わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第1歌など

 前回(2020/7/6)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第1歌総論」と題して記しました。

今回 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第1歌など」と題して、記します。(上村 朋)

 

1.~4.承前

(前回(2020/7/6)より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するか確認中である。すでに「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。3-4-1歌の詞書から再検討を始め、詞書にある「ふみ」に「恋のふみ」(付記1.参照)の理解も可能であることがわかり、詞書について3案の現代語訳を得た。

・「ふみ」を「ものの道理より説いた書き付け」と仮定し、「いふ」を「吟じる」と理解して

 「旧知であった人が、ものの道理より説いた書き付けを、菅笠に載せて差し出し、「これはどのようにご覧になりますか」と(言いつつ)、一節を吟じたので、詠んだ(歌)」 (「巻頭歌詞書の新訳」) 

・「ふみ」を「恋のふみ」と仮定し、かつ「いふ」を「言う」と理解して、 

「よく存じ上げている人が、あるところから(わざわざ)きて、すげの葉で「ふみ」(恋のふみ)を指して、これをどのようにみるか」と言われたので、詠んだ(歌)」 (1歌詞書第1案)

・「ふみ」を「恋のふみ」と仮定し、かつ「いふ」を「吟じる」と理解して、

「よく存じ上げている人が、あるところから(わざわざ)きて、すげの葉で「ふみ」(恋のふみ)を指して、これをどのようにみるか」と(言いつつ、詩歌の)一節を吟じたので、詠んだ(歌)」(1歌詞書第2案) )

 

5.「恋の歌」の要件再録 (前回ブログの2.④参照)

①『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義しておきます。

 第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

 第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

 第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと

 第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと 

② 検討の前提となるこれまでの成果等は、付記2.を参照ください。

 

6.第一の歌群 第1歌 歌本文

①第一の歌群「相手を礼讃する歌群」の最初の歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-1歌  あひしりたりける人の、ものよりきてすげにふみをさしてこれはいかがみるといひたりけるによめる 

   しらすげのまののはぎ原ゆくさくさきみこそ見えめまののはぎはら 

②詞書の概要は、「あひしりたりける人」が、「ふみ」を見せて、「いひたりける」結果、作者はこの3-4-1歌を詠んだ、ということです。この歌は返歌の位置にある歌、と言えます。常識的な「恋の歌」であるならば、「あひしりたりける人」と作者(作中主体)の関係が気になるところです。

③歌本文にある語句について2点確認しておきます。

 歌本文の初句「しらすげの」の「の」は前回整理したように主格の助詞です。また、初句「しらすげの」については、この歌の類似歌(『萬葉集』2-1-284歌)の現代語訳において「枕詞」であるからとして訳出していない人もいます。しかし、「字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものです」(前回ブログ2.①参照)ので、有意の語句として訳出することとします。

 次に、二句にある「まののはぎ原」は、類似歌(2-1-284歌)にある、「まののはりはら」を前提にした語句です。萬葉集歌である類似歌において、「まの」は、「真野」であり現在の神戸市長田区内の地名と想定されています。「まののはりはら」とは「真野にあるハンノキが一面にある野原」の意です。類似歌も初句に「しらすげの」と詠み始めているのをみると、「しらすげ」(植物)も多々ある野原のようです。それを、この歌は「まのの“はぎ原”」としているのは「はぎ」を強調していることになります。恋の歌と見立てると、この歌においては女性を暗示しているのではないか、と推測できます。④歌本文は、二つの文からなります。初句にある「しらすげ」の述語部(行為)が、三句「ゆくさくさ」であるか省略されているとみるかで、2案があります。

 三句は上下の文に掛かるとみると、

しらすげの まののはぎ原<を>ゆくさくさ」+(ゆくさくさ)「きみこそ見えめまののはぎはら」 (1案 三句切れの歌) 

 三句は下の文のみに掛かるとみると、

しらすげの まののはぎ原<である>」+「ゆくさくさきみこそ見えめまののはぎはら」

(2案 二句切れの歌)  

⑤この両案を、詞書の3つの理解ごとに検討します。

 最初に、詞書の「ふみ」を「ものの道理より説いた書き付け」と仮定した「巻頭歌詞書の新訳」の場合、詞書にある「いひたりけるに」(一節を吟じたので)とは、その書き付けかその内容を示唆する一言であり、「偈」のようなものとみると、「しらすげ」は、「知らす偈」(お治めになる偈)となります(ブログ2020/5/11付け参照)。「しらすげ」は同音異義の語句であることになります。

 なお、「しらすげ」が植物の「白菅」の意とすると、この歌で「白菅」が「ふみ」を象徴している理由がわかりません。

⑥「巻頭歌本文の新訳」を参考に、この両案の現代語訳を試みると、次のとおり。

 1案の現代語訳:「(ふみのもたらすものを)知らしめる偈」が、「真野のはぎ原」を行ったり来たりしています。あなたには、それが当然見えてますよね。「真野のはぎはら」が。」

 2案の現代語訳:「(ふみのもたらすものを)知らしめる偈」は、「真野のはぎ原」。あなたが行ったり来たりする度にそれが当然見えてますよね。「真野のはぎはら」が。」

 ⑦1案において、「偈」が「野原を行ったり来たりする」とは、おかしな理解を求めている歌です。「偈」が人かその他の生物を暗喩していなければ意をなしません。しかし、それは「偈」を「書き付け」とみる前提条件で歌が成立しているはずですから、暗喩抜きで意が通じる歌であるのが条件です。

 2案は前提条件に反していません。「まののはぎ原」と言う語句そのものが偈である、と理解できます。だから、「まののはぎ原」に暗喩があればその意を探ることができます。しかし、下記で検討するように、「しらすげ」を偈より植物の白菅とみた方が歌がわかりやすところです。

⑧次に、詞書の「ふみ」を、「恋のふみ」と仮定した「1歌詞書第1案」の場合を、検討します。

⑨初句の「しらすげ」を植物の「白菅」の意としての検討となります。「2020/6/15現在の現代語訳成果」である2018/1/29付けブログの歌本文の訳を参考とします。歌本文で繰り返される「まののはぎはら」の「はら」は、二句と五句で表記が異なります。

 「はら」は同音異義の語句であり、この表記はそれを示唆しているととると、二句は「地名が真野というところにあるハギ即ち特定の女性」、五句は「地名が真野というところに咲くハギの花即ち女性の腹(の子)」という理解が可能です。また、ハギに比較すれば、白菅は、花より実用性が尊ばれている植物です。その実利のあることを初句は強調しているのかもしれません。また、すげは、「すげにふみをさして」と詞書にも触れられています。

⑩詞書が上記の「1歌詞書第1案」であって、「しらすげ」を植物の「白菅」の場合、ハギが女の意を含むので、白菅は、男と推測できます。

歌本文の現代語訳を試みると、つぎのとおり。ます。

 1案の現代語訳:(三句切れの歌):「しらすげになぞらえられる男が、(真野のはりはらではなく)真野のはぎ原(ハギに例えられる女性の許)に行ったり来たり。それが、あなたには、しっかりと見えてますよね、さらにその真野のハギの「はら(腹の子)」が。(おめでとうございます。)(1歌本文第1案)

 2案の現代語訳:(二句切れの歌):「しらすげになぞらえられる男は、(真野のはりはらではなく)真野のはぎ原(ハギに例えられる女性の許)へ。行ったり来たりしているあなたは、しっかりと見えてますよね、さらにその真野のハギの「はら(腹の子)を」

⑪この両案の現代語訳を比較すると、三句の「ゆくさくさ」は相手の男の行動を指しているとみるほうが恋の歌として素直であろうと思います。そのため、前者(1案)が妥当な訳であると思います。以後「1歌本文第1案」ということとします。

 詞書の「ふみ」は歌本文に登場していません「あひしりたりける人」が差し出した「ふみ」は、男からの贈答の「ふみ」であったのでしょうか。

⑫この訳は、類似歌2-1-284歌の意(送別の宴席における、妻が夫の無事の帰任を願っている歌)と異なっています。

⑬「まののはりはら」ならぬ「まののはぎはら」とは、「真野」という地名が示唆するように「朝廷の中枢から遠い家族の女」を暗喩している、とみえます。「あひしりたりける人」は、受領(現地に赴任して行政責任を負う筆頭者)階級の一人であるならば、その資力に魅力を感じた上流貴族の男がいた可能性もあります。

 家柄のよい男と縁ができてその子供が生まれるのは、子供が男女いずれであっても「あひしりたりける人」の家にとっては繁栄につながるのだから、3-4-1歌の作者は、「恋のふみ」の実物まで持ってきて喜んでいる人に挨拶を申し上げたのがこの歌である、と理解したところです。 

⑭次に、詞書が「1歌詞書第2案」である歌として検討します。

 詞書における「吟じた」ものが歌本文に詠まれているとみると、初句にある「しらすげ」(「知らす偈」)となります。そして、主格の助詞「の」によって「しらすげ」を文の主語として検討することになります。

 そうすると、先に検討した詞書の「ふみ」が「ものの道理より説いた書き付け」の場合(「巻頭歌詞書の新訳」)の歌本文」と同じような現代語訳になります。さらに「しらすげ」が男をも示唆するとみるならば、「1歌詞書第1案」の詞書と理解する方が無理の少ない推測です。

⑮このため、「恋の歌」として3-4-1歌を理解しようとすると、「ふみ」が「恋のふみ」を指す詞書である「1歌詞書第1案」であって歌本文が上記の「1歌本文第1案」という組み合わせが有力となります。

 この案の場合、3-4-1歌は、当事者の男女の間を往復した歌ではありませんが、第三者が恋の成就を祝って詠っているとみてよい歌です。このため、「恋の心によせる歌」と理解でき、「恋の歌」の要件の第一(「成人男女の仲」に関して詠んだ歌)を満足している、と思います。

 要件の第二(当該類似歌と歌意が異なる歌)も第四(別の理解も許す)も満足しています。

 しかし、残りの一つ(第三の要件)、即ちこの詞書のもとにおける3-4-2歌本文とのバランスなどは3-4-2歌の検討後の確認となります。

⑯なお、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である詞書の現代語訳、即ち「巻頭歌詞書の新訳」における格助詞「に」も、「1歌詞書第1案」同様に「動作・作用が行われるための方法・手段を示す」意と理解し、現代語訳を修正したいと思います。次のとおり。

「よく存じ上げている人が、ものの道理より説いた書き付けを、すげの葉で指して、「これはどのようにみるかね」と(言いつつ)、一節を吟じたので、詠んだ(歌)」

 これを以後、「巻頭歌詞書の改訂新訳」ということとします。

 また、3-4-1歌の歌本文の現代語訳も、初句の「の」を主格の助詞と理解し、二句で文が切れているとみて、「巻頭歌本文の新訳」より次のように修正します。

 二句の「まの」は地名に「真の野」(接頭語「ま」+名詞「野」)が掛かっていることと、「はぎ原」が「ハギが咲く野原(人々がハギ同様に愛するはずの所説)」の意であることを明確にし、五句にある「はぎはら」が猿丸集を掛けているとみて、「こそみえめ」を意訳したい、と思います。

「(ふみに記された所説を)知らしめる偈は、「真野のはぎはら」。真野の地のハンノキの原のなかにあってもハギの一群れは楽しめるもの。おなじように、行きつ戻りつして楽しめるのが、和歌の真の歌集『猿丸集』であり、あなたにはそれが当然わかっておいででしたね。」(和歌を誤りなく理解する方法を) 

 以後この訳を「巻頭歌本文の改訂新訳」ということにします。

 

7.再考第一の歌群 第2歌

① 3-4-2歌の詞書は、3-4-1歌の詞書と同じです。3-4-1歌では、詞書の「ふみ」を、「恋のふみ」と仮定した「1歌詞書第1案」で歌本文は「恋の歌」と理解できました。

 3-4-2歌の歌本文も、この詞書(「1歌詞書第1案」)のもとで、初句にある「(からひと)の」を3-4-1歌などと同様に主格の助詞と理解して、「恋の歌」となるかどうかを検討します。(②は欠)

②歌を、『新編国歌大観』から引用します。

 3-4-2歌   (詞書は3-4-1歌に同じ) 

    から人のころもそむてふむらさきのこころにしみておもほゆるかな

 初句にある「からひと」を、外国からきた人、あるいは遠来の人、の意を掛けていると理解すると、詞書にある「あひしりたりける人」を指す語句ではないか、と予想できます。

③3-4-2歌を、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である2018/2/5付けブログの訳は、初句にある「の」を主格の助詞としていない訳でした。そして、2020/5/11付けブログに記す「巻頭第2歌の新訳」では主格の助詞とみていますので、3-4-1歌と同様にそれを参考として歌本文を検討すると、次のとおり。

 「から人が(遠来の貴方が)衣を染める(染めさせる)材料という紫草。それに覆われる野原は、強い関心をいだくものだと、自然に思われてくるなあ。」

3-4-1歌にならい、「2歌本文1案」ということにします。

④五句にある「かな」は、「詠嘆的に言いきる」終助詞です。

⑤この訳では、詞書にある「ふみ」に言及がないことになります。しかし、初句の「から人」は、「ふみ」を持参してきた人と重なり、詞書にある「あひしりたりける人」への関心は3-4-1歌と変わりなくあります。

⑥この現代語訳の3-4-2歌は、男女の間を往復した「ふみ」による成果を予想しており、前回のブログ(2020/7/6付け)の付記1.に例示した歌同様に、「恋の心によせる歌」の1種であり「恋の歌」の要件第一を満足する、といえます。

第二と第四も参考とした現代語訳と同様満足しています。

⑦そして、同じ詞書のもとで3-4-1歌と3-4-2歌は、「1歌本文1案」と「2歌本文1案」と理解できるので、歌の内容も一連の歌と認められます。このため、第三の要件「誰かが編纂した歌集記載の歌であるので、歌の配列上違和感のないこと」をも両歌は満足しています。

⑧なお、「ふみ」を「ものの道理より説いた書き付け」の意とみた場合は、3-4-2歌は次のような訳が得られます。「ころもそむてふむらさき」とは、限定した衣を染める材料を強調しており、それは『猿丸集』を構成する「詞書の記載の各歌」(元資料の歌)を示唆しているのではないか。

 「から人が衣を染める材料という紫草(元資料の歌)。それに覆われる野原(詞書を新たにして配列された『猿丸集』)に、強い関心をいだくものだと、自然に思われてくるなあ。」(巻頭第2歌の改訂新訳)

 

8.再考第一の歌群 第3歌

①次に、3-4-3歌を、検討します。現代語訳(試案)(「2020/6/15現在の現代語訳成果」)のままで恋の歌になっていますが、その理解では、3-4-1歌から3-4-3歌から成る第一の歌群となるための上記2.④の第三の要件を満足するかどうかが気がかりな歌です。そのため、詞書から再検討します。

『新編国歌大観』から歌を引用します。

 3-4-3歌  あだなりける人の、さすがにたのめつつつれなくのみありければ、うらみてよめる 

   いでひとはことのみぞよき月くさのうつしごころはいろことにして

②2018/2/19付けブログより、詞書のみ現代語訳(試案)を引用します。

 「心許ないと思っていた人が、そうでもないのではないか、私には頼みになるように思わせながら素っ気ない態度ばかりとっていたと見えていたが、と思いなおし、よくよく相手の気持ちを見定めたので、詠んだ(歌) 」(3歌詞書の現代語訳(試案))

③詞書の最初にある「あだ」には「(人の心・命・花などについて)はかない・心もとない」意のほかに「粗略である・無益である」意があります。最後にある「みる」も同音意義の語で、「思う・解釈する」意もあります。

④これらの意を踏まえて現代語訳を試みると、

 「無益で役にたたないお人ではないかと見ていた人は、(実は)そうでもなく、ずっと頼みに思わせていて無情なだけ(頼みを聞いてくれてないふりをしていた)という状況であったということがわかり、その人の心情を推し量り、詠んだ(歌)。」 (3歌詞書の別訳) 

⑤恋の歌でありかつ第一の歌群の歌であれば、この歌の詞書にある「あだなりける人」は、直前にある詞書の「あひしりたりける人」を指しているのではないか、と推測できます。この詞書は、「あだなりける人」に敬意を表しています。そういう気持ちが歌本文でも読み取れるかどうか、です。

