う、とか(異性を)慕う・恋する」の意、名詞「恋」は「異性に対する恋愛の感情」などで「人間以外についても用いられることがある」(『例解古語辞典』)。)

 

1-1-286歌  題しらず      よみ人しらず 

「冷たい秋風に堪えきれないで散ったもみぢ葉がどこへゆくのか分からないように、私の身もどうなるのか。悲しいことである。」

(この歌群の歌として理解すると、落葉に儚い人生を託している歌。落葉をもたらす風は自然の景物であると同時に仏典の喩えであると指摘する人がいる。五句にある「かなし」とは、「愛着するものを、死や別れなどで喪失するときのなすすべのない気持ち。何の有効な働きかけもしえないときの無力の自覚に発する感情(などがベースにある語)」(『古典基礎語辞典』)であり、「a悲しい。せつない。現代のかなしいと基本的に同じ。 bせつないほどいとしい。 c心打たれてせつに感じいる。(以下略)」の意がある。)

 

1-1-287歌  題しらず      よみ人しらず 

今検討しようとしている類似歌であるので、後ほどの検討とし、ここでは除外して配列を検討します。

 

1-1-288歌  題しらず      よみ人しらず 

「もみぢを足で払いつつわざわざ訪れましょうか。美しいもみぢが主人の心を汲んで散り隠してしまっている道と知りながら」

 (元資料の歌は、「そのような事情を訴えるのであれば今回は行きません(次回には)。」という挨拶歌か。初句「ふみわけて」とは、主人のお考えに反してでも、の意。)

 

1-1-289歌  題しらず      よみ人しらず 

「秋の月が山のあたりを明るく照らしだしているのは、ちらちらと散って行くもみぢの葉を数えてみよというのであろうか」 

(久曾神氏は、「主題は紅葉よりもむしろ月」と指摘している。元資料の歌は、「無理なことを言ってくれるな」という相聞の歌か。1-1-290歌と対を成すとみると、風にもて遊ばれるもみぢの歌である。)

 

1-1-290歌  題しらず      よみ人しらず 

「吹いてくる風にいろいろの色が着いているように見えたのは、秋の木の葉が風で散っているからだったよ。」

(元資料の歌は、民衆歌&相聞)

 

1-1-291歌  題しらず      よみ人しらず 

「霜の経糸(たていと)と露の緯糸(よこいと)が弱いらしい。山で織られている錦は、織り上がったそばから散ってゆくよ。」

 

1-1-292歌  (詞書)雲林院において、木蔭に、しばらく立ち止まったとき詠んだ(歌)

「孤独で寂しく暮らす人が、安心して身を寄せたこの木なのだが、気が付くと頼りに思っていた葉影はなくなり、残っていたもみぢ葉もみるまに散ってゆくなあ。」

(五句にある助動詞「けり」とは、ここでは「今まで気づかなかったり見過ごしたりしていた眼前の事実などに、はじめてはっと気づいた驚きや詠嘆の気持ち」を表わす。 1-1-291歌と対の歌であれば、詞書の状況は立ち寄った際はもみぢ葉が相当あったのだ、と推定できる。「わぶ」とは、『古典基礎語辞典』によれば、「自分の無力さによって思いどおりいかず、自分に失望する意。また、それによる失意や困惑や孤独感といった気持ちを外に表す」ことをいう。元資料の歌では「わび人」に、孤独で寂しく暮らす人の意と、詞書にいうように外出時ちょっと立木に避けなければならない状況になった人とを掛けており、「かげ」は「恩顧のある人」と「風雨を遮る所あるいは木陰」とを掛けている。久曽神氏は「世を侘びて寂しく暮らす人」と説明する。詞書にある「雲林院」は、平安時代初期の離宮(後に寺院)で京都市北区紫野にあった。皇子常康親王淳和天皇より賜り、託された遍照が884年許しを得て元慶寺別院とした。)

⑧ この歌群の歌の以上の理解を整理すると、次の表のようになり、2首づつ対となっており、(1-1-287歌を保留すると)作者は、もみぢの散るのを惜しみ、それによる悲しみをこらえている、と言えます。

 

表 「未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292歌)」の整理

歌のくくり

共通のもの

対比しているもの

作者の感慨

1-1-283歌&1-1-284歌

盛んに散る

竜田河

流水のもみぢ

連続のもみぢ(錦)と途切れるもみぢ

眼前の景と関連有る隠れた景

まとめて見れなくて残念

1-1-285歌&1-1-286歌

風に舞うもみぢ

山おろしの風と秋風

留まれと願うもみぢと流れ去るもみぢ

手掛かり残して

1-1-287歌&1-1-288歌

地にふりしくもみぢ

保留(1-1-287歌保留のため)

(288歌は)残念だが断念

1-1-289歌&1-1-290歌

盛んに散る

林の木の葉が散る

月夜で風止むと昼間で風吹く

数えられるもみぢと数えきれないもみぢ

期待通りでなくて残念

1-1-291歌&1-1-292歌

散り切ってしまう

錦なくなる

散り切るのが山全体と一木

なにも出来ぬ間に消えて残念

 

⑨ 前後の歌群をみると、前の歌群(全2首)は、散り始めの感慨を詠い、次の歌群(全2首)は、水面いっぱいに蔽いつくしたかのようなもみぢへの感興を詠っています。

このように、前後の歌群とは違う景と感慨を詠う歌群が、この歌群といえます。ここに置かれている類似歌1-1-287歌も1-1-283歌などと同様な感慨を詠う歌であろうと、推測できます。

 

⑩ 検討結果をまとめると、つぎのとおり。

     古今和歌集』の編纂者は、巻第五秋歌下に関して、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分した歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示そうとしている。

     秋歌下では14歌群となる。

     類似歌は、「未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292)5番目に置かれている。この歌群は、もみぢの散るのを惜しみ、それによる悲しみをこらえているかにみえる。

     また巻第五秋歌下の歌は、巻頭歌より2首づつ対となっているとみることができる。類似歌の対となる歌は次歌である1-1-288歌である。

⑪ 類似歌の現代語訳を試みるのは時間を頂き、次回とします。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

2019/2/11  上村 朋 (e-mailwaka_saru19@yahoo.co.jp)

付記1.『古今和歌集』巻第四秋歌下に記載の歌の元資料の歌および同記載歌における共通項について

① 本文で触れたように巻第四 秋歌上の歌の配列については、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第28歌その1 類似歌の歌集」2018/9/3)」で述べた方法(ブログの2.類似歌の検討その1 巻第四秋歌上の元資料の分析方法 )により、検討した。また古今集歌同士における共通項をも抽出した。

② 古今集巻第四秋歌下に記載の歌の元資料の歌について、同第三秋歌上と同様に、元資料の歌の判定を行った結果を、以下に便宜上3表に分けて示す。

③ 古今集記載歌について、その前後の歌との間に景や同様の趣旨の語句などでの共通項を確認し「古今集での共通項」欄に記す。

④ 表の注記を記す。

1)歌番号等とは、「『新編国歌大観』記載の巻の番号―その巻での歌集番号―その歌集での歌番号」である。『古今和歌集』の当該歌の元資料の歌の表示として便宜上用いている。

2歌番号等欄の*印は、題しらずよみ人しらずの歌である。

3)季語については、『平井照敏NHK出版季寄せ』(2001)による。

4)視点1(時節)は、原則として元資料の歌にある季語による。

5)視点2(詠われた場)における屏風歌bとは、詞書に屏風歌と明記のある歌(屏風歌a)以外で私が推定した屏風歌の意である。その判断基準を付記2.に示す。

6)視点3(部立)は『古今和歌集』の部立による。

7古今集での共通項は、古今集記載の詞書と歌について隣あう歌と比較した場合の事項である。(元資料の歌同士での共通項ではない。)

8) ()書きに、補足の語を記している。

9)《》印は、補注有りの意。補注は表3の下段に記した。

10)元資料不明の歌には、家持集、遍照集、素性集、躬恒集、寛平御時中宮歌合などの歌を含む。元資料も『新編国歌大観』による。

表1 古今集巻第四秋歌下の各歌の元資料の歌の推定などその1  (2019/2/11  現在)

歌番号等

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

元資料と 視点2(詠われた場)

視点3(部立)

視点4 (作詠態度)

古今集での共通項

1-1-249

秋 嵐

三秋(秋来ぬと実質詠うので初秋《》)

元資料不明(是貞親王家歌合に無し)

題:秋か

知的遊戯強い 

秋の草木(しほる) 《》

秋の風

1-1-250

(波の)花《》 秋(なし)

三秋(秋来ぬと実質詠うので初秋《》

元資料不明(是貞親王家歌合に無し)

題:秋か

知的遊戯強い 

秋の草木(色かはる)

秋の風(吹いても変わらぬ景)

1-1-251

紅葉(せぬ) 秋

三秋(秋による)《》

元資料不明

秋を題とした歌合用の歌

知的遊戯強い 

秋の風

変わらぬ山(常に変わらぬみどり)

1-1-252

霧 雁 紅葉

晩秋

元資料不明

宴席の歌(愛唱歌

民衆歌&相聞

山は紅葉

変わらぬ山(時期違わない紅葉)

1-1-253

神無月 時雨 

初冬(実は晩秋)《》

元資料不明

宴席の歌(愛唱歌) 《》

知的遊戯強い 

&相聞

山は紅葉

神なびの杜(山)

1-1-254

もみぢば

晩秋

元資料不明

宴席の歌(愛唱歌

秋&恋

民衆歌&相聞

山は紅葉

神なびの山

1-1-255

秋(のはじめ)

初秋(実は西方は晩秋)《》

元資料不明

下命の歌

知的遊戯強い

(当然西の)山は紅葉す

 

1-1-256

秋(風)

三秋 《》

元資料不明(貫之集に無し)

屏風歌b

知的遊戯強い

山は紅葉す

1-1-257

白露 秋

三秋

元資料不明(是貞親王家歌合に無し)

題:秋か

知的遊戯強い

色が千差万別(木の葉の色が)

1-1-258

秋(の夜) 露 雁

晩秋

是貞親王家歌合24歌

題:秋か

知的遊戯強い

色が千差万別(野辺の色が)

1-1-259

秋(の)露

三秋

元資料不明

宴席の歌(愛唱歌

秋&恋

民衆歌&相聞《》

露で染まり色が千差万別

1-1-260

白露 時雨 色づく

初冬(時雨より)(歌意よりは晩秋)《》

貫之集813歌《》

屏風歌b

知的遊戯強い

露で染まり色が千差万別

(漏る)山

1-1-261

露 もみぢ(そむ)

晩秋

元資料明

屏風歌b

知的遊戯強い

(漏らぬ)山

堪えきれずもみぢす

1-1-262

葛 秋

三秋

元資料不明(貫之集に無し)屏風歌b

知的遊戯強い

堪えきれずもみぢす

1-1-263

もみぢ葉

晩秋

是貞親王家歌合19歌

題:秋か

知的遊戯強い

紅葉さかん

1-1-264

もみぢ葉

晩秋

寛平御時后宮歌合96歌

知的遊戯強い

紅葉さかん

 

1-1-265

秋霧 

三秋

元資料不明

挨拶歌

知的遊戯強い

見えぬ紅葉

佐保山

1-1-266

秋霧 紅葉

三秋

元資料不明(是貞親王家歌合に無し)

題:秋か

知的遊戯強い

見えぬ紅葉

佐保山

1-1-267

ははそ 秋 

晩秋(歌意からは晩秋)

元資料不明

屏風歌b

知的遊戯強い

秋である実感

 

表2 古今集巻第四秋歌下の各歌の元資料の歌の推定などその2    (2019/2/11  現在)

歌番号等

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

元資料と 視点2(詠われた場)

視点3(部立)

視点4 (作詠態度)

古今集での共通項

1-1-268

秋(なき時) 花 《》

春か?(詞書より三秋)

