わかたんかこれ 猿丸集第32歌 さくらばな

前回(2018/10/9)、 「猿丸集第31歌その2 まつ人」と題して記しました。

今回、「猿丸集第32歌 さくらばな」と題して、記します。(上村 朋)

. 『猿丸集』の第32 3-4-32歌とその類似歌

① 『猿丸集』の32番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-32歌  やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

山たかみ人もすさめぬさくらばないたくなわびそわれ見はやさむ

 

類似歌は1-1-50歌  題しらず    よみ人知らず (巻第一 春歌上。) 

     山たかみ人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我見はやさむ

   左注あり。「又は、さととほみ人もすさめぬ山ざくら」

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、歌は同じですが、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、山寺での飲食の席で酔っ払った男をはげましている歌であり、類似歌は、山寺の桜を単に愛でている歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌は 『古今和歌集』巻第一春歌上にある歌です。

第一春歌上の配列については、一度考察をしました(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1))。その結論は、次のようなものでした。

     古今和歌集』巻第一春歌上は、元資料の歌を素材として扱っているので、詞書や歌本文に編纂者が手を入れている歌もある。例えば1-1-57歌。

     古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分して歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、歌を並べている。

     その歌群は8群あり、立春の歌群(1-1-1~1-1-2歌)から始まり、盛りを過ぎようとする桜の歌群(1-1-64~1-1-68歌)で終る。ちなみに、次の巻第二春下も同じように散る桜の歌群(1-1-69~1-1-89歌)から始まり春を惜しむ歌群(1-1-126~1-1-134歌)で終ると推測できた。

② 今検討しようとしているこの類似歌1-1-50歌は、7番目の歌群「咲き初め咲き盛る桜の歌群(1-1-49~1-1-63歌)の二番目の歌です。

③ その歌群の中の配列を検討します。最初の5歌より検討します。

1-1-49歌 人の家にうゑたりけるさくらの花さきはじめたりけるを見てよめる    つらゆき

   ことしより春しりそむるさくら花ちるといふ事はならはざらなむ

1-1-50歌 (類似歌)題しらず    

1-1-51歌 題しらず   よみ人しらず

   やまざくらわが見にくれば春霞峰にもをにもたちかくしつつ

1-1-52歌 そめどののきさきのおまへに、花がめにさくらの花をささせ給へるを見てよめる   さきのおほきおほいまうちぎみ

   年ふればよはひはおいぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし

1-1-53歌 なぎさの院にてさくらを見てよめる

   世の中にたえてさくらのなかりせば春のこころはのどけからまし

 

④ 諸氏の現代語訳を参考にすると、各歌は次のような歌であると理解できます。(元資料が詠われた(披露された)場所の推定は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1))の付記1.の表4参照) 

1-1-49歌 初めて花を付けた桜よ、散ることは他の桜に見習わないでほしい。

元資料の歌は屏風歌b・賀の歌と推定

1-1-50歌 山が高いからだれも心にとめないが、私がその桜をもてはやそう。(仮訳)

元資料の歌の推定は保留

1-1-51歌 見にきたら山桜を山ごと霞が隠してしまっている。

元資料の歌は屏風歌bと推定

1-1-52歌 年月を重ね老いてきた私だが、美しい花を見ていると何の心配もない。

元資料の歌は下命の歌と推定

1-1-53歌 世の中に桜がなかったならば、春はのどかであろうに。

元資料の歌は下命の歌と推定

⑤ このような配列のなかでこれらの歌を鑑賞すると、植物の桜の開花と咲き盛る桜は楽しみを与えてくれると喜んでいる様を詠っているように思えます。1-1-52歌はさらに花に例えた作者の娘の栄華が与えてくれる満足感も作者は味わっています。

しかし、桜の花は散るのが定めであることを最初の歌は指摘し、咲く場所によっては見られない桜もあり、かつ霞は隠すし、桜がなかったら世の中の春は変っている、と1-1-52歌の前後の歌が詠んでいるとも理解できます。そのため、間もなく散る桜を前提に1-1-52歌を、「私は老いても当家の今は申し分ない。これからは欠けるばかりの望月と思え」と詠っているとも理解できます。元資料の歌は、このように連作の作品の一つとみなせませんが、『古今和歌集』に置かれれば、一連の作品とみることが可能です。

この理解は、『古今和歌集』の編纂者の配列の意図を誤解しているとは思えません。

⑥ 巻第二春歌上は、このあとにつぎのような歌を配列しています。

1-1-54歌 題しらず  よみ人しらず 

   いしばしるたきなくもがな桜花たをりてもこむ見ぬ人のため

1-1-55歌 山のさくらを見てよめる       そせい法し

   見てのみや人にかたらむさくら花てごとにをりていへづとにせむ

1-1-56歌 花ざかりに京を見やりてよめる  (そせい法し)

   みわたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける   

1-1-57歌 さくらのもとにて年のおいぬることをなげきてよめる   きのとものり

   いろもかもおなじむかしにさくらめど年ふる人ぞあらたまりける

 1-1-54歌と1-1-55歌は、やまの桜を詠んでおり、その桜を皆にも見せようと作者は工夫をしています。それは、すぐ散る桜であるからこその工夫です。そのあとに1-1-56歌を配列しています。この配列ですと、詞書の「花ざかりに」とは、前歌とおなじく山の桜が盛んなとき、と理解することも可能です。都は、山より先に暖かくなるので山の桜より早く咲き早く満開を迎えているはずです。その詞書にある動詞「見やる」とは「みおこす」(こちらをみる意)と対の言葉であり、「ながめやる・目を向ける」意なので、作者の近くの花を見て都に思いを馳せた歌がこの歌であり、詞書は「(やまの桜の)さかりの時に、都を想いやって詠んだ(歌)」の意となります。

都を「春のにしき」と形容するものの、都の桜は散り際か葉桜であり青葉若葉がきらきらしていたと思います。1-1-56歌は、それでも桜に注目して詠っている歌であるので、桜を当時の貴族は好んでいたのだと思います。

1-1-57歌の桜は、山の桜より身近にある桜であることを、詞書より推測できます。この配列から、この歌の前の歌(1-1-56歌)が、山の桜と限定しないで理解することを詞書に否定させていません。だから、1-1-56歌は、都の中または近くで作者は「京(全体)をみやりて」詠んだ歌ともとれ、四句と五句は作者も都に居るとの意識はあるもののの周囲の状況から都全体を推測した、という歌になりますが、『古今和歌集』の編纂者はこの二つの理解を許していると思います。ひとつに限定しないでつぎの1-1-57歌につないでいるのではないでしょうか。

とものりの1-1-57歌の元資料の歌は、梅を詠んでいる歌です(ブログ「猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1)の3.④参照)が、『古今和歌集』の編纂者は、1-1-52歌の何首かあとに、桜の花を詠んだ歌として詞書を改めたうえここに配置しています。「年ふればよはひはおいぬ」と詠う1-1-52歌、「年ふる人ぞあらたまりける」と詠う1-1-57歌の作者の立場は共通している歌です。盛りを過ぎた後への感慨を詠っています。

⑦ このような理解を許すような歌のなかに、1-1-50歌があります。即ち、前後の歌とのみ深くかかわる対の歌ではないが、桜を愛でる実景の歌であるとともに、当然散ることに留意した歌です。1-1-50歌もその一環の歌であると思います。

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

     花は咲いたけれども、山が高いので、人々も賞玩しない桜花よ、そのようにひどくしょんぼりするな、私がもてはやそう。(久曾神氏)

     「あまり山が高いので、誰も寄りついてくれない桜の花よ。そんなに悲しむにはあたるまい。同じような身の上の私が引き立役になってあげるから。(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

② 久曾神氏は、二句にある「すさむ」は、「心にとどめ愛する」、の意としています。

 『新編日本古典文学全集』では、二句にある「すさむ」は、「心にとどめて愛すること」の意とし、作者は「山中に住む人であろう。孤高の生活を楽しむ人が、同じ立場の桜に共感している。」とし、五句にある「はやす」は、「栄ゆ」の他動形。栄えある(物事が盛んである)ようにすること。引き立てる。」の意、としています。

③ 「はやす」は、『古典基礎語辞典』によれば、「ものを映えるようにさせる意、光や音などを外から加えてそのものが本来持っている美しさや見事さをいっそう引き立たせ、力を増させる意」であり、「もてはやす」の「もて」は、動詞の接頭語で、「意識して・・・する」意を加えます。

④ これらの現代語訳では、「はやさむ」の訳に物足りなさがあります。この歌は、『古今和歌集』の春歌に置かれているので、人に知られず散るのを惜しんでいる意を、もっと加えるのが適切であると思います。

なお、日本の桜は10種の基本的野生種がありヤマザクラはその一つです。現在はその変種を含めて自生種は百種以上確認できるそうです。

 

4.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① この歌は、桜を愛でる実景の歌であるとともに、当然散ることに留意した歌であるかどうかを検討します。

詞書は、「題しらず」であり、特段の情報がありません。

② 二句「人もすさめぬ」とは、名詞「人」+助詞「も」+動詞「すさむ」(下二段活用)の連用形+打消しの助動詞「ず」の連体形です。誰も心にとめない、の意です。

 動詞「すさむ」は、下二段活用の場合、「心にとめて愛する・慰みとする。あるいは、うち捨ててしまう・きらう・避ける」の意であり、四段活用の場合、「はなはだしくなる。あるいは気の向くままに・・・する」の意です(『例解古語辞典』)。

③ 三句の「さくらはな」は、初句「山たかみ」という場所にある桜なので、品種はヤマザクラが有力です。

④ 五句にある「見はやさむ」の「見はやす」は、動詞「見(る)」+動詞「はやす」とも分解できます。

「見る」は、上一段活用であり、「目によって視覚の対象を捉える意、視覚で物事を知る意」(『古典基礎語辞典』)です。

⑤ 現代語訳を試みると、次のとおり。

 「高い山にあるので誰も心にとめない桜花よ。そのようにそんなにひどくさびしく思うな。私が散る前によく見て賞揚し、世の中に紹介するから。(来年は多くの者が愛でるように。)

 高い山は遠国の比喩、と理解すると、散るに繋がるもうひとつの理解があります。即ち、

 「高い山にあるので誰も心にとめない桜花のように、希望をしない遠国に任官となった君よ、(今回は残念であったが)そんなにひどくさびしく思うな。私が貴方を見計らってきわだたせるから。

 当時、受領層である官人の猟官は有力貴族との関係が重要であったので、有力貴族の家司が、入試の「サクラチル」のようにこの歌を遠国に任官することになった官人に用いたのではないでしょうか。

⑥ このような理解をすると、1-1-49歌は、相応の任官に与った男の今後の期待を込めた歌としての利用も考えられます(作者のつらゆきは思いもしなかったでしょうが)。さらに、1-1-51歌は、今日まで順調にきたが、はたしてあのような霞(という邪魔者)にあうものなのだなあ、の意を含んでいる歌とも理解できます。

⑦ この歌が披露された場所について、保留してきました。ここで検討します。

上記⑤の前者の現代語訳(試案)ならば、誰かを非難しておらず、遠景の山を愛でており、屏風歌bとなり得ます。後者の現代語訳(試案)ならば、挨拶歌です。

 

5.3-4-32歌の詞書の検討

① 3-4-32歌を、まず詞書から検討します。

 詞書を、前段の「やまでらにまかりけるに」と後段の「さくらのさきけるを見てよめる」に分けて検討します。前段は、後段の前提条件のようにみえる文です。

前段は、名詞「やまでら」+格助詞「に」+動詞「まかる」の連用形+助動詞「けり」の連体形+接続助詞「に」と品詞分解できます。

 動詞「まかる」は、「高貴な人のところから退出する・おいとまする(謙譲語)、高貴な人のところから他へ参る(行くの謙譲語)、京から地方へ参る(行くの謙譲語)、行く・通行する」などの意があります(『例解古語辞典』)。

③ 「やまでらに」の「に」(格助詞)は、「場所」や「動作の方向」などを示しています。歌において「見はやさん」と詠っているので、山寺で何事かが起こったのであり、類似歌と同様な事柄が起こったとみると、花見とか月見とかという私的な事柄と見られます。朝廷の公式の行事やそれに準ずる事柄ではありません。

 また、山寺に作者が行った理由は明らかにされていません。理由を問わず起こり得る一般的な事柄である、という推測が成り立ちます。

④ 「まかりけるに」の「に」(接続助詞)は、つぎのような意があります(『例解古語辞典』)。

A1 「あとに述べる事がらの出る状況を示す意 (・・・たところ)

A2 あとに述べる事がらに対する、一応のことわりを示す意 (・・・のに、・・・けれど)

A3 あとに述べる事がらの、原因・理由やよりどころを示す意」 (・・・ので、・・・から)

歌の理解とともに検討しなければ、どの意で用いられているのか決めかねます。

⑤ 後段の「さくらのさきけるを見てよめる」については、「咲く」の表現が「さきける」であって「さけりける」でないのが気になります。花が「さけりける」ならば、動詞「咲く」の連用形+いわゆる完了の助動詞「り」の連体形+助動詞「けり」の連体形「ける」という理解となります。

古今和歌集』の巻第一春歌上から巻第九羈旅歌までの詞書をみると、「花(あるいは花の)さきける」は一例もありません。「花(あるいは花の)さけりける」が5例あります。

1-1-43歌 (水のほとりに)梅の花さけりける(をよめる)

1-1-67歌 さくらの花のさけりける(を見にもうできたりける人・・・)

1-1-120歌 (家に)ふぢの花のさけりける(を・・・)

1-1-124歌 (よしの河のほとりに)山ぶきのさけりける(をよめる)

1-1-410歌 (・・かきつばたいとおもしろく)さけりける(を見て、・・・)

助動詞「り」がつく動詞が「咲く」以外の例も5例あります。

1-1-80歌 (・・・をれるさくらのちりがたに)なれりける(を見てよめる)

1-1-297歌 (・・・をらむとて)まかれりける(時によめる)

1-1-309歌 (・・・たけがりに)まかれりける(によめる)

1-1-331歌 (雪の木に)ふりかかれりける(をよめる)

1-1-332歌 (やまとのくにに)まかれりける(時に・・・)

また、詞書で「さけるさくら」という語句がある歌があります。

1-1-136歌 (う月に)さけるさくら(を見てよめる)

古今和歌集』をよく知っているはずの『猿丸集』の編纂者ですから、「花(あるいは花の)さけりける」と「花(あるいは花の)さきける」は、別の意を持たせていると思えます。また、「さけるさくら」とも異なる意を持たせていると思えます。

⑥ 別の意は、同音異義の語句に込めることができますので、この後段の「さくらのさきけるを見てよめる」の文に同音異義の語句があるはずです。探してみると、ありました。

     さくら: a桜(樹木) b桜(襲(かさね)の色目のひとつ) c柵ら(らは接尾語の「等」、現在の木柵) d索(太いなわ 仏像が手にしているなわ)ら e笏(しゃくとも、さくとも読む)ら f簀(すとも、すのことも、音読すればさくとも読む)ら

なお、襲とは衣服を重ねて着るときの、裏と表との配色を言い、「桜」は「襲の色目の名のひとつで、表は白、裏は紫(この色目は葡萄染めなどともいう)です。

また、笏とは、(公式の行事の礼服である)束帯を着ける時、右手に持つ細長い板をいい、簀には2意あり、アシや竹などをあらく編んで作った敷物あるいは寝殿造りで廂(ひさし)の外側に作った縁側(雨水が貯まらぬように板と板との間があけてある)を言います。

     さき: a四段活用の動詞「咲く」の連用形 b同「割く・裂く」の連用形 c名詞「先・前」 d名詞「﨑・埼」

     ける: a助動詞「「けり」の連体形 b動詞「蹴る」の連体形 

⑦ これらより、後段の語句の組み合わせ候補をみると、次のとおり。

B1 桜が咲いていたのを(見てよめる)

  但し、『古今和歌集』では、そのような状況は完了の助動詞「り」を用いて「さけりける」と表現されています。

B2 柵などが割けているのを(見てよめる)

但し、山寺における柵であり、現在の名刹でも柵は樹木や記念物などの保護用として用いられてお

り、消耗品的な位置づけのものです。使用している杭が割けているのは珍しい。そのうえ、「など」の例が見つかりません。

B3 柵などの先を蹴るのを(見てよめる) 

但し、柵とは普通ある程度長さがあり、手前・向こうという話し手から見ての位置づけが可能であるので、遠方に位置するところの柵を「柵の先」という表現もあるかもしれません。それにしても、「など」の例が見つかりません。また、蹴るならば地面に近い柵の根元を普通蹴ります。

B4 笏などの先を蹴るのを(見てよめる)  

但し、笏は手に持つもの、「蹴る」は足を使う行為ですので、相手の笏に対して飛び蹴りのようなことを官人がするとは思えません。置いてあった笏であればあり得ることかもしれませんが、笏は礼服時に持つものであり、その礼服着用時に手放す可能性が小さい。また、蹴るとして、的が笏の「先」というのは小さすぎます。「など」の例は、礼服そのものになるのでしょうか。笏ほどの大きさのものは何でしょう。

 そもそも礼服の着用が必要な場面とは思えません。

B5 簀などの先を蹴るのを(見てよめる)  

但し、簀は、寝殿造りで廂(ひさし)の外側に作った縁側(簀子)です。簀子の先とは、室内からみて簀子の庭側にある高欄になるのでしょうか。そうなると「(簀)など」とは、柱や簀子に置いてある物を指しているのでしょう。通常その屋敷の主は、部屋の中央におり、軒先にでるのは、用事のある時に限ると思われます。伺候した者であれば、廂や簀子が自分の席ということがあり、簀の先(つまり高欄)を蹴ることは可能です。

⑧ これらの候補から可能性を比較します。

B1は、樹木の桜であるならば、類似歌と同じ情景であり、詞書をわざわざ書き記している意味が薄れています。しかし、歌における「さくら(ばな)」という語句が誰かを指しているならば、類似歌とも違うので有り得ます。

