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わかたんかこれの日記 700年代のたつたとは

2017/5/25     

 前回、「からころも+たつ 女性往生」と題して記しました。 

 平安時代初期、「からころも」がいろいろの縁語を紡ぎ出しているのを、記しました。

 今回は、「700年代のたつたとは」と題して、初期の「たつた」の検討を記します。

 

1.検討対象

① 「たつたのやま」あるいは「たつたやま」という表記は、「たつた」という土地にある(または、に深い関係のある)「やま」の意であると見ることができます。諸氏は、生駒山地の南端、大和川の北側の山塊としています信貴山の南から大阪府柏原市にまたがる山地一帯の総称として用いられていたのではないかと言われています。今日、その名を冠した山はありません。

「たつた」という名を冠した竜田村が、明治22年以前にあります(現在の斑鳩町に位置します)。また、龍田大社と現在名乗っている神社の地は、明治22年以前には立野村というところであり、竜田村の西南にあたります。諸氏のいう「たつた(の)やま」は、さらにその西側に位置します。

② 「たつた(の)やま」表記の歌は、『萬葉集』からあります。三代集になると、「たつた(の)かは」と「たつたひめ」という表記がみられます。このように「たつた」表記が広がって行く過程に、今検討している1-1-995歌があるので、この歌の作詠時点の前後の期間に、ひろく「たつた」表記された歌の抽出し、「たつたのやま」の意味するところを検討します。

 まず先例を『萬葉集』で確かめ、「ゆふつけとり」表記の検討で対象とした1050年ころまでの「たつた」表記の資料として三代集を採りあげます。

③ 「たつた」表記は、歌の中で句頭以外にも表記されている場合があります。例えば、勅撰集では次のような例があります。

1-09-3301歌  新勅撰和歌集 巻第五 秋歌下  

 秋 秋歌よみ侍りけるに                正三位家隆

   しろたへのゆふつけどりもおもひわびなくやたつたの山のはつしも

4-15-948歌  明日香井和歌集上 仁和寺宮五十首 詠五十首和歌

      秋 十二首 夕紅葉             右兵衛督藤原

   くれかかるゆふつけどりのおりはへてにしきたつたの秋のやまかぜ

 

 今回は、このように句の途中に「たつた」のある歌は、気付いた歌のみ対象に加え、原則は、句頭にある「たつた」表記の歌を検討対象とします。句頭にある「たつた」表記に続いて表記される仮名については、五十音すべてを確認しました。

 

2.『萬葉集』の「たつた」表記の歌

① 「たつた」表記を、『新編国歌大観』所載の『萬葉集』で確かめると、次の表に示すように15首ありました。もう一首「たつたみの」という表記(万葉仮名で「立民乃」)の2-01-2653歌がありましたが、地名あるいは山の名に関係しないのが明らかなので、今考察対象から除外しています(15首に含めていない)。

  表 作詠時点別「たつた」表記の歌一覧(2017/5/19現在)

作詠時点

たつたやま

たつたのやま

たつたひこ

たつたこえ

712以前

2-1-83&起つ

 

 

 

730以前

2-1-881

 

 

 

732以前

 

2-1-976

2-1-1751&起つ

2-1-1753&起つ

2-1-1752

 

736以前

 

2-1-3744

 

 

738以前

2-1-1185

2-1-2215&発つ

2-1-2218

2-1-2298

2-1-2198&裁つ

 

 

 

746以前

 

 

 

2-1-629イ

748以前

2-1-3953&起つ

 

 

 

755以前

2-1-4419

 

 

 

 

 

 

 

 

8首

5首

1首

1首

注1)歌番号等は、『新編国歌大観』による。「629イ」は、629歌の一伝の意で、同書が使用している。

注2)「&起つ」等とは、「たつた」の意に、同音二意の二つ目の意である。一つ目は、共通に「地名とおぼしき名」である。

注3) この15首のほか「たつたみの」(立民乃)とある2-1-2653歌があるが、「地名とおぼしき名」で無いので考察対象から除外している。

 

② 「たつた」表記は、どの歌も地名とおぼしき「たつた」の意があります。さらにほかの意を掛けている歌が6首あります。みな「たつた(の)やま」という表記であり、「たつた(の)やま」に、同音二意を用いていると言えます。

2-1-83歌 ・・・おきつしらなみ たつたやま・・・   「起つ」を掛ける

2-1-3953歌 ・・・わがなはすでに たつたやま ・・・「起つ」を掛ける  

2-1-2215歌 ・・・とくとむすびて たつたやま・・・ 「発つ」を掛ける

2-1-1751歌 ・・・しらくもの たつたのやまの・・・ 「起つ」を掛ける

2-1-1753歌 ・・・しらくもの たつたのやまを・・・  「起つ」を掛ける

2-1-2198歌 ・・・からころも たつたのやまは・・・ 「裁つ」を掛ける

 

③ 「たつた(の)かは」あるいは「たつたひめ」表記の歌はありません。「たつたひこ」は、表にあるように1首ありました。

④ 1-1-995歌と同じように、「からころも」に引き続き「たつた(の)やま」表記のある歌が、1首(2-1-2198歌)あります。

⑤ 句頭にある「たつた」表記を確認していたところ、「たつた」表記がないものの、大和と難波宮の往来に官人が用いていた道の春を、高橋虫麻呂が詠っている歌がありました。諸氏がいう「たつた(の)やま」を越え(あるいは通過し)ている道と思われます。

そのため、当時の「たつたのやま」の実態を検討する材料とすることとします。

⑥ なお、作詠時点は、今までと同様に、2017/3/31の日記に記す推計方法に従っています。

3.『萬葉集』巻九の高橋虫麻呂の歌

① 高橋虫麻呂が、「春三月諸卿大夫等下難波時歌二首幷短歌反歌」と題して4首、また、「難波経宿明日還来之時歌一首合せて短歌」と題して2首詠った歌が、『萬葉集』にあります。2-1-1751歌から2-1-1756歌です。

 前者の作詠時点は、小島憲之・木下正俊・東野治之氏に従うと、高橋虫麻呂の庇護者であった藤原宇合が知造難波宮事として尽力し、その功成った天平4年(732)三月に難波へ下った時点となります。あるいは、その時点の景を後年詠んだ歌かもしれませんが、ここでは、この時点を作詠時点と推計します。

 後者は前者と同一の作者が桜を詠んでいるので、前者と同じ年の歌と推計しました。(記述は推計方法に従い732以前)

② 順に歌を、「たつた」表記を中心に検討します。

「春三月諸卿大夫等下難波時歌二首幷短歌反歌」       高橋虫麻呂

2-1-1751  しらくもの たつたのやま(万葉仮名:竜田山)の たきのうへの をぐらのみねに さきをゐる さくらのはなは・・・

2-1-1752  わがゆきは なぬかはすぎじ たつたひこ(万葉仮名:竜田彦) ゆめこのはなを かぜになちらし

2-1-1753 しらくもの たつたのやま(万葉仮名:立田山)を ゆふぐれに うちこしゆけば たきのうへの さくらのはなは さきたるは ちりすぎにけり・・・

2-1-1754  いとまあらば なづさひわたり むかつをの さくらのはなも をらましものを 

③ 阿蘇瑞枝氏は、『萬葉集全歌講義』において、「1751~1754歌は桜の花を主題とし、題詞の諸卿大夫等下向は歌の本質と関係ない契機に過ぎない。宇合及その周辺の貴族たちに提供された歌であったのだろう」と指摘しています。

④ 2-1-1751歌の「たき」は、大和川の急流を指します。小島憲之・木下正俊・東野治之氏は、「大阪府柏原市峠の亀ノ瀬附近の大和川の急流をいうか」と、指摘しています。

 作者高橋虫麻呂は、難波へと向かう官道が、「大和川の流れをみることができ、山桜が咲いている峰をも近くに見ることができる道である」ということを教えてくれています。その道は「たつたのやま」と称される山塊にあります。

⑤ 2-1-1752歌の「たつたひこ」は、山桜に春風をあてる神かその春風を防ぐことを任務としている神です。「かぜになちらし」と願っているので、後者が妥当ではないでしょうか。

 延喜式巻九の神明帳には、大和国平群郡に竜田比古竜田比女神社二坐とあります。その「竜田比古」を指していません。ペアで祭っている神の一方にのみに祈願するという風習は、聞いたことがありません。

⑥ 2-1-1753歌からは、官道に、青森県奥入瀬の渓谷に沿う道のように、流れにすぐ足を休ませられる道とかうっそうとした木々の木蔭を辿る道というイメージはなく、川の流れを崖下に聞き足元が乾いたしっかりした道、という印象を受けます。

⑦ 2-1-1754歌は、川を挟んで道のある反対の岸にゆくのは簡単ではないことを、難しいのは川を渡ることであることを、示しています。川に流れ込む渓流ではなく道と並行して流れる川(多分大和川)の対岸の山桜をイメージしていると理解できます。

⑧ 「難波経宿明日還来之時歌(難波で一泊し翌日帰って来た時の歌)一首合せて短歌」

2-1-1755歌 

  しまやまを いゆきめぐれる かはそひの をかへのみちゆ きのふこそ わがこえこしか ・・・ をのうへのさくらのはなの・・・きみがみむ そのひまでには やまおろしの かぜなふきそと うちこえて なにおへるもり かざまつりせな  

2-1-1756歌

  いゆきあひの さかのふもとに さきををる さくらのはなを みせむこもがも 

⑨ 2-1-1755歌の「しまやまを いゆきめぐれる かはそひの をかへのみち」を、阿蘇氏は、「島山を行き巡っている川沿いの岡辺の道」と現代語訳しています。

「をかへのみち」とは、「岡へと向かっている道」であり、この歌は、大和国から河内国へ向かう道の道順の景色を表現しています。即ち、「(大和盆地を河内に向かう道は、山にかかり)川に並行した道を、その川に直角の谷の尾根尾根を九十九折に順に辿ってゆく道(山腹を縫うように作られている道)となりそのように山が迫ってきているところを通過すると、川沿いのなだらかな岡にたどり着く道」(を昨日通過して・・・)の意となります。 

⑩ 2-1-1755歌の「なにおへるもり」とは、「名に負へる社」の意であれば、その杜は、神社を囲んである森林を指し、神をまつってある場所を指しています。比喩的にそのまつっている神を指す場合もあります。この時代の社であればこのように形容できる状況が通常です。つまりどこにでもある社です。昭和の時代でも鎮守の杜というのはどこにでもある光景でしたし、今でも同じでしょう。

⑪ 2-1-1755歌の「かざまつりせな」について、阿蘇氏は、「風祭りは、風災を鎮め豊作を祈る祭り。また花を散さないでくれと風に祈る花鎮めの祭りにもいう。ここは、後者。鎮花祭は、大神、狭井二社の祭。春花の飛散する折の疫病を鎮めるための祭りという。」と解説しています。しかし、前者も後者も朝廷が主催する祭であり、作者が「かざまつりせな」と指示できる祭ではありません。疫病退散ではなく花を散さないでという理由で個人的に大神、狭井二社を祭ることをするでしょうか。

 作者の虫麻呂は「たつたのやま」を越えているところです。国堺とか郡堺とか峠とかにまつられている「たむけの神」に祈ったのではないでしょうか。

⑪ 「あふさか」の検討で採りあげた2-1-1022歌には、詞書に「相坂山を越え」とあり、歌に「たむけのやまを けふこえて」とあります。このほか、「あふさか」を越える際には、2-1-3251歌で「あふさかやまに たむけくさ 」と詠い、2-1-3235歌で「あふさかやまに たむけして 」と詠われています。