元資料不明

挨拶歌

知的遊戯強い

秋である実感

1-1-269

菊 

三秋

下命の歌

知的遊戯強い

菊 

長く咲け

1-1-270

露 菊(の花) 秋

三秋

是貞親王家歌合71歌

題:秋か

知的遊戯強い

盛んな菊 

長く咲け

1-1-271

花 菊 秋

三秋

寛平御時后宮歌合101歌

知的遊戯強い

盛んな菊

花消えるか(褪せる心配)

1-1-272

秋(風) 白菊 花《》

三秋

寛平御時菊合8歌

知的遊戯強い

盛んな菊

花消えるか(波とまがう)

1-1-273

菊 露

三秋

寛平御時菊合17歌

知的遊戯強い

盛んな菊

つゆのま(僅かな時間)

1-1-274

花 《》

三秋

寛平御時菊合20歌

知的遊戯強い

盛んな菊

つゆのま(逢う短さ

1-1-275

三秋

寛平御時菊合2歌《》

知的遊戯強い

盛んな菊

この世は仮か

1-1-276

秋 菊 花

三秋

元資料不明(貫之集に無し)

挨拶歌《》

知的遊戯強い

盛んな菊

この世は仮か

 

1-1-277

初霜 白菊(の花)

初冬(初霜による)

元資料不明

挨拶歌&屏風歌《》

知的遊戯強い

惑わせる菊

1-1-278

秋 菊

三秋

元資料不明(是貞親王家歌合に無し)

題:秋か

知的遊戯強い

惑わせる菊

再度咲く

1-1-279

秋 菊(の花)

三秋

元資料不明

下命の歌

知的遊戯強い

変わらぬ菊(再度咲く)

1-1-280

菊(の花)

三秋

元資料不明(貫之集に無し)

挨拶歌《》

知的遊戯強い

変わらぬ菊(再度咲く)

 

表3 古今集巻第四秋歌下の各歌の元資料の歌の推定などその3   (2019/2/11  現在)

歌番号等

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

元資料と 視点2(詠われた場)

視点3(部立)

視点4 (作詠態度)

古今集での共通項

1-1-281

もみぢ(散る)

初冬

元資料不明

屏風歌b 《》

知的遊戯強い

紅葉 散り初め

1-1-282

もみぢ

晩秋

元資料不明

挨拶歌 《》

知的遊戯強い

紅葉 散り初め

1-1-283

もみぢ

晩秋

元資料不明

屏風歌b 《》

知的遊戯強い

盛んに散る

竜田河

流水のもみぢ

1-1-284

もみぢ葉 時雨

晩秋(もみぢ葉より)

人丸集178歌

屏風歌b 《》

知的遊戯強い??

盛んに散る

竜田河

流水のもみぢ

1-1-285

もみぢ葉

晩秋

元資料不明

宴席の歌(愛唱歌)

民衆歌&相聞

風に舞うもみぢ

1-1-286

秋(風) もみぢ葉

晩秋

元資料不明

宴席の歌?《》

民衆歌&相聞

風に舞うもみぢ

1-1-287

もみぢ

晩秋

元資料不明

保留 《》

知的遊戯強い

地にふりしくもみぢ

1-1-288

もみぢ葉

晩秋

元資料不明

挨拶歌 《》

知的遊戯強い

地にふりしくもみぢ

1-1-289

秋(の月) もみぢ

晩秋

宴席の歌《》

民衆歌&相聞

盛んに散る

林の木の葉が散る

1-1-290

三秋

元資料不明

宴席の歌(愛唱歌)《》

民衆歌&相聞

盛んに散る

林の木の葉が散る

1-1-291

霜 露 

三秋(露より)

元資料不明

保留《》

知的遊戯強い

散り切ってしまう

錦なくなる

1-1-292

紅葉

晩秋

元資料不明

挨拶歌《》

知的遊戯強い

散り切ってしまう

錦なくなる

1-1-293

もみぢ葉

晩秋

元資料不明 

屏風歌a

知的遊戯強い

水面覆う落葉

1-1-294

――

――(歌意より晩秋)《》

元資料不明 

屏風歌a

知的遊戯強い

水面覆う落葉

(唐)紅

1-1-295

木の葉(散る)

三冬

元資料不明(是貞親王家歌合に無し)

題:秋か

知的遊戯強い

充分残る紅葉

1-1-296

三秋

是貞親王家歌合22歌

題:秋か《》

知的遊戯強い

充分残る紅葉

1-1-297

もみぢ

晩秋

元資料不明(貫之集に無し)

外出歌 《》

知的遊戯強い

充分残る紅葉

幣となる(ちる)

 

1-1-298

三秋

元資料不明

屏風歌b

知的遊戯強い

充分残る紅葉

幣となる

1-1-299

秋(の山) 紅葉 

晩秋

元資料不明(貫之集に無し)

挨拶歌

知的遊戯強い

残り少なの紅葉 ぬさ

1-1-300

三秋

元資料不明

屏風歌《》

知的遊戯強い

残り少なの紅葉 ぬさ

1-1-301

秋 

三秋

寛平御時后宮歌合97歌

知的遊戯強い

水面の紅葉

1-1-302

もみぢ葉 秋

晩秋

元資料不明

屏風歌b

知的遊戯強い

水面の紅葉 

1-1-303

もみぢ

晩秋

元資料不明

外出歌

知的遊戯強い

水面の紅葉

水の留まる場所(しがらみ)

1-1-304

もみぢ葉 

晩秋

元資料不明(躬恒集に無し)

屏風歌b

知的遊戯強い

水面の紅葉

水の留まる場所(池)

1-1-305

もみぢ葉

晩秋

亭子院の御屏風に(躬恒集468歌)

知的遊戯強い

水面流れる紅葉

とどまる(立ち止まる)

1-1-306

秋 露 いなおほせどり

三秋

是貞親王家歌合1歌

知的遊戯強い

秋の田

とどまる(田守り)

1-1-307

藤(衣)《》 稲(葉) 露

三秋《》

元資料不明

宴席の歌

民衆歌&相聞

秋の田

《》

1-1-308

刈れる田 穂 あき

晩秋

元資料不明

宴席の歌

民衆歌&相聞

秋の田

 

1-1-309

もみぢ葉 秋

三秋(詞書からは晩秋)

元資料不明

外出歌

知的遊戯強い

秋は限りとみる

1-1-310

三秋

元資料不明

下命の歌

知的遊戯強い

秋は限りとみる

1-1-311

もみぢ葉 秋(の泊り)

晩秋(詞書からも晩秋)

元資料不明(貫之集に無し)

屏風歌b

知的遊戯強い

秋終る 

1-1-312

夕月(夜) 鹿 秋

三秋(詞書からは晩秋)

元資料不明(貫之集に無し)

下命の歌《》

知的遊戯強い晦日に詠む

秋終る

長月晦日

1-1-313

もみぢ葉 秋

三秋(詞書からは晩秋)

元資料不明

詠われた場所不明《》

知的遊戯強い晦日に詠む

秋終る

長月晦日

補注

1-1-249歌:①初句「ふくからに」=風吹き始める=立秋となる。②249歌と250歌は山からの風と海の風が対比。以下対比は原則割愛》

1-1-250歌:①波の花とは白い波しぶき。岸に打ち寄せたり強風で生じるので、「秋」により時節を決める。②海に秋なしとは、立秋を意識した歌。》

1-1-251歌:初句「もみぢせぬ」とは秋を知らないこと。風に秋をきくとは、立秋。》

1-1-253歌:①時雨も降ってきていない、と詠うので長月の歌。②「かねてうつろふ」により飽きがきたのかと問う歌。宴席で異性にたわむれて謡う歌。》

1-1-255歌:都は秋の初めだが西方(たつたやま)は既に晩秋と詠う。》

1-1-256歌:二句「ふきにし日」は立秋を指すので、実は初秋の歌。》

1-1-259歌:露は無色なのに色々の色があるかに見えた(惑わされて)あなたは私を捨てるとは、の意。》

1-1-260歌:①歌意は紅葉を詠う。②貫之集813歌の五句は「もみぢしにけり」》

1-1-268歌&1-1-272歌&1-1-274歌:詞書に菊とあり、花は菊を指す。》

1-1-275歌:元資料歌の二句は「おもひしものを」。》

1-1-276歌:詞書を信じて官人の挨拶歌とみる。》

1-1-277歌:頂いた花のお礼の歌あるいは屏風歌b。》

1-1-280歌:詞書を信じて花の御礼の歌。》

1-1-281歌&1-1-282歌:①「散り始めるもみぢを詠う歌群(1-1-281歌~1-1-282)」の歌は、古今集編纂者が対の歌にしている。対は月夜と真昼のもみぢの景。②1-1-281歌はよみ人しらずの歌だが屏風歌bと推定。》

1-1-283歌~1-1-292歌:「紅葉の未だ盛んな状況を詠む歌群(1-1-284歌~1-1-292歌)」の歌は、古今集編纂者が隣り合う歌2首づつを対の歌にしている。》

1-1-283歌&1-1-284歌:①古今集では対。眼前と上流の景。②1-1-283歌と1-1-284歌は、よみ人しらずの歌だが屏風歌bと推定。③1-1-284歌は人丸集に古今集成立後組み入れられたか。》

1-1-285歌&1-1-286歌:古今集では対。秋風に舞うもみぢ。》

1-1-287歌:①披露の場所の推測は、猿丸集41歌の検討時に行う。②猿丸集41歌の類似歌。》

1-1-289歌&1-1-290歌:①落ちる木の葉が多い。 ②1-1-289歌は、「無理を言わないで」と懇願の歌》

1-1-291歌&1-1-292歌:①頼りにしたものが、助けてくれない。②1-1-291歌は、詠われた場所の推定を保留する。よみ人しらずの歌ならば民衆歌&相聞とも推測できるが、藤原関雄の歌なので、保留》

1-1-293歌&1-1-294歌:「散って水面におちる紅葉を詠う歌群(1-1-293歌~1-1-294)」の歌は、古今集編纂者が対の歌にしている。》

1-1-294歌:季語なし。「竜田河唐紅に水くくる」と詠うので、歌意からは晩秋》

1-1-296歌:元資料歌の初句「かみなみの」、三句「わけゆけば」。》

1-1-297歌:古今集の詞書を信じる。》

1-1-300歌:作者深養父は生歿未詳だが藤原兼輔紀貫之らと親交があった。古今集の詞書を景の説明と信じて屏風歌。》

1-1-307歌:①「藤(衣)」は作業着。藤はその代表的な素材なので、季語に当たらないと判断した。季語「稲」と「露」より三秋 ②猿丸集〇歌の類似歌。》

1-1-312歌:詞書を信じて下命歌。》

1-1-313歌:歌われた場所は挨拶歌か》

(補注終り)

<補注は2019/2/11 現在>

④ 『古今和歌集』巻第五の歌を、その元資料の歌と比較等した結果次のことがわかった。

第一 『古今和歌集』巻第五 秋歌下の歌の元資料の歌は、現代の俳句の季語(『NHK季寄せ』(平井照敏 2001))でいうと晩秋と三秋の言葉を用いた歌であり、立秋や初冬に渡る季語がわずかにあるが、すべて晩秋の歌と見做せる歌である。

第二 『古今和歌集』の編纂者は、元資料の歌の語句の一部を修正したり、必要に応じて詞書をつけて(あるいは省き)元資料の歌を『古今和歌集』の秋歌(それも晩秋の歌)として記載している。

第三 『古今和歌集』に配列するにあたり、『古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分した歌群を設け、歌群単位で紅葉の進捗等時節の進行を示そうとしている。また歌群ごとに歌の内容は独立している。

第四 その歌群は、(本文にも記したように)下記の14歌群となる。

 

     秋よぶ風を詠う立秋の歌群(1-1-249歌~1-1-251歌)

     もみぢすと秋の至るを詠う歌群(1-1-252歌~1-1-257歌)

     紅葉と露の関係を詠う歌群(1-1-258歌~261歌)

     紅葉の盛んな状況を詠う歌群(1-1-262歌~1-1-267)

  (ここまでは紅葉の歌)