それを、確認します。

⑥これまでの成果である「3歌詞書の現代語訳(試案)」を前提にした場合、歌本文の現代語訳(試案)は、次のとおりです(2018/2/19付けブログより)。

 「いやもう、男の方は本当にすること為すことがご立派でありますね。月草で染めたものがすぐ色の褪めるように変る移し心をお持ちであっても。そのように思っていたあなたのふるまいは、特別でしたね(移し心を持っていても貴方は別格でした。あなたを信じています)。」(3歌本文の現代語訳(試案))

 初句と二句に示された「事」に関する作者の感慨が、一般論の感慨であるのに対して、下句では個別論で「こと」に関した感慨を詠んでいる、と理解したところの現代語訳です。

⑦新しい詞書の理解(3歌詞書の別訳)を前提とした場合、 同音異義の語句「こと」の理解(事)を踏襲しても、歌本文の上記⑥に示す現代語訳(試案)のままでは、「男の人」などの訳が不適切です。 

 また、前の2首を受けて詠んでいる歌と理解すれば、初句~二句は、一般論ではなく、「あひしりたりける人」がかかわる3-4-1歌と3-4-2歌に詠われている具体的な事例を受けて詠いだしていることになり、特定の人の特定の行動を評している、とみたほうがよい、と思います。三句以下の文も同様に、初句~二句に重ねて特定の人の特定の行動を評している、とみることができる、と思います。個別論で評した後一般論で立派だと念押しする必要はありません。

⑧二句にある「こと(事)」を、「(政務、仕事、また行事などを含んで)人のするわざ・ふるまい」の意とし、五句にある「いろ」を「豊かな心情」、五句にある「こと(殊に)」を「とりわけ・格別であるようす」の意とすると、次の現代語訳となります。

「いやもう、あなた様は本当にすること為すことがご立派でありますね。月草で染めたものがすぐ色の褪めるように変る移し心とは異なる本心による、あなたの(この度の)心配りは格別のことでしたね。」(3歌本文別訳)

⑨3-4-3歌本文でも、「あだなりける人」は前の詞書にある「あひしりたりける人」を指しており、この度のことでご立派な方だと気が付いた、と詠っています。

 この歌の作者は、だから、3-4-1歌などを詠んだ人から話を聞いた人であっても良い、と思います。

⑩このような理解は、恋の成就に当たった苦労話にまつわる歌であり「恋の心によせる歌」の1首です。「恋の歌」の要件の第一を満足し、恋の当事者間での歌であった類似歌と異なるので第二を満足しています。もちろん第四も満足しています。

 3-4-1歌~3-4-3歌は「あひしりたりける人」を礼讃した歌という共通点があり、作者(作中主体でもある)の想定も次のような関係を想定できます。このため、この3首は一連の歌とみなせますので、第三の要件も満足しています。

 3-4-1歌:「ふみ」を持参した人の親戚の男(官人)か「ふみ」を持参した人の夫人 

 3-4-2歌:男 3-4-1歌の作者と同じ人物か「ふみ」を持参した時に同席していた人(男女どちらでも可) 

 3-4-3歌:女 3-4-1歌の作者と同じ人物か「ふみ」を持参した時に同席していた人(男女どちらでも可)あるいは3-4-1歌の作者から話を聞いた人(男女どちらでも可)

⑪このように、3-4-1歌から3-4-3歌は、「ふみ」を「恋のふみ」と仮定をすると、「恋の歌」として一つの歌群を成してもおかしくありません。そして歌群のネーミングも「相手を礼讃する歌群」というのは妥当であろう、と思います。『猿丸集』全体の配列からの歌群のネーミングの検討と次の歌3-4-4歌と一組の歌群を成すかどうかの検討は後ほど行うこととします。

⑫なお、3-4-1歌の詞書にある「ふみ」を「ものの道理より説いた書き付け」とした場合でも3-4-3歌は、『猿丸集』の序の歌として、「あひしりたりける人」を礼讃しており、詞書と歌本文も「ふみ」を「恋のふみ」とする場合と同じ現代語訳が妥当である、と思います。作者についても同様です。

 そして、3-4-1歌から3-4-3歌は同じ話題について、立派な人だと詠っており、特定の人の特定の行動を繰り返し評している歌であり、一つの歌群を成している、と言えます。また、歌群のネーミング(相手を礼讃する歌群)も適切である、と思います。作者は、「ふみ」を「恋のふみ」と仮定した場合と同様であるので、3首すべて男ということも可能となりました。

⑬『猿丸集』の最初の歌群の3首の再検討結果をまとめると、つぎのようになります。詞書と歌本文は、3首すべての現代語訳が今回改まったことになります。

 

表 3-4-1歌~3-4-3歌の現代語訳の結果  (2020/7/13 現在)

歌群

歌番号等

恋の歌として

別の歌(序の歌)として

詞書

歌本文

詞書

歌本文

歌群第一

相手を礼讃する歌

3-4-1

1歌詞書第1案

1歌本文第1案(しらすげは植物&男)

巻頭歌詞書の改訂新訳

 

巻頭歌本文の改訂新訳(しらすげは植物&偈)

3-4-2

同上

2歌本文第1案

同上

巻頭第2歌の改訂新訳

3-4-3

3歌詞書の別訳

3歌本文別訳

3歌詞書の別訳(恋の歌と同じ)

3歌本文別訳(恋の歌と同じ)

 

 

「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。次回は、次の歌群(歌群第二)の歌を検討したい、と思います。

(2020/7/13    上村 朋)

付記1.「恋の歌」について

①「恋の歌」かどうか検討するため、「恋のふみ」を、前回のブログ(2020/7/6付け)の「4.②」に定義した。

②引用すると、次のとおり。

「恋のふみ」とは、「男女の間で贈答した書き付け」とし、さらに「男女の結び付きの、きっかけから死に別れあるいは別れが確定したと当事者が認識するまでの間に当該男女のやりとりした書き物」をとくに指す。

 

付記2.これまでの成果等について

①恋の歌の確認方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集が恋の歌か 第1歌総論」(2020/7/6付け)の2.参照。

②恋の歌として検討する前提となる『猿丸集』検討の成果は、「2020/6/15現在の現代語訳成果」と総称しており、3-4-1歌から3-4-11歌を例示すれば、次のとおり。

表「2020/6/15現在の現代語訳成果」の歌別詞書・歌本文別略称例 (2020/7/6現在)

歌番号等

現代語訳成果の略称

記載のブログ

3-4-1

巻頭歌詞書の新訳 &

巻頭歌本文の新訳

2020/5/11付け

3-4-2

巻頭歌詞書の新訳 &

巻頭第2歌の新訳

2020/5/11付け

3-4-3

3-4-3歌の現代語訳(試案)の細部変更案

2020/5/25付け及び2018/2/19付け

3-4-4~

 3-4-5

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/2/26付けまたは2018/3/5付け

3-4-6~

3-4-7

3-4-**歌の現代語訳(試案)の少々訂正案

2020/5/25付け(訂正案) 及び

2018/3/12付け*1と2018/3/19付け*2

3-4-8

3-4-8歌の現代語訳(試案)

2018/3/26付け

3-4-9

2020/5/25付けブログの例示訳(試案)

2020/5/25付け

3-4-10~

3-4-11

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/4/9付けほか当該関係ブログ

注1)歌番号等欄 『新編国歌大観』の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)記載のブログ欄 日付はその日付のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を指す

(付記終わり 2020/7/13  上村 朋)

*1:試案

*2:試案

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第1歌総論

 前回(2020/6/15)、 「わかたんかこれ 猿丸集の部立てと歌群の推測 その4 再びみぬ人」と題して記しました。

今回 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第1歌総論」と題して、第1歌から再検討をします(上村 朋)。(付記1.に2020/7/13三代集を追加した。)

 

1.『猿丸集』の恋の歌集なのか

①『猿丸集』は、52首からなる、猿丸(大夫)という人物に仮託した歌集と言われ、異伝歌を集めた歌集ともいわれてきています。しかし、『人丸集』や『赤人集』と異なり全部の歌が新たな詞書を付けて集録されており、異伝歌を集めた歌集としては変な歌集です。

 その歌集の各歌について現代語訳を私は試みてきましたが、『猿丸集』の52首すべては、異伝歌ではなく、的確な表現の詞書を持つ新たな歌であり、恋の歌が大変多い歌集でした。

②次に、『猿丸集』の構成を検討するため、勅撰集の各巻の巻頭歌と掉尾の歌になぞらえ、最初と最後の詞書のもとにある歌各2首を比較検討すると、それらは編纂意図を示したかのような歌と受け取れました。

 それに従い、恋の歌の歌集と仮定して歌群を想定したところ、1案として12の歌群を得ました。歌群名が固定できていませんが、次のような歌群です。

 

第一 相手を礼讃する歌群:3-4-1歌~3-4-3歌 (3首 詞書2題) 

     この歌群は歌集の序ともとれる内容の歌群である。

第二 逢わない相手を怨む歌群:3-4-4歌~3-4-9歌 (6首 詞書5題)

第三 訪れを待つ歌群:3-4-10歌~3-4-11歌 (2首 詞書2題)

第四 あうことがかなわぬ歌群:3-4-12歌~3-4-18歌 (7首 詞書4題)

第五 逆境の歌群:3-4-19歌~3-4-26歌 (8首 詞書3題)

第六 逆境深まる歌群:3-4-27歌~3-4-28歌 (2首 詞書2題)

第七 乗り越える歌群:3-4-29歌~3-4-32歌 (4首 詞書3題)

第八 もどかしい進展の歌群:3-4-33歌~3-4-36歌 (4首 詞書4題)

第九 破局再確認の歌群:3-4-37歌~3-4-41歌 (5首 詞書2題)

      (当初案から名称変更)

第十 「懐かしんでいる歌群」あるいは「未練の歌群」:3-4-42歌~3-4-44歌 (3首 詞書2題)

      (当初案から名称変更と対象歌を減少)

第十一 「新たなチャレンジの歌群」:3-4-45歌~3-4-49歌 (5首 詞書4題)

      (当初案から対象歌を増加し名称変更)

第十二 今後に期待する歌群:3-4-50歌~3-4-52歌 (3首 詞書2題)

       この歌群は、歌集編纂者の後記とも思わせる歌群である。

③このようなネーミングの歌群構成から成る歌集というからには、『猿丸集』歌52首が、すべて「恋の歌」であるのが望ましいところです。恋の当事者の歌に限らなくとも、広く「恋の心によせる歌」であって欲しい。

 『古今和歌集』にある1-1-1014歌は、「七月六日たなばたの心をよみける」と題する藤原かねすけの朝臣の歌です。『拾遺和歌集』にある1-3-925歌は恋五の巻頭歌です。これらの歌は「恋の歌」の一例と考えています(付記1.参照)。

④フィルターは、あるものを取り除いたり弱めたりするので、別のあるものを強調してみせてくれます。同じように広く「恋の心によせる歌」であるはずと仮定して、『猿丸集』の歌を理解すると、どのような歌集が立ち現れるのか、それをこれから試みてみます。

 このフィルターを掛けた作業により、これまでの『猿丸集』各歌の現代語訳の成果がチェックできますので、『猿丸集』編纂の意図や方針検討の一助となると予想しています。

 

2.恋の歌確認の方法

①これまで通り、次のことが前提です。

 第一 言葉は、ある年代には共通の認識で使われるものであり、その年代をすぎると、それまでの認識のほかに新たな認識を加えたりして使われるものである、という考えを前提とします。もてはやされる用語(とその使い方)がある、ということを認めたものです。

 第二 字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものです。

 第三 和歌は、歌集として今日まで伝わっています。その歌集の撰者・編纂者は、自らの意図で歌を取捨選択し歌集を作っています。だから、歌集の撰者・編纂者の意図と個々の作品(各歌)の作者の意図とは別です。歌集そのものとそれに記載の歌とは別の作品、ということです。

②『猿丸集』の成立は、今のところ公任の「三十六人撰」成立以前と仮定しています。どこまで遡れるかというと、『古今和歌集』歌を前提とした歌が多くあるので、『古今和歌集』成立以後までです(直後の時期は除外できると予想しています)。言葉の意味の時代的限定がある、ということです(付記2.参照)。

③『猿丸集』の歌を、改めて「恋の歌」と仮定して検討し、「恋の歌」に必要な改訳・補足をします。その前提となる理解を「2020/6/15付けのブログまでの成果である現代語訳」と総称して「2020/6/15現在の現代語訳成果」ということにします。具体には付記.3を参照ください。なお、歌は『新編国歌大観』より引用します。

④『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義しておきます。

 第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

 第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

 第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと

 第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

⑤検討の結果、「2020/6/15現在の現代語訳成果」及び上記の歌群の名と並びとの修正・提案をするものとします。

 

3.再考第一の歌群と詞書

①上記の歌群ごとに検討をすすめます。第一の歌群・相手を礼讃する歌群の歌3首を、『新編国歌大観』より引用します。

  3-4-1歌  あひしりたりける人の、ものよりきてすげにふみをさしてこれはいかがみるといひたりけるによめる 

    しらすげのまののはぎ原ゆくさくさきみこそ見えめまののはぎはら 

 

  3-4-2歌   (詞書は3-4-1歌に同じ)

    から人のころもそむてふむらさきのこころにしみておもほゆるかな

 

3-4-3歌  あだなりける人の、さすがにたのめつつつれなくのみありければ、うらみてよめる

    いでひとはことのみぞよき月くさのうつしごころはいろことにして

②歌群の名を「相手を礼讃する歌群」としたのは、『猿丸集』の最初にある歌3首が、3-4-1歌の詞書にある語句「ふみ」を「ものの道理より説いた書き付け」と理解した結果です。

 3-4-1歌の詞書にある語句「ふみ」の意をこのように理解しても、「恋の歌」を詠めないわけではありません。詠むのは不可能である、と証明するのは不可能です。

 さらに、「ふみ」を「恋のふみ」と推測すれば、この詞書のもとにある3-4-1歌と3-4-2歌は、「恋の歌」の可能性は格段に高まります。そして、『猿丸集』における二つ目の詞書である3-4-3歌の詞書は「男女間に生じている事柄を述べている」と私は現在のところ理解しているので、この歌群にある3首すべてが恋の歌となる可能性は、それにより高まります。

 とりあえず、恋の歌と理解できる可能性のある場合すべてを追求します。即ち、「ふみ」を、ここまでの理解による「ものの道理より説いた書き付け」という仮定、あるいは新たに「恋のふみ」という仮定をしたら、第一の歌群の3首がすべて「恋の歌」となるかどうか、の検討です

③はじめに、詞書と歌本文について、文の構成を確認します。『猿丸集』の詞書の記述タイプは、3つほど認められます。

  作者側の経緯を記すタイプ:例 3-4-11歌 しかのなくをきいて

  おくる相手を簡単に紹介するタイプ:例 3-4-6歌 なたちける女のもとに

  おくる相手をもう少し丁寧に紹介するタイプ:例 3-4-1歌

 どのタイプも固有の地名・人名を含んでいません。

 『猿丸集』の最初の詞書と二つ目の詞書は、その3番目のタイプになります。44文字と35文字用いた文です。(なお、最後の詞書とその前の詞書は、作者側の経緯を記すタイプになっています。)

④最初の詞書は文字数が和歌の31文字より多く、かつ歌とともにいくつかの文の組合せの文であるので、詞書と歌本文とについて、文としての出だしなどを比較すると次の表が得られます。

表 猿丸集最初の詞書とそのもとにある歌の文の比較  (2020/7/6 現在)

文の区分

出だし

次の語句

最後

詞書

あひ…人の

ものよりきて・・・いかがみる

よめる

第1歌 歌本文

しらすげの

まののはぎはら (ゆくさくさ)

(きみこそ)みえめ

第2歌 歌本文

から人の

ころもそむてふ

おもほるゆかな

⑤出だしを比較します。詞書の「あひ・・・人の」の「の」は、主語であることを示す主格の助詞である、と理解して現代語訳を試みてきました。第2歌歌本文の「の」も主格の助詞と迷わずここまでの検討で理解してきました。
 これに対して第1歌本文の「の」は、ここまでの検討で主格の助詞や同格の助詞などを試みてきました。