 「たつたのやま」を越える道にも同じような「たむけの神」がまつられていたと理解してよいと思います。その「たむけの神」に花を散すなと、祈った、ということです。

 2-1-1752歌の「たつたひこ」は、この「たむけの神」であるかもしれません。

⑫ 2-1-1756歌の「いゆきあひの さか」について、『新編日本古典文学全集 7万葉集②』で、小島憲之・木下正俊・東野治之の三氏は、「「い」は接頭語。国境の坂。隣り合った国の境を双方の国の神が同時に出発し、出逢った地点で決めたという「行き逢い坂」の伝説は各地にある。ここは、大和と河内との境にある亀ノ瀬の北の地名峠の辺りをさしたものであろう。」と指摘しています。

 阿蘇氏は、行逢坂がほとんどの場合、山の峠ではなく、一方へ山を降りたところの国境などに偏って存在していることに注目した井出至氏が、(この歌の)「いゆきあひの坂の麓は、竜田の風神が大和側に祀られていることなどを考え合わせて、竜田山の大和側の山麓であった」ものと推定していることを、紹介しています。

⑬ 2-1-1756歌は、2-1-1755歌の反歌です。「かざまつり」という祭を作者がしようとする「たむけの神」が「たつたのやま」を降りきったところに鎮座していたと思われます。人家の無い場所と思われます。

⑭ 高橋虫麻呂のこの6首の歌からは、次のことが読み取れました。

大和国河内国の往来に使用している官道は、山腹を縫うように作られている道であること。

大和国側の山の麓から急坂となること。 そのため並行する川を見下ろす道となること。

・その麓には山桜が咲き誇ること。

・その山桜を愛でるのは旅人であり、山の麓にも集落が無いようであること。

「たつたのやま」という表記は一つのピークではなくこのような官道が通過する山塊を指していること。

⑮ 当時、難波と奈良の都とを結ぶ官道に、竹内峠を通過する道などがありますが、対岸に桜を採りに行きにくい川があるのは大和川に沿った道です。

 これらから、大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側には、山腹を縫うように作られた官道が通過して、その通過する山塊を「たつ(の)やま」と高橋虫麻呂が言っていることが確認できました。このやまは、諸氏が既にいっている山塊と同じです。

 では、2-1-83歌などの作者も、この山塊を「たつた(の)やま」と歌に詠っているかを、次に確認します。

 次回は、引き続き700年代のたつたのやまについて記します。

御覧いただき、ありがとうございます。

<2017/5/25  >

 

わかたんかこれの日記 からころも+たつ 女人往生

2017/5/22  前回、「三代集のからころもも   外套」と題して記しました。 

 900年代の「からころも」が、官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着ですが、例外として衣裳一般の意の歌があることを指摘しました。

 今回は、「からころも+たつ 女人往生」と題して、記します。

 

1.「からころも」表記が、「たつ」を形容している歌

① 「からころも」表記に引き続き「たつたのやま」表記のある歌は、『萬葉集』と三代集で5首あります。作詠時点順に示すと次のとおり。

2-1-2198歌 738以前   巻十 秋雑歌 詠黄葉  よみ人しらず

1-1-995歌 849以前   巻十八 雑  よみ人しらず

1-2-359歌 905以前   巻七 秋  よみ人しらず

1-2-383歌 905以前   巻七 秋  よみ人しらず

1-2-386歌 945以前   巻七 秋  つらゆき

 秋の紅葉を、4首詠んでいます。最初の歌(2-1-2198歌) でいうと、「たつ」表記は、衣を「裁つ」という動詞と地名の「たつた」を掛けて詠んでいます。

 「からころもたつ」とは、「からころも」表記の衣(外套)を所定の形に仕立てる意、となります。仕立てた衣を「たつたのやま」に見立てていることになります。

 「からころも」が毎年秋に新調されて、着馴れてゆくのが、紅葉の山が出現し、そして落葉の山へと移ることの比喩となり得ています。

② 残りの1首(1-1-995歌)は、しかし、部立が「雑」の歌であり、「からころも」の表記があるからと言って「紅葉したたつたのやま」を詠んでいると断言するには、一抹の不安があります。

③ なお、つらゆきの歌の作詠時点は、この歌が貫之の没年以上遡れなかった結果の「945年以前」であり、20年、30年作詠時点が遡ったとしても不思議ではないところです。『五千和歌集』のよみ人しらずの歌も、推計ルールとして直前の勅撰集成立としているので、つらゆき歌同様20~30年の遡ることは有り得るところです。

④ 「からころも」表記に引き続き「たつたのやま」表記以外の「たつ」のある歌は、『萬葉集』に無く、三代集で6首あります。作詠時点順に示すと次のとおり。

 1-1-375歌 849以前 巻八 離別 よみ人しらず

  「たつ」の意は、裁つと発つ

 1-2-539歌 905以前:後撰集 巻九 恋 よみ人しらず 

  「たつ」の意は、裁つと(うわさが)起つ

 1-2-713歌 905以前:後撰集 巻十一 恋 よみ人しらず 

  「たつ」の意は、裁つと発つ

 1-2-1317歌 948以前 巻十九 離別羈旅 女 

  「たつ」の意は、裁つと発つ

 1-3-1189歌 955以前 拾遺抄 巻十八 雑賀 よみ人しらず 

  「たつ」の意は、裁つと竜(の口)

 1-3-321歌 964以前 巻六 別 よみ人しらず 

  「たつ」の意は、裁つと発つ

 

 同音二意の例は、『万葉集』に既に 「あふ(逢うと相坂)  」があり、『古今和歌集』のよみ人しらずの時代から、このように増えてきています。三代集では、「たつ」のほか、「ゆふ」、「から」、など多くが用いられています。  「からころも」を折りこんだ業平の1-1-410歌が数語の同音二意をもちいていることを諸氏が指摘しています。

⑤ また、「たつ」は、このように、多くの意味があり、「からころも」がもともと外套という衣類の一種であって「ころも」の総称・美称に容易に変容できたことから相性の良い組み合わせとなったのではないでしょうか。

⑥ 「たつたのやま」表記の検討をこの後に行いますが、三代集では、「からころも」表記に合せた「たつたやま」表記がなく、すべて「たつたのやま」の表記でありました。これは『萬葉集』での表記と同じであります。(それは五七調という制約の詩であることも理由の一つであると思います。)

 

2.「からころも」の縁語

①「からころも」は、多くの縁語を持っています。『万葉集』で「からころも」表記の歌7首では、「たつたのやま」のほか「きなれ(着馴れ)」とか「き(着)」、衣の一部の名称である「すそ」があります。

② 三代集の39首では、これらの外に、上記の「たつ(裁つ・発つ等)」、「かへす、かく、よそふ」などが新たに用いられています。

 衣の一部の名称では「すそ」のほか「ころも」「たもと」そで」が新たに用いられています。

③ 三代集に、「たつ」が、竜の口をも指した歌があります。

 

3.「たつ」に「竜」を掛けた歌

1-3-1189歌    灌仏のわらはを見侍りて       よみ人しらず

   唐衣たつよりおつる水ならでわが袖ぬらす物やなになる

① 灌仏とは、4月8日の釈迦誕生日を祝う灌仏会の略称であり、現代の花祭に相当する恒例の儀式を指します。これは、当時の上流貴族が行った時の歌です。

 その儀式において所定の役を担っている「わらは」が務め終り、かつ注いだ甘露が竜の口から誕生仏(像)にかかっているのをみて、自分の袖も濡れているのに気付いたのが作者です。

② 『拾遺和歌集』では、巻第十八「雑賀」に置かれている歌です。(同様の歌が、『拾遺抄』巻第九「雑上 百二首」にもあります(1-03'-448歌))。

 雑賀の巻頭歌(1-3-1159歌)は、紀貫之の「延喜二年五月、中宮御屏風、元日」と詞書のある歌です。朝議を詠う歌ではありませんが、元旦を迎えたことを寿いだ歌です。

 また、次の歌もこの部にあります。

 1-3-1162歌や1-3-1172歌 子の将来を予祝して詠う

 1-3-1185歌 人の変心を物に寄せて詠う この歌から以後は、男女の間のことに関して詠う歌が続く

 1-3-1207歌 昔の交友を回想し詠う 

 1-3-1209歌 巻尾の歌である。突然の出家に唖然とする家人が詠う

③ 『拾遺沙註』は、この歌について思慕して流す涙といっていません。作者の袖を濡らしたのは、童を恋う涙ではない、と言っています。

④ 朝廷の灌仏会は、神事と重なると停止されることが多く平安中期には内裏で行われることが少なくなって、東宮や中宮などで行われるようになります。作法は内裏に準じていたと思われます。上流貴族もそれにならって行います。

 『八代抄』に曰く「本云、灌仏日、女御布施、童女持参。殿上人扶持、如五節。」

 灌仏会は男が中心で行い、女は、不浄なものとして間接的にあるいは、別に参加して仏縁を結ぶという状況でした。女御・更衣などは男子が終わったあとに、布施を間接的にさずけ灌水しました。

⑤ 灌仏会の天蓋を「からころも」(外套)で表現していると理解しました。その材質は華美なものであることを初句の「からころも」が示唆しているかもしれません。

⑥ わらはとは、「元服」(男子が成人になったのを祝う儀式であり、平安時代初期では多くは10歳から16歳の間に行われた)を、していない子、またそのような男に対応する女の子を指します。また、その姿を指します。

 竹鼻氏は、ここでは、灌仏会の行事に奉仕する童女灌仏会に女御の布施を持参する女童(めのわらは)。但し仏前に運ぶのではなく、女房達の布施を蔵人に渡す段などでの役を務め幼い子を言う、と説明しています。

『拾遺沙』での「わらは」の表記をみると、232歌の詞書の「わらは」は人の子。

448歌の詞書の「わらは」は人の子。533歌の「わらは」は人の子(権中納言実資の子どもの頃) であります。

⑧ この歌は、「雑賀」の部に置かれている歌です。1-3-1185歌以後の悲恋に終らないようにと訴えるのが、「賀」であるというかのような歌が続いています。少なくとも撰者の意は、次の巻の「雑恋」にはこれらの歌は含められないという決心をしているとみえます。

⑨ さて、当時の女性の立場です。竹鼻氏は、「当時、女性は女性である限り救われなくて、生まれ変わった後の精進の結果で救われる成仏する。大人にまじって、晴の儀式に殊勝にふるまっている童女をみて、童女の成仏までの長い道程を思い、口から注いでいる竜と釈迦像と童女からがれる王と童女から竜女成仏のことを連想したか。」と指摘しています。

⑩ 五句の「なになる」とは、作者の感涙です。「人身受け難し既に受く。仏法聞きがたし既に聞く。」という状況に自分があり、さらに女人であるが、灌仏会で女性からのお布施のものの中継ぎをする役を務めている幼い子が役を務め終ったのをみて、仏縁の深まったことを確信した作者自身涙したことです。

⑪この歌の作者は、女性であるはずです。

 

4.当時の仏教と死体の始末

① 当時の仏教について、確認します。

 神仏の習合は奈良時代にも行われています。本地垂迹説を説き、神前で仏教経典が読まれたり官社に僧侶が置かれたりしました。仏教を守る存在として寺院に鎮守の神として祀られるようになった八幡神は、このような神仏習合神として最も早くまつられた神であります。

 長岡京から平安遷都した桓武天皇の末年、最澄空海は、国家に対して宗派としての主体性をもった天台・真言両宗を立てました。しかし天皇家や上流貴族の支持がなければ存立は難しく、庶民の支持にのみ頼れない状況であり、氏族というより家単位で寺の維持が図られました。灌仏会天皇・春宮・藤原道長家という家単位で行われています。

② 灌仏会は男が中心で行うものです。女は、不浄なものとして間接的にあるいは、別に参加し仏縁を結ぶ以外ありませんでした。

③ 日本では女性の生理(月経と出産)を不浄とみる民俗があり、神は不浄を忌むというところから神道的神事も男性中心に行われてきています(と言われています。延喜式巻五・神祇五は斎宮(いつきのみや)に充てられ「凡天皇即位者。定伊勢太神宮齋王。・・・」云々と斎王の規定があり、これは女性です。でも、上流貴族の奉仕する祭では、祭主は確かに家長(即ち、男子)が、勤めています)。