     菊の咲きはじめを詠う歌群(1-1-268歌~1-1-269)

     菊の盛んな状況を詠う歌群(1-1-270歌~1-1-277)

     再び咲く菊を詠う歌群(1-1-278歌~1-1-280歌)

  (ここまでは菊の歌)

     散り始めるもみぢを詠う歌群(1-1-281歌~1-1-282)

     未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292)

     水面を覆うもみぢを詠う歌群(1-1-293歌~1-1-294)

     充分山に残るもみぢを詠う歌群(1-1-295歌~1-1-300歌)

     水面を流れるもみぢを詠う歌群(1-1-301歌~1-1-305)

  (ここまでは落葉の歌)

     秋の田を詠う歌群(1-1-306歌~1-1-308)

     限りの秋を詠う歌群(1-1-309歌~1-1-313)

  (ここまでは、あきはつる心の歌)

 

⑤ 佐田公子氏は、『『古今和歌集』論 和歌と歌群の生成をめぐって』(笠間書院 2016/11)において、秋下に歌群を設定しているが、寄物を考慮し時節の進捗を考慮していない。述懐性の強い歌群を認めるほか、個々の歌の特徴として仏典と漢詩文の影響が細部にまで行き渡っている歌を指摘している。

 

付記2.屏風歌bの判定基準

① ブログ「わかたんかこれの日記 よみ人しらずの屏風歌」2017/6/23)の「2.②」で示す3条件は以下のとおり。

② 『古今和歌集』のよみ人しらずの歌で次の条件をすべて満たす歌は、倭絵から想起した歌として、上記のaまたはc(下記③に記す)の該当歌であり屏風に書きつける得る歌と推定する。

第一 『新編国歌大観』所載のその歌を、倭絵から想起した歌と仮定しても、歌本文とその詞書の間に矛盾が生じないこと 

第二 歌の中の言葉が、賀を否定するかの論旨には用いられていないこと

第三 歌によって想起する光景が、賀など祝いの意に反しないこと。 現実の自然界での景として実際に見た可能性が論理上ほとんど小さくとも構わない。

③ 「上記のaまたはc」とは次の文をいう。

a屏風という室内の仕切り用の道具に描かれた絵に合せて記された歌

c屏風という室内の仕切り用の道具の絵と対になるべく詠まれた歌(上記a,bを除く)」

④ この方法は、歌の表現面から「屏風歌らしさ」を摘出してゆくものであり、確実に屏風歌であったという検証ではなく、屏風作成の注文をする賀の主催者が、賀を行う趣旨より推定して屏風に描かれた絵に相応しいと選定し得る歌であってかつ歌に合わせて屏風絵を描くことがしやすい和歌、を探したということである。

付記3.巻第五秋歌下における、共通項のある歌が対となっている状況について

① 1-1-281歌と1-1-282歌が対であること、及び1-1-283歌から1-1-292歌については本文で示した。

② それ以外もすべて対となっている。いくつか例示する。なお、『古今和歌集』の編纂者は、そのうえで対の歌をまたいで共通の語句も用いて歌を配列している。

1-1-253歌と1-1-254:原因わからずもみぢする景と原因不明で散る景を対比

1-1-255歌と1-1-256:都の西方の山(たつたやまなど)と都の東にある山の景を対比

1-1-259歌と1-1-260歌:ちくさの色と(上葉との比喩での)一色の景を対比

1-1-261歌と1-1-262歌:山腹・山頂(奥の院)と麓(本宮あるいは遥拝所)を対比

1-1-265歌と1-1-266歌:誰がための錦と母の錦を対比

1-1-269歌と1-1-270歌:天(雲の上)と(露が降りる)地を対比

1-1-273歌と1-1-274歌:仙境と現世を対比。さらに千年の時と開花が1シーズンという時間とを対比

1-1-275歌と1-1-276歌:視覚に訴えた菊と匂う菊を対比

1-1-279歌と1-1-280歌:色替わりして一段と美しくなる菊と移植してさえない菊を対比。また、宇多法皇の今後の弥栄と身分低い貫之らのささやかな期待を対比

1-1-293歌と1-1-294歌:ともに屏風絵の賛といえる歌で、河の流れゆく先の景と目前の河の景を対比

1-1-297歌と1-1-298歌:(都の)北山とたつたひめが今通過するたつたやま(都の西方に位置する)の景を対比。また夜の景と昼の景を対比

1-1-299歌と1-1-300歌:秋の山(すなわちたつたやま)と(たつた)川の景を対比

1-1-305歌と1-1-306歌:悲しみの秋にふるものを見立てた歌で、雨と涙を対比

<量の大小(多くのもみぢと少しの露)?&(それとは反対の)晩秋の渡河の一点と一面の田の景?>

1-1-307歌と1-1-308歌:田で、はっきりわかる露と出てこないひこばえの穂を対比。また濡れぬ日がないと継続(今日までつづいてきた秋)と秋の終了を対比

<濡れる田(作者)と枯れた田(秋がかれる・終る)>

1-1-313歌と1-1-314歌:山の景と河の景を対比。また、長月晦日と神無月第一日(巻頭歌だから)を対比 (共通項は、さかんなもみぢ(ぬさとしたり錦とみなしたり)

(付記終り 2019/2/11  上村 朋)

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第40歌 いなおほせどり

前回(2019/1/28)、 「猿丸集第39歌その3 ものはかなしき」と題して記しました。

今回、「猿丸集第40歌 いなおほせどり」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第40 3-4-40歌とその類似歌

① 『猿丸集』の40番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌とを、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-40歌  なし(詞書は3-4-39歌に同じ。「しかのなくをききて」)

わがやどにいなおほせどりのなくなへにけさふくかぜにかりはきにけり

 その類似歌は、古今集にあり、

1-1-208歌  題しらず            よみ人しらず」 

わがかどにいなおほせどりのなくなへにけさ吹く風にかりはきにけり

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、初句一字と詞書が、異ります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌と理解できます。

この歌は、秋になり恋が期待はずれに終わったことを詠う恋の歌であり、類似歌は、晩秋に辛いなかにも喜びの一瞬もあることを詠う秋の歌です。

 

2.古今集にある類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

古今集にある類似歌1-1-208歌は、古今和歌集』巻第四 秋歌上にあり、「かりといなおほせとりに寄せる歌群 (1-1-206歌~1-1-213歌))の三番目に置かれている歌です。

第四 秋歌上の歌の配列の検討は、3-4-28歌の検討の際行い、古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分した歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示そうとしていることを知りました。秋歌上では、11歌群あります。(付記1.参照)

② 次に、かりといなおほせとりに寄せる歌群 (1-1-206歌~1-1-213歌))での配列をみてみます。この歌群は、「きりぎりす等虫に寄せる歌群(1-1-196歌~1-1-205歌)」と「鹿と萩に寄せる歌群 (1-1-214歌~1-1-218歌))とに挟まれています。

この歌群の歌は、つぎのとおりです。

1-1-206歌  はつかりをよめる     在原元方

     まつ人にあらぬものからはつかりのけさなくこゑのめづらしきかな

1-1-207歌  これさだのみこの家の歌合のうた     とものり

     秋風にはつかりがねぞきこゆなるたがたまづさをかけてきつらむ

1-1-208歌  (上記1.参照)

 

1-1-209歌  題しらず          よみ人しらず

     いとはやもなきぬるかりか白露のいろどる木木ももみぢあへなくに

1-1-210歌  題しらず          よみ人しらず

     春霞かすみていにしかりがねは今ぞなくなる秋ぎりのうへに

1-1-211歌  題しらず          よみ人しらず

     夜をさむみ衣かりがねなくなへに萩のしたばもうつろひにけり

          このうたは、ある人のいはく、柿本の人まろがなりと

1-1-212歌  寛平御時きさいの宮の歌合のうた     藤原菅根朝臣

     秋風にこゑをほにあげてくる舟はあまのとわたるかりにぞありける

1-1-213歌  かりのなきけるをききてよめる        みつね

     うき事を思ひつらねてかりがねのなきこそわたれ秋のよなよな

 

③ 古今和歌集』歌の諸氏の現代語訳を参考にし、元資料の歌の視点2などを考慮すると、各歌は次のような歌であると理解できます。(視点2とは、元資料の歌が詠われた(披露された)場所の推定場所であり、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第28歌その1 類似歌の歌集」2018/9/3)」の付記1.の表3参照)

1-1-206歌  初めてきた雁を詠んだ(歌)     在原元方

     「雁は私の待っているものではないが、今朝初めて聞いた雁の声は願いが適ったような喜びを感じる。」

     元資料の歌は、宴席の歌と推定。それは私的な秋の会合での歌であり、賀や送別の宴会での披露はふさわしくない。また、相聞の歌として女が男におくるという立場の歌にもなり得る。

 

1-1-207歌  是貞親王家の歌合に番(つが)われた歌     とものり

     「秋風に乗って初雁の鳴き声が聞こえてくる。北の国から誰の消息をたずざえてきたのであろうか。」

     元資料の歌は、歌合での歌と推定。

 

1-1-208歌 (仮訳) 題しらず     よみ人しらず

     「わが家の門口でいなおおせ鳥が鳴くのと時を同じくして今朝の涼しい風にのって雁はやってきた。」

    元資料の歌は、屏風歌bと推定。

 

1-1-209歌  題しらず     よみ人しらず

     「なんともはやばやと鳴き始めた雁だ。白露が染めるはずの木々もまだなのに。」

   元資料の歌は、宴席の歌かまたは屏風歌と推定。

 

1-1-210歌  題しらず     よみ人しらず

     「春霞の中に飛び去った雁が、今はもう秋霧の上で鳴いている。」

    よみ人しらずと記されているが、元資料の歌は、屏風歌bと推定。『公忠集』に集録されている。

 

1-1-211歌  題しらず     よみ人しらず

     「夜寒となり衣を借りたいくらいだ。だから寒さで雁が鳴き萩の下葉も枯れてしまっている。」

          この歌は、ある人の言によると、柿本人麻呂の歌であると。

    元資料の歌は、宴席の歌(愛唱歌)と推定。この歌は、『忠岑集』に集録されている。

1-1-212歌  寛平御時后宮歌合に番われた歌     藤原菅根朝臣

     「秋風に乗って目立つ声が聞こえるが、それは帆にいっぱい風を受けた船団のように大空の海峡を渡る雁の群れであったよ。」

(二句の「こゑをほにあげ」は、「ほ」を「秀」と解して「声をとりわけ目だつほど鳴いて風をおこし(同音の)帆に風をあて」と理解する。)

    元資料の歌は、歌合の歌。

 

1-1-213歌  雁が鳴いているのを聞いて詠んだ(歌)     みつね

     「様々なつらいことを思いださせるように雁は鳴きたて、秋の夜ごとよごとの空を連なって渡っている。」

    元資料は、宴席の歌又は外出時・挨拶歌と推定。 この歌は『躬恒集』に無く『伊勢集』にある。

古今和歌集』の撰者である「みつね」の作としていることを信じると、元資料の歌は、官位のあがらぬことを上司に嘆いた歌か。個人的にあるいは宴席で訴えた歌か。

 

④ この歌群のすべての歌には、雁が登場します。1-1-208歌を後ほどの検討として除くと、雁信の故事と結びつけた雁が飛来する歌から始まり、夜空に雁が飛び回る歌で終っています。即ち、雁には、便りを運んできてくれる、というイメージの歌(1-1-206歌、1-1-207歌)と、秋を連れ来るもの、というイメージの歌(1-1-209歌、1-1-210歌)と冷涼を越えた寒さをもたらす、というイメージの歌(1-1-211歌、)の後に、明るい月夜の素晴らしい光景を詠う歌(1-1-212歌)を置き、最後に辛い思いを思い出させるような鳴き立てる雁を詠う歌(1-1-213歌)が置かれています。

これは、雁がいろいろのものをもたらし、その代表的なものは、雁信の故事による便りがある(かもしれない)ということと冷涼とか辛い思いとか悲しいことである、ということである、という流れでこの歌群が構成されている、と理解できます。

