わかたんかそれ賭け事を詠む歌(猿丸集より)

関東は暖かい日が続いています。上村 朋です。

どの時代も賭け事は盛んで、度々禁止令が出ています。

平安時代には、「攤(だ)」という賭け事が盛んであったそうです。賽(さいころ)を投げて、出る目の数によって勝負する賭け事遊びで、これを「攤うつ」といい、『紫式部日記』に「攤うちたまふ」とみえ、高位の者も打ち興じています。『徒然草』157段に「だ打たん事を思ふ」とあり、『栄花物語』や『大鏡』にもその用語がみえます。

官人の子女もしていました。兎も角も、やり過ぎないよう家族は注意するのですが、反論する子女もいたようです。

猿丸集から、歌を、分かち書きして引用すると、

 

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

たまだすき かけねばくるし かけたれば つけて見まくの ほしき君かも

 

3-4-20歌 (詞書は3-4-19歌に同じ)

ゆふづくよ さすやをかべの まつのはの いつともしらぬ こひもするかな

 

詞書にある「いみじきを」の形容詞「いみじ」は、「はなはだしい、並々でない、すばらしい、ひどく立派だ」、などの意があります。恋の心情を詠った娘を親どもがほめているとは、信じられません。

私の現代語訳(試案)はつぎのとおり(付記1.参照)。

3-4-19歌  「親や兄弟たちが、口頭で注意をした折、気のきいたことを言うのを(親や兄弟が)聞き、その娘を取り囲みほめた(歌)を(ここに書き出すと)」

 

(二句と三句の動詞「かく」は「掛く」。二句は「賭け事をしないと苦しい」意の場合)

 「賭け事の攤は、美称を付けるほど人が好ましく思っているものです(あるいは、私は玉のようにすばらしい攤が大好きです)。それに親しめない(「攤を打つ」ことができない)とすれば私には苦痛です。親しめば、「攤を打つ」ことをつづければ、(その苦しさから逃れるために、なおさら)近寄り身近に接したいと思うものが、親という存在だったのですね。」(第1案)

(また、二句と三句の動詞「かく」は「欠く」。二句は「賭け事を欠くのを止める(賭け事を続ける)と苦しい」意の場合)

 「賭け事の攤は、・・・人が好ましく思っているものです。それが身の回りから欠けない(「攤を打つ」ことがこれからもできる)となると私には(骰子の目が運任せであるので)苦痛です。それは必然的に続きます。これに対して、(仰せに従って)欠けたという、「攤を打つ」ことができないという状態になれば、(それだけで)益々自分の近くに引き寄せたくなると思うのが、攤というものなのですよ。(攤を打たないでいるのは、それは苦しいと思いますよ。どちらも苦しいなあ。)」(第2案)

 

第1案は、五句の「君」は、「親ども」を尊称したものである、と思います。この歌の初句は、賭け事に関して一般論を親どもに示して、二句以降で、第1案は、苦しみから脱するのがなかなか難しいから親どもに縋りたいと詠った、ということになり、第2案は、二句以降で、賭け事が自分の思いのままの展開とならないのは苦しいが、その魅力を断ちがたいのが常だと詠った、ということになります。(実は4案の理解ができる歌でした。)

 

3-1-20歌 

「夕月が輝きその光が降り注いでいる岡のあたりの松の葉が、いつも変わらぬ色をしているように、「たまだすき(玉攤(だ)好き)」は変らないのに、(実現が)何時とも分からないことを親どもはいうものなのだなあ。」

五句にある「こひ」は、「(親の)乞ひ」の意です。

なお、猿丸集は異伝歌を集めた歌集と言われており、3-4-19歌が異伝歌といわれているもとになっている歌は萬葉集にある2-1-3005歌、3-4-20歌は古今集にある1-1-490歌です。しかし、このように全然別の理解が可能な歌ばかりです。

 

ご覧いただき、ありがとうございます。(2019/11/19 上村 朋)

付記1.「3-4-7」とは、『新編国歌大観』の巻数―その巻での当該歌集の番号―当該歌集での歌番号。現代語訳(試案)は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第19歌20歌 たまだすき」(2018/6/25付け)から引用。(付記終り 2019/11/19 上村 朋)

わかたんかそれ猿丸集に詠う富士の噴火

 さわやかな秋日和が続きました。上村 朋です。

 象徴天皇として三代目の時代が今年スタートしました。

 これからも、憲法の前文で掲げる、崇高な理想と目的を達成するよう、努力したいと思います。

 万葉・古今などの歌の異伝歌から成る歌集とされている『猿丸集』の歌のなかには、直前の時代の出来事を歌に用いているのもあります。

 貞観の富士の大噴火が、『猿丸集』の七番目に詠いこまれています(ブログ「わかたんかこれ  猿丸集 第7歌 ゐなのふじはら」(2018/3/19付け)より引用)。(噴火は付記1.参照)。

歌を、分かち書きして引用すると(付記2.参照)、

 

3-4-7  なたちける女のもとに(3-4-6歌と同じ)

   しながどり ゐなのふじはら あをやまに ならむときにを いろはかはらん

 私の現代語訳(試案)は、つぎのとおり。

「(詞書)噂がたった(作者が通っている)女のところへ(送った歌)

 しながとりが「率(ゐ)な」と誘う猪名の柴原(ふしはら)とちがい、富士の裾野の原が、新しい山にと変化するとなれば、その山の頂(噴火口)は色が鮮やかになるでしょうよ(私たちはそのようなことの起こらない「率な」に通じる猪名の柴原(ふしはら)にいるのだから、そのようなことになりません。噂にまどわされないようにしてください。)」

 

 この歌によく似た歌は古今集萬葉集に無くで、『拾遺和歌集』の「巻十 神楽歌」にあります。

1-1-586 しながどりゐなのふし原とびわたるしぎがはねおとおもしろきかな

 

 その現代語訳の例をあげます。

「猪名の柴原に、一面に飛ぶ鴫(しぎ)の羽の音は、風情があることだ。」

(『新日本古典文学大系 拾遺和歌集』)

 私の現代語訳(試案)は、つぎのとおり。

「しなが鳥が雌雄並んで遊ぶ場所、その猪名川に広がる原野に、渡り鳥のシギが飛びかっている。その睦みあう羽音は 興味深いなあ。」

(「ゐな」とは、地名の「猪名」であるとともに、「動詞「率る」の未然形+終助詞「な」(誘う意)」であり、「率な」とは、「引き連れてゆこう、行動をともにしよう(共寝をしようよ)」と誘っている意)(付記3.参照)

 

 富士山の貞観の噴火状況は周知のことだったようです。拾遺集の歌とは全く別の歌になっています。

 明治以降の磐梯山の大噴火や度々噴火をしている桜島なども、現代の歌人や恋人たちはどのように利用しているのでしょうか。世界中の噴火のことも詠まれていると思います。

 ご覧いただき、ありがとうございます。(2019/11/12 上村 朋)

付記1.当時の富士山の大噴火は、延暦19年(800)、貞観6年(864 青木ヶ原溶岩を形成)の2回。貞観地震は、貞観11年(869)。陸奥国にあるという「末の松山」も当時和歌に詠われている。

付記2.「3-4-7」とは、『新編国歌大観』の巻数―その巻での当該歌集の番号―当該歌集での歌番号。

付記3.似た歌は、『神楽歌』として今日伝わっている歌にもある。

「しながとる  や  猪名の柴原 あいそ  飛びて来る 鴫が羽音は 音おもしろき  鴫が羽音」

(付記終り。2019/11/12 上村 朋)

わかたんかそれ猿丸集を読んで その1

 2019年も立秋を迎えるころとなりました。上村 朋です。

 冬支度を終わった地域もあるでしょうが、今年被災をうけた地域はいかがでしょうか。

万葉・古今の歌の異伝歌から成る歌集とされている『猿丸集』の各歌を、その異伝歌と言われる歌との比較の作業が一通り終わったところです。面白い歌集でした。

 

そしていくつかのことを確認できました。

異伝歌と同じ趣旨の歌は一つも無く、異伝歌をベースにした新しい歌ばかりでした。

同音異義語を上手に用いた歌であり、ひらかな書き記された面白い(詞書付きの)歌でした。

20首以上の歌が異伝歌とされている古今集の配列に関して新たな発見がありました。このように古今集を鑑賞できるのだ、という喜びがありました。

『猿丸集』は、詞書を創作しただけで見違えるようになっている歌もあります。それも作品(歌や歌集や小説や絵画や作曲など)の作り方の一つです。(付記1.と付記2.参照)

 

現代短歌で、猿丸集と同じような作り方をして発表された歌集を、どなたかご存知ではないでしょうか。教えてください。(E mail:yayohigo20@gmail.com

不定期となりますが、雑感を綴り、「わかたんかそれ・・・」も続けたい、と思います。

ご覧いただき、ありがとうございます。(2019/11/5 上村 朋)

 

付記1.猿丸集を読むにあたって、小松英雄氏の著作から多くを学びました。そのほか多くの方に学恩を蒙っています。深く感謝します。

付記2.猿丸集の各歌の検討は、私の「わかたんかこれ 猿丸集・・・」シリーズのブログをみてください。2018/1/15付けブログから2019/11/4付けまであります。猿丸集の配列など編纂物としての検討はこれから行う予定です。

(付記終り。 2019/11/5   上村 朋)

 

わかたんかこれ  猿丸集第52歌その4 はな見

前回(2019/10/28)、「猿丸集第52歌その3 む・む」と題して記しました。

今回、「猿丸集第52歌その4 はな見」と題して、記します。(上村 朋)

1. 『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌

① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-52歌  やまにはな見にまかりてよめる(3-4-51歌に同じ)

こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

古今集にある類似歌 1-1-520歌  題しらず     よみ人しらず

こむ世にもはやなりななむ目の前につれなき人を昔と思はむ 

 

② この二つの歌は、清濁抜きの平仮名表記をすると、二句1文字と、詞書が、異なるだけです。

③ この二つの歌も、趣旨が違う歌であり、この歌はいつか来訪できるようにとおだやかに粘り強く願っている恋の歌であり、類似歌は、たとえ拒否されていても諦めず強く訴えかけている恋の歌です。

前回までの予想(「この歌は、来訪を待ちかねている恋の歌であり、類似歌は相手にされていない状況に変化はないが諦めきれない歌ではないか」)は、外れました。

④ 今回は、この歌と、詞書を共通にする3-4-51歌とを検討します。

 

2.~9. 承前

(最初に、類似歌の検討のため、古今集巻十一恋歌一の配列を検討した。特徴を3点指摘できる。

① 巻一からの四季の巻と同じように、巻十一も奇数番号の歌と次の歌は対となるよう編纂されている。

② 恋歌一は、いわゆる「不逢恋」の範疇の歌のみで、しかも「撰者たちの美意識を反映して創出された」論理により構成されている。

③ 恋歌一は、鈴木氏が指摘するように心象面の進行順で区分され配列されている。歌群は、検討すると九つ認められた。この歌は六番目の歌群「煩悶の歌群(1-1-513歌~1-1-522歌)」の8番目にある。

次に、類似歌1-1-520歌の現代語訳(試案)を得た。初句にある「こむ世」の「世」は、俗信である「自分が再生する世界(次の世)」の意であった。)

 

10.3-4-52歌の検討経緯

① 3-4-52歌の詞書は、3-4-51歌の詞書と同じです。ブログ「わかたんかこれ猿丸集第51歌 をしげなるかな」(2019/10/7付け)で検討し、現代語訳(試案)は4案並記で終わりました。

第一 「やま」=「山」の場合

「山に桜の花見にゆき、詠んだ(歌)」

第二 「やま」=「屋間」(建物と建物の間)の場合

「建物と建物の間のところにゆき、(となりの)桜の花を見て、(その後に)詠んだ(歌)」

第三 「やま」=「屋間」(屋根の間)の場合

「屋根と屋根の隙間がみえるところにゆき、(となりの)桜の花(花のような人)を見て、(その後に)詠んだ(歌)」

第四 「建物内の武具を置いている(屏風などに囲まれた)ところに、立派な、桜の花と喩えるようなものを見て、(その後に)詠んだ(歌)」

整理をすると、山での景と屋敷での景とになり、後者の場合は、何かから覗き見して、「花」をみて詠んだ(歌)」という意を共通に持っています。「はな」が女性または女子を意味するならば、衆人環視のなかで行える行動ではなく、はしたない行動ですが、関心を持った男であれば隠密裏にできるならやってみたい行動です。

② そして、3-4-51歌(をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ)の現代語訳(試案)は、2案並記で終わりました。

第一案 「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならば手放すのには忍びないものにも思われるよ、桜の花は。だから、さあ、ここに宿をかりて、散るまで(近付きを得るまで)じっと見定めよう。(貴方との仲をじっくりと育てよう。)」

第二案 「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならばいとおしくみえるよ、桜の花が。だから、桜の花よ、私は、ここに宿をかりて、噂が急に広まるまで(裳着が終わるまで)じっと見まもろう。」

第一案は、初句「をりとらば」の時点が、女性と逢えるようになる時点、の意であり、女性は成人です。

第二案は、初句「をりとらば」の時点が、女子が大人になった時点で行う裳着の前の時点、の意です。第二案は、まだ少女である姫君(が例えば庭に出て遊んでいるところ)を盗み見した後の歌ということになります。

③ 詞書と歌本文との関係をここで整理すると、つぎのとおり。

表 詞書と3-4-51歌の現代語訳(試案)との対比

詞書の現代語訳

3-4-51歌の現代語訳(試案)

3-4-52歌の現代語訳(試案)

第一 (山の桜)

第一案

これから検討

第二 (建物間から桜)

第一案又は第二案

これから検討

第三 (屋根間から桜)

第一案又は第二案

これから検討

第四 (武具置き場の物)

案無し

これから検討

 

11.3-4-52歌の現代語訳を試みると

① 鈴木宏子氏は、次のように現代語訳しています。

「来世にも早くなってほしい。目の前(現世)で冷淡な態度をとるこの人を昔(前世)と思おう。」

鈴木氏は、「この歌は、仏教の三世に基づく発想」とし、類似歌は1-1-520歌であると指摘しています(『和歌文学大系18 猿丸集』(鈴木宏子校注)』(1998))。