 このため、この観念は日本にもたらされた仏教の女性観と抵触せず、そのため仏教においても様々な女性差別が見られました(と言われています)。

 女性の仏教修行も認められ、最澄は『法華経』の竜女成仏を例として即身成仏を説き、空海も男女、身分にかかわりなく万人が仏教徒いう器といっています。

 しかし、比叡山に女人禁制を最澄が定めてのち高野山大峰山も同様とされました。後代の鎌倉期に法然は、阿弥陀仏の第十八願(念仏往生の願)と第三十五願(女人往生の願)を合わせ、変成男子のかたちで女人往生を説きました。

 道元は、修行と成仏に関して徹底した男女平等を説いて、当時の大寺院における女人禁制を強く批判しています。

④ 庶民は、死後風葬されました。平安時代、京の庶民は、死骸を三大風装地とひとつの水葬地に運んで野辺送りをして捨てました。

⑤ この時代には、旱魃・洪水・地震などの災害が相次ぎ深刻な飢饉と疫病の蔓延がありました。寺に弔って葬られる死者は、高僧か高貴な身分の者に限られ、民衆には葬式も墓も許可されていません。

 都は、野垂れ死の死骸が道端にごろごろし糞尿やほこりが舞っていました。鳥辺野は平安時代、京の三大風葬地のひとつであり、東山三十六峰のひとつ、音羽山から阿弥陀ケ峰の麓、東福寺にいたる一帯を指します。修行僧は、野晒にされた民の死体を集めて荼毘にふし、鳥辺野の山中に阿弥陀堂を建て供養しました。六道珍皇寺は鳥辺野の風葬地を管理し死者に引導を渡す場所でありました。

⑥ 三大風葬地とは、鳥辺野(とりべの、音羽山から阿弥陀ケ峰の麓、)、化野(あだしの、嵐山の麓)、及び蓮台野(船岡山の麓)です。

 鴨川の川原(三条河原~六条河原)は水葬地でありました。鴨川の一番大切な役割は、洪水時に、死者の遺体を流し去ることでありました。

⑦ 政治的には、貴族たちの支配権が衰え僧兵が横暴を極め武士が進出してきている時代です。宇治の平等院鳳凰堂建立が、今1-1-995歌のための検討対象期間としている期間(~1200年)の下限に近い1053年です。

⑧ 雑の部に置かれる「からころも たつたのやま」の解明は進みませんでしたが、次回は、たつたのやまを中心に、記します。

 御覧いただき、ありがとうございます。

<2017/5/22 >

 

わかたんかこれの日記 三代集のからころもも 外套

2017/5/19    前回、「萬葉集のからころも」と題して記しました。 

 700年代の「からころも」は、官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着を指す、と推定しました。

 また、『萬葉集』では、「からころもたつたのやま」表記のある歌が1首ありました。2-1-2198歌であり、人事を詠っていない、秋雑歌の歌です。

今回は、「三代集のからころもも 外套」と題して、記します。

 

1.三代集のからころも

① 1-1-995歌の詠まれた時代を含む『古今和歌集』編纂時前後における歌人たちの「からころも」の認識を検討します。

 成立年代が、それぞれ、西暦905年、955年、1007年と言われている『古今和歌集』、『後撰和歌集』および『拾遺和歌集』の三代集に記載の歌は、西暦1000年までの歌が大半であります。『新編国歌大観』により三代集で「からころも」表記の歌を抽出すると、下記の表のように、全部で39首ありました。

② この表は、推計した作詠時点順・歌集順・歌番号順としています。よみ人しらずの歌は直前の勅撰集の成立時点等としています。

③ 「からころも」表記について、700年代の意で解釈できるかを確認し、別に生じた意があればそれを整理しました(この表に加えてあります)。

 その結果、よみ人しらずの歌21首は、すべて700年代の意の「からころも」表記をしており、そのうち6首がさらに女性などの意を含めていると推定できました。

 作者名の明らかな歌18首は、うち15首が700年代の意の「からころも」表記をしており、3首にはその意がないと推定できます。前者のうち4首にはさらに女性などの意を含めていると推定できました。

④ 「からころも」という表記について、片岡智子氏が三代集を含めて検討した結果の方向は、適切なものでありました。官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着は、700年代以後も1000年代に至るまで「からころも」という表記で表され、「からころも」という表記は、さらに別の意味をも800年代以降獲得した、と言えます。

表 「からころも」表記のある三代集の歌の「からころも」の意味別作詠時期別分類

時期

外套の意(官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着)

衣裳(美称)の意

外来の服の意

歌数の計(首)

単独

衣裳も

女性も

着用者も

 

女性も

 

~850

 

1-2-729(冬嗣)

 

 

 

 

1

851~900

1-1-515

1-1-865

1-1-995*

1-1-410(業平)

 

1-1-375

 

 

1-1-572(つらゆき)

 

6

901~950

1-2-313

1-2-359

1-2-383

1-2-622

1-2-713

1-2-1329

1-2-519

1-3-149(つらゆき)

1-2-529(桂のみこ)

1-2-386(つらゆき)

1-2-660(つらゆき)

1-2-746(右近)

1-1-576(ただふさ)

1-1-786(かげのりのおほきみ)

1-2-539

1-2-848

1-2-948

1-2-1317(女)

1-2-1316

(公忠)

 

1-2-1328

 

1-2-849

 

1-3-327(つらゆき)

 

 

1-1-808 (いなば)

1-1-697(つらゆき)

24

951~1000

1-2-1114(雅正)

1-3-703

1-3-1225

1-3-1189

1-3-321

1-3-326(三条太后宮)

1-2-804(源巨城)

1-3-704

 

 

 

 

 

8

歌数(首)

22

4

 

3

 

2

 

1

 

39

注1)歌番号等は『新編国歌大観』による。

注2)*印の1-1-995歌は、仮に「外套(単独)」に整理している。

注3)「からころも」の意味の分類は次のとおり

・外套:700年代におけるから「からころも」の定義:官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着

・衣裳(美称):上記の外套の意を含まず、衣裳一般の美称。(外来の服の意を除く)

・外来の服:上記の外套や衣裳の意を含まず、外来した美麗な服

・衣装も:外套の意のほか衣裳一般の意あり。

・女性も:外套の意のほか女性の意あり。

・着用者も:外套の意のほかその外套を着ている人の意あり。

注4)赤数字の歌番号等の歌以外の作者は、よみ人しらず、である。

 

⑤ 『後撰和歌集』と『拾遺和歌集』のよみ人しらずの歌の作詠時点は、推計方法で一律に直前の勅撰集の成立時点としていますので、さらに時点が繰り上がる歌もあると思われます。

⑥ 作者名の明らかな歌の作者別内訳は、貫之が6首、業平・冬嗣ら12人が各1首です。

⑦ 700年代の意がない歌は、貫之の6首のうち2首といなばが作者の1首です。貫之は色々言葉の使い方にチャレンジをしています。業平の歌は、実物の「からころも」の特徴を十二分に利用して妻への想いと旅情を詠った傑作と言えます。

⑧ なお、1-1-995歌は、よみ人しらずの歌なので、解釈は今保留したまま、仮に「外套(単独)」に整理しています。

 

2.業平の歌貫之の歌など

①700年代の「からころも」(官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着)の意で解釈できた歌を、例示します。

 

1-1-410  羈旅歌    あづまの方へ友とする人ひとりふたりいざなひていきけり、みかはのくにやつはしというふ所にいたれりけるに、その河のほとりにかきつばたいとおもしろくさけりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふもじをくのかしらにすゑてたびの心をよまむとてよめる           在原業平朝臣

   唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ 

 片岡智子氏は次のように評しています。

・これほど「からころも」という歌語を生かし切った歌もなかろうと思う。ここでも「からころも」は旅装。しかも妻が縫ってくれたもの。

・「きつつ」は、着ると来る、「なれ」は、萎れると馴れる、を掛ける。「からころも」が、最初はごわごわしており、着ていると、次第に萎えてくるものであることを表わしている。それは、次の「はるばる」が、遠くへやってきた(意の)副詞と張る(という動詞)とを掛けてあることから、さらに具体的に明らかになる。また、この表現から「からころも」が糊付けけしてあったこともわかる。

・「つま」は、衣の褄と愛しい妻、を掛ける。「からころも」は、襟に特徴のある衣服だった。前身頃が左右に返されると裏が表に出る。衣の襟が直接表に出て、目立つことになる。「し」、と強調されて、(「つま」は「からころも」の)特有の縁語となり、愛しい妻の存在もはっきり浮かび上がってくる。

・妻が糊付けして張ってくれて強かった衣も旅を経て来ると萎えてしまう。それを着ていると、ほんとにはるばる来たものだという旅の感懐が、別れた妻へのいとしさ、なつかしさの情を伴って身内からこみあげてくる。

・そんな旅情が、「からころも」と、それによって導き出される縁語、掛詞によって身体的に表現された名歌といえよう。

 

1-2-849 恋     返し                  よみ人しらず

   怨むともかけてこそみめ唐衣身になれぬればふりぬとかきく 

 現代語訳を試みると、「お怨みになるとしても、心にかけて貴方の行動を私はじっと観察しなければ。からころもは身に馴れるようになったら、古い(使えなくなった)と捨てられるように、あなたとの関係が密になったらたちまちあなたから古い女にされてしまいますから。」

 

1-3-149  秋    延喜御時月次御屏風に             つらゆき

   たなばたにぬぎてかしつる唐衣いとど涙に袖やぬるらん

 牽牛が借りたいと言ってきたのは、臨時に必要になった外套です。七夕の日に装う服は1年かけて準備をしてきているのではないでしょうか。

 

1-2-386歌  秋   題しらず                  つらゆき

   から衣たつたの山のもみぢばははた物もなき錦なりけり 

 「からころもたつたのやま」という表記の歌は、4首ありますが、すべて秋・秋雑の部の歌です。2-1-2198歌も秋の歌です。片岡氏は、「からころも」は、「秋」に「妻が縫う」もの、と言っています。秋には毎年新品の「からころも」がある、ということになります。

 

② 700年代の「からころも」の意のほかに、さらに女性の意もある歌を、例示します。

 

1-1-786歌 恋   題しらず             かげのりのおほきみ

   唐衣なれば身にこそまつはれめかけてのみやはこひむと思ひし

 片岡智子氏は、「衣桁に掛けてだけ恋いそうとはおもわなかった」と評していますが、現代語訳の試みると、次のようになります。

「外套は、何回か着るとなよなよと身にまとわりつくようになってしまう。そのように馴染みを重ねた女なら、私の心がまといつくのももっともだが、外套を着て来たものの脱ぐこともなく逢うことが叶わないでいるのに、貴方が、これほど心にかかって空しい気持ちを味わうとなろうとは、かって思ったことがあっただろうか。」

 

1-2-848歌  恋   女につかはしける            よみ人しらず

   中中に思ひかけては唐衣身になれぬをぞうらむべらなる 

 現代語訳を試みると、次のとおりです。

「いっそ徹底してあなたを懸想すればよかった。外套が何か体にしっくりこないのが気になるように、貴方が馴れ親しんでくれないのを、怨むことになりますよ。」

 

③ 700年代の「からころも」の意では解釈が難しい歌を示します。3首あります。

 

1-1-572歌 恋   寛平御時きさいの宮の歌合のうた         つらゆき

   君こふる涙しなくば唐衣むねのあたりは色もえなまし 

 片岡氏は、しかし、胸の真中辺が開いている「からころも」の特性に着目して「むねのあたり」といったものであろう、と評しています。

 現代語訳を試みると、「あなたを恋しく思い流す涙がないとしたら、私の着物の胸のあたりは、焦がれる思い火で、唐紅で染まったように赤く燃えてしまうだろうに。」と、なります。「からころも」は、衣の美称と理解しました。