 しかしながら、『猿丸集』の編纂者は歌集冒頭の2首をひとつの詞書のもとに配列しており、編纂の一端をしっかりみせているはずです。

 この『猿丸集』の最初にある詞書のもとにある2首、という配列を重視すれば、第1歌の歌本文初句(出だし)の「の」も、主格の助詞が最有力である、と今は思います。

⑥詞書と2首の歌本文において、次の語句もこの3つの文は似ています。表の「出だし」の欄の人物が主語となり、「次の語句」の欄の語句が述語とみなせます。「最後」の欄の語句は、次の語句までの文の示した条件下における誰かの行為を示している。とみなせます。

⑦最後の語句は、主語である人物の行為を明確にしています。第1歌の歌本文の「(きみこそ)みえめ」は、係り結びとなっており、その意は、「(あなたこそ)しっかりとそうみえるのが当然だ、適当だ。」です。なお、動詞「みゆ」には、また「妻になる、嫁ぐ」意もあります。

⑧この歌群のもうひとつの詞書とそのもとにある歌について、上記と同様に比較すると、次のようになります。

表 猿丸集の二つ目の詞書とそのもとにある歌の文の比較  (2020/7/6 現在)

文の区分

出だし

次の語句

最後

詞書

あだなりける人の

(さすがに・・・)つれなくのみありけれ(ば)

よめる

歌本文

いでひとは

ことのみぞよき

(いろことに)して

 詞書の出だしにある「の」は、主格の助詞であり、次の語句が主格の行為を述べています。

 歌本文の出だしにある「は」は、係助詞であり、付いた語句を主語・題目として明示しており、次の語句が「は」が付いた語句の述語部となっています。

⑨この歌群にある3首の詞書と歌本文は、みな、出だしの語句で示された人物が、次の語句にある行為をしている、という共通点があります。文の構成を共通にしている、とみえます。

⑩3-4-3歌は、詞書にある「つれなしのみありけ(り)」と「うらみ(る)」が対比されており、それは歌本文の二句にある「こと」が五句の「こと」が対比されていることに対応している、と推理できます。

⑪このようなことを確認し、詞書等を改めて現代語訳してみようと思います。

 なお、助詞「の」には、主格の助詞の意のほかに、連体修飾語をつくる連体格の助詞やその前後の語句が同一の物(あるいは人物)であることを示す同格の助詞の意もあります。

 

4.再考第一の歌群 第1歌詞書

①では、3-4-1歌の詞書を検討します。「ふみ」を「ものの道理より説いた書き付け」と仮定した場合は、「2020/6/15現在の現代語訳成果」で、次の現代語訳を得ています。

 「旧知であった人が、ものの道理より説いた書き付けを、菅笠に載せて差し出し、「これはどのようにご覧になりますか」と(言いつつ)、一節を吟じたので、詠んだ(歌)」 (「巻頭歌詞書の新訳」)

 この訳は、「これはいかがみるといひたりける(によめる)」の「いふ」を「一節を吟じる」(詩歌を吟ずる・くちづさむ)と理解しました。動詞「いふ」には、このほか「ことばを口にする」、「うわさする」などの意があります(『例解古語辞典』)。

②次に、詞書にある「ふみ」が「恋のふみ」であると仮定した場合を、検討します。

 この詞書において、この仮定が成り立つのは、「ふみ」をみせて、「これはいかがみるといひたりける(によめる)」という景が、当時実際に有り得るかどうかにかかります。

 「恋のふみ」を、今、「男女の間で贈答した書き付け」とし、さらに「男女の結び付きの、きっかけから死に別れあるいは別れが確定したと当事者が認識するまでの間に当該男女のやりとりした書き物」をとくに指す、と定義しておきます。

③官人において、男女の結びつきは、個人同士の結び付きだけではなく、家長が承認し、家同士が社会的な関係を結んだことを公けにするものです((だから、個人優先の男女の仲として秘す事例も生じています)。資産については(性を問わず)個人が所有しているという通念が当時ありますので、家長がほかの人々を経済面で一方的に従属させているという家族関係ではありません。 

 家の繁栄は、男女の関係・親子関係、特に今上天皇や次期天皇候補との関係が重要な役割を担っているのが、三代集とこの『猿丸集』の編纂者の時代です。男女の結びつきは、情報収集から始まり、男からみると「恋のふみ」を贈ったら受け取ってもらえるかどうかの瀬踏みを経て、受け取ってもらえる感触を得たら一歩前進です。

④「恋のふみ」は、和歌のみの場合や贈り物に添えた手紙の場合もあり、「ふみ」を書いた用紙類や事前事後に蒐集した情報とともに「恋のふみ」をよこした人物を評価する情報のひとつとなります。通常の「恋のふみ」は相手本人のほか周囲の者が当然見ることができ、家族(一族)の長を中心として判断をすることになります。3-4-15歌~3-4-17歌、3-4-22歌~3-4-26歌あるいは3-4-48歌~3-4-49歌などにそれが垣間見えます。  

⑤そのため、詞書にある「すげにふみをさしてこれをいかがみる」という文は、おくられてきた「恋のふみ」を、家族・親族が評価しようとしている場面、ととらえることが可能です。

 この詞書では、さらに情報が記されています。

⑥「すげにふみをさして」の語句にある格助詞「に」は、多義の語です。「ひろく、物事が存在し、動作し、作用する場を示す」(a)、「動作のゆきつくところを示す」(b)及び「動作・作用が行われるための方法・手段を示す」(c)など(『例解古語辞典』)の意があります。

 そのうちの(c)と理解すると、上記の文は、

「すげという草の葉で「ふみ」を指して、これをどのようにみるか」

というように理解できます。

 単に「ふみ」を置いて「いかがみる」と言ってもその意は作者に伝わります。だまって「恋のふみ」を目の前に並べただけでも伝わるかもしれません。

 それなのに普段は使わない(「ものより」来る途中調達できるような)「すげ」(とか菅笠)という小道具を手にして人に会い、そしてそれで指し示すのは、誰に対してもできる作法ではありません。

⑦また、詞書にある「ものよりきて」の「もの」も同音異義の語句のひとつであり、「個別の事物を直接に明示しないで一般化していう場合」のほかに、さらに「出向いてゆくべき所」という意もあります。「あひしりたりける人」(官人と推測できる人物です)は、本来作者が出向くべき人の意ではないでしょうか。(付記4.参照)

 「すげ」で「ふみ」を指したのは、上位の人に対してできる作法ではありませんので、「あひしりたりける人」より作者の身分が低いことを示唆しています。

⑧そうすると、詞書にある「あひしりたりける人」が「ものよりきて」とは、その家族のうちの主だった者の一人が、「ふみ」が関係する事柄について何らかの了解を得る等のためにわざわざ3-4-1歌の作者のもとを訪れたことを指している、と理解できます。作者は、例えば「あひしりたりける人」の従妹とか同居していない夫人とか子供、が候補となります。 

 このため、この詞書の文は、「恋のふみ」を関係者が持ってきて相談している状況を記しており、(恋の当事者のところに集まっていないので例外的なことかもしれませんが)当時有り得る景の一つである、と言えます。

⑨そして、詞書にある「・・・といひたりけるに」を、例えば「・・・と言ったので」と理解すれば、3-4-1歌の詞書は、次のように現代語訳ができます。

 「よく存じ上げている人が、あるところから(わざわざ)きて、すげの葉で「ふみ」(恋のふみ)を指して、これをどのようにみるか」と言われたので、詠んだ(歌)」 

 これを「1歌詞書第1案」ということとします。   

⑩また、「いふ」を、「巻頭歌詞書の新訳」とおなじように、「吟じる」と理解することもできます。即ち、

 「よく存じ上げている人が、あるところから(わざわざ)きて、すげの葉で「ふみ」(恋のふみ)を指して、これをどのようにみるか」と(言いつつ、詩歌の)一節を吟じたので、詠んだ(歌)」

 これを「1歌詞書第2案」ということとします。   

 3-4-1歌の詞書は、恋の歌の詞書と仮定して、このように3つの現代語訳を得ました。それぞれの場合において、歌本文が「恋の歌」として理解できるかを、次に確認します。

 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

(2020/7/6  上村 朋)

付記1.三代集での恋の歌について

①三代集で、次の②から⑥のような歌は、本文でいう「恋の歌」の要件第一(「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること)に該当する、といえる。

②詞書に「心をよみける」とあり、部立てに関わらず「恋の歌」とみなせる歌(元資料は恋の歌といえる歌)

古今和歌集』巻十九 雑体 

 誹諧歌 1-1-1014歌 七月六日たなばたの心をよみける 藤原かねすけ朝臣

いつしかとまたぐ心をはぎにあげてあまのかはらをけふやわたらむ

 この歌は、作者が彦星の代作をしている歌である。

③『拾遺和歌集』の恋の部立てにあり、詞書では、恋の歌と即断しかねる歌

 恋二 1-3-757歌 万葉集和し侍りけるに   源 順

おもふらむ心の内をしらぬ身はしぬばかりにもあらじとぞ思ふ

 恋三 1-3-781歌 たびの思ひをしのぶといふことを    石上乙麿

あしひきの山こえくれてやどからばいもたちまちていねざらむかも

 恋五 1-3-925歌 善祐法師ながされ侍りける時、母のいひつかはしける

さもこそはあひ見むことのかたからめわすれずとだにいふ人のなき

(この歌は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集と拾遺集の詞書」(2020/2/24付け)で触れた。小池博明氏が論じる恋部の構成(私のいう配列)(『新典社研究叢書 拾遺集の構成』(1996))を参考にした。私見では、詞書のみからは、恋が終わっていることを(『拾遺和歌集集』をみる人に)示唆する歌としてここに歌集編纂者は置いたか、とも見える。)

 雑恋 1-3-1216歌 ながされ侍りける時    贈太政大臣

        あめのしたのがるる人のなければやきてしぬれぎぬひるよしもなき

④詞書に「たなばたをよめる」とある歌が『後撰和歌集』秋上 1-2-239歌~1-2-247歌にある。

 例えば よみ人しらずの歌1-2-239歌は、「天河とほき渡はなけれども君がふなでは年にこそまて」と第三者の立場で織姫を説得あるいは織姫の代作をしている。 

 例えば1-2-247歌は、凡河内躬恒が「秋の夜のあかぬ別をたなばたはたてぬきにこそ思ふべらなれ」と「たなばた」(彦星)を第三者の立場で思いやっている。

⑤『古今和歌集』のよみ人しらずの歌でその元資料が恋の歌と推測可能な歌の例

 春歌上 1-1-17歌  かすがのはけふはなやきそわか草のつまもこもれり我もこもれり

 春歌上 1-1-64歌  ちりぬればこふれどしるしなきものをけふこそさくらをらばをりてめ

 春歌下 1-1-100歌 まつ人もこぬものゆゑにうぐひすのなきつる花ををりてけるかな

 秋歌上 1-1-173歌 秋風の吹きにし日より久方のあまのかはらにたたぬ日はなし

 秋歌上 1-1-224歌 萩が花ちるらむをののつゆじもにぬれてをゆかむさ夜はふくとも

(3-4-42歌の類似歌であり、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第42歌 はぎのはな」(2019/3/11付け)で検討した歌)

 雑歌下 1-1-973歌 我を君なにはの浦に有りしかばうきめをみつのあまとなりにき

 雑歌下 1-1-975歌 いまさらにとふべき人もおもほへずやへむぐらしてかどさせりてへ

 雑歌下 1-1-982歌 わがいほはみわの山もとこひしくはとぶらひきませすぎたてるかど

⑥『後撰和歌集』のよみ人しらずの歌でその元資料が恋の歌と推測可能な歌の例

春上 1-2-31歌 梅花かをふきかくる春風に心をそめば人やとがめむ

春上 1-2-37歌 君がため山田のさはにゑぐつむとぬれにし袖は今もかわかず

夏 1-2-192歌 うちはへてねをなきくらす空蝉のむなしきこひも我はするかな

夏 1-2-201歌 常夏に思ひそめては人しれぬ心の程は色に見えなん

 (返しと題して1-2-202歌がよみ人しらずで並ぶ)

秋中 1-2-290歌 秋の夜をいたづらにのみおきあかす露はわが身のうへにぞ有りける  

秋中 1-2-304歌 秋はぎの枝もとををになり行くは白露おもくおけばなりけり

冬 1-2-481歌 思ひつつねなくにあくる冬の夜の袖の氷はとけずもあるかな

冬 1-2-489歌 おしなべて雪のふれればわがやどのすぎを尋ねて問ふ人もなし

雑三 1-2-1210歌 浪かずにあらぬ身なれば住吉の岸にもよらずなりやはてな

⑦なお、恋の歌とみなせないが、詞書に「春の心を」とある歌が『後撰和歌集』にある。

 春歌上 1-2-58歌 春の心を    伊勢

   あをやぎをのいとよりはへておるはたをいづれの山の鶯かきる

 

 付記2.『猿丸集』の成立時点の上限について

①『猿丸集』の成立時点を類似歌記載の歌集で推測すると、勅撰集では、『古今和歌集』記載の歌がある。『後撰和歌集』記載の歌はない。『拾遺和歌集』記載の歌はあるが、その歌は『神楽歌』でもあったり(3-4-7歌)、『人丸集』にもあったり(3-4-30歌)する。

②言葉の意味の時代的限定としては、このため、いまのところ『古今和歌集』の成立後を上限として検討を行う。

 

付記3.恋の歌として検討する前提となる『猿丸集』の理解について

①本文でいう「2020/6/15現在の現代語訳成果」とは、2020/6/15付けのブログまでの成果をさし、各歌についての現代語訳を以下のように略称した総体である。これらの歌の理解(現代語訳成果)を前提に再度語句・配列等を確認し、恋の歌どうかの検討を今回している。

②現代語訳は歌ごとに原則1案であるが、複数の意があるとしている状況の歌もあり、それぞれの訳を含む。また、判定未定のままにしてある歌もあり、それらの訳である場合もある。

③3-4-1歌から3-4-11歌までの現代語訳成果を、具体に記すと、次のような略称の現代語訳であり、それを示している主たるブログの年月日をあわせて記す。

表 「2020/6/15現在の現代語訳成果」の歌別詞書・歌本文別略称 (2020/7/1現在)

歌番号等

現代語訳成果の略称

記載のブログ

3-4-1

巻頭歌詞書の新訳 &

巻頭歌本文の新訳

2020/5/11付け

3-4-2

巻頭歌詞書の新訳 &

巻頭第2歌の新訳

2020/5/11付け

3-4-3

3-4-3歌の現代語訳(試案)の細部変更案

2020/5/25付け及び2018/2/19付け

3-4-4~

 3-4-5

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/2/26付けまたは2018/3/5付け

3-4-6~

3-4-7

3-4-**歌の現代語訳(試案)の少々訂正案

2020/5/25付け(訂正案) 及び

2018/3/12付け*1と2018/3/19付け*2

3-4-8

3-4-8歌の現代語訳(試案)

2018/3/26付け

3-4-9

2020/5/25付けブログの例示訳(試案)

2020/5/25付け

3-4-10~

3-4-11

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/4/9付けほか当該関係ブログ

注1)歌番号等欄:『新編国歌大観』の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)記載のブログ欄 日付はその日付のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を指す。

 

 付記4.「もの」の用例

①「ものへゆく」:出向いてゆくべき所の意の場合

『猿丸集』3-4-21歌の詞書:「物へゆくに うみのほとりをみれば・・・」

 同 3-4-27歌の詞書:「物へゆきけるみちに・・・」

枕草子』「僧都の御乳母の」:「あからさまにものにまかりたりしほどに・・・」(ほんのちょっと出向いて行くべきところに行ったとき・・・)