② この歌は、初句を、「こむよにも」と記し、「こむ世」としていません。「よ」は、「世」以外にも「夜」などにも該当します。また、同じ詞書のもとにある1-1-51歌との関係で、この歌が仏教での来世とか単に「次の世」を詠う歌と断定する理由が乏しい。

③ これまでの『猿丸集』歌は、類似歌と趣旨を異にしてきています。

名詞「よ」には、漢字で示すと少なくとも4つの意があります。「世・代」、「余」(そのほか・それ以外)、「夜」、及び「節」(竹などのふし)です。「世」以外の意も検討を要します。また、「来む」と修飾されてしかるべき語は、「世」と「夜」です。

④ 二句にある動詞「なる」の意にも、いくつか候補があります。

成る:四段活用「できあがる」あるいは「変化して、ある状態になる」あるいは「できる。」意です。

業る:四段活用「生業とする」

鳴る:四段活用「音が出る。ひびく。鳴る。」

慣る・馴る:下二段活用:「慣れる」、「親しむ・うち解ける。」

類似歌と同様に、この歌も「成る」が第一候補と思えます。

⑤ 「こむよ」が、「こむ夜」であれば、初句と二句「こむよにもはやなりななん」とは、「行きたい夜になってほしい」、あるいは「来てくれる夜になってほしい」意となります。

⑥ 四句にある形容詞「つれなし」の基本的な意味は、「何か見聞きしても反応を示さないとか、心に思っていることを顔色に出さないとかいうこと」(『明解古語辞典』)です。動詞「連る」には、「連れ立つ・同伴する」と「従う・応ずる」の意があり、名詞「連れ」は、古語辞典には、能楽狂言での用語とあり、『古今和歌集』編纂者の時代は名詞と扱われていなかったようです。

このため、四句にある「つれなき人」とは、形容詞「つれなし」の連体形+名詞「人」と理解し、「無情なつれない人」とか「従わない人」の意ではないか、と推測できます。

また、この歌においては、「つれなき人」を「むかしとおもはむ」と表現しているので、人物ではなく、その人物がとった行動・行為の意である可能性もあります。「つれなき人」を優先すれば、「むかし」を「昔の人」と理解することになりますが、「むかし」(という時点)を優先すれば「つれなき人」を「特定の行動・行為をしていたときの人、あるいはその人がしていた行動・行為のみ」の意という理解も可能となります。

⑦ 五句にある「むかし」とは「昔」であり、昔と認識する基準の時点(状況)を確認する必要があります。

類似歌では、初句にある「こむ世」が実現している時点から振り返って昔と表現しているという理解をしました。歌のなかで「こむ世」と「昔」とが対比させてあり、初句にある「こむ世」が実現している時点から振り返って昔と表現しているという理解を諸氏もしています。

「こむ世」とは、動詞「来」の未然形+助動詞「む」の連体形+名詞「世」であり、「来」の意には「(目的地に自分がいる立場でいう)行く」があるので納得がゆきます。

この歌にある「こむ夜」も、「むかし」と対比させており、初句にある「こむ夜」が実現している時点から振り返って昔と表現しているという理解が素直です。

⑧ ところで、『猿丸集』編纂者が、わざわざ作詠事情を記しているのは、それがこの歌の前提条件であることを強調している、ということです。

そうすると、歌本文に、作中人物の考えに前提条件を詠う必要はありません。

この歌の文の構成は、詞書という前提条件を踏まえて、

文F:こむよにもはやはやなりななんめのまへに (詞書からの結論、決意あるいは予想)

文G:(めのまへに)つれなき人をむかしと思はむ (文Fの再確認)

の二つの文から成る、と理解するのが良い、ということになります。

「むかし」とは、「こむよ」がないという、この歌を詠っている時点を指す語句であり、上記⑥に記したように、具体的なその意は、「行こうにもゆくことができなかった頃」とか「行こうにもゆくことができなかったときの人」の意と推測します。

⑨ これらの検討を踏まえ、3-4-52歌の現代語訳を、詞書のもとで試みると、つぎのとおり。

「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」(以下第十一案という)

この(試案)は、助動詞「む」を、初句においては「意思・意向」の意、五句においては「推測」の意、と理解したところです。

 

12.再び詞書及び詞書と歌との関係の検討

① 上記の現代語訳(試案)からは、詞書にいう「はな」とは成人の女性を暗示しているという理解が妥当と思えます。

詞書と歌本文との関係を、再度ここで整理すると、つぎのとおり。

表 詞書と3-4-51歌・3-4-52歌の現代語訳(試案)との対比(上記10.③の表の修正)

詞書の現代語訳

3-4-51歌の現代語訳(試案)

3-4-52歌の現代語訳(試案)

第一案 (山の桜)

第一案

案無し

第二案 (建物間から桜)

第一案 又は第二案

第十一案(成人の女性)

第三案 (屋根間から桜)

第一案 又は第二案

第十一案(成人の女性)

第四案 (武具置き場の物)

案無し

案無し

 

② 一つの詞書のもとにある二つの歌であり、上表のように3-4-52歌が成人の女性を詠っているとみなせるので、3-4-51歌も成人の女性を詠っている第一案となります。

③ 詞書にある「はな見」をするためには、作者が屋根に登ったとするより、屋敷に(手引きを得たりして)入り込んだ、という想定に現実味があります。

このため、詞書は、第二案を採りたい、と思います。

④ この二つの歌に共通な詞書は、再掲するとつぎの案となります。「はな見」はどこの屋敷でも可能であり「(となりの)」は推量が過ぎていると思うので除きました。

「建物と建物の間のところにゆき、(となりの)桜の花を見て、(その後に)詠んだ(歌)」

⑤ この詞書に従った歌本文の現代語訳(試案)を再掲すると、つぎのとおり。

3-4-51歌

「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならば手放すのには忍びないものにも思われるよ、桜の花は。だから、さあ、ここに宿をかりて、散るまで(近付きを得るまで)じっと見定めよう。(貴方との仲をじっくりと育てよう。)」

3-4-52歌

「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」

⑥ なお、3-4-51歌の第二案はつぎのように修正したい。

修正第二案「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならばいとおしくみえるよ、桜の花が。だから、桜の花よ、私は、ここに宿をかりて(あなたの近くで)、散るまで(噂が広まってくるまで(裳着が終わるまで))じっと見まもろう。」

 

13.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-52歌は、詠う事情の一端を説明しています。

これに対して類似歌1-1-520歌は、「題しらず」であり、詠う事情は不明です。類似歌は、『古今和歌集』巻十一にある歌なので、いわゆる「不逢恋」という「片恋」の状態の歌であることがわかるのみです。

② 初句が違います。この歌は、「こむ夜にも」の意であり、類似歌は、「こむ世にも」と明記されており、その意は、俗信の「次の世にも」、の意です。

③ 三句の掛かる語句が違います。この歌は、初句と二句にのみ掛かり、類似歌は、上句および下句にも掛かり得ます。

④ 五句にある「むかし(昔)」の意が違います。この歌は、「こむ夜」が到来した時点からみた「むかし」であり、作詠時点を指します。「こむ夜」も「むかし」も現世における時点です。

これに対して、類似歌は、俗信の「次の世」(「こむ世」)の時点からみた「昔」であり、作中人物(作者)が今生きている世を「昔」と言っています。

⑤ この結果、清濁抜きの平仮名表記をすると一文字(助詞「なむ」の後世の表記が「なん」)違いですが、この歌は、いつか来訪できるようにとおだやかに粘り強く願っている恋の歌です。

これに対して類似歌は、たとえ拒否されていても諦めず強く訴えかけている恋の歌です。

 

14.古今集の部立の恋歌一について

① ここまで、類似歌のある『古今和歌集』巻第十一恋歌一に関した、次の2点について理由を明確にしてきませんでした。

それは、編纂者の恋歌一に対する論理が「撰者たちの美意識を反映して創出された」ものであるということと、恋一にある歌はいわゆる「不逢恋」の範疇の歌のみで構成されているものの、「恋の初めという時点・情景に関しては、限定があるようである」ということです。古今集編纂者が行った、恋歌の定義に関わることです。

② 前者から述べます。

萬葉集』では「相聞」という部立てになかに恋に関する歌があります。そのなかには、宴席(招宴・慰労の席)で披露されたと思われる歌があります。それとも異なる意識で恋の歌が『古今和歌集』成立以前に詠まれています。それは、高貴な人が主催し、競って詠わせその行事を華やかにしたりする歌、あるいは主催者が歌に主要な役割を担わせた遊宴での歌です(当然、漢詩が主要な役割を担っている行事・遊宴が先行してあります)。そしてその時披露された歌を、歌合という形にして記録することも行われています。

『寛平御時后宮歌合』では、歌の整理に「恋」と題する部立があり、題詠し歌の雰囲気を楽しみ、遊宴を盛り上げる歌となっています。だから、恋を詠うことは、恋愛感情抜きで、恋という心情をいかに詠うかというゲームに既になっています。女に代わって男が詠んでいる歌が、『古今和歌集』にもあるところです。

そのため恋の類型化も行われていたようで、鈴木宏子氏は、『王朝の想像力 古今集源氏物語』(笠間書院 2012)において、古今集は、さらに「人に知られぬ思ひ」(「相手にさえ知られない孤独な恋」)を発見してそれから始め、「忘らるる恋・あき」までを初めて編集した、と指摘しています。

③ 恋一の歌には、伝承歌であるよみ人しらずの歌も多数あります。恋と言う感情よりも相手に挨拶をする意で相聞の歌と理解できる元資料をも、手の届かない人を恋う「恋歌」に適う歌として配列しています。

「撰者たちの美意識を反映して創出された」編纂者の恋歌一に対する論理は、そのような恋ということを題材として位置づけたうえの歌ということです。

④ 次に、「恋の初めという時点・情景」に関してです。

一般に、恋の始まりは、後でそれがきっかけだったと気付く場合と、直感的にこの人だ、と気付く場合と結びつくのを期待して手探りで始める場合があります。

どの場合も、圧倒的に視覚により得た情報が重要です。直接顔をあわすこと(密かにでも)は、価値の高い情報源です。さらに、写真などから情報を得るようになったのは近代以後のことです。

平安時代の官人の家族には、勉学に勤しむ時間が十分ありましたが、男女別学で女性は家庭内での個人教授(書と琴と和歌、出仕には漢籍も)であり、同席して祭などを見物する機会もありません。男女の仲にすすむには、(政略的なものを除いて)結びつくのを期待して個人という建前で発信する情報としては、手紙(と歌)で始まる場合がほとんどです。『古今和歌集』編纂者もそれを前提として恋歌を構成しています。

官人の家の場合、男女の仲に関わる情報収集は、相手の成人前から、評判や仲を取り持つ人の薦めと自ら(又は一族として)の相手の人物調査からはじまっています。次いで家人経由でおこなうこととなる手紙(と歌に用いられている用紙や筆跡)や贈り物や文使いの口上となります。返事には家族と影響力ある召使などが当然十分時間を掛けて相手(とその家族)を値踏みします。

納得したら、最初に逢う段取りを女性側が設定する、という次のステップになります。御簾越しから始まることもあったでしょうが、逢うといえば、私室に招き入れることを意味します。

⑤ だから、「恋の初めという時点・情景」は、男から言えば「顔は知らないけれど、相手に好意を持っている」という立位置以外ありません。交際を申し込まれた女性は、白紙の状態というポーズをとることが可能なので、最初に逢うまでは(あるいはそれ以後も)、返事は拒絶のポーズが基本でありつづけます。

女性が断る場合は、手紙の受取を拒否すればその意思が伝わります。男は、返事があっても無くても臆せずチャレンジする、という建前ということになります。手紙の受取りを一旦は拒否されることをも想定した殺し文句の順番があったのだと推測します。その一例が、恋一の歌の順序なのではないか、と思います。

題詠は、このように想定して行われている、と見なせます。

⑥ 『古今和歌集』巻第十一恋歌一の歌は、「未だ逢ったことのない男女の間の一方的な恋の歌」という片恋の段階か、「一度は逢った後拒否されて暫く時間のたった段階の一方的な恋の歌」という片恋の段階の歌と指摘しました。(ブログ「わかたんか猿丸集第52歌その2 こむ世にも」(2019/10/21付け)の4.②参照)

女の返事のスタイルは拒絶のポーズが基本なので、いわゆる「不逢恋」などという分類を歌にすると、このような初めてか否かを強調することになりますが、拒絶や反応の程度が激しいのは最初の応対からあることです。(付記1.参照)

⑦ そのような事情のもとにおける恋歌一の60数首は、当時者同士(とお互いの家族も)納得した上の激しい言葉の応酬なのであり、当人のみが接し得る情報が行き交っているとみることはできません。今日からみると片恋と承知をしていて相手にまとわりついている歌もあり、ハラスメントに確実に該当している歌もあるところです。(付記2.参照)

 

⑧ 以上で、『猿丸集』の歌ごとの検討が、一応、すべて終わりました。同じ詞書の歌についてはできるだけ比較検討してきましたが、『猿丸集』全体の配列などについてはこれまでしていません。

次回まで、ちょっと時間をかけ、その点を検討します。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。(また、ブログ「わかたんかそれ・・・・」も御覧いただけたら幸いです。)

(2019/11/4   上村 朋)

付記1.官人の生活について

① 当時の官人の生活は、和歌集や物語類に垣間見える。『古今和歌集』にある歌は、下限が、900年代初頭である。『竹取物語』が『古今和歌集』と相前後して成立している。

その後の成立した『後撰和歌集』、『平中物語』、『大和物語』、『宇津保物語』、『蜻蛉日記』、『枕草子』及び『紫式部日記』などがある。『倭名類聚抄』・律令の規定類なども参考となる。

② つぎのような書籍もある。

川村裕子 『王朝生活の基礎知識――古典のなかの女性たち』角川選書372(2005年)

川村裕子 『王朝の恋の手紙たち』角川選書438(2009年)

小嶋菜温子・倉田実・服部早苗編 『王朝びとの生活誌』叢書・文化学の越境19 森話社(2013)

小町谷照彦・倉田実編 『王朝文学文化歴史大事典』笠間書院(2001)