 

1-1-697歌  恋   題しらず                   つらゆき

   しきしまややまとにはあらぬ唐衣ころもへずしてあふよしもがな

 片岡氏は、「あふよしもがな」で、(からころもと称する服の)前見頃が合うこともないと、逢うこともない、の万葉以来の表現を用いている、と評しています。「からころも」表記は、衣裳一般(美称)と女性の意を兼ねています。

 現代語訳を試みると、次のとおりです。「しきしま」にも「やまと」にもない「から」由来の衣服、と作者は詠っています。

 「旧都の奈良の都にも、いや日本のどこにもない唐渡来の衣裳のようなあこがれのあの女性に、いくばくもしないうちに、会うてだてがほしいものだ。」

 

1-1-808歌 恋   題しらず                    いなば

   あひ見ぬもうきもわが身のから衣思ひしらずもとくるひもかな

「からころも」は、外套ではなく、衣裳一般(美称)ではないでしょうか。この歌は、外套の特徴に触れていません。「から」は、原因となる物事を示す格助詞の「から」と「からころも」の「から」をかけています。

 片桐洋一氏は『古今和歌集全評釈(中)』(講談社1998/2)で、

「お逢いできないのも、そのためにつらい気持ちでいるのも、すべては我が身から招いたこと。そのような私の気持もわからないで、いかにもあの人が思っていてくれるかのように私の衣の下紐が解けることでありますよ。」と示しています。 

④ このように、700年代と比べると、三代集の時代は「からころも」は、従来の意のほか色々の意や言葉が掛けられて用いられてきています。

 次回は、からころもに関する歌人の研鑽について記します。

 御覧いただき、ありがとうございます。

<2017/5/19 >

わかたんかこれの日記 万葉集のからころも

2017/5/8  前回、「ゆふつけとりは2種類」と題して記しました。

 今回は、「萬葉集のからころも」と題して、記します。

1.和歌のからころも

① 和歌において「からころも」という用語は、外来の衣とも、珍しく美しい衣服とも、着・裁・裾・紐などの枕詞とも古語辞典に説明があります。

② 言葉は、(2017/3/31の日記に記したように)ある年代には共通の認識で使われるものであり、その年代の後年は、それまでの認識のほか新たな認識を加えたりして使われているので、特定の歌の理解はその歌の作詠時点を考慮して、意味を理解するのが適切であろうと思います。「からころも」の意義と使い方は時代とともに変遷があり得るものと仮定をして、検討します。

③ 『古今和歌集』雑の部で地名または山の名にかけて「からころも」が用いられた例があります。『新編国歌大観』の歌番号等で示すと

1-1-995歌  雑  よみ人しらず

たがみそぎゆふつけ鳥かからころもたつたの山にをりはへてなく

です。まだ私にはこの歌がよく理解できていないので、この歌での「からころも」のために以下の検討を行います。

④ 「ゆふつけとり」の検討と同様に、1050年までの用いられ方を調べます。作詠時点が詞書等では特定できない場合、その和歌記載の歌集の成立時点あるいは諸氏の指摘等に従って推計します(概略は2017/3/31の日記を見てください)。

 

2.『萬葉集』のからころも

① 『新編国歌大観』の索引に「からころも」又は「からころむ」(以下このふたつを「からころも」表記ということとします)とある歌は、いわゆる「から衣」を指しています。次の7首です。推計した作詠時点順に示します。なお、3502歌は、『新編国歌大観』が歌番号を付しているので、3501歌とともに検討対象の歌とします。<>内は『新編国歌大観』が示す万葉仮名で表した歌です。

 

2-1-957歌 作詠時点は728以前:神亀5年

巻第六 雑歌  五年戊辰、幸于難波宮時作歌四首(955~958)  笠朝臣金村

  からころも きならのさとの つままつに たまをしつけむ よきひともがも

<韓衣 服楢乃里之 嶋待尓 玉乎師付牟 好人欲得>  

 

2-1-2198歌 738以前:作者不明歌

巻第十 秋雑歌 詠黄葉(2192~2222)           よみ人しらず

  かりがねの きなきしなへに からころも たつたのやまは もみちそめたり

<鴈鳴乃 来鳴之共 韓衣 裁田之山者 黄始有>  

 

2-1-2626歌 738以前:天平10年

巻第十一 正述心緒  寄物陳思             よみ人しらず

  あさかげに あがみはなりぬ からころも すそのあはずて ひさしくなれば 

<朝影尓 吾身者成 辛衣 襴之不相而 久成者 >   

 

2-1-2690歌 738以前:天平10年

巻第十一 古今相聞往来歌類之上  寄物陳思(2626~2818) よみ人しらず

  からころも きみにうちきせ みまくほり こひぞくらしし あめのふるひを

 <辛衣 君尓内著 欲見 恋其晩師之 雨零日乎>

    

2-1-3501歌 738以前:天平10年

巻第十四 相聞                     よみ人しらず

  からころも すそのうちかへ あはねども けしきこころを あがもはなくに 

<可良許呂毛 須蘇乃宇知可倍 安波袮杼毛 家思吉己許呂乎 安我毛波奈久尓>   

2-1-3502歌 巻第十四 相聞   或る本の歌曰く     よみ人しらず

  からころも すそのうちかひ あはなへば ねなへのからに ことたかりつも 

<可良己呂母 須素能宇知可此 阿波奈敝婆 袮奈敝乃可良尓 許等多可利都母>    

2-1-4425 755以前:天平勝宝7年

巻第二十  二月廿二日信濃国防人部領使上道得病不来 進歌数十二首、但拙劣歌者不取裁之(4425~4427)               国造小県郡他田舎人大嶋

  からころむ すそにとりつき なくこらを おきてぞきぬや おもなしにして 

<可良己呂茂 須曽尓等里都伎 奈苦古良尓 意伎弖曽伎奴也 意母奈之尓志弖>

 

② 文字数や律などに決まりのある和歌なので、意を伝えるために和歌の作者は文字数を費して詠むとおもいますので、いわゆる枕詞も有意として当該歌をまず理解したいと思います。

 そのような観点から、歌の文字の並びにおいて「からころも」表記が、掛かる一番近い言葉を抜きだすと、次のようになります。

 

からころも きならのさと・・・1首(2-1-957歌):着るあるいは着馴らすという動詞と最初に結びつく。作中人物が「からころも」表記のものを着るあるいは着馴らす意、となります。「き」表記には、更に動詞「来」(く)の(連用形の)意もあるかもしれません。

からころも すそに(の)・・・ 4首(2-1-2626歌、2-1-3501歌、2-1-3502歌、2-1-4425歌):衣の一部をいう「裾」という名詞と最初に結びつく。「からころも」表記の衣の裾の意、となります。「すそ」表記には、裾以外の意がないと思われます。

からころも たつたのやまは・・・ 1首(2-1-2198歌):衣を「裁つ」という動詞と最初に結びつく。「からころも」表記の衣としての所定の形に仕立てる意、となります。織ったり刺繍することは含まれないでしょう。「たつ」表記には、更に「発つ」とか「立つ」の意があるかもしれません。1-1-995歌と同じように「たつたのやま」にかかります。

からころも (きみに)うちきせ・・・1首(2-1-2690歌):衣を着せるという動詞と最初に結びつく。「き」表記には「着る」意のほかの意はないと思われます。

 

 いづれの歌でも、「からころも」表記は、現代でいう「服」の一種とみることができます。

 現代の「服」という表現は、服一般の指す普通名詞の用法のほか、相手との会話(あるいは一つの組織内でのやり取り)における特定の服の代名詞あるいは略称の場合があります。

 「からころも」表記も、同じように、衣裳の美称の可能性も特定の服の代名詞あるいは略称の可能性もあります。

③ では、「からころも」表記はこれらの歌の表現のなかで何かに形容あるいは制約されているかをみると、次のように2タイプとなります。なお、2-1-2626歌は歌意において2句で切れていると整理しました。

 

タイプ1:初句に「からころも」表記があり、形容あるいは制約なし:2-1-957歌2-1-2690歌、2-1-3501歌、2-1-3502歌、2-1-4425歌および2-1-2626歌

タイプ2:「きなしきなへに」という状況下という制約がある:2-1-2198歌 

 

 7首中6首がタイプ1であり、「からころも」(という服)を使用している状況での裾の取り合いなどを4首、「からころも」を着る状況に関して2首詠っています。これらの作者全員が共通のイメージを「からころも」表記に持っています。この6首は「皆さんよくご存じのあの服を着たとき」という意で用いられています。

 タイプ2は、「たつ」(裁つ)と服を作る過程の動詞と結びついています。「きなしきなへに」の万葉仮名は「来鳴之共」であり、「(雁が)来て鳴くのと同時期に」の意で、「たつ」(裁つ)時期を限定しています。雁は毎年来るので、「からころも」(という服)を作るのも毎年この時期に繰り返して行われる、ということを詠っているのが、2-1-2198歌です。

④ 単純に「からころも」を枕詞と割り切った場合、枕詞の語の意味する事物の一部分を被枕詞としている例を『例解古語辞典』(三省堂)の付してある「主要枕詞一覧表」によりみると、

・「雨衣」の「蓑」(別途「みの」には身のの意がある)

・「白波の」の「なみ」(別途「なみ」には並・無みの意がある)、

・「夏衣」の「ひとへ」(別途「ひとへ」には人への意がある)、「ひも」、「すそ」にもかかる。

・「からころも」の「ひも」(別途「ひも」には日も、の意がある)、なお「すそ」をかかる語(被枕詞)としていない。

などきわめて少ないものの、被枕詞となっている語は、それぞれ別の意味もある語であります。「からころも」に対する「すそ」にはそのようなことがありません。「からころも」に対する「き」には「着」のほか「来」の意を持っています。

 このことから類推すると、「すそ」を導いているかにみえる「からころも」は実際の服を特定するために用いられており、いわゆる枕詞ではない、と言えます。「からころものすそ(の、に)」を、和歌の律の関係で「からころも すそ(の、に)」と表現していると見られます。

 

3.片岡智子氏らの考察

① 私は以上のようなことを推論したりしたのですが、片岡智子氏は、『古今和歌集』等での「からころも」表記をも対象とし、高句麗・日本の古墳の壁画等から服飾を検討して詳細な考察をしています。

② 片岡智子氏は、「「からころも(韓衣・唐衣)」考 歌語の実態と消長」(1991/11/8)において、「からころも」の実態を探るとともに、その表現性を解明し、

・「からころも」は、北方胡服系の衣一般を指すものでなく、その後の時代に有用性故に残った特徴のある特定すべき衣の呼称であった。

・「からころも」は、胡風で、前身頃が左右に返されて前聞きの、秋に縫われる袷の衣で、恋の衣、旅の衣となる外套だったのである。

・時代とともに袖などが変化したが、長く愛用された衣服で、それは季節感もあり、表現性も豊かで、五音で声調も良く、歌語として定着した。

等を明らかにして、今まで単なる技巧とだけ捉えられていた枕詞や序詞(および)そこから導き出される縁語、掛詞が、にわかに生々と水々しく具体的イメージを伴って浮上して来る、と指摘しています。

③ また、『國史大辭典』(吉川弘文館)では、「萬葉集に「可良許呂毛」(巻14,20),「辛衣」(巻11)、「韓衣」(巻10)とある。「須曽尓等里都伎」(すそにとりつき)とか「襴之不相而」(すそのあはずて)として多く「すそ」にかけて使用しているので、長衣の襴付衣の表衣にちがいない。したがって短衣の無襴の背子(はいし・からぎぬ)とは別の表衣である。外来服であり、唐様か韓様かが問題であるが、『日本書記』天武天皇13年(684)閏四月丙戌条の詔に、「男女並衣服者、有襴・無襴、及結紐長紐、任意服之、其会集之日、著襴衣而著長紐」とあって、唐様の有襴の表衣の使用を伝えているので、「からころも」は、この種の胡服系の盤領(まるえり)の縫腋(ほうえき)のことのようである。」と説明しています。