②「もの」:個別の事物を直接に明示しないで一般化していう場合

 『猿丸集』3-4-4歌の詞書:「ものおもひけるをり・・・」

 『蜻蛉日記』「天暦八年」:「いと心細く悲しきことものに非ず」

 『後撰和歌集』1-2-1028歌の詞書:「かひに人のものいふとききて」

③「ものよりきて」:三代集の詞書にはない。

 『猿丸集』3-4-1歌の詞書:「あひしりたりける人の、ものよりきて・・・」

④連語:物に付く:からだにより付く。身辺に乗り移る。

(付記終わり 2020/7/6  上村 朋)

 

*1:試案

*2:試案

わかたんかそれ 朝鮮戦争勃発70年

 6月25日は、朝鮮戦争が始まった日でした。こんばんは、上村 朋です。

 この戦争で、最終的な民間人の犠牲者の数は100万人とも200万人とも言われ、全体で400万人〜500万人の犠牲者が出たという説もあります(Wikipediaより )。内訳は北朝鮮側の死者250万人、韓国側は133万人で大多数が一般市民だったと言われています(敵の協力者と見なした一般市民の大量処刑が行われています)。

 朝鮮戦争は、1950年に北朝鮮が南進して始まり、1951年7月10日より休戦合意の協議が始まり、1953年7月27日、国連軍と中朝連合軍が休戦協定に署名しました。韓国政府は署名していません。

 アコーディオン戦争と言われるほど、戦線朝鮮半島の北端から南端まで広く移動したので、地上戦は半島全域で行われ、都市によっては地上戦が数度にわたり行われています。

 休戦してから67年、国土の利用も臨戦前提であるものの、韓国は人口5200万人(人口密度500人/km2)、一人あたりGDP41,000ドル(2018)に、北朝鮮は人口2500万人(210人/km2)、一人あたりGDP1,700ドル余(2008)にと両国それぞれの道を歩んできました。戦争終結には至っていませんので、民間の交流は全然です。

 そして、休戦であるので、離散家族の再会がなかなかできません(1946年5月23日に38度線の無断越境が禁止されています)。1971年8月12日に、韓国の赤十字社が離散家族探しを北朝鮮側に申し入れ、1985年に、南北離散家族の相互訪問が初めて実現しました。紆余曲折があって、その次は2000年8月15日から18日にあり、2020年6月現在再会事業は中断しています。

 新たな離散家族ともいえる脱北者が今は35,000人余りいます。

 隣国間における休戦状態は不戦ではありません。休戦状態の解消も不戦継続におとらず大事です。

(2020/6/29  上村 朋)

わかたんかそれ 明日は6月23日

 夏至の昨日、雲厚く部分日食を、私は見ることができませんでした。上村 朋です。(「わかたんかこれ 猿丸集・・・」は、お時間をください。)

 明日6月23日は、(沖縄)慰霊の日です。

 国籍を問わず沖縄戦で亡くなられた方々の御霊に、心から哀悼の意をささげます。

 世界どこでも不戦を続けたい、そうあってほしい、と思います。沖縄が、後顧の憂いなく人々が暮らせる地になるように、と思います。

 

 先の大戦で、空爆を受けた県は、多数ありますが、県単位で大規模な戦場になったのは、日本列島では沖縄県だけです(朝鮮半島ではソ連参戦後、ソ連国境の雄基(現在の北朝鮮羅先特別市の一部)をはじめとした東岸沿いがあります。)

 個人的には75年前、叔父が沖縄で戦死しました。出征まえのことは覚えていません。戦後、弟叔父が遺骨の箱らしきものを持って私鉄の駅頭に立ったのを、集落のみなさんと迎えました。戦死者を出した家がほとんどまわりになかったので、初めての光景として記憶しています。 

 別の集落のあるお寺で、「(檀家で)戦死者はいない。日清・日露はいる。もっといるのが西南戦争」と聞いたことがあるエリアの話です。

祖母は、「戦争はダメ、戦争はダメ」と言って亡くなりました。死ぬことを自覚した時、「やっと長男と会える。」と思ったのでしょう。

 

 沖縄で地上戦を、日本軍は徹底して戦う方針であり、現地の第32軍は、「米軍が沖縄に上陸して、約6か月間は何としてでも頑張る。そのうち米軍はへとへとになって引き揚げるだろう。その間の住民の食糧6か月分を、県において確保してほしい」と1945年2月県知事に言っているそうです(ウィキペディアより)。

 戦場にならないエリア(敵が、司令部壊滅を優先すれば、戦闘行為に及ばないであろうエリア)も沖縄県内に想定していた、ということです。

 沖縄県は、沖縄県民59万人のうち10万人の住民疎開を計画し、60歳以上と15歳未満等の住民8万人を1944年3月末までに県外へ疎開させました。沖縄本島北部への避難も計画し、85,000人を疎開させて(計画の1/3)います。連合国軍は、沖縄北部を制圧した5月上旬までに130,000人の住民を収容しています。

 

 連合国軍の当初の計画は1か月で沖縄攻略というものでしたが、莫大な物量を投入しながら実際にはその3倍の期間を要し予想外の大損害となりました。沖縄では、戦闘による戦死傷だけではなく、今までにない膨大な数の兵士に戦闘神経症心身症の一種)が生じています(5月末までに、アメリカ軍の戦闘によらない死傷者が、海兵隊で6,315名、陸軍で7,762名合計14,077名、それが沖縄戦終結時点では合計26,211名。この内の多くが戦闘神経症による傷病兵。沖縄で増加した最大要因は今まで経験したことのないものすごい集中砲撃、次いで狂信的で絶え間ない肉弾攻撃、とアメリカ軍は指摘しているそうです。)

 激しい戦場に居たことで住民にもストレスがかかりトラウマになった方もいます。

 日本兵の心が鬼の心になったことも起こりました。

 その後のフォローもアメリカ軍と違い行き届いていないでしょうから、県民の戦後の苦しみは大きかったでしょう。

 連合国軍側の死者・行方不明者は20,195人とされています。

 1976年の沖縄県の発表では沖縄戦による日本側の死者・行方不明者は、188,136人とされています。

 沖縄県外出身日本兵戦死者 65,908人

 沖縄県民         122,228人

                うち沖縄県出身軍人・軍属        28,228人

     うち住民での戦争参加者(援護法との関係で準軍属と認定した人数 55,246人

     うちその他の一般住民                38,754人(推定)

 このほか、地上戦域外での餓死者・病死者、疎開船の撃沈による被害なども含めれば県民の戦没者は約15万人という推定値もあります。

 

 日本が降伏文書に調印したのは、1945年9月2日です。昭和天皇は「降伏文書調印に関する詔書」を同日発しています。第32軍司令部消滅後の6月23日後も連合国は、日本兵の掃討作戦を続けていましたが、9月7日に南西諸島の軍を代表した日本軍将校3人が日本軍の沖縄戦降伏文書に調印しました。

 この日が、那覇市が制定する「沖縄市民平和の日」です。これにならえば、天皇が「降伏文書に調印する詔書」を発した9月2日を、「日本国民平和の日」と呼び、反省・あらたな出立の日と理解してよい、と思います。

 

 一般に、地上戦が想定されるエリア(武力衝突・頻発するテロ)では、住民はそこに居られなくなります。そこで生活するのは、援助なしではできない状態になります。

 世界どこでも不戦を続けたい、そうあってほしい、と思います。沖縄が、後顧の憂いなく人々が暮らせる地になるように、と思います。

 「わかたんかそれ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

(2020/6/22  上村 朋)

 

わかたんかこれ  猿丸集の部立てと歌群の推測 その4 再びみぬ人

 前回(2020/6/8)、 「わかたんかこれ 猿丸集の部立てと歌群の推測 その3 はじめつかた」と題して記しました。

 今回 「わかたんかこれ 猿丸集の部立てと歌群の推測 その4 再びみぬ人」と題して歌集後半の検討を記します(上村 朋)。

 

1.~10.承前

(『猿丸集』の最初の2首と最後の2首の歌の現代語訳を再確認し比較検討の結果、可能性の高まった『猿丸集』編纂者が設定されたであろう歌群の想定を試み、2020/5/11現在の現代語訳の成果(付記1.①と②参照)を前提に、1案を得た(表1~表4)。3-4-1歌から3-4-44歌においては、現代語訳成果におけるいくつかの歌での誤りを正すと、想定した歌群は概ね妥当であったが、第九の歌群以降は想定歌群名の修正を要するかもしれない。検討は、『猿丸集』歌の部立て、詞書、歌意、前後の歌との関係及び作者の立場などより試みたものである。なお、これは、これまでの『猿丸集』各歌の現代語訳(試案)のチェックになる作業でもある。)

 

11.想定した歌群(案)の再掲

① 想定した歌群(案)を再掲します(付記1.③参照)。修正を要する歌群名を追加して記します。

 その想定にあたり、障害となる事柄(想定した歌群の視点から生じた当該歌の疑問点)がある場合は、その指摘にとどめ、それが解消するものとして想定したものです。3-4-44歌までの疑問点は、前回までの検討で解消したところです。

 第一 相手を礼讃する歌群:3-4-1歌~3-4-3歌 (3首 詞書2題) 

この歌群は歌集の序ともとれる内容の歌群である。

第二 逢わない相手を怨む歌群:3-4-4歌~3-4-9歌 (6首 詞書5題)

第三 訪れを待つ歌群:3-4-10歌~3-4-11歌 (2首 詞書2題)

第四 あうことがかなわぬ歌群:3-4-12歌~3-4-18歌 (7首 詞書4題)

第五 逆境の歌群:3-4-19歌~3-4-26歌 (8首 詞書3題)

第六 逆境深まる歌群:3-4-27歌~3-4-28歌 (2首 詞書2題)

第七 乗り越える歌群:3-4-29歌~3-4-32歌 (4首 詞書3題)

第八 もどかしい進展の歌群:3-4-33歌~3-4-36歌 (4首 詞書4題)

第九 破局覚悟の歌群:3-4-37歌~3-4-41歌 (5首 詞書2題)

     修正案は「破局再確認の歌群」

第十 再びチャレンジの歌群:3-4-42歌~3-4-46歌 (5首 詞書4題)

     修正案は3-4-42歌~3-4-44歌の3首からなる「懐かしんでいる歌群」あるいは「未練の歌群」

第十一 期待をつなぐ歌群:3-4-47歌~3-4-49歌 (3首 詞書2題)

      修正案は3-4-45歌と3-4-46歌をも含む歌群か

第十二 今後に期待する歌群:3-4-50歌~3-4-52歌 (3首 詞書2題)

       この歌群は、歌集編纂者の後記とも思わせる歌群である。

 

② 3-4-42歌以降の各歌の歌群想定を、付記2.に再掲します。

上記の障害となる事柄(疑念)のある歌は、次のように、『猿丸集』第44歌以降では1首あります。その解決案は下記に記します。

3-4-50歌 (疑念は)相手の性別や歌意など

 

12.詞書のつながり

① 3-4-50歌の検討の前に、3-4-27歌以降の詞書の特徴がどこまで続くか、確認します。

② 3-4-27歌から3-4-36歌までは、詞書が同じであれば作者が同じベクトルの歌(ケース1)となり、詞書が異なるものの共通の語句のある詞書の歌同士は、その共通の語句に関してベクトルが異なる歌(ケース2)となっています。

 同じ詞書のもとにある3-4-37歌と3-4-38歌は、同じベクトルの歌(ケース1)であり、かつこの両歌は、詞書の異なる3-4-36歌とベクトルが異なりました。そして3-4-39歌~3-4-41歌もケース1の歌でしたが、詞書の異なる3-4-37歌や3-4-42歌とは異なる歌意でした。

 3-4-42歌の詞書は、3-4-43歌と3-4-44歌にかかる詞書とは異なっていますが共通の語句「女のもとに」が詞書にありこの3首はケース2でした。

③ 3-4-45歌以降も各詞書からの関係は、次のように予想できます。

 3-4-45歌と3-4-46歌は、詞書がそれぞれ別であり、歌のベクトルが異なると予想できます。しかし、作者と相手の女性との関係は、現在は縁が切れているかに見えるのが共通です。ケース1相当の歌かもしれません。

 3-4-48歌と3-4-49歌、および3-4-51歌と3-4-52歌は、それぞれケース1の歌でしょう。

 詞書が異なる3-4-47歌に対する3-4-48歌と3-4-49歌は、歌をおくった相手の女性の立場が、相手の男につれなくされている女とつれなくしている女、という対比があります。

 そして、3-4-50歌の詞書と3-4-51歌(および3-4-52歌)の詞書には、「はな見にまかる」という共通の語句があり、ケース2ではないか、と予想できます。

 このように、詞書が2題ごとに組み合わされているのが3-4-52歌まで続いている、という予想できます。

④ なお、3-4-27歌以降の類似歌を確認すると、古今集歌が大部分であり、萬葉集歌は3-4-27歌と3-4-29歌と3-4-44歌と3-4-45歌、人丸集歌が3-4-30歌、2首目の類似歌として拾遺集歌などが3-4-30歌と3-4-37歌と3-4-39歌にあるだけです。

 3-4-26歌までは萬葉集歌が大部分であり、古今集歌などが、3-4-3歌と3-4-17歌、2首目の類似歌として拾遺集歌など2首などとなっています。

 3-4-27歌前後で『猿丸集』編纂に変化があったのか、今後確認したい、と思います。

 

13.歌群の検討 その5 3-4-50歌以前

① 前回、想定した歌群のネーミングの修正提案は、3-4-45歌以降で別の歌群を成すのではないか、ということからでした。念のため、「期待をつなぐ歌群」が「3-4-45歌~3-4-49歌 (5首 詞書4題)」から成るかどうかを検討しておきます。

② 3-4-45歌の詞書は、

「あひしれりける人の、なくなりにけるところを見て」

とあり、同音異義の語句である「ところ」は、「と言う場面、即ち、夫人一人の生活が落ち着いて」の意と理解した現代語訳(試案)を得ました。

 そのため、この歌の現代語訳(試案)は、「今は亡き友人の妻に語りかけた歌」であり、男女間の歌が多い『猿丸集』であることを考慮すると、作者にとり「チャンス」到来とみた挨拶歌ではないかと推測したところです。

 あるいは、作者と同じように、相手と別れざるを得なかった境遇にいる者へ送った歌であり、単に同情している歌であるかもしれません。ただ、上記の挨拶歌も同情からの歌でも、馴れ馴れしい、厚かましいという印象の歌とは紙一重の違いに見えます。なお、同音意義の語句の新たな発見はありませんでした。

③ 3-4-46歌の詞書は、

「人のいみじうあだなるとのみいひて、さらにこころいれぬけしきなりければ、我もなにかはとけひきてありければ、女のうらみたりける返事に」

とあります。

 3-4-45歌の次に配列されていることから3-4-45の詞書を前提に理解せよとの編纂者の指示とみれば、3-4-45歌をおくった相手の女性が、3-4-46歌の詞書にある「人の・・・いれぬけしきなりける」人、であるとの理解が生まれます。確かに「作者と相手の女性との関係は、現在は縁がまだない時点で詠っているこの両歌は、一組の歌であり、3-4-46歌の詞書のもとであるならば、この歌は、女への愛が変わらないと男性が詠う歌であると理解できます。

 だから、この両歌は、(急ぐことなく時間をかけて)新たなチャレンジをしている男の歌の2首、と言えます。

④ 次に、3-4-47歌の詞書は、次のとおりです。

 「あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける」

 この歌は、男が昔知っていた女を表面上励ましている歌であり、作者である男が(横恋慕かもしれませんが)新たなチャレンジをしている歌ともとれます。そうであれば、3-4-45歌の「あひしれりける女」とこの歌の詞書にある「あひしれりける女」は同一人物とみることができます。前者は、外見上わかることで女の状況を説明し、後者は、3-4-45歌をおくられて以後の女の内面的なことに踏み込んで記して、作詠動機の推移をうかがわせています。

⑤ 3-4-48歌の詞書は次のとおりです。

 「ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ」

 この歌を、現代語訳(試案)では、相手の女の気を引いている歌と理解しました。しかし、同じ詞書のもとにある3-4-49歌からこの歌を振り返ると、「すきかへして」ごらんなさい、と勧めているかにもとれます。または、女の周囲の人々に決断を促しているかにも見えます。