付記2. 現代の用語としての「恋」について

① 『新明解国語辞典』(7版 2012)より引用する。

「恋」:「特定の異性に深い愛情をいだき、その存在が身近に感じられるときは、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が高揚する一方、破局を恐れての不安と焦燥に駆られる心的状態。」

「愛情」:「夫婦・親子・恋人などが)相手を自分にとってかけがえの無い存在としていとおしく思い、また相手からもそのように思われたいと願う、本能的な心情。(広義では、生有るものを大切にかわいがる気持ちも含む。)」

「恋愛」:「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだいき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。」

「恋しい」:「身辺にいてほしい人(あることが望ましいもの)に何としても接したいという衝動にかられる様子だ」

「ハラスメント」:「造語。(harassment=悩ませること)何らかの方法で当人に苦痛を与えるようなことをすること。また、その苦痛。」

「恋歌」:「異性を恋い慕う切ない気持を詠んだうた(和歌)。」

② 『広辞苑』(7版 2018)では、つぎのとおり。

「恋」:「a一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。(特に男女間の)思慕の情。恋慕。恋愛。b植物や土地などに寄せる思慕の情。」

「思慕」:「恋しく、なつかしく思うこと。」

「恋しい」(形容詞):「a(離れている人が)どうしようもなく慕わしくて、せつないほどに心ひかれる。b(場所・事物などが)慕わしい。なつかしい。」

立項していることわざに、「恋に上下の隔てなし」、「恋は盲目」、「恋は思案の外」などがある。

③ このような説明による「恋」とは、「特定の異性への心情」のひとつであり、「恋愛」も同じ。2019年時点では、同性へのそれも、普遍的な恋と認めている人がいるが、古今集編纂者の時代までは「特定の異性への心情」のようである。

④ これに対して、『例解古語辞典』ではつぎのとおり。

「恋」:「異性に対する恋愛の感情、またその行為。人間以外についても用いられていることがある。」

動詞「こひす(恋す)」:「恋をする。恋に悩み苦しむ。」と説明する。

動詞「恋ふ」:「a慕い思う。b(異性を)慕う。恋する。」と説明しています。

⑤ 『古典基礎語辞典』ではつぎのとおり。

「恋」:「離れている一人の異性に身も心もひかれる気持ちを表わす(語)。」

動詞「恋ふ」:「身も心もひかれている異性に対して、しきりに逢いたい気持ちがつのる意を表わす(語)。その後用法が拡大して家族など、相手が複数の場合もあるが、コフの主格は一人に限られている。比喩的に動植物などを遠くから慕い思う、意にも用いられるようになる。」

(付記終り。2019/11/4     上村 朋)

 

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第52歌その3 む・む

前回(2019/10/21)、 猿丸集第52歌その2 こむ世にも」と題して記しました。

今回、「猿丸集第52歌その3 む・む」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌

① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-52歌  (詞書は3-4-51歌に同じ)

こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

古今集にある類似歌 1-1-520歌  題しらず     よみ人しらず

こむ世にもはや成りななむ目の前につれなき人を昔と思はむ 

 

② この二つの歌は、清濁抜きの平仮名表記をすると、二句1文字と、詞書が、異なるだけです。

③ この二つの歌も、趣旨が違う歌と予想します。この歌は、来訪を待ちかねている恋の歌であり、類似歌は相手にされていない状況に変化はないが諦めきれない歌ではないか。

④ 今回は、類似歌を継続して検討します。

 

2.~6. 承前

(最初に、類似歌の検討のため、古今集巻十一恋歌一の配列を検討した。その結果、

① 巻一からの四季の巻と同じように、巻十一も奇数番号の歌と次の歌は対となるよう編纂されている。

② 恋歌一は、いわゆる「不逢恋」の範疇の歌のみで、しかも「撰者たちの美意識を反映して創出された」論理により構成されている。

③ 恋歌一は、鈴木氏が指摘するように心象面の進行順で区分され配列されている。歌群を検討すると九つ認められた。

次に、類似歌1-1-520歌について、「こむ世」を「自分が再生する世界(次の世)」と仮定し検討した。この歌は六番目の歌群「煩悶の歌群(1-1-513歌~1-1-522歌)」の8番目にある。)

 

7.類似歌の検討その3の補足 助動詞「む」

① 前回のブログ(2019/10/21付け)の6.において、「こむ世」を(俗信の)「次の世」と仮定して、類似歌の現代語訳を試みました。

その際、歌がどのような文からなるか、また、初句にある「こむ世」と五句にある「思はむ」にも用いられての助動詞「む」の検討に触れませんでした。その点をここに補足します。

② 最初に、文の構成について記します。

この歌は、次のように、三つの文からなり、作中人物がまだ諦めていない片恋の歌、と考えられます。

文A こむ世にもはや成りななむ (文Cの前提条件を提示)

文B 目の前に (文Aと文Bで述べられる論理に対する作中人物の嘆息。あるいは文Aと文Cの両方を修飾する五句なので独立させる。)

文C つれなき人を昔と思はむ (文Aのもとにおける結論)

作中人物の思考は、文B無しでも表現できているとみれば、文Bは、そのような自分の思考に対する嘆息(批評または感想の一言)である文を、文Aと文Bの間に置いたと見ることができます。このような詠み方が当時されていたならば、『古今和歌集』編纂者は、この類似歌(1-1-520歌)以外に同様な作詠方法の歌を『古今和歌集』に採っている可能性があります。

文Bは、また、単に文Aと文Cの両方あるいは一方に掛かっている語句としての理解も可能です。詞は一つの文にのみ所属させるものとすれば両方に掛かっている語句は、形式上独立した文とせざるを得ず、上記のように、この歌は、3つの文から成る、ということになります。

文Bを、文Aと文Cの論理への批評・感想と理解せず、また詞がいくつもの文に所属してよいと割りきれば、この歌は二つの文からなります。

即ち、両方に掛かっている場合を例示すれば、

文D こむ世にもはや成りななむ目の前に (文Eの前提条件を提示)

文E 目の前につれなき人を昔と思はむ (文Dのもとにおける結論)

片方にかかれば、例えば

文D’ こむ世にもはや成りななむ (文E’の前提条件を提示)

文E’ 目の前につれなき人を昔と思はむ (文D’のもとにおける結論)

などとなります。

前回示した諸氏の訳例も現代語訳(試案)も、文D+Eタイプの理解のものでした。

③ 文A+B+Cタイプの検討は、『古今和歌集』の配列から(類似歌と前後の歌との関係)の検討時に行うこととして、文D+Eタイプにおける助動詞「む」について、検討することとます。

前提条件である文D・D’等の「む」が、予測・推量の意の場合、結論である文E・E’等の「む」は、予測・推量の意か意思・意向の意かのどちらかになります。

前者は、前提条件が成立したら、その後はこれといった障害がなく結論に達する、という認識を作中人物がしていることになります。後者は、前提条件が成立した後のあらたな努力が可能となる、として決意表明をした歌という理解になります。後者の詠い方をするならば、本来の結論・目的にはまだはるかな道が残っているという認識を作中人物がしていることになります。相手に訴える歌であるならば、前者の詠い方が素直であろう、と思います。

後者の前提条件である文D・D’等の「む」が、意思・意向の意の場合、結論である文E・E’等にも同じように2案ありますが、作中人物の意思・意向の範疇のことは、すべて前提条件で処理して、述べたほうが素直な詠い方であり、前提条件が成立したら、その後はこれといった障害がなく結論に達する、という認識を作中人物はして詠うと思います。

④ 前回示した現代語訳(試案)の「次の世第一案」は、つぎのとおり。

「(次の世があるそうだが)早くそうなってほしい(そこに再生したいものだ)。私の眼前において、つれない仕打ちをしている人は、(生まれ変わった私からみれば)前の生にいる人と見なせるだろうから(生きている世界が違うのだから片恋の苦しみは、私にはなくなる、と思える)。」

これは、前提条件である文D・D’等の「む」と結論である文E・E’等の「む」が、共に予測・推量の意という現代語訳(試案)です。

⑤ 「次の世第二案」は、つぎのとおり。

「(行きたい次の世にも、早く変わってほしいものである(恋が成就できる雰囲気の世界に。) そうして、今私の目の前で、私の愛情を受け容れてくれない人のいる世界を、昔のことと思いなしたい(片恋が、解消したならなあ)。」

これは、前提条件である文D・D’等の「む」と結論である文E・E’等の「む」が、共に意思・意向の意という現代語訳(試案)です。この案は上記③の後者の論により採らないこととします。

⑥ 前提条件である文D・D’等にある「む」が意思・意向の意であり、結論である文E・E’等にある「む」が、予測・推量の意であり、三句「目の前に」は両方の文にかかるとした現代語訳(試案)を、「次の世第三案」として示すと、次のとおり。

「(行きたい次の世にも、早く変わってほしいものである(恋が成就できる雰囲気の世界に。) そう、目の前において。そうなれば、今私の目の前の、私の愛情を受け容れてくれない人のいる世界は、昔のことになるのだから(しかし、自分の意志でゆけない次の世だから、まだまだ片恋は解消しないなあ)。」(次の世第三案)

⑦ なお、五句にある動詞「思ふ」は、どの現代語訳(試案)でも、回想の意ではなく、「心に思う」意です。

以後は「次の世第一案」と「次の世第三案」について、前後の歌との関係を検討することとします。

⑧ この歌は、片恋を諦めていない段階の歌です。相手と生きる世を異にしていては求めている恋の成就はまず得られるはずがありません。昔話には、異界の人と結ばれるという話はありますが、今恋の相手は作中人物と同じ世にいる人です。だから、恋の成就を求めるならば、作中人物も今の世(目の前の世)から(自分の居る)次の世に引っ張ってきてそこで新たな恋をスタートさせ(今の世の経験を活かし必ず)実らせなければなりません。「次の世第一案」と「次の世第三案」では、相手の居場所が「目の前」だけの歌で終わっていてよいのか、気になります。

相手からいうと、次の世があるなら行ってもらって、厄介払いできることになります。

この歌を相手に送った場合、次の世でも付きまといたいと言ってきたとも相手にとられかねません。まことに過激な恋歌です。

 

8.類似歌の検討その4 次の世以外で現代語訳を試みると

① 初句にある「世」には、色々の意が前回のブログ(2019/10/21付け)の5.⑦に記したようにあります。

「世」を仏教思想での三世に基づく世とみる案は、検討の結果否定でき、「人の人生。生涯。また、その運命。」あるいは「境遇。状態。」の意を「世」とみて、「こむ世」を(俗信である)「次の世」として現代語訳を前回の6.で試みました。ここでは、それ以外の「世」の意での理解を検討します。

「世」の意のなかの、『明解古語辞典』が用例に『源氏物語』をあげている意にしぼると、「第七 人の人生。生涯。また、その運命。(『源氏物語』(手習))」あるいは「第八 境遇。状態。(『源氏物語』(帚木))」以外にも

第四 俗世間。浮き世。(『源氏物語』(手習))

第十 男女の仲。「よのなか」。(『源氏物語』(帚木))

があります。そのうち第十の意に可能性を感じますので検討してみます。

② この場合も、この前後の歌の検討時と同じように、前後の歌に寄り添う歌という前提を置かないで、恋一にある、いわゆる「不逢恋」の歌として、検討します。その後に、前後の歌との関係を検討することとします。

③ 初句にある「こむ世」の「こむ」(動詞「来」+助動詞「む」)の用例を『古今和歌集』でみると、いくつかありますが「む」の意は、予測・推量あるいは意思・意向です。(付記1.参照)

初句「こむ世にも」とは、助動詞「む」の意が、予測・推量の場合、

「(私が当然行き着くところと)予想する男女の仲にも」

となります。

また、助動詞「む」の意が、意思・意向の場合、

「私が願う男女の仲にも」

となります。しかし、助動詞「む」を仮定の意とするのは、二句との整合がとれません。いわゆる「不逢恋」の歌として、恋の行き着く先は男女の仲になること(恋愛成就)であるのは自明のことであり、行き着く先を仮定するよりも予想するなどのほうが素直な詠い方である、と思います。

④ 二句などを再確認します。

二句にある動詞「成る」とは、「できあがる」あるいは「変化して、ある状態になる」あるいは「できる。」意です。

二句「はや成りななむ」とは、副詞「はや」+動詞「成る」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の未然形+願望の意の終助詞「なむ」です。その意は、「すぐに(さっそく)、変化して、ある状態になりきってほしい」とか「すでに(もはや)変化し終って、ある状態にありたい」の意です。

三句にある「目の前」とは、連語であり、「見ている、すぐ前方。眼前」と「見ているうち。みるみる。」の意があります。三句は、初句~二句に掛かるほか、四句~五句にも掛かるとみることができます。

四句にある「つれなき人」とは、「平気なような(特定の)あの人」あるいは「無情な・つれない(特定の)あの人」の意となります。

この歌は、いわゆる「不逢恋」の歌なので、「つれない」と作中人物が認識している理由は、恋を片恋にさせられている相手の行為・態度にあります。「つれない人」の意は、「(いままでもそうであって)今もつれない行為をしている人」よりも「今後もつれない行為をすると予想される人」の意となり得ます。さらにその行為のみに限定しているかもしれません。

⑤ 五句にある「昔」とは、「以前。むかし」とか「現在と異なる状況の時」の意です。初句に「こむ世」と詠っているので、ここでは、時点を指すだけでなく、「昔の二人の仲」とかいう行動・行為とか、「(相手が)昔の人」など、人物を表現している、とみることもできます。

また、五句にある「思はむ」の動詞「思ふ」には、「心に思う」の意のほか、「回想する」意もあります。

なお、『例解古語辞典』は「昔の人」を連語として立項し、「古代の人」、「なくなった人」及び「以前、なじみであった人。昔の思い人」の意を、あげています。

 

⑥ 現代語訳を試みる前提は、繰り返しますが、「不逢恋」の歌ということであり、片恋で終ることを諦めていないはずの歌です。「こむ世」を「男女の仲」と仮定した場合も、助動詞「む」の意味や「つれないひと」の理解などいくつか組合せが生じますので、この歌を、文D・D'等と文E・E’等に二分し整理すると、例えば、次の表が得られます。