B2B3は、「さくら」の「ら(等)」の例が不明であり、成立は難しい。

B4は、山寺へゆくのが公式の行事でない限り、あり得ない光景です。

B5は、類似歌と異なる情景であり、山寺に複数の者が行った際ということであれば、あり得る光景です。

⑨ このため、後段の「さくらのさきけるを見てよめる」は、2候補が残ります。

B1は、歌における桜が誰かを指しているならば有り得ます。これは、山寺でなくとも一般的にあり得ることであり、上記③の「また・・・」の段の条件を満足しています。

B5は、建物の中の光景です。この光景となるには、飲食の席でだいぶ座が乱れた時と推測できます。これは前段の文をおもえば、山寺に行ったことで生じた光景ということになり、山寺に花見(花の種類は問わない)に行ったか、あるいは月見に行ったかの時の飲食の席が候補と考えられます。これは、朝廷や貴族の屋敷での宴席でもあり得ることであり、上記③の「また・・・」の段の条件を満足しています。

⑩ 詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

C1 「山寺に行ったところ、桜が咲いていたのを(見てよめる)」(A1+B1

C2 「山寺に行ったのだけれど、簀などの先を蹴るのを見ることになり詠んだ(歌)」 (A2+B5

 

6.3-4-32歌における同音異義の語句

① この歌は、類似歌と清濁抜きの平仮名表記をすると、同じです。だから、詞書と同様に、同音異義の語句がこの歌にはあるのではないかと疑えます。句ごとに検討します。

② 初句「山たかみ」は、名詞「山」+形容詞「高し」の語幹+接尾語「み」として、類似歌は理解しました。

 詞書によれば「山」寺にゆこうとしている作者ですので、この歌も同じであろうと思います。「山たかみ」は、同音異義の語句ではありません。

③ 二句「人もすさめぬ」は、動詞の未然形につく助動詞で活用が「ぬ」となる語が二つあります。

D1 名詞「人」+係助詞「も」+下二段活用の動詞「すさむ」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連体形

この理解は類似歌と同じです。

D2 「人もすさめぬ」は、名詞「人」+係助詞「も」+下二段活用の動詞「すさむ」の未然形+完了の助動詞「ぬ」の終止形

この場合、この歌は二句切れとなります。そして歌の意は大きく変わる可能性があります。

さらに、下二段活用の動詞「すさむ」は、

E1 「心にとめて愛する・慰みとする」

E2 「うち捨ててしまう・きらう・避ける。」

の意があります。

だから、「すさめぬ」は、同音異義の語句です。

なお、動詞「すさむ」には、四段活用の動詞もありますが、「すさめ」という已然形または命令形につく助動詞は有りません。 

④ 三句「さくらばな」は、類似歌の文字表現は「さくら花」であり、この歌は「さくらばな」です。

 類似歌のある『古今和歌集』には「さくら花」という文字表現は、類似歌の直後にもあります(1-1-55歌)し、『後撰和歌集』にも1-2-51歌をはじめ10首ほどあります。

 しかし、この歌は、「さくらばな」という文字表現で、「花」の字を避けています。

 このため、「さくらばな」が同音異義の語句の候補とみてみると、つぎのような語句がありました。

  • ・ さくら:上記5.⑥の「・ さくら」に示したように、「桜」、「さく等(ら)」で6種の意があります。
  • ・ はな:a花 b特に樹木の桜 cツユクサからとった染料(色がさめやすい) c鼻 d端(はし、先) e華
  • そして、 「さくらはな」が樹木の桜の花そのものの意となるのは、上記5.⑧で述べた理由で除外すると、三句「さくらばな」の意は、

F1 「桜の花のように華(のある特定の人)」

F2 「襲(かさね)の色目の名の桜に例えられる鼻の持ち主」

が候補になります。

なお、接頭語「さ」+名詞「鞍または蔵・倉」+名詞「花・華」では意を成せません。

⑤ 四句「いたくなわびそ」は、副詞「甚く」+禁止の意の副助詞「な」+動詞「わぶ」の連用形+終助詞「そ」として、類似歌は理解しました。このほかは考え付かないので、同音異義の語句は無いでしょう。

⑥ 五句「われ見はやさむ」は、名詞「われ」+(「は」又は「が」を割愛)+上一段活用の動詞「見る」の連用形+四段活用の動詞「はやす」の未然形+意志・意向を表わす助動詞「む」の終止形として、類似歌は理解しました。

「見る」は、「目によって視覚の対象を捉える意、視覚で物事を知る意」(『古典基礎語辞典』)の言葉であり、視覚に入れるだけでなく、「見定める・見計らう、思う・解釈する」、などの意があります。

 「はやす」は、「ものを映えるようにさせる意、光や音などを外から加えてそのものが本来持っている美しさや見事さをいっそう引き立たせ、力を増させる意」の言葉であり、大別して「栄やす・映やす」と「囃す」の2つの意がありますので、四句には同音異義の語句があります。

また、「上一段活用の動詞「見る」の連用形+四段活用の動詞「はやす」の未然形」を一語の動詞「見栄やす」と理解することも可能です。

このため、五句「われ見はやさむ」の現代語訳の候補に次のようなものがあります。

G1 私が見る行為をし、栄やそう(映やそう)

この場合、「見る」は、「見定める・見計らう」、「思う・解釈する」であり、この文は、応援をして引きたたせよう、という意になります。

G2 私が見る行為をし、囃そう

この場合、「見る」は、「見定める・見計らう」より「取り扱う・処置する」であり、この文は、具合よく囃そう、という意になります。

G3 私がもてはやして見よう。または、私が見てもてはやそう。

この場合、「見はやす」は、一語の動詞です。

⑦ 句またがりでの同音異義の語句はなさそうです。

 

7.3-4-32歌の詞書と歌の現代語訳を改めて試みると

① このように同音多義の語句が歌にいくつかありますので、各句の現代語訳の候補を整理するとつぎの表のようになります。

 

 

 

句の区分

各句の案

 

第1案

第2案

第3案

第4案

初句:1案

「山が高いので」

 

 

 

二句:人もすさめぬ:2案

「ぬ」は打消しの助動詞「ず」の連体形 D1&E1

 D1&E2

「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形 D2&E1

D2&E2

三句:さくらばな:3案

桜の花のように華(のある特定の人) F1

襲(かさね)の色目の名の桜に例えられる鼻の持ち主 F2

 

 

四句:1案

思い煩う、さびしく思う

 

 

 

五句:3案

栄やそう・見定めて応援して引きたたせよう G1

具合よく囃そう

G2

みてもてはやそう G3

 

 

② 詞書に留意し、検討します。

 C1の詞書の場合、三句の桜はF1となり、その席にいる華のある誰かあるいは同席の人が同じように華があると思う(その席にいない)第三者を指し、その人を(囃し立てるのではなく)引き立たせよう、という理解が素直である。しかし、これは類似歌の樹木の桜を人物に替えただけの歌です。

 C2の詞書の場合、飲食の席の歌であるので、三句はF1又はF2になり、「桜の花ように注目を集めている人」または「鼻まで赤くしている人」、つまりだいぶ酔ってしまった人、の意となるのではないか。詞書で「簀などの先(高欄)を蹴る」とあるので、酔ったため高欄を蹴るようにしてしか歩けない人を座の人達が囃し立てている歌あるいは、高覧を蹴ってみよとからかっているのがこの歌と理解できます。この場合、F2でよいと思います。

二句における「すさむ」の意は、三句「さくらばな」なる人物を暖かく見守るスタンスで歌をまとめるほうが飲食の場に相応しいと思うので、E1 「心にとめて愛する・慰みとする」で試みるものとします。

なお三句の「さくらばな」は、掛詞とみることができます。三句は、初句と二句で修飾される「桜」の意を残し、三句以下でも一文を成しています。

③ このため、詞書と歌について、改めて現代語訳を試みると、二句は表の第1案(D1+E1)+三句は同第2案(F2)+五句は同第2案(G2)の組み合わせとなり、つぎのとおり。

 詞書:「山寺に行ったのだけれど、簀(さく)などの先(高欄)を蹴るのを見ることになり詠んだ(歌)」 

 歌:「山が高いので、愛されなかった桜もあるが、その桜みたいな色の鼻になった方、酔いが大いに進んだ方、大層に思い悩んだり悲観するな。歩けるように、私が、調子をとって囃し立てましょうから。」

なお、配列から、春の桜の歌となるので、この歌は桜の花見を名目とした宴席となります。

 

8.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-32歌は、詠む事情を簡潔に述べています。類似歌1-1-50歌は、「題しらず」とあり、何の情報もありません。

② 三句の意が異なります。この歌は、「さくらばな」で特定の人物を指し、類似歌は、「さくら花」で今咲いている桜木(多分複数)を意味しています。

③ 五句の意が異なります。この歌は、「囃す」の意であり、 これに対して類似歌は「栄やす」意です。

④ この結果、この歌は、山寺での花見における飲食の席で酔っ払った男をはげましている歌であり、類似歌は、山寺の桜を単に愛でている歌です。

⑤ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-33歌 あめのふりける日、やへやまぶきををりて人のがりやるとてよめる

はるさめににほへるいろもあかなくにかさへなつかしやまぶきのはな

類似歌 1-1-122歌 題しらず  よみ人知らず  (巻第二 春歌下)

      春雨ににほへる色もあかなくにかさへなつかし山吹の花

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑦ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/10/15   上村 朋)

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第31歌その2 まつ人

前回(2018/10/1)、 「猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂 」と題して記しました。

今回、「猿丸集第31歌その2 まつ人」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第31 3-4-31歌とその類似歌

① 『猿丸集』の31番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-31歌  まへちかき梅の花のさきたりけるを見て

     やどちかくむめのはなうゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

類似歌 古今和歌集』 1-1-34歌 題しらず  よみ人知らず」 

       やどちかく梅の花うゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じですが、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、待ち人との間にたち邪魔しようする人をきらった女の歌であり、類似歌は待ち人にそれでも期待をまだかけている女の歌です。

 

2.~3. 承前

4.『古今和歌集』巻第一の検討のまとめ

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討することとし、その歌のある『古今和歌集』巻第一の配列を前回検討してきました。

② その検討で、次のことがわかりました。

     古今和歌集』巻第一春歌上は、元資料の歌を素材として扱っているので、詞書や歌本文に編纂者が手を入れている歌もある。例えば1-1-57歌。

     古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分して歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、歌を並べている。

     その歌群は次のように見ることができ、立春を詠う歌からこの順に配列している。

立春の歌群 1-1-1~1-1-2

雪とうぐひすの歌群 1-1-3~1-1-16

わかなの歌群 1-1-17~1-1-22

山野のみどりの歌群 1-1-23~1-1-27

鳥の歌群 1-1-28~1-1-31

香る梅の歌群 1-1-32~1-1-48

咲き初め咲き盛る桜の歌群 1-1-49~1-1-63

盛りを過ぎようとする桜の歌群 1-1-64~1-1-68

     今検討しようとしている類似歌1-1-34歌は、6番目の歌群である「香る梅の歌群」の三番目の歌である。

 

5.類似歌の検討その3 歌群の特徴

① 「香る梅の歌群」の配列から今回検討します。歌群の始めのほうにある歌は次のような歌です。

 1-1-32歌 題しらず  よみ人しらず

   折りつれば袖こそにほへ梅花有りとやここにうぐひすのなく

 1-1-33歌  <題しらず  よみ人しらず>

   色よりもかこそあはれとおもほゆれたが袖ふれしやどの梅ぞも

 1-1-34歌 類似歌

 1-1-35歌  <題しらず  よみ人しらず>

   梅花たちよるばかりありしより人のとがむるかにぞしみぬる

 1-1-36歌 むめの花ををりてよめる   東三条の左のおほいまうちきみ

   鶯の笠にぬふといふ梅花折りてかざさむおいやかくるやと

 1-1-37歌   題しらず  素性法師

   よそにのみあはれとぞ見し梅花あかぬいろかは折りてなりけり

 1-1-38歌   むめの花ををりて人におくりける   とものり

   君ならで誰にか見せむ梅花色をもかをもしる人ぞしる

② 諸氏の現代語訳を参考にすると、各歌は次のような歌であると理解できます。(元資料が詠われた(披露された)場所の推定は、前回のブログ(2018/10/1)の付記1.の表3参照) 

1-1-32歌 私の袖の梅の香の移り香に鶯が寄ってきてくれた。

元資料の歌は屏風歌bと推定

1-1-33歌 この梅の香の良い事。誰が袖を触れて移してくれたのであろうか。

元資料の歌は屏風歌bと推定

1-1-34歌 梅の香を来てくれない人の香に間違えてしまった。 (仮訳) 

元資料の歌は挨拶歌あるいは相聞歌と推定。

1-1-35歌 ちょっと梅に近づいたばかりに、とがめられるような香が衣についた。 

元資料の歌は挨拶歌あるいは相聞歌と推定。

1-1-36歌 梅の花を冠に挿したら梅の香で、若さが取り戻せるか。 

元資料の歌は宴席の歌と推定。

1-1-37歌 梅の花の素晴らしい色と香は折りとってこそわかるのだった。

元資料の歌は挨拶歌と推定。

1-1-38歌 あなた以外の誰にみせたらよいのか。梅の花の色と香を知っているのはあなただけです。

   元資料の歌は挨拶歌と推定。

③ このような配列でこれらの歌を鑑賞すると、植物の梅の香がすばらしい、と詠っているとともに、梅の香りは男女の仲にある相手を意識させるものと理解している歌ともなっています。1-1-32歌は、作者が梅の移り香に染まっているときだけ鶯がいる(相手は呼び寄せないと来てくれない)、という不満表明の歌ともとれ、1-1-33歌は逢えた喜びを詠っているかに思えます。1-1-36歌は若い女性を梅が象徴しているかにもとれる歌です。

しかし、前後の歌が贈答歌のような対の歌とはなっていません。松田武夫氏は1-1-34歌と1-1-35歌は女と男の歌として編纂者は配列した、と指摘しています。そのとおりかもしれませんが、1-1-34歌をおくられた人が1-1-35歌を詠んだという理解は難しいと思います。

このように、それぞれの歌は、他の歌とは独立した状況で詠んだ歌と理解できます。類似歌も同様である、と思います。

なお、梅の香に寄せての歌として春歌の部立に配列されていますが、別の部立の歌であってもおかしくない歌もあります。

④ 梅の香は、品種によって微妙に違っているのでしょうが、『古今和歌集』の歌では、梅の品種による香の微妙な違いを詠っている歌はありません。衣にたき込める香りは、人工的に作ったものであり、梅の品種の数以上のものがあったに違いありません。それなのに、梅の花の咲く頃(匂う頃)はみなひっくるめて梅の花の香に、この歌群の歌のように喩えています。梅の香を詠う歌は、梅を愛でるのは二の次の歌であるのが、本来の姿であるかもしれません。とにかく、男女の間のことに関した歌としての検討をしなければならない歌群であろうと、思います。

 

6.類似歌の検討その4 現代語訳の試み

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

     私の家の近くに梅の花などは植えますまい。つまらないことに、訪れを待つあの人の着物の香に、ついまちがえられたことであるから。」(久曾神氏)

     「庭先近くには、梅の木を植えまい。せんないことだが、それから漂ってくる芳香を私が待っているあの方の香りと間違えてしまったよ。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

② 久曾神氏は、「作者は、梅の芳香について愛着と同時に、足遠くなった愛人の訪れを待つ気持ちを託している。」と解説し、「あやまたれけり」の「れ」は自発の助動詞の連用形、「けり」は詠嘆の助動詞と説明しています。

③ 後者の訳例では、三句「あぢきなく」は四句と五句の全体を修飾する、としています。

④ いくつかの語句について検討します。

 初句にある「やど」は、「その建物で、作者居住している空間」の意です。「やどちかく」とは、「梅の香が届くと思ってしまう空間(梅が見えてしまうエリア)全てを指します。梅は庭木であるので、当然屋敷地内です。

⑤ 二句に「うゑじ」とありますが、どこに植えたくなかったのでしょうか。

三代集で、梅は、実より花や香が詠まれているように、当時貴族に賞玩されています。貴族が寝殿造りの庭に植えている庭木のひとつが梅です。手折った梅を詠んだ歌が『古今和歌集』に幾つもありますが、手折った梅はどこに置いたのでしょうか。花は、既に仏に供えることが仏教とともに伝わってきています。観賞用として、手折った梅を身近な室内に置くならば、鉢などの器や州浜台を利用したのでしょう。土付きの梅ならば、同様に鉢や州浜台を利用して室内や建物近くにおいたり、建物に沿わせて植えたりして鑑賞したのでしょう。

この歌において、作者の一存で移動が出来る(植える場所を選べる)のは、鉢などの器や州浜台台の上の梅の木か、特別に建物の側の庭に植えた梅の木をイメージせざるを得ません。

 『古今和歌集』で「植う」の例を探すと、1-1-272歌の詞書に、

 「おなじ御時せられけるきくあはせに、すはまをつくりて菊の花うゑたりけるにかはへたりけるうた、ふきあげのはまのかたにきくをうゑたりけるによめる」

とあり、「すはま」に菊の花を「植ゑ」、「はまのかた」に菊を「植ゑ」ており、今日の切り花か、土付きの菊か明記されていませんが、動詞「植う」を用いて表現されています。

 『後撰和歌集』の1-2-46歌の詞書には「兼輔朝臣のねやのまへに紅梅をうゑて侍りけるを、・・・」とあります。これは、敷地のうちで「ねやのまへ」という場所は、庭木の梅を植える位置では例外的な場所なので、このような詞書にもなったのでしょう。

二句にある動詞「植う」は「(根付くように)植える」意です(『例解古語辞典』)が、これらの例によれば地面に直接植えるとか、簡単に動かしにくい器に鑑賞用植物をいれて飾るとかの場合にも用いられており、そばに植物を置く意ととってもよいと思います。