⑥ 3-4-49歌も、3-4-48歌と同じ詞書のもとにあります。現代語訳(試案)は、五句にある「よぶこどり」を、「大声をあげている小憎らしい貴方の周りの人達の意。具体には、親兄弟・女を指導等する役割で仕えている人たちを、暗喩している」とみて、「次のステップに進みましょうと誘っている恋の歌」と理解しました。歌のベクトルは、両歌とも同じあり、相手の女の周囲の人々を二人の間の障壁になっているかに詠んでいます。上記12.③での予想通りです。

 一つ前の歌3-4-47歌の詞書と比較すると、3-4-47歌の「あひしれりける女」に再度おくった歌が3-4-49歌であり、「あひしれりける女」を「ふみやりける女」と言い換えている、という理解も可能です。

 このように、3-4-45歌から3-4-49歌までは、ある女性に新たなチャレンジをしている男の歌が連続している、とみることができます。

 このため、この5首を一つの歌群とみることは妥当です。男の相手が、3-4-44歌以前とは違う女なので、「期待をつなぐ歌群」というネーミングより「新たなチャレンジの歌群」としてはどうか、と思います。

⑦ 次の歌3-4-50歌の詞書は、3-4-49歌までの詞書と異なり、おくる相手の情報を直接記しておらず、自然の景のみ記しています。

 ただ、同一の詞書のもとにある3-4-48歌と3-4-49歌が、共に作者と相手の二人の間の障壁になっているかのような周囲の人々を詠んでいるのに注目すると、この歌の詞書にある「(はなの)せかれたる」と言う語句は、「はな」が障壁にぶつかっていることを指し、「はな(かつ相手の女)」と作者の間の障害を詠もうとしているかにみえ、それは3-4-48歌等との共通点といえます。

 しかし、詞書のみの比較からいえば、3-4-50歌の詞書と3-4-51歌(および3-4-52歌)の詞書には「はな見にまかる」という共通の語句があり、この2題3首でベクトルが異なる歌の組合せという別の歌群ともなり得ます。

14.歌群の検討 その5 3-4-50歌

① 最初に、3-4-50歌は、誰におくった歌であるか、を歌のこれまでの配列などから推測したい、と思います。

② 『猿丸集』の詞書を追ってくると、作者が歌をおくった相手の女は、3-4-45歌から3-4-49歌まで同一人物であり、作者と相手の女のやりとりの順で言い方が変わっているだけ、と上記13.①~⑥で指摘しました。

 その延長上の歌として、3-4-50歌本文をみると、五句にある「みぬ人」が、3-4-49歌までの相手の女に重なってきます。

 そして、つれなかった理由の一つに、「よぶこどり」と詠んだ障害となっていると作者が信じる「女の周囲の人々」がいることを思うと、3-4-50歌本文にある「いしばしるたき」も二人の間の障害となっているものを暗喩するものとして詠まれているのではないか、と推測ができます。

 そうすると、手折ってこようとする「はな」は、「せかれ」ているので、3-4-45歌以来の相手の女である「あひしれりける女」、そして、歌本文五句にある「みぬ人」でもある、と推測でき、この歌をおくった相手となります。

③ 3-4-50歌を『新編国歌大観』より引用します。

3-4-50歌  はな見にまかりけるに、山がはのいしにはなのせかれたるを見て

いしばしるたきなくもがなさくらばなたをりてもこんみぬ人のため

 現代語訳(試案)をブログ「わかたんか猿丸集第50歌 みぬひとのため」(2019/9/30付け)より引用します。2案併記でした。

3-4-48歌と3-4-49歌の続きの歌とみた第1案は、つぎのようなものであり、「はな見」の「はな」は特定の女性を暗喩か」と予測しました。

3-4-50歌 「花見に(都から)来たところ、川の山側でいくつもの石に堰かれている桜木を見て(詠んだ歌)」

「石や岩の上を勢いよく水が流れていないならばよいのに。桜の花よ。折ってこようものを、その桜木を。連れ添うことにならないあの人のために。」

3-4-50歌を、これまでの一連の歌の続きとみるならば、作者は、桜ではなく山の葉もない雑木の枝などにこの歌を添えて、相手の女におくったことになります。その場合、五句にある「みぬ人」の現代語訳(試案)は、「みる」が同音異義の語句「みる」を「視覚に入れる」意とするような修正が必要です。即ち、

「石や岩の上を勢いよく水が流れていないならばよいのに。桜の花よ。折ってこようものを、その桜木を。まだ見ないでいる人のために。」

 この現代語訳を、第50歌本文別訳、ということにします。

④ 3-4-50歌とそれ以後の歌との関連をみてみます。

次の詞書の歌3-4-51歌と3-4-52歌については、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ」(2020/5/18付け)で検討しました。そして、

「はな」を「女性」とみなした3-4-51歌の現代語訳(試案)と3-4-52歌の現代語訳(試案)

「はな」を『猿丸集』とみなした「掉尾前51歌の新解釈」と「掉尾52歌の新解釈」

の2案の現代語訳を示しました。

「はな」を「女性」とみなした場合の3首は次のようなものでした。

3-4-51歌 「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならば手放すのには忍びないものにも思われるよ、桜の花は。だから、さあ、ここに宿をかりて、散るまで(近付きを得るまで)じっと見定めよう。(貴方との仲をじっくりと育てよう。)」」

3-4-52歌 「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。

(そうなったら)私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」

3-4-50歌以下3首の大意は、

3-4-50歌 (上記の第50歌別訳)急流がなければ、桜の花を折ってこようものを

3-4-51歌 花は折り取らないで散るまでを見定めよう

3-4-52歌 (花をみて思うのは、)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい

となります。

 3-4-50歌は、花を積極的に手折る意思があるものの障害が花のそばにある、と訴え、次の2首は、花を手折る意思があり、我慢強く待っていると詠っており、この順に歌を受け取れば、ボールが相手の女に投げ返されて、『猿丸集』は終わっています。そして、相手の女におくっても感情を害するような語句はありません

⑤ 3-4-52歌は、『古今和歌集』の恋の部立の最後の歌(1-1-828歌)と違い、長く続いている夫婦の歌ではない、男女の恋は繰り返すもの、ということを示唆する歌です。

⑥ それはともかくも、3-4-27歌以来の編纂方針ともみることができる共通の語句のある詞書同士2題による違いは、(現状の)報告と(現状打破の方策が作者側に無いことの)通告ということになるでしょう。

 このように、3-4-52歌まで、その編纂方針は貫かれている、と言えます。

⑦ 次に、「はな」を『猿丸集』の暗喩とみた場合を検討します。「掉尾前51歌の新解釈」と「掉尾52歌の新解釈」に対応する3-4-50歌の現代語訳があるかどうか、です。

2020/5/18付けブログより3-4-51歌などを同じように引用します。

3-4-51歌と3-4-52歌の詞書:「建物と建物の間のところにゆき、桜の花を見て、(その後に)詠んだ(歌)」あるいは「山にゆき、桜の花を見て、(その後に)詠んだ(歌)」(詞書の「やまにはな見にまかる」とは、「数々の歌集があるがこの『猿丸集』に親しみ」、と理解できる文となります。)

 3-4-51歌の「掉尾前51歌の新解釈」:「誰か曲解したならば、『猿丸集』は、それを惜しいと思う様子を示すと私は考える。『猿丸集』よ、さあ、私は何とかとどまるところを借用して(後世に『猿丸集』を伝える努力をして)、『猿丸集』が正しく理解されるところまでをみたい。」

3-4-52歌の「掉尾52歌の新解釈」:「来るだろうそのような時代にも、早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)『猿丸集』になんの反応もみせない歌人たちを昔そんなこともあったのだ、と思えよう。」

⑧ 3-4-50歌から以降の3首は「はな見にまかる」という共通の語句が詞書にあります。

 3-4-50歌にだけ「いしばしるたき」という語句があります。次歌とのつながりを考えると、和歌の王道をゆくような『萬葉集』や『古今和歌集』を「いしばしるたき」は指しており、そのたきの向こう側にあって手が届かない桜(理解が進んでいない『猿丸集』)と対比しているのではないか。

 3-4-50歌の現代語訳(試案)の第2案(上記の2019/9/30付けブログ参照)より引用すると、

3-4-50歌

詞書:「花見に(都から)来たところ、川の山側でいくつもの石に堰かれている桜木を見て(詠んだ歌)」

第2案:「石や岩の上を勢いよく水が流れていないならばよいのに。桜の花よ。折ってこようものを、その桜木を。(私が未だ)見定めていないあの人のために。」

 これより現代語訳を試みると、

「『萬葉集』や『古今和歌集』の読解がよどみなく進んでいないならばまだよいのだが。桜の花よ(『猿丸集』よ)。いろいろ試みようものを、この『猿丸集』に。異伝歌の類ではなく新しい歌の歌集とみていない人のために。」

 この現代語訳を、「第50歌の新解釈」ということにします。

 五句にある「みぬ人」の動詞「みる」(上一段活用)には、つぎのような意があります(『例解古語辞典』)。 

「視覚に入れる。見る。ながめる。」

「思う。解釈する。」

「(異性として)世話をする。連れ添う。」

「(・・・の)思いをする。(・・・な目に)あう。経験する。」

「見定める。見計らう。」

 ここでは、「思う。解釈する。」の意と理解し、「みぬ人」とは「『猿丸集』を新たな歌から成る歌集と認めていない人」と意訳しました。

 編纂者は、当時読解が終わっているとされている『萬葉集』歌でも異論のまだあること、および『古今和歌集』の配列が解明されていなければ歌の理解は不十分であることなどを、言外に言っている、と思います。そのような歌がいくつもあることは、類似歌として検討した『萬葉集』歌や『古今和歌集』歌において、私も感じたところです。

⑨ 3-4-50歌以下3首の大意は、

3-4-50歌 (上記の「第50歌の新解釈」)萬葉集なみにこの歌集も読解を試みてほしい

3-4-51歌 曲解されたら惜しいのでわたしは努力しよう。

3-4-52歌 (花をみて思うのは、)賞翫される日が『猿丸集』に来ることを願っている

となります。

⑩ このような暗喩があるとすれば、「はな見にまかる」歌3首は、3-4-49歌までの歌と違って編纂者の感慨を詠っている歌にもなっており、二種類の現代語訳を要する歌として3-4-50歌以下の3首で一つの歌群と成している、と思います。想定した歌群は、妥当なものでした。 

⑪ このように、想定した歌群よりみた障害となる事柄(疑念)は、現代語訳(試案)の一部の歌で理解を正した結果、想定した歌群を否定しないで解消しました。

 想定した歌群は、一応、矛盾の少ない歌群の連続である、とみなせます。

 しかしながら、歌群は、部立てが恋と仮定したものでした。『猿丸集』の52歌すべてがここまでの検討・確認では「恋の歌」という理解になっていません。また幾組かの恋のグループから構成されている可能性を後半の歌から感じられます。次回は、これらを中心に検討したい、と思います。

「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

(2020/6/15   上村 朋)

付記1.歌群想定作業とその前提である『猿丸集』の理解について

①『猿丸集』の理解は、「2020/5/11現在の理解、即ち巻頭歌の新訳などを含む現代語訳(試案)」である。

② 具体には、次のブログに当該歌の現代語訳(試案)を記している。

  3-4-1歌~3-4-2歌:最終的に、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその1 いひたりける」(2020/5/11付け)及びブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ」(2020/5/18付け)に記す現代語訳(案)。

即ち「巻頭歌詞書の新訳」、「巻頭歌本文の新訳」及び「巻頭第2歌の新訳」という現代語訳(案)。

  3-4-3歌~3-4-50歌:2018/2/19付けのブログ「わかたんかこれ 猿丸集第3歌 仮名書きでは同じでも」から、2019/9/30付けのブログ「わかたんかこれ 猿丸集第50歌 ひとのため」に記す現代語訳(案)。 (3-4-**歌の現代語訳(試案))。

例えば、3-4-48歌の現代語訳(試案)は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第48歌 その2 あら あら」(2019/9/2付け)に記す。

  3-4-51歌~3-4-52歌:最終的に、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ」(2020/5/18付け)に記す現代語訳(案)。

即ち「3-4-51歌の現代語訳(試案)」と「掉尾前51歌の新解釈」及び「3-4-52歌の現代語訳(試案)」と「掉尾52歌の新解釈」という現代語訳(案)。

③ 歌群の想定の方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の部立てと歌群の推測 その1 最初は3首」(2020/5/25付け)に記してある。

付記2.2020/5/11 現在の現代語訳(試案)に対する『猿丸集』各歌の歌群想定(案)より

表 2020/5/11 現在の現代語訳(試案)に対する『猿丸集』各歌の歌群想定(案)の表4の抜粋    (42歌~52歌)            (2020/5/11  現在)

歌番号等

作者と相手の性別と歌区分

類似歌の歌番号等

『猿丸集』の歌の趣旨

ポイントの語句

詞書

同左歌本文

 

想定した歌群(案)

共通の語句・景

3-4-42

男→女

往歌

1-1-224

襲を贈ってくれた頃にもどれないかと女に問う歌

やりける*

はぎ(のはな)&

 

再びチャレンジ

はぎ

3-4-43

男→女

 返歌

1-1-307

逢う機会が少ないと訴える女性に私も辛いと慰めた歌(あきらめた歌か?)

あき(のころほひ)

いなば&からころも

 

同上

つゆ

3-4-44

男→女

返歌

2-1-2672

相手の女性の気持ちをつなぎ止めようと訴えた歌

あき(のころほひ)

こひのしげきに*

 

同上

あさかげ

3-4-45

男→女

 往歌

2-1-154

今は亡き友人の妻に語りかけた挨拶歌

ところ

さざなみや&しめゆふ

 

同上

??

3-4-46

男→女

 返歌

1-1-1052

縁がきれたと思っていた女への返事に、今でも女への愛が変わらないと詠う歌

と(のみいひて)&(なにかは)とけ*

まめなれど&・・・

 

同上

 

かるかや

3-4-47

男→女

 往歌

1-1-995

ため息をついているという、昔知っていた女を表面上励ます歌。

あひしれりける(女)&いひ(ける)

ゆふつけどり*&たつたのやま*

 

今後に期待をつなぐ

ゆふつけどり

3-4-48

男→女

 往歌

1-1-817

女の対応をやんわり非難している歌

はるころ

あら&まめ人の (こころを)

 

同上

あらをだ*

3-4-49

男→女

 往歌

1-1-29

女の周りの人を揶揄している歌

はるころ

たづき&よぶこどり*

 

同上

山&よぶこどり

3-4-50

男→不明

往歌

1-1-54

山側にあって桜木を折りとってこれないと嘆いている歌(思いを寄せる人へのきっかけを求めている歌?)

