わかたんかこれの日記 紅葉もみぢのたつたかは

2017/6/15  前回「はじめの歌がたつたかは」と題して記しました。

 今回は「紅葉もみぢのたつたかは」と題して、記します。

 

1.951年以降の「たつた」表記の歌

① 三代集に「たつた」表記の歌は、重複を省くと33首あります。そのうち50%を越える17首が、901~950年に詠まれた歌であり、すべて紅葉も歌に詠まれています。「たつた(の)やま」表記の歌にも例外はありません。

② ところが951年から1000年間には「たつた」表記が7首に減り、紅葉を詠む歌がそのうち3首となります。1001~1050年間には「たつた」表記はさらに減って1首となり、その1首が現在の検討段階では紅葉が詠まれていない歌と整理しているところです。

③ 紅葉が詠まれていないとした「たつた」表記の歌で、三代集で初めて歌に用いられた「たつたかは系統」の表記の歌(「たつたかは」と「たつたのかは」と「たつたかはら」表記)が、951年から1000年間と1001~1050年間に各1首あります。

④ また「たつた」表記の歌に4首の「たつたひめ」があります。

 これらの歌と紅葉との関係を確認します。

 

2.951年~1000年に詠まれた「たつたかは」表記の歌

1-2-1033  しのびてすみ侍りける人のもとより、かかるけしき人に見すなと

いへりければ                      もとかた

   竜田河たちなば君が名ををしみいはせのもりのいはじとぞ思ふ

 

① この歌は、たしかに「紅葉」ということばが、用いられていません。

② 作者の「もとかた」(在原元方)は業平の孫で、生歿・閲歴未詳で、『古今和歌集』には巻頭歌としても入集している歌人です。作詠時点は原則に従うと『後撰和歌集』の成立時点(995年)以前ということになります。作者が、『古今和歌集』成立時点に20歳に達していたと若く仮定しても、没年は995年より前ではないかと常識的に思いますが、裏付ける確かな資料がありません。

③ 検討は、2017/3/31の日記に記したように、「和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものである」、という考えを前提として行います。

④ 「たつたかは系統」の表記は最初の歌から紅葉が詠まれてきており、さらに901~950年の歌を考慮すれば、『後撰和歌集』の成立(995年)の頃の歌人たちは、既に、紅葉が「たつたかは」の縁語という認識をしていたのは確かなことと考えられます。

初句から二句の「竜田河たち(終止形たつ)」とは、「竜田河は紅葉によって誰もが知っている川である」、ということを確認しています。「たつ」は、「名を」を省いていますが、「評判になる」意です。

 二句の「たちなば」とは、「(紅葉の龍田河と言えば紅葉と人が皆思うように)誰もが知ったならば」の意です。ここでの「たつ」は「評判になる」よりも「噂になる」意で三句の語句につながります。

⑤ 四句の「いはせのもり」とは、その所在地については諸説ありますが、「言はじ」を言いだすための役割を担っている場合が多いと諸氏は指摘しています。作者は、さらに「竜田川」と「いわせのもり」の関係を「作者がこの歌をおくった相手」と「作者」との関係に比定させていると思われます。即ち、竜田河といえば紅葉=あなたと言えば私との間の噂が、いわせのもりといえば「言わない」=人に話しそうな私とみられるているが(私は)「言わない」、という比定です。

⑥ 現代語訳を試みると、次のようになります。詞書によれば、これは、女性から「人に話すな・態度を慎め」と言ってきた返事の歌です。

竜田川と言えば紅葉です。おなじように貴方の噂といえば私の名がでてくるそうですね。でも、(そんな噂は聞き流しましょう。)あなたのお名前に傷がつくのが惜しいので、口が軽いと心配されている私も、何も言わないでいると決めていますから。」

⑦ 竜田川と言えば紅葉、という当時の常識を巧みに利用し、紅葉は時間が経てば、はかなく消えてしまうことを言外ににじませ、だから噂の通り過ぎるのをお互いに待っていましょうと、作者は、相手に伝えています。

 この歌は、内容的には紅葉を詠っている歌と言ってよいでしょう。

 

3.1001年~1050年に詠まれた「たつたかは」表記の歌

1-3-389   むろの木                 高向草春

    神なびのみむろのきしやくづるらん龍田の河の水のにごれる 

 

① この歌は、たしかに「紅葉」ということばが、用いられていません。

② この歌の作者は、三代集にこの1首しかない生歿未詳の歌人であるので、作詠時点は『拾遺和歌集』の成立時点(1007年以前)という推計になります。題を与えられての歌であって『拾遺和歌集』の撰歌対象にしたもらおうと意識して詠んだ歌ではないと思われるので、実際は『拾遺和歌集』成立時点よりだいぶ前であったかもしれませんが、裏付ける資料が不足です。

③ 初句と二句にある「神なびのみむろ(のきし)」は、既に849年以前に詠まれた1-1-284歌(「たつた河もみぢ葉流る神なびのみむろの山に時雨ふるらし」よみ人しらず)など「かんなび」表記の先行歌があり、1000年前後には、「神なびのみむろ」は紅葉の名所であると歌人に認識されています。

『和歌大辞典』などは、「神なび」や「三室」を本来は神の座す所という普通名詞であり、各地に在る、と説明しています。「本来」とは、700年代等の意味合いを指すと考えると、1-1-284歌は、里や都から見える山のうち信仰の対象となっている山を「神なびのみむろの山」と呼んでいる普通名詞であり、朗詠する里人や都人が思い浮かべる大和国の山は、紅葉と結びつきを不問にしてそれぞれ特定されていたと思われます。

その里が飛鳥の地ならば大和三山とか三輪山など、大和盆地西方の里ならば、西の山々、というわけです。『和歌大辞典』は、「平安時代には、古今の284歌などから今の生駒郡斑鳩町付近と考えられたようだ」としながらも、千載集には大嘗会に丹波の神南備山が詠まれていることも紹介しています。さらに『萬葉集』には、三室の山の紅葉が既に見える(2-01-1094歌など)ので、「みむろ」は、紅葉と密接な関係にあると、既に認識されていたかもしれません。

④ 一方、四句の「龍田の河」は、1-1-284歌や1-1-283歌をはじめとして既に紅葉とむすびついています。

このように、既に1000年前後には、「神なびのみむろ(のきし)」も「龍田の河」も紅葉の名所という認識でありました。

⑤ ここまでは、歌に用いられている名詞を検討してきました。

 この歌は『拾遺和歌集』の「巻第七 物名」にある歌で、「むろの木」(ネズ。)を詠みこむことが条件となっている歌です。作者は「みむろのきし」という言葉に隠すことにしたのです。その「みむろのきし」から紅葉を連想し、また「龍田の河」と連想がすすんで作詠された歌、と思われます。

 二句と三句「みむろのきしやくづるらん」の表現で両岸の紅葉が散る景を指し、五句の「水のにごれる」との表現で、木の葉により水面も水底が見えない状態を指しています。

⑥ この歌は、題の「物名」(むろのき)を詠み込む言葉に紅葉が結びついていたのであり、紅葉を第一に意識した作詠でがありませんが、1-01-284歌を前提にした紅葉を彷

彿とさせる歌い方であり、内容的には紅葉を詠っている歌と言ってよいでしょう。

 

4.「たつたかは系統」表記の歌のまとめ

① このように、この二つの歌は、紅葉を「たつかかは」表記から浮かび上がらせています。

 「たつたかは系統」表記の歌を詠んだ三代集の歌人は、結局、紅葉を必ず結び付けることを共通の理解としており、さくらなどほかの花と「たつたかは系統」の表記を合わせていません。

② 今回のこの2首をくわえた「たつたかは系統」表記の歌で、作者は実際の所在地を問題としておらず、前回の結論と同様に、「たつたかは」とは、比定できる特定の川を避けた紅葉で有名な大和にある川、ということになります。

 小松英雄氏が指摘している、「平安時代歌人にとり、大和を流れる川の名以上の知識を「たつたかは」に不要。大和の国のどのあたりを流れていてもよかったので「錦」というキーワードによってその情景を自由に想像させることが可能であった」(『みそひと文字の抒情詩』)河、即ち、秋の大和国にある紅葉に彩られた川の総称が「たつたかは」と言えます。本来の「みむろ」と同じような、普通名詞です。

 これは、三代集にある歌について言えることであり、1050年以降が作詠時点である歌に該当するかどうかは、別途検討を要することです。

③ (補足)恋の部の題しらずの歌である1-1-629歌(あやなくてまだきなきなのたつた河わたらでやまむ物ならなくに)について補足します。

この歌は、紅葉と関わり無いとしても歌意が整います。私は、さらに、噂を、「紅葉」に喩え、噂が本当になるというのは紅葉は必然的に散るのと同じとして、自分の決意をも示している、と解釈し、紅葉を詠んでいると判断しました。1-2-1033歌と同様一旦「要検討」の歌と整理して記したほうが良かったかもしれません。

 

5.「たつたひめ」表記の歌

① 「竜田姫」は、「奈良の西方に鎮座する竜田大社の祭神。五行説では、西を秋にあてることから秋の神とされた」(久曽神氏)とか、「五行説で西は四季の秋に相当するので春の佐保姫に対して、秋をつかさどる女神とされる」(『歌ことば歌枕大辞典』)とか、説明がなされています。

 中国から学んだ陰陽五行説をもとにして、平安時代に「春が去るのは東の方角、秋が去るのは西の方角」となり、歌人が、佐保姫と竜田姫とを創出したようです。旧都平城京からみて東に佐保山があり、西に竜田山があるのも歌人の共通の認識になっているようにみえます。 なお、「さほひめ」表記の歌は、三代集になく勅撰集全体でも1首しかありません(1-11-101歌)。「さほのひめ」は未確認です。

② 三代集において「たつたひめ」表記の歌は、以下の4首です。作詠順に示します。 

1-2-265 作詠時点:892以前:是定親王家歌合

是定のみこの家歌合に                壬生忠岑

   松のねに風のしらべをまかせては竜田姫こそ秋はひくらし 

この歌合は、「秋」を題にしています。この歌は、「もみぢ」とか「錦」の語がなく、紅葉というよりも秋という季節そのものを詠んでいます。実景とは限りません。

この歌において、初めて「たつたひめ」が詠まれました。「秋」という題と、秋が去るのは西の方角という理解から、秋を司る「たつたひめ」が生まれたのではないのでしょうか。この歌の作詠時点以前に、「たつたかは」表記の歌が既に4首あり、全て「紅葉」を詠っており、紅葉が普通名詞の「たつたかは」の縁語という認識から「たつた」の「ひめ」が生まれたと思います。ちなみに、「秋が去るのは西の方角」ということで秋をもたらす場面が4首の歌にありません。

③ 1-1-298歌 作詠時点:905以前:古今集

秋のうた                       かねみの王

   竜田ひめたむくる神のあればこそ秋のこのはのぬさとちるらめ

紅葉とともに詠んでいます。

小島憲之氏・新井栄蔵氏は『新日本古典文学大系 古今和歌集』で、「竜田姫が秋の神とされるのは少し時代がさがる」として、土着神である竜田姫が西に去りゆく秋の神(天神)に手向ける、と解しています。

 和名抄には「道神 大無介乃加美」とあり、道祖神を手向けの神ともいいます。

 小松英雄氏は『みそひと文字の抒情詩』で、「秋を支配する龍田姫が手向けをする対象になる神がそこにおいでになるからこそ、ご自身が染め上げた秋の木の葉が神前に捧げる幣帛として散るのであろう。」と解釈しています。既に10年以上前の歌合の歌で「たつたひめ」が「秋を司どる神」として創出されているので、小松氏の理解に賛成します。

④ 1-2-378歌 作詠時点:905以前:後撰集よみ人知らず

題しらず                     よみ人しらず

   見るごとに秋にもなるかなたつたひめもみぢそむとや山もきるらん 

紅葉とともに「たつたひめ」を詠んでいます。1-2-265歌を踏まえていると見られます。

 

⑤ 1-3-1129歌 作詠時点:968以前:右兵衛督忠君屏風

たび人のもみぢのもとゆく方かける屏風に           大中臣 能宣

   ふるさとにかへると見てやたつたひめ紅葉の錦そらにきすらん

この歌も、紅葉とともに「たつたひめ」を詠み、1-2-265歌を踏まえていると見られます。

⑥ 以上の4首をみると、最初の例から秋を司る神として「たつたひめ」表記を用いています。冬を到来させるというより秋を引き取って行く神です。しかし「たつたかは」ほど歌人に活用されていません。

⑦ また、平安時代に「たつたひめ」と名付けられて秋にかかわる神として祀られている神は、ありません。

 奈良県生駒郡にある現在の龍田大社は、『神道史大辞典』(吉川弘文館)などによると、平安時代龍田神社であり、祭神は二柱です。天御柱命(志那都比古命)と国御柱命(志那都比売命)で、竜巻の旋風を天地間の柱と見立てた神名だそうです。境内2.3万坪の神社です。