表 「こむ世」=男女の仲と仮定した場合の現代語訳ケースの一覧

文D・D'等:歌における前提条件

文E・E’等:歌における結論

現代語訳ケース番号

初句の「む」の意

五句の「む」の意

つれない人の意

昔の意

予測・推量

予測・推量

a

予測・推量

行動・行為

行動・行為

b

意思・意向

c

意思・意向

行動・行為

行動・行為

d

意思・意向

予測・推量

e

予測・推量

行動・行為

行動・行為

f

 

なお、現代語訳(試案)の、

次の世第一案は、上記の表の現代語訳ケース番号a

次の世第三案は、上記の表の現代語訳ケース番号e

に相当します。

 

現代語訳ケース番号aの場合を試みると、次のとおり。

「訪れるだろう男女の仲にも(又は行き着くだろう男女の仲・境遇にも)、すぐに変化しきってほしい、目の前で。そうすれば、今も目の前で私につれなく当たる人を、(過ぎた)昔に出会った人だ、と回想するだろう(結ばれたらそうなるのだが)。」(男女の仲第一案)

また、現代語訳ケース番号f の場合を試みると、次のとおり。

「私の願う男女の仲・境遇にも、すぐになってしまってほしいよ。今眼前で私につれない素振りばかりの状態を、以前そのようなこともあったことだ、とその時は思うだろう。」(男女の仲第二案)

⑦ どの訳でも、作中人物は、「色々冷たい仕打ちを受けてきているけれど、それでも一緒になりたい。」と訴えている歌であり、次の世第一案と同じ片恋の歌として悪くありません。しかし、まだ逢ったことがない時点の歌としては、「男女の仲」ということが踏み込みすぎているきらいがあります。

元資料の段階の歌であるならば題しらずの歌であるので、例えば現代語訳ケース番号f という理解も可能です。

どちらにしても、『古今和歌集』恋一の歌としては、配列からの考察を経て定まるところです。

⑧ なお、『古今和歌集正義』(香川景樹)には、1-1-520歌の「こむ世」に関して次のような指摘があります。

「こん世は 経て行ん世也。此今過て早くも年へての後にならなん、成れかし、目前に難面人を昔とおもはんと忍びかねて云にて、さる時節にとくも移りすぎね、・・・いつかさる世になりて、今のつらさを昔ばなしにせんなど、今も侘人の常語也」

 

9.類似歌の検討 その4  前後の歌とともに

① 類似歌(1-1-520歌)と前後の歌との関係を検討します。

古今和歌集』巻第十一恋歌一 の歌について、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第52歌その1 類似歌の歌集」(2019/10/14付け)で歌の主題などを検討し、1-1-511歌から1-1-524歌までを前回のブログ「わかたんかこれ 猿丸集第52歌その2 こむ世にも」(2019/10/21付け)でも再確認しました。

類似歌を保留していましたので、ここで検討し、その結果を前後の歌にも必要な補充・修正をして付記2.に示しました。(付記2、参照。付記2.の表は、2019/10/14付けブログの付記2.の表より抜粋したものがベースです。)

② 前回のブログまでの検討をまとめると、

2首を単位とした配列がなされている類似歌の前後の歌について、歌の主題と作中人物の思いを抜きだすと、

1-1-511歌と1-1-512歌は、「逢えると信じる理由あり」 (私の恋心は本気なのだから稔ってほしい)

1-1-513歌と1-1-514歌は、「まだ便りなし」 (立ち消えしたりして泣くばかり)

1-1-515歌と1-1-516歌は、「夢に期待する」 (夢の中で逢う工夫をしても)

1-1-517歌と1-1-518歌は、「焦がれ死にありや」 (死ぬと訴えても相手に突き放され)

1-1-519歌は、「まだ思っている」 (誰彼構わず打ち明けたい)

1-1-520歌は保留

1-1-521歌と1-1-522歌は、「逢えないはかなさ」 (落胆を例をあげて示す)

1-1-523歌と1-1-524歌は、「放心」 (これで良いかと自問自答)

1-1-525歌と1-1-526歌は、「夢に頼りたくも」 (俗信も頼りたいほど)

となります。

③ このような配列にみえる心象面の進行において、1-1-519歌と1-1-520歌の役割は、死ぬと訴えても相手に突き放され後であるので、1-1-521歌と1-1-522歌の冷静に現状を受けとめようとしているかの心象に至る直前の気持ちとして、「自暴自棄になるのを、必死に思いとどまり、気持ちの整理に向うステップの歌」という理解が候補になり得る、と思えます。

このため、1-1-519歌は、自暴自棄の一歩手前の気持ちを、1-1-520歌は、望みを再確認している歌、という理解ができる一組の歌であり、その主題は、「まだ思っている」というより、「思い果て無し」とみて、作中人物の思いを1-1-519歌は「いっそ口外したい」 1-1-520歌は「願いを語る」として詠っている、と思います。

④ 元資料の段階では上記のように複数の理解・現代語訳(試案)が可能な歌であっても、1-1-520歌は、『古今和歌集』の恋歌一の歌として整理されているはずです。

作中人物が「願いを語る」には、文D・D’等で述べる前提条件を、積極的に作中人物の意向で設定した

方が相手に対して強い訴えとなるでしょう。

初句の助動詞「む」は、単に予測しているのではなく、意思・意向の意あり、その結果を述べる文E・E’等における助動詞「む」は、確実に見通せるので単なる予測でよい、と思います。

そして、作中人物は、「昔とおもはむ」という状況になるのを強く願っているので、その前提条件として今生きている時ではなく俗信の「次の世」でかなえられたら、と仮定をおいて詠いだした歌であると、理解できます。現在の恋の進捗状況は悲惨で、この世での「男女の仲」を前提条件にするのに適している時期では、ありません。

⑤ まとめると、類似歌1-1-520歌は、

恋一の歌の配列から、改めて気持ちの整理をしている段階の歌となり、

初句の「こむ世」とは、俗信の「次の世」。その「む」は、意思・意向の意

五句の「思はむ」の「む」は当然のこととして述べる予測・推量の意

が妥当であり、これに該当する現代語訳(試案)は、「次の世第三案」となります。

⑥ 次に、ここまで宿題としてきた、この歌が、文A+B+Cタイプについて、検討します。

文B「目の前に」を、「文AとCという作中人物自身の思考に対する嘆息(批評または感想の一言)」と捉えてこの歌を理解することになります。

「目の前に」の「に」が、格助詞であれば、「に」の下に必ず動詞がくきます。文Aの「こむ世に(も)」に対しては「成りななむ」がきています。

文Aに示された前提条件において文Bの結果が生じる、と詠うので、「目の前に」は、前提条件を再度繰り返す役割を与えている、とみることができます。文Bは下にくる動詞が省かれた表現であるので、「(目の前に)なりななん」が第一候補になり、「(目の前に)なりぬとは」とか「(目の前に)思ふのは」とかも候補になり得ます。

しかしながら、歌を詠む事情がわからないので、推測に推測を重ねるようなことになってしまいます。恋一の歌としては、文A+B+Cタイプが必然ではなく、元資料の歌においては兎も角も、文D+Eタイプで作中人物の意は理解可能であるので、検討はこれまでとします。

 

次回は、3-4-52歌を検討し、同一の詞書の歌3-4-51歌との関係も確認したい、と思います。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

(201/10/28   上村 朋)

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第52歌その2 こむ世にも

前回(2019/10/14)、 「猿丸集第52歌その1 類似歌の歌集」と題して記しました。

今回、「猿丸集第52歌その2 こむ世にも」と題して、記します。(上村 朋)

1. 『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌

① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-52歌  (詞書は3-4-51歌に同じ)

こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

古今集にある類似歌 1-1-520歌  題しらず     よみ人しらず

こむ世にもはや成りななむ目の前につれなき人を昔と思はむ 

 

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句1文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌と予想します。この歌は、来訪を待ちかねている恋の歌であり、類似歌は相手にされていない状況に変化はないが諦めきれない歌ではないか。

④ 今回は、類似歌の検討をします。

 

2.~3. 承前

(類似歌の検討のため、『古今和歌集』巻第十一 恋歌一の配列を検討しました。その結果、

① 奇数番号の歌と次の歌は対となるよう編纂されている。巻一からの四季の巻と同じであった。恋二の数首まで検討した結果、それは恋歌一と恋歌二にまたがって貫かれていると思われる。

② 恋歌一は、いわゆる「不逢恋」の範疇の歌のみで構成されている。しかし、恋の初めという時点・情景に関しては、限定があるようである。

③ 編纂者の恋歌一に対する論理により配列されている。その論理は、「撰者たちの美意識を反映して創出された」ものである。

④ 恋歌一は、鈴木氏のいうように心象面の進行順で区分され配列されている。歌群は九つ認められ、類似歌1-1-520歌は六番目の歌群「煩悶の歌群(1-1-513歌~1-1-522歌)」の8番目にある。(付記1.参照))

4.類似歌の前後の歌

① 類似歌の前後の歌について再確認します。

2首単位にある歌の主題を、類似歌の主題と前後各2つ(計5つの歌の主題)を採りあげ、再確認します。具体的には1-1-515歌以下の10首であり、すべて「題しらず・よみ人しらず」とある歌です。これらの歌を、前後の歌に寄り添う歌という前提を置かないで、最初に検討します。

 

1-1-515歌  唐衣ひもゆふぐれになる時は返す返すぞ人はこひしき

「日が西に傾いて夕暮になってくると、いかにもいかにもあの人が恋しいことであるよ。」(久曾神氏)

「唐衣は、紐を結び、何度も裏を反すのだけれど――そうして日も夕暮になる時は、かえすかえすあの人は恋しいのさ。」(竹岡氏)

久曾神氏は、「着物を裏返すとなれば、俗信にささえられた1-1-554歌の心も感じられる」と指摘しています。(1-1-554歌は巻第十二恋歌二にあり、「夜の衣を返してぞ着る」と詠い、なかなか訪れのない相手を待っている女の立場の歌であり作者が小野小町です。)

竹岡氏は、次のように指摘しています。

「この歌は唐衣に寄せた恋の歌。「唐衣――ひもむすぶ――返す」(という景)に、日も夕暮になる時にかへすかへすぞ恋しき」という恋の情を重ねあわせた歌。また(仮名序でいう)六つのさまのうちの「かぞへうた」の一種。その寄せ方は唐衣に終始して物名程度にとどまり、前の歌(1-1-514歌)の寄せ方にははるかに劣る。」(1-1-514歌  わすらるる時しなければあしたづの思ひみだれてねをのみぞなく)

この歌は、夕方という時点に詠んでいる歌であり、さらに俗信を念頭に詠んだ歌であれば相手の訪れも期待できる恋の段階に作中人物はいるという理解が、推測の範囲ですが、素直です。すなわち、既に一度は逢っているもののなかなか訪れのない時期に相手を待っている女の立場で詠まれた歌ではないでしょうか。少なくともそれが元資料の歌の意と推測します。

しかし、詠うときまでの恋の経緯は、「題しらず」という詞書では推測できません。久曾神氏らの理解でも不明確です。用いられている語句に注目しても、以前に逢った経験が有るとも無いともどちらか一方を明確に示す語句はありません。

ただ、「恋一」または「恋二」が、いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針であるならば、それに従い、いわゆる「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

 

1-1-516歌  よひよひに枕さだめむ方もなしいかにねし夜か夢に見えけむ

「私は毎晩毎晩どちらの方向に枕をむけて寝たらよいのか、方向もきまっていない。どのようにして寝た夜、あの人が夢に見えたのであろうか。」(久曾神氏)

当時は、自分の夢の中へ相手が来てくれてなければ夢にみることはない、と信じていたそうです。

この歌を詠む以前に、作中人物は、少なくとも一度「あの人」を夢に見ていたからこのように詠むことができています。逢ったことが無くて(当然ユーチューブやラインもなく似顔絵も手に入らない時代に)その人の夢をみたという想定を全否定出来る材料がありません。この歌を詠むまでの夢以外の恋の経緯(それまでに一度でも逢えていた人なのかどうかなど)は、歌にも詞書に明確に記されていません。

それでも、1-1-515歌と同じように、いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針のもとにある歌ならば、「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

 

1-1-517歌  恋しきに命をかふる物ならばしにはやすくぞあるべかりける

「人を恋い慕う苦しさと私の生命とを、もし交換することができるならば、死ぬということはいたって容易なことであろうよ(恋がかなうならば、命など惜しくない)。」(久曾神氏)

「恋しいのにこの命を交換できるものなら、死は、このぶんではたやすいことでありそうだ。」(竹岡氏)

この歌は、このように思い詰めている相手が、逢ったことも見たこともない相手とは信じられない詠いぶりです。しかしながら、1-1-515歌と同じように、配列から「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

 

1-1-518歌  人の身もならはしものをあはずしていざ心みむこひやしぬると

「人の身も習慣によってどうにでもなるものであるよ。いとしい人に逢わないで、さあ、ためしてみよう。はたして恋こがれて死ぬかどうかということを。」(久曾神氏)

「人の身だって、習慣次第のものだがそれを、逢わずにいて、さあ、ためしてみよう、恋い死にするかしらと。」(竹岡氏)

竹岡氏は、「この歌は、まだ逢っていない点では、今までの歌と同じだからここに配置されてあっても別に不審はない。どうしても逢わずにおれない、せっぱつまった気持ちの歌。1-1-517歌は推量し、こちらは試みようとしている。」と指摘しています。

片桐洋一氏は、「前歌の女の返歌として、(そうなるかどうか)試してみましょう」と解釈することもできない訳ではない。本来は、揶揄している歌ではないのか。」と指摘し(『古今和歌集全評釈』(講談社1998))、また、恋一は、「未ダ合ハザル恋」の歌ばかりが集められている、とも指摘しています。

片桐氏が指摘するように元資料は、結局相手を拒否している歌とも理解できるところです。そして、この歌は、作中人物(作者)と相手は既に逢ったことがあるとも、盗み見されたかどうかは別にして未だ逢っていないとも両方の推測を否定していません。

配列からもいわゆる「不逢恋」の範疇の歌であるのが確かな歌ですので、この歌も「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