はな*&山がは

いしばしるたき

 

今後に期待する歌&編纂者の後記

山&はな見

3-4-51

男→不定

1-1-65

近づくことが叶わない女性への思いを詠った歌&後代に猿丸集を伝えたいと詠う歌

はな*

をしげ(なるかな)*

 

同上

山&はな見

3-4-52

男→不定

1-1-520

いつか女を訪ねられるようにと粘り強く願っている歌&後代に猿丸集の理解を期待する歌

はな*

こむよ&思はむ

 

同上

山&はな見

注1)『猿丸集』の歌番号等:『新編国歌大観』の「巻数―その巻の歌集番号―その歌集での番号」

注2)作者と相手の性別と歌区分:立場(性別)は詞書と歌からの推計。歌区分は発信(往歌)と返事(返歌)の区分。

注3)類似歌の歌番号等:類似歌の『新編国歌大観』による歌番号等。

注4)「(・・・?)」:想定した歌群を前提としての当該現代語訳(試案)への疑問。

注5)「*」:語句の注記。以下の通り。

    3-4-42歌:「やりける」は、「直前に逢った事に起因して歌を詠みその人に歌を送って」。

    3-4-44歌:「こひのしげきに」は、『古今和歌集』恋一の最後の歌(1-1-551歌)が有名。

     3-4-46歌:「なにかはとけ」は、「なにかはとけ」そして「ひきて」そして「ありければ」と理解。私も、どうして結ばれているものがほどけるのか(と、それを引きずってそのままにしておいたらば)

3-4-47歌:「ゆふつけどり」は、この歌では暁に鳴く鶏。

      「たつたのやま」は、女性にも喩えることができる紅葉がきれいな山

     3-4-48歌:「あらをだ」は、同音意義の語句で、「あれまあ。田(を、)」の意

3-4-49歌:「よぶこどり」は、同音意義の語句で、この歌では「呼ぶ+小+(集まりさわぐ)鳥」。

その意は、「(大声で声をかける)・呼び掛ける・囀る」+接頭語で「軽蔑したり、憎んだりする気持ち」を添える」+「相手の周りの人々」の意で、おおよそ「大声をあげている小憎らしい貴方の周りの人達」の意。具体には、親兄弟・女を指導等する役割で仕えている人たちを、暗喩している。類似歌1-1-29歌では、「あちこちから聞こえてくる「囀っている鳥たち」の意。

3-4-51歌:「をしげなるかな」は、「作者の思い」

3-4-51歌と3-4-52歌:「はな」には、『猿丸集』の意もある。

(付記終わり 2020/6/15  上村 朋)

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集の部立てと歌群の推測 その3 はじめつかた 

前回(2020/6/1)、 「わかたんかこれ 猿丸集の部立てと歌群の推測 その2 きり」と題して記しました。

今回 「わかたんかこれ 猿丸集の部立てと歌群の推測 その3 はじめつかた」と題して記します(上村 朋)。

1.~7.承前  

(『猿丸集』の最初の2首と最後の2首の歌の現代語訳を再確認し比較検討の結果、可能性の高まった『猿丸集』編纂者が設定されたであろう歌群の想定を試み、2020/5/11現在の現代語訳の成果(付記1.参照)を前提に、1案(表1~表4)を得た。3-4-1歌から3-4-37歌においては、三、四の歌で現代語訳の成果の誤りがあり正したところ、想定した歌群は妥当であった。検討は、『猿丸集』歌の部立て、詞書、歌意、前後の歌との関係及び作者の立場などより試みたものである。なお、これは、これまでの『猿丸集』各歌の現代語訳(試案)のチェックになる作業でもある。)

 

8.想定した歌群(案)の再掲

① 前々回のブログより、想定した歌群(案)を再掲します(付記1.参照)。

その想定にあたり障害となる事柄(想定した歌群の視点から生じた当該歌の疑問点)がある場合は、その指摘にとどめ、それが解消するものとして想定したものです。3-4-37歌までの疑問点は、前回までの検討で解消したところです。

 

第一 相手を礼讃する歌群:3-4-1歌~3-4-3歌 (3首 詞書2題) 

     この歌群は歌集の序ともとれる内容の歌群である。

第二 逢わない相手を怨む歌群:3-4-4歌~3-4-9歌 (6首 詞書5題)

第三 訪れを待つ歌群:3-4-10歌~3-4-11歌 (2首 詞書2題)

第四 あうことがかなわぬ歌群:3-4-12歌~3-4-18歌 (7首 詞書4題)

第五 逆境の歌群:3-4-19歌~3-4-26歌 (8首 詞書3題)

第六 逆境深まる歌群:3-4-27歌~3-4-28歌 (2首 詞書2題)

第七 乗り越える歌群:3-4-29歌~3-4-32歌 (4首 詞書3題)

第八 もどかしい進展の歌群:3-4-33歌~3-4-36歌 (4首 詞書4題)

第九 破局覚悟の歌群:3-4-37歌~3-4-41歌 (5首 詞書2題)

第十 再びチャレンジの歌群:3-4-42歌~3-4-46歌 (5首 詞書4題)

第十一 期待をつなぐ歌群:3-4-47歌~3-4-49歌 (3首 詞書2題)

第十二 今後に期待する歌群:3-4-50歌~3-4-52歌 (3首 詞書2題)

       この歌群は、歌集編纂者の後記とも思わせる歌群である。

 

② 3-4-40歌以降の各歌の歌群想定を、表4(付記2.参照)に、また3-4-36歌から3-4-39歌を表4に付加再掲します。

上記の障害となる事柄(疑念)のある歌は、次のように、『猿丸集』第36歌以降では5首あります。その解決案は下記に記します。

       3-4-39歌 (疑念は)詞書と歌意など

       3-4-40歌 (疑念は)詞書と歌意など

  3-4-41歌 (疑念は)詞書と歌意など

  3-4-43歌 (疑念は)歌意など

  3-4-50歌 (疑念は)相手の性別や歌意など

 

9.歌群の検討その3 3-4-39歌など

① 3-4-39歌の疑念から確認します。この歌の詞書は、3-4-41歌までの3首にかかります。その詞書に疑念がありました。

② 歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-39歌  しかのなくをききて

     あきやまのもみぢふみわけなくしかのこゑきく時ぞ物はかなしき

3-4-40歌  (同上)

    わがやどにいなおほせどりのなくなへにけさふくかぜにかりはきにけり

3-4-41歌  (同上)

    秋はきぬもみぢはやどにふりしきぬみちふみわけてとふ人はなし

 ③ 3-4-39歌の詞書には、鹿の置かれている状況の説明はありません。作者が聴覚で鹿を認識した、ということしか言っていません。

 しかし、この歌の現代語訳(試案)を得た(付記1.参照)とき、詞書の「しか」と歌の三句にある「しか」を「鹿狩りの鹿」と思い込んでしまっており、また、3-4-39歌の初句にある同音異義の語句「あき」に「飽き」が掛かっている点について、検討が不足していました。「飽き」られたわが身を「しか」になぞらえている歌と理解してしかるべきでした。

 そのため、歌本文の現代語訳を改めて試みて、歌群想定を確認します。

 その改訳は次のとおり。

「(鹿の鳴き声が聞こえてくる。)秋の色になった山で落葉した黄葉を踏みわけて鳴いている鹿の声を聞く時は、定めとはいうものの、かなしいものである。(「飽き」たといわれて受け取ってもらえないふみの山のなかにいる私は泣いている、秋の鹿のように。それが別れることになった場合の定めとはいえ、かなしいものである。)」

 この訳でも類似歌と意を異にしています。この訳を3-4-39歌の第39歌歌本文別訳ということにします。別れが定めであったことを確認した歌です。

 なお、現代語訳(試案)を検討した際、3首の作者は男と推定しましたが、この別訳でも、「しか」にわが身をたとえている作者は男である、と思います。

④ 3-4-40歌は、同音異議の語句である「いなおほせどり」を用いて、「稲負せ鳥」に「異な仰せ(を伝える)鳥」を掛けて現代語訳(試案)を得ました。すなわち、

「(鹿の鳴き声が聞こえ、)わが屋敷の門に、田に行くはずの「いなおほせ鳥」が来て鳴いていて、同時に今朝の風にのり雁がきた。「異な仰せ(を伝える)鳥」と一緒で届いた便りは、やはり秋(飽き(られた))の便りだった。」

今回新たな同音異議の語句は見つけられませんでしたので、この訳は変更の必要はありませんでした。この歌も、別れが定めであったことを確認した歌と言えます。

⑤ 3-4-41歌は、詞書での「あき」の理解を正したので、次のように訂正します。

「(鹿が鳴く)秋となってしまった。もみぢはわが屋敷内外にふり敷ききってしまった。彼女が私に飽きたということをこれらが否応もなく私に突きつけているのだ。道をふみわけて私が訪ねようとするひとはいない、ということになってしまった。」

この訳を3-4-41歌の第41歌別訳ということにします。この歌も、別れが確定したことを確認した歌と言えます。

⑥ この3首の作者は、残念だが納得せざるを得ない、という心境にいる、と理解できます。そのため、この3首は一つの歌群のもとにあるのが妥当です。

次に、この3首と同一の歌群と想定されている3-4-37歌と3-4-38歌について同音異義の語句等を確認します。

⑦ 新編国歌大観』より引用します。

3-4-37歌  あきのはじめつかた、物思ひけるによめる 

   おほかたのあきくるからにわが身こそかなしきものとおもひしりぬれ

3-4-38歌  (同上) 

   あきはぎの色づきぬればきりぎりすわが身のごとや物はかなしき

⑧ この2首は、詞書を共通にしています。同音意義の語句は、詞書と3-4-37歌本文にある「あき」のほかには、ないようです。詞書の現代語訳(試案)は、歌において「飽き」を掛けているので、次のようにしたところでした。

「秋の始めの頃(陰暦七月に入って)、胸のうちでじっと反芻してきたことを詠んだ歌」 

 この詞書は「あきのはじめつかた」とあり、「あきのはじめ」としていません。「つかた」に『猿丸集』編纂者は何か意を込めていると疑ってよいと思います。上代語と言われる格助詞の「つ」は、『猿丸集』では3-4-31歌の四句で「まつ人」(魔つ人)の例が既にあります。

 この例と同様に考えると、「はじめ」+「つ」+かた」ではなく、名詞句「あきのはじめ」+格助詞「つ」+名詞「かた」であり、「かた」の例示が「あきのはじめ」ではないか、と思います。

 「飽きの始め」を強調した詞書ではないか、ということです。現代語訳(試案)では、3-4-37歌本文に、飽きを掛けた「あき」があるので、歌本文と重ねない「秋」としたところですが、「つ」の機能を重視し、現代語訳(試案)検討時の第2案を採りたい、と思います。

 「飽きが始まったころ(それは陰暦七月ころだった)、胸のうちでじっと反芻してきたことを詠んだ歌」

 これを3-4-37歌の第27歌詞書別訳、ということにします。

⑨ そして、3-4-37歌の歌本文は、初句にある「おほかた」を、「真意を言外に潜めて、それとは反対のことを一般論として表現する。」という工藤重矩氏の論(付記3.参照)に従った現代語訳(試案)が妥当な訳としました。即ち、

 「慣れ親しみすぎたためのよくある飽きが秋にきただけのことと思っていたが、本当に別れる(飽きられた)ことになる秋がきたのだ。あなたをつなぎとめる何の働きかけもできない無力の自分であると、いまさらながら思い知ったことであるよ。(年に一度会える彦星(又は織姫)にも私はなれないのだと思い知ったよ。)」 

 詞書が、上記の別訳となっても、妥当な現代語訳です。

 また、3-4-38歌の歌本文も、上記の別訳で現代語訳(試案)が妥当です。同一の詞書の2首目ということからの推測だけでなく、直接詞書のもとにある訳、となっています。即ち、

 「秋萩が黄葉したとすると次は散る、ということであり、こおろぎが鳴いているのは命の絶える前ということである。私も同じだ。あの人とは、縁が切れたのだ。運命とはいえ、悲しいことだ。」 

 この2首は、縁が切れたことを確認し、悲しんでいます。この2首も、別れが確定したことを確認した歌です。

⑩ この2首の前にある3-4-36歌は、付記2.に示すように、縁が切れたと作者が思っていない歌であり、3-4-37歌以降とは歌群が異なってよいと思います。このため、「破局覚悟の歌群」は、3-4-37歌~3-4-41歌であるのが妥当であろう、と思います。

 しかし、その歌群のネーミングには疑問を感じます。「破局再確認の歌群」ではないでしょうか。

 これで、3-4-39歌から3-4-41歌の疑念は解消しました。

 

10.歌群の検討 その4 3-4-43歌ほか

① 次に、3-4-43歌を確認します。詞書の理解から再確認します。

 詞書は3-4-44歌にもかかりますので、2首を『新編国歌大観』より引用します。

3-4-43歌  しのびたる女のもとに、あきのころほひ

   ほにいでぬやまだをもるとからころもいなばのつゆにぬれぬ日はなし

 

3-4-44歌  (同上)

   ゆふづくよあか月かげのあさかげにわが身はなりぬこひのしげきに

② 詞書にある「・・・もとに」とは、3-4-42歌の検討時に、猿丸集の用例より帰納すると、「詠った人(正確には作中人物)は、当の相手か誰かに過去に会ってから暫く時がたっているか全然会えていない相手に歌を送っているかのようです。」と指摘しました。暫く時がたって送ったのならば作者が逢うことを遠ざけていたことになり、全然会えていないならば、作者は飽きられていることになります。

 3-4-43歌の現代語訳(試案)は、作者が相手を遠ざけており、詞書にある「あきのころほひ」を、作者が相手を飽きている、として得たものですが、このほか「飽きられているにも関わらず秋頃送った歌」の理解があることを失念していました。それを確認します。

③ 3-4-42歌と3-4-43歌(と3-4-44歌)の詞書は、「女のもとに」という共通の語句があります。

 前者は女と作者との関係の情報は詞書に記されていません。

 後者は、関係を記しています。そして、歌を送った時期も前者は不明ですが、後者は「秋」と限定しています。「秋」に「飽き」が掛かっているならば、「女のもとに」におくった歌なので、作者か女の「飽き」ていることを明記している、と理解してよい、と思います。

 3-4-42歌は、作者が関係修復を女に求めた歌でした。それに対してこの歌はそれとは違う意の歌(ベクトルが違う歌)、即ち、飽きられているにも関わらず秋頃送った歌」は、関係修復を断念した歌ではないか、と予想します。

④ 最初に、詞書の現代語訳を、改めて試みると、次のとおり。「ころほひ」とは、「時分・時節・おり」の意であり、「すぐ行動に移ってほうが良いかどうか決定する、その時」とか「何かをするのに、ころあいの時・」とか「何かをするのに、よい機会」という意です。

 「密かに交際していた女のところへ、秋という時節に(飽きが深まったころ)に(送った歌)」

 この訳を、「3-4-43歌の第43歌詞書別訳」ということとします。

 なお、現代語訳(試案)は「私との交際を人に言わないようしてもらっている女のところへ、秋の頃合いに(送った歌)」でした(2019/4/22付けブログより)。

⑤ 3-4-43歌の二句にある「やまだをもると」の「と」は、接続助詞の「と」であり、「と」の前の状態が「と」の後にある文「からころも(女性)」が往ぬ」という状態を生じさせた、と詠い、その結果を、また「やまだをもる」場合に例えています。四句にある「いなば」は、動詞「往ぬ」の未然形+接続助詞「ば」でありかつ「稲葉」が掛かっています。

 このため、現代語訳を改めて試みると、次のとおり。

「穂が出ない時期から出没する動物を追い払うなど山田を守るようにあなたを大事にしているのに、外来の美しい貴重な服のようなあこがれのあなたが私から去ってしまうということになり、涙がでます。山田を守る者が稲葉にかかる露に濡れない日がないのと同じように。」

 この訳を、「3-4-43歌の第43歌本文別訳」ということとします。

この歌は、「山田を守る者は、露に当然濡れる。貴方に捨てられた者は涙にくれる」と、関係修復はない、とわかった、と詠ったと理解できました。また、この歌は、類似歌が、(多分男らしさを)強くアピールして女性にせまっている恋の歌であるのに対して、恋の歌としてそのベクトルが別の方向です。

⑥ 3-4-43歌は、詞書が題しらずとなった第43歌本文別訳のみであれば、作者が拗ねているとも理解可能だし、体よく女と縁を切る歌とも理解可能です。

しかし、この歌の詞書と、共通の語句のあるこの歌の前の歌の詞書を前提にこの歌(3-4-43歌)を理解すれば、関係修復はない、と念押しした歌、という理解が妥当であろう、と思います。3-4-42歌の詞書と共通の語句「女のもとに」がある詞書ですが、歌の意は互いに異なっています。

⑦ 次に、3-4-44歌を再検討します。

 現代語訳(試案)の検討時、三句にある「あさかげ」は、「ゆふづくよあか月かげ」という形容されており、「夕方の明るい月による浅い(薄い)影」と理解できました。萬葉集歌の用例のような「恋こがれて憔悴し食の進まないかのような状況にいるとみえる痩せてきた人物」の比喩である朝影ではありません。同音意義の見落としも無い、と思えますが、現代語訳(試案)に「しかし」を補いたい、と思います。

 即ち、

3-4-44歌  (詞書は43歌と同じ)

 「空に月のでている夕方、その明るい月の光で出来た薄いがはっきりしている影のような状態に(今私は)なってしまった。(しかし)朝影になったわけではなく古今集の551歌の人物のように、貴方を大切に思い不退転の決意でいるのだから」