⑥ これまでの検討を踏まえて、現代語訳を後者の訳例を参考に、試みると、つぎのとおり。

「わが屋敷において私の目につくところには、梅の木を置かせまい。せんないことだが、それから漂ってくる芳香を私が待っているあの方の香りと間違えてしまったよ。」

 この歌は、待っている人の訪れに期待をかけている状況か、便りも来なくなって不安が増す頃なのか、はっきりしませんが、作者にとって待ち人来たらずの状況なのは確かなことです。

⑦ 元資料の歌としては、作者が、待ち望んでいる意を示そうと、待っている人への(誘いの)贈り物に付けた歌(挨拶歌)かと推測しましたが、『古今和歌集』の春歌としては、挨拶歌のほか梅の花の香を競詠しているかに仕立てた題詠歌の例として配列している可能性があります。

歌群の成り立ちを思うと、題詠の歌の一群として楽しむようにという、編纂者の意図であるように理解できます。

 

7.3-4-31歌の詞書の検討

① 3-4-31歌を、まず詞書から検討します。

 詞書中の「まへちかき梅」とは、庭先の梅、が第一候補になります。その咲いたのを「見て」作者は詠っています。咲けば匂います。匂いが立たなくともそれからの連想はすぐ(梅と匂いが異なっていても)覚えのある「香」を衣服にたき込めている人にゆく心境に、作者はいたようです。

 3-4-31歌の詞書の現代語訳をこころみると、つぎのとおり。

「庭の建物近くにある梅が、花を咲かせていたのをみて(詠んだ歌)」

 

8.3-4-31歌の現代語訳を試みると

① 三句の「あじきなく」は、五句「あやまたれけり」を修飾します。「不快である。にがにがしい」の意です。

② 四句にある「まつ人」の「つ」は、「庭つ鳥」、「夕つ方」の「つ」ではないでしょうか。

「まつ人」とは、「魔つ人」であり、「仏教でいう魔王のような人」の意です。仏教では、人の善行をさまたげるもので自分の内心からではない外部からの働き掛けをするものを魔と称しその王を魔王と称しているそうです。

魔王が主(あるじ)となっている天(世界)は、欲界の第六天である他化自在天です。他化自在天とは、「他の神々がつくりだした対象についても自在に楽しみを受けるのでこのように名付けた」(世界)です(『仏教大辞典』中村元 付記1.参照)。

魔は「仏教語であって仏教修行の妨げをする悪神」(『例解古語辞典』)であり、だから当時も目的達成の邪魔をする者を意味することばとなっていたのでしょう。

③ 五句の「あやまたれけり」の「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形です。「今まで見すごしたりしていた現前の事実に、はじめてはっと気づいた驚き」、の意です。

④ 詞書に従い、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「わが屋敷において私の目につくところには、梅の木を植えておくことをすまい。にがにがしいことに、私の思いの邪魔をする、仏道修行を妨げる第六天魔王のような人が用いている香に勘違いすることがあるのに気づいたから。」

⑤ 作者は男女どちらにも可能性があります。寝殿造りの屋敷に住む貴族であれば、庭に梅の木を植えており、どの屋敷にもあるはずの木です。それを「魔つ人」と結びつけているのですから、この歌に実景が必要ならば、梅の香の人は、作者の間近にいる人となります。作者が八つ当たりできる親どものひとりでしょうか。梅に花を咲かせ楽しもうとしている人が今はにくらしい、という歌です。

 

9.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌4-3-31歌は、身近に咲いた梅を見てと詠むきっかけを明らかにしています。類似歌は、「題しらず」とあり、場所が不定であり、梅を実際見たのかどうかも不明です。

② 四句にある「まつ人」の意が違います。この歌は、「魔つ人」の意で、「私の恋の邪魔をする(仏教の第六天魔王のような)人」の意です。類似歌は、「待つ人」であり、「訪れを待っているあの人」ですが作者に近付いてこない「あの人」です。

③ この結果、この歌は、待ち人との間にたち邪魔しようとする人をきらった女の歌であり、類似歌は待ち人にそれでも期待をまだかけている女の歌です。

 

④ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-32歌  やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

山たかみ人もすさめぬさくらばないたくなわびそわれ見はやさむ

類似歌は1-1-50歌  題しらず    よみ人知らず (巻第一 春歌上。) 

     山たかみ人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我見はやさむ

   左注あり。「又は、さととほみ人もすさめぬ山ざくら」

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/10/9   上村 朋)

付記1.魔王について

① 初期の仏教教団の教えの中心は、ニルヴァーナに達すること。在家の信者には、主として「生天」が説かれた。道徳的に善い生活をしたら天に生まれるというおしえ。施論・戒論・生天論の三つは在家信者に対する教えの三本の柱。天の原語は色々あるがみな単数形。道徳的に善であれば、死後天におもむく、というのは当時のインドの一般民衆の信仰であって、仏教はそれを教義の中にとりいれた。ただし、絶対の境地を天ということばを借りて表したのであるが、一般民衆は俗言のとおり、死後の理想郷に行かれると信じていた。後に天は、種々の位階に分かたれるようになる。(中村元『仏教語大辞典』(東京書籍)

② 天の意は、天界・天の世界のほか、インド人の考えた神々(空中や地上に住む神もある)、天界の神、自然の里法等の意で用いられている。(同上)

③ 天(天界・天の世界)は、33ある。凡夫が生死往来する世界(性欲・食欲をもつ生きものの世界・欲界)に六天ある。欲界のうえにあって食欲・性欲を離れた生きものの絶妙なる世界(色界)に十八天あり、物質的なものがすべてなく、心識(たましい・こころ)のみある生きものの世界(無色界)に四天ある。(同上)

④ 欲天の第六番目が他化自在天。その王が第六天魔王。波旬(はじゅん)とも、単に魔王ともいう。

(付記終り。2018/10/9  上村 朋) 

 

わかたんかこれ 猿丸集第31歌その2 まつ人

前回(2018/10/1)、 「猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂 」と題して記しました。

今回、「猿丸集第31歌その2 まつ人」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第31 3-4-31歌とその類似歌

① 『猿丸集』の31番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-31歌  まへちかき梅の花のさきたりけるを見て

     やどちかくむめのはなうゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

類似歌 古今和歌集』 1-1-34歌 題しらず  よみ人知らず」 

       やどちかく梅の花うゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じですが、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、待ち人との間にたち邪魔しようする人をきらった女の歌であり、類似歌は待ち人にそれでも期待をまだかけている女の歌です。

 

2.~3. 承前

4.『古今和歌集』巻第一の検討のまとめ

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討することとし、その歌のある『古今和歌集』巻第一の配列を前回検討してきました。

② その検討で、次のことがわかりました。

     古今和歌集』巻第一春歌上は、元資料の歌を素材として扱っているので、詞書や歌本文に編纂者が手を入れている歌もある。例えば1-1-57歌。

     古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分して歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、歌を並べている。

     その歌群は次のように見ることができ、立春を詠う歌からこの順に配列している。

立春の歌群 1-1-1~1-1-2

雪とうぐひすの歌群 1-1-3~1-1-16

わかなの歌群 1-1-17~1-1-22

山野のみどりの歌群 1-1-23~1-1-27

鳥の歌群 1-1-28~1-1-31

香る梅の歌群 1-1-32~1-1-48

咲き初め咲き盛る桜の歌群 1-1-49~1-1-63

盛りを過ぎようとする桜の歌群 1-1-64~1-1-68

     今検討しようとしている類似歌1-1-34歌は、6番目の歌群である「香る梅の歌群」の三番目の歌である。

 

5.類似歌の検討その3 歌群の特徴

① 「香る梅の歌群」の配列から今回検討します。歌群の始めのほうにある歌は次のような歌です。

 1-1-32歌 題しらず  よみ人しらず

   折りつれば袖こそにほへ梅花有りとやここにうぐひすのなく

 1-1-33歌  <題しらず  よみ人しらず>

   色よりもかこそあはれとおもほゆれたが袖ふれしやどの梅ぞも

 1-1-34歌 類似歌

 1-1-35歌  <題しらず  よみ人しらず>

   梅花たちよるばかりありしより人のとがむるかにぞしみぬる

 1-1-36歌 むめの花ををりてよめる   東三条の左のおほいまうちきみ

   鶯の笠にぬふといふ梅花折りてかざさむおいやかくるやと

 1-1-37歌   題しらず  素性法師

   よそにのみあはれとぞ見し梅花あかぬいろかは折りてなりけり

 1-1-38歌   むめの花ををりて人におくりける   とものり

   君ならで誰にか見せむ梅花色をもかをもしる人ぞしる

② 諸氏の現代語訳を参考にすると、各歌は次のような歌であると理解できます。(元資料が詠われた(披露された)場所の推定は、前回のブログ(2018/10/1)の付記1.の表3参照) 

1-1-32歌 私の袖の梅の香の移り香に鶯が寄ってきてくれた。

元資料の歌は屏風歌bと推定

1-1-33歌 この梅の香の良い事。誰が袖を触れて移してくれたのであろうか。

元資料の歌は屏風歌bと推定

1-1-34歌 梅の香を来てくれない人の香に間違えてしまった。 (仮訳) 

元資料の歌は挨拶歌あるいは相聞歌と推定。

1-1-35歌 ちょっと梅に近づいたばかりに、とがめられるような香が衣についた。 

元資料の歌は挨拶歌あるいは相聞歌と推定。

1-1-36歌 梅の花を冠に挿したら梅の香で、若さが取り戻せるか。 

元資料の歌は宴席の歌と推定。

1-1-37歌 梅の花の素晴らしい色と香は折りとってこそわかるのだった。

元資料の歌は挨拶歌と推定。

1-1-38歌 あなた以外の誰にみせたらよいのか。梅の花の色と香を知っているのはあなただけです。

   元資料の歌は挨拶歌と推定。

③ このような配列でこれらの歌を鑑賞すると、植物の梅の香がすばらしい、と詠っているとともに、梅の香りは男女の仲にある相手を意識させるものと理解している歌ともなっています。1-1-32歌は、作者が梅の移り香に染まっているときだけ鶯がいる(相手は呼び寄せないと来てくれない)、という不満表明の歌ともとれ、1-1-33歌は逢えた喜びを詠っているかに思えます。1-1-36歌は若い女性を梅が象徴しているかにもとれる歌です。

しかし、前後の歌が贈答歌のような対の歌とはなっていません。松田武夫氏は1-1-34歌と1-1-35歌は女と男の歌として編纂者は配列した、と指摘しています。そのとおりかもしれませんが、1-1-34歌をおくられた人が1-1-35歌を詠んだという理解は難しいと思います。

このように、それぞれの歌は、他の歌とは独立した状況で詠んだ歌と理解できます。類似歌も同様である、と思います。

なお、梅の香に寄せての歌として春歌の部立に配列されていますが、別の部立の歌であってもおかしくない歌もあります。

④ 梅の香は、品種によって微妙に違っているのでしょうが、『古今和歌集』の歌では、梅の品種による香の微妙な違いを詠っている歌はありません。衣にたき込める香りは、人工的に作ったものであり、梅の品種の数以上のものがあったに違いありません。それなのに、梅の花の咲く頃(匂う頃)はみなひっくるめて梅の花の香に、この歌群の歌のように喩えています。梅の香を詠う歌は、梅を愛でるのは二の次の歌であるのが、本来の姿であるかもしれません。とにかく、男女の間のことに関した歌としての検討をしなければならない歌群であろうと、思います。

 

6.類似歌の検討その4 現代語訳の試み

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

     私の家の近くに梅の花などは植えますまい。つまらないことに、訪れを待つあの人の着物の香に、ついまちがえられたことであるから。」(久曾神氏)

     「庭先近くには、梅の木を植えまい。せんないことだが、それから漂ってくる芳香を私が待っているあの方の香りと間違えてしまったよ。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

② 久曾神氏は、「作者は、梅の芳香について愛着と同時に、足遠くなった愛人の訪れを待つ気持ちを託している。」と解説し、「あやまたれけり」の「れ」は自発の助動詞の連用形、「けり」は詠嘆の助動詞と説明しています。

③ 後者の訳例では、三句「あぢきなく」は四句と五句の全体を修飾する、としています。

④ いくつかの語句について検討します。

 初句にある「やど」は、「その建物で、作者居住している空間」の意です。「やどちかく」とは、「梅の香が届くと思ってしまう空間(梅が見えてしまうエリア)全てを指します。梅は庭木であるので、当然屋敷地内です。

⑤ 二句に「うゑじ」とありますが、どこに植えたくなかったのでしょうか。

三代集で、梅は、実より花や香が詠まれているように、当時貴族に賞玩されています。貴族が寝殿造りの庭に植えている庭木のひとつが梅です。手折った梅を詠んだ歌が『古今和歌集』に幾つもありますが、手折った梅はどこに置いたのでしょうか。花は、既に仏に供えることが仏教とともに伝わってきています。観賞用として、手折った梅を身近な室内に置くならば、鉢などの器や州浜台を利用したのでしょう。土付きの梅ならば、同様に鉢や州浜台を利用して室内や建物近くにおいたり、建物に沿わせて植えたりして鑑賞したのでしょう。

この歌において、作者の一存で移動が出来る(植える場所を選べる)のは、鉢などの器や州浜台台の上の梅の木か、特別に建物の側の庭に植えた梅の木をイメージせざるを得ません。

 『古今和歌集』で「植う」の例を探すと、1-1-272歌の詞書に、

 「おなじ御時せられけるきくあはせに、すはまをつくりて菊の花うゑたりけるにかはへたりけるうた、ふきあげのはまのかたにきくをうゑたりけるによめる」

とあり、「すはま」に菊の花を「植ゑ」、「はまのかた」に菊を「植ゑ」ており、今日の切り花か、土付きの菊か明記されていませんが、動詞「植う」を用いて表現されています。

 『後撰和歌集』の1-2-46歌の詞書には「兼輔朝臣のねやのまへに紅梅をうゑて侍りけるを、・・・」とあります。これは、敷地のうちで「ねやのまへ」という場所は、庭木の梅を植える位置では例外的な場所なので、このような詞書にもなったのでしょう。

二句にある動詞「植う」は「(根付くように)植える」意です(『例解古語辞典』)が、これらの例によれば地面に直接植えるとか、簡単に動かしにくい器に鑑賞用植物をいれて飾るとかの場合にも用いられており、そばに植物を置く意ととってもよいと思います。

⑥ これまでの検討を踏まえて、現代語訳を後者の訳例を参考に、試みると、つぎのとおり。

「わが屋敷において私の目につくところには、梅の木を置かせまい。せんないことだが、それから漂ってくる芳香を私が待っているあの方の香りと間違えてしまったよ。」

 この歌は、待っている人の訪れに期待をかけている状況か、便りも来なくなって不安が増す頃なのか、はっきりしませんが、作者にとって待ち人来たらずの状況なのは確かなことです。

⑦ 元資料の歌としては、作者が、待ち望んでいる意を示そうと、待っている人への(誘いの)贈り物に付けた歌(挨拶歌)かと推測しましたが、『古今和歌集』の春歌としては、挨拶歌のほか梅の花の香を競詠しているかに仕立てた題詠歌の例として配列している可能性があります。

歌群の成り立ちを思うと、題詠の歌の一群として楽しむようにという、編纂者の意図であるように理解できます。

 

7.3-4-31歌の詞書の検討

① 3-4-31歌を、まず詞書から検討します。

 詞書中の「まへちかき梅」とは、庭先の梅、が第一候補になります。その咲いたのを「見て」作者は詠っています。咲けば匂います。匂いが立たなくともそれからの連想はすぐ(梅と匂いが異なっていても)覚えのある「香」を衣服にたき込めている人にゆく心境に、作者はいたようです。

 3-4-31歌の詞書の現代語訳をこころみると、つぎのとおり。

「庭の建物近くにある梅が、花を咲かせていたのをみて(詠んだ歌)」

 

8.3-4-31歌の現代語訳を試みると

① 三句の「あじきなく」は、五句「あやまたれけり」を修飾します。「不快である。にがにがしい」の意です。

② 四句にある「まつ人」の「つ」は、「庭つ鳥」、「夕つ方」の「つ」ではないでしょうか。

「まつ人」とは、「魔つ人」であり、「仏教でいう魔王のような人」の意です。仏教では、人の善行をさまたげるもので自分の内心からではない外部からの働き掛けをするものを魔と称しその王を魔王と称しているそうです。

魔王が主(あるじ)となっている天(世界)は、欲界の第六天である他化自在天です。他化自在天とは、「他の神々がつくりだした対象についても自在に楽しみを受けるのでこのように名付けた」(世界)です(『仏教大辞典』中村元 付記1.参照)。

魔は「仏教語であって仏教修行の妨げをする悪神」(『例解古語辞典』)であり、だから当時も目的達成の邪魔をする者を意味することばとなっていたのでしょう。

③ 五句の「あやまたれけり」の「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形です。「今まで見すごしたりしていた現前の事実に、はじめてはっと気づいた驚き」、の意です。

④ 詞書に従い、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「わが屋敷において私の目につくところには、梅の木を植えておくことをすまい。にがにがしいことに、私の思いの邪魔をする、仏道修行を妨げる第六天魔王のような人が用いている香に勘違いすることがあるのに気づいたから。」

⑤ 作者は男女どちらにも可能性があります。寝殿造りの屋敷に住む貴族であれば、庭に梅の木を植えており、どの屋敷にもあるはずの木です。それを「魔つ人」と結びつけているのですから、この歌に実景が必要ならば、梅の香の人は、作者の間近にいる人となります。作者が八つ当たりできる親どものひとりでしょうか。梅に花を咲かせ楽しもうとしている人が今はにくらしい、という歌です。

 

9.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌4-3-31歌は、身近に咲いた梅を見てと詠むきっかけを明らかにしています。類似歌は、「題しらず」とあり、場所が不定であり、梅を実際見たのかどうかも不明です。