類似歌(1-1-208歌)もその流れの中にあり、1-1-212歌も、秋風の飛んでくる雁は作者のところにくる雁ではないのであり、雁が便りを運んできてくれたとすると、不幸な結果に終わるという理解でこの流れに置かれている、と思われます。

⑤ 雁信の故事に関して、『歌ことば歌枕大辞典』(久保田淳・馬場あき子編 角川書店 1999)は見出し語に「雁の使ひ」を立項し、「かりの玉章(たまずさ)」とも(詠い)、『漢書』の雁信の故事による表現であり、その意は、故事が蘇武が死んだと偽る対抗手段の謀智であるが、和歌では単に雁が手紙を運ぶものとしての表現である」、と説明し、さらに「雁の群行」が文字にたとえられることがある。・・・雁は文字とのつながりが大きい」と解説しています。

⑥ また、雁に関する情報は、1-1-206歌以下各歌とも鳴き声が共通です。例外は、今の検討で除外している1-1-208歌だけが雁の鳴き声は無視されています。この歌では「いなおほせ鳥」が鳴いています。

⑦ 次に、この歌群の前後の歌群と比較すると、この歌群の前の歌群(きりぎりす等虫に寄せる歌群(1-1-196歌~1-1-205歌))は、身近にいる虫に寄せた対の歌の歌群(付記2.参照)であり、鳴く声は作者自身の思いに重ねられ、歌意が違います。次の歌群(鹿と萩に寄せる歌群(1-1-214歌~1-1-218歌))は、聴覚と視覚がとらえたものに、秋の冷涼な気候を感じるとともに作者の気持ちを詠っており、やはり、この歌群とは違います。

⑨ この歌と直前の歌(1-1-207歌)とを比較すると、共に秋風を詠い、1-1-207歌は、便りがあるかと詠い、この歌は、雁が到着したと詠っています。また(上記⑦でいうように)1-1-207歌は雁が鳴き、この歌はいなおほせどりが鳴いています。

この歌の直後の歌(1-1-209歌)とを比較すると、共に詠っているものはありません。

この歌は、直前の歌と結びつきが強い、と言えます。

以上のことを踏まえて現代語訳を試みてよい、と思います。

 

3.古今集にある類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

わが家の門口でいなおおせ鳥が鳴くと同時に、今朝の涼しい風に乗って雁はやって来たことであるよ。」(久曾神氏)

「わが家の門前で、いなおおせ鳥が鳴くのと時を同じくして、今朝の秋風に導かれて、雁が初めて訪れてきたことよ。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

②久曾神氏は、「いなおほせ鳥」について、いなおほせどり(稲負鳥)は、秋来る渡り鳥と言われているが、実体は不明。古今伝授では呼子鳥、百千鳥(ももちどり)とともに三鳥の秘伝となっていた」と説明しています。

③ 『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』では、「いなおほせ鳥」について、「雀のようにあまり歓迎されぬ鳥らしい」と説明し、初句の「わがかどに」とは、「わが家の門のあたりに」、の意。「わがやどに」と違い、門の外にあるものをさす。」とし、さらに「歌の内容から言えば、「初雁」と言う語が詠み込まれていないが雁の歌の最初に置かれても良い歌」としています。

 

4.古今集にある類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① 古今集にある類似歌1-1-208歌は、上記2.の検討結果に従い、かりといなおほせとりに寄せる歌群 (1-1-206歌~1-1-213歌))、即ち、この類似歌は、雁はいろいろのものをもたらし、雁が手紙を運ぶものであり、雁は総じて悲しいことにつながってしまっている、ということを、共有している歌であると仮定します。

② 二句「いなおほせどり」とは、実体はともかく、和歌においては、秋の田の景物となっている鳥です。この鳥が居れば秋は秋でも秋の収穫の時期を意味します。

「いなおほせどり」を漢字交じりの表現にすると、普通は「稲負せ鳥」です。

『歌ことば歌枕大辞典』(久保田淳・馬場あき子編 角川書店 1999)には、見出し語に「稲負鳥」があり、「諸説あり、実体は明らかではなく、秋に鳴く鳥としかわからない」、と説明し、さらに、次のような解説があります。

     「秋」、「田」「刈り穂」などが詠み込まれることが多いこと

     『俊頼髄脳』では「わが門に」(今検討している類似歌)の歌をあげて「・・・庭たたきといへる鳥なめりといへる人あり。推しはかりごとなめり」などとあること

     「収税使」の意の「稲課(いなおほ)せ取り」と掛けての使用例あり(『兼盛集』189歌 付記3.参照)

     「いな(否)」を掛ける場合もある(『新続古今和歌集1125歌) 付記3.参照)

このため、今は、「いなおほせどり」とは、常識的な「稲負せ鳥」とし、田に関係深い鳥、秋の田の景物として検討します。

③ 初句にある「かど」には、「才」、「角」、「門」の意があります。

「角」とは、『例解古語辞典』には、「a物のとがって突き出た部分・曲がり角。b方向・方角。」とあり、『古典基礎語辞典』には、「aとがって突き出ている部分、b刀剣のしのぎ。または切っ先。c曲がり目。曲がり角。d才覚。才気。」とあります。

同じく「門」とは、「a門・門のあたり。b一族・一門」とあり、また「門」とは、「a家の外構えに設けた出入り口。b門限の時刻。門を閉める時刻」とあります。

「いなおほせどり」が、秋の田の景物なので、「わがかど」とは、「わが屋敷の門」の意ではなく、「我が田地の隅」とか「我が田の仮屋の敷地への出入り口」とかという理解が素直である、と思います。

この歌の作中人物を、田の管理人(農作業の現場指揮者で秋には作業詰所兼臨時宿泊所に詰めている人物)とすると、「わがかど」とは、「雀や他家の者から田を守るべく、私が泊まっている田小屋の出入り口」の意、となります。

「庭たたき鳥」では、渡り鳥のイメージが無くなりこの歌群の歌にそぐわない、と思います。

④ この歌の上句にいう「いなおほせ鳥が鳴くのを聞く、即ち田に到来したと同時に」、雁が来たのですから、初雁でもなくだいぶ遅れた雁、という理解も可能です。何度目かの雁が来たことを、詠んでいます。

田小屋に泊まり込み単身で働く者(たち)には待ち望んでいる便りがあると思います。「いなおほせ鳥」が、「わがかど」に来て鳴くのは、食料などが届いたということであり、一緒に雁が来て鳴いたのは、雁が、手紙を運ぶものとして詠まれているのだから、この時期離れて暮らす妻からの便りがあったことを象徴しているのではないかと、とれます。

⑤ 現代語訳を試みると、次のとおり。

「田を守る我が田小屋に来ていなおおせ鳥が鳴くと同時に、今朝の涼しい風に乗って雁はやって来たことであるよ(妻が便りをくれた。つらいなかの一時のうれしいことだ)。」

⑥ この訳(試案)は、先の仮定に添うものであり、この歌群のほかの歌の方向とは一致していると言えます。

⑦ 1-1-208歌だけが雁の鳴き声を無視しているのは、妻と離れているという辛いなでで他の歌と違いささやかな作者の喜びがあったことの象徴なのでしょうか。

⑦ この類似歌は、よみ人しらずの歌です。その作者名を信じるならば、その元資料の歌は、民衆に詠い継がれてきた歌であり、それを官人が記録していることから、宴席で披露できる(合唱できる)歌であろう、と推測します。民衆の歌は農作業に従事する者の歌であっても、官人は別の意をも汲み取っていた歌であるかもしれません。例えば、「いなおほせどり」のように(良くも悪くも)時期に適いかつ「雁」がもたらすものを作中人物が得た者に見立てて、ほめるとか囃すとか、が想像できます。

⑧ 民衆に詠い継がれてきた歌元資料の歌は、「秋を迎えていなおほせ鳥が来るほどたわわに稲は稔り、忙しくなる夫や兄弟にはげましの便りが田小屋に届いた」と詠った歌、と推測します。編纂者は、『古今和歌集』の秋部にある「かりといなおほせとりに寄せる歌群」の歌として、雁がいろいろのものをもたらすという歌群の中におき、元資料の歌とは少しユアンスが違う歌となりました。

 

5.3-4-40歌の詞書の検討

① 3-4-40歌を、まず詞書から検討します。詞書が特段記されていないので3-4-39歌の詞書「しかのなくをききて」と同じです。

 3-4-39歌の詞書の現代語訳(試案)を引用します。

「鹿が鳴くのを聞いて(詠んだ歌)」

③ 同じ詞書の歌である3-4-41歌の検討後、この詞書を再度確認します。

 

6.3-4-40歌の現代語訳を試みると

① 詞書に従い、歌の現代語訳(試案)を試みます。

② 初句の「わがやどに」とは、「我が屋敷の出入り口に」、の意です。類似歌の初句「わがかど」とは語句が違うので意が異なるはずです。鹿が鳴く(詞書)のを聞ける屋敷のようであるので、山里近くの別荘なのでしょうか。

③ 二句にある「いなおほせどり」は、実体はともかく、和歌においては、秋の田の景物となっている鳥です。その鳥が田に降りないで、屋敷の門(出入り口)に現れて鳴いている、という状況は、異常な景です。通常ではない何かを含意している、と考えられます。

五句にある「かり」が、『漢書』の雁信を類推させてくれますので、同じ鳥である「いなおほせどり」には上記4.②の記述の延長上に「異な仰せ(を伝える)鳥」という意味も含ませられます。

④ そうすると、作中人物は、農作業に関わる者ではなく、官人となります。

⑤ 和歌においては、詞書にある「鹿が鳴く」とは、妻恋を連想させます。

⑥ このため、詞書に従い、現代語訳をすると、次の通り。

「(妻恋をしきりにしている鹿の鳴き声が聞こえ、)わが屋敷の門に、田に行くはずの「いなおほせ鳥」が来て鳴いていて、同時に今朝の風にのり雁がきた。「異な仰せ(を伝える)鳥」と一緒で届いた便りは、やはり秋(飽き(られた)の便りだった。」

③ 悲恋となる便りが届くかという予想のとおりであったと愚痴っているのが、この歌ではないでしょうか。

前回、これまでの『猿丸集』の歌の延長であれば、2-2-39歌~2-2-41歌も、恋あるいは生き様を詠っていると予測しましたが、この歌はその予測の範囲の歌です。

 

7.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-40歌は、歌を詠むきっかけの聴覚の情報をはっきり記しています。類似歌1-1-215歌は、題しらずと記し、何の情報も与えてくれず、歌の配列から推測する以外ありません。類似歌を承知していてこの歌の作者は利用しているのだと思いますが、詠う情景を限定することにより歌の意味を類似歌と異なることを示唆しているのが、この歌の詞書である、と思います。

② 初句の語句が、異なります。この歌は、「わがやどに」であり、類似歌は、「わがかどに」です。

この歌は、「屋敷の門前に」の意であり、類似歌は、「わが守る田の田小屋に」の意です。いなおほせどりが来た場所がはっきりと異なります。

③ 二句の「いなおほせどり」の意が異なります。この歌は、歌語の「いなおほせ鳥」に「異な仰せ(を伝える)鳥」を掛けています。これに対して類似歌は、歌語のとおり「稲負せ鳥」の意だけです。

④ 作中人物が、異なります。この歌は、官人です。これに対して類似歌は、田の管理人(農事作業の現場指揮者)です。

 

⑤ この結果、この歌は、秋になり恋が期待はずれに終わったことを2種類の鳥で詠う恋の歌であり、これに対して、類似歌は、晩秋に辛いなかにも喜びの一瞬もあることを2種類の鳥で詠う秋の歌です。

⑥ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-41歌  なし(詞書は3-4-39歌に同じ。「しかのなくをききて」)

秋はきぬもみぢはやどにふりしきぬみちふみわけてとふ人はなし

3-4-41歌の、古今集にある類似歌 1-1-287歌  題しらず     よみ人しらず」

      あきはきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし

 