 現在の龍田大社のHPでは、

主祭神

御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)(別名:志那都比古神(しなつひこのかみ)) 国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)(別名:志那都比売神(しなつひめのかみ)) 

摂社には

龍田比古命(たつたひこのみこと)

龍田比売命(たつたひめのみこと)

として、「「龍田」の地名は古く、初代神武天皇即位の頃までさかのぼり、龍田地区を守護されていた氏神様と伝えられる夫婦の神様です。<延喜式神名帳より>」

とあります。

 摂社の二柱のどちらにも、今検討している「たつたひめ」表記の姫神を重ね合わせることは難しい。

 なお、天武天皇は、天武天皇4年(675)年1月に初めて諸社に祭幣させました。そして同年4月に、「風の神を竜田の立野に祠しむ、小錦中門人連大蓋・大山中曾禰韓犬を遣わして、大忌(おおいみ)の神を廣瀬の河曲に祭しむ」と『日本書記』にあります。以後毎年4月と7月に使を派遣しており、平安時代も同様であり、官人には、龍田神社は馴染みのある神社でありました。

⑦ また、折口信夫は、『折口信夫集 ノート編』9巻で龍田風神祭り(祭幣)に関して、「祭神は4柱として、さらに龍田比古は土地の神であり、龍田比売は山の神で風をせきとめる神とみてよい」、と説いています。この説明には秋の女神である「たつたひめ」が一切でてきません。

⑧ 800年~1050年間の作詠時点の歌で勅撰集にある「たつたひめ系」の表記や「たつたかは系統」の表記のある歌が、紅葉と結びついているのを確認しました。これは『萬葉集』以来の「たつたのやま系統」表記の意味にも影響している可能性があります。それは、和歌の披露の場が後押ししていると思われます。

⑨ 次回は、屏風歌について、記します。

 ご覧いただき、ありがとうございます。

<2017/6/15 >

 

 

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれの日記 はじめの歌がたつたかは

2017/6/12    前回、「たつたやまは竜田道とともに」と題して700年代の「たつた(の)やま」について記しました。

 今回は、「はじめの歌がたつたかは」と題して、三代集に関して、記します。

 

1.三代集における「たつた」表記の歌

① 1-01-995歌の検討のため、同歌と同時代の歌およびそれに接する時期として1050年ころまでの歌として『萬葉集』と三代集(『拾遺抄』を含む)を取り上げ、今回より三代集の歌を中心に、検討します。

② 『新編国歌大観』によって、広く勅撰集における「たつた」表記の歌を概観すると、次の表のとおりです。

 このうち、三代集における「たつた」表記は、36首(重複を含む)あります。句頭にたつ「たつた」表記が35首と句頭にたたない「たつた」が1首(「にしきたつたの やま・・」)です。なお、三代集以外の勅撰集に、句頭にたたない「たつた」がこのほか2首あります。

 

表 勅撰集における「たつた」表記の区分別(重複入集を含む)の歌数

<2017/6/10 11h現在>

表記

古今集

後撰集

拾遺集

拾遺抄

三代集計a

勅撰集計 b

a/b(%)

萬葉集

たつたかは系

8

4

1 (重複1)

0

13 (重複1)

45

29%

 0

たつたのかは系

0

0

1

0

1

9

11%

 0

たつたかはら系

0

0

0

0

0

 5

0%

 

たつたやま系

1

1

0

0

2

42

 5%

 8

たつたのやま系

3

7

4

2 (重複2)

16 (重複2)

34

47%

 5

たつたのおく等

0

0

0

0

0

4

 0%

 0

たつたひめ系

1

2

1

0

4

19

21%

 0

たつたひこ

0

0

0

0

0

0

 0%

 1

たつたこえ

0

0

0

0

0

0

0%

1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13

14

7 (重複1)

2 (重複2)

36 (重複3)

158(重複略)

23%

15

 

注1)     この表は、『新編国歌大観』記載の歌を対象とした集計である。

注2)     表記欄の「たつたかは系」とは、「たつたかは」又は「たつたかはにそ」と表記の歌。「たつたのかは系」とは、「たつたのかは(の、は)、「たつたのかはなみ」、「たつたのきしの」の表記の歌。「たつたかはら系」とは、「たつたかはら(に、の)」表記の歌。

注3)     表記欄の「たつたやま系」とは、「たつたやま」表記の歌。「たつたのやま系」とは「たつたのやま(に、の等)」と「(にしき)たつたのやま」表記の歌。

注4)     表記欄の「たつたのおく等」は、「たつたの(おく、こすゑ、しくれ、もみち、)」表記の歌

注5)     重複の歌数は内数である。

注6)     「たつたみ」表記が、この表のほかに、勅撰集で3首、『萬葉集』で1首ある。また、勅撰集に「たつたひに」が1首、「たつたひころも」が1首ある。

 

③ 最初に、勅撰集全体と三代集との各歌数を比較します。前者が158首に対し後者が36(23%)です。この比率より、三代集の方が大きい表記区分は、「たつたかは系」29%と「たつたのやま系」47%2区分だけです。また、特段に比率が低いのが「たつやま系」の5%です。

三代集の各集別に、この2区分の分布をみると、三代集で計13首ある「たつたかは系」は50%以上が『古今和歌集』に、16首ある「たつたのやま系」は44%が『後撰和歌集』にあります。これは、各集の性格あるいは撰歌方針が強く反映した語句であるか、「たつたかは」についてはさらに『古今和歌集』の歌人の間で新しい語句として注目された結果かもしれません。

④ 「たつたかは系」と「たつたのかは系」と「たつたかはら系」の3系統の表記(以下「たつたかは系統」の表記という)は、『萬葉集』になかった表記であり、『古今和歌集』で初めて用いられています。

 また、「たつたやま系」表記は、「たつたのやま系」表記と同じ山を指すとおもわれますが、三代集では2首しかないこと、三代集以後は「たつたのやま系」の倍以上あること、を考えあわせると、三代集の「たつたのやま系」表記には、特異な意味があるのかもしれません。

⑥ 「たつたひめ」系は、「たつた」表記の歌の平均値に近く、勅撰集全体に満遍なく用いられています。しかし、「たつたかは系統」59首に対してその1/3、「たつたやま」系と「たつたのやま」系と「たつたのおく等」(以下「たつたやま系統」の表記という)の80首の1/4という19首しかなく、「たつた」表記の傍流といえます。

⑦ あらためて三代集を中心に各系に関してまとめると、

・「たつたかは系統」の表記は、よみ人しらずの歌人を含めた『古今和歌集』の歌人が創出したといえる。歌数は「たつた」表記の39%を占める。

・「たつたのやま系統」の表記は、歌数で50%を占め、「たつたのやま系」が大半であるが、三代集以後は「たつたやま系」の表記が優勢になる。

・「たつたひめ系」の表記は、『古今和歌集』の歌人が創出したが、使用例が11%と大変少ない。後代の歌人にも好まれていないといえる。

・『萬葉集』にあった「たつたひこ」表記及び「たつたこえ」表記の歌(各1首)が、三代集には無く、「たつたかはら系」と「たつたのおく等系」は三代集にまだ現れない。

 このうちの創出された「たつたかは系統」表記は、以下に詳述しますが紅葉と結びついています。「たつたのやま系統」にも多く詠われています。それは、「たつたやま系統」表記の意味の変遷に影響があったのではないかと疑う理由のひとつになります。

 

 

2.『萬葉集』と三代集の違いと共通点。

① 検討資料としている『萬葉集』と三代集は、諸氏が指摘しているように、漢文学隆盛の時期を挟んでアンソロジーとして大きな違いがあります。即ち、

・撰歌と編集方針が異なる。いくつかのグループ別の撰歌が行われたとみられる『萬葉集』に、一貫した方針がみてとれる三代集の各集となります。三代集は全巻の編集意図などを考慮してその歌を理解したほうが編集者・編集を委嘱した者の意に適う、ということであります。

・使用している文字が異なる。三代集は、一字一音のひらかな(さらに清濁ぬき)です。それは表現した「ことば」に意味をいくつか掛けることを隆盛にしています。

・歌の主たるスタイルが異なる。三代集は、圧倒的に三十一文字の歌が占め、四季等部立が明確です。

② 作者の置かれている環境にも違いがあります。

・歌の披露の場が異なる。『萬葉集』は、王朝の公宴以外は、個人間の挨拶歌・相聞歌と宴席における朗唱歌です。防人歌を含めて当時の民謡と見なし得る歌も朗唱されている歌です。三代集は、そのほか、左右のチームによる歌合、中国の屏風詩・画題詩にならった屏風歌が重要な発表の場となっています。公宴にも上流貴族の通過儀礼も含まれるなど歌の専門家の需要が生まれ、いろいろの場面の挨拶歌が男女にかかわらず増加しています。詠う場面、朗唱する場面が格段に広がりました。

歌人の居所が、異なる。大和国(と難波の勤務地)から、山城国平安京(各国の府庁所在地という勤務地)となりました。

・異ならない点もあります。歌の上手はそれだけで天皇に仕える官職を用意して貰えていないことです。慣例で優遇あるいは尊重される(例えば家元のような)こともないことです。

③ これらのことが、「たつた」という地名とおぼしき言葉の用いられかたに反映しているはずです。

④ 当時の歌人にとり、記憶してしかるべきとした歌が、過去の歌も含めて三代集に選ばれています。 『萬葉集』の読解を三代集の歌人たちは試みており、日本語として言葉の意味も当然引き継いでいます。文化として一連のものであり、三代集と『萬葉集』の歌を比較検討するのは意味のあることであります。

 

3.作詠時点の推計

① 三代集の「たつた」表記の歌は、その作詠時点の推計を、2017/3/31の日記の方法によっています。検討対象の歌は、三代集の間で重複している歌もあるので、それを各1首に代表させると33首となります。

② 33首のうち、1-1-283歌の作詠時点については、『古今和歌集』のよみ人しらずの歌なので、原則は849年以前となるのですが、左注によって作詠時点を平城天皇薨去以前(824年以前)としました。

33首の「たつた」表記の歌は、部立にかかわらず紅葉の歌が多くあります。よみ人しらずの歌が14首、紀貫之の歌が6首あります。そのなかで1-1-995歌は紅葉を詠わずまた類似の歌がありません。

萬葉集』をも加えて作詠時点を示すと、下表のようになります。なお、歌中に紅葉を詠っている歌の歌番号を赤字で示しています。

 

表 万葉集と三代集の「たつた」表記歌の時代区分部別「やま・かは等」表記別の表

  <2017/6/12 現在>

作詠時点

たつたのやま系統

たつたこえ

たつたかは系統

たつたひこ

たつたひめ

萬葉集の時代(~750)

歌番号一部割愛

2-1-976

2-1-2198

2-1-2215

2-1-2218

2-1-2298

   ⑬

同左

 ①

 

  ⓪

1752

 ①

 

  ⓪

 

 15首

 

 

 

 

 

 

 

751~800

   ⓪

 

  ⓪

 

  ⓪

無し

801~850

1-1-994

1-1-995

   ②

 

1-1-283

1-1-284

1-1-314

  ③

 

 

  ⓪

 

 5首

851~900

1-1-108

   ①

 

1-1-294

  ①

 

1-2-265

  ①

 

 3首

901~950

1-2-382

1-1-1002

1-2-359

1-2-376

1-2-377

1-2-383

1-2-389

1-2-385

1-2-386

    ⑨

 

1-1-300

1-1-302

1-1-311

1-1-629

1-2-416

1-2-414

  ⑥

 

1-1-298

1-2-378

  ②

 

 17首

951~1000

1-3-138

1-3-699

1-3-560

1-3-561

    ④

 

1-2-413

1-2-1033

  ②

 

1-3-1129

  ①

 

 7首

1001~1050

   ⓪ 

 

1-3-389

  ①

 

 

  ⓪

 

 1首

合計

29首

 1首

 13首

1首

  4首

48首

注1)歌番号は『新編国歌大観』による。

2)「たつたかは系統」表記の歌に分類した1-2-413歌には、「やま」表記がある。

3)歌番号が赤表示は、紅葉を歌のなかで表現している歌である。

4)丸数字は、その年代のその表記の歌の歌数を示す。三代集の合計は33首である。

5)『萬葉集』の歌は、紅葉を歌のなかで表現している歌以外は、抜粋である。

 

③ この表に見る通り、「たつたやま系統」表記が『萬葉集』以来継続して多く用いられていますが、1-1-995歌は、『萬葉集』の13首と901~950年代の9首の間の、あまり歌に「たつた」表記が用いられていない時期の歌であります。

 『萬葉集』では、前回の表にみるように秋の紅葉を詠う歌が4首だけであり、桜を詠う歌や季節が特定できない歌もありました。また、「たつたひこ」表記と「たつたこえ」表記の歌は、桜を詠っています。このように季節を限って「たつたのやま系統」表記を歌に用いる、ということはありませんでした。