 この歌の五句「こひのしげきに」の用例である1-1-551歌は、この歌の理解のポイントです。

 『猿丸集』の編纂者も当時の官人も過激なことも辞さない気持ちを訴えている歌として、1-1-551歌を承知していたはずです。1-1-551歌の「こひのしげきに」は、言葉の上だけ過激にしたら何とかなる、と思っている理解や何もできなくて私も辛いのだという理解もあり得ます。

⑧ 現実にやり取りした歌であれば手紙や口上や贈り物などがあったりして、衆知を絞って総合的な判断も可能ですが、『猿丸集』では、歌の文字遣いと簡潔な詞書しかないので、誤解が生じないように、編纂者は十分配慮しているとみて理解しなければなりません。

 そのため、上記の別訳の詞書のもとで(「飽きられているにも関わらず秋頃送った歌」として)理解すれば、このような気持ちだったのですよ、という意の歌と3-4-44歌を理解すべきではないか、と思います。

 また3-4-44歌の類似歌2-1-2672歌は、「このままの状態が続けば自分が何をするのか不安が増します、と強く訴えているか、脅しているかにみえる」と総括しました(2019/4/15付けブログ)が、3-4-44歌とは歌意がちがっています。そして、3-4-43歌と3-4-44歌は、もう終わってしまった貴方に、このように思っていた、と同じ方角のベクトルの歌でした。この両歌は、「女のもとに」という共通の語句のある3-4-42歌とは意が確かに異なっています。

⑨ 3-4-45歌の詞書は「あひしれりける人の、なくなりにけるところを見て」(よく知っている人が、亡くなられ、一人となった夫人を思いやって(詠んだ歌))とあり、3-4-43歌の詞書とは相手の女と作者の関係が明らかに異なっています。

 想定した歌群は、3-4-42歌から3-4-46歌をひとつの歌群として「再びチャレンジの歌群」としていますが、上記の検討によれば、3-4-44歌までの3首でひとつの歌群とし、「懐かしんでいる歌群」あるいは「未練の歌群」とくくってよい3首です。

⑩ 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、3-4-50歌の確認をしようと思います。

(2020/6/8  上村 朋)

付記1. 歌群想定作業とその前提である『猿丸集』の理解について

① 『猿丸集』の理解は、「2020/5/11現在の理解、即ち巻頭歌の新訳などを含む現代語訳(試案)」である。

② 具体には、次のブログに当該歌の現代語訳(試案)を記している。

3-4-1歌~3-4-2歌:最終的に、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその1 いひたりける」(2020/5/11付け)及びブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ」(2020/5/18付け)に記す現代語訳(案)。

 即ち「巻頭歌詞書の新訳」、「巻頭歌本文の新訳」及び「巻頭第2歌の新訳」という現代語訳(案)。

3-4-3歌~3-4-50歌:2018/2/19付けのブログ「わかたんかこれ 猿丸集第3歌 仮名書きでは同じでも」から、2019/9/30付けのブログ「わかたんかこれ 猿丸集第50歌 みぬひとのため」に記す現代語訳(案)。(3-4-**歌の現代語訳(試案))。

 例えば、3-4-39歌の現代語訳(試案)は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第39歌その3 ものはかなしき」(2019/1/28付け)に記してある。

3-4-51歌~3-4-52歌:最終的に、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ」(2020/5/18付け)に記す現代語訳(案)。

 即ち「3-4-51歌の現代語訳(試案)」と「掉尾前51歌の新解釈」及び「3-4-52歌の現代語訳(試案)」と「掉尾52歌の新解釈」という現代語訳(案)。

③ 歌群の想定の方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の部立てと歌群の推測 その1 最初は3首」(2020/5/25付け)に記してある。

 

 

付記2.2020/5/11 現在の現代語訳(試案)に対する『猿丸集』各歌の歌群想定(案)(36~52歌)

 

表4 2020/5/11 現在の現代語訳(試案)に対する『猿丸集』各歌の歌群想定(案)(39~52歌)及び36歌~38歌の再掲     (2020/5/11  現在)

歌番号等

作者と相手の性別と歌区分

類似歌の歌番号等

『猿丸集』の歌の趣旨

ポイントの語句

詞書

同左歌本文

想定した歌群(案)

共通の語句・景

3-4-36

男→女

往歌

1-1-137

陰暦四月末日の夜にも鳴かないほととぎすに尋ねている歌

卯月のつごもり

(なか)なむ&(こぞの)ふるごゑ*

もどかしい進展

ホトトギス

3-4-37

不明→不明

往歌

1-1-185&3-40-38

男女間の破局を秋に確認した歌

あきのはじめつかた*

あき

破局

あき

3-4-38

不明→不明

往歌

1-1-198

秋になって、改めて別れる定めであったことを確認した歌

あきのはじめつかた*

「(我が身のごとく)物はかなしき」

同上

あき&きりぎりす

3-4-39

男*→不明

往歌

1-1-215&

2-2-113&

5-4-82

鹿狩りの鹿の鳴き声から鹿の運命・定めに思いをはせた歌(歌意?)

ききて

あきやま&物はかなしき

同上

あき(やま)

3-4-40

男*→不明

往歌

1-1-208

秋になり恋が期待はずれに終わったことを詠う歌(歌意?)

ききて

わがやどに&いなおほせ(どり)

破局

(あきの)かり

3-4-41

男*→不明

往歌

1-1-287

飽きられて捨てられたと秋に自覚した歌(歌意?)

ききて

秋はきぬ

&道ふみわけて*

同上

もみぢ

3-4-42

男→女

往歌

1-1-224

襲を贈ってくれた頃にもどれないかと女に問う歌

やりける*

はぎ(のはな)&

再びチャレンジ

はぎ

3-4-43

男→女

 返歌

1-1-307

逢う機会が少ないと訴える女性に私も辛いと慰めた歌(あきらめた歌か?)

あき(のころほひ)

いなば&からころも

同上

つゆ

3-4-44

男→女

返歌

2-1-2672

相手の女性の気持ちをつなぎ止めようと訴えた歌

あき(のころほひ)

こひのしげきに*

同上

あさかげ

3-4-45

男→女

 往歌

2-1-154

今は亡き友人の妻に語りかけた挨拶歌

ところ

さざなみや&しめゆふ

同上

??

3-4-46

男→女

 返歌

1-1-1052

縁がきれたと思っていた女への返事に、今でも女への愛が変わらないと詠う歌

と(のみいひて)&(なにかは)とけ*

まめなれど&・・・

同上

 

かるかや

3-4-47

男→女

 往歌

1-1-995

ため息をついているという、昔知っていた女を表面上励ます歌。

あひしれりける(女)&いひ(ける)

ゆふつけどり*&たつたのやま*

今後に期待をつなぐ

ゆふつけどり

3-4-48

男→女

 往歌

1-1-817

女の対応をやんわり非難している歌

はるころ

あら&まめ人の (こころを)

同上

あらをだ*

3-4-49

男→女

 往歌

1-1-29

女の周りの人を揶揄している歌

はるころ

たづき&よぶこどり*

同上

山&よぶこどり

3-4-50

男→不明

往歌

1-1-54

山側にあって桜木を折りとってこれないと嘆いている歌(思いを寄せる人へのきっかけを求めている歌?)

はな*&山がは

いしばしるたき

今後に期待する歌&編纂者の後記

山&はな見

3-4-51

男→不定

 

1-1-65

近づくことが叶わない女性への思いを詠った歌&後代に猿丸集を伝えたいと詠う歌

はな*

をしげ(なるかな)*

同上

山&はな見

3-4-52

男→不定

1-1-520

いつか女を訪ねられるようにと粘り強く願っている歌&後代に猿丸集の理解を期待する歌

はな*

こむよ&思はむ

同上

山&はな見

注1)『猿丸集』の歌番号等:『新編国歌大観』の「巻数―その巻の歌集番号―その歌集での番号」

注2)作者と相手の性別と歌区分:立場(性別)は詞書と歌からの推計。歌区分は発信(往歌)と返事(返歌)の区分。

注3)類似歌の歌番号等:類似歌の『新編国歌大観』による歌番号等。

注4)「(・・・?)」:想定した歌群を前提としての当該現代語訳(試案)への疑問。

注5)「*」:語句の注記。以下の通り。

3-4-37歌~3-4-38歌:詞書にある「あき」には、「秋」と「飽き」がかかる。

3-4-39歌~3-4-41歌:作者(作中人物)は、「かなしい秋」・「悲嘆している男性」

3-4-41歌:「みちふみわけて」いるのは、作者(男)。

 3-4-42歌:「やりける」は、「直前に逢った事に起因して歌を詠みその人に歌を送って」。

 3-4-44歌:「こひのしげきに」は、『古今和歌集』恋一の最後の歌(1-1-551歌)が有名。

 3-4-46歌:「なにかはとけ」は、「なにかはとけ」そして「ひきて」そして「ありければ」と理解。私も、どうして結ばれているものがほどけるのか(と、それを引きずってそのままにしておいたらば)

3-4-47歌:「ゆふつけどり」は、この歌では暁に鳴く鶏。

      「たつたのやま」は、女性にも喩えることができる紅葉がきれいな山

 3-4-48歌:「あらをだ」は、同音意義の語句で、「あれまあ。田(を、)」の意

3-4-49歌:「よぶこどり」は、同音意義の語句で、この歌では「呼ぶ+小+(集まりさわぐ)鳥」。

 その意は、「(大声で声をかける)・呼び掛ける・囀る」+接頭語で「軽蔑したり、憎んだりする気持ち」を添える」+「相手の周りの人々」の意で、おおよそ「大声をあげている小憎らしい貴方の周りの人達」の意。具体には、親兄弟・女を指導等する役割で仕えている人たちを、暗喩している。類似歌1-1-29歌では、「あちこちから聞こえてくる「囀っている鳥たち」の意。

3-4-51歌:「をしげなるかな」は、「作者の思い」

3-4-51歌と3-4-52歌:「はな」には、『猿丸集』の意もある。

 

付記3.「おほかた」について 

 工藤重矩氏は、「おほかた」について、『平安朝和歌漢詩文新考 継承と批判』(風間書房 2000)の「I 和歌解釈の方法」で、つぎのように述べている。

A 「おほかた」は、真意を言外に潜めて、それとは反対のことを一般論として表現する。

B 対概念を予想させ、その言外の個の事情に真意が存するという用法である。

C 意図通りの真意が伝わるのは、(歌の場合)「それぞれ(歌の)作者と享受者とが共有する具体的な場面・人間関係の中で詠まれた(歌)」だから。

D 当事者には全く誤解の心配はなかったが、場への考慮が薄れた和歌解釈で誤解が生じた。

E 「おほかた」が対概念を持っていることは、早く『挿頭抄』(「かざし抄」(富士谷成章(ふじたになりあきら)著の語学書で明和4年(1767)成立)にある。

 (付記終わり 2020/6/8   上村 朋)

 

 

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集の部立ての推測 その2 きり

 前回(2020/5/25)、「わかたんかこれ 猿丸集の部立てと歌群の推測 その1 最初は3首」と題して記しました。

 今回 「わかたんかこれ 猿丸集の部立てと歌群の推測 その2 きり」と題して記します(上村 朋)。

1.~4.承前  

(『猿丸集』の最初の2首と最後の2首の歌の現代語訳を再確認し比較検討の結果、可能性の高まった『猿丸集』編纂者が設定されたであろう歌群の想定を試み、2020/5/11現在の現代語訳の成果(付記1.参照)を前提に、1案を得た。前半の26首においては、現代語訳の成果の誤りが、二、三の歌にあり、想定した歌群は妥当であった。検討は、『猿丸集』歌の部立て、詞書、歌意、前後の歌との関係及び作者の立場などより試みたものである。なお、これは、これまでの『猿丸集』各歌の現代語訳(試案)のチェックになる作業でもある。)

 

5.想定した歌群(案)の再掲

① 前回のブログより、想定した歌群(案)再掲します(想定方法は前回のブログの「2.歌群の想定方法」参照及び付記1.参照)。

 その想定にあたり障害となる事柄(想定した歌群の視点から生じた当該歌の疑問点)がある場合は、その指摘にとどめ、それが解消するものとして想定したものです。前半の26首にあった疑問点は、前回の検討で解消したところです。

 

第一 相手を礼讃する歌群:3-4-1歌~3-4-3歌 (3首 詞書2題) 

    この歌群は歌集の序ともとれる内容の歌群である。

第二 逢わない相手を怨む歌群:3-4-4歌~3-4-9歌 (6首 詞書5題)

第三 訪れを待つ歌群:3-4-10歌~3-4-11歌 (2首 詞書2題)

第四 あうことがかなわぬ歌群:3-4-12歌~3-4-18歌 (7首 詞書4題)

第五 逆境の歌群:3-4-19歌~3-4-26歌 (8首 詞書3題)

第六 逆境深まる歌群:3-4-27歌~3-4-28歌 (2首 詞書2題)

第七 乗り越える歌群:3-4-29歌~3-4-32歌 (4首 詞書3題)

第八 もどかしい進展の歌群:3-4-33歌~3-4-36歌 (4首 詞書4題)

第九 破局覚悟の歌群:3-4-37歌~3-4-41歌 (5首 詞書2題)

第十 再びチャレンジの歌群:3-4-42歌~3-4-46歌 (5首 詞書4題)

第十一 期待をつなぐ歌群:3-4-47歌~3-4-49歌 (3首 詞書2題)

第十二 今後に期待する歌群:3-4-50歌~3-4-52歌 (3首 詞書2題)

     この歌群は、歌集編纂者の後記とも思わせる歌群である。

 

② 後半の26首のうち3-4-27歌から3-4-39歌の歌群想定を、下記の表3に示します。上記の障害となる事柄(疑念)のある歌は、次のように、『猿丸集』後半26首では7首あります。その解決案は下記に記します。

3-4-27歌 (疑念は)歌意など

3-4-32歌 (疑念は)歌意など

3-4-39歌 (疑念は)詞書と歌意など

3-4-40歌 (疑念は)詞書と歌意など

3-4-41歌 (疑念は)詞書と歌意など

3-4-43歌 (疑念は)歌意など

3-4-50歌 (疑念は)相手の性別や歌意など

 

表3 2020/5/11 現在の現代語訳(試案)に対する『猿丸集』各歌の歌群想定(案)(27~39歌)               (2020/6/1  現在)

歌番号等

作者と相手の性別と歌区分

類似歌の歌番号等

『猿丸集』の歌の趣旨

ポイントの語句

詞書

同左歌本文

想定した歌群(案)

共通の語句・景

3-4-27

男→不明

往歌

2-1-1144

猪名野(ゐなの)と同音の違な野の景を詠う歌(歌意?)

ものへゆきけるみち&きり

ゐなの

 

逆境深まるの歌

きり&ものへゆく

3-4-28

男→不明

往歌

1-1-204

夕方の牛車での出来事を詠う歌

物へゆきけるみち

やま(のかげ)*

同上

ひぐらし&ものへゆく

3-4-29

女→男

往歌

2-1-2841

昔の親密な関係に戻れることを女が喜ぶ歌

なかたえて

なかひさし

乗り越える歌

あづさゆみ

3-4-30

女→男

往歌

3-1-216&

1-3-954

男を、改めて信頼していると詠う歌

なかたえて

物はおもはじ*

同上

しか

3-4-31

女→不明

往歌

1-1-34

待ち人との間を邪魔する人をきらった女の歌

まへちかき梅の花

まつ人*

同上

3-4-32

男→男

往歌

1-1-50

山寺での花見で酔っ払った男をはげましている歌(歌意?)