『猿丸集』の歌は、類似歌と、趣旨が違う歌です。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2019/2/4   上村 朋)

付記1.『古今和歌集』巻第四秋歌上 の歌群について

① その歌群は、つぎのとおり。

     立秋の歌群 (1-1-169歌~1-1-172歌)。

     七夕伝説に寄り添う歌群 (1-1-173歌~1-1-183歌)

     「秋くる」と改めて詠む歌群 (1-1-184歌~1-1-189歌)

     月に寄せる歌群 (1-1-189歌~1-1-195歌)

     きりぎりす等虫に寄せる歌群 (1-1-196歌~1-1-205歌)

     かりといなおほせとりに寄せる歌群 (1-1-206歌~1-1-213歌)

     鹿と萩に寄せる歌群 (1-1-214歌~1-1-218歌)

     萩と露に寄せる歌群 (1-1-219歌~1-1-225)

     をみなへしに寄せる歌群 (1-1-226歌~1-1-238)

     藤袴その他秋の花に寄せる歌群 (1-1-239歌~1-1-247歌)

     秋の野に寄せる歌群 (1-1-248)

② 巻第四 秋歌上の歌の配列については、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第28歌その1 類似歌の歌集」2018/9/3)」で述べた方法(ブログの2.類似歌の検討その1 巻第四秋歌上の元資料の分析方法 )により、検討した。『古今和歌集』の編纂者は、語句の一部を訂正して、必要に応じて詞書をつけて『古今和歌集』に用いている。

 

付記2.前後の歌群の検討について

① 前の歌群(きりぎりす等虫に寄せる歌群(1-1-196歌~1-1-205歌))については、ブログ「わかたんかこれ  猿丸集第28歌その2 やまのかげ(2018/9/10)において、論じた。2首ずつ対となる歌を配列し、歌群全体は、寄せる虫が共通である。

② 次の歌群(鹿と萩に寄せる歌群(1-1-214歌~1-1-218歌))については、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第39歌その1 もみぢふみわけ」2019/1/14)で論じた。各歌ともに、聴覚と視覚がとらえたものに、秋の冷涼な気候を感じるとともに作者の気持ちを詠った歌群である。

付記3.いなおほせどりを詠む歌(801~1000年頃及び宝治百首より)

① 屏風歌に詠まれたり、歌合に詠まれている。

② 『兼盛集』  作者平兼盛は天暦4年(950)臣籍に下り、正歴元年(99080歳過ぎの高齢で没した。後撰集以下の勅撰集に85首あまり入集。

3-32-189歌  九月田刈るところにおきなあり

     からくしていそぎかりつる山田かないなおほせどりのうしろべたさよ

3-32-190歌  九月田刈るところにおきなあり

     足引きの山田のこすげあすまでといなおほせどりのおふもてたゆし

③ 『新続古今和歌集』  この和歌集は、永享10(1438)四季部だけ奏覧、全20巻は永享11年なる。

1-21-1125歌  宝治百首歌に、寄鳥恋

     あふことはいなおほせ鳥のなきしより秋風つらき夕暮の空

④ 『忠岑集』  生歿未詳。古今集の撰者の一人。

3-13-28歌  あきのたのいほりといふことを、これさだのみこのいへのうたあはせに

     やまだもるあきのかりほにおくつゆはいなおほせどりのなみだなりけり

⑤ 『能宣集』  作者大中臣能宣は、延喜21年(921)に生まれ正歴2年(991)歿。後撰集の撰進と万葉集の訓訳の業に従った梨壺の5人の1人。

3-33-90歌  あるところの月なみの屏風歌(82~93) 九月、山ざとのいへゐに女どもあつまりゐたる、いねなどほせり、こたかがりの人人消息などいひいるるに

     かりにとてわがやどのへにくる人はいなおほせどりのあはむとやおもふ

⑥ 『千穎集』  作者名「別田千穎」はペンネーム。歌集の成立は永祚2年(990)は信じてよいであろう。

3-59-31歌  秋十五首(23~37

     あきのたにいなおほせどりのおとすればうちつけにはたかりぞさわたる

⑦ 『輔親集』  大中臣輔親は、天暦8(954)生れ、長歴2年(1038)歿。能宣の子。

3-79-160歌  などいふに、れいのかくいふ

     すもりなるかひと見つるはかりてほすいなおほせどりのたねにぞありける

⑧ 『宝治百首』  続後撰和歌集の選歌資料に充当するため後嵯峨院が宝治元年(1248)詠進させた百首。

4-35-2942歌  寄鳥恋(2918~2957)         寂西

     あふ事をいなおほせどりにおほせてぞ人のつらさの音をも鳴きける

(付記終り 2019/2/4   上村 朋)

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第39歌その3 ものはかなしき

前回(2019/1/21)、 「猿丸集第39歌その2 あきやま おく山」と題して記しました。

今回、「猿丸集第39歌その3 ものはかなしき」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第39 3-4-39歌とその類似歌

① 『猿丸集』の39番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-39歌 しかのなくをききて

     あきやまのもみぢふみわけなくしかのこゑきく時ぞ物はかなしき

 3-4-39歌の、古今集にある類似歌 1-1-215歌(類似歌a

これさだのみこの家の歌合のうた(214~215)  よみ人知らず

     おく山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきく時ぞ秋は悲しき

 3-4-39歌の、新撰万葉集にある類似歌 2-2-113歌(類似歌b

奥山丹 黄葉蹈別 鳴麋之 音聴時曾 秋者金敷

     (おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき)

 3-4-39歌の、寛平御時后宮歌合にある類似歌 5-4-82歌(類似歌c   左  (作者名無し)

おく山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき

② 類似歌bの参考にする1詩があります。

参考 2-2-114歌 秋山寂寂葉零零 麋鹿鳴声数処聆 勝地尋来遊宴処 無朋無酒意猶冷

     (しうざんせきせきはれいれい びろくのなくこゑあまたのところにきこゆ しょうちにたづねきたりていうえんするところ ともなくさけなくしてこころなほつめたし)

 

③ さらに類似歌cの参考にする歌があります。5-4-82歌に番えられた歌です。

参考 5-4-83歌    右  (作者名無し)

      わがために来る秋にしもあらなくに虫の音聞けば先ぞかなしき

 

④ 清濁抜きの平仮名表記をすると、初句や五句と詞書に、3-4-39歌と他の歌とでは異なるところがあります。

⑤ 3-4-39歌と、他の歌とは、趣旨が違う歌です。この歌は、秋に行う狩の一面を詠った歌であり、各類似歌は、秋という季節の感慨を詠った歌です。

 

2.~9. 承前

 

10.3-4-39歌の詞書の検討

① 類似歌の検討が終わったので、次に、3-4-39歌を、まず詞書「しかのなくをききて」から検討します。

② 「しか」は、名詞であれば、「鹿」のほかに、『例解古語辞典』に「士家」が立項されおり、その意は「武士、さむらい」です。後者は、漢語系の言葉であり、当時使用されていたかどうか、傍証がありません。

ただ、「士」一文字(一音)の用例は、『枕草子』(職の御曹司の項)にあります。「士」の意は、「(りっぱな)男子」、「官吏や軍の指揮を司る者」の意で用いられています。

また、禅宗での「知客」も該当しますが、平安時代前期には禅宗が到来していません。

平安時代の前半の官職は律令制度の官制に基づいていますが、大納言・参議・弁官(役所の連絡役)などの官のほか検非違使や蔵人などの諸職があります。これらは上位の官人クラスであり、この下に、役所のナンバー3が極官である実務の中枢を担う中位の官人クラスがあり、さらに、舎人(とねり)とか使部(しぶ)など雑役その他を行う下位クラスとに分かれています。「士家」は中位か下位クラスなのでしょうか。

③ 「なく」は、獣や鳥や虫などが動詞「鳴く」の意です。「しか」が「士家」の意であれば、獣や鳥などに見做して人の騒ぐのを指して用いたことになり、そのような用例がみあたらず、「士家」という理解は困難になります。

④ また、これまでの『猿丸集』の歌の傾向をみれば、2-2-39歌も恋あるいは生き様を詠っている、と予測できます。その予測に、「鹿」の意のほうが添う言葉であり、「士家」の意は馴染まない言葉です。

⑤ さらに、この詞書は、この歌に続く3-4-40歌と3-4-41歌の詞書でもありますので、それらの歌を視野にいれて、「しか」は「鹿」として以下検討します(3-4-40歌等の検討後に再度触れる予定です)。

⑥ 詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「鹿が鳴くのを聞いて(詠んだ歌)」

 

11.3-4-39歌の検討  現代語訳を試みると

① 初句「あきやま」とは、秋になった山、の意であり、田畑もなく一面林となっている山地とか独立した山体が、色づいて秋の色となった頃、ということです。なお、そのような山地の秋の楽しみに、鹿狩があります。

② 二句「もみぢふみわけ」の「もみぢ」は、鹿狩りをしている山の木々の黄葉でしょう。萩ではないと思います。

③ 二句から三句にある「もみじふみわけなくしか」とは、詞書によれば作中人物は、鹿の鳴き声に注目しており、「もみじふみわけ」ている音を耳にしたことを無視しているか聞いていないことになります。「もみじふみわけ」る音は鹿の鳴声より小さい音であり、「ふみわけ」ているというのは、作中人物の推測ではないでしょうか。

なお、実際の鹿狩りにおいて、鹿が逃げる際に鳴き声をそもそも発するのかどうかの確認はまだしていません。しかし、狩場で追い詰められたり、射られた場面では声をあげる可能性は十分あると思います。

獲物が捕らえられたりする際は威嚇を含め何らかの鳴き声は発する、ということはよくある事です。

④ 五句にある「物」とは、個別の事物を、直接明示しないで一般化していったり、世間一般の事物、ものの道理などを指す言葉です。3-4-38歌の五句にある「物」ともすこし異なるようです。

なお、「もの」(物・者)の古い時代の基本的な意味は、「変えることができない不可変のこと」です(『古典基礎語辞典』)。

⑤ 詞書に従い、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「(狩で追いつめられている鹿の鳴き声が聞こえてくる。)秋の色になった山で落葉した黄葉を踏みわけて鳴いている鹿の声を聞く時は、定めとはいうものの、かなしいものである。」

この歌は、聴覚に届いた情報をもとにして作中人物が秋の感慨を詠ったという建前の歌です。

勢子のざわめきや犬の吠えたてるかのような鳴き声も聞こえたでであろうと推測するのですが、その中から鹿の鳴き声にのみ聴き取り、作中人物はこの歌を詠んだということになります。

また、上記10.で行った詞書の現代語訳(試案)と、齟齬はありません。

 

12.この歌3-4-39歌と各類似歌との違い

① この歌3-4-39歌と各類似歌との比較を行います。この歌のある猿丸集には、部立がありません。類似歌はすべて記載歌集の四季の「秋」の部立にある歌です。

最初に、各類似歌の現代語訳(試案)を再掲します。

     類似歌a 古今集にある類似歌 1-1-215

これさだのみこの家の歌合のうた(214~215)  よみ人知らず

 「秋といえば、一般に物悲しい季節。そんな折、共に過ごした里ちかくのねぐらから奥山に、もみぢを踏み分けながら向かっているであろう鹿の鳴き声が耳に入ってくると、なんといっても身にしみて秋は悲しいと思う。(私自身も秋冷の秋の朝の別れの最中にいるのだ。)」

 

     類似歌b 新撰万葉集にある類似歌 2-2-113歌   <詞書無し>

 「元資料の歌(5-4-82歌)の理解と同じ」

 

     類似歌c 寛平御時后宮歌合にある類似歌 5-4-82歌   <詞書無し>

「おく山へと向かって萩の黄葉を踏み分けながら鹿が鳴く声を聞くとしたならば、(男であるならば戻らざるを得ない暁時の行動と重なる。だから、)秋は特にやるせなく悲しいものであるのを実感することである。」

 