② 四句にある「まつ人」の意が違います。この歌は、「魔つ人」の意で、「私の恋の邪魔をする(仏教の第六天魔王のような)人」の意です。類似歌は、「待つ人」であり、「訪れを待っているあの人」ですが作者に近付いてこない「あの人」です。

③ この結果、この歌は、待ち人との間にたち邪魔しようとする人をきらった女の歌であり、類似歌は待ち人にそれでも期待をまだかけている女の歌です。

 

④ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-32歌  やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

山たかみ人もすさめぬさくらばないたくなわびそわれ見はやさむ

類似歌は1-1-50歌  題しらず    よみ人知らず (巻第一 春歌上。) 

     山たかみ人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我見はやさむ

   左注あり。「又は、さととほみ人もすさめぬ山ざくら」

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/10/9   上村 朋)

付記1.魔王について

① 初期の仏教教団の教えの中心は、ニルヴァーナに達すること。在家の信者には、主として「生天」が説かれた。道徳的に善い生活をしたら天に生まれるというおしえ。施論・戒論・生天論の三つは在家信者に対する教えの三本の柱。天の原語は色々あるがみな単数形。道徳的に善であれば、死後天におもむく、というのは当時のインドの一般民衆の信仰であって、仏教はそれを教義の中にとりいれた。ただし、絶対の境地を天ということばを借りて表したのであるが、一般民衆は俗言のとおり、死後の理想郷に行かれると信じていた。後に天は、種々の位階に分かたれるようになる。(中村元『仏教語大辞典』(東京書籍)

② 天の意は、天界・天の世界のほか、インド人の考えた神々(空中や地上に住む神もある)、天界の神、自然の里法等の意で用いられている。(同上)

③ 天(天界・天の世界)は、33ある。凡夫が生死往来する世界(性欲・食欲をもつ生きものの世界・欲界)に六天ある。欲界のうえにあって食欲・性欲を離れた生きものの絶妙なる世界(色界)に十八天あり、物質的なものがすべてなく、心識(たましい・こころ)のみある生きものの世界(無色界)に四天ある。(同上)

④ 欲天の第六番目が他化自在天。その王が第六天魔王。波旬(はじゅん)とも、単に魔王ともいう。

(付記終り。2018/10/9  上村 朋) 

 

わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂

前回(2018/9/24)、 「猿丸集第30歌 物はおもはじ」と題して記しました。

今回、「猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」と題して、記します。(上村 朋)

. 『猿丸集』の第31 3-4-31歌とその類似歌

① 『猿丸集』の31番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-31歌  まへちかき梅の花のさきたりけるを見て

     やどちかくむめのはなうゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

類似歌 古今和歌集』 1-1-34歌 題しらず  よみ人知らず」 

       やどちかく梅の花うゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じですが、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。今回は、上記類似歌のある歌集とその元資料に関して記します。

 

2.類似歌の検討その1 『古今和歌集』の元資料の検討

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌は 『古今和歌集』巻第一春歌上、 にあります。

『猿丸集』の歌の類似歌が、『古今和歌集』巻第一春歌上の歌にあるのは、この類似歌や1-1-29歌など計5首です。そのため、ここで巻第一の配列を確認しておきます。

② ブログ「猿丸集第32歌(2018/9/3)」で述べた方法(ブログの2.類似歌の検討その1 巻第四秋歌上の元資料の分析方法 )により、検討します。

 即ち、『古今和歌集』歌をその元資料の歌と比較するため、元資料を確定あるいは推定し、その元資料歌における現代の季語(季題)と詠われた(披露された)場を確認し、その後『古今和歌集』の四季の部の巻の配列を検討します。

古今和歌集』記載の作者名を冠する歌集や歌合で『古今和歌集』成立以前に成立していると思われるものや『萬葉集』などを元資料と見做します。また、『古今和歌集』記載の歌本文と元資料の歌本文とを、清濁抜きの平仮名表記しても異同がある歌もあります。その場合は、必要に応じて元資料の歌を、『新編国歌大観』により示すこととします。

 その作業結果を、付記1.の各表(補注含む)に示します。

③ 元資料における歌68首に用いられている現代の季語とされる語のうち、歌の趣旨に添う季語により、詠っている時節を推定しまとめると、下表のようになります。68首に季語は124回登場しています。

時節の推定で保留としている歌は、『猿丸集』3-4-49歌の類似歌である季語を用いていない1-1-29歌です。3-4-49歌の検討時に確認します。

なお、現代では三春の季語とされているうぐひすを詠う元資料の歌は、ほかの季語により、10首が初春の時節、残りの1首(1-1-16歌)が三春となりました。

表 元資料における歌での(現代の)季語出現状況とその季語による歌の時節推定の集計表

 

時節

 

 

 

 

 

 

 

現代の季語

新春

初春

三春

仲春

晩春

晩冬

保留

計(首)

こぞことし

1

 

 

 

 

 

 

1

1

4

2

 

1

2

 

10

わかな

5

 

 

 

 

 

 

5

季語無し

 

1

 

 

 

 

1

2

あをやぎ・柳

 

 

 

 

3

 

 

3

春来

 

4

 

 

 

 

 

4

な焼きそ

 

1

 

 

 

 

 

1

春立つ

 

3

 

 

 

 

 

3

花・花見

 

8

 

1

4

2

 

15

うぐひす

 

10

1

 

 

 

 

11

 

15

 

 

 

 

 

15

2

6

2

2

6

 

 

18

春雨

1

 

1

 

 

 

 

2

ももちどり

 

 

1

 

 

 

 

1

しらつゆ

 

 

 

 

1

 

 

1

このめ

 

1

 

 

 

 

 

1

かり(かへる)

 

 

 

2

 

 

 

2

(春)かすみ

 

1

2

1

2

 

 

6

はつ花

 

 

 

1

 

 

 

1

まつのみどり

 

1

 

 

 

 

 

1

みどり

 

 

1

 

1

 

 

2

わかくさ

 

1

 

 

 

 

 

1

 

 

 

1

 

 

 

1

月夜

 

1

 

 

 

 

 

1

たき

 

 

 

 

1

 

 

1

さくら

 

 

 

 

15

 

 

15

合計

10

57

10

8

34

4

1

124

 

 

④ このように元資料の歌の時節を推定しましたが、歌には現代の季語が複数用いられ、その推定した時節にそぐわない現代の季語(語句)が用いられている例があります。新年という時節区分は後代のものなので、初春に含めると整理しても、現代の季語の時節が隣り合っていない季語(語句)を用いている歌がありますす。この作業は、俳句の季語による時節の推定であり、また元資料の歌は、歌語として語句の概念が固定しつつある時代の歌であり、その語句の意味を検討すると、詠っている時節に不都合な語句ではないことが、当然ながらわかります。

例えば、

1-1-9歌の元資料の歌:付表1.の表2に示したように、はるの雪ふるにより時節は初春と推定した。 季語としての花は桜の意だが、ここでは梅となる。季語のこのめも特定されて梅のこのめであり、季語(語句)間に違和感はない。

1-1-12歌の元資料の歌:はつ花(花は桜)から時節は仲春と推定した。しかし、同じ元資料での詞書や歌の配列より「花」は梅(初春)となる。氷(晩冬)の時節とは隣り合っており、春(三春)ともなじむ。なお、現代の季語として「紅梅」は、仲春である。また、『貫之集』には月次の屏風のための屏風歌として、「二月梅の花見る所」と詞書している歌がある(3-19-141歌)。当時梅が仲春にも詠まれている例となる。

1-1-17歌の元資料の歌:な焼きそより時節は初春と推定した。わかくさ(晩春)がわかなをも意味するならば、初春~仲春となり、な焼きそ(初春)の時節に近くなる。

1-1-24歌の元資料の歌:春くるにより時節は初春と推定した。まつのみどり(晩春)は木々が鮮やかになる意と理解すれば初春の松であってよい。

1-1-27歌の元資料の歌:柳により時節は晩春と推定した。しらつゆ(三秋)という自然現象は春にも生じ得るので違和感がない。

1-1-40歌の元資料の歌:梅により時節を初春と推定した。月夜(三秋)の語は初春の月夜をいう。

1-1-60歌の元資料の歌:さくらにより時節を晩春と推定した。桜花を吉野の山の雪(晩冬)に見誤るかと詠っているので、春になっての遅い雪をイメージしており、この歌に違和感は少ない。

このように、元資料の歌は、『古今和歌集』の春歌の元資料の歌として時節が適切な歌である、といえ、また、『古今和歌集』の編纂者の時代、「花」は桜に限定されていないことがわかります(付記3.参照)。

⑤ 元資料の歌が、披露された場所別の歌数は、次のとおり。重複して推定した歌が19首あり計87首となりました。

 歌合    12首

 屏風歌b  18首

 下命の歌 11首

 公務     1首  (催馬楽の歌)

 挨拶歌   21首  (『貫之集』など元資料が明らかな歌7首、元資料不明だが作者名記載の歌9首及び元資料不明でよみ人しらずの歌が5首

 宴席の歌 11首

 外出歌    4首  (『躬恒集』1首、元資料不明作者名記載2首及び元資料不明よみ人しらず1首)

 相聞      7首

 賀        1首 (賀の部立は古今集歌に対する契沖の説による1-1-49歌の元資料の歌)

 保留      1首 (猿丸集3-4-32歌の類似歌である1-1-50歌の元資料の歌。歌意が定かでなかったので3-4-32歌の検討まで保留する)

 巻第四秋歌上の元資料の歌と比べると、歌合と宴席の歌の比率が少なく、屏風歌bの比率が多くなっています。なお、下命の歌や相聞は巻第四秋歌上では区分していませんでした(1-1-177歌は宴席の歌と推定していますが、下命の歌でもある可能性があります)。

 いづれにしても、歌人は、色々な場面で歌を詠みつつもそれ以上にその場に適した歌の採録を心掛けていることがうかがえます。その必要があった社会なのでしょう。

 

3.類似歌の検討その2 『古今和歌集』巻第一の検討

① 『古今和歌集』に戻って配列を検討します。最初に、元資料の歌の時節のまま(付記1.の各表の視点1の時節)で編纂していると仮定し、その配列が、時節の到来順であるかを検討します。

立春を詠む巻頭歌より始まり、時節が新年と初春の歌を三春の歌を交えて1-1-24歌まで配列してあります。新年の時節を初春に含めると、例外にみえる1-1-7歌、1-1-12歌も次のように初春の歌となります。

1-1-7歌は、詞書に「はるのはじめの御うた」とある1-1-4歌と詞書に「正月三日におまへにめして」とある1-1-8歌の間に配置され、巻第一春歌上での歌の並びを重視すれば、元資料の歌と違って、時節は、『古今和歌集』においては「新年」となります。

1-1-12歌は、巻第一春歌上での歌の並び、元資料での配列から推測すれば花は梅になります。元資料の歌と違って時節は、『古今和歌集』においては「初春」となります。

② 次に1-1-25歌から1-1-31歌は、晩春の柳と仲春の花を詠んだ歌がありますが、よぶこどりを三春の季語をみて概略仲春の歌と三春の歌の配列と言えます。しかし全体の配列は、1-1-32歌からは初春の歌に戻り(一見例外が1-1-43歌と1-1-44歌)、1-1-49歌以後は晩春の歌(一見例外が1-1-57歌と1-1-63歌)を配列しています。

③ この初春の並びの例外かとみえる 1-1-43歌と1-1-44歌は、『古今和歌集』では詞書に「梅の花」と明記しているので、三春の歌となり例外とはなりません。

元資料の歌の作者は両歌とも伊勢であり、元資料の詞書では「花の宴せさせたまひ・・・いけにはなちれり」とあり、花の名は記されていません。『古今和歌集』の編纂者が1-1-44歌の初句を元資料と異なる表現に直し、1-1-43歌との配列順も元資料と逆にしてさらに詞書に花の名を明記して編纂者の意図を明確にしているのではないかと思います。

また、1-1-43歌から梅の散る歌がはじまっています。梅の香は残っているでしょうから、梅の香をも詠っている歌もこの後にはあります。

④ また、晩春の並びの例外かとみえる1-1-57歌は、詞書に従えば、晩春となり、並びの例外ではありません。

1-1-57歌の元資料において、時節を初春と推定した理由は、元資料の歌のなかで桜の香を詠むのはこの一首であり、1-1-57歌を別にして三代集でみてみると、梅の香を詠む歌が20首に対して、桜の香を詠む歌が実質1首であるのもその根拠です(付記4.参照)。

『友則集』の成立は『古今和歌集』成立後であり、1-1-57歌の元資料は不明として詞書なしの歌から時節を推定しました。(付記1の表の補注では略記したところです。)

1-1-57歌の元資料の歌における、「としふる」という感慨は桜の咲いている時点より新年を迎えた際の感慨と考えられ、これからも花が梅であると推測したところです。

そのような元資料の歌を、この1-1-57歌の詞書により、『古今和歌集』編纂者は桜を詠む歌にしたと思えます。三句「咲くらめど」に「桜」を物名として詠み込んでいると見立てていることを示唆しているのが『古今和歌集』の詞書です。作者は編纂者の一人であり、『古今和歌集』編纂途中亡くなった友則の歌であるので、何か理由があると思うがいまのところわかりません。

⑤ 次に、1-1-63歌は、元資料の歌と違って、1-1-62歌と対の歌として理解すべきことを『古今和歌集』編纂者は詞書で明確にしています。1-1-62歌の返歌である1-1-63歌の「花」は、1-1-62歌で詠う「桜花」と同じ花となります。また、雪の語句のある上句は反実仮想であり、明日は季節外れの雪が降りすぐ消えるであろう、の意です。このため、桜と雪を詠ったこの歌の時節は晩春となり、並びの例外ではありません。

 

⑥ しかし、時節の順を配列の基本とする立場にたつと、仲春から1-1-32歌において初春の歌に戻る説明ができません。しかも、1-1-32歌からの初春の歌は全て梅を詠む歌です。1-1-49歌以下の晩春の歌もすべて桜を詠む歌です。そしてうぐひすを詠む歌や植物を詠む歌もまとまって配列されています。さらに、春歌下の巻を用意しているのに、晩春の歌が春歌上に既に20首からあるように時節ごとの歌数を気にしていないようです。

 巻第一春歌上の最後の歌は、山里の桜は他の桜が散ってから咲いてほしいと詠っています。巻第二春歌下は、山桜の花が移ろいゆくのを詠う歌で始まります。そして、巻第二春歌下は、巻頭歌から、20数首が散る桜を詠むとなっています。振り返って巻第一春歌上の桜を詠う歌を確認すると散ると詠っている歌はありません。

このため、巻第四秋歌と同様に、配列の基本は、現代の季語相当の語句を、一定の方法によりを配列している、と理解できます。

⑦ 『古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分した歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示そうとしたのではないか。

その歌群は次のように見ることができます。

     立春の歌群 1-1-1~1-1-2

     雪とうぐひすの歌群 1-1-3~1-1-16

     わかなの歌群 1-1-17~1-1-22

     山野のみどりの歌群 1-1-23~1-1-27

     鳥の歌群 1-1-28~1-1-31

     香る梅の歌群 1-1-32~1-1-48

     咲き初め咲き盛る桜の歌群 1-1-49~1-1-63

     盛りを過ぎようとする桜の歌群 1-1-64~1-1-68

⑧ 因みに巻第二春歌下についてその歌群をおおよそ推定してみると、次のような1案が得られました。

     散る桜の歌群  1-1-69~ 

     色々な花がさかんな歌群  1-1-90~

     散る梅の歌群  1-1-105~

     その他ひろく花が散る歌群 1-1-111~

     山吹その他の花の歌群 1-1-118~

     春を惜しむ歌群 1-1-126~1-1-134

 

⑨ 今検討しようとしている類似歌1-1-34歌は、香る梅の歌群の三番目の歌です。この歌群での配列については次回検討したい、と思います。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、類似歌1-1-34を含む歌群の検討の後、類似歌と3-4-31歌との違いを中心に記します。

2018/10/1   上村 朋)

付記1.古今集巻第一春歌上の元資料の歌の判定表  <2018/10/1現在>

① 古今集巻第一春歌上に記載の歌の元資料の歌について、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第28歌その1 類似歌の歌集」(2018/9/3)の本文の「2.類似歌の検討その1 巻第四秋歌上の元資料の分析方法」に準じて判定を行った結果を、便宜上4表に分けて示す。

② 表の注記を記す。

1)歌番号等とは、「『新編国歌大観』記載の巻の番号―その巻での歌集番号―その歌集での歌番号」である。

2歌番号等欄の*印は、題しらずよみ人しらずの歌である。

3)季語については、『平井照敏NHK出版季寄せ』(2001)による。(付記2.参照)

4)視点1(時節)は原則季語により新年、初春、仲春、晩春、三春に区分した。

5)視点3(部立)は『古今和歌集』の部立による。

6()書きに、補足の語を記している。

7)《》印は、補注有りの意。補注は表4の下段に記した。

8)元資料不明の歌には、業平集、友則集、素性集及び遍照集の歌を含む。元資料の歌も『新編国歌大観』による。

表1 古今集巻第一春歌上の各歌の元資料の歌の推定その1 (2018/10/1 現在)

歌番号等

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

元資料と 視点2(詠われた場)

視点3(部立)

視点4 (作詠態度)

1-1-1

こぞ・ことし

新年(こぞ・ことしによる)

寛平御時中宮歌合(第3歌)

歌合 題は不明

知的遊戯強い 

1-1-2

春立つ

初春

元資料不明(貫之集に無し)

歌合・屏風歌b

知的遊戯強い(礼記月令の一節の翻案)

1-1-3*

はるかすみ

三春(雪は晩冬)

元資料不明

屏風歌b

知的遊戯強い

1-1-4

春(来)

うぐひす

初春(春来による)

元資料不明

下命の歌 《》

知的遊戯強い

1-1-5*

梅・うぐひす

初春(梅による)