三代集の時代となると「たつたのやま系統」表記も上の表に示したように季節が限定されてきているかにみえます。

⑤ これに対して、『古今和歌集』から登場した「たつたかは系統」表記の歌は、11首が紅葉を詠い、残りの2首も要検討という歌であります。その1首は、955年以前作詠の1-2-1033歌であり、杜を詠っていますが、この歌も紅葉の時期の「たつたかは」をイメージしているようにとれ、もう1首は、1007年以前作詠と推計した物名の部の歌(1-3-389歌)であり、一見紅葉を詠っていないとみえます。この2首の検討結果を後ほど記します。)

⑥ 「たつたひめ」表記の4首中3首が紅葉を詠っています。

  なお、萬葉集』にあった「たつたひこ」表記及び「たつたこえ」表記の歌(各1首)が、三代集にはありません。「たつたかはら系」と「たつたのおく等系」は三代集にまだ現れていません。

このため、最初に紅葉と「たつた」表記の関係から「たつたのやま」や「たつかは」の実態を検討することとします。

 

4.「たつたかは系統」表記の最初の歌

① 『萬葉集』記載の歌に最も近い(三代集で最も古い)「たつた」表記の歌が、1-1-283歌です。この歌における「たつた」から検討します。

 この歌は、さらに、「たつたかは系統」の表記歌の最初の歌であり、かつ「たつたかは」と「紅葉」を同時に詠み込んだ初例であります。

② 作詠時点は、この歌の左注「この歌は、ある人、ならのみかどの御歌なりとなむ申す」より、少なくとも「ならのみかどの時代」に既に詠われていたと推定し、作者についてはよみ人しらずのまま作詠時点を平城天皇薨去時点・弘仁15年(824)以前と推計しました。

 この歌の次に古い歌は849以前のよみ人しらずの歌群の4首であり、この歌と同様に左注でもあれば、更に遡り得る歌群です。2首が秋と冬の部の歌で紅葉を詠み、残りの2首が雑の歌で「たつた(の)やま」表記で、紅葉を一見すると、詠んでいません。(その1首が1-1-995歌です。)

 

1-1-283  題しらず                  よみ人しらず

   竜田河もみぢみだれて流るめりわたらば錦なかやたえなむ 

 

③ この歌は、作詠時点では、清濁抜きの平仮名で書き表されていました。『新編国家大観』が採用した写本が、上記のような表現をしていたのです。「竜田河」という漢字3字に拘る必要はありません。

④ この歌は、推量を二つしている歌です。最初の推量が三句にある「めり」です。

この歌の作者は、「流るめり」と、推量の助動詞「めり」を介して、「竜田河」を紹介しています。

 小松英雄氏は『みそひと文字の抒情詩』でこの歌を評釈し、古今集では4例しかないが、「目に見える事実の背後にある事柄を推定させるには「めり」が有効である。」と指摘しています。また、「平安時代歌人にとり、大和を流れる川の名以上の知識を「たつたかは」に不要。大和の国のどのあたりを流れていてもよかったので「錦」というキーワードによってその情景を自由に想像させることが可能であった」とも指摘しています。

 後者の指摘は、この歌が勅撰集における最初の「たつたかは」表記でありますが、勅撰集に載らない先行例が多少ともあることを前提とした意見と思われます。

④ 助動詞「めり」は、事柄を視覚によって捉え、それからの推量をいうのが基で、発展して推量を遠回しでいう意を含むようになった語です。

 では、この歌の作者は、どのような事柄を視覚によって捉えて、竜田河の流れを「もみぢみだれて流る」と推量したのでしょうか。

 作者は、「たつたかは」の状況を推量していますので、その「たつたかは」の流れを視覚に捉えられるような現場に臨場しているわけではありません。だから、視覚に捉えたのは、

「たつたかは」を隠している山々(多分紅葉しています)  ・・・a

落葉したら川に散ると思える斜面の樹林帯(紅葉した木々があります)   ・・・b

のどちらかです。前者の実景の一部に注目した景が後者です。

 このほか、aやbの時間軸を少し前にした

 「たつたかは」を隠している山々(紅葉の時期の直前の日)   ・・・c

さらに、一日にして紅葉することをも念頭に

「たつたかは」を隠している山々(紅葉の時期直前の昼間、夕方)   ・・・d

落葉したら川に散ると思える斜面の樹林帯(紅葉の時期直前の昼間、夕方)   ・・・e

などを視覚に捉えたかもしれません。しかし、『古今和歌集』の秋の部の歌として集中の歌順をも考慮すると、aかbの想定が順当なところです。いずれにしても「たつたかは」を作者は見ることができないで作詠しています。

 また、書物を読んだことが視覚によって捉えたことであるとすると、読んだ文字文字から「たつたかは」を想起したことになります。その書物漢籍であれば、漢文学隆盛の時代に「竜田河」を詠んだ日本人の漢詩文が生まれた可能性がありますが、実際には、この歌が初例です。

 ただし、「たつたかは」の「たつた」を含む「たつた(の)やま」は『萬葉集』にあります。その「たつた(の)やま」の山中から発したかのようなイメージが「たつたかは」という表現にあります。

 この歌が詠まれるまで、誰も歌に用いていなかった表現であります。

 既に共通の認識のあるはずの「たつた(の)やま」に「たつたかは」を人工的に作りだしたアイデアが斬新であります。

 この歌の作者は、伝承されてきた歌や読解できた『萬葉集』の歌などから、「たつた(の)やま」のイメージを持っていたのでしょう。いうなれば「都(平安京)から遠く離れた山並み」が「たつた(の)やま」であったのです。前回結論を得た「700年代のたつた(の)やま」のなかの「遠望した時、河内と大和の国堺にある山地、即ち生駒山地。難波からみれば、大和以東を隠している山々の意。」の流れのなかにおくことができる理解です。

⑤ aとかbを視覚に捉えた事柄は、誰も知らなかった「たつたかは」を説明するのに、必ずしも山の実在が求められていないとなれば、賀の行事などにおける屏風の「倭絵」(屏風絵)の中ではないでしょうか。

 紅葉した山々は、季節季節を描いて一式とした屏風の画題のひとつとなっています。紀貫之の私家集『貫之集』が屏風歌から始められているように、歌人にとって重要な(それだけ需要のあった)歌のジャンルが屏風歌です。

⑥ 屏風に添える歌とすると、屏風の絵から想像する紅葉に満たされた川が、周知の川でないことに価値が増します。川幅が狭くなった実際の川や庭の流水(遣水)において流れを錦に見立てることは、高貴の者もこの歌を依頼した者も見て知っていた(し庭に作らせもした)はずです。

 いままで遠望してきた「たつた(の)やま」に行ってみたら、見事な「錦のような川」があるらしい、いやあるはずだ、と作者は推理し、その根拠の山々が「屏風絵」のなかにあり、その川に名を付けて「たつたかは」と表現したのです。秋の「かは」の様相をいうのに、山々の名は決めつける必要はないのです。

 作者は、人工の川であるからこそ、「めり」で川の存在を訴えたのではないでしょうか。(布を織った本来の)錦について共通のイメージを持っていた歌人に、当時「たつたかは」は知られておらず、誰も行ったことのない川での秋のすばらしい光景があると訴えたのがこの歌であります。

 そして、我が国において「たつたかは」を記録した最初の文献が、(今回の検討対象外にしている私家集と歌合の記録を別にすると)『古今和歌集』となったのであり、この歌であります。

⑦ 紅葉は大和のどの山でも毎年繰り返されたことです。「あすかかは」では既に固定したイメージが強く「紅葉」を訴えるには新鮮さが足りません。

 春日の山のような特定の山でもなく、みむろのやまのようにある条件下における山を形容し得るイメージでもなく、特定の山頂を指しているとは理解しにくい「たつた(の)やま」の紅葉であり、『萬葉集』では大和川を「たつた(の)かは」と表記していません。その大和川に流れ落ちるたくさんの谷川の一つを「たつたかは」に比定されないよう、歌本文でヒントも与えていないし、『古今和歌集』の撰者も詞書も略して「題しらず」としています。

⑧ 次に、「錦」という比喩について検討します。

 例えば、桜の花筏が、流路の中の岩や飛び石にあたって乱れても流水にのってまた一つになるように、花筏が切れることはなく、「絶えて」しまうことはありません。また下流に別の飛び石があればもう一回模様が変わるだけです。飛び石のところの乱れも一つの絵柄にしかすぎないと理解してよい。錦という織物もこの花筏と同じはずです。

しかし、「たえなむ」と言いたい気持ちを作者は抑えきれなかったのです。

 このような光景は、「たつたかは」でなくとも落葉が上流からあるいは両岸の支川や木々から続々と集まっているようなところがある川なら、どこにでも生れそうな光景です。「あすかかは」でも庭の流水でも同じであろうと思えます。

 そうであるので、この歌のポイントは、錦にみまがう川が「たつたかは」という名である事、ではないかと思います。

 小松英雄氏が指摘するような、「大和を流れる川の名以上の知識を「たつたかは」に不要。大和の国のどのあたりを流れていてもよかったので「錦」というキーワードによってその情景を自由に想像させることが可能であった」となるためには、伝承されてきた歌にある「たつた(の)やま」ということばとのつながりを連想させる「たつたかは」であって、現在竜田川と呼ばれる大和川の支川と結びつけることを拒否している歌であります。

⑨ 次に、「わたらば」と仮定していることを、検討します。

 貴人は、踏み石の無い川を渡ろうと思わないでしょう。踏み石があったとして貴人が渡ったとしても踏み石以外が「錦」が切るようなことはありません。貴人でない者が水の中に入って行く光景よりも、鹿などが川を越えて行く光景のほうがふさわしい。

 「めり」と推量した作者が、「わたる」本人という理解に拘ると、作者は貴人ではないことになります。あるいは、貴人に代わって誰かが詠んでいる歌ではないことになります。このように実際の川に接した感慨を詠んでいるとの理解は無理が生じています。

⑩ 事前に描かれている絵が、「竜田川」を直接表現しないが紅葉の山だけの絵であれば、「竜田川」全体をも推量することになり、上句の「めり」という推量と下句の推量は無理なくつながります。

⑪ この1-1-283歌は、歌人たちのよく知っている「たつたやま」のどこかにあるはずの「川」の見事な紅葉報告を初めてしています。

 これにより「たつた(の)やま」に、官道もない秋には美景となるはずの山、という意味を新たに加えたと、言えます。

 この結果として、この歌が、「たつた(の)かは」と「たつた(の)やま」に紅葉を縁語として定着させました。

⑫ 『古今和歌集』は、この歌に続き記載している1-1-284歌は「たつたかは」を、「みむろの山」とともに詠まれていますが、この歌には「又は、あすかがはもみぢばながる」(さらに人丸歌)という後記のある伝本もあります。

 「みむろの山」は、所在地の候補がいくつかある山であり、人工の「みむろかは」はひとつの川のイメージに収斂しにくいと思われます。伝本の歌からこの歌の本文に改作され、この歌が洗練されて1-1-283歌がうまれたかもしれません。あるいは、1-1-283歌の刺激を受けて伝本の歌からこの歌の本文に改作されたのかもしれません。

 『古今和歌集』のよみ人しらずの歌ですが、人丸歌ということならば作詠時点849年以前を遡らせる可能性があるかもしれません。この歌は1-1-283歌とほぼ同世代の歌と言えます。

 1-1-314歌も、作詠時点を849年以前と推計した歌ですが、『古今和歌集』の冬歌の巻頭歌とされています。伊達本などには「河」の右に「山」と傍記があるそうですが、秋の名残を詠うのであれば紅葉を確実に連想するため新しく創出した「たつたかは」です。1-1-283歌と1-1-284歌の後に詠まれているのでしょうか。

⑬ このように、最初に「たつたかは」表記が用いられた801~850年代の歌においても、実際の所在地を作者は問題としていません。現地に赴くことのできない川として「たつたかは」表記が始まっています。

従って比定できる川は自然界にないと理解できます。

これらの歌の次に古い歌が、作詠時点を876年以前と推計した1-1-294歌であり、1-1-314歌から約30年たっています。そして、「たつたかは」を詠んだ歌で作者名が初めて明らかになり、かつ詞書で屏風の絵を題にして詠んだ、と明記されている歌です。

 すでにこのときには、「たつたかは」のイメージを、この歌を詠んだ者の属するグループの全員が共有していると思われます。

 

1-1-294 歌  秋下  二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題によめる     なりひらの朝臣

  ちはやぶる神世もきかず竜田河唐紅に水くくるとは

 

⑭ 次回も、「たつたかは」と紅葉に関して記します。

 ご覧いただき、ありがとうございます。

 <2017/6/12>

 

 

わかたんかこれの日記 たつたやまは竜田道とともに

2017/6/5    前回、「700年代のたつたやまは生駒山地」と題して記しました。大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊とする推定との関係が残されています。