② この歌3-4-39歌と各類似歌を詞書から、順に比較してゆきます。

この歌とっく類似歌は、詞書から違います。

この歌3-4-39歌は、詞書において詠むきっかけの情報を具体的に示しています。しかし元資料の歌があるという示唆はありません。

類似歌a1-1-215歌)は、歌合の歌と詞書に記しており、元資料の歌があることを示しています。しかし、その元資料の名称は、誤って記しています。これは、元資料の歌が歌合で披露された歌ということは知れ渡っていることを無視出来なかった『古今和歌集』編纂者が、わざと誤ったとしか理解できません。それは、歌合にあった題とかそのほかの詠む条件は、忘れてほしい、という編纂者のメッセージにとれます。

この類似歌aを、秋の冷涼な気候における作者の気持ちを詠っている鹿と萩に寄せる歌群 (1-1-214歌~1-1-218歌)」に『古今和歌集』編纂者が置いたのは、(元資料の名も誤っているのですから元資料を離れて)その歌群の趣旨の歌としてこの歌を理解せよということではないか、と推測します。

類似歌aの詞書は、このように、この歌3-4-39歌の詞書の内容が全然異なります。

次に、類似歌b2-2-113歌)は、詞書がありません。この詩歌集は、元資料の歌があることを序で述べています。このため、その元資料の歌の同一の理解を勧めていると理解できます。また、この詩歌集は元資料に微妙に手を加えた例が多くありますが、この類似歌bは、清濁抜きの平仮名表記がまったく同一になります。その理解を変更する必要を認めていない、と考えられます。

次の類似歌c5-4-82歌)は、類似歌aや類似歌bの元資料の歌でもありますが、詞書はありません。この歌合は、撰歌合とも言われており、そうであればこの類似歌cの元資料があるはずですが最初にどこで披露された歌かも現在のところわかりません。歌合では5-4-83歌と番えられているので、共通項として「悲秋」「悲愁」「秋悲」の類が浮かび上がってくるのでそのような題であった歌か、と推測します。実際に歌合で披露された歌であっても、この歌集では、「秋歌 二十番」の番いの一つとしかわからず、この番いだけの題は、不明です。

このように、類似歌3首と違い、この歌3-4-39歌の詞書のみが、詠む事情を具体的に示しています。

 初句の語句が、異なります。

この歌3-4-39歌は、「あきやま」とあり、一年のうちの時期を明らかにしています。各類似歌は、「おく山」とあり、地理的に山の位置を明らかにしています。時期が秋であることは、この歌のなかの別の語句が担当しています。

 五句の語句が、異なります。

この歌3-4-39歌は「物」であり、かなしいと作中人物が思うのは、ものの道理とか狩というものの(普遍的な)一面です。

これに対して、各類似歌での語句は「秋」であり、かなしいのは秋という時節そのものです。

結果として、この歌3-4-39は、「物はかなしき」と、鹿の運命・定めに思いをはせています。類似歌は、世の中が秋にあると「秋はかなしき」という気分になる、と詠います

 鹿の声に対する思い入れが、異なります。

これらの4首の歌は、作者の聴覚が捉えた音がきっかけの歌というスタイルは共通です。この歌での鳴き声は、鹿は狩りの対象にさせられた鹿の声となり、各類似歌では、秋の象徴とか妻恋をしている声と聞きなしていることになります。

 また、鳴いている時間帯も異なり、この歌は、日中であり、各類似歌は、朝方か夕方となります。

 作者(作中人物)が詠うきっかけの情報の種類に差があります。

この歌3-4-39歌は、実際に得たかどうかは別にしても、聴覚情報を得たことが前提の歌となっています。

各類似歌は、聴覚情報を前提として詠んでいるかどうかも定かではありません。

 この結果、この歌は、秋に行う狩の一面を詠った歌であり、各類似歌は、秋という季節の感慨を詠った歌となります。あるいは、この歌は、秋の鹿狩りにおける鹿の運命に思いをはせた歌であり、各類似歌は、「秋はかなしさを感じる季節」を鹿が鳴くことにより例示した歌です。

 さて、『猿丸集』の次の歌と、その類似歌は、つぎのような歌です。

3-4-40歌  (詞書は3-4-39歌に同じ)

わがやどにいなおほせどりのなくなへにけさふくかぜにかりはきにけり

 その類似歌は

1-1-208歌  題しらず            よみ人しらず」 

わがかどにいなおほせどりのなくなへにけさ吹く風にかりはきにけり

 この二つの歌も趣旨が異なります。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2019/1/28  上村 朋)

 

 

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第39歌その2 あきやま おく山

前回(2019/1/14)、 「猿丸集第39歌その1 もみぢふみわけ」と題して記しました。

今回、「猿丸集第39歌その2 あきやま おく山」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第39 3-4-39歌とその類似歌

① 『猿丸集』の39番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-39歌 しかのなくをききて

     あきやまのもみぢふみわけなくしかのこゑきく時ぞ物はかなしき

 3-4-39歌の、古今集にある類似歌 1-1-215歌(類似歌a

これさだのみこの家の歌合のうた(214~215)  よみ人知らず

     おく山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきく時ぞ秋は悲しき

 3-4-39歌の、新撰万葉集にある類似歌 2-2-113歌(類似歌b

奥山丹 黄葉蹈別 鳴麋之 音聴時曾 秋者金敷

     (おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき)

 3-4-39歌の、寛平御時后宮歌合にある類似歌 5-4-82歌(類似歌c

おく山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき

② 類似歌bの参考にする1詩があります。

参考 2-2-114歌 秋山寂寂葉零零 麋鹿鳴声数処聆 勝地尋来遊宴処 無朋無酒意猶冷

     (しうざんせきせきはれいれい びろくのなくこゑあまたのところにきこゆ しょうちにたづねきたりていうえんするところ ともなくさけなくしてこころなほつめたし)

③ さらに類似歌cの参考にする歌があります。5-4-82歌に番えられた歌です。

参考 5-4-83

      わがために来る秋にしもあらなくに虫の音聞けば先ぞかなしき

 

④ 清濁抜きの平仮名表記をすると、初句や五句と詞書に、3-4-39歌と他の歌とでは異なるところがあります。

⑤ これらの歌のなかで、3-4-39歌と、他の歌とは、趣旨が違う歌です。この歌は、秋に行う狩の一面を詠った歌であり、各類似歌は、秋という季節の感慨を詠った歌です。

 

2.~4. 承前

5.『新撰万葉集』にある類似歌の検討その1 配列から

① 二つ目の類似歌(『新撰万葉集』にある類似歌 2-2-113)を検討します。

最初に、『新撰万葉集』自体の配列について検討します。今日の『新撰万葉集』の形は、和歌と漢詩からなる詩歌集です。この歌は、『新撰万葉集』巻之上に、参考歌2—2-114歌と番えて記載されています。

『新編国歌大観』にある今日の『新撰万葉集』記載の和歌の元資料の歌は、主に是貞親王家歌合と寛平御時后宮歌合の歌です。女郎花歌を除くと242首あり、前者から16首、後者から185首採られ、巻之上にはだいたい後者の左歌が採られています。その和歌に、対とするべく漢詩を新たに誰かが詠んでいる体裁であるのが2巻からなる今日の『新撰万葉集』です。巻之上にある序は、和歌に触発された漢詩を一部置くといっていますが、巻之上は全て番えた形となっています。なお、漢詩については古来の訓読がないので『新編国歌大観』では担当された木越隆氏の私意によるところが一部あるそうです。

『新撰万葉集』巻之上の序を、当初の編纂時に作文されたものとして信頼し、かつ作業を率直に序に述べているとも信じるとすれば、『新撰万葉集』の今日の形は序に述べることと異なる(拡充されている)ので、何度かの編纂を経ていることになります。その経緯は諸氏によっても今のところもつまびらかでなく、当初の『新撰万葉集』は、寛平5(893)菅原道真の撰と伝えられていますので、この類似歌も当初からある歌である可能性があり、『猿丸集』歌の類似歌となり得る所です。

② 巻之上の特徴は、諸氏によると、次のように整理されていますが、歌の配列方針がわかりません。

     巻之上の部立は五部。四季がまずあり、次いで恋部がある。

     和歌を与件として対(番えようと)とするべく漢詩を詠んでいる。

     和歌は、元資料である『寛平御時后宮歌合』の歌などと、語句が微妙に異なる歌が多い。

     和歌は、『萬葉集』を模して、漢字で表記している。助詞(か、が、ぞ、など)には原則一つの漢字を用いているなど、『萬葉集』とは別の、少なくとも巻之上は独自の表記である。

     番えている和歌と詩に共通するはずの主題は明示されていない(詞書もなし)ものの、詠むにあたって寄せる物が共通であると思われる。

     さらに渡辺秀夫氏は、「共通の題のもとによる競詠として編纂されており、少なくとも巻之上は和歌を漢詩に翻案したものではない」及び「和歌と漢詩の関係は、それぞれの本意を比較・対照する多分に遊戯的な試みであり、序も、正格な晴儀の詩賦文章と同列ではないはず。」と指摘している(『和歌の詩学 平安朝文学と漢文世界』(渡辺秀夫 勉誠出版 2014/6)「第一部和歌の詩学 和歌と漢詩のひびきあい 第五章 『新撰万葉集』論――上巻の和歌と漢詩をめぐって」)。

③ 渡辺氏のあげている例を3組抜粋します。

     2-2-17歌(和歌)は、春山の煙霞を白い花に見立てたのに対して、(それと番えている)2-2-18詩(漢詩)は、「霞(朝焼け・夕焼け)」の虹彩を、仙境のイメージのある桃源郷の花盛りに見立てたもの。漢文世界の「霞」には、この世を越えた神仙の理想郷を表象する場合がある。

     2-2-149歌(和歌)は、田に置く露を「(いなおほせどり)の涙」という悲哀の涙とみなし、2-2-150詩(漢詩)は、(露は漢詩本文に登場してないが)天のくだした甘露を太平の治世を表わす祥瑞とし、その治世の様を漢詩四句に詠う。第四句は隠れた賢臣の登用が実現したという故事をいう。

     2-2-181歌(和歌)は、菊により切実な恋の懊悩(どうにかしてあいたい)を詠み、2-2-182詩(漢詩)は、菊ならば陶淵明の故事とばかり酒のない所在なさから友人の訪れを期待すると詠う。

④ 2-2-113歌(類似歌bは、巻之上の秋部にあり、和歌としては秋部の15番目にあたる歌です。部立のなかの配列方針をみるべく、秋部の和歌全36首について、現代の季語を参考に、配列をみると、三秋の季語をまじえつつ、巻頭の歌は初秋ですが、4番目は雁が登場し晩秋の歌となり、巻末の歌は秋立つと詠み初秋となります。また、秋部の多くの和歌の元資料である『寛平御時后宮歌合』の順番とも、『是貞親王家歌合』の順番とも相違しています(付記1.参照)。

時節の推移の順を示そうとする意識がなく、また、歌材(寄せる物)ごとにまとめる意識がない、と見えます。

なお、秋部の漢詩36詩にのみ注目した配列は、未検討です。

⑤ このため、配列は漢詩の製作順とか何かルールがあったのでしょうが、詩歌の理解は、番えている詩歌のみで完結しているものとみなして前後の詩歌との関連を重視しないで、かつ渡辺氏の説を踏まえて、2-2-113歌(類似歌b)の現代語訳を試みるものとします。(付記2.参照)

 

6.『新撰万葉集』にある類似歌の検討その2  現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の一例を示します。

     奥山で(降り積もった)もみぢを踏み分けて鳴いている鹿の声を聞いている時が、ことさらに秋が悲しく感じられる。」(『研究叢書346 新撰万葉集注釈 巻上(二)』(新撰万葉集研究会 (有)和泉書店 2006))