しかし、1-1-517歌と1-1-518歌の詞書はともに「題しらず」であり、元資料において既にペアの歌であったのかどうかは、配列からも特定できず、不明です。

 

1-1-519歌  忍ぶれば苦しきものを人しれず思ふてふ事誰にかたらむ

「恋い慕いながらじっとがまんしているのでまことに苦しいことであるよ。相手にも知ってもらえず、ただひとりで思いなやんでいるということを、いったいだれに打ちあけたらよかろうか。」(久曾神氏)

「思いを現わさず思い忍んでいると、たまらないものだがそれを、人に知られないで、思うということを誰に語ろう。」(竹岡氏)

竹岡氏は、「五句にある「かたる」とは、心の中の一部始終を話すこと(、の意)。歌の配置の上では、忍ぶ恋が顕れる恋に近づいて来、その間の心理のさまざまが、この歌の前後に詠まれている。」と指摘しています。

この歌は、初句に「忍ぶれば」と詠いだしているので、今逢えないことが作中人物を苦しめているとは理解できますが、既に逢った経験があるかいないかは不明です。詞書からも推測できません。いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針のもとにある歌ならば、「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

 

1-1-520歌  (上記1.の①に記す。類似歌であるので、後ほど検討します。)

 

1-1-521歌  つれもなき人をこふとて山びこのこたへするまでなげきつるかな

「私の愛情を受け容れてもくれない人を恋い慕うとて、こだまが反響してくるほど、大きな嘆息をもらしてしまったことよ。」(久曾神氏)

「私のこの嘆きをちっとも応じてもくれない人だのにそれを、恋しく思うというので、こんなにやまびこが応答するまで嘆いたわいなあ。」(竹岡氏)

「やまびこ」について、竹岡氏は、「山に聞く山彦のほか、広い屋敷や伽藍などの中での反響と解してよい。」と指摘し、例として後撰集1-3-798歌および『枕草子』「正月に寺に籠りたるは」並びに『源氏物語』の「夕顔」における「・・・手をたたき給へば、やまびこの答ふる声、いとうとまし。人はえ聞きつけで参らぬに・・・」、をあげています。

作中人物が今逢えていない状況が続いている時点の歌である、ということは理解できますが、既に逢った経験があるかどうかは不明です。詞書からも推測できません。いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針のもとにある歌ならば、「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

 

1-1-522歌  ゆく水にかずかくよりもはかなきはおもはぬ人を思ふなりけり

「流れてゆく水の上に数をしるすよりももっとはかないのは、思ってくれない人を恋い慕うことであるよ。」(久曾神氏)

「行く水に数を書くよりもはかないことは、というとそれは、思うてくれない人を思うことであったなあ。」(竹岡氏) 

顕註密勘以来、涅槃経には水に絵をかくことをはかない例にしているという指摘がなされています(数を書くという表現ではないそうです)。

水に数を書くという比喩は、『萬葉集』にもあるとも指摘されています。(旧1-1-2433歌 みずのうへに かずかくごとき わがいのち いもにあはむと うけひつるかな)

久曾神氏は、この譬喩によりこの歌は、「おもはぬ人を思ふ」を「はかなし」と詠っていますが、この万葉歌は、「わがいのち」をはかなく思っている、と指摘しています。

また、今逢えないでいる状況が続いていることをこの歌は詠っていますが、既に逢った経験があるかどうかは不明です。詞書からも推測できません。いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針のもとにある歌ならば、「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

伊勢物語』第五十段にもこの歌はあります。この段は、「男が恨むる人を怨む」歌からはじまり、5首ある4首目にこの歌が女の歌としてあります。「恨むる人を怨む」ということは既に逢ったことがあるとも推測できます。第五十段は、そのような男女の間の歌による話となっています。この段は、『伊勢物語』では増補の部分にあたる、とされています。

 

1-1-523歌  人を思ふ心は我にあらねばや身の迷ふだにしられざるらむ

「いとしい人を恋い慕う心は、もう自分ではなくなっているからであろうか、わが身がこれほどまどっていることすら、心にはわからないようである。」(久曾神氏)

「人を恋しく思う心というものは、自分でないから、それでこのように自分の身が分別を失っていることすら感じられないでいるんだろうか。」(竹岡氏)

この歌は、心が身から離れると詠うのではなく、身が離れると詠っており、だから心は、身の行動に責任もてない、と詠っていることになります。つまり、その行動を見るのではなく、変わらぬ心を信じてほしい、と訴えています。作中人物がなかなか逢えないまま現在を迎えていることは歌よりみて確かなことですが、この歌も過去に逢っているかいないかは不明です。詞書からも推測できません。いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針のもとにある歌ならば、「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

 

1-1-524歌  思ひやるさかひはるかになりやするまどふ夢ぢにあふ人のなき

「いとしい人のことをあれやこれやと思いめぐらしている想像の地域があまりに遠くまでひろがり過ぎたのであろうか。私の心は夢路をまどっているが、あの人に行き逢うこともないことである。」(久曾神氏)

「思いを馳せるあの場所が遥かになりでもするのかしら。あっちへ行きこっちへ行きして迷っている夢の中の道でこんなに会う人のないこと!」(竹岡氏)

この歌は、今逢えないため作中人物は苦しんでいると理解できますが、既に相手に逢ったことがあるかどうかは不明です。詞書からも推測できません。いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針のもとにある歌ならば、「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

② このように、1-1-520歌の前後の歌は、個々に理解すると、いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針であることから、「不逢恋」の範疇の歌となっているところです。

恋一の歌として検討したこれらの歌、即ち片桐氏のいう「未ダ合ハザル恋」の歌は、

未だ逢ったことのない男女の間の一方的な恋の歌と、

一度は逢った後拒否されて暫く時間のたった段階の一方的な恋の歌、

を指すこととなり、それが恋一(の少なくとも1-1-515歌以下10首)に配列されています。それが、いわゆる「不逢恋」ということになります。

 

また、元資料も「未だ逢ったことのない男女の間の一方的な恋の歌」ばかり、とはおもえませんでした。

③ 次に、当該歌とその前後の歌との関係を検討します。

奇数番号の歌と次の歌がペアの歌として配列されているかどうか、を確認します。

1-1-515歌と1-1-516歌は、作中人物に以前に逢った経験の有無が不明の歌です。だから、初めて逢うのが大変時間と手間を要して未だにその段取りもとれていないという片恋の段階か、あるいは過去に逢っていたとしてもその後拒否されて暫く時間もたったという片恋の段階の歌です。そして作中人物は、夕暮に何度も紐を結び今夜に期待をかけ、あるいは就寝のまえに枕の位置をきにしています。

これらは、片恋であっても、あきらめず、逢う期待を就寝後の夢にかけている歌です。なお、これらの歌の前に配列されている1-1-514歌は、泣きくずれる、と詠い、夜と夢を話題にしていません。

1-1-517歌は、夢に期待していません。恋と死を比較している歌です。1-1-518歌も恋死を話題にしている歌です。死を比較対象にしているのですからしばらく片恋の状況が続いているのは確かなことです。共通している話題は、恋い死にがあるかどうか、ということと言えます。それほどの片恋の状態を詠っています。

1-1-519歌は、恋い死ぬということに関して話題にしていません。恋を語らうことができないと詠っています。

1-1-520歌は、類似歌であるので、1-1-519歌とペアの歌かどうかは、類似歌を検討後確認します。

1-1-521歌は、空しい例をあげており、片恋の状態が続いているときの歌と言えます。

1-1-522歌も同様です。ともに、その状態がまだ続くと予想し嘆いている歌です。

1-1-523歌も片恋の状態が続いており、嘆いているものの、自分の行動が、心に思っていることを表現できていないことに作中人物は途方に暮れています。

1-1-524歌も逢うための方策がないと嘆いています。万策尽きたかのような歌となっています。次の歌1-1-525歌は、夢を頼るという方法をひとつ提示している歌であり、万策尽きたかと詠う歌ではありません。

④ このように、「未だ逢ったことのない男女の間の一方的な恋の歌」という片恋の段階か、「一度は逢った後拒否されて暫く時間のたった段階の一方的な恋の歌」という片恋の段階の歌が、この前後続いており、そのなかで、奇数番号の歌と次の歌は、一つの主題(話題)を詠うペアの歌として認めることができます。

また、ペアで配列されていることを前提にしても、各歌が上記のいわゆる「不逢恋」の歌の範疇の歌であるという理解は変ることはありません。

1-1-515歌からの10首は、その主題を順に追ってみると、片恋の深刻さが増す方向で配列されていると判断できます。但し類似歌1-1-520歌は保留します。

 

5.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

「来世(らいせ)にでも早くなってしまってほしいものである。いま目の前で、私の愛情を受け入れてもくれない人を、昔の人と思ってしまおう。」(久曾神氏)

「来世にでも、早うなってしもうてくれよ。現世でつれない人を、前世(の人)と思おう。」(竹岡氏)

「いっそのこと「あの世」とかいうものに早くなてもらいたい。そうしたら、今、私の目の前で冷淡に振る舞っている人を前世での人だと思えるだろうから。」(『新篇日本古典文学全集11 古今和歌集』)

② 久曾神氏は、「こむ世」を「やがて来るであろう世。来世」、「成りななむ」を「動詞「成る」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の未然形+希求の助詞「なむ」と解説し、「つれなき人」とは「冷淡な人。いくら愛情をうったえても受け入れてくれない人」、五句は「昔の人と思おう」の意(「む」は、意思を示す助動詞)と指摘しています。

竹岡氏は、「この世での恋の成就など望みもないから、早く来世になってほしい、すれば互いに生まれ変わっているから、こんなつれないこともないだろう、そしてつれなかったのは前世でのこととなろう、と言う気持ちの歌」であり、「こむ世」とは仏教で説く「来世」の意、「めのまえに」とは仏教でいう「現世」のこと。つれない人の意ではない。」と指摘しています。

『新篇日本古典文学全集11 古今和歌集』では、「来む世」とは「人の死後の世界」を指し、「目の前につれなき人」とは「目の前にいる冷淡な恋人」。「に」は現代語法ならば「の」とあるべきところ。」と指摘し、五句については、「過去(前の世)の人だと思えるようになるだろう」。「む」は「自然にそうなるだろうかという推量(佐伯梅友説)。」と指摘し、「来世がうたわれているが、観念的であり、むしろ現実に執着した歌。」と評しています。

片桐氏は、この歌も「忍ぶ恋」として配列されていると指摘し、さらに「(初句と二句は)早く死にたいということ」であり、「1-1-492歌や1-1-494歌に見られる「恋死」が、ここではこのような形で表現されている」と指摘しています。

③ この歌には、初句にある「こむ世」を、仏教のいう三世(前世・現世・来世)の「来世」という理解が竹岡氏の指摘するように古来有力です。3つの訳例について、「こむ世」、「目の前」、「昔」を整理すると、次の表のとおりです。

表 訳例における「こむ世」等の整理

歌の語句

久曾神氏

竹岡氏

新編古典文学全集

こむ世

来世=やがて来るであろう世。

仏教で説く来世

「あの世」とかいうもの=人の死後の世界(つまり、次の生を受ける世)

目の前

今生きている世(つまり、この歌を詠んでいる世)

この世=仏教でいう現世

目の前(つまり、この歌を詠んでいる世)

昔の人

仏教でいう前世にいる人

前世の人=過去(前の世)にいる人

 

3つの訳例の「こむ世」のイメージは、「次の生を受ける世」であり、しかも五句「昔と思はむ」の訳から、過去の自分の生を承知して(記憶して)作中人物は今生きている世に生まれたかに詠んでいます。

④ では、仏教でいう来世は、どのように説明されている言葉でしょうか。

仏教では(奈良時代に到来した仏教でも平安時代になって到来した仏教でも)いわゆる輪廻転生を積極的に否定していません。仏教の公認している通俗説の輪廻では、三世(前世・現世・来世)を平たく言えば広く生物(の魂はいろんな形で)何度でも生まれ変わる、という考え方であり、生まれ変わるものは、宗教的あるいは倫理的要因により決まるのであり、本人の好み優先で生れ変われるものではない、という趣旨の説です。

「仏教での来世」といえば、このような輪廻を前提とし,それまでの本人の行為の結果で決定される死後の未来に生を受ける世界を意味します。前世のことを、必ず記憶したまま未来に生を得るわけではありません。

この歌の作中人物が、現世の経験を忘れずに、次の世に生まれ変わるのは不定のことでしょう。仏教に心底帰依している人が来世に人間として生まれ変わると、簡単に信じているとは思えません。(付記2.参照)

古今和歌集』歌の作者の時代においても、仏教のプロ(僧侶)は、そのように説教し、それに接して功徳を積みいずれ解脱をと心がけている官人やその家族なども相当数いたことでしょう。しかし、同時に、それらの人々にも転生を夢想する人は多くいたと思います。いうなれば俗信なのですから。

単に次の生のあることを信じたいと思い、そうあってほしいと願うのは、仏教に関係なく、普通の人がもつ世俗的な、普通の感情・願望です。(そしてそのように仮定して思いを述べることは今日でもよくあることです)。

作中人物が、そのような次の世について、仏教にある、似たような概念の言葉を借用して表現することは、有り得ることであり、多くの官人とその家族もそのような自分の感情・願望を「来世」とか「後の世」とか「あの世」とかいう表現をして、暮らしていたのではないでしょうか。それにしても次の世に対して「こむ世」という表現は独特なものです。

⑤ 初句にある「こむ世」は、仏教でいう三世(前世・現世・来世)の「来世」ではなく、「次の世のあることを信じている(あるいはそのふりをしている)作中人物が、生まれ変わるべき世」を指すために用いている語句であり、さらに、五句にある「昔」が、「昔の人」の意で用いられているならば、「こむ世」とは、「生れ変った世における自分(作中人物)」の意で用いているのかもしれません。(「来世」を訓読みすると、どのように読むのでしょうか。)

上記の訳例における「こむ世」の訳では、「次の世のあることを信じている(あるいはそのふりをしている)作中人物が、生まれ変わるべき世」について、仏教からの援用した語句でその「こむ世」で表している、ということが、伝わりにくいと感じます。