 今回は、「たつたやまは竜田道とともに」と題して、記します。

1.『萬葉集』で「いこま」表記の歌

① 『萬葉集』には、「いこま」表記の歌が5首あります。

 官人の歌が1首あります。作詠時点は、恭仁京へ住まいを構えよという詔以後とみて、天平13年(741)年と推計されます。

2-1-1051  巻第六  悲寧楽故郷作歌一首幷短歌  田辺福麿 

      ・・・つゆしもの あきさりくれば いこまやま (射駒山) とぶひがたけに はぎのえを しがらみちらし さほしかは つまよびとよむ やまみれば やまもみがほし さとみれば ・・・

 この歌の「とぶひがたけ」は、生駒山の一峰に和銅5年(712)正月に春日山とともに置かれた烽(とぶひ、のろし台)を指します。「いこまやま」は、現在の生駒山地の主峰である生駒山を指します。

② 非官人の歌が4首あります。

2-1-2205歌  巻第十 秋雑歌 詠黄葉    <よみ人しらず 作詠時点は738以前:作者不明歌>

   いもがりと うまにくらおきて いこまやま(射駒山) うちこえくれば もみちちりつつ(紅葉散筒)

2-1-3611歌 巻第十五  遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思幷当所誦之古歌 

        秦間満(はだのはしまろ)   <作詠時点は736以前:天平8年

   ゆふされば ひぐらしきなく いこまやま(伊故麻山) こえてぞあがくる いもがめをほり

2-1-3612歌 巻第十五   同上  <よみ人しらず 作詠時点は736以前:天平8年

   いもにあはず あらばすべなみ いはねふむ いこまのやまを こえてぞあがくる

 この3首は、「いこま(の)やま」を越える、と詠っています。生駒山地に既にある峠道を指しています。いわゆる竜田道の方が奈良と難波との往来に楽であるのに、「たつた(の)やま」と表現していないところを見ると、竜田道が未整備だったころの歌であるかもしれません。日下に至る道がこの歌の峠道の候補の一つとなります。

そうであれば、当時においても古歌という扱いをして、作詠時点を1世代30年遡ることと仮定すると、706年ころの難波と奈良の都をつなぐ道を詠っていることになります。

③ 非官人の残りの1首は、次の歌です。

2-1-4404歌 二月十四日下野国防人部領使正六位上田口朝臣大戸進歌数十八首、但拙劣歌者不取載之 (4384~4407) <よみ人しらず 作詠時点は755以前:天平勝宝7年>

      なにはとを こぎでてみれば かみさぶる いこまたかねに(伊古麻多可祢尓) くもぞたなびく

  この歌は、「いこまやま」を遠望しています。防人が難波で(あるいは難波で乗船して)詠った歌であり、現在の生駒山地を指します。

④ 「いこま」表記の歌は、「いこまやま」あるいは「いこまのやま」しかなく、結局、現在の生駒山1首といわゆるたつた道でない生駒山地を通過する道3首と遠望した生駒山地1首となります。

 

2.『日本書紀』での「いこま」の記述例

① 養老4(720)完成の『日本書記』皇極天皇2(643)11条に、「いこま」という表現があります。

「山背大兄(従う臣とともに)・・・逃げ出でて肝駒山(いこまやま)に隠れたまふ。・・・山背大兄王等四五日の間、山に淹(ひさしく)留まりたまひてものもえまゐのぼらず。」また「人ありてはるかに上宮の王(みこ)等を山中(やまなか)に見つ。・・・ここに山背大兄王等、山より還りて斑鳩寺に入ります。」

とあります。

② 肝駒山は、山背大兄王等が斑鳩の地から逃げていったところを指しています。山背大兄王等は、追手が一本の道から攻めるような防ぎやすい地形のところに一時逃れたのではないでしょうか。「肝駒山」の候補地は、現在の斑鳩町平群町の間の山地か、十三峠(大阪玉造より伊勢への道筋で「十三街道」)のある平群町内などの生駒山地かとなります。山も深く、追手からも斑鳩からも約5km程度離れた後者が妥当すると思います。

③ 前回紹介した雄略天皇条には、「日下の直越(ただこえ)の道より河内にいでましき」等とありますが、「いこま」という表記はありませんでした。

④ 延喜式神名帳では大和国平群郡に「往馬坐伊古麻都比古神社二座」(いこまにいますいこまつひこじんじゃ)と記載されています。「いこま」とは、大和国河内国境の山々の東の地を指し、西の地を指す言葉ではなさそうです。

 「いこまやま」は大和側から生駒山地の主峰を呼んでいた名、と思われます。

 

3.竜田道

① 藤原宮の造営用の木材が、近江田上山から平城山を越えて佐保川や初瀬川や造営用運河によって運ばれています(2-1-50歌等)。同時期には大和川を利用した舟運も機能していたに違いありません。舟運とともにその大和川に沿って大和国から河内国に到る道(今仮に「亀の瀬経由の道」ということにする)そのものは既にあったに違いありません。

 一般に、軍の移動は陸路の方が段違いに早いし大兵力も可能です。そのような道となったのはいつ頃のことでしょうか。そのような道になったとき「たつたぢ」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

② また、朝鮮・中国との往来が、白村江での敗戦(663)以前にも以後にも、頻繁にありました。百済は、人質に王子を差し出しており、奈良にある都へも使者が来たでしょう。新羅等は天武天皇の即位を祝いに来日しています。

③ 推古天皇の時、隋の答礼使節である裴世清が来日しています。『隋書』によれば608年に来日し、610年帰国しています。来日の折港に着いたら行列をととのえ楽隊をつけて裴世清一行は出迎えられ、王都邪靡堆に近づくと200余騎の慰労をうけています。

『日本書記』を参照すると、王都は小墾田宮であり、海柘榴市(つばいち)に200余騎に迎えられた、ということになります。海柘榴市までの経路は明記されていませんが、下船した難波で出迎えを受けているので、200余騎が迎えた海柘榴市でも下船したと思われます。

④ 海柘榴市があった所は、初瀬川が初瀬谷を下って奈良盆地に流れ出る地点です。初瀬川は佐保川や飛鳥川などと合流し大和川として当時日下江に流下しています。

亀の瀬の通過を後年の片桐且元のしたように、船の乗り継ぎをしたとすると、それまで大和川に沿った道を、それまで舟運の防衛上通行禁止していたとしても、裴世清一行のために、その乗り継ぎ区間の道路はしっかりと整備をしたはずです。奈良盆地内で各川が合流するあたりの沼池の通過なども人馬の労を厭わぬ工夫があったのでしょう。川舟なので、裴世清一行の護衛の面からも充分な配慮をしたと考えられます。

⑤ これ (608) 以降、難所であった乗り継ぎ区間の通行が楽になってこの陸路による官人の往来が頻繁になったのではないでしょうか。

 700年代初頭、そのため、「(河内と大和を隔てる山地をこえる)たつたぢのあるやま」を「たつたやま」と歌で詠むようになったのかもしれません。

⑥ 難波と飛鳥浄御原の都の往来には、二上山付近を通る道も候補になりますが、平城京の場合は、この「亀の瀬経由の道」が河内から直行できる道であり有力となります。

⑦ 『日本書紀天武8(679)11月条に「初めて関を竜田山・大坂山に置く。よりて難波に羅城を築く。」とあります。この記述は、竜田山・大阪山という表現を、官道の意に用いています。竜田山という地と大坂山(現在の二上山)の地には官道があったわけです。後者は、現在の香芝市穴虫峠を越える道などが考えられています。河内と大和を結ぶこの道を大坂道とも言っています。 

⑧ 竜田山という地にある道は、『日本書記』天武元年(672)七月条に、「人有て曰く「河内より軍(いくさ)多(さわ)に至る」といふ。・・・遣わして、竜田を距(ふせ)かしめ、・・・遣わして、数百人を率いて大坂を屯(いは)ましめ、・・・石出道(いはてのみち)を守らしむ。」とあり、進軍してくる道の一つと大坂道とともに認識されています。672年には、既に十分軍を組織的に行動させられる道となっています。

⑨ なぜ「たつた」みちと名付けられたかは、後日を期したいと思います。

 

4.たつたやま

① 生駒山地の呼称が、「たつたやま」に600年代初めに替りました。山地を越えるために利用する主たる陸路が「亀の瀬経由の道」になり大和川の舟運も増えたからです。

② 前回と前々回の検討結果を表に示します。「いこま」表記の歌も加えました。

 

 表 作詠時点別「たつたやま」表記・「いこま」表記などの歌一覧(2017/5/31現在)

作詠時点

たつたやま

たつたのやま

たつたひこ

たつたこえ

(たつた)無し

いこま

712以前

2-1-83&起つ 生駒

 

 

 

 

 

730以前

2-1-881      生駒

 

 

 

 

 

732以前

 

2-1-976        生駒

2-1-1751&起つ 南端

2-1-1753&起つ 生駒

2-1-1752 南端

 

2-1-1754南端

2-1-1755南端

2-1-1756南端

 

736以前

 

2-1-3744       生駒

 

 

 

2-1-3611生駒

2-1-3612生駒

738以前

2-1-1185      生駒

2-1-2215&発つ 生駒

2-1-2218       生駒

2-1-2298       生駒 

2-1-2198&裁つ 生駒

 

 

 

 

2-1-2205生駒山

746以前

 

 

 

2-1-629イ 生駒

 

2-1-1051生駒山

748以前

2-1-3953&起つ 生駒

 

 

 

 

 

755以前

2-1-4419 南端

 

 

 

 

2-1-4404生駒

 

 

 

 

 

 

 

8首

5首

1首

1首

 

 

注1)歌番号等は、『新編国歌大観』による。「629イ」は、629歌の一伝の意で、同書が使用している。

注2)「&起つ」等とは、「たつた」の意に、同音二意の二つ目の意である。一つ目は、共通に「地名とおぼしき名」である。

注3) この15首のほか「たつたみの」(立民乃)とある2-01-2653歌があるが、「地名とおぼしき名」で無いので考察対象から除外している。

注4)「生駒」とは、「たつた(の)やま」」表記の意が、生駒山地全体であるとしている歌および「いこま」表記の意が、生駒山地全体であるとしている歌

   「南端」とは、「たつた(の)やま」」表記の意が、大和川に接する生駒山地の南端と大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の尾根尾根を指す歌

   「生駒山」とは、生駒山地の主峰の生駒山を指す歌

注5)「(たつた)無し」とは、歌に「たつた」表示はないがいわゆる竜田路を詠っている歌

注6)「いこま」とは、「いこま(の)やま」表記のある歌

 

③ 表をみると、「たつたやま」表示の歌では、一番新しい大伴家持の755年以前の歌2-1-4419歌 が「大和川に接する生駒山地の南端と大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の尾根尾根」を指す歌を意味していますが、それ以外の7首は、生駒山地全体を指している歌です。

 そして「たつたのやま」表記の歌では、作者が高橋虫麿の歌である一連の歌(2-1-1751~1756歌)にのみ「大和川に接する生駒山地の南端と大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の尾根尾根を指す歌」を意味しており、官道を舞台にした歌です。高橋虫麿の歌の理解は、前回の理解のままでよいと思います。

④ 2-1-4419歌は、今歩みを進めている官道から見える範囲の山(通過するのに何時間かかかる、いうなれば峠の前後の山)の山桜を詠んでいます。高橋虫麿が作者である2-1-976歌は生駒山地の意と分類して表にしましたが、官道を行くことを詠っている歌です。

このようなことからすると、作者は、官道から望める山々を指して「たつた(の)やま」と表現していることになります。その望めた山々は、作者が「たつた(の)やま」と承知している山地に含まれており、望めた山々には名が付いていなかった(あるいは和歌に用いるまでもない尾根のひとつひとつ)という認識をしていたのではないか、と思われます。

 

5.詠んでいる季節

① この15首の舞台となっている季節をみると、次の表のようになります。

 

表7-2 『萬葉集』の「たつた」表記の意味別・季節別分類表(全15首 2017/6/5現在)

四季の区分

生駒山地

南端と大和川両岸

1753

1751 1752  4419

 4

976  2198  2215  2218

 

 4

冬のはじめ

2298

 

 1

季節限定なし

83  629イ  881 1185

3744    3953

 

 6

注)数字は『新編国歌大観』の『萬葉集』の歌番号である。

 

② 春の歌と秋(冬の初めを含む)の歌は、「たつた(の)やま」の現地に赴いての感興であり、季節限定なしの歌は、大和を隔てる壁として詠っているものが多い。

このように季節を秋に限定して「たつた(の)やま」を用いているわけではありません。

③ また、「たつた」と表記する万葉集の15首からは、山中での水場あるいは単に山中でおこなうところの、いわゆる「禊」を連想する歌がありません。海での「禊」の歌には、「きみにより ことのしげきを ふるさとの あすかのかはに みそぎしにゆく」の異伝歌が1首(2-1-976イ歌)がありますが、この異伝歌も山中ではなく、1-01-995歌に詠われている「たつたのやま」と「ゆふつけとり」との関係をうかがわせる歌はありませんでした。

 