番えられている2-2-114歌の現代語訳も同書より引用します。

     秋の山は人の声も無く静かで、(もみじした)草木の葉が降り始める。

  鹿やおおじかの鳴く声があちらこちらに聞こえる。

  景色の良い所を尋ねて来たが、ここはかって遊宴した場所。

  (今は、以前にはいた)友人も無く、(以前にはあった)酒も無くて心は冷ややかに寂しい

② 同書には、2-2-113歌に関して次のような説明があります。

     用いている漢字について、万葉集麋を「しか」と訓む例はなく、この集の和歌で3例ある。この集に「鹿」字の使用がない。また、「悲しき」と訓む歌が本集に7例あり6例が「金敷」。『萬葉集』の用例に「金敷」はない。「金敷」とは、当時使われていた作業台の金属製の敷物を意味するか。

     114詩は確かに山に入って鹿の鳴く声を聞く人を画き出すが、113歌においても鹿が奥山に居り、その声を聞く人が山に入っていても一向差支えがない。従って、114詩の存在が113歌の意味を決定することはないと考える。そうであるならば「奥山に」という初句が二句「もみぢふみわけ」にかかり、二句が「鳴く鹿の」に掛かるのは自然である。

     配列に配慮した松田『新釈』は、113歌を萩と関連させていない。この説に従い、(ふみわけるのは)萩の黄葉ではなく一般のもみぢの落葉とみる。「ふみわけ」は、鹿がねぐらに帰る道を求めているさま、と解する。意識して歩む道を求める動作。例)1-1-327&1-1-970

     鹿が鳴くのは多くの場合、牡鹿が妻を求めて鳴くと考えられる。

③ 同書には、2-2-114詩に関して、次のような説明があります。

     「寂寂(せきせき)」とは、人が訪れず寂しいさま。「零零」とは、葉などが墜ちること。「麋鹿(びろく)」とは、おおじかとしか。

     「無朋無酒」により、秋の悲しさを表わす。

     「冷(すさま)じ」は、韻字なので、泠(下平声九青韻)を用いたか。しかしその意は「さとす、さとる、清らかなど」。意味としては「つめたい(冷(上声二十三梗韻))」となるところ。

     「無朋無酒意猶冷」は、友も酒も無くて気持ちが冷え切っている意。113歌では、奥山の鹿の鳴き声を聞いている作中人物の状況は明確ではないが、本詩の方は、一人で秋の山に行楽に来ており、夕方になって鹿の鳴き声を聞いているという状況である。

 

7.『新撰万葉集』にある類似歌の検討その3  現代語訳の試み

① 渡辺氏の説を踏まえて、現代語訳を試みます。

② 2-2-113歌と2-2-114詩の違いを、上記6.の理解により最初に見ます。

     2-2-113歌初句の「おく山」を、2-2-114詩では「秋山」に置き換えている。「秋山」は熟語として漢和辞典にある。「遠山眉」という熟語がある。そのほか「深山」「深谷」「深海」「深田」も熟語としてあるが「奥山」は、無い。(付記3.参照)

     2-2-113歌では、「鹿」は1種類。2-2-114詩では、2種類。鳴き声を聞き分けたようである。日本国内の生息は1種類(ニホンカモシカ)。

     鹿と萩は当時の和歌によく詠まれている。漢詩ではどうか。未調査である。また、2-2-182詩のように、「白氏文集」にはかって遊宴した折りを詠う詩がある。

     2-2-113歌は、鹿が紅葉を踏む音をも聞いており頭数が不明ながらこの訳例では少ないと推測しているのではないか。2-2-114詩は、秋山のあちこちで鳴いていると、秋山が鹿の住む場所であることを主張しており、紅葉を踏む音が第一の関心事ではない。「麋鹿(びろく)」とは多くの鹿のいることを指して言っているのかもしれない。

     2-2-113歌では、和歌における鹿と萩の関係を想起し、妻恋の鹿(鳴いているのを作中人物が聞いた時間は上記の訳例では特定していない)と理解し、2-2-114詩では、仲間を呼ぶかのように聞きなしている(鳴いているのを作中人物が聞いた時間は上記の訳例では夕方のこととしている)。

     2-2-113歌では、鹿の鳴き声で秋の悲しみを作者は感じている。2-2-114詩は、鹿の鳴き声はかって遊宴した場所の説明をしている。そこを1人訪ね、無聊・悲しみを詠う。

 

③ このように、和歌は、鳴き声で詠い出していますが、紅葉の景をも想像させ自然をも詠んでいます。漢詩は、友との交わりのないという人事の世界を詠んでいるように見えます。「鹿の鳴き声が聞こえた」ことを共通の事としているものの、2-2-114詩は2-2-113歌とは異なる感慨を詠った別の詩歌と理解できます。

④ また、2-2-113歌は、元資料である『寛平御時后宮歌合』の歌の引用であり、歌そのものも清濁抜きの平仮名表記でまったく同じです。『新撰万葉集』の和歌の配列方針がわからないながらも、平仮名表記をまったく同じにしているのは、この歌集独自の理解を元資料の歌に求めていないという指示とみることが出来ます。このため、元資料の歌の理解と同じで良い、と思います(元資料の歌は以下で検討します)。

2-2-114詩は、上記の訳例でよい、と思います。2-2-113詩と同趣旨の歌ではありませんし。

 

8.寛平御時后宮歌合にある類似歌の検討その1  配列から

① 三つ目の類似歌(この寛平御時后宮歌合にある類似歌5-4-82歌:類似歌c)は、『寛平御時后宮歌合』が「秋歌二十番」の三番目に番えている二首のうちの左歌です。5-4-83歌と番えられています。

この歌合は、机上の操作による撰歌合ともみられており、当初には作者名の記載もなかったそうです。共通の何かによって番えた可能性が強いのであれば、秋部の二十番それぞれについてそれを見出すことが出来るでしょう。

この二つの歌では、秋は「かなしき」と詠っているところが共通であり、動物の鳴き声を聞くことによる歌であることも共通しています。

② このように秋部の番えてある歌全てについて、共通の何かから秋部の配列について検討します。あわせて現代の季語の各歌における分布状況も検討しました(付記4.参照)。

その結果次のことを指摘できます。

     和歌は、すべて部立されている秋の季節によせた歌である。しかし、その配列は時節の推移順ではない。

     『新編国歌大観』記載の並び順で番えられているとすると、秋部の歌は、主題ごとに番えられたという想定は十分可能である。

     類似歌cと番えられている歌に関しては、題であるならば、悲秋、秋悲 悲愁の類が、寄物であるならば、「鳴」が共通である。これらの歌の前後に番えられている歌と異なる共通項である。

③ このため、類似歌cの理解は、当然前後の番えられている歌等とも異なるほかに、番えられている歌とは異なる理解となってしかるべきということになります。

④ さて、上記4.(前回のブログ(2019/1/14)参照)で次のように分析しました。

「(五句の)「秋はかなしき」という感慨は、実際に鹿の鳴き声を聞いたから作中人物に生じたものです。あるいは、聞いたら生じるものである、と作中人物が理解していることを意味します。・・・どちらであるかを判断する材料は、この歌のなかのことばには見出されず、詞書や披露する場の状況による、と思われます

⑤ 歌合での歌であるので、上記4.の後者であってかまいません。5-4-83歌の「虫の音」はともかくも、5-4-82歌の「おく山」に向かう(あるいはおく山にいる)鹿の声を実際に聞くのは、都に在住している官人ならば稀なことでしょう。

歌合している場所において、「秋はかなしき」を演繹的に、想像あるいは創造したのがこの歌、という理解が可能です。撰歌合であっても同様です。

秋はかなしき」の例として、作中人物が、狩の対象としていない鹿の声をあげようとするならば、作中人物のいる場所は、どこでもかまいません。

さらに、作中人物に、経験を語らせたいならば、鹿の声を朝方聞ける場所として、常の住いではない山荘か、里山が近くに見える屋敷の女性を訪れた翌朝の暁の戻り路、という設定が一番不自然さの少ない景と思います

 

9.寛平御時后宮歌合にある類似歌の検討その2  現代語訳を試みると

① この歌5-4-82歌は、秋の歌として撰歌合に採用された歌あるいは歌合で披露された歌ですので、上記4.の後者として現代語訳を試みます。「秋はかなしき」の例を詠んでいる、と思います。

② 四句「声きく時ぞ」とは、五句に述べる感慨の前提条件を括った表現です。

③ 現代語訳を試みると、次のとおり。

「おく山へと向かって萩の黄葉を踏み分けながら鹿が鳴く声を聞くとしたならば、(男であるならば戻らざるを得ない暁時の行動と重なる。だから、)秋は特にやるせなく悲しいものであるのを実感することである。」

④ この歌5-4-82歌と、番えられている5-4-82歌とは、歌意が異なるはずです。その5-4-82歌の現代語訳をも試みます。歌を再掲します。

わがために来る秋にしもあらなくに虫の音聞けば先ずぞかなしき

⑤ 三句にある「なくに」は、文中に用いられた連語であり、詠嘆の気持ちを込めた接続語をつくり、ここでは、逆説的な確定条件を表わします。

⑥ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「私を悲しませる為にだけに訪れる秋であるとは思わないのに、虫の鳴き声が聞こえてくれば、(やはり秋を感じて)まず悲しい気持ちとなるよ。」

⑦ 番えている2首を比較します。

この2首は、視覚ではなく、聴覚で得た情報で秋を感じているのが共通ですが、感じるきっかけが異なっています。5-4-82歌は、(屋敷内ではなく遠くで)鳴く鹿の声であり、5-4-83歌は足元で鳴く虫の音です。

さらに、5-4-82歌は、後朝の別れを連想させる詠いぶりですが、5-4-83歌は夫婦である相手方の女性のさまざまな訴えを連想させ、「秋」が「飽き」にも通じているかの詠いぶりです。

このようにこの2首の歌意は異なっていますので、この現代語訳(試案)は妥当である、と思います。

⑧ 以上で、類似歌3首の検討を終えました。猿丸集3-4-39歌について次回には検討し、あわせて類似歌3首との比較を行います。

 ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

2019/1/21  上村 朋)

 

付記1.『新撰万葉集』巻之上 秋部の和歌にある現代の季語などについて

① 下記の表の「歌番号等」欄の数字は、『新編国歌大観』による。巻の番号―その巻の歌集番号―その歌集の歌番号

② 現代の季語と時節の区分は、『NHK出版 季寄せ 』(平井照敏 2001)による。

③ 「和歌の元資料a(歌合)」欄は、新撰万葉集に先行する歌合にある類似歌である。

④ 「和歌の元資料a(歌合)」欄及び「和歌の元資料b(左以外)」欄の符号「有」又は「無」は、『新撰万葉集』歌との比較で語句に一部不一致の有無をさす。

⑤ 《》は、補注のあることを示す。表の下段に記す。

表 『新撰万葉集』巻之上 秋部の和歌にある現代の季語等一覧 (2019/1/14 現在)

歌番号等

現代の季語

左による時節

和歌の元資料a(歌合)

和歌の元資料b(左以外)

2-2-85

秋(風) 藤袴 きりぎりす

初秋

5-4-94 有

1-1-1020 有

2-2-87

白露 秋(の野)

三秋

5-4-90 有

1-2-308 無

2-2-89

きりぎりす 大和なでしこ

初秋《》

5-4-80 無

1-2-244 無

2-2-91

秋(風) 雁

晩秋

5-4-78 有

1-1-207 有

2-2-93

をみなへし 

初秋

5-4-88 無

1-1-229 有

2-2-95

秋(の夜) 白露

三秋

5-4-98 無

――

2-2-97

白露 萩 (下)黄葉 秋(は来)

初秋(秋は来により)

5-4-102 有

――

2-2-99

晩秋

5-4-100 有

――

2-2-101

はなすすき 秋(風) 

三秋

5-4-104 無

1-2-353

2-2-103

秋(の野) (花)薄 

三秋

5-4-86 無

1-1-243 無

2-2-105

もみぢ葉 

晩秋

5-4-96 無

1-1-264 無

2-2-107

雁がね 

晩秋

5-4-92 有

――

2-2-109

秋の蟬 

初秋《》

5-4-112 無

――

2-2-111

ひぐらし 秋

初秋《》

5-4-84 無

――

2-2-113

もみぢ  秋 鹿&

晩秋

――

1-1-214 無(&3-4-39)

2-2-115

雁 虫

晩秋(雁による)

――

――

2-2-117

秋(風) 雁

晩秋

5-4-110 有

1-1-212 無

2-2-119

秋(山) 鹿 

三秋

5-4-116 無

――

2-2-121

三秋

5-4-108 有

――

2-2-123

秋(の月) 露

三秋

5-4-114 有

――

2-2-125

涼し 秋立つ日

初秋

――

1-2-217 有

2-2-127

秋萩 鹿

初秋

――

1-1-127 有

2-2-129

竜田姫《》 秋

三秋

――

1-2-265 有&是貞親王家歌合30歌 有

2-2-131

白露 秋

 

――

1-1-257 有

2-2-133

秋霧 もみぢ

 

――

1-1-266 有

2-2-135

秋(の色) 

三秋

――

1-1-263 有&是貞親王家歌合19歌 有

2-2-137

藤袴 秋來る 

初秋

――

1-1-239 有

2-2-139

秋(の野) 虫

三秋

――

1-2-372 有

2-2-141

三秋

――

1-1-296 無&是貞親王家歌合22歌か?