初句における「世」とは、「再生があることを前提にして自分が生を受けている世界」を指している語句と理解してよい、と思います。

「世」を立項している『新明解国語辞典 第七版』(2014)で説明している、「人間が互いにかかわりを持って生活を営んでいる場」とか、『広辞苑第七版』(2018)で説明している、「人が生きている間。一生。生涯。いのち。」・「(特定の)期間・時期」・「特に俗界としての世の中」に近い意味が初句における「世」の意味である、と思います。

なお、古語辞典をみると、「世・代」には、同様な意が仏教でいう三世の世に並んで、あります(下記⑦参照)。

⑥ 初句における表現が「こむ世」ではなく「こむよ」であれば、「世」の意を人の死により区切られる意に限定することはありません。成立当時の『古今和歌集』の歌が、漢字を一切用いない平仮名表記であったのであれば、それが可能です。

今検討している『古今和歌集』の歌は、西本願寺本を底本とする『新編国歌大観』に拠っていますので、その記載通り「こむ世」でこの歌の検討を続けます。

⑦ さて、『例解古語辞典』では、名詞の「よ」についてそれを漢字の「世」あるいは「代」をあてた場合、次のような説明があります。

第一 (仏教思想で)過去・現在・未来の三世。前(さき)の世、この世、後の世などいう世。特に現世。(『源氏物語』(柏木)での例を示している)

第二 時代。時世。時。(『徒然草』13段)

第三 世の中。世間。(『徒然草』60段)

第四 俗世間。浮き世。(『源氏物語』(手習))

第五 世間の風潮。時流。(徒然草155段)

第六 国政。国。(『雨月物語』(白峰))

第七 人の人生。生涯。また、その運命。(『源氏物語』(手習))

第八 境遇。状態。(『源氏物語』(帚木))

第九 渡世。生活。家業。(西鶴の著作より)

第十 男女の仲。「よのなか」。(『源氏物語』(帚木))

初句における「世」の意は、そのうち、第七とか第八に相当するものです。

また、このように、「世」の意は、仏教での「世」以外の意が、当時においてもあるので、上記の検討のほかに別の理解も検討してみたい、と思います。

なお、「よのなか」とは、「世の中」・「世間」と書き、『例解古語辞典』では「世間・社会」、「この世・現世」、「国家・天皇の治世」、「自然界。環境」、「世間の評判・名声」、「世間並であること・世の常」、「男女間の情」、「身の上・人生」などの意がある、と説明しています。

 

6.類似歌の検討その3 「こむ世」を「次の世」として現代語訳を試みると

① この歌も、この前後の歌の検討時と同じように、前後の歌に寄り添う歌という前提を置かないで、恋一にある、いわゆる「不逢恋」の歌として、検討し、その後に、前後の歌との関係を検討することとします。

② 初句にある「こむ世」とは、動詞「来」の未然形+助動詞「む」の連体形+名詞「世」です。

上記5.⑤に記したように、「次の世のあることを信じている(あるいはそのふりをしている)作中人物が、生まれ変わるべき世」を指すために用いている語句ですが、「む」の意で微妙に意が異なることも可能です。

動詞「来」には、「来る」意と、目的地に自分がいる立場でいう「行く」の意があります。

助動詞「む」には、予測・推量する意と、あることを実現しようとする意志・意向を表わす意と、(連体形を用いて)そうなることを仮定したりする意などがあります。

予測・推量の意であれば、「こむ世」とは、「(誰にでも)来るだろう「次の世」」の意、あるいは「行くだろう「次の世」」の意、あるいは「次の世にうまれるであろう私」の意、

意思・意向の意であれば、「(誰にでも来ようとする「次の世」」の意、あるいは「(私が)行こうとする「次の世」」の意、あるいは「次の世にうまれたい私」の意、

仮定等の意であれば、「次の世があるとして」の意、

となります。

しかし、二句の意とあわせると、ここでは仮定等の意ではなく、初句にある「こむ世」とは、「自分が再生するであろう世界(次の世)」か「自分が再生したい世界(次の世)」を意味しています。あるいは、その世界にいる作中人物自身を指す言葉です。

③ 上記の訳例にならい、「世」を、「次の世」(上記辞典の第七や第八の意)とした場合から、現代語訳を試みます。

即ち、「こむ世、目の前、昔」を、基本的に「自分が再生する(したい)世界(次の世)、今生きている世(ある人と片恋に苦しんでいる世でありこの歌を詠んでいる世)、前の世(今生きている世界の前に生きていた世界(世)」と整理して、類似歌1-1-520歌の現代語訳を試みます。

「(次の世があるそうだが)早くそうなってほしい(そこに再生したいものだ)。私の眼前において、つれない仕打ちをしている人は、(生まれ変わった私からみれば)前の生にいる人と見なせるだろうから(生きている世界が違うのだから片恋の苦しみは、私にはなくなる、と思える)。」(次の世第一案)

さらに、恋の歌であるので、作中人物がもっと強い願望を詠んでいる歌と理解すると、「こむ世」は、希望が叶えられると信じられる世界だから、(私が行こうとする(行きたい))「次の世」」であり、自分の愛情・恋は満足な結果を得るだろうと詠う歌となり、次のような現代語訳が可能です。

「(行きたい次の世にも、早く変わってほしいものである(恋が成就できる雰囲気の世界に。) そうして、今私の目の前で、私の愛情を受け容れてくれない人のいる世界を、昔のことと思いなしたい(片恋が、解消したならなあ)。」(次の世第二案)

「こむ世」の「む」が、次の世第一案は予測の意、次の世第二案は意思・意向の意、となります。

④ これらの現代語訳(試案)における、前後の歌との関係や、1-1-520歌の「世」を、「次の世」以外の意と理解した現代語訳の試みは、次回に記します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただきありがとうございます。

(2019/10/21     上村 朋)

付記1.検討した結果、恋歌一には、次の歌群を認めた。

第一 男女の仲の原則の歌群 1-1-469歌~1-1-474歌(6首)

第二 初チャレンジの歌群 1-1-475歌~1-1-484歌(10首)

第三 苦しみが始まる歌群 1-1-485歌~1-1-494歌(10首)

第四 穂にでるかもしれぬ歌群 1-1-495歌~1-1-504歌(10首)

第五 期待する歌群1-1-505歌~1-1-512歌(8首)

第六 煩悶の歌群 1-1-513歌~1-1-522歌(10首)

第七 放心の歌群 1-1-523歌~1-1-532歌(10首)

第八 お願いの歌群 1-1-533歌~1-1-540歌(8首)

第九 迫る歌群 1-1-541歌~1-1-552歌(10首)

また、恋歌二の歌のみで構成される最初の歌群は、1-1-553歌から始まる「さらに迫る歌群(仮称)」か)

 

付記2.来世観について

① 死後の来たるべき次の生や死後の世界についての諸観念を来世観という。元来「来世」は、来生(らいしょう)・後生と同義の仏教語。(『世界大百科事典』)。

② 死後の世界に関する観念は、ほとんどの民族になんらかの形でみられる。現実の世界とは別の世界へ行くとする観念(他界観)と,再生あるいは輪廻(りんね)の観念がある。現世との関係に関しては宗教によってさまざまである。

③ 仏教をはじめとするインド宗教では、死後、現世での行為の善悪(業(ごう))に応じて、現世と質的に等しい来世でさまざまな生を送るという輪廻(りんね)の観念が成立した。これに対して大乗仏教では、救済者の観念と結び付いて現世と断絶した来世である地獄や浄土の観念が強調された。代表的なのは阿弥陀(あみだ)仏の西方極楽浄土への往生(おうじょう)の思想で、現世での善行や信仰の深さによって死後、浄土または地獄へ行くと信じられた。古代宗教の不死に対して、ここでは再生という観念が来世観の中心であるといえよう。(ニッポニカ)

④ 一方、果てしない輪廻「輪廻転生する迷いの世界という縛りから解き離れて、涅槃とよばれる境地に脱出する(解脱)をめざしているのが仏陀の教えと言われています。」(『和英対照仏教聖典』(仏教伝道協会)の597pより)

(付記終り 2019/10/21   上村 朋)

 

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第52歌その1 類似歌の歌集

前回(2019/10/7)、 「猿丸集第51歌  をしげなるかな」と題して記しました。

今回、「猿丸集第52歌その1 類似歌の歌集」と題して、記します。(上村 朋)

(2019/10/17訂正:題名にその1追加、520歌二句を「成りななむ」と訂など)

1. 『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌

① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-52歌  (詞書は3-4-51歌に同じ)

こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

古今集にある類似歌 1-1-520歌  題しらず     よみ人しらず

こむ世にもはや成りななむ目の前につれなき人を昔と思はむ 

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句1文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌と予想します。この歌は、来訪を待ちかねている恋の歌であり、類似歌は相手にされていない状況に変化はないが諦めきれない歌ではないか。

④ 今回は、類似歌のある古今集の「恋歌一」全体の配列を中心に記します。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

古今集にある類似歌1-1-520歌は、『古今和歌集』巻第十一 恋歌一にあり、この巻は、3-4-20歌を検討の際、配列について「巻第十一は、まだ逢っていない(返歌ももらっていない)時点の歌であり、1-1-490歌前後も「かものやしろ」とか「空」と「たぎつ水」とか種々な譬喩をもって詠われており、それぞれ独立の歌として理解してよい」と指摘しました。

しかし、奇数番号の歌とその次の歌が対として編纂されているかどうかは未確認です。巻第一など四季の部と同様に、巻第十一でも確認し、歌群の順序等をみてみたいと思います。

② 諸氏は、恋歌一と二は、恋に苦しむ、いわゆる「逢わぬ恋」の歌が収められている、と指摘しています。

巻第十一恋歌一は、1-1-469歌から1-1-551歌まで83首あり、歌群について諸氏が種々論じています。

恋歌五巻全体の構造については、新井栄蔵氏は、恋一の冒頭部と恋歌四の末尾部との間の作者と歌の対応を認めています(『国語国文』43の6)。松田武夫氏は、時間的経過と主題的歌群的意識を基本とした構造論を提起しており、鈴木宏子氏は、松田氏の説を参考に、次のように指摘しています。(『古今和歌集表現論』(笠間書院 2000)。

「歌を配列し恋の世界を構築していくのはかなり困難なことであったと思われる。恋の感情は普遍的なものであるとしても、恋には種々の局面があり、多彩なバリエーションがあろう。・・・『古今集』の恋歌は、集まった歌を丹念に読む営みの中から形を為し、撰者たちの美意識を反映して創出されたものと想像する。・・・恋の心象に基づいた主題のみで歌群の把握を行いたい。」

「恋歌一と恋歌二は、(「不逢恋」を)一対になって新旧二つの世代の恋歌を提示するという性格もみえる。・・・恋の具体的事象を伝える詞書を伴う歌に注目すると、恋に落ちる→求愛する意思を固める→求愛するが逢えない日々が続く→万難を排して逢おうと決意を新たにする、という恋の時間的進行の骨格を見てとることができる。(しかし詠まれている)物象に注目するとつながりがみられ、恋歌一の場合敢えて歌群に分かつことをせず、一首一首の配列を味わう方がよいようである。・・・恋一は揺れ動く心を物象の連関の中に描いた巻である。」

③ 鈴木氏は、さらに『王朝和歌の想像力 古今集源氏物語』(笠間書院 2012)の五章においても論じており、古今集においては「個々の歌を読む際の前提となるのは、具体的個別的な恋の事情ではなく、一つの構造体としての『古今集』の論理なのである」と指摘し、恋の時間的推移を次のように提示し、「『古今集』恋歌を編むことは、新しい創造であった」、としています。

恋の始発

「人知れぬ思ひ」を抱く苦しみ

恋の表白をめぐる葛藤

逢瀬前後の心情と状況

「待つ」恋

「忘らるる身」

なお、今検討しようとする恋歌一は、恋の始発からどこまでの歌なのかは明記されていません。

④ 鈴木氏の指摘する「『古今集』の恋歌を編むことは、新しい創造であった」、ということに同感です。氏の指摘するように、詞書のある歌は、前後の歌の意を一つの方向に向けさせています。

だから、氏の指摘するように、配列されている歌の元資料の作詠事情を別にして、編纂者の恋歌一に対する論理により理解できるよう歌が配列されてされているのが恋歌一である、といえます。(付記1.)