5.700年代の「たつた(の)やま」の総括

以下のように総括できると思います。

① 700年代のたつた(の)やまは、

・遠望した時、河内と大和の国堺にある山地、即ち生駒山地。難波からみれば、大和以東を隠している山々の意。

・たつた道から見上げた時、並行する大和川の両岸にみえる尾根尾根。生駒山地の南端(大和川に接する地域)と大和川の対岸の尾根。この道を略して、「たつたのやま」ともいう。

この違いは、文脈からくみ取らねばならない。

② 700年代の「いこま(の)やま」は、

・遠望した時、たつた(の)やまより狭く、生駒山を中心とした山々。大和と河内の堺にある山々の意。

・いこま越えしている道(たつた道を除く)のある生駒山地の尾根と谷。

この違いは、文脈からくみ取らねばならない。

③ 次回は、800年代以降の「たつた」表記の歌について記します。

 ご覧いただき、ありがとうございます。

 <2017/6/5 >

 

わかたんかこれの日記 700年代のたつたやまは生駒山地か

2017/5/29     前回、「700年代のたつたとは」と題して記しました。高橋虫麿は、「たつた(の)やま」という表記を、諸氏が既に指摘している、大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊に用いていると推定しました。

 今回は、「700年代のたつたやまは生駒山地か」と題して、他の作者はどのように理解しているのか、を記します。

 

1.記述の原則

① この日記の記述の原則を、2017/3/31の日記に記しました。その原則のひとつを、ここに引用しておきます。

「文字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものである、という考えを前提とします」

② 「たつた」表記の歌に関しても、もちろんこの原則に基づいています。しかし、万葉仮名を不勉強で、その方面の諸氏の意見を参照できていません。

③ 『萬葉集』の「たつた」表記の歌は『新編国歌大観』によれば15首あります。順次検討します。

 

2.『萬葉集』の「たつた」表記の最古の歌

2-1-83歌  和銅五年壬子夏四月遣長田王子伊勢斎宮山辺御井作歌(81~83)

   わたのそこ おきつしらなみ たつたやま いつかこえなむ いもがあたりみむ

 

① 『萬葉集』の「たつた」表記の歌15首の作詠時点は712以前~755年以前の間に詠われており、最古の歌は2-1-83歌と推計しました。

② この歌には左注があり、「右二首(82と83歌)今案不以御井所作、若疑当時誦之古歌歟歟」とあります。「81歌を作ったその時(の宴において)誦詠された古歌か」と注しています。一世代(30年)遡り得るとすると、682年以前となります。

 682年当時の都は、飛鳥浄御原宮です。694年に、都城制を敷いた初めての都・藤原京に遷都し、その後712年に、平城京に都が遷っています。天武天皇は683年「凡そ都城宮室は一処にあらず、必ず両参を造らん。故に先ず難波を都とせんと欲す。」と詔しており、二つの都が793年まで続きました。

 682年当時、難波の津は、既に、物資の集散・外交交渉上の重要な大和政権の直轄地でした。

 600年代の天皇も官人も、難波と奈良盆地にある都とをよく往復している、ということです。

③ 難波宮は、上町台地に造られています。難波の津はその西側の大阪湾あるいは北側の台地の北端かにあり、東側は縄文時代の海進時には生駒山地の足元まで海であった名残の淡水化が進みつつある湖でした。

 その時代の湖を河内湖と現在称していますが、4~5世紀ころから日下江(草香江)と呼ばれていたそうです。生駒山地の麓にある日下(現在の東大阪市日下あたり)まで船でゆけたのです。

 『古事記』によれば、神武東征にあたり、「浪速の渡を経て青雲の白肩の津(東大阪市日下付近)に泊てたまひき」とあり、仁徳天皇は「茨田堤(大阪府寝屋川市付近)と茨田三宅を作り」、また「難波の堀江を堀りて海に通し、又小椅江を堀り、」と、日下江の治水を心掛け開拓を進めています。

 雄略天皇条には、「はじめ大后(おほきさき)の日下にいましし時に、日下の直越(ただこえ)の道より河内にいでましき。山の上に登りて国の内をみさけたまへば(のぞめば)・・・」とか「日下部の此方(こち)の山とたたみこも平群の山のこちごちの山の峡(かひ)」に・・・」とあります。「日下部の此方の山」とは、生駒山を指します。日下から奈良側へ越える道を、天皇も越えていました。日下の大后のもとにゆくのに天皇生駒山地の北端を通っていません。

 生駒山地は、その西側(大阪平野側)が急傾斜であり、東側が緩斜面です。その北端には淀川が、南端には大和川が流下しています。大和川はこの後北上し淀川が流れ込んでいる日下江に入ります。上町台地と大和とを陸路で結ぶために、この山地を越えようとしてできるだけ平坦な道を期待すれば両端沿いのルートがまず候補となるでしょう。北端は現在の枚方交野経由となり南端は亀の瀬経由となります。

 なお、湖は、江戸時代までに、深野池(大東市付近)と新開池(東大阪市鴻池新田あたり)の二つまで小さくなっています。(国土交通省淀川河川事務所HPの「淀川の成り立ちとひととのかかわり」等による)

④ 難波と大和の都を結ぶためには、生駒山地そのものが問題であり、解決する方法として本日の頭書にあげた「大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊」を通過する道が有力候補でした。難波と大和を隔てる存在であったのが「たつたやま」と称しているものでありました。当時の官人である作者はそのように認識していたはずです。

 なお、難波と大和にある都を結ぶ官道のうち、前回検討した高橋虫麿の歌にある官道は、穴虫峠(二上山の西北)や竹内峠(二上山の南)を通る官道の後に作られた道です。

⑤ この歌が、左注のいうように当時の古歌であっても、当時の作であっても、難波勤務の官人が作者だと推測します。

 この歌の作者は、日下江の海の底から生まれた白波がどんどん立つと詠いだし、しきりに岸に押し寄せてゆく波を、自分の妻を思う気持の比喩として述べています。

 日下江を渡る風が吹き送る白波に乗って日下にすぐ行けたとしても、急激に高度を上げる(立ち上っているかのような)生駒山地を直越えするのは苦しく、妻のいる奈良の都は遠いので、次の転勤のチャンスには戻してもらおう、という別居を余儀なくされている男が、妻を思って詠っているという設定の歌が、この歌です。

⑥ このような歌の披露は、『萬葉集』の最後の歌(家持作の4540歌)と同じように、難波の現地の長官等の賜宴の席だと推測します。高橋虫麿が詠うように、奈良の都は一日ほどの行程の所にありますが、単身赴任してきている官人にはままならない距離であったのでしょう。妻に贈った歌ではありません。

⑦ このように、この歌の「たつたやま」は、難波に単身赴任している官人がいつも遠望する難波と大和(奈良盆地)の都の間にある比高が400~600m以上もある生駒山地を指している、と見られます。難波から大和の都を望む方向にあるのですから。勿論、「大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊」を含みます。

 三句の「たつたやま」は、四句で「いつかこえなむ」と詠まれおり、阻む壁の意を強調し、突破する方法を作者は気にかけていません。たつたのやまを越える道の略称として「たつたやま」と言っているわけではありません。

 

3.山上憶良の歌

2-1-881 書殿餞酒日倭歌四首 (880~883)

   ひともねの うらぶれをるに たつたやま みまちかづかば わすらしなむか

 

① この歌は、大納言に昇任して帰京することとなった太宰師の大伴旅人を送る宴での歌の一つであります。時に旅人は66歳、作者憶良は71歳です。

② 大宰府からの帰京は、船によって難波まできます。それから1日足らずの陸路を奈良の都に向かいます。2-1-976歌も同じルートです。当時は平城京が都でありました。その陸路は生駒山地を越えるか避けるかしなければなりません。

 「たつたやま」に「ちかづかば」と作者は詠い、通過する道より、都への近さを強調しています。

③ この歌の「たつたやま」は、大宰府にいる作者にとり、「大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊」という狭いエリアよりも、難波と大和(奈良盆地)の都の間を遮っている山々を指しているのではないでしょうか。難波は船による旅行の終点であり、その後の陸路における最後の障害は、帰路の船上で眺めるであろう山並みであるのは自明のことであり、それを「たつたやま」と表現して、都を目前にしても私らとの縁を絶つようなことはなさらないようにとの願いを、この歌で作者は訴えています。

 難波方面から望む生駒山地は急斜面であり、急に立ち上がったかのようにみえる山々を、「たつたやま」と表現していると思われます。作者が、事前に、難波から利用する道は、「大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊」を通過する道と旅人より聞いていたとしたら、「たつたやま」は、その道を指して言ったのかも知れません。その場合でも、その道は、生駒山地を安全に横断する道として「たつたやま」にあるからこそそのように略称できるのです。その山地の北端の道ということを指すのでは、随分と味気ない歌です。

 だから「たつたやま」に「ちかづかば」という表現で、都に至る時間を問題にし、通過する道を問題としていないことを、明らかにしたとみられます。                                                                      

④ これは、作者の憶良ひとりのみではなく送別の席に連なる官人みんなの認識です。

 この歌は、2-1-83歌と同様に、難波と大和を阻む壁となっている山々を、「たつたやま」と表現した歌です。

 

4.帰路の遣新羅使一行のうちの一人が詠う歌

2-1-3744 廻来筑紫海路入京到播摩国家嶋之時作歌五首(3740~3744)

   おほともの みつのとまりに ふねはてて たつたのやまを いつかこえなむ

 

① この歌の作者名は、無記ですが、詞書より、作者の立場は明らかになっています。

 阿蘇氏は、(作者は)「おそらく5首は一人の作で、作者は副使大伴三中と考えられる。この歌は、無事なる帰京を今ようやく信じることができた使人の歌です。天平9年(737)正月に入京。三中は病気で同時に入京できなかったが3月28日30人が拝朝している」と説明しています。

② 「おほとものみつのとまり」とは、難波津の一つの別名であろうと言われています。大伴は現在の大阪市から堺市にかけてに沿う総名であり、古くは大伴氏の所領であったところから名付けられたと言われています。

③ この歌の「たつたのやま」は、河内と大和を隔てる山塊の意であり、「大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊」という狭いエリアあるいはそのエリアにある官道を象徴すると限定しなくともよい。前者の意でも不都合がない歌です。

 

5.羈旅を詠うよみ人しらずの歌

2-1-1185  羈旅作(1165~1254)

   あさかすみ やまずたなびく たつたやま ふなでしなむひ あれこひむかも

 

① 四句の「ふなで」を、船を出す意、つまり出航の意とすると、作者は、その港にいて詠んだか、船出する人に代わって詠んだ歌がこの歌です。その港から「たつたやま」が望めるかどうかはこの歌の表記からは不明ですが、その港のある地と奈良の都とを遮るものの代表として詠まれていると理解できます。

 大和国の手前にある山並みのなかで通い馴れた道のあるあたりの山塊だけを指す、と限定する必要が薄い。

② この歌の「たつたやま」は、海から「たちあがったかのような、大和を遮るやま」という情況を指す名詞句です。

 

6.その他の雑、秋雑歌および秋相聞の歌

① 雑歌として記載されて歌があります。

2-1-976 雑 四年壬申藤原宇合卿遣西海道節度使之時高橋連虫麿作歌一首幷短歌      高橋連虫麿

   しらくもの たつたのやまの つゆしもに いろずくときに うちこえて

   たびゆくきみは・・・とぶとりの はやくきまさね たつたぢの 

   をかへのみちに につつじの・・・

 

① 藤原宇合卿は、旧暦8月17日に命を受け、同10月11日に節度使の印を賜っています。「しらくも」のわく、あるいは「しらくも」に隠れる「たつたのやま」は、大和川にそう「大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊」という大和川の北岸だけをいうのでしょうか。その北岸の官道から対岸の桜を、作者は別の歌で詠っているように、秋には両岸が「いろずく」のをみることができたのでしょう。ここにいう「たつたのやま」は、官道から見える範囲の左右の山々を指しています。

 「いろづくときに」という表現が実景を詠っているとすれば、官道の左右だけでなく生駒山地全体もいろづいている季節のなかにあるでしょう。生駒山地全部が同時に紅葉しているか、特に紅葉の美しい部分をさして「たつたのやま」と称しています。

② 歌の前段は往路、後段は復路を詠っています。西国に行く旅程において、この歌の「たつたのやま」は、最初に通過すべき山々である河内と大和の間の生駒山地その他を含む山間部を指し、後段の「たつたぢ」は、その山間部を通る道をさしています。

③ 秋雑歌および秋相聞の歌も、すべて「たつた(の)やま」は生駒山地を指していると理解して矛盾はなく、また、北端の山地でないと不都合となる歌がありません。

 その歌を記します。

2-1-2198  秋雑歌 詠黄葉(2192~2222)    作者不明

   かりがねの きなきしなへに からころも たつたのやまは もみちそめたり

 

2-1-2295 秋雑歌 詠黄葉(2192~2222)     作者不明

   いもがひも とくとむすびて たつたやま いまこそもみち そめてありけれ

 