2-2-143

をみなへし 秋

初秋

――

1-2-34 有3&

是貞親王家歌合37歌 有

2-2-145

秋(風) きりぎりす

初秋

――

――

2-2-147

たなばた 

初秋

――

――

2-2-149

秋 露

三秋

――

1-1-306 有&是貞親王家歌合1歌 有

2-2-151

秋(の野)

三秋

――

――

2-2-153

かりがね 萩

初秋《》

――

1-1-211 無&1-3-1119 有

2-2-155

秋(来) 

初秋

――

――

補注

《2-2-89歌:元資料が秋歌であるので「なでしこ」により初秋とする》

《2-2-109歌&2-2-111歌:ひぐらしは蝉の一種で晩夏。元資料では秋歌であるので初秋とする》

《2-2-129歌:竜田姫は、時代が違い『HHK出版 季寄せ』に無いが、平安時代であれば、三秋の季語。》

《2-2-153歌:かりがねは晩秋。渡り鳥とかりがねを捉えると三秋なので、萩から初秋とする》

(補注終り)

付記2.『新撰万葉集』の成立について

① 『新撰万葉集』の巻之上の構成の検討のため序を読んだところ、『千里集』同様に成立経緯について疑念を生じたので、気が付いたことをここに記しておく。これは、以後の2-2-113歌(類似歌b)の現代語訳の試みに影響するものではない。

② 序は、和歌についての記述に終始している。にも拘わらず、漢詩をすべての和歌に番えている。詩歌集である今日みるところの『新撰万葉集』の序として漢詩の扱いが等閑である。当初の『新撰万葉集』が成立したと言われる寛平ころの朝廷における漢詩の地位・扱いの詩歌集としていぶかしい。

③ 序をみると、この歌集は、私撰集である。下命による撰集ではない。ところが別途の下命の業務に触れている。首尾一貫した表現ではない。渡辺秀夫氏の指摘する「序も、正格な晴儀の詩賦文章と同列ではないはず。」との指摘が妥当である。

日本紀略』寛平5年(893525日条にある「菅原朝臣撰進新撰万葉集二巻」からも、諸氏は下命に否定的である。

④ 序に記す撰集作成過程が信じられない。

私撰集のために、下命により献上された歌集を、勝手に閲覧しようすること(『後撰和歌集』撰集の際は「撰和歌所」への闌入が禁止されている)や、撰歌したら特定の歌合の歌が大多数を占めた、という作業結果は信じられない。『古今和歌集』は、「今の歌のすばらしさ」を示すのに種々な資料(官人の歌集や歌合の記録や伝承歌など)を用いている。

また、下命の作業の状況は、古今集成立以後であれば、その真似をして記すことが可能である。

 撰歌した他人の和歌に番える詩歌を作者名未詳のまま漢詩を製作していることは、つまり漢詩の習作である。習作であるならば、徐々に今の形になったということも説明できる。それを私的に歌集としてまとめて残そうとしたのがこの『新撰万葉集』ではないか。

日本紀略』の記述より歌集名を借用したのが今日みる『新撰万葉集』なのではないか。下巻の序も同時に創作されている可能性もある。この歌集の編纂者(達)には、官人の一家系の数代にわたる人々にも可能性がある。先生とは最初に習作した人を指すか(それは祖先の一人でもある)。

⑧ これは、底本の校訂にまで立ち入らないままの仮説(案)の提案である。

このような漢詩の習作説のほか、『新撰万葉集』の巻之上は、和歌の世界と漢詩の世界(という文化の違い)言葉の綾を楽しんだ者達の創作説がある。渡辺秀夫氏が、寛平という時代に限った文化活動として、成り立つとして、この論を述べている。

 

付記3.漢詩での「〇山」等の用例 (2019/1/14 現在)

① 『新釈漢文大系109巻 白氏文集 十三』(明治書院)の語彙索引は、語釈の見出し語から二字熟語中心に作成されている。

     索引に無かった五句:遠山、奥山、秋山、春山、無朋、無酒

     秋悲:9361 

     秋思:435012巻上70ほか多数 

     秋光:2巻上258ほか 

     &秋気:12巻上153 

     秋意:2巻下635 

     秋雲:12巻下712 

     秋水:1157ほか

② 『漢詩体系 4 古詩源 下』(集英社)の陶潜(淵明)の詩には、秋山無し。西山と南山あり。

     「飲酒」 第2首に「積善云有報 夷叔在西山」、第五首に「采菊東籬下 悠然見南山」

     「歸田園居 五首」 第3首に「種豆南山下 草盛豆苗稀」

③ 『文華秀麗集』の巨勢識人(?~820頃)の詩「秋日別友」には、「行人獨向邊山雲」がある。「邊山雲」とは「辺地の雲」の意。

付記4.『寛平御時后宮歌合』秋歌にある全41首における現代の季語と番えた歌の共通項について(2019/1/5現在)

① この歌合は番われているので共通の何かがあるはずであり、その共通の事項を推測してみた。併せて現代の季語の有無を確認した。現代の季語は『NHK出版季寄せ』(平井照敏編 NHK出版 2001)による。

② 共通事項は、恋部がこの歌合に別途あるので、叙景あるいは行動・行為での共通事項を推測してみた。

 その結果を下表にまとめて示す。

③ その結果次のことを指摘できる。

     歌は、すべて部立されている秋の季節によせた歌である。しかし、その配列は時節の推移順ではない。

     番えられる歌2首の共通の季語は「秋」(多数)や「露」(3組)や「月」(1組)があるが、番えられた2首に共通の季語のないものもある。

     『新編国歌大観』記載の並び順で番えられているとすると、秋部の歌は、主題ごとに番えられたという想定は十分可能である。

     当時の詩宴においては題が与えられており、それに倣うならば歌合でも、単に寄物の指定よりも、題が与えられたのではないか。『古今和歌集』成立前後の時点の詩宴の題の例を、下記④に示す。949年には詩歌献詠の題として「花も鳥も春のおくりす」が記録されている(『新・国史大年表 第1巻』(日置英剛編 国書刊行会2007))。

     秋部最後の歌5-4-118歌は番われていない。しかし、5-4-117歌と竹を共通に詠っている。

     推測した共通事項から番えている単位に四字の題を想定するのは難しかった。

     類似歌cと番えられている歌に関しては、題であるならば、秋悲 悲愁、寄物であるならば、「鳴」が共通である。これらの歌の前後に番えられている歌と異なる共通項である。

表 『寛平御時后宮歌合』秋部の和歌にある現代の季語等一覧 (2019/1/16    11h 現在)

歌番号等

現代の季語

左による時節

番っている歌の共通点の例

5-4-78

あき(風) (初)雁

晩秋

秋空 

5-4-79

(たつ)秋 霧

三秋

秋空 

5-4-80

きりぎりす (やまと)なでしこ

初秋

秋の野

5-4-81

秋(の野) 白露

三秋

秋の野

5-4-82

紅葉 鹿 秋

晩秋

秋悲 秋悲 悲愁 鳴く きく

5-4-83

(来る)秋 虫

初秋

秋悲 秋悲 悲愁 鳴く きく

5-4-84

ひぐらし 秋(の野山)

初秋

錦秋 紅葉(黄葉)

5-4-85

秋 

三秋

錦秋 紅葉(黄葉)

5-4-86

あき(の野) 花薄

三秋

黄葉 錦

5-4-87

秋 紅葉

晩秋

黄葉 錦

5-4-88

をみなへし

初秋

秋の野遊び(あるいは宿)

5-4-89

秋(風) 雁がね

晩秋

秋の野遊び(あるいは宿)

5-4-90

白露 秋(の野)

三秋

稔る秋 秋の野

5-4-91

秋(穂)

三秋

稔る秋 秋の野

5-4-92

雁 

三秋

秋鳥 秋夕 秋晴れ

5-4-93

秋(の草)

三秋

秋鳥 秋夕 秋晴れ

5-4-94

あき(風) 藤ばかま きりぎりす

初秋

秋風

5-4-95

秋(の夜) 紅葉

晩秋

秋風

5-4-96

紅葉ば 

晩秋

落葉

5-4-97

秋(の木のは)

三秋

落葉

5-4-98

秋(のよ)  月(の光) 白露

三秋

白露

5-4-99

あき(のの) 露

三秋

白露

5-4-100

雁がね

晩秋

うつろふ秋

5-4-101

花 菊 (うつろふ)秋

三秋《》

うつろふ秋

5-4-102

白露 萩 紅葉 あき

初秋

5-4-103

秋(虫) 露

三秋

5-4-104

はなすすき 秋(風)

三秋

秋の花

5-4-105

花(見) 秋(の野)

初秋《》

秋の花

5-4-106

雁がね 秋(のよ) 虫

晩秋

紅葉

5-4-107

あき(風) 紅葉ば 

晩秋

紅葉

5-4-108

露(けきは) (我が身の)あき

三秋

 露

5-4-109

秋 露 紅葉

晩秋

 露

5-4-110

あき(風) 雁

晩秋

秋風

5-4-111

紅葉ば 

晩秋

秋風

5-4-112

秋(のせみ) せみ

初秋《》

 衣又は落葉

5-4-113

あき(のよ) 月

三秋

 衣又は落葉

5-4-114

秋 月 露

三秋

月光 錦秋 衣

5-4-115

秋(のみやま) 

三秋

月光 錦秋 衣

5-4-116

あき(山) 雁

晩秋

秋の夜

5-4-117

七夕

初秋

秋の夜   七夕

5-4-118

七夕

初秋

七夕

補注

《5-4-101歌&5-4-105歌:秋の花を見る歌》

《5-4-112歌:「秋の蟬」により初秋》

(補注終り)

④ 『新・国史大年表 第1巻』(日置英剛編 国書刊行会2007)などより、抜粋するとつぎのとおり。

詩の披露を求められる機会は、七夕、重陽の詩宴のほか、十五夜での宴、『日本紀』饗宴や再々行われている神泉苑行幸の際など当時多数ある。その時の題の例は次のとおり。

 861/9月 菊暖花未開

 866/3 落花無数雪(左京染殿第行幸

 868/9 喜晴

 870/9 天錫難老

 890/7 七夕秋意詩   890/9 仙譚菊

 891/7 牛女惜暁更

 893/3 賦惜殘春     893/9 観群臣偑茱萸

 894/7 七夕祈秋穂    894/9 天澄識賓鴻

 895/9 秋日懸清光

 897/8 秋月如珪    897/9 観群臣挿茱萸

 898/9 菊有五美

 900/9/10 秋思

 906/9 茱萸玉偑

912/9 爽籟驚幽律

918/9 草木凝秋色

921/9 秋菊有佳色

927/9 秋日無私照

(付記終り 2019/1/21  上村 朋)