ただ、鈴木氏には、2首一対の連続で構成されている、という認識は特記されていません。

⑤ 鈴木氏と同じように物象より心象を第一の指標として『新編国歌大観』記載の『古今和歌集』に拠り、巻第十一恋歌一を、「不逢恋」の範疇の歌と仮定し、今回検討をしました。

即ち、

第一 奇数番号とその次の歌が対と見なせる心象面における主題があるか。

第二 すべて「不逢恋」の範疇の歌と理解できるか。

第三 歌群が認められるか。またその歌群作成のルールが認められるか。

第四 元資料の歌の趣旨は、みな「不逢恋」の範疇か。

を確認したところです。

 

⑥ 各歌を前後の歌を考慮せず、単独に詠まれた歌として検討し、付記2.に記しました。その結果は、下記⑦以下のようなものでありました。

これらより、『古今和歌集』編纂者の想定している「恋」の定義(鈴木氏が言う「撰者たちの美意識を反映して創出された」ところの恋歌とした範囲)を後ほど検討したい、と思います。

⑦ 巻第十一恋歌一では、奇数番号と次の歌は対となるよう編纂されています。恋二の数首まで検討した結果、それは恋歌一と恋歌二にまたがって貫かれていると思われます。

⑧ 恋歌一は、いわゆる「不逢恋」の範疇の歌のみで構成されています。しかし、恋の初めという時点・情景に関しては、限定があるようです。

⑨ そのため、具体的な物象を示す詞書を極力減らし、さらにそのほかの歌については元資料に加工を施している可能性があります。編纂者の恋歌一に対する論理により理解できる歌が配列されているとする推測は妥当です。

⑩ 恋歌一は、鈴木氏のいうように心象面から区分され配列されています。つぎのような歌群が認められます。また、恋歌二を偶数番号の歌から始めており、歌群は、恋歌一と恋歌二にまたがっていると推測します。

第一 男女の仲の原則の歌群 1-1-469歌~1-1-474歌(6首)

第二 初チャレンジの歌群 1-1-475歌~1-1-484歌(10首)

第三 苦しみが始まる歌群 1-1-485歌~1-1-494歌(10首)

第四 穂にでるかもしれぬ歌群 1-1-495歌~1-1-504歌(10首)

第五 期待する歌群1-1-505歌~1-1-512歌(8首)

第六 煩悶の歌群 1-1-513歌~1-1-522歌(10首)

第七 放心の歌群 1-1-523歌~1-1-532歌(10首)

第八 お願いの歌群 1-1-533歌~1-1-540歌(8首)

第九 迫る歌群 1-1-541歌~1-1-552歌(10首)

また、恋歌二の歌のみで構成される最初の歌群は、1-1-553歌から始まる「さらに迫る歌群(仮称)」か。

⑪ 恋部は、五巻より構成することになるので、恋歌一の最初に、総論にも相当するような歌を配列しています。

⑫ 歌群作成は、恋のスタートのスタイルを固定した後、少なくとも逢って生活を共にすることを目指す恋の心象面で進行順となっています。

⑬ 元資料の歌は、作詠時点あるいは、編纂者のもとに集められた時点で、必ずしも「不逢恋」の歌ではないと推測します。その歌を、「撰者たちの美意識を反映して創出された」歌として『古今和歌集』に配列されて、「不逢恋」の歌となっています。

⑭ 古今集にある類似歌(1-1-520歌)は、六番目の歌群「煩悶の歌群(1-1-513歌~1-1-522歌)」の8番目に置かれている歌となりました。

⑮ 巻の最初と最後の歌により、上記⑧と⑪は確認できるが、未確認です。(

次に行います。)

 

3.恋歌一の巻頭歌などについて

① 春歌上と同様に、恋歌一の最初と最後の歌を確認します。

最初に、諸氏の現代語訳の例を示します。

巻頭歌

1-1-469歌  題しらず     よみ人しらず

郭公なくやさ月のあやめぐさあやめもしらぬこひもするかな

「(ほととぎすの鳴く五月に咲くあやめという名のように)あやめ(世の道理)もわきまえないようなはげしい恋をすることであるよ」(久曾神氏)

「あ、ほととぎすが鳴くよ、五月のあやめ草が咲いて――そんなあやめも知らぬ、何が何やら筋目もわからぬ恋も、することだなあ。」(竹岡氏)

 

最後に置かれている歌

1-1-551歌  題しらず     よみ人しらず

奥山に菅のねしのぎふる雪のけぬとかいはむこひのしげきに

「(奥山に生えている菅をおしなびけて降る雪の消えるように)、私も消えて(死んで)しまったと言おうか、恋のはげしさに堪えかねて。」(久曾神氏)

「奥山の菅の根におおいかぶさって降る雪の、消えてしまうとでも言おうか、この恋の絶え間もないのに。」(竹岡氏)

 

② 巻頭歌について、竹岡氏は、「(古今集)撰者は、この歌を、自分のつのる恋心をどう処理してよいやら、なすすべも知らぬ、うぶな初恋の歌として恋の部の巻頭に収めたのであろう。独立させて読んでみると、五月の農繁期に、連日仕事に追われて逢うことも容易にできず別居生活を強いられる若い夫又は妻の歌として解することもできる。」と指摘しています。

久曾神氏は、「恋歌には序歌が多い。この歌も上句は序詞で意味はない。強いて考えるならばなんとなく物憂い季節であるので、それを気分的にはたらかせているといえよう」と指摘しています。

③ 最後の歌について、竹岡氏は、(景と情を組み合わせた歌であり)「景は三句まで、情は、三句から五句まで」と指摘しています。

また、最後の歌の類句として、『萬葉集』にある「三国真人人足歌一首」と題する歌(2-1-1659歌 (巻第八 冬相聞(1659~)))を諸氏はあげています。

たかやまの すがのはしのぎ ふるゆきの けぬといふべくも こひのしげけく

 

この類句が、「恋のはげしさで、私は死んでしまったようだ」と詠っているのであるならば、この歌は、逢うのは兎も角見てもいないただ噂などを聞いただけの時点の恋心を詠う歌とは思えません。恋の相手に最初とか二番目にとかに送る歌に相応しいとは思えません。逢って後のなかなか逢えない時点の歌という理解が素直ではないでしょうか。

この歌(1-1-551歌)も同様な理解が可能ですし、「不逢恋」という前提をおいてもおかしな歌ではない、と見られます。

④ 巻頭歌についても、その元資料の歌では竹岡氏の指摘するような景もおかしくないと思います。

しかし、そのような歌に、「不逢恋」という前提を置いても、「あやめ(世の道理)もわきまえない恋」という状況であると認識をするようなことになる可能性ももちろんあります。だから、1-1-469歌は「不逢恋」の歌である、ともいえます。

また、この歌が、恋歌五巻の最初の歌であることを重視すると、恋の全過程で認識し得ることを詠っている、という理解もできます。

⑤ そのため、『古今和歌集』の恋歌のこの2首は、共に、逢ってのちの進捗のままならないことを嘆いている歌という理解も可能です。

しかし、「不逢恋」の範疇の歌としての理解も可能であり、恋を単に嘆いて(1-1-469歌)後に死ぬと嘆く(1-1-551歌)のですから、この2首の配列は、少なくとも逢って生活を共にすることを目指す恋の心象面では進行順となっています。

上記2.の⑧と⑫の指摘は、不適切ではありません。

⑥ 次に、類似歌1-1-520歌の前後の歌の配列を再確認したいと、思います。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、類似歌1-1-520歌を検討します。

(201/10/14   上村 朋)

付記1.古今集巻十一恋歌一と巻十二恋歌二の詞書の有無及び作者別一覧

①詞書の有無と作者名を、古今集巻十一恋歌一と巻十二恋歌二に歌を調べると、下表のようになる。

②恋歌一は、題しらず・よみ人しらずの歌1-1-469歌から始まる。この歌は、心象面の推移に配列されているならば、詞書と作者名がある1-1-476歌により。配列は前であるが、「不逢恋」歌と理解が可能である。

1-1-469歌にみえる具体的な心象は、自らの恋あるいは見聞した恋の成り行きに関する独白とも理解可能であり、あるいは、特定の相手に送ったとしてもその前後事情を承知している者の間の歌の贈答の一首であれば、そのように詠う気持の原因を相手は十分想起できると思える歌である。

②恋歌二は、詞書がある小野小町の歌1-1-552歌からはじまる。この歌は、詞書が「題しらず」であるので作詠事情は不明です。「夢にあの人が見えた」というのは、顔もみたことのない人が夢に現れるというより見知った顔が夢に現れたと理解するほうが素直ではないか。古今集の恋歌二に配列されていなければ逢って後の時点の歌とも理解できる。

 

 表 古今集巻十一と巻十二の歌の詞書の有無及び作者区分別の表

(2019/10/10現在)

歌番号等

詞書

作者名

作者名

1-1-469

無し

よみ人しらず

 

1-1-470~475

無し

有り(素性法師ほか)

 

1-1-476

有り

有り(業平)

 

1-1-477

有り (「返し」)

よみ人しらず

 

1-1-478~479

有り

有り(忠岑と貫之)

 

1-1-480~482

無し

有り(元方と躬恒と貫之)

 

1-1-483~551

無し

よみ人しらず

 

以上恋一

詞書有り・作者名有りは2首

(「返し」を除く)

 

 

1-1-552~555

無し

有り(小野小町4首と素性法師1首)

 

1-1-556

有り

有り(あべのきよゆき)

 

1-1-557

有り (「返し」)

有り(小野小町

 

1-1-558~572

有り (「歌合のうた」)

有り(藤原敏行ほか)

 

1-1-573~574

無し

よみ人しらず

 

1-1-575~581

無し

有り(素性法師ほか)

 

1-1-582

有り (「歌合のうた」)

よみ人しらず

 

1-1-583~587

無し

有り(貫之ほか)

 

1-1-588~589

有り

有り(貫之)

 

1-1-590~615

無し

有り(坂上是則ほか)

 

以上恋二計

詞書有り・作者名有りは3首

(「返し」と「歌合」を除く)

 

 

注)歌番号等:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

付記2.古今集恋歌一にある歌の分析<2019/10/8 15h>

① 『新編国歌大観』記載の『古今和歌集』の歌を対象としている。

② 歌の理解においては、いわゆる序詞や枕詞も有意の語句として行っている。必ずしもそうではない久曾神氏の理解をベースにしているので、注記を要する歌が多々あった。その注記は下表の最後にまとめて記す。前後の歌との関連を顧慮しないで検討した。

③ 検討は、

奇数番号とその次の歌が対となって編纂されているか。その歌の主題は何か

恋一は、どのような趣旨の巻か。また、歌群が認められるか。

元資料を加工したと思われる歌があるか。

などを行い、歌の主題の推測と歌群の設定を行った。

④ 便宜上表は、4つに歌を分けて作成した。

 

表1 古今集恋歌一の歌(1-1-469~1-1-488歌) (2019/10/8現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌群

1-1-469

恋の自覚

恋は道理を知らず

あやめ草

第一

1-1-470 a

恋の自覚

噂に聞いただけでも始まる

菊(聞く)

第一

1-1-471

恋は一直線

流れとどまらず

吉野川

第一

1-1-472

恋は一直線

ただ相手次第で

風が頼り

第一

1-1-473

遠い存在でも

障害があっても始まる

相坂の関

第一

1-1-474

遠い存在でも

繰り返し思うのは始まっている証拠

寄せてはかえす白浪

第一

1-1-475

男女の縁①

噂を聞くだけで恋しくなった

日々聞く風の音(聴覚情報)

第二

1-1-476 a

男女の縁①

わずかに見えただけて始まった

簾越しに見る(視覚情報)

第二

1-1-477 a

男女の縁②

愛情第一

物見で情報を与える

第二

1-1-478 a

男女の縁②

一目ぼれ

物見で情報を得る

第二

1-1-479 a

続いてほしい

深窓の女性であっても

霞に隠れる山桜

第二

1-1-480

続いてほしい

思いは届くというではないか

たよりと思ひ

第二

1-1-481

噂聞き

初めて聞いた時から

初の雁音

第二

1-1-482

噂聞き

わずかに漏れ聞いた時から

遠くの鳴神

第二

1-1-483

決意

貴方は私の命

二子糸

第二

1-1-484

決意

今は遠い存在でも

雲のはたて

第二

1-1-485

思い伝わらず

取り持ってくれる人がいないのでなやましい

かりごも

第三

1-1-486

思い伝わらず

応えてくれなくて思いが増す

日夜の嘆き

第三

1-1-487

恋ぬ日はなし①

常に思う

賀茂の社のゆふだすき

第三

1-1-488

恋ぬ日はなし②

不満が溜まる

青空がどこまでも青い

第三

注1)歌番号等欄:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)歌番号等欄の記号a:歌の大意は原則として講談社学術文庫の『古今和歌集』(久曾神昇氏注)によるが、枕詞を訳出していないなどそれに拠れない歌に記している。記号aをつけた歌の理解のポイントを表4の注にまとめて記す。

注3)歌の主題欄:恋歌一の歌としての主題を推測し記す。

注4)歌群欄:歌の主題の推移を主たる判断材料に仮定した歌群番号を記す。

表2 古今集恋歌一の歌(1-1-489~1-1-510歌) (2019/10/8現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌群

1-1-489

恋ぬ日はなし②

浪が消えないように

田子の浦の浪

第三

1-1-490

恋ぬ日はなし②

常緑であるように

岡辺の松

第三

1-1-491

恋募る

せき止めるのが難しいように

山下水

第三

1-1-492

恋募る

激しく流れ下るように

吉野河

第三

1-1-493 a

なしのつぶて

取り付く島もないが恋は増す

流れには淀・瀬あり

第三

1-1-494

なしのつぶて

このままであったとしても恋は増す

奥山の流れが見えない谷川

第三

1-1-495

人しれず思っている

言わないだけ

岩つつじ(言わぬ)

第四

1-1-496

人しれず思っている

それは苦しくやがて知られてしまう

末から咲き始める紅花(末摘花)

第四

1-1-497

抑えきれない

その花は目立つ

ススキが原の中の花

第四

1-1-498 a

抑えきれない

貴方にまとわりついてしまっている

梅には鴬

第四

1-1-499 a

悶々と過ごす

寝られない苦しみ

深夜よく鳴くホトトギス

第四

1-1-500 a

悶々と過ごす

表に出せぬ苦しみ

くすぶるかやり火

第四

1-1-501

解決策

なし、神も受けず

みそぎする

第四

1-1-502

解決策

一言、言葉を頂ければ

「あはれ」という言葉

第四

1-1-503

もう人知るか

隠せなくなった

わが素振り

第四

1-1-504

もう人知るか

枕しかしらないはずだが

わが枕

第四

1-1-505

逢う機会なく①

誰も間に立ってくれない

しの原に忍ぶ

第五

1-1-506

逢う機会なく①

すぐ近くにいるのに

間近に住む

第五

1-1-507 a

逢う機会なく②

前兆だけだ

下紐の俗信

第五

1-1-508

逢う機会なく②

私を誰もとがめないでほしい

大船の揺れ

第五

1-1-509 a

なぜ逢えないのか

迷うことないでしょう、貴方

伊勢の漁夫の浮子

第五

1-1-510 a

なぜ逢えないのか

長い間努力してきたが

伊勢の漁夫の釣

第五

注1)歌番号等欄:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)歌番号等欄の記号a:歌の大意は原則として講談社学術文庫の『古今和歌集』(久曾神昇氏注)によるが、枕詞を訳出していないなどそれに拠れない歌に記している。記号aをつけた歌の理解のポイントを表4の注記にまとめて記す。

 

 

表3 古今集恋歌一の歌(1-1-511~1-1-530歌)(2019/10/1現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌群

1-1-511

逢えると信じる理由あり

当然我が愛から始まったのだから

河には源がある

第五

1-1-512

逢えると信じる理由あり

我は既に恋している(成就以外の結果なし)