2-1-2218  秋雑歌 詠黄葉(2192~2222)    作者不明

   ゆふされば かりのこえゆく たつたやま しぐれにきほひ いろづきにけり

 

2-2-2298 秋相聞  寄山             作者不明

   あきされば かりとびこゆる たつたやま たちてもゐても きみをしぞおもふ

 

2-1-3953  平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌十二首(3953~3964)  平群氏女郎

   きみにより わがなはすでに たつたやま たちたるこひの しげきころかも

 

④ 2-1-2198歌は、全山紅葉の景です。作者の見える範囲の生駒山地全部が同時に紅葉しており官道の対岸も見える範囲は紅葉のしており、見える限りの山々をさして「たつたのやま」と称しています。

⑤ 2-1-2218歌および2-1-2298歌の「かり」は、作者の目にした「かり」です。すべての雁が生駒山地の北端だけを大和への飛翔ルートとしているとして理解するのは妥当ではないと思います。山地をどこででも越えて大和に飛翔したのではないでしょうか。当時も今も同じように山超えを、かりはしていると思います。

 観察したデータを御存知でしたら教えてください。詩歌や写真に生駒山頂を越えてゆくかりの姿はないでしょうか。

⑥ 2-2-2298歌および2-1-3953歌では、北端の高度の下がった山をイメージするより生駒山などの600m以上のピークのある山塊(山地)のイメージが「たつたやま」表記にあう、と思います。

 

7.たつた(の)やま再考

①「たつた(の)やま」は、前回検討した高橋虫麿歌を、再度検討してみる必要があります。

②次回は、そのことを記します。

 御覧いただき、ありがとうございます。  

 <2017/5/29 >

 

 

 

 

わかたんかこれの日記 700年代のたつたとは

2017/5/25     

 前回、「からころも+たつ 女性往生」と題して記しました。 

 平安時代初期、「からころも」がいろいろの縁語を紡ぎ出しているのを、記しました。

 今回は、「700年代のたつたとは」と題して、初期の「たつた」の検討を記します。

 

1.検討対象

① 「たつたのやま」あるいは「たつたやま」という表記は、「たつた」という土地にある(または、に深い関係のある)「やま」の意であると見ることができます。諸氏は、生駒山地の南端、大和川の北側の山塊としています信貴山の南から大阪府柏原市にまたがる山地一帯の総称として用いられていたのではないかと言われています。今日、その名を冠した山はありません。

「たつた」という名を冠した竜田村が、明治22年以前にあります(現在の斑鳩町に位置します)。また、龍田大社と現在名乗っている神社の地は、明治22年以前には立野村というところであり、竜田村の西南にあたります。諸氏のいう「たつた(の)やま」は、さらにその西側に位置します。

② 「たつた(の)やま」表記の歌は、『萬葉集』からあります。三代集になると、「たつた(の)かは」と「たつたひめ」という表記がみられます。このように「たつた」表記が広がって行く過程に、今検討している1-1-995歌があるので、この歌の作詠時点の前後の期間に、ひろく「たつた」表記された歌の抽出し、「たつたのやま」の意味するところを検討します。

 まず先例を『萬葉集』で確かめ、「ゆふつけとり」表記の検討で対象とした1050年ころまでの「たつた」表記の資料として三代集を採りあげます。

③ 「たつた」表記は、歌の中で句頭以外にも表記されている場合があります。例えば、勅撰集では次のような例があります。

1-09-3301歌  新勅撰和歌集 巻第五 秋歌下  

 秋 秋歌よみ侍りけるに                正三位家隆

   しろたへのゆふつけどりもおもひわびなくやたつたの山のはつしも

4-15-948歌  明日香井和歌集上 仁和寺宮五十首 詠五十首和歌

      秋 十二首 夕紅葉             右兵衛督藤原

   くれかかるゆふつけどりのおりはへてにしきたつたの秋のやまかぜ

 

 今回は、このように句の途中に「たつた」のある歌は、気付いた歌のみ対象に加え、原則は、句頭にある「たつた」表記の歌を検討対象とします。句頭にある「たつた」表記に続いて表記される仮名については、五十音すべてを確認しました。

 

2.『萬葉集』の「たつた」表記の歌

① 「たつた」表記を、『新編国歌大観』所載の『萬葉集』で確かめると、次の表に示すように15首ありました。もう一首「たつたみの」という表記(万葉仮名で「立民乃」)の2-01-2653歌がありましたが、地名あるいは山の名に関係しないのが明らかなので、今考察対象から除外しています(15首に含めていない)。

  表 作詠時点別「たつた」表記の歌一覧(2017/5/19現在)

作詠時点

たつたやま

たつたのやま

たつたひこ

たつたこえ

712以前

2-1-83&起つ

 

 

 

730以前

2-1-881

 

 

 

732以前

 

2-1-976

2-1-1751&起つ

2-1-1753&起つ

2-1-1752

 

736以前

 

2-1-3744

 

 

738以前

2-1-1185

2-1-2215&発つ

2-1-2218

2-1-2298

2-1-2198&裁つ

 

 

 

746以前

 

 

 

2-1-629イ

748以前

2-1-3953&起つ

 

 

 

755以前

2-1-4419

 

 

 

 

 

 

 

 

8首

5首

1首

1首

注1)歌番号等は、『新編国歌大観』による。「629イ」は、629歌の一伝の意で、同書が使用している。

注2)「&起つ」等とは、「たつた」の意に、同音二意の二つ目の意である。一つ目は、共通に「地名とおぼしき名」である。

注3) この15首のほか「たつたみの」(立民乃)とある2-1-2653歌があるが、「地名とおぼしき名」で無いので考察対象から除外している。

 

② 「たつた」表記は、どの歌も地名とおぼしき「たつた」の意があります。さらにほかの意を掛けている歌が6首あります。みな「たつた(の)やま」という表記であり、「たつた(の)やま」に、同音二意を用いていると言えます。

2-1-83歌 ・・・おきつしらなみ たつたやま・・・   「起つ」を掛ける

2-1-3953歌 ・・・わがなはすでに たつたやま ・・・「起つ」を掛ける  

2-1-2215歌 ・・・とくとむすびて たつたやま・・・ 「発つ」を掛ける

2-1-1751歌 ・・・しらくもの たつたのやまの・・・ 「起つ」を掛ける

2-1-1753歌 ・・・しらくもの たつたのやまを・・・  「起つ」を掛ける

2-1-2198歌 ・・・からころも たつたのやまは・・・ 「裁つ」を掛ける

 

③ 「たつた(の)かは」あるいは「たつたひめ」表記の歌はありません。「たつたひこ」は、表にあるように1首ありました。

④ 1-1-995歌と同じように、「からころも」に引き続き「たつた(の)やま」表記のある歌が、1首(2-1-2198歌)あります。

⑤ 句頭にある「たつた」表記を確認していたところ、「たつた」表記がないものの、大和と難波宮の往来に官人が用いていた道の春を、高橋虫麻呂が詠っている歌がありました。諸氏がいう「たつた(の)やま」を越え(あるいは通過し)ている道と思われます。

そのため、当時の「たつたのやま」の実態を検討する材料とすることとします。

⑥ なお、作詠時点は、今までと同様に、2017/3/31の日記に記す推計方法に従っています。

3.『萬葉集』巻九の高橋虫麻呂の歌

① 高橋虫麻呂が、「春三月諸卿大夫等下難波時歌二首幷短歌反歌」と題して4首、また、「難波経宿明日還来之時歌一首合せて短歌」と題して2首詠った歌が、『萬葉集』にあります。2-1-1751歌から2-1-1756歌です。

 前者の作詠時点は、小島憲之・木下正俊・東野治之氏に従うと、高橋虫麻呂の庇護者であった藤原宇合が知造難波宮事として尽力し、その功成った天平4年(732)三月に難波へ下った時点となります。あるいは、その時点の景を後年詠んだ歌かもしれませんが、ここでは、この時点を作詠時点と推計します。

 後者は前者と同一の作者が桜を詠んでいるので、前者と同じ年の歌と推計しました。(記述は推計方法に従い732以前)

② 順に歌を、「たつた」表記を中心に検討します。

「春三月諸卿大夫等下難波時歌二首幷短歌反歌」       高橋虫麻呂

2-1-1751  しらくもの たつたのやま(万葉仮名:竜田山)の たきのうへの をぐらのみねに さきをゐる さくらのはなは・・・

2-1-1752  わがゆきは なぬかはすぎじ たつたひこ(万葉仮名:竜田彦) ゆめこのはなを かぜになちらし

2-1-1753 しらくもの たつたのやま(万葉仮名:立田山)を ゆふぐれに うちこしゆけば たきのうへの さくらのはなは さきたるは ちりすぎにけり・・・

2-1-1754  いとまあらば なづさひわたり むかつをの さくらのはなも をらましものを 

③ 阿蘇瑞枝氏は、『萬葉集全歌講義』において、「1751~1754歌は桜の花を主題とし、題詞の諸卿大夫等下向は歌の本質と関係ない契機に過ぎない。宇合及その周辺の貴族たちに提供された歌であったのだろう」と指摘しています。

④ 2-1-1751歌の「たき」は、大和川の急流を指します。小島憲之・木下正俊・東野治之氏は、「大阪府柏原市峠の亀ノ瀬附近の大和川の急流をいうか」と、指摘しています。

 作者高橋虫麻呂は、難波へと向かう官道が、「大和川の流れをみることができ、山桜が咲いている峰をも近くに見ることができる道である」ということを教えてくれています。その道は「たつたのやま」と称される山塊にあります。

⑤ 2-1-1752歌の「たつたひこ」は、山桜に春風をあてる神かその春風を防ぐことを任務としている神です。「かぜになちらし」と願っているので、後者が妥当ではないでしょうか。

 延喜式巻九の神明帳には、大和国平群郡に竜田比古竜田比女神社二坐とあります。その「竜田比古」を指していません。ペアで祭っている神の一方にのみに祈願するという風習は、聞いたことがありません。

⑥ 2-1-1753歌からは、官道に、青森県奥入瀬の渓谷に沿う道のように、流れにすぐ足を休ませられる道とかうっそうとした木々の木蔭を辿る道というイメージはなく、川の流れを崖下に聞き足元が乾いたしっかりした道、という印象を受けます。

⑦ 2-1-1754歌は、川を挟んで道のある反対の岸にゆくのは簡単ではないことを、難しいのは川を渡ることであることを、示しています。川に流れ込む渓流ではなく道と並行して流れる川(多分大和川)の対岸の山桜をイメージしていると理解できます。

⑧ 「難波経宿明日還来之時歌(難波で一泊し翌日帰って来た時の歌)一首合せて短歌」

2-1-1755歌 

  しまやまを いゆきめぐれる かはそひの をかへのみちゆ きのふこそ わがこえこしか ・・・ をのうへのさくらのはなの・・・きみがみむ そのひまでには やまおろしの かぜなふきそと うちこえて なにおへるもり かざまつりせな  

2-1-1756歌

  いゆきあひの さかのふもとに さきををる さくらのはなを みせむこもがも 

⑨ 2-1-1755歌の「しまやまを いゆきめぐれる かはそひの をかへのみち」を、阿蘇氏は、「島山を行き巡っている川沿いの岡辺の道」と現代語訳しています。

「をかへのみち」とは、「岡へと向かっている道」であり、この歌は、大和国から河内国へ向かう道の道順の景色を表現しています。即ち、「(大和盆地を河内に向かう道は、山にかかり)川に並行した道を、その川に直角の谷の尾根尾根を九十九折に順に辿ってゆく道(山腹を縫うように作られている道)となりそのように山が迫ってきているところを通過すると、川沿いのなだらかな岡にたどり着く道」(を昨日通過して・・・)の意となります。 

⑩ 2-1-1755歌の「なにおへるもり」とは、「名に負へる社」の意であれば、その杜は、神社を囲んである森林を指し、神をまつってある場所を指しています。比喩的にそのまつっている神を指す場合もあります。この時代の社であればこのように形容できる状況が通常です。つまりどこにでもある社です。昭和の時代でも鎮守の杜というのはどこにでもある光景でしたし、今でも同じでしょう。

⑪ 2-1-1755歌の「かざまつりせな」について、阿蘇氏は、「風祭りは、風災を鎮め豊作を祈る祭り。また花を散さないでくれと風に祈る花鎮めの祭りにもいう。ここは、後者。鎮花祭は、大神、狭井二社の祭。春花の飛散する折の疫病を鎮めるための祭りという。」と解説しています。しかし、前者も後者も朝廷が主催する祭であり、作者が「かざまつりせな」と指示できる祭ではありません。疫病退散ではなく花を散さないでという理由で個人的に大神、狭井二社を祭ることをするでしょうか。

 作者の虫麻呂は「たつたのやま」を越えているところです。国堺とか郡堺とか峠とかにまつられている「たむけの神」に祈ったのではないでしょうか。

⑪ 「あふさか」の検討で採りあげた2-1-1022歌には、詞書に「相坂山を越え」とあり、歌に「たむけのやまを けふこえて」とあります。このほか、「あふさか」を越える際には、2-1-3251歌で「あふさかやまに たむけくさ 」と詠い、2-1-3235歌で「あふさかやまに たむけして 」と詠われています。