催馬楽(呂歌 梅枝)

公務 《》

春&賀

知的遊戯強い

(うぐひすが雪のなかで鳴くのを詠う)

1-1-6

春た(てば)

花・うぐひす

初春(初句の「春たてば」による)

元資料不明(素性集にあり)《》

屏風歌b

知的遊戯強い

(うぐひすが雪のなかで鳴くのを詠う)

1-1-7*

(きへあへぬ)雪 花

晩冬(雪による)

元資料不明《》

挨拶歌

 

知的遊戯強い

(雪を花に見立てている)

1-1-8

春の日

(かしらの)雪

三春(春の日による)

元資料不明

下命の歌(古今集の具体的な詞書を信じる)

春&雑

知的遊戯強い

1-1-9

かすみ・はる

このめ

初春 (はるの雪(が)ふるにより初春とする)《》

元資料不明(貫之集に無し)

屏風歌b

春&賀

知的遊戯強い

 

1-1-10

春・花

うぐひす

初春(花は梅をいうので)

元資料不明

宴席の歌

知的遊戯強い

 

1-1-11

春(来ぬ)

うぐひす

初春(春来ぬによる)

忠岑集

下命の歌・挨拶歌

知的遊戯強い

(その詞書は「はるたちて、うぐひすのおそくなきしに」)

1-1-12

はつ花

(とくる)こほり

仲春(はつ花による)

寛平御時后宮歌合 (第2歌)

歌合

知的遊戯強い

(はつ花の植物名は歌合の配列より梅)

1-1-13

うぐひす

初春(花による)

寛平御時后宮歌合(第1歌)

歌合

知的遊戯強い

(香を詠う花は梅を言う)

1-1-14

うぐひす

春(くる)

初春(春くるによる)

寛平御時后宮歌合(第22歌)

歌合

知的遊戯強い

詩経小雅の詩句の翻案)

1-1-15

春(たつ)

花(もにほはぬ)・うぐひす

初春(春たつによる)

寛平御時后宮歌合(第17歌)

歌合

知的遊戯強い

(香を詠う花は梅を言う。)

1-1-16*

うぐひす

三春

元資料不明

宴席の歌 挨拶歌

春&恋

民衆歌・相聞歌

(鶯しか聞けないのは辛い)

 

表2 古今集巻第一春歌上の各歌の元資料の歌の推定その2 (2018/10/1 現在)

歌番号等

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

元資料と 視点2(詠われた場)

視点3(部立)

視点4 (作詠態度)

1-1-17*

わかくさ

(かすかの)なやきそ

初春(なやきそによる) 《》

元資料不明

宴席の歌

春&恋

民衆歌・相聞歌

1-1-18*

わかな

新年

元資料不明

宴席の歌・屏風歌b

民衆歌

1-1-19*

わかな

新年

元資料不明

宴席の歌

知的遊戯強い

1-1-20*

はるさめ

わかな

新年(わかなによる)

元資料不明

屏風歌b

知的遊戯強い

《技巧がさえる》

1-1-21

春のの

わかな

新年

元資料不明

挨拶歌

知的遊戯強い

1-1-22

わかな

新年

元資料不明(貫之集に無し)

下命の歌・屏風歌b

知的遊戯強い

1-1-23

はる

かすみ

三春

元資料不明

歌合か 《》

知的遊戯強い

1-1-24

まつのみどり

春(くる)

初春(春くるによる)

寛平御時后宮歌合(第39歌)

歌合

知的遊戯強い

 

1-1-25

はるさめ

(のべの)みどり

三春(はるさめによる

元資料不明(貫之集に無し)

下命の歌・屏風歌b

知的遊戯強い

 

1-1-26

あをやぎ

晩春(あをやぎと花による)

元資料不明(貫之集に無し)

下命の歌・屏風歌b

知的遊戯強い

1-1-27

(あさ)みどり

しらつゆ(三秋の季語)

晩春(柳による)

元資料不明(遍昭集にあり)

挨拶歌(僧侶訪問か) 屏風歌b

知的遊戯強い

 

1-1-28*

ももちどり

三春

元資料不明

宴席の歌

春&雑

知的遊戯強い

1-1-29*

無し

保留(よぶこどりが不明)《》

元資料不明

屏風歌b

春&雑

知的遊戯強い

(猿丸集の類似歌)

1-1-30

かりかへる

仲春(かりかへるによる)

躬恒集(第359歌)

外出歌・挨拶歌

春&雑

知的遊戯強い

1-1-31

はるがすみ

(みすててゆく)かり

仲春(みすててゆくかりによる)

伊勢集(第303歌)

挨拶歌(伊勢集の詞書を信じる)

知的遊戯強い

(ここでの花は桜に限らず春に咲く花を言う)

 

表3 古今集巻第一春歌上の各歌の元資料の歌の推定その3 (2018/10/1 現在)

歌番号等

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

元資料と 視点2(詠われた場)

視点3(部立)

視点4 (作詠態度)

1-1-32*

 

うぐひす

初春(梅による)

元資料不明

屏風歌b

知的遊戯強い

(梅の香を詠う)

1-1-33*

うめ

初春

元資料不明

屏風歌b

知的遊戯強い

(梅の香を詠う)

1-1-34*

梅(の花)

初春

元資料不明

挨拶歌・相聞

春&恋

知的遊戯強い

(梅の香を詠う。猿丸集の類似歌)

1-1-35*

梅(の花)

初春

元資料不明

挨拶歌・相聞

春&恋

知的遊戯強い

(梅の香を詠う)

1-1-36

うぐひす

梅(の花)

初春(梅による)

元資料不明

宴席の歌

知的遊戯強い

(古今集1081歌のパロディ)

1-1-37

梅(の花)

初春

元資料不明(素性集に詞書あり)

挨拶歌

知的遊戯強い

(梅の香を詠う)

1-1-38

梅(の花)

初春

元資料不明(友則集第3歌)

挨拶歌

知的遊戯強い

(梅の香を詠う)

1-1-39

梅(の花)

初春(梅による)

元資料不明(貫之集に無し)

屏風歌b

知的遊戯強い

(梅の香を詠う)

1-1-40

月夜

梅(の花)

初春(梅による)

躬恒集(第360歌)

挨拶歌

知的遊戯強い

(梅の香を詠う)

1-1-41

春の夜

梅(の花)

初春(梅による)

元資料不明(躬恒集に無し)

挨拶歌・宴席の歌

知的遊戯強い

(梅の香を詠う)

1-1-42

初春(貫之集の詞書によれば花は梅を言う)

貫之集(814歌)

挨拶歌

春&雑

知的遊戯強い

(梅の香を詠う。)

1-1-43

春・花

晩春(花による)

伊勢集(第98歌)

下命の歌

知的遊戯強い

(花は桜)

1-1-44

晩春

伊勢集(第97歌)

下命の歌

知的遊戯強い

(花は桜)《》

1-1-45

梅(のはな)

初春

元資料不明(貫之集になし)

挨拶歌

春&恋

知的遊戯強い

古今集の詞書は編纂者がつけたもの)

1-1-46

初春

寛平御時后宮歌合(第35歌)

歌合

知的遊戯強い

(梅の香を詠う)

1-1-47

梅(の花)

初春

寛平御時后宮歌合(第3歌)

歌合

知的遊戯強い

(梅の香を詠う)

1-1-48*

梅(の花)

初春

元資料不明

宴席の歌(相聞の歌)

春&恋

民衆歌・相聞歌

(梅の香を詠う)

 

   

表4 古今集巻第一春歌上の各歌の元資料の歌の推定その4 (2018/10/1 現在)

歌番号等

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

元資料と 視点2(詠われた場)

視点3(部立)

視点4 (作詠態度)

1-1-49

春・さくら

 

晩春(桜による)

元資料不明(貫之集になし)

屏風歌b・賀の歌《》

知的遊戯強い

《》

1-1-50*

さくら(花)

晩春

元資料不明

保留 《》

知的遊戯強い

(猿丸集の類似歌)

1-1-51*

山桜

はるかすみ

晩春

元資料不明

屏風歌b

知的遊戯強い

1-1-52

晩春

元資料不明

下命の歌

春&雑

知的遊戯強い

1-1-53

さくら

晩春

元資料不明(業平集は古今集以後成立)

下命の歌

知的遊戯強い

1-1-54*

さくら

晩春(さくらによる) 《》

元資料不明

外出歌

知的遊戯強い

(猿丸集の類似歌)

1-1-55

さくら

晩春

元資料不明(素性集第8歌)

外出歌

知的遊戯強い

1-1-56

やなぎ

さくら

晩春

元資料不明(素性集第9歌)

外出歌

知的遊戯強い

1-1-57

無し

初春 《》

元資料不明(友則集第4歌)

宴席の歌

春&雑

知的遊戯強い

(語句に異同あり)《》)

1-1-58

はるかすみ

さくら

晩春

元資料不明(貫之集になし)

挨拶歌

知的遊戯強い

(贈られた花の御礼の歌)

1-1-59

さくら

晩春

元資料不明(貫之集になし)

下命の歌・屏風歌b

知的遊戯強い

 

1-1-60

さくら

晩春(さくらによる)

歌合寛平御時中宮歌合(第4歌)

歌合

知的遊戯強い

 

1-1-61

さくら

晩春

伊勢集(225歌)

挨拶歌

知的遊戯強い

 

1-1-62

さくら

晩春

元資料不明(業平集にあり)

挨拶歌・相聞歌

春&恋

知的遊戯強い

 

1-1-63

晩冬(雪による)

元資料不明

挨拶歌

知的遊戯強い 《》

 

1-1-64*

さくら

晩春

元資料不明

宴席の歌(相聞歌)

春&恋

民衆歌 相聞歌

1-1-65*

さくら

晩春

元資料不明

屏風歌b 相聞歌

春&恋

民衆歌 相聞歌

(猿丸集の類似歌)

1-1-66

晩春

元資料不明

挨拶歌 相聞

春&恋

知的遊戯強い

 

1-1-67

花見

晩春

躬恒集(368歌)

挨拶歌

知的遊戯強い

 

1-1-68

さくら

晩春

伊勢集(104歌 亭子院歌合になし)

歌合

知的遊戯強い

 

補注

1-1-1歌:「こぞ」と「ことし」の二語で季語を成している、とみて、時節は新年とする。》

1-1-4歌:后の歌という古今集の詞書は元資料の詞書であったと信じ、下命の歌とする

1-1-5歌~1-1-7歌:梅の香を詠ってない点が1-1-32歌以下の歌と異なる。また1-1-5歌は催馬楽なので公の式典の際演奏されている。》

1-1-7歌:元資料の詞書不明。○句にある「みゆらむ」により、折り取って手元に来た枝への賛歌とみて、挨拶歌とする。》

1-1-9歌:春歌の9番目であり、このめ(仲春)より雪を重視し、時節は初春とする。》

1-1-17歌:かすがのを焼くのは、奈良の山焼きを指しており、これにより時節は初春とする。》

1-1-23: 作者は正三位民部卿になった人。<要再確認2018/9/16>専門歌人ではないので屏風歌bは無し

1-1-29歌:猿丸集の類似歌であり、時節は3-4-49歌の検討まで保留する。》

1-1-44歌:元資料の伊勢集の初句は「としごとに」。編纂者が1-1-43歌との重複を避けて「年をへて」と替えたか。また、古今集において花を梅の花とした詞書は古今集編纂者の意志か。1-1-43歌と1-1-44歌の前後の歌は「梅」を歌に詠み込んでいるがこの両歌は「花」。》

1-1-49: 賀の部立は契沖の説より。古今集の詞書は編纂者が与えたもの。》

1-1-50歌:猿丸集の類似歌であり、詠われた場の推定は3-4-32歌の検討まで保留する。》

1-1-54歌:貫之集に春の屏風歌として滝を詠んでいる1首がある(3-19-280歌)。さくらにより時節は晩春とする。》

1-1-57歌:季語からは保留となるが、初句「色も香も」により桜ではなく梅を詠うとみて、時節は初春。また友則集二句「むかしながらに」→古今集「おなじ昔に」。》

1-1-63歌:雪と花とを詠うので、花は梅。なお、古今集では62歌と63歌を対の歌としているが元資料が同一とする資料が無く、異なる資料としてそれぞれ単独の歌と理解した。》

(補注終り)

 

付記2俳句での春と新年の季語(季題)について

① 『平井照敏NHK出版季寄せ』(2001)は、春の季語を春(立春から立夏の前日まで)の全体にわたる季題(三春)と、季の移り変わりにより初仲晩に分かれる季題に分類している。別に新年の部類を設けている。

② 三春に、「(春・朝)かすみ、春(べ)、春(の日・の月・の野)、春雨、うぐひす、ももちどり、春の鹿、東風、おぼろ月、摘み草」等を示している。  

初春に、「春立つ、春来、梅、奈良の山焼き(お山焼き・嫩(わか)草山焼き)、野焼く」等を示している。

仲春に、「紅梅、木の芽、初花、初桜、辛夷(こぶし)、鳥かへる、かへるかり」等を示している。

晩春に、「花、花の陰、月の花、(山・八重・里)桜、花の雪、桃の花、わかくさ、(青)柳、若緑(松の新芽を言う)、松のみどり、緑立つ、藤、山吹、つつじ、花見」等を示している。

③ 新年に、「こぞことし、新年、初春、若菜(冬の七草をいう)、若菜野(七草の生えている野をいう)、七種(粥)、初比東風」等を示している。

④ なお、「(けさ)の雪、氷、雪あかり」を晩冬の季語とし、

「緑、新緑、若葉、葉柳、夏柳、葉桜、卯の花、」は初夏の、「花橘、柿の花」は仲夏の、「橘、かぐのみ」は晩夏の、「青葉、滝、涼し」は三夏の季語としており、

「よぶこどり」は季語としていない。

⑤ これは、現代における認識である。『古今和歌集』巻第三夏歌の巻頭歌は、藤とホトトギスを詠い、二首目には卯月に咲いた桜を詠っている。

付記3.現代と当時の季語の時節の違いの例

① 現代の季語の「わかな」は、七草のことだが、『古今和歌集』の編纂者の時代は春の野に芽をだす草とその花を広く言い、時節は初春がふさわしい。

例1:1-1-21歌の元資料の歌は、「わかなつむ」と「雪はふりつつ」を同時に詠んでいる。

2:巻第二春歌下にある1-1-116歌の元資料の歌では、「わかな」と「散る花」を同時に詠んでいる。

  5-4-8歌   寛平御時后宮歌合  春歌廿番

   春の野に若菜つまむとこし我を散りかふ花に道はまどひぬ

② 現代の季語の「花」は桜のことであるが、梅も「花」と略して詠っている。そのほか花の場合もある。

31-1-12歌は本文で指摘した。1-1-42歌は、梅の香を詠う歌の間にあり、元資料の貫之集での詞書によれば梅を指して用いている。

4: 「わかな」の例にあげた1-1-116歌の元資料の歌において、花の名の候補に桜が有力となると、現代の季語の整理では桜は晩春となる。木に咲く花で「散りかふ」と形容できる花には、つつじや桃の花(ともに晩春)や辛夷(こぶし、仲春)などがある。しかし梅は、当時山野に自生していたのであろうか。

51-1-63歌と1-1-62歌が、元資料の歌と違って詞書により対の歌となっている。これは、梅の木の花も桜の木の花もその他の木の花も、略称として花ということに当時違和感がなかったから、編纂者が対の歌と出来たところである。また、1-1-62歌は歌に「桜花」とあるので、詞書は「ひさしく・・・」のみで十分対句として理解できるところ、詞書において「さくらのはなのさかりに」と条件を付している。1-1-62歌の元資料歌は「桜花」ではなく「梅の花」と詠んでいたのであろうか。元資料において対句とすでになっていたとすると、1-1-6歌や1-1-7歌を念頭に、対句の花は梅として理解が可能である。

 

付記4.三代集で梅の香または桜の香を詠む歌

① 句頭に「はなのいろ」、「かをだにぬすめ」、「はなのか」、「にほひ」、「にほふ」とある歌を検索した。

②『古今和歌集』では、1-1-57歌を別にして梅の香と詠む歌が、1-1-13歌、1-1-33歌、1-1-34歌、1-1-35歌、1-1-37歌、1-1-38歌、1-1-40歌、1-1-41歌、1-1-42歌、1-1-46歌、1-1-48歌、1-1-335歌の12首あり、梅が匂ふと詠む歌が、1-1-15歌、1-1-32歌、1-1-39歌、1-1-47歌の4首ある。

桜の香を詠む歌が、春歌としての1-1-91歌の1首のみ。1-1-91歌の詞書は「はるのうたとてよめる」と記され、歌での現代の季語は「花、かすみ、春(の山かぜ)」であり、「かすみ」に隠れる花ということで庭木である梅とは違う「桜」の香を詠む歌と判断できる。

② 『後撰和歌集』の春歌には、梅の香と詠む歌が、1-2-27歌、1-2-29歌、1-2-31歌、1-2-44歌の4首あり、梅が匂ふと詠む歌が、1-2-17歌、1-2-28歌、1-2-39歌の3首ある。

桜が匂ふと詠む歌が、12-68歌、1-2-69歌、1-2-106歌、1-2-116歌の4首あり、桜の香と詠む歌は1-1-91歌を本歌とした1-2-73歌の1首ある。

③ 『拾遺和歌集』の春歌には、梅の香と詠む歌が、1-3-14歌、1-3-16歌、1-3-17歌、1-3-27歌、1-3-30歌の5首、梅が匂ふと詠む歌が、1-3-31歌の1首ある。

 桜が匂ふと詠む歌が、1-3-40歌の1首ある。

(付記終り 2019/10/1 上村朋)

 

わかたんかこれ 猿丸集第30歌 物はおもはじ

前回(2018/9/17)、 「猿丸集第29歌 ゆづかあらため」と題して記しました。

今回、「猿丸集第30歌 物はおもはじ」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第30 3-4-30歌とその類似歌