植物の種は必ず芽をだす

第五

1-1-513 a

まだ便りなし

川霧ではつらい

日が昇れば消える川霧

第六

1-1-514 a

まだ便りなし

待ちかねて私は泣く

ひたすら鳴くあしたづ

第六

1-1-515 a

夢に期待する

夢のなかだけでも逢いたい

唐衣を返す

第六

1-1-516

夢に期待する

ゲンを担いだ

枕の置き方

第六

1-1-517

焦がれ死にありや

有ってほしいくらい

物々交換

第六

1-1-518 a

焦がれ死にありや

いや、試してみたい

何事も習慣になる

第六

1-1-519 a

まだ思っている

いっそ口外したい

一般に忍ぶのは苦しい

第六

1-1-520 a

保留(3-4-52歌類似歌)

保留(3-4-52歌類似歌。)

保留(3-4-52歌類似歌)

第六

1-1-521

逢えないはかなさ

ため息ばかり

山彦

第六

1-1-522

逢えないはかなさ

思いは募る一方

水に書く文字

第六

1-1-523

放心

心が働かぬ(自制がきかぬ)

(心ではなく)身が迷う

第七

1-1-524

放心

二人の仲は遠い(これでよいのか)

遠隔地

第七

1-1-525

夢に頼りたくも

眠られない

夢に関する俗信

第七

1-1-526

夢に頼りたくも

いつも正夢にならない

夢に関する俗信

第七

1-1-527

身に添えぬか

貴方は夢の中でもはっきり見えない

涙河に浮く(憂い)

第七

1-1-528

身に添えぬか

貴方の影にはなれない

影(痩せてしまった)

第七

1-1-529 a

私は用無しか

涙の川にかかげても魚はいない

漁業用篝火

第七

1-1-530 a

私は用無しか

篝火の影に魚は寄らない

漁業用篝火

第七

注1)歌番号等欄:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)歌番号等欄の記号a:歌の大意は原則として講談社学術文庫の『古今和歌集』(久曾神昇氏注)によるが、枕詞を訳出していないなどそれに拠れない歌に記している。記号aをつけた歌の理解のポイントを表4の注記にまとめて記す。

 

表4 古今集恋歌一と恋歌二の歌(1-1-531~1-1-556歌)(2019/10/8現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌群

1-1-531

海草によせると

逢いたい

みるめ

第七

1-1-532

海草によせると

逢えていない

玉藻は漂うばかり

第七

1-1-533

白色の景によせると

色々アプローチして)いるのに

入り江の白浪

第八

1-1-534

白色の景によせると

わが思いは熱い

火を吐いている雪かぶる富士山

第八

1-1-535

山にたとえると

私に深い愛情あり

奥山

第八

1-1-536

山にたとえると

私はゆふつけ鳥

逢いたいと鳥が鳴く相坂山

第八

1-1-537

途切れることなく思い続けている

思いの絶えることなし

相坂山の岩清水

第八

1-1-538 a

途切れることなく思い続けている

私の愛情は今もこれからも

うき草の繁る淵

第八

1-1-539

片恋で終わらせまい

返事は来るはず

山彦は必ず返す

第八

1-1-540 a

片恋で終わらせまい

貴方も片恋を知って

「心かへ」

第八

1-1-541

同じ心になって

貴方と一緒になりたい

いれ紐

第九

1-1-542

同じ心になって

貴方と一緒になるはず

春の氷

第九

1-1-543

思いは強い

昼も夜も

蝉の声・螢の光

第九

1-1-544

思いは強い

火に向う夏虫です

夏虫(飛蛾)

第九

1-1-545

秋(飽き)の夕べか

露重なれば

秋の露

第九

1-1-546 a

秋(飽き)の夕べか

逢えないうちに秋のなったのか

秋の夕べ

第九

1-1-547

秋の景にたとえると

目に見えるように言わないだけ

稔る秋の田

第九

1-1-548

秋の景にたとえると

一瞬間も忘れていない

稲妻

第九

1-1-549

我が思いは外にでる

目だっても止むを得ない

花すすき

第九

1-1-550

我が思いは外にでる

思い(火)は現れてしまう

淡雪は積らない

第九

1-1-551 a

一途に思う

なかなか消えないで思いは募る一方

奥山の雪

第九

1-1-552

一途に思う

(恋二 巻頭歌)

夢に実現、次は

夢に見る

第九

1-1-553

正夢に (恋二の歌)

うたたねの夢も頼りにしている

夢の俗信

第十

1-1-554

正夢に (恋二の歌)

まず夢の中で

衣の俗信

第十

1-1-555 a

あなたの心変わりを願う (恋二の歌)

秋の夜ごとに

秋(飽き)風

第十

1-1-556 a

あなたの心変わりを願う (恋二の歌)

法話の趣旨に気付いて(心変わりのきっかけになるはず)

法華経にある無価宝珠話

第十

注1)歌番号等欄:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)歌番号等欄の記号a:歌の大意は原則として講談社学術文庫の『古今和歌集』(久曾神昇氏注)によるが、枕詞を訳出していないなどそれに拠れない歌に記している。記号aをつけた歌の理解のポイントは次のとおり。

1-1-470歌:元資料は、恋一(逢わずの恋)の歌ではない理解が可能。古今集編纂者は配列等により歌意を替えていると推測できる。

1-1-476歌:

①詞書にある「ひをりの日」については論があるが、この歌は恋の歌なので、その詞書のポイントは「女の顔のほのかに見え」たという語句にある。

②「女の顔のほのかに見え」たとは、注視していなかったがたまたま目にしたこと。前歌1-1-475歌は注意をむけていなかったが、噂が自然と耳に入ったこと。情報入手方法の違いがある。前歌とこの歌は、対の歌とも理解できる。

③この歌は、『伊勢物語』99段、『大和物語』166段にもある。

1-1-477歌

古今集では、業平の歌に対して、顔も知らぬ男からの歌という体にして、わざわざ返歌をしている。1-1-476歌の詞書にある事情であれば、その場で女のほうが調べれば業平が名を隠して送ってもすぐわかることであり、女のほうも歌のやりとりを楽しんだ歌と理解できる。女のほうが返歌をしたのはこれからの交際に応じてもよい、と理解されても構わないということであり、その条件を示した、ともとれる。また、四句と五句にある「思ひのしるべ」(恋のみちびき)に注目すれば1-1-476歌の五句「ながめくらさむ」とトーンが違うので、あとくされのないように厳しく撥ねつけるため返歌したともとれる。

後者であれば、恋一の配列からの考察(まだ逢えぬ段階の歌の歌群)とも重なる。

1-1-476歌の五句「ながめくらさむ」に対し、『大和物語』の五句「今日のながめや」のような返歌をしていない点に注意してよい。

② 古今集編纂者が1-1-477歌と元資料の異なる1-1-476歌との贈答歌にしたてたのかもしれない。

 

1-1-478歌:家を探しだして歌を送る行為は、一目ぼれでなかったら、いやがらせの類。

1-1-479歌:

①詞書に従い、「そこなりける」人を詠んだ歌と理解する。

②この詞書は、恋の相手に送った歌という理解のほかに、友人等への挨拶歌あるいは御礼の歌と言う理解を否定しきれない。

③動詞「恋ふ」の意は、「慕い思う」と「(異性を)慕う」意がある。『例解古語辞典』では、「人については、「・・・に恋ふ」というのが古い言い方と説明している。

④詞書の意は、「花摘みしていた人達のなかのある人のもとに、後に詠んでおくった歌」 歌の意は、「花摘みしていた人達のなかに居たある一人については、ほかの人はみえなくなって霞のように霞んでしまい山桜のように感じた。その人が慕わしい。」

1-1-493歌:①瀬や淵と形容し得るやりとりもない状況を詠う歌である。

②この歌は、恋一の歌である。

1-1-498歌:ウグイスが鳴くのは梅を求めていると分っているように、私が泣けば誰を求めているのかわかってしまうではないか。

1-1-499歌:

ホトトギスが寝ないで鳴いているから何を待っているか分かってしまう。

②夏歌にある1-1-153,1-1-154,1-1-160歌では、ホトトギスが夜深くよく鳴いている。

③竹岡氏も「ホトトギスも恋しい相手がいて(私同様に)寝かねている」と理解している。

1-1-500歌:

①かやり火は蚊よけのためなのは周知のこと。私の「思ひ(火)」の目的も知られつつあること。

②したもへとは、蚊やり火でいえば「上ヘアラハレテハモエズニ、イツマデモクスクストフスボスッテアル」(遠鏡)ことで、炎が燃え立たない燃え方をいう。

③元資料は、「したもえ」を主眼にしているが、古今集編纂者は、1-1-499歌と並べることで蚊やり火の効用に焦点をあてている。初句「夏なれば」は「恋いに落ちれば」の意

1-1-507歌:

①下紐が解けるケースは3つ(『余材抄』)。自分が恋ふる場合、人に恋ふる場合及び人に逢おうとする前兆にあるいはまじない。

漢詩では、恋人に長く逢えない閨怨を、痩せて腰も細くなったと嘆いている。

③ここではその3番目(前兆)とする久曾神氏の理解とした。1番目の自分が恋ふると理解(竹岡氏の理解)すると、歌の主題は同じだが、「作者が訴えたいこと」は「恋で痩せてしまった」に、「詠う景」は「下紐」となる。

④この歌は、恋一に配列されている歌なので、漢詩を前提に理解するのは妥当ではない。元資料の歌にはその可能性が残る。

1-1-509歌:

①釣り糸の浮子はサイン。魚が掛かったときではなく魚がつついただけでも動く。

②五句の語句の主語は明記されていない。定めかねているのは相手。

③相手に問いかけた歌。

④ここに配列することにより、元資料の歌意を変更している。

1-1-510歌:釣縄は多くの釣り針をつける(色々作者はアタックした)ので、長くなる(時間を要した)

1-1-513歌:

①朝の川霧は、日が昇ると常に消える。「川霧が立ちこめて消える」とは、恋がまだ先行き不透明なことを指す。

②竹岡氏の理解に従う。

1-1-514歌:①「あしたづ」を枕詞とはみなさない理解をする。竹岡氏の理解に従う。

②逢った後の歌とも理解可能である。それが元資料の意か。

1-1-515歌:

①四句にある「返す」には、俗信の「着物を裏返す」と恋しい思いを「繰り返す」を掛けている。逢ったことも見たこともない相手に対する歌とは思えない歌。

②唐衣を枕詞と見ない竹岡氏の理解に従う。

1-1-518歌:

①二句「ならはし物」とは、逢えない状態が続いていることをいう。

②四句は、前歌1-1-517歌にいう、「命と交換で恋しいという状態が解消する」という説を承けている。

③久曾神氏の理解に従う。

④元資料は、「それならば貴方が試してみてはどうか」とけしかけている歌。相手を拒否している歌。

1-1-519歌:

①二句切れの歌。

②貴方へ私がそうしていることを、口外するぞと、脅している歌。

③元資料の二句を改変してここに配列したか。

1-1-520歌:今検討中の3-4-52歌の類似歌であり、この配列検討終了後に確認をする。

1-1-529歌:

①我が身を篝火に喩えている。

②魚が篝火に寄ってこないことを(相手がなびいてくれないことを)嘆く。

③竹岡氏の理解に従う。

1-1-530歌:

①我が身を篝火に喩えている。

②水中の影では魚を寄せられない。

③元資料は水のなかでも燃えているほど恋していると詠うが、ここでは、配列により水中で燃えていても役に立たないことがつらい、という歌になっている。

1-1-538歌:

①1-1-537歌と対になっているのは、瀬と淵、及び常に湧き出すことと深いこと。

②逢って後に詠んだ歌とも理解可能である。それが元資料の歌意か

1-1-540歌:

①この歌は恋の歌であり、はじめて「片恋」という語句を用いた歌。

②苦しんでいる片恋を解消するには思いを遂げるか諦めること。心を全て入れ替えても入れ替えたという認識をする別の心がなければ効果なし(AとBが、BとAになるだけだから)。理屈に合わないが、「心かへ」を呪術とみたか。

③竹岡氏は着想の面白い歌と指摘しその現代語訳は「心の交換ができるものでもあったらなあ、片恋は、たまらないものと、あの人にしらせように。」

1-1-546歌:

①元資料の歌は、白氏文集巻十四にある「暮立」の詩による単なる秋の歌か。

②恋一の歌としたので、「秋」に「飽き」を積極的に掛けている。

1-1-551歌:

①歌において消えるのは、「奥山の雪」と「思いの火」と「私の命」

②奥山に降る雪は、高山に降った雪なので春になってもなかなか消えない。それが早々と消えるということは有り得ない。長く相手を思い続けていることを示唆する。

③命の火が消えては元も子もないでしょうから苦しくも貴方にアプローチしますと作者は詠う。

④類似歌に万葉集歌2-1-1659歌(巻八 冬雑歌 冬相聞 三国真人人足作歌一首)がある。

⑤配列により反語の歌との理解が可能である。元資料と歌意は異なってしまったと思われる。

⑥『遠鏡』では、「此ヤウニ思ヒガシゲウテハ ドウモタマラヌニ ワシハモウキエル死ヌルト云テヤラウカイ」と訳している。

1-1-555歌:

①この歌は男の立場の歌。久曽神氏の理解に従う。

②次歌1-1-556歌と対であれば、両歌とも男の立場の歌と理解してよい。

1-1-556歌:

①詞書の「だうしにていへりけることば」とは、法華経五百弟子授記品の「無価宝珠」を引用した法話の内容を指す。それは、法話の趣旨であり、単に宝珠を衣に容れたという授記品の一節あるいは宝珠という語句ではない、と思う。衣に容れてもらった宝珠をやっと気が付いて活用したという「無価宝珠」の説話は、使いきれていない宝(人・モノ・自分の能力)に気が付かない人が居る、と指摘しているものである。

②私の袖にたまらないで転がり落ちる玉は、私の涙であり、貴方への恋心だから、小野小町に気が付いてほしい、とこの歌は詠う。法話にいうようにもったいない玉を生かして使ってほしい。作者を用いて(作者の相手をして)よいのではないか、というなぞかけの歌。

③『遠鏡』では、「真セイ(法師)」ノ談義ニトカカノ法華経ノ衣裏宝珠ノ事ニツイテサ ナンボ袖ヘツツンデモタマラズコボレ出ル玉ハ恋シイ人ヲ エ見ヌ目カラコボレル涙ジャワイ」と訳している。

(付記終り 2019/10/14   上村 朋)