2017/4/20 前回、「暁に鳴く鳥」と題して記しました。
今回は、「奈良時代のあふさか」と題して、記します。
ゆふつけ鳥を詠う最古の歌の3首は、作詠時点推計方法の限界で、同時期となっています。そのうちの2首に「あふさかのゆふつけ鳥」とあります。「あふさか」に対する当時の歌人のイメージを確かめ、最古の歌3首でのゆふつけ鳥の意味を問うこととします。
1.最古の3首
① 作詠時点が849年以前と推計した最古の歌は、よみ人しらずの次の3首です。
1-01-536歌
相坂のゆふつけ鳥もわがごとく人やこひしきねのみなくらん
1-01-634歌
こひこひてまれにこよひぞ相坂のゆふつけ鳥はなかずもあらなむ
1-01-995歌
たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣たつたの山にをりはへてなく
「相坂の」と言う形容は、これらの歌の以後、ゆふつけ鳥についたりつかなかったりしています。ゆふつけ鳥のほか、「相坂のゆふつけ鳥」ということに、歌人に共通のイメージがあるのかもしれません。
② その時代の言葉は前後150年程度の期間で検討する方針ですが、「あふさか」表記は、地名をも指すことがありますので、起源説話の確認から検討を始めます。
2.起源説話
① 『日本書紀』に、逢坂の文字があります。
「巻第九 神功皇后(摂政元年三月)」に「武内宿禰出二精兵一而追之。適遇二于逢坂一以破。故号二其処一曰二逢坂一也。」とあります。
現在の滋賀県大津市の逢坂という地名の、地名起源説話であるといいます。
また、相坂という文字もあります。「巻第二十五 孝徳天皇(大化二年(646)正月)」に、 改新の詔第二において、畿内を定義する際,
東自二名墾横河一以来、南自二紀伊兄山一以来、 西自二赤石櫛淵一以来、北自二近江狭々波合坂山一以来為二畿内国一。
(訳:東は名墾の横河からこちら、南は紀伊の兄山(せのやま)からこちら、西は赤石(あかし)からこちら、北は近江の狭々波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま)からこちらを、内国(うちつくに)とする。)
② 現在の志賀県京都府境付近の山を指して「近江の狭々波の合坂山」と記されています。「狭々波」とは、滋賀県大津市西北一帯の地の総称で、琵琶湖の小波(ささなみ)の寄せる地域という表現が湖西の大津や志賀を含めた大地名となったそうです。
③ 「あふさか」には、逢う坂の意がもともとあるということです。当時の中心地である現在の奈良県からみると、国堺の山を越えた向こう側の地名です。
3.『万葉集』の「あふさか」表記
① 『万葉集』には、「あふさか」表記の歌があります。次の表に示します。歌ではなく詞書に万葉仮名で「相坂山」と記している歌が1首(1022歌)ありましたので、あわせて示します。
表 『萬葉集』における「あふさか」表記の歌一覧
作詠時点 |
歌番号 |
歌 (作者) |
あふさかの万葉仮名 |
山名か峠名か地名か |
万葉仮名「相」に逢ふが |
備考 |
73):天平9年(詞書) |
1022 |
ゆふたたみ たむけのやまを けふこえて いづれののへに いほりせむわれ(大伴坂上郎女) |
(詞書に)相坂山 |
峠 |
―― |
萬葉集巻六 |
738以前:巻十のよみ人しらずの歌 |
2287 |
わぎもこに あふさかやまの はだすすき ほにはさきでず こひわたるかも (よみ人しらず) |
相坂山 |
峠 |
掛かる |
巻第十 秋の相聞 |
738以前:巻十三のよみ人しらずの歌 |
3250 |
・・・やましなの いはたのもりの すめかみに ぬさとりむけて われはこえゆく あふさかやまを (よみ人しらず) |
相坂山 |
峠 |
―― |
巻第十三 雑歌 |
738以前:巻十三のよみ人しらずの歌 |
3251 |
・・・うじかはわたり をとめらに あふさかやまに たむけくさ ぬさとりおきて わぎもこに あふみのうみの おきつなみ (よみ人しらず) |
相坂山 |
峠 |
掛かる |
巻第十三 雑歌 長歌 |
738以前:巻十三のよみ人しらずの歌 |
3252 |
・・・あふみぢの あふさかやまに たむけして わがこえゆけば ささなみの しがのからさき さきくあらば またかへりみむ・・・ (よみ人しらず) |
相坂 |
峠
|
―― |
巻第十三 雑歌 反歌 |