④ 吉野裕子氏は、『新編日本古典文学全集 月報3』の「枕詞を推理する 御食向ふ」において、枕詞とは「古く日本の歌、文章において、特定の語の上におかれた言葉で、その目的は、その語を修飾し、あるいは句調を整えることにある、と定義されるとしたうえで、「枕詞は、まさにこの定義通りであるが、時には内実に深く立ち入り、その意味を推理する必要があろう。ある種の枕詞は古代日本人の世界観・祖霊観を内包し、同時に、それに伴う彼らの豊かな情感をも充分うかがわせるものだからである。」と論じています。

 

4.700年代でのからころも

① 片岡氏の論は、説得力があります。萬葉集歌人である官人も防人も着ることができた服の一つを「からころも」と詠っていると、私は思います。

しかし、服は、普通繰り返し着ることにより慣れてきますし、馴れて、だんだんよれよれになるものです。雁の飛来と同時に毎年つくる服ならば、すぐよれよれになる材料の入手が簡単であったと思われます。

 また、官人と、防人や庶民とが、作詠時点と推計した700年代前半の当時、材料も織り方も縫製も同じ服を着ていたとは思えません。現代でも、外套と形容してよい用向きの服は、ピンからキリまであります。江戸時代でも当時でも貧富に応じた外套とならざるを得ません。材料に色々の草木の利用もあったのではないでしょうか。両者が共通に着る日常着である上着が、現代で言えば特定ブランドの基本のデザインが同じ上着とするのは、限定しすぎると思います。

② 片岡氏は、旅の衣でもある、と論じています。

 官人の朝服は、現在の勤務先の制服にあたるもので、出勤途上も着用を義務付けられていないでしょう(律令で確認をしていないので今は予想の一つですが)。後年のことですが、狩衣は、私服として発達し平安時代の常服となっていったそうであり、朝服と常服と言う語を用いて諸氏が説明しています。

 旅行・移動にあたり、官人には、輿などを常用するクラスと乗馬を常用するクラスと徒歩のクラスがあり、それぞれの家柄などにふさわしい私服が着用されたのでしょう。徒歩のクラスの官人は、冬用の外套には、獣皮、布を素材に選んだと思います。庶民においても同じでありましょう。スーツの上に裾を出すスタイルを撰べば、その外套が短衣(丈が長くない衣)というデザインであるのは、いつの時代も同じではないでしょうか。

③ 2-1-2198歌から、雁が飛来する頃毎年「からころも」(という服)は作る、あるいは作り直される、と言うことが示唆されていますので、長持ちする材料で作る服でも「からころも」の範疇であるようにみえます。

④片岡氏の論と上記を踏まえると、裾に特徴のある胡服起源を含めて、

「からころも」表記は、官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着を指す、と思われます。その上着は、耐用年数1年未満の材料・製法の衣も含まれます。

⑤ なお、片岡氏は、三代集の「からころも」表記のある歌の解釈もこの論文で示していますが、1-1-995歌に関する指摘については理解できませんでした。

⑥ 次回は、三代集の「からころも」表記に関して記します。

 御覧いただき、ありがとうございます。

 

 

わかたんかこれの日記 ゆふつけとりは2種類

2017/5/1  前回、「平安初期のあふさか その2」と題して記しました。

 今回は、「ゆふつけとりは2種類」と題して、記します。

「あふさか」表記のある1050年までの歌は、「逢ふ」あるいは「再会」を含意する「あふさか」という土地の名にことよせて作者は意を述べていることがわかりました。

 今回は「ゆふつけとり」と「あふさかのゆふつけとり」を考察し、最古の「ゆふつけとり」表記の歌の理解に資することとします。

 

  1. 「ゆふつけとり」表記に関する確認

① 「ゆふつけとり」表記に関して、いままでに確認したことをまず記します。

② 「ゆふつけ」あるいは「ゆふつくる」と表記した歌は、『新編国歌大観』記載の歌では、採用した推計方法の限界から作詠時点が849年以前と推計される次の3首が最古の歌で、みな「ゆふつけとり」表記があります。

1-1-536歌 相坂のゆふつけどりもわがごとく人やこひしきねのみなくらむ

1-1-634歌 こひこひてまれにこよひぞ相坂のゆふつけ鳥はなかずもあらなむ

1-1-995歌 たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣たつたの山にをりはへてなく

 『萬葉集』には記載がありません。 536歌について片桐洋一氏は『古今和歌集全評釈』で、「469歌から始まった恋部は、逢えずに恋い慕う歌ばかりつづいていたが、この歌に至って、やっと「逢ふ恋」が登場した。当時の「恋ふ」は、同じ動詞に「乞う」「請う」などという感じが当たられていることでわかるように、目の前にいない人を求めることであって、逢った時の歓喜を詠むことはない」、と指摘しています。

 そして、この表記の歌は1050年までには一旦終焉しました。この間に22首あります。

③ この22首には、鳥が「なく」行為を詠んでいる歌が16首あります。「なく」とは、歌の本文に「なく(鳴く)・告ぐ・こゑたつ・きこゆ・ひと声」の表現がある、という意です。この16首を、作詠時点順にみると、「なく」時間帯と「ゆふ」に掛る詞に変遷があります。

 第一に、最古の歌から923年以前と推計した歌(5-417-21歌)までの7首は、時点が不明か夕方に「なく」歌であり、そしてすべて「ゆふ」表記に夕方の意が掛かっていたとしても不合理ではありません。そして「あふさかのゆふつけとり」の意と決めかねる歌は、「あふさか」表記のない1-1-995歌だけです。

 また、作中人物は「逢ふ」前の(あるいは逢えると信じてよい)時点で、詠っています。但し、1-1-995歌を留保します。

 第二に、8番目に古い943年以前と推計した1-10-821歌と9番目の951年以前と推計した歌5-416-188歌は、暁に「なく」歌であり、表記に夕方の意が掛かっているのは不自然であります。そしてこの2首における「ゆふつけ」(鳥)は、「あふさかの」と形容されていません。

 また、この2首は、作中人物が「逢ひて」後の時点の状況を詠っています。

 第三に、10番目となる955年以前と推計した1-2-982歌以降は、7首のうち3首が、暁に「なく」歌であり、かつ作中人物が「逢ひて」後の時点の状況を詠っており、そしてその3首の「ゆふ」表記に夕方の意が掛かっているのは不自然であったり、「夕」の表現をわざわざするという工夫を凝らしています。 

④ 「あふさか」という地名が表記された『萬葉集』記載の歌6首のうち3首で、三代集記載の歌すべてに「逢ふ」意が含まれています。「あふさかのゆふつけとり」は、「逢ふ」ことに関して歌人は用いて鳴かせているということです。

⑤ 1-10-821歌は、ゆふつけ鳥が初めて暁に鳴いている歌です。歌合における 「暁別」 と題する歌であり、その題から鳥の「鳴く」時間帯が作者に与えられていることになります。

1-10-821歌 『続後撰和歌集』 兵部卿元良親王家歌合に、暁別   よみ人しらず

したひものゆふつけ鳥のこゑたててけさのわかれにわれぞなきぬる

 積極的に「あふさかの」という形容を止めた最初の歌であり、「ゆふつけとり」と表記した後朝の別れの歌として最初の歌でもあります。

 「ゆふつけとり」に、「都あるいはその近辺の住居の近くにいる」設定の「ゆふつけとり」があらたに加わりました。「あふさかで聞くことのできるゆふつけとり」からどこにでもいる「ゆふつけとり」へ、「ゆふつけとり」の一般化がされたという理解も可能です。

 この歌で鶏の異名として「ゆふつけとり」が確定し、鳴く時間帯も暁が定番となったと思われます。

⑥ 「ゆふつけ」表記に含意する詞は、最古の歌の「夕べ」から始まり、1-10-821歌で「結ふ」、3-23-26歌で「木綿」が加わりました。

⑦ 「ゆふつけとり」表記の略称としての「ゆふつけ」表記がある最初の歌は、1-2-1126歌であり、最古の歌(849年以前の歌)から約60年後の作詠です。そのつぎの略称使用の歌は、さらに約40年後の大和物語にある5-416-188歌です。但し1-1-995歌は留保します。

⑧「ゆふつけ」表記あるいは「ゆふつくる」表記の歌にはゆふつけ鳥を意味しない歌もあり、単に「夕べ」、「木綿を付ける」意の歌が各々1首、5首あります。

⑨ 「をりはへて」と言う表記は、『萬葉集』になく三代集に「ゆふつけとり」で1首(1-1-995歌)、ほととぎすで2首あります。「をりはへてなく」とは、一フレーズの時間が長いというよりも、飽きないでそのフレーズを繰り返している状況を指しています。「声ふりたてて」も同じ状況を指しています。

⑩ 最初の7首に登場する「ゆふつけとり」が、どんな鳥を指すのかまだ未検討です。

 

2.最初の7首におけるゆふつけ鳥の実際

① 1-1-821歌以前の「ゆふつけとり」が「なく」のを改めて各歌についてみると、

1-1-536歌は、ねのみなくらん

1-1-634歌は、なかずもあらなん

1-1-995歌は、をりはへてなく

1-1-740歌は、ゆふつけとりはなくという表現がなく (作者が)なくなくもみめ

3-13-87歌は、つげしかど

1-2--1126歌は、(ゆふつけに)なく鳥のねを・・・ききとがめずぞ・・・

5-417-21歌は、ゆふなきを・・・(作者が)なきわたるききわたる

と、あふさかのゆふつけとりは、季節を気にせず鳴き続けています。

 たまたま相坂にいる鳥、季節性の強い鳥ではなさそうです。

 夕べを「ゆふ」に掛けている歌からは夕方鳴き続ける鳥のイメージがあります。

② 鳥の習性は、昔も今もほとんど変わりません。だから、現在の夕べの光景も充分参考になる、と考えらます。

 充分大きくなった街路樹のある駅前などで、夕方モズが集団を為してせわしく鳴いている光景をよく見かけます。そして自らの巣にある方向に一斉に飛び立ちます。

 カラスやスズメなどが集団を為して夕方飛び回り一方向に飛んでゆく光景も、よく目にします。

 鶏は養鶏場に飼われているので放し飼いされた鶏の夕方の行動はわかりません。どなたか教えてください。自家用の卵を採るため各農家が飼っていたころは、夕方鶏の騒ぎを聞いたことがあります。

 当時鶏は、採卵よりも闘鶏用に飼われ(当然オスが少なくない)ていました。

③ 相坂の地は、平城遷都により歌人にぐっと近いものになりました。相坂にあったという関寺やその近くの石山寺など、参詣で相坂の地は官人以外も通過する場所でした。しかし、当時の相坂の地は、森林に囲まれていたはずです。夜は街灯のない当時は新月の夜は星明りだけです。

 当時の日本列島の人口は、井上滿郎氏(論文「平安京の人口について」)によると、平安初期の人口は約600万人です。2017年1月1日現在の日本の人口12,694万人の5%未満であり、人口密度は20人/㎢未満です。野鳥は断然身近な存在であり、夕方騒ぐのをみることがよくあったのではないでしょうか。

 日が暮れて行き、巣に向かう前に集まって夕鳴きする鳥たちを、「ゆふつけとり」と表記したのではないでしょうか。飼っていた鶏も鳴き出し、「ゆふつけとり」の仲間となったかもしれません。

 この光景は、1-1-821歌以前の7首の「ゆふつけとり」のイメージに合います。逢えることが分かっている1-1-536歌の作中人物は、その夕暮の鳴き声が、自分の気持ちの高ぶりと同じだと感じたのではないでしょうか。続々と星が見えてくるのは、逢いたい人との距離がどんどん縮まっているかに感じ鳥たちが一斉に鳴いたのち、必ず巣に向かうのを、逢う事へ予祝に思え、頼もしく見上げたのではないでしょうか。