 「たつたのやま」を越える道にも同じような「たむけの神」がまつられていたと理解してよいと思います。その「たむけの神」に花を散すなと、祈った、ということです。

 2-1-1752歌の「たつたひこ」は、この「たむけの神」であるかもしれません。

⑫ 2-1-1756歌の「いゆきあひの さか」について、『新編日本古典文学全集 7万葉集②』で、小島憲之・木下正俊・東野治之の三氏は、「「い」は接頭語。国境の坂。隣り合った国の境を双方の国の神が同時に出発し、出逢った地点で決めたという「行き逢い坂」の伝説は各地にある。ここは、大和と河内との境にある亀ノ瀬の北の地名峠の辺りをさしたものであろう。」と指摘しています。

 阿蘇氏は、行逢坂がほとんどの場合、山の峠ではなく、一方へ山を降りたところの国境などに偏って存在していることに注目した井出至氏が、(この歌の)「いゆきあひの坂の麓は、竜田の風神が大和側に祀られていることなどを考え合わせて、竜田山の大和側の山麓であった」ものと推定していることを、紹介しています。

⑬ 2-1-1756歌は、2-1-1755歌の反歌です。「かざまつり」という祭を作者がしようとする「たむけの神」が「たつたのやま」を降りきったところに鎮座していたと思われます。人家の無い場所と思われます。

⑭ 高橋虫麻呂のこの6首の歌からは、次のことが読み取れました。

大和国河内国の往来に使用している官道は、山腹を縫うように作られている道であること。

大和国側の山の麓から急坂となること。 そのため並行する川を見下ろす道となること。

・その麓には山桜が咲き誇ること。

・その山桜を愛でるのは旅人であり、山の麓にも集落が無いようであること。

「たつたのやま」という表記は一つのピークではなくこのような官道が通過する山塊を指していること。

⑮ 当時、難波と奈良の都とを結ぶ官道に、竹内峠を通過する道などがありますが、対岸に桜を採りに行きにくい川があるのは大和川に沿った道です。

 これらから、大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側には、山腹を縫うように作られた官道が通過して、その通過する山塊を「たつ(の)やま」と高橋虫麻呂が言っていることが確認できました。このやまは、諸氏が既にいっている山塊と同じです。

 では、2-1-83歌などの作者も、この山塊を「たつた(の)やま」と歌に詠っているかを、次に確認します。

 次回は、引き続き700年代のたつたのやまについて記します。

御覧いただき、ありがとうございます。

<2017/5/25  >

 

わかたんかこれの日記 からころも+たつ 女人往生

2017/5/22  前回、「三代集のからころもも   外套」と題して記しました。 

 900年代の「からころも」が、官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着ですが、例外として衣裳一般の意の歌があることを指摘しました。

 今回は、「からころも+たつ 女人往生」と題して、記します。

 

1.「からころも」表記が、「たつ」を形容している歌

① 「からころも」表記に引き続き「たつたのやま」表記のある歌は、『萬葉集』と三代集で5首あります。作詠時点順に示すと次のとおり。

2-1-2198歌 738以前   巻十 秋雑歌 詠黄葉  よみ人しらず

1-1-995歌 849以前   巻十八 雑  よみ人しらず

1-2-359歌 905以前   巻七 秋  よみ人しらず

1-2-383歌 905以前   巻七 秋  よみ人しらず

1-2-386歌 945以前   巻七 秋  つらゆき

 秋の紅葉を、4首詠んでいます。最初の歌(2-1-2198歌) でいうと、「たつ」表記は、衣を「裁つ」という動詞と地名の「たつた」を掛けて詠んでいます。

 「からころもたつ」とは、「からころも」表記の衣(外套)を所定の形に仕立てる意、となります。仕立てた衣を「たつたのやま」に見立てていることになります。

 「からころも」が毎年秋に新調されて、着馴れてゆくのが、紅葉の山が出現し、そして落葉の山へと移ることの比喩となり得ています。

② 残りの1首(1-1-995歌)は、しかし、部立が「雑」の歌であり、「からころも」の表記があるからと言って「紅葉したたつたのやま」を詠んでいると断言するには、一抹の不安があります。

③ なお、つらゆきの歌の作詠時点は、この歌が貫之の没年以上遡れなかった結果の「945年以前」であり、20年、30年作詠時点が遡ったとしても不思議ではないところです。『五千和歌集』のよみ人しらずの歌も、推計ルールとして直前の勅撰集成立としているので、つらゆき歌同様20~30年の遡ることは有り得るところです。

④ 「からころも」表記に引き続き「たつたのやま」表記以外の「たつ」のある歌は、『萬葉集』に無く、三代集で6首あります。作詠時点順に示すと次のとおり。

 1-1-375歌 849以前 巻八 離別 よみ人しらず

  「たつ」の意は、裁つと発つ

 1-2-539歌 905以前:後撰集 巻九 恋 よみ人しらず 

  「たつ」の意は、裁つと(うわさが)起つ

 1-2-713歌 905以前:後撰集 巻十一 恋 よみ人しらず 

  「たつ」の意は、裁つと発つ

 1-2-1317歌 948以前 巻十九 離別羈旅 女 

  「たつ」の意は、裁つと発つ

 1-3-1189歌 955以前 拾遺抄 巻十八 雑賀 よみ人しらず 

  「たつ」の意は、裁つと竜(の口)

 1-3-321歌 964以前 巻六 別 よみ人しらず 

  「たつ」の意は、裁つと発つ

 

 同音二意の例は、『万葉集』に既に 「あふ(逢うと相坂)  」があり、『古今和歌集』のよみ人しらずの時代から、このように増えてきています。三代集では、「たつ」のほか、「ゆふ」、「から」、など多くが用いられています。  「からころも」を折りこんだ業平の1-1-410歌が数語の同音二意をもちいていることを諸氏が指摘しています。

⑤ また、「たつ」は、このように、多くの意味があり、「からころも」がもともと外套という衣類の一種であって「ころも」の総称・美称に容易に変容できたことから相性の良い組み合わせとなったのではないでしょうか。

⑥ 「たつたのやま」表記の検討をこの後に行いますが、三代集では、「からころも」表記に合せた「たつたやま」表記がなく、すべて「たつたのやま」の表記でありました。これは『萬葉集』での表記と同じであります。(それは五七調という制約の詩であることも理由の一つであると思います。)

 

2.「からころも」の縁語

①「からころも」は、多くの縁語を持っています。『万葉集』で「からころも」表記の歌7首では、「たつたのやま」のほか「きなれ(着馴れ)」とか「き(着)」、衣の一部の名称である「すそ」があります。

② 三代集の39首では、これらの外に、上記の「たつ(裁つ・発つ等)」、「かへす、かく、よそふ」などが新たに用いられています。

 衣の一部の名称では「すそ」のほか「ころも」「たもと」そで」が新たに用いられています。

③ 三代集に、「たつ」が、竜の口をも指した歌があります。

 

3.「たつ」に「竜」を掛けた歌

1-3-1189歌    灌仏のわらはを見侍りて       よみ人しらず

   唐衣たつよりおつる水ならでわが袖ぬらす物やなになる

① 灌仏とは、4月8日の釈迦誕生日を祝う灌仏会の略称であり、現代の花祭に相当する恒例の儀式を指します。これは、当時の上流貴族が行った時の歌です。

 その儀式において所定の役を担っている「わらは」が務め終り、かつ注いだ甘露が竜の口から誕生仏(像)にかかっているのをみて、自分の袖も濡れているのに気付いたのが作者です。

② 『拾遺和歌集』では、巻第十八「雑賀」に置かれている歌です。(同様の歌が、『拾遺抄』巻第九「雑上 百二首」にもあります(1-03'-448歌))。

 雑賀の巻頭歌(1-3-1159歌)は、紀貫之の「延喜二年五月、中宮御屏風、元日」と詞書のある歌です。朝議を詠う歌ではありませんが、元旦を迎えたことを寿いだ歌です。

 また、次の歌もこの部にあります。

 1-3-1162歌や1-3-1172歌 子の将来を予祝して詠う

 1-3-1185歌 人の変心を物に寄せて詠う この歌から以後は、男女の間のことに関して詠う歌が続く

 1-3-1207歌 昔の交友を回想し詠う 

 1-3-1209歌 巻尾の歌である。突然の出家に唖然とする家人が詠う

③ 『拾遺沙註』は、この歌について思慕して流す涙といっていません。作者の袖を濡らしたのは、童を恋う涙ではない、と言っています。

④ 朝廷の灌仏会は、神事と重なると停止されることが多く平安中期には内裏で行われることが少なくなって、東宮や中宮などで行われるようになります。作法は内裏に準じていたと思われます。上流貴族もそれにならって行います。

 『八代抄』に曰く「本云、灌仏日、女御布施、童女持参。殿上人扶持、如五節。」

 灌仏会は男が中心で行い、女は、不浄なものとして間接的にあるいは、別に参加して仏縁を結ぶという状況でした。女御・更衣などは男子が終わったあとに、布施を間接的にさずけ灌水しました。

⑤ 灌仏会の天蓋を「からころも」(外套)で表現していると理解しました。その材質は華美なものであることを初句の「からころも」が示唆しているかもしれません。

⑥ わらはとは、「元服」(男子が成人になったのを祝う儀式であり、平安時代初期では多くは10歳から16歳の間に行われた)を、していない子、またそのような男に対応する女の子を指します。また、その姿を指します。

 竹鼻氏は、ここでは、灌仏会の行事に奉仕する童女灌仏会に女御の布施を持参する女童(めのわらは)。但し仏前に運ぶのではなく、女房達の布施を蔵人に渡す段などでの役を務め幼い子を言う、と説明しています。

『拾遺沙』での「わらは」の表記をみると、232歌の詞書の「わらは」は人の子。

448歌の詞書の「わらは」は人の子。533歌の「わらは」は人の子(権中納言実資の子どもの頃) であります。

⑧ この歌は、「雑賀」の部に置かれている歌です。1-3-1185歌以後の悲恋に終らないようにと訴えるのが、「賀」であるというかのような歌が続いています。少なくとも撰者の意は、次の巻の「雑恋」にはこれらの歌は含められないという決心をしているとみえます。

⑨ さて、当時の女性の立場です。竹鼻氏は、「当時、女性は女性である限り救われなくて、生まれ変わった後の精進の結果で救われる成仏する。大人にまじって、晴の儀式に殊勝にふるまっている童女をみて、童女の成仏までの長い道程を思い、口から注いでいる竜と釈迦像と童女からがれる王と童女から竜女成仏のことを連想したか。」と指摘しています。

⑩ 五句の「なになる」とは、作者の感涙です。「人身受け難し既に受く。仏法聞きがたし既に聞く。」という状況に自分があり、さらに女人であるが、灌仏会で女性からのお布施のものの中継ぎをする役を務めている幼い子が役を務め終ったのをみて、仏縁の深まったことを確信した作者自身涙したことです。

⑪この歌の作者は、女性であるはずです。

 

4.当時の仏教と死体の始末

① 当時の仏教について、確認します。

 神仏の習合は奈良時代にも行われています。本地垂迹説を説き、神前で仏教経典が読まれたり官社に僧侶が置かれたりしました。仏教を守る存在として寺院に鎮守の神として祀られるようになった八幡神は、このような神仏習合神として最も早くまつられた神であります。

 長岡京から平安遷都した桓武天皇の末年、最澄空海は、国家に対して宗派としての主体性をもった天台・真言両宗を立てました。しかし天皇家や上流貴族の支持がなければ存立は難しく、庶民の支持にのみ頼れない状況であり、氏族というより家単位で寺の維持が図られました。灌仏会天皇・春宮・藤原道長家という家単位で行われています。

② 灌仏会は男が中心で行うものです。女は、不浄なものとして間接的にあるいは、別に参加し仏縁を結ぶ以外ありませんでした。

③ 日本では女性の生理(月経と出産)を不浄とみる民俗があり、神は不浄を忌むというところから神道的神事も男性中心に行われてきています(と言われています。延喜式巻五・神祇五は斎宮(いつきのみや)に充てられ「凡天皇即位者。定伊勢太神宮齋王。・・・」云々と斎王の規定があり、これは女性です。でも、上流貴族の奉仕する祭では、祭主は確かに家長(即ち、男子)が、勤めています)。

 このため、この観念は日本にもたらされた仏教の女性観と抵触せず、そのため仏教においても様々な女性差別が見られました(と言われています)。

 女性の仏教修行も認められ、最澄は『法華経』の竜女成仏を例として即身成仏を説き、空海も男女、身分にかかわりなく万人が仏教徒いう器といっています。

 しかし、比叡山に女人禁制を最澄が定めてのち高野山大峰山も同様とされました。後代の鎌倉期に法然は、阿弥陀仏の第十八願(念仏往生の願)と第三十五願(女人往生の願)を合わせ、変成男子のかたちで女人往生を説きました。