① 『猿丸集』の30番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-30歌 (詞書なし 3-4-29歌の詞書をうける)

あらちをのかるやのさきにたつしかもいとわがごとく物はおもはじ

 

類似歌 類似歌は2首あります。

  a 『人丸集』 柿本集下 3-1-216  (詞書無し)

     あらちをのかるやのさきにたつしかもいとわがごとにものはおもはじ (四句いとわればかり、(とも))

 

  b 拾遺和歌集』 巻第十五 恋五  1-3-954歌。「題しらず 人まろ」  

     あらちをのかるやのさきに立つしかもいと我ばかり物はおもはじ

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、四句の数文字と、詞書が、異なります。

③ この歌と類似歌とでは、趣旨が違う歌です。この歌は、詞書にいう「おとづれたりける」男を、改めて信頼していると、表明した歌であり。これに対して、類似歌は、受け入れてくれなかった男に作者はまだ不安がある歌です。

 

2.類似歌の検討その1 『人丸集』の配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。『人丸集』歌から検討します。

類似歌a3-1-216歌は 『人丸集』の「柿本集下」にあるです。「柿本集下」は詞書の無い3-1-65歌からはじまり、3-1-172歌と3-1-178歌と3-1-221歌の前に詞書があり、「せむどう歌」の部類(3-1-228歌~)、長い詞書のある歌群(3-1-236歌~)で終ります。

このため、記載の少ない詞書からの検討は割愛し、各歌の配列そのものから特徴を検討します。

類似歌a3-1-216歌の前後5首づつ抜きだすと、次のような歌です。この11首の歌には、『萬葉集』や三代集に類似歌がある歌があります。『萬葉集』には「柿本朝臣人麿歌集に出づ」と左注されている歌もあります。その類似歌の歌番号を歌の次の( )内に記します。

3-1-211歌 さざなみやしがのからさききたれども<さちはあれど>大宮人のふねまちかねつ

    (2-1-30歌)

3-1-212歌 あしひきの山どりのをのしだりをのながながし夜をひとりかもねん

    (2-1-2813歌)

3-1-213歌 ちはやぶる神のたもてる命をもたがためと思ふわれならなくに

    (2-1-2420歌)

3-1-214歌 あじろぎのしらなみよりてせかませばながるる水ものどけからまし

3-1-215歌 しらなみはたてど衣にかさならずあかしもすまもおのがうらうら

     (1-3-477歌)

3-1-216歌 (類似歌a)

     (1-3-954(類似歌b)

3-1-217歌 ほのぼのとあかしの浦の朝ぎりに島がくれゆく舟をしぞ思ふ

     (1-1-409歌)

3-1-218歌 なるかみのおとにのみきくまきもくのひばらの山をけふみつるかな

     (2-1-1096歌 1-3-490歌)

3-1-219歌 いにしへにありけん人もわがことやみわのひばらにかざしをりけん

     (2-1-1122歌 1-3-491歌)

3-1-220歌 よそにして<あり>雲ゐにみゆるいもがいへにはやくいたらんあゆめくろこま

     (2-1-1275歌  2-1-3460歌)

3-1-221歌  さるさはのいけに身をなげたるうねべをみてよめる

   わぎもこがねくたれがみをさるさはの池のたまもとみるぞかなしき

     (1-3-1289歌)

② この11首の前後の歌は、あきらかに相聞の歌が並んでいます。類似歌の歌集における部立や詞書も参考にして11首を検討すると、次のとおり。

3-1-211歌:『萬葉集』では、「過近江荒都時、柿本朝臣人麻呂作歌」という詞書のもとの反歌であり、往時の大宮人を哀傷している歌となっている。この歌も同じ趣旨である。あるいは3-1-210歌までが相聞の歌であるので、相聞の歌として単に逢えない人を思う歌であるかもしれない。

3-1-212歌:相聞の歌。『萬葉集』では、寄鳥陳思の歌で、独り寝を歌うが、悶々と夜を明かしたと詠う2-1-2812歌の「或本歌云」であるので、相聞歌である。

3-1-213歌:相聞の歌。 『萬葉集』でも寄神祇陳思の歌で相聞歌。

3-1-214歌 相聞の歌。「のどけからまし」と詠う歌は『萬葉集』に無く、三代集で1-1-53歌と1-3-496歌のみ。 

3-1-215歌:『人丸集』の配列では、相聞歌の間にある。思いのままにならぬことを詠うので、相聞の歌か。 『拾遺和歌集』の部立は雑上で、羈旅の部立ではない。

3-1-216歌 (類似歌a) 保留

3-1-217歌:『人丸集』の配列では、相聞歌の間にある。舟は港から出て行ったと詠うのは、別れの歌ともとれる。 『古今和歌集』の部立は羈旅。

3-1-218歌:『人丸集』の配列では、相聞歌の間にある。初めて逢えた喜びを詠う相聞の歌か。 『萬葉集』では雑歌で詞書は「詠山」。『拾遺和歌集』の部立は雑上で、詞書は「詠山」。

3-1-219歌:『人丸集』の配列では、相聞歌の間にある。亡き妻を思う歌か(『増訂万葉集全註釈』(武田祐吉氏)。 『萬葉集』では雑歌で詞書は「詠葉」。『拾遺和歌集』の部立は雑上で、詞書は「詠葉」。

3-1-220歌:『人丸集』では、相聞歌。『萬葉集』では雑歌で詞書は「行路」。『拾遺和歌集』の部立は雑上。 

3-1-221歌 挽歌。『拾遺和歌集』での部立は哀傷であり、同様な詞書があります。

③ 次に、この11首において共通の語句から配列を検討します。

 共通の語句を用いて並んでいる歌は2組だけです。

 「しらなみ」が共通語の3-1-214歌と3-1-215歌は、歌意が異なります。「ひばら」が共通語の3-1-218歌と3-1-219歌も、歌意が異なります。11首の間では特段の特徴はありません。

 

④ このように、これらの歌は、組合せて一組と見做せる歌は無なく、互いに独立した歌である、と思います。また、類似歌a3-1-216歌を保留すると3-1-212歌以下3-1-220歌まですべてが相聞歌であるかもしれません。

⑤ なお、『新編国歌大観』の『人丸集』の底本は、宮内庁書陵部蔵の『柿本人麿集(506295)』です。この底本には、平安中期以後に付加されたことが明らかな国名を読み込んだ歌が66首あります。『新編国歌大観』の解題では、「(この歌集は、)他人歌を含み、成立は複雑である。平安時代における人麿理解のありようとかかわっている。柿本人麿は、生歿年未詳の持統・文武朝に仕えた宮廷歌人平安時代になると実像から離れた歌聖になってゆく。人麿の歌として作詠時点の明かなのは、持統天皇3(689)から文武天皇4(700)まで。奈良時代以前の和歌の平安時代における伝承と享受の実態をさぐるための貴重な資料である」、と解説しています。

 今は、『人丸集』の成立事情に拘らず『猿丸集』の編纂者が参考とし得る歌集の一つとして検討を続けます。

 

3.類似歌の検討 その2 拾遺和歌集』の配列から

① 次に、類似歌b1-3-954は、拾遺和歌集』巻第十五 恋五(925~999)にあります。

この歌の前後の歌の詞書はつぎのようです。

1-3-925歌 善祐法師ながされ侍りける時、母のいひつかはしける

1-3-926歌 題しらず   (以下940歌まで)

1-3-941歌 女につかはしける

1-3-942歌 題しらず  (以下949歌まで)

1-3-950歌 ものいひ侍りける女の、のちにつれなく侍りて、さらにあはず侍りければ

1-3-951歌 題しらず  (以下962歌まで)

1-3-963歌 女のもとにまかりけるを、もとのめのせいし侍りければ

1-3-964歌 題しらず  (以下970歌まで)

 このように具体的な詞書がある一首に続き題しらずの歌が何首もあります。題しらずの歌には個人の作者名のあるのもあります。具体的な詞書のある歌とそのあとの題しらずの歌でひとつの歌群とみなせるかどうかを検討します。

② 恋五の巻頭歌の詞書から、題しらずを除いた詞書をつなげると、

母とその息子との間の歌(この歌群は母子ではなく男女の相聞歌と諸氏が指摘しています)につづき、

歌を「女につかは」し、その後その女に「あはず侍りければ」とて歌をおくり、

その女のもとにまた通えるようになって、「もと(もと)のめにせい」せられたときの歌、

を順に配置した、と推理することができます。このような推論が、恋の部全体にも同様に当てはまらなるかどうかは確かめていませんが、少なくとも「具体的な詞書がある一首に続く題しらずの歌すべて」で一つの歌群である可能性は、五巻に限っては指摘できます。

③ 『拾遺和歌集』の構成については、小池博明氏が、『新典社研究叢書 拾遺集の構成』(1996)において、恋部の構成を論じています。氏は、「時間の推移(一方向に時間軸に沿ってすすむ)というよりも段階的推移(質的変化・進行後退等のステップ)によっている」と論考しています。そして、恋五は、「いくつかの歌群があり、第一の歌群は相思だが逢えない(巻頭歌)段階から離別の段階に至る925~962で構成され、1-3-948歌からは離別の段階の歌となっている(離別の段階から次のステップ(絶縁の段階)に入ったと思われる歌がない)」と、論考し、「3-1-952歌は「あふことのなし」といいかけており関係途絶を恋愛主体が認識していることがわかる」と指摘しています。

恋五は、恋の部のまとめを担っているので、「(結局みのらなかった)恋の遍歴の完了を詠む恋五巻軸歌で全体をまとめている。これは、恋の一回性、つまり多数の恋を経験しても、同じような恋は二つとない、といった恋の性格に即応した構成である」と指摘しています。

④ この論は、『拾遺和歌集』の元資料の歌を、『古今和歌集』の編纂者と同じように、『拾遺和歌集』編纂の素材として扱っている、と見ています。特定の男と女が歌を交わしたと思われる対の歌を並べることはせず、恋の段階に相当する歌を集めて配列している、とみなしています。

 たしかに、1-3-948歌は疎遠の歌ではなく相手の心変わりを読んでおり、1-3-947歌までとは異なります。

 『拾遺和歌集』の構成については、小池氏の論のほうが、上記②の推理より妥当に思われます。

⑤ それを、確かめます。類似歌bの前後の歌の配列から検討します。 

小池氏は、題しらずの歌1-3-948歌から離別の段階になるとしていますが、題しらずの歌の並ぶ途中の歌です。詞書でその離別の段階を確認できるのは1-3-950歌の詞書です。この歌から次の詞書のある歌までを挙げると、次のとおり。

1-3-950  ものいひ侍りける女の、のちにつれなく侍りて、さらにあはず侍りければ  一条摂政

   あはれともいふべき人はおもほえで身のいたづらに成りぬべきかな

 

1-3-951  題しらず                       伊勢

  さもこそはあひ見むことのかたからめわすれずとだにいふ人のなき

 

1-3-952  題しらず                       藤原 有時

あふことのなげきの本をたづぬればひとりねよりぞおひはじめける

 

1-3-953  題しらず                       つらゆき

おほかたのわが身ひとつのうきからになべての世をも怨みつるかな

1-3-954  題しらず                       人まろ

あらちをのかるやのさきにたつしかもいと我ばかり物はおもはじ

1-3-955  題しらず                       人まろ

荒磯の外ゆく浪の外心我はおもはじこひはしぬとも

1-3-956  題しらず                       人まろ

かきくもり雨ふる河のささらなみまなくもひとのこひらるるかな

1-3-957  題しらず                       人まろ

わがことや雲の中にも思ふらむ雨もなみだもふりにこそふれ

1-3-958  題しらず                       つらゆき

   ふる雨にいでてもぬれぬわがそでのかげにゐながらひちまさるかな

1-3-959  題しらず                       よみ人しらず

  これをだにかきぞわづらふ雨とふる涙をのごふいとまなければ 

1-3-960  題しらず                       よみ人しらず

君こふる我もひさしくなりぬれば袖に涙もふりぬべらなり

1-3-961  題しらず                       よみ人しらず

きみこふる涙のかかる袖のうらはいはほなりともくちぞしぬべき

1-3-962  題しらず                       よみ人しらず

まだしらぬおもひにもゆるわが身かなさるはなみだの河の中にて

 

和歌にある語句で、隣り合う歌に共通のものがある歌があります。(付記1.参照)

  しかし、類似歌b1-3-954歌には、前歌とは共通の語句がなく、1-3-955歌とは「あら」(接頭語か)を共有していますが、この歌には前後の歌に登場しない動物(鹿)が登場します。このため、共通の語句の有無から言えば、1-3-954歌は、前後の歌とは独立している歌(対となる歌がない歌)といえます。(各歌の検討は下記5.に譲ります。)

 

4.類似歌の検討その3 現代語訳の例 

① 類似歌a 3-1-216歌について、諸氏の現代語訳の例を示します。

     「荒々しい狩人が向けた矢の前に立つ鹿でも、まったく私ほどに物思いをすることはあるまいよ。」( 『和歌文学大系17』の「人丸集」(阿蘇氏担当)288歌)

     「勇ましい男の狩をする矢の前の先に立つ不安な鹿も、それほどひどく私のようには物思いをしないだろう。」(『私歌集全釈叢書34 人麿集全釈』(島田良二氏))

② 阿蘇氏の訳は、四句が「いとわがごとく」となっている歌の訳です。氏は、狩人の前に立つ鹿と比較して我が恋の辛さをあらわす、と理解しています。

 島田氏の訳は、五句が1.に記した歌と同じです。「伝承歌の人麿歌を採った『拾遺和歌集』から人麿集は採ったと考えられる」、また「かるや」とは、「狩をし、射る矢」と、氏は説明しています。作者の恋の辛さの比喩が鹿の状況であるのは阿蘇氏と同じです。 また、五句にある「おもはじ」の助動詞「じ」は、作者ではなく鹿の思いについて推量しているのも同じです。

③ 次に、類似歌b 1-3-954歌について、諸氏の現代語訳の例を示します。

     荒々しくたくましい男の狩をする矢の前に立っている鹿も、まったく私ほどは物思いをするまい。(『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』(小町谷照彦校注1990

④ 小町谷氏は、「矢の前に立つ鹿に、恋の物思いをする自分をよそえる。」と指摘しています。また積極的に前後の歌との連携があるとの主張を954歌についてはしていません。

⑤ 句頭に「あらちを」表記のある歌は、『萬葉集』にありません。句頭に「たつしか」を表記した歌もありません。『古今和歌集』にも同様です。

「あらちを」は、「「荒らしを」の転というが、古く他に例がない」(『和歌文学大系32 拾遺和歌集』(増田繁夫))等語の成り立ちに論がありますが、諸氏は雄々しい男・勇壮な男の意としています。

上句は下句の序詞とした訳です。この訳では、作者は女のようです。

⑥ 3-1-216歌の現代語訳は、不安な気持ちを訳に示している島田氏の訳を採り、1-3-954歌は、小池氏の立場で現代語訳を試みることとします。

 

5.類似歌b 1-3-954歌のある歌の一団  現代語訳の例あるいは試み 

① 小池氏の論により各歌が説明できるかを、確認します。

小池氏は、「相思だが逢えない(巻頭歌)段階から離別の段階に至る925~962」を一つの歌群と捉え、1-3-948歌からは離別の段階の歌としています。離別の段階を歌意ではなく詞書で確認できるのは1-3-950歌の詞書であり、再掲すると次のとおり。

 ものいひ侍りける女の、のちにつれなく侍りて、さらにあはず侍りければ  

② 「ものいふ」とは「物いふ」であり、「もの」とは、個別の事物を直接明示しないで一般化していう言い方であり、ここでの「ものいふ」は、「(異性に)情を通わせる」の意であり、「ものいひ侍りける女」とは、当時の貴族の常として、一夫多妻の妻のひとりとして処遇して夫婦(通い婚のスタイル)となっていた女性、という意です。ただし、正妻ではありません。

 作者と女との関係は、「・・・けり」と過去回想の助動詞を用いた詞書なので、一旦離別状態になったと作者が認めている段階です。

③ 詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 契りを交わした女が、その後私に情を示さないようになり、さらには、逢うこともしなくなったので(送った歌)

 この詞書のある歌から以下の題しらずの歌の現代語訳を、試みます。

歌は、上記3.⑤に記載してあります。

⑤ 最初の歌、1-3-950歌を試みます。 作者は、一条摂政藤原伊尹)であり、この歌は、『一条摂政御集』にある(但し詞書が異なる。付記2.参照)ほか、小倉百人一首にある歌です。『例解古語辞典』の付録の「百人一首」に歌意を次のように記しています。この辞典は、小倉百人一首について、「王朝秀歌の集大成で、その構築する意味世界は、多重的で奥行きが深く、広がりに富むところを、おさえていく努力を惜しまないことが大切である」、としています。

 「いたわしい、気の毒だと、当然言ってくれそうな人が、だれでも一人はいるものだが、わたしには思い浮かばず、このままきっとだめになってしまうでしょうよ。」

 四句の「身のいたづらに」なるとは、ここでは、せっかくあたえられた生を生き抜くこともできず、途中で死ぬこと、の意と説明があります。そして『拾遺和歌集』での詞書と『一条摂政御集』での詞書と同書にある返歌などを踏まえれば、想を練った作という面もある。女心を動かさずにはおかないような作者の感傷が流れている歌である、と解説しています。

拾遺和歌集』での詞書のもとの歌として理解しても、寄りを戻したい男の歌として、この歌意は妥当である、と思います。(小倉百人一首の歌と『拾遺和歌集』の歌は、清濁抜きの平仮名表記はまったく同じです。)