④ 巣に向かう前の情景に登場する鳥たちを「ゆふつけとり」と表記したのだと思います。「夕告げ鳥」であったのです。但し、1-1-995歌がこの理解で良いかどうかは、保留せざるを得ません。「逢う」前と作者が思っているのかを、今のところ歌に私は発見できないでいますので。

 

3.和歌の表現

① 『古今和歌集』の作者たちは、和歌を、清濁無視の平仮名で書き表し、積極的に、それを利用して作詠していると、諸氏が指摘しています。

 例えば、「ゆふつけ」表記は、「yufutsuke」と「yufuzuke」と「yufutsuge」という発音に対応しているので、その表記の意味は、「夕付け」「夕づけ」「夕告げ」「木綿付け」「木綿づけ」が有り得ます。また、「ゆふ」表記だけならば「夕」や「木綿」のほかに「結ふ」や「言ふ」も有り得ることです。

「ゆふつけ」表記に二つの意味を掛けていることを、歌を贈られた人も歌合の会合に連なる人も理解していたということです。

② 今、資料として用いた『新編国歌大観』の、『古今和歌集』は、漢字かな交じりで記述されています。そのほかの歌集も同じです。今目にしている歌の表現が、詠まれた時の姿ではない、ということです。原本となる歌はコピー&ペーストで広がったのではなく人の手で書き写されて広がり、今日まで伝えらました。

③ 現在、和歌本文にある「ゆふつけ鳥」という表現を、[yuutsukedori]と発音していますが、『古今和歌集』の歌人たちが、どのように発音していたのか、知りません。

 和歌は、公私の宴会の席、歌合の場で、朗々と読み上げられたと、諸氏が指摘しています。詩文での前例があります。

④ (2017/3/31の日記に記したように)和歌の表現は「伝えたい事柄に対して文字を費やすもの」である、という考えで、今検討をしています。例えば、逢った翌朝渡す和歌は、当事者の二人(と仕えている何人かの人々)に意が十分伝わるように、屏風歌であるならば、その屏風で荘厳した賀の式典の参加者には是非とも理解を得ないとなりません。100年後の鑑賞者のために当時の常識的なことに文字を費やすはずがありません。それは、歌集の編纂者も同じです。

⑤ 「あふさかのゆふつけとり」と11文字も費やすのですから、(作者であり、鑑賞者でもある)歌人たち共通の認識があったはずです。1050年前後に廃れてしまった言葉は、後代の者にはなぞかけの一つになりました。

4.ゆふつけとりとあふさかのゆふつけとり

① 「逢ふ」を含意できる「あふさか」の地名は、『萬葉集』では「相坂山」で多く用いられ、その後色々の景物を生みました。そのひとつである「ゆふつけとり」が、849年以前の1-1-536歌などで生まれました。「しみつ」(清水)も、850年以前の1-1-537歌で生まれています。

 「あふさかのゆふつけとり」は、略称が作れなくて文字数をなかなか減らせませんでした。

 「あふさかのせき」は、「せき」で同じ意を持つようになりました。

 「あふさかのしみつ」 は、三代集だけに限っても、最初の「相坂の関にながるるいはし水」から、「あふさかの関のし水」、  「あふさか山のいはし水」  「(関こえてあはづのもりのあはずとも)し水」と苦労しています。

④ このようななかで、暁に鳴く鶏という意を新たに「ゆふつけとり」表記が獲得したのです。

 「ゆふつけとり」表記は、逢った後のシーンである後朝の別の時間帯に登場する鳥であり、「あふさかのゆふつけとり」表記は、確実に逢える時の時間帯に登場する鳥であるというように、二つの違った概念となったと思われます。「あふさかのゆふつけとり」表記の略称(使用文字の減少)が「ゆふつけとり」だけというわけではありません。

⑤ 現在、「車」(くるま)は、自動車の略称として用いられています。車両法にいう車両の略称としても用いられています。また、車輪や円形のものも指す場合もあります。車輪から「車」という用語がはじまったのでしょうが、現在は、自動車の略称としてよく使われています。「ゆふつけとり」も意味が順々と込められていって、最後の意味が主たる使い方となっていったのではないでしょうか。

⑥ 1-10-821歌の作者は、「あふさかのゆふつけとり」の持っていた「なく鳥」のイメージだけを引き継いだのではないかと思われます。

 暁になく鳥の候補は、時を告げるイメージを既に得ている鶏、『古今和歌集』夏の部に象徴されるように聞くことができる時期が限られているものの暁の鳥と詠われている郭公、現代の電線に集まる雀、暁烏とも称される烏などがあります。そのなかから、歌人たちは、季節に関係なく鳴く鶏を選び取ったのではないでしょうか。

⑦ 相坂の現実を離れて「ゆふつけとり」と詠うにつれ、「なく」要素をも意識から消えてゆき、単に、鶏を指す言葉と歌人たちが理解してしまったのではないでしょうか。(1050年以降の「ゆふつけとり」の検討は後日とします。)

 

5.1-1-995歌について

① 1-1-995歌の「ゆふつけとり」表記は、夕べに鳴いているとなれば、(たつたの山で鳴いても)1-1-536歌の「あふさかのゆふつけとり」と同様に、の意という解釈も可能です。「みそぎ」などの用語から、夕べに鳴いていることが否定されると、1-1-536歌の「ゆふつけとり」と違う意味合いを持っている可能性が生じます。

② 1-1-536歌や1-1-634歌の作者は、相坂の地に居るか、相坂に居る思い人のところに夜往復できる土地にいる人物が、まず浮かびます。防人の歌が『萬葉集』にあるように、都に住んでいない人達がたくさんの歌を詠んでいますから、この可能性は高いと思いますが、相坂を通過する官人の可能性があります。1-1-995歌の作者が相坂に居るものとは思えませんので、どのような経緯で「あふさかのゆふつけとり」という表現を知ったのかも確認を要すかもしれません。

③ 1-1-995歌の理解のためには、この歌の用語で名詞である「みそぎ」や「からころも」や「たつたのやま」も、この時代どのような認識を歌人たちが持っていたのか、の確認が要します。

④ なお、ここに記した事柄を、すでに公表されている論文・記事等が指摘していたら、私のこの記事はその指摘を再確認しているものです。

次回は、これらの名詞のうち、「からころも」に関して記します。

ご覧いただき、ありがとうございます。

わかたんかこれの日記 平安初期のあふさか その2

2017/4/27   前回、「平安初期のあふさか その1」と題して記しました。

 今回は、「平安初期のあふさか その2」と題して、記します。

 「あふさか」表記を冠している1050年までの歌で関や山を詠み込んだ歌は、「逢ふ」等を含意する「あふさか」という土地の名にことよせて作者は意を述べていることがわかりました。

 今回は、「あふさか」のその他の景物の描写のある歌や清少納言の関にまつわる歌などを検討し、初期の「ゆふつけとり」表記の歌の理解に資することとします。

 

  1. 平安遷都後の「あふさか」表記36首の考察: しみつ

① 「あふさかのしみつ」表記の歌でも、「あふ」に、「(貴方に)逢う」を掛けて詠まれているかどうかを、確認します。

 検討対象の歌は、次の3首です。

1-01-537歌: 『古今和歌集』 第十一 恋歌一 題しらず     よみ人しらず

    相坂の関にながるるいはし水いはで心に思ひこそすれ  

 作詠時点が850年以前の歌で、相坂の清水を詠んだ最古の歌です。久曽神氏は、「相坂の関」とは、恋しい人に逢う意をほのめかしているのであろう、と指摘しています。障害(関)があっても逢いたいと思う気持ちが途切れることのないことを、いはし水は、象徴しています。

 

1-03-0170歌 『拾遺和歌集』 第三 秋 延喜御時月次御屏風に    つらゆき

    あふさかの関のし水に影見えて今やひくらんもち月のこま

 年中行事である相坂の関で行われる駒引きを詠った歌です。畿内と畿外の堺で、連綿と続く行事(を行う朝廷)の永遠性を寿ぐかのように、絶えることのない「清水」を詠み込んでいます。

 

1-01-1004歌 『古今和歌集』 第十九 雑体 

「ふるうたにくはへてたてまつれるながうた」の反歌        壬生 忠岑

    君が世にあふさか山のいはし水こがくれたりと思ひけるかな

 今上天皇の御代に逢い、作者が感じたその恩徳が世に行き渡る様を、絶えず流れでるという清水で、象徴させている歌です。       

 このほか、「あふさか」表記がないものの「せき」と「しみつ」の表記がある1-2-0801歌もあります。

 

1-2-0801歌 『後撰和歌集』 第十二 恋四 

あひしりて侍りける人の、あふみの方へまかりければ       よみ人しらず

    関こえてあはづのもりのあはずともし水にみえしかげをわするな

 この歌の「せき」表記は「逢う」ための障害の意です。その障害に喩えた相坂の地の清水は尽きることはなく、その水面に映った私の影がいつまでも消えずにあるように、(関まで送っていった)私を忘れないで、と作者は詠っています。

 この歌では、「あふさか」の地にある清水は、「逢う」まで作者の気持ちが尽きることのないことを象徴しています。

② このように、「あふさかのしみつ」表記は、絶えることのないことを象徴しています。相坂の地の清水も、官道を往来または送迎で官人には馴染みのものであったと思われます。

 

2.平安遷都後の「あふさか」表記36首の考察: ゆふつけとり

① 三代集での「あふさかのゆふつけとり」表記の歌5首は、作詠時点順に示すと、次のとおりです。

1-1-536歌 相坂のゆふつけどりもわがごとく人やこひしきねのみなくらむ

1-1-634歌 こひこひてまれにこよひぞ相坂のゆふつけ鳥はなかずもあらなむ

1-1-740歌 相坂のゆふつけ鳥にあらばこそ君がゆききをなくなくも見め

1-2-982歌 関もりがあらたまるてふ相坂のゆふつけ鳥はなきつつぞゆく

1-2-1126歌 相坂のゆふつけになく鳥のねをききとがめずぞ行きすぎにける

 これらの歌すべての「あふ」表記には、「逢ふ」が掛かっています。そして「逢ふ」前の時間帯(当時の常識としては夕べ)に「ゆふつけとり」が鳴いています。それも官道が通過する(関が設けられ山も近い)「あふさか」という(逢ふを掛けることのできる名の)集落近くで、日常的に歌人たち(ほとんどが官人です)が聞くことができていた鳥だから、実際に親しみもあったのでしょうか。

 そして、夕べに鳴くという理解がすべて可能です。

 また、作中の主人公は、鳴く声を、気を引いているかに、聞きなしています。あるいは期待が高まる(はず)と聞いています。

② 三代集以外で、「あふさか」と「ゆふつけ」の表記がある1050年以前の歌が、『新編国歌大観』に2首あります。

 一つが、5-417-21歌。923年以前の作詠時点で、「・・・あふさかの ゆふつけとりの ゆふなきを・・・」と表記されている『平中物語』の歌です。ゆふつけとりが夕方に鳴いています。

 もうひとつが、5-419-672歌。999年以前の作詠時点で、「ほのかにもゆふつけどりときこゆればなほあふさかをちかしと思はん」と詠われている『宇津保物語』の歌です。ゆふつけとりがかすかでも鳴いたのが聞こえたので、逢うことも近いと推理するのは当然でしょうと詠っています。聞いたのは後朝の別れの際に聞いたことでないことがはっきりしているので、明け方が対象外となり、夕べという時間帯が有力となります。少なくともこの歌も夕べに鳴くことを否定できていません。