 道元は、修行と成仏に関して徹底した男女平等を説いて、当時の大寺院における女人禁制を強く批判しています。

④ 庶民は、死後風葬されました。平安時代、京の庶民は、死骸を三大風装地とひとつの水葬地に運んで野辺送りをして捨てました。

⑤ この時代には、旱魃・洪水・地震などの災害が相次ぎ深刻な飢饉と疫病の蔓延がありました。寺に弔って葬られる死者は、高僧か高貴な身分の者に限られ、民衆には葬式も墓も許可されていません。

 都は、野垂れ死の死骸が道端にごろごろし糞尿やほこりが舞っていました。鳥辺野は平安時代、京の三大風葬地のひとつであり、東山三十六峰のひとつ、音羽山から阿弥陀ケ峰の麓、東福寺にいたる一帯を指します。修行僧は、野晒にされた民の死体を集めて荼毘にふし、鳥辺野の山中に阿弥陀堂を建て供養しました。六道珍皇寺は鳥辺野の風葬地を管理し死者に引導を渡す場所でありました。

⑥ 三大風葬地とは、鳥辺野(とりべの、音羽山から阿弥陀ケ峰の麓、)、化野(あだしの、嵐山の麓)、及び蓮台野(船岡山の麓)です。

 鴨川の川原(三条河原~六条河原)は水葬地でありました。鴨川の一番大切な役割は、洪水時に、死者の遺体を流し去ることでありました。

⑦ 政治的には、貴族たちの支配権が衰え僧兵が横暴を極め武士が進出してきている時代です。宇治の平等院鳳凰堂建立が、今1-1-995歌のための検討対象期間としている期間(~1200年)の下限に近い1053年です。

⑧ 雑の部に置かれる「からころも たつたのやま」の解明は進みませんでしたが、次回は、たつたのやまを中心に、記します。

 御覧いただき、ありがとうございます。

<2017/5/22 >

 

わかたんかこれの日記 三代集のからころもも 外套

2017/5/19    前回、「萬葉集のからころも」と題して記しました。 

 700年代の「からころも」は、官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着を指す、と推定しました。

 また、『萬葉集』では、「からころもたつたのやま」表記のある歌が1首ありました。2-1-2198歌であり、人事を詠っていない、秋雑歌の歌です。

今回は、「三代集のからころもも 外套」と題して、記します。

 

1.三代集のからころも

① 1-1-995歌の詠まれた時代を含む『古今和歌集』編纂時前後における歌人たちの「からころも」の認識を検討します。

 成立年代が、それぞれ、西暦905年、955年、1007年と言われている『古今和歌集』、『後撰和歌集』および『拾遺和歌集』の三代集に記載の歌は、西暦1000年までの歌が大半であります。『新編国歌大観』により三代集で「からころも」表記の歌を抽出すると、下記の表のように、全部で39首ありました。

② この表は、推計した作詠時点順・歌集順・歌番号順としています。よみ人しらずの歌は直前の勅撰集の成立時点等としています。

③ 「からころも」表記について、700年代の意で解釈できるかを確認し、別に生じた意があればそれを整理しました(この表に加えてあります)。

 その結果、よみ人しらずの歌21首は、すべて700年代の意の「からころも」表記をしており、そのうち6首がさらに女性などの意を含めていると推定できました。

 作者名の明らかな歌18首は、うち15首が700年代の意の「からころも」表記をしており、3首にはその意がないと推定できます。前者のうち4首にはさらに女性などの意を含めていると推定できました。

④ 「からころも」という表記について、片岡智子氏が三代集を含めて検討した結果の方向は、適切なものでありました。官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着は、700年代以後も1000年代に至るまで「からころも」という表記で表され、「からころも」という表記は、さらに別の意味をも800年代以降獲得した、と言えます。

表 「からころも」表記のある三代集の歌の「からころも」の意味別作詠時期別分類

時期

外套の意(官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着)

衣裳(美称)の意

外来の服の意

歌数の計(首)

単独

衣裳も

女性も

着用者も

 

女性も

 

~850

 

1-2-729(冬嗣)

 

 

 

 

1

851~900

1-1-515

1-1-865

1-1-995*

1-1-410(業平)

 

1-1-375

 

 

1-1-572(つらゆき)

 

6

901~950

1-2-313

1-2-359

1-2-383

1-2-622

1-2-713

1-2-1329

1-2-519

1-3-149(つらゆき)

1-2-529(桂のみこ)

1-2-386(つらゆき)

1-2-660(つらゆき)

1-2-746(右近)

1-1-576(ただふさ)

1-1-786(かげのりのおほきみ)

1-2-539

1-2-848

1-2-948

1-2-1317(女)

1-2-1316

(公忠)

 

1-2-1328

 

1-2-849

 

1-3-327(つらゆき)

 

 

1-1-808 (いなば)

1-1-697(つらゆき)

24

951~1000

1-2-1114(雅正)

1-3-703

1-3-1225

1-3-1189

1-3-321

1-3-326(三条太后宮)

1-2-804(源巨城)

1-3-704

 

 

 

 

 

8

歌数(首)

22

4

 

3

 

2

 

1

 

39

注1)歌番号等は『新編国歌大観』による。

注2)*印の1-1-995歌は、仮に「外套(単独)」に整理している。

注3)「からころも」の意味の分類は次のとおり

・外套:700年代におけるから「からころも」の定義:官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着

・衣裳(美称):上記の外套の意を含まず、衣裳一般の美称。(外来の服の意を除く)

・外来の服:上記の外套や衣裳の意を含まず、外来した美麗な服

・衣装も:外套の意のほか衣裳一般の意あり。

・女性も:外套の意のほか女性の意あり。

・着用者も:外套の意のほかその外套を着ている人の意あり。

注4)赤数字の歌番号等の歌以外の作者は、よみ人しらず、である。

 

⑤ 『後撰和歌集』と『拾遺和歌集』のよみ人しらずの歌の作詠時点は、推計方法で一律に直前の勅撰集の成立時点としていますので、さらに時点が繰り上がる歌もあると思われます。

⑥ 作者名の明らかな歌の作者別内訳は、貫之が6首、業平・冬嗣ら12人が各1首です。

⑦ 700年代の意がない歌は、貫之の6首のうち2首といなばが作者の1首です。貫之は色々言葉の使い方にチャレンジをしています。業平の歌は、実物の「からころも」の特徴を十二分に利用して妻への想いと旅情を詠った傑作と言えます。

⑧ なお、1-1-995歌は、よみ人しらずの歌なので、解釈は今保留したまま、仮に「外套(単独)」に整理しています。

 

2.業平の歌貫之の歌など

①700年代の「からころも」(官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着)の意で解釈できた歌を、例示します。

 

1-1-410  羈旅歌    あづまの方へ友とする人ひとりふたりいざなひていきけり、みかはのくにやつはしというふ所にいたれりけるに、その河のほとりにかきつばたいとおもしろくさけりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふもじをくのかしらにすゑてたびの心をよまむとてよめる           在原業平朝臣

   唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ 

 片岡智子氏は次のように評しています。

・これほど「からころも」という歌語を生かし切った歌もなかろうと思う。ここでも「からころも」は旅装。しかも妻が縫ってくれたもの。

・「きつつ」は、着ると来る、「なれ」は、萎れると馴れる、を掛ける。「からころも」が、最初はごわごわしており、着ていると、次第に萎えてくるものであることを表わしている。それは、次の「はるばる」が、遠くへやってきた(意の)副詞と張る(という動詞)とを掛けてあることから、さらに具体的に明らかになる。また、この表現から「からころも」が糊付けけしてあったこともわかる。

・「つま」は、衣の褄と愛しい妻、を掛ける。「からころも」は、襟に特徴のある衣服だった。前身頃が左右に返されると裏が表に出る。衣の襟が直接表に出て、目立つことになる。「し」、と強調されて、(「つま」は「からころも」の)特有の縁語となり、愛しい妻の存在もはっきり浮かび上がってくる。

・妻が糊付けして張ってくれて強かった衣も旅を経て来ると萎えてしまう。それを着ていると、ほんとにはるばる来たものだという旅の感懐が、別れた妻へのいとしさ、なつかしさの情を伴って身内からこみあげてくる。

・そんな旅情が、「からころも」と、それによって導き出される縁語、掛詞によって身体的に表現された名歌といえよう。

 

1-2-849 恋     返し                  よみ人しらず

   怨むともかけてこそみめ唐衣身になれぬればふりぬとかきく 

 現代語訳を試みると、「お怨みになるとしても、心にかけて貴方の行動を私はじっと観察しなければ。からころもは身に馴れるようになったら、古い(使えなくなった)と捨てられるように、あなたとの関係が密になったらたちまちあなたから古い女にされてしまいますから。」

 

1-3-149  秋    延喜御時月次御屏風に             つらゆき

   たなばたにぬぎてかしつる唐衣いとど涙に袖やぬるらん

 牽牛が借りたいと言ってきたのは、臨時に必要になった外套です。七夕の日に装う服は1年かけて準備をしてきているのではないでしょうか。

 

1-2-386歌  秋   題しらず                  つらゆき

   から衣たつたの山のもみぢばははた物もなき錦なりけり 

 「からころもたつたのやま」という表記の歌は、4首ありますが、すべて秋・秋雑の部の歌です。2-1-2198歌も秋の歌です。片岡氏は、「からころも」は、「秋」に「妻が縫う」もの、と言っています。秋には毎年新品の「からころも」がある、ということになります。

 

② 700年代の「からころも」の意のほかに、さらに女性の意もある歌を、例示します。

 

1-1-786歌 恋   題しらず             かげのりのおほきみ

   唐衣なれば身にこそまつはれめかけてのみやはこひむと思ひし

 片岡智子氏は、「衣桁に掛けてだけ恋いそうとはおもわなかった」と評していますが、現代語訳の試みると、次のようになります。

「外套は、何回か着るとなよなよと身にまとわりつくようになってしまう。そのように馴染みを重ねた女なら、私の心がまといつくのももっともだが、外套を着て来たものの脱ぐこともなく逢うことが叶わないでいるのに、貴方が、これほど心にかかって空しい気持ちを味わうとなろうとは、かって思ったことがあっただろうか。」

 

1-2-848歌  恋   女につかはしける            よみ人しらず

   中中に思ひかけては唐衣身になれぬをぞうらむべらなる 

 現代語訳を試みると、次のとおりです。

「いっそ徹底してあなたを懸想すればよかった。外套が何か体にしっくりこないのが気になるように、貴方が馴れ親しんでくれないのを、怨むことになりますよ。」

 

③ 700年代の「からころも」の意では解釈が難しい歌を示します。3首あります。

 

1-1-572歌 恋   寛平御時きさいの宮の歌合のうた         つらゆき

   君こふる涙しなくば唐衣むねのあたりは色もえなまし 

 片岡氏は、しかし、胸の真中辺が開いている「からころも」の特性に着目して「むねのあたり」といったものであろう、と評しています。

 現代語訳を試みると、「あなたを恋しく思い流す涙がないとしたら、私の着物の胸のあたりは、焦がれる思い火で、唐紅で染まったように赤く燃えてしまうだろうに。」と、なります。「からころも」は、衣の美称と理解しました。

 

1-1-697歌  恋   題しらず                   つらゆき

   しきしまややまとにはあらぬ唐衣ころもへずしてあふよしもがな

 片岡氏は、「あふよしもがな」で、(からころもと称する服の)前見頃が合うこともないと、逢うこともない、の万葉以来の表現を用いている、と評しています。「からころも」表記は、衣裳一般(美称)と女性の意を兼ねています。

 現代語訳を試みると、次のとおりです。「しきしま」にも「やまと」にもない「から」由来の衣服、と作者は詠っています。

 「旧都の奈良の都にも、いや日本のどこにもない唐渡来の衣裳のようなあこがれのあの女性に、いくばくもしないうちに、会うてだてがほしいものだ。」

 

1-1-808歌 恋   題しらず                    いなば

   あひ見ぬもうきもわが身のから衣思ひしらずもとくるひもかな

「からころも」は、外套ではなく、衣裳一般(美称)ではないでしょうか。この歌は、外套の特徴に触れていません。「から」は、原因となる物事を示す格助詞の「から」と「からころも」の「から」をかけています。

 片桐洋一氏は『古今和歌集全評釈(中)』(講談社1998/2)で、

「お逢いできないのも、そのためにつらい気持ちでいるのも、すべては我が身から招いたこと。そのような私の気持もわからないで、いかにもあの人が思っていてくれるかのように私の衣の下紐が解けることでありますよ。」と示しています。 

④ このように、700年代と比べると、三代集の時代は「からころも」は、従来の意のほか色々の意や言葉が掛けられて用いられてきています。

 次回は、からころもに関する歌人の研鑽について記します。

 御覧いただき、ありがとうございます。

<2017/5/19 >