⑥ 1-3-951歌を試みます。作者は伊勢です。小町谷氏等の訳を参考に現代語訳を試みます。

 「そのように言われても、逢い見ることはむずかしいでしょうよ。せめて忘れることはない、とだけでも、言って寄こしてくれる人もいない私であれば。」

 初句にある「さもこそは」を歌に用いた最初の歌人は伊勢であったと竹鼻氏は指摘しています(『拾遺抄注釈』345歌補説)。

この歌は、逢うことを拒絶しており、作者はすでに離別してしまったと認識しています。1-3-950歌の返歌と理解するには下句が唐突です。

⑦ 1-3-952歌については、小町谷氏の訳を参考に現代語訳を試みます。

 「あいたい、だがあえないという嘆きの原因を尋ねてみると、「投げ木」と同音の「(「逢うことの無くて)嘆く木」という木の根元の独り寝という根から育っていたよ。」

 この歌は、疎遠の段階の歌か離別が決定的であることを作者は認識していると理解できます。なお、「投げ木」とは、火に投げ入れて薪とする雑木だそうです。

⑧ 1-3-953歌の現代語訳は、小町谷氏の訳を採ります。

 「相手に思われないのも忘れられるのも、よく考えてみれば、あらゆることは皆我が身が招いた不運、それなのにすべて世の中の所為にして恨んできたことだ。」

 この歌は、離別に至ったことを認めているか、(1-3-950歌と比較するならば)再度のアプローチとして同情を引こうとしているのかのどちらかです。

小池氏は、この歌以降歌から関係の断絶を明瞭に読みとれないが、離別を明確にした歌のあとに位置していることと、次のステップ(絶縁)の歌とも取れないので、離別の段階の歌である、と論じています。

⑨ 1-3-954歌は、類似歌bですので、後ほど現代語訳を試みます。 

⑩ 1-3-955歌について、小町谷氏の現代語訳を示します。

 「荒磯の「ほか」、外へ越えて去ってゆく波のように、「ほか心」、外の人に関心を寄せるような浮ついた心は、私は思うまい、たとえ恋死をしようとも」 (一途に愛情を誓う歌)

 この歌には、類似歌が『萬葉集』にあります。

 2-1-2438歌  寄物陳思   (萬葉集第十一 古今相聞往来歌類之上)

ありそこし ほかゆくなみの ほかごころ あれはおもはじ こひてしぬとも

 現代語訳の例を示すと、

「荒磯を越えて あらぬ方(かた)に去る波のような あだな心を わたしは持っていません たとい恋死にしても」(『新編日本古典文学全集8 万葉集』)

 初句と二句は、三句の「外心」を起こす比喩の序であり、「外心」とは、「特定の人以外の人を愛するよこしまな心。浮気な心。」と説明しています。

 作者が離別を認識していて送った歌とすると、現代ならばそれでもメールをしまくる、というような感じで、ストーカーととられかねません。

⑪ 1-3-956歌にも、 『萬葉集』に類似歌があります。

類似歌2-1-3026歌   寄物陳思   (萬葉集第十二 古今相聞往来歌類之下)

 とのぐもり あめふるかはの さざれなみ まなくもきみは おもほゆるかな

 この歌は、1-3-957歌とともに「あめふる」と詠んでいます。離別を認識しての作者の涙か、単に疎遠となっているための涙か分かりませんが、つぎの1-3-958歌の前にある歌であり、この並びから言えば、前者になります。(この2首の現代語訳は割愛します。)

⑫ 1-1-958歌は、『貫之集』に類似歌があります(貫之集五恋 3-19-647歌 詞書無し)。

   ふる雨に出でてもぬれぬわが袖のかげにゐながらひちまさるかな

土佐日記貫之集』(新潮日本古典集成第80 1988 校注木村正中氏)の訳は、次のとおり。

 「降る雨に出てもあまり濡れない私の袖が、雨のかからない物陰にいながら、恋の涙のためには、ますます濡れてくるのだなあ。」

 四句「かげにゐながら」とは、「保護者のもとに苦労もない身の意を兼ねるか。女の立場となれば、男の保護を受けながら、なおさびしい女心に通じよう」と木村氏は論じています。

 専門歌人である貫之は、誰のためにこの歌を詠んだのでしょうか。内容からは、屏風歌とは思えないし、女の立場の歌なので、貫之自身が実際に相手に送った歌とも思えません。可能性は歌合か代作です。親どもに押し込められた女に男が送った歌が、『猿丸集』の歌3-4-22歌~3-4-26歌にありました。その返歌に相当するような歌がこの歌です。

 二句「出でてもぬれぬ」の「出づ」は、外出の意です。貴族の娘であれば、牛車の使用を念頭においてよいと思います。だから、雨が降っていようと貴族は外出にあたり雨に濡れる心配はありません。

 四句にある「かげ」は、「物陰、さえぎられて見えないところ」の意です。

 五句にある「ひちまさる」は、「漬ち増さる」であり、よけいひどく濡れる、の意です。

 現代語訳を試みると、次のとおり。三句切れの歌です。

 「空より降る雨には、外出してもわが袖はぬれません(そのような生活をしている)私が、今、遮られて見えないところに押し込められていて、わが袖はぬれにぬれるのですよ、貴方をお慕いして。」

 これは『貫之集』歌に対する現代語訳(試案)です。作中人物は、離別を覚悟しているかどうか不明です。

拾遺和歌集』の歌は、小池氏の論に従えば、強制的に別れさせられた女の、離別を認識している歌と理解することが可能であり、この(試案)でも良い、と思います。

また、1-3-958歌は便りをしようとしており、絶縁となったとの認識は作者にないでしょう。

⑬ 1-3-959歌から1-3-962歌は、涙を詠んでいます。涙で袖を濡らすのは、離別を不承不承でも承知した歌であると言えるかもしれません。しかし、1-3-962歌は、「思ひ」という火のなかで涙しており、離別を作者が認知していても諦めていません。

⑭ このように各歌をみてくると、離別を認識している作者の歌が続いており、小池氏の論が成立しています。

 

6.類似歌の検討その4 類似歌b 1-3-954歌の現代語訳の試み 

① ここまでの検討を踏まえ、詞書が「題しらず」ですが小松氏のいう離別の段階の歌として、現代語訳を試みます。

② 初句の「あらちを」は、雄々しい男、勇壮な男の意とします。

③ 二句の「かるや」は、動詞「かる」の連体形+名詞「矢」ですので、「狩る矢」となります。狩り場で獲物に向ってつがえている矢、を指しています。「離る」であれば下二段活用であり「駆るる矢」となるところです。

④三句「たつしかの」の「たつ」は、四段活用の動詞「たつ(立つ)」の連体形であり、「起立した状態いる」、「(進行をとめて)そのままの状態でいる、ある位置につく」の意があります。

「たつしかの」のは、「動かないでいる鹿の」、とか「狩りの標的として定まってしまった鹿の」、の意です。

⑤ 四句「いとわればかり」とは、副詞「いと」+代名詞「われ」+副助詞「ばかり」であり、「ほんとうに私ほど」の意です。

 五句「ものはおもはじ」の「もの」とは、個別の事物を直接明示しないで一般化していう言い方であり、ここでは、作者の立場では、離別を意識しつつも相手との間の愛情の行末、情報交換などを指していると考えられます。

 「かるやのさきのしか」の立場での「もの」は、「自らが射られるか逃げられるか(さらにメスシカであれば小鹿を守れるか)」であると思います。「襲う」という行為は含まれていないでしょう。そしてそれはもう相手との交渉の余地がないことであり、「ものはおもはじ」とは「自らが射られる」のを運命と思っているだあろう、ということです。

 「ものはおもはじ」とは、作者にとって「判断に迷わないだろう、不安が募ることはないだろう」、の意ですが、それは反語です。作者は、上句に、矢は必ず鹿を射る、と信じて詠い出しているからです。。

⑦ 以上の検討と小池氏の論に従い、離別を認識した作者の歌として、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

  「勇壮な男が引き絞った弓矢の先にいる鹿も、やることは一つだけだがそれが成功するかどうかについて、今の私ほど色々不安に感じていることはあるまい。(鹿は逃れられないと絶望していても逃げるに迷いはないであろう。私も、もう手立てを尽したので、あとはひたすら待つこと以外ない。それに迷いはないというものの、それはそれは不安が募ります。やはり離別かと。)」

 この歌は、離別を覚悟しつつも、そうならないようやるべきことをしたと信じて、便りがあるのを待っている時の気持ちを詠っているのではないか。結果は吉でないことを予感しつつも、勇壮な男が放った矢が必ず鹿を射るように私への便りが喜びをもたらすことを期待している歌、と思います。

⑧ 相手とやりとりがある段階の歌(逢う前とか疎遠になりそうな時)であれば、射られるか逃げるかの二者択一の「狩る矢の先の鹿」のたとえはふさわしくないかもしれません。

7.3-4-30歌の詞書の検討

① 3-4-30歌を、まず詞書から検討します。3-4-29歌の詞書をうけていますので、前回のブログ(3-4-29歌を検討した2018/9/17のブログ)より再掲します。

あひしれりける女、ひさしくなかたえておとづれたりけるによみてやりける

② その現代語訳(試案)も再掲します。

 「男女の間柄であった女が、暫く遠ざかっていた男の訪れがあって後に、詠んで送った(歌)」

 

8.3-4-30歌の現代語訳を試みると

① 詞書に従って、3-4-29歌と同様に、作者は男を信頼しているとしてこの歌を理解します。

② 初句にある「あらちを」は、雄々しい男、勇壮な男の意とします。 

③ 二句~三句の「かるやのさきに」たってしまった「しか」は、運命の定まったことを自覚するでしょう。一般に「しか」の次にとるべき行動は、「射られるか逃げられるか(さらにメスシカであれば小鹿を守れるか)」です。しかし「あらちをのかるやのさき」では、結果は明白です。

④ 四句にある「わがごとく」とは、「私のように」、の意です。類似歌bは「わればかり」で、「私ほど」の意でした。歌における意味合いはほぼ同じです。

⑤ 五句にある「もの」とは、色々な思案を意味します。「ものはおもはじ」とは、思案はある一つに固まって来るだろう、迷わず自分の運命を受け入れるであろう、の意となります。

⑥ 詞書に従い、このような検討を踏まえて現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「勇壮な男が狩りをしようと矢を向けた先にいる鹿も、的とされた以上まったく私のように、その後の運命を受け入れるであろう。(鹿の命運がすでに定まったように、あなたが、これからも私を訪ねていただけると信じています。」

 

9.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。 この歌3-4-30歌は、歌を詠む事情を説明しており、二つの類似歌は、いづれも題しらずで、全く情報を与えてくれません。

② 五句が同じ語句ですが、意が違います。この歌3-4-30歌は、安心の意を、二つの類似歌は、いづれも不安の意を表わしています。

③ 共通の詞書である3-4-29歌とともに、作者は男を信頼しているとしてこの歌を理解できました。

その結果、この歌は、詞書にいう「おとづれたりける」男を、改めて信頼していると、表明した歌であり。これに対して、類似歌は、受け入れてくれなかった男に作者はまだ不安がある歌です。

④ これまでの『猿丸集』歌と同様に、類似歌とは別の歌意であることに詞書によりなりました。

 さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-31歌  まへちかき梅の花のさきたりけるを見て

   やどちかくむめのはなうゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

類似歌 古今和歌集』 1-1-34歌 題しらず  よみ人知らず」 (巻第一 春歌上)

   やどちかく梅の花うゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、類似歌の歌集を中心に記します。

2018/9/24   上村 朋)

付記1.『拾遺和歌集』巻第五950歌~962歌において当該歌とその直前又は直後の歌において、連続してもちいられている語句は、次のとおり。

① 共通の語句がないのは、1-3-953歌と1-3-954歌である。1-3-953歌は1-3-952歌とも()書きした語句でのつながりだけである。

② 共通の語句には、名詞(句)と動詞が多く、接頭語は一種類だけである。

1-3-950歌  いふべき人

1-3-951歌  いふ人  あひ見む

1-3-952歌        あふ    (ひとりね)

1-3-953歌               (身ひとつ)

1-3-954歌  あら(ちを)<初句にある>  おもはじ

1-3-955歌  あら(いそ)<初句にある>  おもはじ   浪      こひ

1-3-956歌  雨ふる                     (ささら)なみ  こひ

1-3-957歌  雨(降る)   

1-3-958歌  (降る)雨  

1-3-959歌  雨(降る)  涙

1-3-960歌          涙   きみこふる<初句にある>   袖

1-3-961歌          涙   きみこふる<初句にある>   袖

1-3-962歌          涙

 

付記2. 『一条摂政御集』について

① 『一条摂政御集』の巻頭はつぎのように始まっている。

② 一条摂政御集 

おほくらのしじやうくらはしのとよかげ、くちをしきげすなれど、わかかりけるとき、女のもとにいひやり

けることどもをかきあつめたるなり、おほやけごとさわがしうて、をかしとおもひてけることどもありけれど、わすれなどしてのちにみれば、ことにもあらずぞありける

いひかはしけるほどの人は、とよかげにことならぬ女なりけれど、年月をへて、かへりごとをせざりけ

れば、まけじとおもひていひける

あはれともいふべき人はおもほへでみのいたづらになりぬべきかな

   女からうじてこたみぞ

なにごともおもひしらずはあるべきをまたはあはれとたれかいふべき

   はやうの人はかうやうにぞあるべき(りける)、いまやうのわかい人は、さしもあらで上ずめきてやみなんかし

   みやづかへする人にやありけん、とよかげものいはむとて、・・・(以下略)

③ 『一条摂政御集』の最初の部分は、主人公を「大蔵史生倉橋豊蔭」という卑官という人物に仮託する形で伊尹とその相手の女の恋歌をまとめている。この部分(3-50-1歌~3-1-41歌)は、伊尹の自作自撰と諸氏が指摘している。

④ この詞書によれば、言いかわした男と女は同等の身分の者同士である。『拾遺和歌集』や『拾遺抄』での詞書からは、恋人に冷淡にされた作者(男)が純情に見えないわけでもない。これも恋の駆け引きである。

(付記終り  2019/9/24  上村 朋 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第29歌 ゆづかあらため

前回(2018/9/10)、 「猿丸集第28歌その2 やまのかげ」と題して記しました。

今回、「猿丸集第29歌 ゆづかあらため」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第29 3-4-29歌とその類似歌

① 『猿丸集』の29番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-3-29歌 あひしれりける女、ひさしくなかたえておとづれたりけるによみてやりける

    あづさゆみゆづかあらためなかひさしひかずもひきもきみがまにまに

 

類似歌 『萬葉集』 2-1-2841歌。巻十一のうちの 「譬喩(2839~) 」 

    あづさゆみ ゆづかまきかへ なかみさし さらにひくとも きみがまにまに

 (梓弓 弓束巻易 中見刺 更雖引 君之随意)

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句~四句と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、昔の親密な関係に戻ることが確かになった時点の女の喜びの歌であり、類似歌は、まだ関係が出来ない前(あるいはできてほしい時点)の女の拒絶(あるいは願望)の歌です

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌は 『萬葉集』巻第十一 古今相聞徃来歌類之上の、「旋頭歌」、「正述心緒」等とともにある「譬喩」に記載されている13首の3首目にあり、左注に「右一首、弓に寄せて思ひを喩へたるなり」とある歌です。「譬喩」の13首には左注があります。

② この歌の前後の歌として「譬喩」の13首(2839歌~2851歌)をとりあげ、その左注をみてみます。そして寄せている物が何を意味しまたは示唆しているかを諸氏の意見より記します。また、()内は当該歌の趣旨を私がまとめたものです。

寄衣喩思 2-1-2839歌:作者が、相手の女性を衣に喩える。

 (貴方と一緒になったら人目につくかと謡いかけた男の歌)

同 2-1-2940歌:作者が、衣を作者以外の女性に喩える。

 (来ないのは衣裳のようにお相手が沢山いるせいかと男に迫る女の歌。)

寄弓喩思 2-1-2841歌 (類似歌であり、後述)

寄船喩思 2-1-2842歌:洲に取り残された舟に、作者が、自身を喩える。

 (相手の来訪を待ち望んでいる女の歌)

寄魚喩思 2-1-2843歌:簗にかかっている魚に、恋の相手を 作者がたとえる。

 (娘に密かに通う男を長年気が付かなかった親の自虐の歌)

寄水喩思 2-1-2844歌:池の水を、作者が、自身の心に喩える。

 (誠実さを相手に誓う歌。作者は男か。女でも可。)

寄菓喩思 2-1-2845歌:毛がいっぱい生えている桃(は立派な桃となる)を、作者は 自身に喩える。

 (努力したので恋の成就を疑っていない男の歌。作者は女でも可。)

寄草喩思 2-1-2846:葛の這い広がって(追いかぶさって)いる状態を、男の作者自身に喩える。

(私の女であると宣言した男の歌)

同 2-1-2847: どんどん育つ菅を、作者の相手に喩える。

(早めに縁を作ったほうがよいのだ、と言い寄る男の歌。女でも可)

同 2-1-2848歌: 目的なく刈られた菅を、言い寄られた作者にたとえる。

(玩んだ男をなじった女の歌)

同 2-1-2949: 若草は、作者自身をさす。

(添い遂げたいと願う男の歌。女でも可)

寄標喩思 2-1-2850歌:標を、好いてもらえない作者に喩える。

  (不安定な関係のままでいることを嘆く女の歌。) 

寄滝喩思 2-1-2851歌:滝を、噂の高いことに喩える。

 (ちょっと逢っただけで噂が高くなったらその後音沙汰のないのを恨む女の歌。)

③ 寄弓喩思の歌(類似歌)を除いて検討すると、みな相聞歌です。最初の寄衣喩思の2首は、2-1-2839歌を、逢いに行けない理由があるのだと訴えた歌とみれば、次の2-1-2840歌は、お相手が沢山いるのでしょうねと応えた歌とも理解でき、対の歌とみることができます。対の歌はこれだけで、寄せる物を越えて対の歌と見做せる歌もありません。又、恋の成就に向っての2-1-2939歌から時間軸上に並んでいる歌とも見えません。それぞれが独立した歌が2-1-2941歌以下の歌です。