 この2首も「あふさか」で鳥が「なく」ことに意味があり、それも夕べが有力な時間帯です。

③ 「夕べ」とは、日が落ちてゆき訪れた夕闇の空に、それまで見えなかった星がひとつまたひとつと見えてくるころ合いです。続々と星が見えて来ることは、逢いたい人との距離がどんどん縮まっていることを予感させたのではないでしょうか。夕べとは、特に星がみえる夕べとは、人と逢う・逢えることの期待感を膨らましてよい、星がみえることは予祝でもある、と感じ取っていたのではないでしょうか。

④ 1050年以前に作詠された「あふさか」表記の歌35首(景物でカウントすると36首)の、「あふさか」には「逢ふ」が含意されていることが確認できました。そのため歌人、「あふさかのゆふつけとり」という表記ならば、「逢ふ」を含意する「あふさか」の地の鳥であり、官道が通過する地であるので往来する官人もよく聞いた鳥で夕べによく鳴く鳥というイメージを共通にしている思われます。  

⑤ 鳥の種類は次回検討します。

⑥ この時代、「あふさか」表記のない、単に「ゆふつけとり」という表記だけの歌は、「あふさかのゆふつけとり」の略称か、あるいは「逢ふ」を含意する「あふさか」という表現を積極的に作者が避けたかという推測が成り立ちます。

3.三代集以外の歌集等での「あふさかのゆふつけとり」など

① 今、最古の「ゆふつけとり」表記を理解するには、『古今和歌集』成立時点の前後150年程度の期間(750~1050年)の検討を要するとして作業をしています。

② この間に詠まれた歌で「あふさかのゆふつけとり」関連の歌を広く探すと、先の2首のほか、清少納言の歌が、勅撰集に1首あります。

 この歌は、函谷関の故事(鶏鳴の空音で、開門が早まり関を通過でき、つまり目的を達成した)が、相坂の関(鳥が鳴いたので貴方と逢える)に通用しない、と詠っています。鳥は、函谷関の故事にならうと、夜が明けたことを鳴いて知らせるという鶏となります。いままで検討してきた結果の夕べに鳴く鳥では、ありません。

 

1-4-939歌 『後拾遺和歌集』 巻第十六 雑二 

 大納言行成ものがたりなどし侍りけるにうちの御物忌にこもればとていそぎかへりてつとめてとりのこゑにもよほされてといひおこせて侍りければ、よぶかかりけるとりのこゑは函谷関のことにやといひにつかはしたりけるをたちかへりこれはあふさかのせきにはべりとあればよみはべりける    清少納言

    よをこめてとりのそらねにはかるともよにあふさかのせきはゆるさじ

 この歌は、長徳4年(998)か翌年頃のことと諸氏が指摘しています。作詠時点を、今999年以前と、推計します。 小倉百人一首にあり、『枕草子』にある話です(池田亀鑑氏校訂岩波文庫版136段)。その『枕草子』には、返歌が記されています。

    返歌                     行成

    逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか

 作者行成は、鳥ではなく、関で返事をしました。函谷関と違い、官道に設けられた相坂の関は通行自由だったのが実態だったようで、「よりによって相坂の関にかこつけて断るのはおかしいではないか(心にもない断りですね)」と、揶揄しています。

 なお、『後拾遺和歌集』と『枕草子』を比較すると、「とり」と言う表現は同じですが、「函谷関のことにや」と言う表現が『枕草子』では、「孟嘗君のにや」(能因本の『枕草子』では「孟嘗君のかや」)という表現になっています。

 『後拾遺和歌集』によれば、行成が昨夜退席した理由を「夜深かかりけるとりのこゑ」にせき立てられてと事実ではないことを承知で言ってきたので、清少納言は「その鳥は函谷関の鳥ですか。空鳴きの鶏ですね(嘘は言わないで。貴方が逃げ出したのでしたね)」と返事をしています。行成に、折り返し「相坂の鶏」ですと返されたので、この歌を返したしたところ、行成の返歌がありました。

このやり取りの時点は、1-10-821歌が既に披露された後ですが、清少納言は、相坂と「夜明け前の鶏」の関係を知らなかったのです。知っていれば、「夜深かかりけるとりのこゑ」から函谷関ではなく直ちに1-10-821歌も思い浮かべて(「また逢ふ」あるいは「後朝の別れ」などに喩えた)返事をしたためたでしょう。「また、中宮定子様のサロンにきてくださいな」という返事です。

 行成は、最初の書面で鳥を記しました。関の話題としたのは清少納言です。和歌に関する知識の差が明らかです。勅撰集入集は行成が9首、清少納言はこの1首です。

 『枕草子』によれば、返歌があった後「返しもえせずなりにき。いとわろし。」と中宮定子側の評価を清少納言は記し、行成が前日からこの歌の後までの一連のやり取りを楽しく源経房などに披露したという伝聞も紹介しています。当時においても、相坂と(夕べのゆふつけ鳥ではなく)「夜明け前の鶏」の関係の認識は、まだ一部の者に限られていたことの例証であります。

 行成は、詳細を極める日記「権記」が著名で、平安中期の政情・貴族の日常を記録したことで重要視されており、能吏として寛弘四納言の一に列し、当代の能書家として三蹟の一人に数えられています。中宮定子との良き関係は保っていたい者のひとりであります。

② ちなみに、『枕草子』では、鶏への言及は115段だけのようです。

1段(「春は曙・・・」)で、秋について「夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすの寝所へ行くとて、三四、二みつなど、とびいそぐさへあはれなり」と記し、鳴き声より視覚に訴える鳥を挙げています。

41段(「鳥は、・・・」)で、おふむから始まり、ほととぎす、くひな・・・うぐひす・・・とありますが、鶏にへの言及はありません。

72段(夜烏どものゐて・・・「」)では、「木づたひて、寝起きたる声に鳴きたるこそ・・・」、また、73段(「しのびたる所にありては・・・」)では、「(夏夜通し起きていて)ただゐたる上より烏のたかく鳴きて・・・」、と夜明け前の烏の鳴き声を描写しています。

115段(「つねよりことにきこゆるもの・・・」で、元旦の「鳥の声」を挙げています。これは時を告げる鶏鳴を指しています。

③ 詩文では、関と鶏の取り合わせの歌が詠まれている例があります。

例えば、弘仁9年(818)成立という勅撰漢詩集『文華秀麗集』には、函谷関を脱出した孟嘗君の故事を踏まえた詩である「故関聴鶏」などがあります。

また、長和元年(1012)4月頃成立されたとされている『和漢朗詠集』には、題に「鶏」は無く、「暁」の題で「・・・函谷に鶏鳴く」、擣衣の題で「・・・夜夜幽声到暁鶏」とあるのみです。勿論「ゆふつけとり」という用語の例もなく、国内の関と鶏を取り合わせた詩文もありませんでした。

函谷関の故事から「ゆふつけとり」という表記は生じなかった、と言えます。

④ 1050年までに成立した類題和歌集があります。976~982年頃成立という『古今和歌六帖』です。この和歌集は、「ゆふつけとり」を詠む歌を第二帖「宅」の項目の「にはとり」の項に分類しています。平安中期において鶏の別称と歌人たちが認めていたことは間違いありません。第六帖「鳥」の項目には「とり」「つる」「ほととぎす」などが立項されています。なお、この歌集は、943年以前に詠まれた1-10-821歌の後に成立した歌集です。

 『古今和歌六帖』記載の、「ゆふつけとり」表記の歌は、次の3首です。『新編国歌大観』記載の勅撰集に重複している歌があるので、その歌(この日記でいう代表歌)で示すと、

 1-1-634歌 849年以前の作詠と推計したよみ人しらずの歌。

 1-1-740歌 890年以降の作詠で 閑院。

1-1-995歌 作詠時点と作者が634歌と同じ。

 「あふさか」という形容を除けて『古今和歌六帖』は記載しています。

⑤  成立時点が天永2年(1111)~永久3年(1115)の間と言われている『俊頼髄脳』があります。検討の期間後の成立ですので、検討を割愛します。

⑥ 話題を、「あふさか」に戻します。詩文に「相坂」の文字はなく、三代集等に残された和歌では上にみてきたとおりです。

三代集の歌人たちは、「あふさか」には、「逢ふ」あるいは「別れそして再会」のイメージがついて回ることを前提として、関(障害)、山(乗り越える対象)、清水(絶えないこと)及びゆふつけ鳥の鳴き声(期待の高まり、1-10821歌以後は特に再会への期待)のイメージを歌人は共有しています。また、その共有のうえで、「相坂のゆふつけ鳥」の略称としての「ゆふつけ鳥」も生まれたと理解できます。

⑦ 次回は、「ゆふつけとり」と「あふさかのゆふつけとり」に関して記します。

ご覧いただき、ありがとうございます。

 

 

わかたんかこれの日記 平安初期のあふさか その1

2017/4/24      前回、「奈良時代のあふさか」と題して記しました。

今回は、「平安初期のあふさか その1」と題して、記します。

「ゆふつけとり」表記のある最古の歌3首は、(2017/3/31の日記に記載した)作詠時点推計方法の限界から同時期と推計せざるを得ませんでした。ただ、そのうちの2首に「相坂のゆふつけ鳥」とあります。「あふさか」という表記に対する古今集歌人たちのイメージを確かめ、最古の歌3首でのゆふつけ鳥の意味を考える資料とします。

 

1.最古の3首

① 最古の歌は、作詠時点が849年以前と推計した『古今和歌集』のよみ人しらずの3首です。歌番号等は『新編国歌大観』によります。

1-01-536歌 相坂のゆふつけ鳥もわがごとく人やこひしきねのみなくらん

1-01-634歌  こひこひてまれにこよひぞ相坂のゆふつけ鳥はなかずもあらなむ

1-01-995歌  たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣たつたの山にをりはへてなく 

 これらの歌の以後、ゆふつけ鳥には「相坂の」と言う形容が、ついたりつかなかったりしています。ゆふつけ鳥には、「相坂のゆふつけ鳥」ということに限定して、歌人に共通のイメージがあるのかもしれません。

② その時代の言葉は前後150年程度の期間で検討する方針ですので、この3首の理解のためには、前回検討した『萬葉集』のほかに、三代集や同時代の私歌集などが資料となります。

 

2.平安遷都後の「あふさか」表記

① 『萬葉集』以後、1050年までの検討期間の資料として、例にまずより三代集をとりあげます。『新編国歌大観』によって「あふさか」表記の歌を検索すると、『古今和歌集』に10首、『後撰和歌集』に20首及び『拾遺和歌集』に5首あり、合計35首あります。なお『拾遺抄』にある3首は全て『拾遺和歌集』に記載があります。

 又、「あふさか」表記はないものの相手の歌または詞書から相坂の関と特定できる「せき」表記の歌が、2首(1-2-0785歌と1-2-0801歌)ありました。共に,都にいる者と近江国に行くことになった者との間で交された歌です。

 これらの歌の作詠時点を、(2017/3/31の日記に記載した推計方法に従い)推計し、『新編国歌大観』の歌番号等によって整理すると、次の表になります。表中、歌番号等が赤字の歌は、作詠時点の推計にあたり、各集のよみ人しらずの歌と整理して推計した歌です。

 

表 「あふさか」表記の三代集の歌 作詠期間別・表記区分別内訳 (2017/4/24現在)

作詠期間

「あふさか・・・」表記が

「あふさか」(右欄すべてを除く) a

「せき」もある

       b

「やま」もある

       c

「ゆふつけ」もある       d

~850

1-1-988

 

1-1-537

1-1-1107

 

1-1-536

1-1-634

 5首(5首

851~900

1-1-390

 

 

1-1-740

 2首

901~950

1-2-0905

1-2-1038

1-2-1305

1-2-0723

1-3-0314

 

1-2-0859

1-1-0374

1-1-0473

*1-2-0801

1-2-0802

1-2-0981

1-2-0982

(「ゆふつけ」もある/重複歌)

1-2-0983

1-2-0984

1-2-1089

1-2-1303  

1-3-0170

1-2-0516

1-3-1108

1-1-1004

1-2-0622

1-2-0700

 