738以前:巻十三のよみ人しらずの歌 |
3254 |
・・・あふみぢの あふさかやまに たむけして わがこえゆけば ささなみの しがのからさき さきくあらば またかへりみむ・・・ (よみ人しらず) |
相坂山 |
峠 |
―― |
巻第十三 雑歌 長歌 |
741以前:流罪大赦以前 |
3784 |
わぎもこに あふさかやまを こえてきて なきつつをれど あふよしもなし (中臣朝臣宅守) |
安布左可山 |
峠
|
掛かる
|
巻第十五 相聞 |
注1)歌番号は、『新編国歌大観』による。
② 歌に、「相坂山」と記している歌が4首、「相坂」と記している歌1首、及び「安布左可山」と記してある歌1首があり、「あふさかのせき」表記の歌はありませんでした。
なお、『古今和歌集』と同様の時期の成立の可能性をこの論で残している『猿丸集』には、「あふさか」表記の歌はありませんでした。
③ 万葉仮名で相坂(山)という表現の歌では、「あふみじの」と形容したり、「たむけ」をしたり、「こえる」と言う意の言葉も歌に用いられており、自然の山全体を指すのではなく、峠あるいは(峠を越えてきた道が通る)地名を意味しているといえます。畿内の定義で、北は、「近江の狭々波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま)からこちら」と規定しており、万葉仮名で相坂(山)と言う表現には、山の名というよりも地名の印象の強いものであったと理解できます。
2287歌も、自然の山の斜面を行く峠道からの景であり、自然の山全体を指していません。3784歌は万葉仮名で「安布左可」であり、五句の「あふ」表記は「逢ふ」意ですがここも万葉仮名で「安布」として、「逢ふ」意を明確にしています。
④ 歌のなかで「ゆふつけとり」表記の「ゆふ」に「逢ふ」意を掛けている歌が6首中3首あります。
⑤ このように、「あふさか」表記に、作詠時点が700年代前半は、畿内の北縁の峠あるいは峠に通じる道がある土地の名というイメージと、逢うというイメージの二つを歌人は持っていたと言えます。
萬葉集の異伝が含まれている歌集のあることが周知のことなので、これらの歌のいくつかは(あるいはこれらの模倣歌は)伝承歌として800年代の歌人の手元に記録されていた可能性が、充分あったのではないでしょうか。
⑥ これは、当時の公文書に関しては、大化の改新の詔などわずかしかみていない段階での判断です。
⑦ なお、「あふさかのせき」表記の歌は、『萬葉集』に事例がありませんでした。
⑧ 詞書に万葉仮名で「相坂山」と記している歌について記します。
2-01-1022歌 萬葉集巻六
(天平9年(737))夏四月大伴坂上郎女奉レ拝二賀茂神社一之時便超二相坂山一望二見近江海一而晩頭還来作歌一首
ゆふたたみ たむけのやまを けふこえて いづれののへに いほりせむわれ
詞書によれば、この歌は、大伴坂上郎女(一行)が、四月の賀茂神社の祭を見物にゆき、そのついでに相坂山を越えて近江の海(琵琶湖)を遠く望み、夕方平安京にある自宅に戻りました。そして大伴坂上郎女がその日のうち作った歌です。その日の移動距離を考えることにします。
地図でみると、賀茂神社から山城国と近江国境まで直線距離で10kmもなく、山城国と近江国境から平安京まで直線距離で約35kmです。賀茂神社周辺から相坂山経由で徒歩によっても12時間程度の距離になるでしょうか。騎乗での移動であったら明るいうちに自宅にたどり着いたのではないでしょうか。
この歌は、ねんごろに幣を捧げて、旅の安全を祈った山(相坂山)を今日越えて、さらに東に向かうとしたらば、今日はどのあたりの野原に仮寝をすることになるのでしょうか、私どもは。(おかげさまで私どもは無事、都の家にたどり着きました。)と、詠っています。
畿内の北の涯に来たという感慨を詠っているというよりも、そのような野辺に仮寝をすることなく都にその日のうちに戻りつき旅行が無事終わったことを、今日幣を手向けた相坂山におわす神に感謝の気持ちを詠ったようにおもわれます。
作詠時点は、歌の並び順から天平9年(737)以前と推計しました。
天平9年は、天然痘が九州から流行りはじめ、平城京でも猛威を振るい、4月の藤原房前に始まり藤原4兄弟が亡くなり、橘諸兄が大納言になり翌年右大臣となっています。
⑨ 次回は、萬葉集以後の「あふさか」に関して記します。
ご覧いただき、ありがとうございます。