さく(ら)

さくらばな

同上

さくらばな

3-4-33

女→男

往歌

1-1-122

心ならずも(一旦)別れることになった際の歌

のがりやる

やまぶきのはな*

もどかしい進展

やまぶき

3-4-34

女→男

往歌

1-1-121

1-1-139歌を踏まえて訪問を誘う山吹の花に添えた歌

山吹の花

こじま(がさきの)*

同上

やまぶき

3-4-35

男→女

往歌

1-1-147

今鳴いているほととぎすのようにあなたを慕っていると詠う歌

ほととぎすのなきければ

ほととぎす*&うとまれぬ

同上

ホトトギス

3-4-36

男→女

往歌

1-1-137

陰暦四月末日の夜にも鳴かないほととぎすに尋ねている歌

卯月のつごもり

(なか)なむ&(こぞの)ふるごゑ*

同上

ホトトギス

3-4-37

不明→不明

往歌

1-1-185&3-40-38

男女間の破局を秋に確認した歌

あきのはじめつかた*

あき

破局

あき

3-4-38

不明→不明

往歌

1-1-198

秋になって、改めて別れる定めであったことを確認した歌

あきのはじめつかた*

「(我が身のごとく)物はかなしき」

同上

あき&きりぎりす

3-4-39

男*→不明

往歌

1-1-215&

2-2-113&

5-4-82

鹿狩りの鹿の鳴き声から鹿の運命・定めに思いをはせた歌(歌意?)

ききて

あきやま&物はかなしき

同上

あき(やま)

注1)『猿丸集』の歌番号等:『新編国歌大観』の「巻数―その巻の歌集番号―その歌集での番号」

注2)作者と相手の性別と歌区分:立場(性別)は詞書と歌からの推計。歌区分は発信(往歌)と返事(返歌)の区分。

注3)類似歌の歌番号等:類似歌の『新編国歌大観』による歌番号等。

注4)「(・・・?)」:想定した歌群を前提としての当該現代語訳(試案)への疑問。

注5)「*」:語句の注記。以下の通り。

 3-4-28歌:「やま(のかげ)」とは、(牛車の車の)「輻(や)の間にみえる鹿毛(馬)(と騎乗の人物)によってできた蔭」。

 3-4-30歌:「物はおもはじ」は、安心の意。

 3-4-31歌:「まつ人」は、「魔つ人」(「仏教でいう魔王のような人」)、即ち目的達成の邪魔をする者を指す。「まつ人」の香が梅の香に似ていたため詠んだ歌。

 3-4-33歌:「やまぶきのはな」は、詞書より(逃れさす)「山吹襲を召した貴方」を指す。

 3-4-34歌:「こじまがさきの」は、動詞「来」の未然形+打消し推量の助動詞「じ」の連体形+名詞「間」+格助詞「が」+名詞「先・前」 「来ないであろう日々が続く前駆として」 。

 3-4-35歌:「ほととぎす」は、この歌を詠う作者を指す。

 3-4-36歌:「(こぞの)ふるごゑ」とは「(去年の)あのよい声(時がたったがよい声)」

 3-4-37歌~3-4-38歌:詞書にある「あき」には、「秋」と「飽き」がかかる。

 3-4-39歌~3-4-41歌:作者(作中人物)は、「かなしい秋」・「悲嘆している男性」

 

6.歌群の検討その2 3-4-27歌

① 歌群(案)の想定にあたり、障害となった事柄(想定した歌群の視点から生じた当該歌の疑問点)を解明します。『猿丸集』の後半部(3-4-27歌~3-4-52歌)にある、そのような歌7首も、同音異義の語句の再検討等を経て、以下のように、なんとか解消の目途がたったのではないか、と思います。

 各歌の想定した歌群への振り分けには、少なくとも一理があります。

② 7首のうちの1首である3-4-27歌は、その現代語訳(試案)を検討の際(付記1.参照)、同音異義の語句の確認を怠っていました。

 『猿丸集』の27番目の歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-27歌  ものへゆきけるみちに、きりのたちわたりけるに

  しながどりゐなのをゆけばありま山ゆふぎりたちぬともなしにして

③ 詞書にある「きり」には、霧のほかに、チョウやガの鱗粉の意がありました(付記2.参照)。チョウなどの羽の模様を作っているのが鱗粉です。水をはじき、光を反射し、微細な凸凹により羽ばたくときの空気抵抗を大きくしています。

 また、歌にある「ありま山」の理解も見直してみたい、と思います。

④ 詞書の前段は、次歌3-4-28歌と平仮名表記をすれば同じです。そして、後段は、この歌が視覚情報を、次歌が聴覚情報を得て詠う、となっています。

⑤ 歌本文にある同音意義の語句に、既に指摘している「ゐなの」があります。『萬葉集』に詠まれている地名の「猪名野」のほかに、「違な野(原)」、即ち「猪名野ではない野」の意があります。違勅・違順((仏教語)逆境と順境)の「違」です。

 この歌では『萬葉集』にある類似の歌(2-1-1144歌)を想起できる初句~三句により、「萬葉集歌に詠われている猪名野とは異なる違な野」という意と理解できます。その第一候補は、風葬の地(鳥辺野など)である、と思います。

⑥ 三句にある「ありま山」も、猪名野から望める有馬方面にみえる山々を指す「ありま山」ではなく、同音意義の語句で、「(行けば)在り、真山。」ではないでしょうか。

 「真」は接頭語で「真実、正確、純粋などの意を添える(真幸く、など)語句ですので、「真山」とは、風葬の地において散らばっている骨が塔状あるいは小山状にいくつも積み上げられている景を指している、と理解できます。

⑦ 四句にある「ゆふぎり」は、「夕べに見た「きり」」の意ではないでしょうか。

⑧ 五句にある「とも」も同音異義の語句であり、名詞であるならば「朋(友)」と「供・伴」の意があります。「ともなしにして」とは、「羽などの鱗粉がきらきらしているのはチョウ(あるいはガ)だけであり、ほかの虫など一切飛んでいなかった」ことを表現している、とみることができます。

⑨ 「しながどり」の枕詞の意に関する意識が萬葉集歌の時代と同じであるならば、これらのことから、3-4-27歌の現代語訳を、改めて試みると、次のようになります。

(詞書) あるところへ行く途中に、(チョウかガの)鱗粉が一面におおっているのに(出会い詠んだ歌)

(歌本文)しながどりが雌雄でいつも「率る」ような状態になろうよ(共寝をしようよ)という「ヰ」につながる猪名野ではない違な野を行くと、「ありまの山」ならぬ収骨した骨から成る山々の間を、チョウ(あるいはガであろうか)が、鱗粉をきらきらさせながら夕べの空に飛び回っているのに出会った、一緒に舞っている虫もなく。

 この訳を以後、第27歌の詞書別訳と第27歌の歌本文別訳ということにします。

 この歌は、「率な」という状態ではないものを、自分以外にもあった、と詠っているように理解できます。

⑩ 『猿丸集』の歌には必ず類似歌があり、その歌意が異なっています。この歌の類似歌(2-1-1144歌)は、「しながとり」を枕詞とする「ゐなの(猪名野という名の野原)」で暮れたのに、「率る」ような状態になろうよ(共寝をしようよ)と誘う相手もいるような宿がない、と詠います。

 詞書(「摂津にして作りき」)に留意すれば、猪名野という名前を詠む旅中の歌となります。「率な」と誘う相手が思いを掛けていた女性ではなさそうなので恋の歌には理解しにくいところです。このため、この歌の上記の別訳は、歌意が異なる、と言えます。そして、「ありま山」の理解は「違な野」にある山とみた別訳のほうに妥当性がある、と思います。

⑪ 次に、この歌と前後の歌各2首との配列上のバランスを確認することとします(前回のブログの表2及び上記の表3参照。付記1.参照)。

 前歌(3-4-26歌)までの5首は同じ詞書のもとにあり、「おやどもがせいしける女」に歌をおくり打開の方法がないまま終わっているものの、作者は愛情を確かめようとしている歌となっています。

 これに比べると、この歌は、しながどりのように「率な」と同音の「猪名野」ではない、と断って(チョウとかガとか種類よりも)「きり」に象徴させてひらひら群れて飛んでいる情景を注目して詠っており、歌のトーンが違います。これらの歌とは歌群が異なると言えます。

⑫ 次の歌3-4-28歌は「物へゆきけるみち」という共通語句が詞書にあり、夕方の景であることも共通であり、現代語訳(試案)は、聴覚の情報での結論を視覚の情報で否定しているという歌です。3-4-27歌とともに、自然界の一場面を切り取って自分の心理状態を示している歌であり、恋を暗喩しているとすれば、思いが遂げられてなくて少なくとも楽観的ではない状況を指している歌となります。

 この暗喩が次の3-4-29歌のトーンとあえば.あわせて3首で一つの歌群になるかもしれません。しかし、3-4-29歌は、「あひしれりける女」が久しぶりに訪れた男へおくった後朝の歌であり、明らかにこの2首と作者の心境は異なっており、3-4-29は別の歌群の歌になっています。

⑬ このため、恋という人事を直接詠っていないので、この2首で別の歌群を成す、と言えます。この歌群の前の歌群を逆境の歌群ととらえたならば、この2首は、逆境深まる歌群にある、と言ってもよい、と思います。これは、ほかの歌群、例えば不遇時の歌で雑の部の想定、という可能性を否定したものではありません。想定した歌群のネーミングを前提として、その配列における歌の理解が可能であることを指摘したところです。

 

7.歌群の検討その3 3-4-32歌

① 疑念のある3-4-32歌も、同音異義の語句を用いています。

歌を『新編国歌大観』より引用します。

3-4-32歌  やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

   山たかみ人もすさめぬさくらばないたくなわびそわれ見はやさむ

② 現代語訳(試案)では、詞書にある「さくら」は「桜」ではなく「簀(すとも、すのことも、音読すればさくとも読む)ら」、「さくらのさきける(を見てよめる)」は「簀などの先を蹴る」と理解し、作者はそのようなことをする酔った男を「歩けるように、私が、調子をとって囃し立てましょうから。」と詠っている、と理解しました。

 同音意義の語句の見落としはないと思えます。この現代語訳(試案)では、一見すると、恋に関するこの歌群(乗り越える歌群(3-4-29歌~3-4-32歌))にある歌とみなしにくい歌です。

③ この歌の前後の歌の各2首の歌意を確認し、歌の配列から検討してみます(表参照及び付記1.参照)。

 3-4-30歌は、仲がしばらく絶えていたのちの後朝の歌であり、改めて男を信頼している、と詠う歌です。関係を続けたいと作者は願っています。

 3-4-31歌は、邪魔をする人をきらっている歌であり、作者本人は相手の男を信頼しています。邪魔をされても作者は逢う段取りを期待しているようです。

 3-4-33歌は、心ならずも(一旦)別れることになった際の歌であり、逃がす手伝いを作者はしています。逢引きが中断した際の歌です。

 3-4-34歌は、訪問の途絶えている相手を誘うため山吹の花に添えた歌であり、相手に不安を作者は感じているかもしれません。作者にとって逢っていたのは過去のことになってしまいそうです。

 このような歌の配列の中にあるこの歌(3-4-32歌)は、相手を信頼して順調に進むかとみえる歌群と相手と順調に逢えないでいる歌群の堺に配列されている、と予想できます。

④ さらに、詞書に注目して前後の歌を確認すると、指摘できることがあります。

 3-4-27歌と3-4-28歌の詞書は異なりますが、「ものへゆきけるみち」という共通の語句があり共に動物を詠んでおり、情報入手については視覚と聴覚と異なり、作者の最初の印象を肯定と否定という歌であり、歌のベクトルは異なっている、と言えます。

 3-4-29歌と3-4-30歌は、同じ詞書のもとにある歌です。そして改めて相手を信頼すると、ともに詠んでいます。ベクトルは同じと言えます。異なるのは情報入手経路であり聴覚からと視覚からでした。

 3-4-31歌と3-4-32歌は、詞書は異なるものの「花(梅またはさくら)のさきたりけるを見て」という共通の語句があります。そして屋敷の景と山寺の景でした。そのほかの対比は後程検討します。

 3-4-33歌と3-4-34歌も詞書は異なるものの、ともに「山吹」に詞書で触れています。その山吹を詠み、逢引きを中断せざるを得ない歌と、訪れを求めている歌となり、歌のベクトルが異なっています。

 3-4-35歌と3-4-36歌は、詞書は異なるものの、ともにホトトギスに触れている詞書であり、トトギスの気持ちを察せよと詠う歌と、ホトトギスを待つ身の立場を察せよ、と詠う歌に見える一対の歌であって、歌のベクトルが異なります。

 翻って、同一の詞書の歌は、3-4-22歌から3-4-26歌の5首でも歌のベクトルは同じ方向でした。同一の詞書のもとの3-4-19歌と3-4-20歌の2首も同様でした。

 このように3-4-27歌から3-4-36歌までは、(これから検討する3-4-31歌と3-4-32歌を除き)、詞書が同じ歌は歌のベクトルをそろえており、詞書が異なるものの共通の語句のある詞書の歌同士は、共通の語句に関してベクトルが異なる歌となっています。

⑤ このように、詞書が異なるものの共通の語句がある連続する歌は、その共通の語句に関してベクトルが異なる歌となっている、ということです。3-4-31歌と3-4-32歌は詞書が異なるものの、「花(梅またはさくら)のさきたりけるを見て」という共通の語句がありますので、その点に関して異なる点がある歌のではないか、と予想できます。

⑥ 3-4-31歌の検討に戻りますと、この歌で花によって象徴させている人物(邪魔をする人)を、作者はきらっていましたが、3-4-32歌で同音異義の語句である「はな」によって象徴させてい人物(さくらのさきを蹴る人物)を、作者は後押しをして信頼しています。

 登場する人物の評価で、この両歌は対照的です。

 そうすると、恋の歌として、3-4-31歌との対比で3-4-32歌は、二人の仲が進捗するよう私が助けてあげるから、と誰かに伝えている歌、と理解できることになります。「さくらのさきを蹴る」ような状態にいる人物は、周りが見えなくなるほど舞い上がっている人物を示唆していることになります。

⑦ このようにみると、3-4-32歌が置かれる歌群は、3-4-31歌とその前の2首と同じように相手を信頼しているのでそれらと同一の歌群がふさわしい、と思います。また、3-4-33歌と3-4-34歌の、信頼が途切れ始めるかのような歌とは別の歌群でよい、と思います。

⑧ このような理解であれば、想定した歌群の視点から生じたこの歌に関する疑問は解消し、乗り越える歌群(3-4-29歌~3-4-32歌)にある「恋」の歌が3-4-32歌ということができます。

⑨ 疑念のあるこのほかの歌の解消策検討は、次回といたします。

「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2020/6/1  上村 朋)

付記1. 想定作業の前提である『猿丸集』の理解について

① 『猿丸集』の理解は、「2020/5/11現在の理解、即ち巻頭歌の新訳などを含む現代語訳(試案)」である。

② 具体には、次のブログに当該歌の現代語訳(試案)を記している。

  3-4-1歌~3-4-2歌:最終的に、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその1 いひたりける」(2020/5/11付け)及びブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ」(2020/5/18付け)に記す現代語訳(案)。

即ち「巻頭歌詞書の新訳」、「巻頭歌本文の新訳」及び「巻頭第2歌の新訳」という現代語訳(案)。

  3-4-3歌~3-4-50歌:2018/2/19付けのブログ「わかたんかこれ 猿丸集第3歌 仮名書きでは同じでも」から、2019/9/30付けのブログ「わかたんかこれ 猿丸集第50歌 みぬひとのため」に記す現代語訳(案)。(即ち、3-4-**歌の現代語訳(試案))。

例えば、3-4-27歌の現代語訳(試案)は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第27歌 ともなしにして」(2018/8/27付け)に記載がある。

  3-4-51歌~3-4-52歌:最終的に、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ」(2020/5/18付け)に記す現代語訳(案)。

即ち「3-4-51歌の現代語訳(試案)」と「掉尾前51歌の新解釈」及び「3-4-52歌の現代語訳(試案)」と「掉尾52歌の新解釈」という現代語訳(案)。

 

付記2.「きり」について

① 『例解古語辞典』では、用例として『堤中納言物語(虫めずる姫君)』の「蝶は捕らふれば、手にきり付きて」を引用している。

② 詳説古語辞典』(三省堂)では、『堤中納言物語(虫めずる姫君)』に用例のあることを指摘し、『古語林』(大修館)でも、立項している。

③ 『角川古語大辞典』では、「蝶の羽の鱗粉」とし、用例として『堤中納言物語(虫めずる姫君)』の「蝶は捕らふれば、手にきり付きて」を引用している。

④「きり」は、このほか名詞として「霧」、「桐」、錐及び「切り」の意などもある。

(付記終わり 2020/6/1  上村 朋)