1-2-0982

(「せき」もある/重複歌)

1-2-1126

 

22首(11首) (重複を除く)

 

*印1首(1首)

951~1000

1-3-0580

 

1-2-0731

*1-2-0785

1-2-0786

1-2-0732

1-3-0169

1-2-1074

 

 

6首(1首

 

*印1首

8首(5首)

18首(8首

 

*印2首(1首

5首(2首

4首(2首)(重複を除く)

35首(17首)(重複を除く)

*印2首(1首

注1)歌番号等は、『新編国歌大観』による。

注2)表記が「「やま」もある」とは、「相坂山」の意の山を言う。

注3)歌番号等が赤字は、作詠時点をよみ人しらずの歌として推計した歌である。

注4)合計欄の赤表示の歌数は、よみ人しらずの歌数の計である。

注5)*印は、「あふさか」表記はないものの相手の歌または詞書から相坂の関と特定できる「せき」表記の歌である。

注6)歌数の合計は、重複歌は合わせて1首とカウントしている(三代集記載の歌数となる)。

注7)三代集には、1001~1050年に詠まれた「あふさか」表記の歌は無かった。

 

② 上の表の「「あふさか」(右欄すべてを除く)」欄(a欄)の歌8首について、その表記が何を指しているのかを歌の内容により確認すると、次のようになり、土地の名と思われる1-1-390歌1首を除き略称といえます。いずれにしてもそれらは「あふさか」の景物と言えます。

1-1-988歌 相坂山の略称     部立は雑

1-1-390歌 相坂という土地の名  部立は離別

1-2-0905歌 相坂の関        部立は恋

1-2-1038歌 相坂山の略称    部立は恋

1-2-1305歌 相坂の関      部立は離別

1-2-0723歌 相坂山の略称    部立は恋

1-3-0314歌 相坂の関      部立は別

1-3-0580歌 相坂山の略称または相坂山を越える峠。歌中の「山人」との関係では前者か。 部立は別

 この35首の歌を改めて、景物により整理し、かつ各歌の部立別及び作詠期間別に集計すると、下の表のようになります。なお、『古今和歌集』の墨滅歌である1-1-1107歌は、部立を恋部として整理しています。

 相坂の景物は、「関」、「山・峠・地名」および「ゆふつけ鳥」の3区分としました、圧倒的に「関」が多く、また、部立では恋の部が多い。

 

 表 「あふさか」表記の三代集の歌 景物別・作詠期間別・部立別内訳  

       (2017/4/24現在)

作詠期間

相坂の景物

 

    

関  b’

山と峠と地名  c’

ゆふつけ鳥  d’

~850

 

 

恋 1首 (1首

恋 1首 (1首

雑 1首 (1首

恋 2首(2首

 5首 (5首

851~900

 

 

離別 1首

恋 1首

 2首

901~950

 

 

恋 10首 (7首)

別・離別 2首

秋・雑秋 2首

雑 2首 (2首

*恋 1首(1首)

恋 4首(2首)

雑体 1首

 

 

恋 1首(1首)

(「せき」もある/重複歌)

雑 1首

23首 (12首

(重複歌含む)

 

*印1首(1首)

951~1000

 

恋 3首

秋 1首

*恋 1首

恋 1首

神楽歌 1首(1首

 

 

6首 (1首

 

*印1首

計(重複1首を含む)

 

21首 (10首)

*印2首(1首)

10首 (5首)

5首(重複1首を含む) (3首)

36首 (18首

*印2首(1首

部立別の計(重複を含む)

 

恋14首(8首

秋・雑秋 3首

離別・別2首

雑 2首(2首)

 

*印恋2首(1首)

恋 6首 (3首

離別 1首

雑・雑体 2首(1首

神楽歌1首(1首)

恋 4首(3首

(重複を含む)

雑 1首

恋24首(14首

秋・雑秋 3首

離別・別 3首

雑:雑体5首(3首)

神楽歌1首(1首)

*印2首(1首)

注1)歌番号等は、『新編国歌大観』による。

注2)表記が「「やま」もある」とは、「相坂山」の意の山を言う。

注3)*印は、「あふさか」表記はないものの相手の歌または詞書から相坂の関と特定できる「せき」表記の歌の集計である。

注4)歌数の合計は、関とゆふつけ鳥の両方のある歌(1-2-0982歌)を各景物ごとに1首とカウントした歌数である。

注5)()内の赤表示の歌数は、作詠時点をよみ人しらずの歌として推計した歌の計である。

注6)三代集には、1001~1050年に詠まれた「あふさか」表記の歌は無かった。

注7)『古今和歌集』の墨滅歌である1-1-1107歌は、部立を恋部として整理した。

 

③ なお「あふさか」の景物には、上の表に加えるのを割愛しましたが、清水、もあります。三代集で「あふさか」表記と「しみつ」表記(清水)のある歌を検索すると、3首あります。 この3首は、絶えず流れ出ていることことに注目し、清らかで変わらぬことの象徴の意で詠われています。

1-01-537歌:「あふさか」と「せき」と「(いは)しみつ」各表記あり よみ人しらず 

1-03-0170歌「あふさか」と「せき」と「しみつ」各表記あり  つらゆき

1-01-1004歌「あふさか」と「やま」と「(いは)しみつ」各表記あり  壬生 忠岑

 「あふさか」表記がないものの「せき」と「しみつ」の表記がある1-2-0801歌もあります。この歌の「せき」表記は「あふさかのせき」の略称です。

 

3.平安遷都後の「あふさか」表記36首の考察  作詠時点から

① 三代集において、「あふさか」表記と合せて「あふさか」の景物を詠みこんだ1050年以前の歌が、景物を指標としてカウントすると36首ありました。勅撰集の部立でみると、「あふさか」は、恋の部の歌が24首と主流でありました。700年代の天平以来の「あふさか」表記に「逢ふ」を重ねることが継承されており、『萬葉集』ではなかった(「あふ」に反するような)関などをも詠う点に、歌人の創意工夫が感じられます。

 この36首について、作詠期間別に、そののち、景物別に検討したいと思います。

② 作詠時点が850年以前の歌5首は、すべて『古今和歌集』のよみ人しらずの時代(849年以前)であり、推計方法の限界でそれ以上の細かい時点の推計ができませんでした。

 3種類の景物に関しては、歌数が少ないものの満遍なく詠われています。

 『萬葉集』では、6首のすべてが「あふさかやま」であり、うち3首が「逢ふ」を掛けていました。「あふさか」が自立してきた感があります。

③ 作詠期間が851~900年の歌2首は、ともに作者名が明らかであり、作詠時点が850年以前の歌(すべてよみ人しらず)より精度が高いと思われます。この2首に、景物の関は詠まれていません。

 但し、作詠期間が901~950年と推計したよみ人しらずの歌で景物の関は7首もあります。よみ人しらずの歌の作詠時点は、直前の勅撰集成立時点と推計する方法なので、『古今和歌集』の成立時点と推計した歌には、900年以前に遡る歌もある可能性があります。

 そのため、景物は満遍なく詠まれていた可能性があります。

④ 作詠期間が901~950年の歌23首は、作者名が明らかな歌が11首あり、残りの12首のよみ人しらずの歌は、推計方法の限界から、900年以前に遡る歌もある可能性があります。

 景物は、関が16首(70%)と断然多い。ゆふつけ鳥は、関と重複している歌を除くと「「ゆふつけになくとり」と表記される1首だけです。しかし、三代集以外で、「あふさか」と「ゆふつけ」の表記があるこの時期の歌が、『新編国歌大観』に1首あります(5-417-21歌)。923年以前の作詠時点の歌で、『平中物語』にある歌です。

⑤ 作詠期間が951~1000年の歌6首は、そのうち5首も作者名が明らかです。その5首の景物は、関が4首と多く、やまが1首です。景物として「やま」を詠むのは神楽歌でありよみ人しらずの歌1首です。このよみ人しらずの歌の作詠時点も遡る可能性があります。

 景物のゆふつけ鳥の歌は、ありません。しかし、三代集以外で、「あふさか」と「ゆふつけ」の表記があるこの時期の歌が、『新編国歌大観』に1首あります(5-419-672歌)。999年以前の作詠時点の歌で『宇津保物語』にある歌です。

⑥ 『拾遺和歌集』の成立を1007年として検討をしていますが、三代集において作詠時点が1001年以降の「あふさか」表記の歌はありません。

 

4.平安遷都後の「あふさか」表記36首の考察  景物と部立から

① 「あふさか」表記と合せて「あふさか」の景物を詠みこんだ1050年以前の三代集中の歌36首において、景物の関(すなわち、「あふさかのせき」)は、上の表の「関」欄(b’ 欄)にあるように21首(59%)と多い。近江国にゆく者との応答歌2首(*印の歌)も景物は関です。『萬葉集』には1首も「あふさかのせき」表記はありませんでした。

② なお、逢坂の関は、現在の滋賀県大津市逢坂の地に関址が比定されています。(国境の峠にではなく近江国側の麓に位置します。)

 この関は、『日本記略』には延暦14年(795)一旦廃止、『文徳実録』には天安元年(857)近江国守の請いにより、また関を置いたとあります。

 一旦廃止後再度関を置くまでに、「あふさかのせき」表記の歌が詠まれたと仮定すると、関は容易に越えられる障害の例に詠われたのかしれません。これの更なる検討は、別の機会におこなうこととします。

③ この21首のうち、恋の部の歌(14首)は、内容をみると700年代の天平以来の「あふさか」表記に「逢ふ」を重ねることをも継承しています。そのうえで、関を、恋路の障害を関が象徴しています。

 念のため、関という施設ではなく関守という役職で「せき」の表記がある1-2-982歌を確認しておきます。

1-2-982歌 後撰和歌集 巻第十四 恋六   よみ人しらず

    関もりがあらたまるてふ相坂のゆふつけ鳥はなきつつぞゆく

 「関守が改ま」り今までに比べると容易には作者が逢えない、というのだから、恋路の障害をイメージしています。

 関を詠う秋の部の歌(3首)は、年中行事の「駒迎え」を詠っている歌となります。

毎年8月中旬に献上した馬を天皇がご覧になる駒牽の行事があります。そのための東国からの馬を馬寮の役人が畿内の入口である相坂の関で引き渡しを受ける儀式の情景を詠っています。関という景物が畿内と畿外を際立たせています。

 関を詠う離別・別の部の歌(2首)での「あふさかのせき」という表記は、平安遷都後(800年代以降)、東国への出入り口として意識され、近江国以遠に行く人を送るあるいは迎える(再び逢えたということを感じる)場所であることが汲みとれます。

④ 景物のやま(すなわち、「あふさか(の)やま」)は、10首あります。そのうちの恋の部の歌8首は「あふ」に、「(貴方に)逢う」を掛けており、雑の部の1-1-988歌も、「貴方に逢うため越えて行かねばならない山」と、「逢ふ」を掛けています。神楽歌(1-3-0580歌 よみ人しらず)も、「逢ふ」ことが叶うかもしれない「あふさかやま」で果たして山人に逢いました、と詠っています。

 このように「あふさか(の)やま」の「あふ」には全て「逢ふ」を掛けて詠われています。

 そのような意の込められた山は、人の滅多に行かない山奥であろうと、荒涼たる野原であろうと乗り越える意図を作者は示しています。

 「あふさか(の)やま」はどこにでもある山ではないのです。

⑤ 景物の「ゆふつけとり」(すなわち、「あふさかのゆふつけとり」)は、5首すべて、「なく」と結びついて詠まれています。せきとやまの考察から推して、「あふ」に、「(貴方に)逢う」を掛けているならば、「なく」は、逢う前の感情の高まりを込めているのではないか、と推測できます。

④ 次回は、「平安期のあふさか」 の続きを記します。

ご覧いただき、ありがとうございます。