 このため、今除外していた類似歌も、「寄弓喩思」の歌が1首だけなので独立の相聞歌という理解でよい、と思います。

④ 「寄○喩思」の「○」は、作者、作者の相手、または(関係あるかにみえる)第三者を喩えています。例外は、「寄水喩思」の2-1-2844歌と「寄滝喩思」の2-1-2851歌であり、前者は、作者が、自身の心を指し、後者は、噂を指しています。

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

     梓弓の弓束を巻き替えて、途中で逢うことを止めて、再びまた私の気を引いても、あなたの心のままです。」(阿蘇氏)

     「梓弓の弓束を巻き代へ、又、中目刺を代へて引く如く、人が代り、手を代へて、私を誘はうとも、私はただ君につき随ふだけです。」(土屋氏)

② 阿蘇氏は、つぎのように指摘します。

     「ゆづか」は、弓の握りの部分。木の皮や獣の皮などで巻いた。取り替えるとは妻を替える譬喩。

     「なかみさし」は未詳とする説が多い。上(句)下(句)との続きからいって巻き替えて(新しい女性と交際して)後にさらに引く(ふたたび古なじみの私の気を引こうとする)というのであるから、(上下の間にある「なかみさし」の解は、『日本古典文学大系』等の説がおだやか。動詞「見さす」であり、「見終わらないで中止する」の意。

     「女性の歌で、個人的契機で詠まれたというよりも集団の場でのうたいものであったか。主意は(今も)自分の気持ちはかわらないことか。」

③ 土屋氏は、つぎのように指摘します。

     「(三句の)「なかみさし」は、東大寺献物帳中の弓の注記に「目刺」が二三見える。「みさし」はこれであらうという。弓の部分であろう。「なか」を中央の意と見れば、数個ある如くも見えるが明かでない。「目刺」の語からすれば、或は照準のための照星の如きものではあるまいか。それなら「中」は的中の中で旧訓の如く「あて」と訓むべき如くも思はれる。「みさし」は「めさし」とも訓み得よう。」

     「(四句にある万葉仮名)「更」は、「みさし」を弓の部分とすれば、「ゆつか」と同じく「かへて」と訓むべきであらう。」

     「あまたの(人の)誘因にはなびかず、ひたすら君に随う心と見なければ、五句が生きてこない。」

④ 『新編国歌大観』の『萬葉集』は、西本願寺本が底本ですが、この歌の三句「中見刺」の底本での訓みは「あてみてば(あてみれば)」です。

⑤ 五句「きみがまにまに」は、『萬葉集』に15例(首)あり、その万葉仮名はほとんどが「君之随意」であり、この2841歌も「君之随意」です (付記1.参照)。また、「ひかばまにまに」とある『萬葉集』歌が2-1-98歌の1例(首)(付記4.参照)があり、その万葉仮名は「引者随意」です。そして、勅撰集には「きみがまにまに」あるいは「ひかばまにまに」と表現する歌は、ありません。

 

4.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① 類似歌は、左注に「右一首、弓に寄せて思ひを喩へたるなり」とある譬喩の部に置かれた歌であり、弓とその操作などにも隠喩がある、と理解してよい歌です。

そのため、上句「あづさゆみ ゆづかまきかへ なかみさし」を確認してみたいと思います。

まずは、用いられている語句についての検討をします。

② 初句「あづさゆみ」について、『萬葉集』を確認してみると、句頭に「あづさ(の)ゆみ」とある萬葉集歌が、34首あります(付記2.)。そのうち、「あづさゆみ」と結びつく語が「ひく」となる歌が、8首あります(各歌は付記4.参照)。弓の操作「引く」から、「相手の気を引く」を導いて用いられている類の歌です。

この8首の作者を女と仮定すると、弓を引くとは、相手の気を引く・相手を引き付けることであり、弓は相手の男の意となりました。作者が男と仮定すると、弓を引くとは、相手を引き付けようとする作者自身の意と理解できます。弓の操作をしようとしているのですから、女ではなく腕力のある男です。

 「あづさゆみ」の隠喩の候補は、特定のある男性か男性一般のどちらかのようです。

 このように、上記2.でみたように、「寄○喩思」の「○」は、作者、作者の相手、または(関係あるかにみえる)第三者を喩えている例にこの類似歌も該当します。

③ 二句にある「ゆづか」について、『萬葉集』での用例を、句頭にある「ゆづか」で確認してみると、4首あります。(付記3.)

 「ゆづか」には、何かを巻くようです。弓の一部を指す名称と推測できます。頻繁に巻き直しをしなければならない部分かどうかは分かりません。

④ 公益財団法人全日本弓道連盟HPをみると、弦弽(ゆがけ)、弓道着や袴などと共に道具のひとつに弓をあげ、その部分部分の名称を説明していますが、「弓束」という名称はありません。

弓の中程の矢をつがえて握るところ付近の名称として、上から「矢摺藤(やずりどう)」、「藤頭(とがしら)」、「握り」、「手下」の4つをあげています。「矢摺藤(やずりどう)」の長さは6cmと説明し、そこに巻く藤をも「矢摺藤(やすりとう)」と呼び「握りの上に巻く、段々細くなる(ように)加工を施した籐のことで、長さは弓1張り分」という説明があります。

 また、「現在の弓道で使う弓には照準器がついていません」との説明もあります。

 「デジタル大辞典」(小学館)には「ゆづか(弓束・弓柄)」に3つの意があるとし「a矢を射るとき、左手で弓を握る部分、bゆみづか、cそこ(弓を握る部分)に巻く藤」と説明しています。

⑤ 「ゆづか」を「まきかへ」る(動詞で「巻き替える意」)のは、弓そのものにかかわる作業・行為です。だから、三句にある「みさし」が同じく動詞であるならば、「ゆづかをまきかへる」以外の弓そのものにかかわる作業・行為と理解してよい、と思います。弓を「ひく」行為は、その後の作業・行為となります。

三句「なかみさし」の「みさし」が、四段活用の動詞「みさす(見止す)」の連用形であれば、「見るのを中途でやめる」の意があります(『例解古語辞典』より)が、この歌における意はまだよくわかりません。とりあえず「何らかの弓に対する作業・行為」として以下検討します。

⑥ 二句と三句の「ゆづかまきかへ なかみさし」は、二つの作業・行為を詠っている順に行うものとこの歌からは理解できます。

続けて「さらにひく」と詠んでいるので、ゆづかまきかへ なかみさし」という作業・行為をしなくとも「ひく」ことはできるようです。わざわざしている作業・行為が、ゆづかまきかへ なかみさし」であり、何かの理由があって行う必要が生じる「ひく」ための準備行為のひとつとみなせます

見方を変えると、ゆづかまきかへ なかみさし」は、弓を引くのに通常はともに行わなくともよい作業・行為となります。男女の間のことでこれを考えるならば、特別な土産とか課されたペナルティを解消する行為とか指定された状態を保つ行為などが該当すると思います。

⑦ 次に、四句「さらにひくとも」の副詞「さらに(更に)」には、「あらためて、事新しく、いまさらのように」とか「重ねて、加えて、そのうえに」などの意があります(『古典基礎語辞典』)。

 「さらにひく」行為をする者は、「あずさゆみ」という語で示された男であり、特定のある男性か男性一般かのどちらかです。

特定のある男性であると、その人物が(「なかみさし」などの条件を整えて)再チャレンジすることであり、「さらに」は、「重ねて、加えて、そのうえに」の意です。

男性一般であると、その人物が(「なかみさし」などの条件を整えて)再チャレンジするほか、「ひく」行為を以前行った人に替わって(「なかみさし」などの条件を整えた)違う人が作者にアタック、ということの意も生じて、「さらに」とは「あらためて、事新しく、いまさらのように」の意となります。

 また、「とも」は逆接の仮定条件を表わす接続助詞であり、「たとえ・・・ても」、の意と、既に起こってしまったことを仮定的に表現し「すでに・・しているが、たしかに・・・ても」の意とがあります。 

⑧ 五句「きみがまにまに」とは万葉仮名「君之随意」に示されているように、「貴方の気に召すまま」の意です。万葉仮名「君之随意」と記述された大方の歌と同じく、また、土屋氏のいうように、この歌は、五句の万葉仮名「君之随意」を相手に伝えたいのが趣旨の歌と理解します。

⑨ 以上の結果を踏まえ、詞書(題詞)に留意し、現代語訳を試みると、次のとおり。弓を引く者に2案ありますので、(試案)も2案あります。

A「あづさゆみ」の隠喩の候補は、特定のある男性

「(貴方は)梓弓の弓束を(時には)巻替えて中見さすということまでしたうえで、改めて弓を引こうとしています。弓を引くのは、たしかに弓を引く方のお考え次第でしょう。それと同じように、気持ちを改めるなどして私にアプローチしてくださるのも貴方のお気に召すままなのですよ。(そうしたら私は喜んでうけましょう)。」

この歌は、「ゆづか・・」ということをして弓を使い続けることもあるではないかと例を示して、女が相手に行動を促した歌です。「とも」は、既にそのようなことが弓で行われているが、の意であり、既に起こってしまったことを仮定的に表現していることになります。

この(試案)は、阿蘇氏の訳に近いですが、三句「なかみさし」の理解の差により、作者が男に条件を付けているかの歌という理解になりました。

 

B:「あづさゆみ」の隠喩の候補は、男性一般

「(男の方は)梓弓の弓束を(時には)巻替え、中見さすということまでして、更に弓を引いてみようとします。それは弓を引くひとのお考え次第でしょう。みなさんがそのように色々考えられて事新しく私を誘うのもみなさんの自由でしょう。そのようなことをいくらしても、私はあの人につき従うつもりですので。」

五句「きみがまにまに」の「きみ」は、「私が思い焦がれている(皆さんもご存知の)あの人」の意であり、「さらにひ」こうとしている人ではありません。

 この(試案)は、土屋氏の訳と趣旨が同じです。「とも」は、逆接の仮定条件を表現していることになります。

⑩ この歌が、集団の場の謡い物ならば、相手の集団の中に心を寄せている男がいるとすれば、自分への再チャレンジを仲間とともに促している意の女の歌とも、断っても(懲りないで)再チャレンジする男どもをからかって「私には心を寄せる男がいます。」の意の女の歌とも、理解できます。どちらの場合も、作者が「心を寄せる男」は、その集団内では周知のことですから、この歌の前に謡われた相手の集団側の歌によって、この歌の意は、どちらかに決まったと思います。

 『萬葉集』の採録者が、両方の意があることを承知で採用したとすると、『萬葉集』巻第十一にあるそのほかの譬喩歌にも両意があるものがあると思います。それは、今3-4-29歌の類似歌としての検討の外なので、別の機会を待つこととします。 

 

5.3-4-29歌の詞書の検討

① 3-4-29歌を、まず詞書から検討します。

 「あひしれりける女」とは、馴れ親しんでいたことのある女、男からいうと昔通っていた女、男女の間柄であった女、の意です。

③ 現代語訳を試みると、次のとおり。

「男女の間柄であった女が、長く遠ざかっていた男の訪れがあって後に、詠んで送った(歌)」

 

6.3-4-29歌の現代語訳を試みると

① 「ゆづか」とは、矢を射るとき、左手で弓を握る部分を指す、と理解します。弓を射るときしっかり握る重要なポイントとなります。 

② 二句にある「あらため」とは、下二段活用の動詞「改む」の連用形です。「新しくする」意のほか、「着替える」、「よりよい状態に直す・改善する」意があります(『古典基礎語辞典』)。さらに後世「調べる・吟味する」意も加わっています。「あらため」た後に「なかひさし」という状態になったと詠っています。

③ 三句にある「なか」は、時間的に三分した中間の期間の意です。以前逢っていた頃と、昨日から今朝まで逢っていた時間帯に挟まれた期間(つまり逢っていなかった期間)をさし、「なかひさし」とは、「逢わないでいた日時が長かった」、の意です。

④ そうすると、「ゆづかあらためなかひさし」とは、「矢を射るのに重要な梓弓のゆづかの部分のように、貴方と私の間を結んでいた関係を貴方が新しいものにして(私を遠ざけて)から長い日時が過ぎた」、の意となります。

 弓の「ゆづか」という部分は、類似歌が「まきかへ」と詠っているように、時々藤を巻き直し仕立て直す必要がある部分であるようですので、「まきかへ」たことを非難している訳ではありません。

⑤ 詞書によれば、これは、男が帰ってからおくった歌、つまり後朝の歌、となります。

⑥ 詞書に従い、現代語訳を試みると、次のとおり。

 「矢を射るのに重要な梓弓のゆづかの部分のように、貴方と私の間を結んでいた関係を貴方が新しいものにして(私を遠ざけて)から長い日時が過ぎました。昨夜お出でいただき一緒の時間を過ごさせていただきました。これからは、弓を引かないのも弓を引くのもその弓を使う人の意思ひとつであるように、私は、あなたのお心のままです。」

 男が訪れるのですから、ある程度手順というものが貴族であれば有るでしょう。作者は不意に男を迎えたのではないと思います。後朝の歌をおくったことは、これからもよろしく、ということです。

 

7.この歌と類似歌とのちがい 

① 詞書の内容が違います。この歌は、詠む経緯を具体に記しています。類似歌は、詠む経緯がわからず、左注を含めても弓に例えた相聞の歌としかわかりません。

② 二句の語句が異なります。この歌3-4-29歌の「あらため」が、類似歌2-1-2841歌では、「まきかへ」となっています。

その意は、この歌では、「新しくして・よりよい状態に直して」の意であり、詞書を踏まえると、「男が私との関係を新しくして(私を遠ざけるという状態になって)」、の意となります。類似歌では、「取り替えた、巻く材料を新調して仕立てた」、の意となります。

③ 三句の語句が異なるようです。この歌3-4-29歌は、「なか(中)ひさし」と単に逢わなかった時間の長かった、の意です。これに対して、類似歌2-1-2841歌は、不明です。「みさす」が動詞「見止す」であると、少なくとも 時間が長い意ではなさそうです。

④ この結果、この歌は、今後の交際を受け入れた歌であり、類似歌は、「なかみさし」が不明の作業・行為のままであっても、特定の気を引いてほしい男性にお願いしている歌、もしくは寄ってくる男に断りを告げている歌です。

つまり、この歌は、昔の親密な関係に戻ることが確かになった時点の女の喜びの歌であり、類似歌は、まだ関係が出来ない前(あるいはできてほしい時点)の女の拒絶(あるいは願望)の歌です。

 

④ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-3-30歌  <詞書なし>

    あらちをのかるやのさきにたつしかもいとわがごとく物はおもはじ

類似歌  類似歌は2首ある。

  a 『人丸集』3-1-216歌。『柿本集 下』

     あらちをのかるやのさきにたつしかもいとわがごとにものはおもはじ (四句いとわればかり、(とも))

   b 拾遺和歌集1-3-954歌。「題しらず 人まろ」  (巻第十五 恋五)

     あらちをのかるやのさきに立つしかもいと我ばかり物はおもはじ

この歌と類似歌は、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/9/17  上村 朋) 

付記1.『萬葉集』の「きみがまにまに」とある歌(15首)

①『萬葉集』には、「きみがまにまに」と詠う短歌が、13首ある。つぎのとおり。

2-1- 415歌 巻第三 譬喩歌  市原王歌一首 

   いなだきに きすめるたまは ふたつなし かにもかくにも きみがまにまに (君之随意)

2-1- 793歌 巻第四 相聞  又家持贈藤原朝臣久須麿歌二首(792^793

   はるかぜの おとにしいでなば ありさりて いまにあらずとも きみがまにまに (君之随意)

2-1-1313歌 巻第七 譬喩歌  

   寄海かぜふきて うみはあるとも あすといはば ひさしかるべし きみがまにまに (公随)

2-1-1916歌 巻第十 春相聞  寄霞 

   たまきはる わがやまのうへに たつかすみ たつともうとも きみがまにまに (君之随意)

2-1-2355歌 巻第十一 旋頭歌  

   にひむろの かべくさかりに いましたまはね 

くさのごと よりあふをとめは きみがまにまに (公随)

2-1-2542歌 巻第十一 正述心緒

   たらちねの ははにしらえず わがもてる こころはよしゑ きみがまにまに (君之随意)

2-1-2568歌 巻第十一 正述心緒

   ひとめもる きみがまにまに(君之随尓) われさへに はやくおきつつ ものすそぬれぬ

2-1-2699歌 巻第十一 寄物陳思

   かにかくに ものはおもはじ あさつゆの あがみひとつは きみがまにまに(君之随意)

2-1-2749歌 巻第十一 寄物陳思

   おほぶねの ともにもへにも よするなみ よすともわれは きみがまにまに (君之随意)

2-1-2841歌 (この類似歌) (君之随意)

2-1-3299歌 巻第十三 相聞  

   (反歌) たらちねの ははにもいはず つつめりし こころはよしゑ きみがまにまに(君之随意)

2-1-3395歌 巻第十四 相聞

   むざしのの くさはもろむき かもかくも きみがまにまに(伎美我麻尓末尓) わはよりにしを

  (左注あり、右九首(実際は3390~3399武蔵国歌)

2-1-4529歌 巻第二十 二月於式部大輔中臣清麿朝臣之宅宴歌十首

   いそのうらに つねよひきすむ をしどりの をしきあがみは きみがまにまに

      (伎美我末仁麻尓)

 

②『萬葉集』には、「きみがまにまと」と詠う長歌が、2首ある。つぎのとおり。

2-1-1789歌  巻第九  相聞   神亀五年戊辰秋八月歌一首幷短歌

・・・ しにもいきも きみがまにまと おもひつつ ・・・  (君之随意常)

2-1-4017歌   敬和遊覧布勢水海賦一首幷一絶

    ・・・ かもかくも きみがまにまと かくしこそ ・・・    (伎美我麻尓麻等)

 

付記2.『萬葉集』で句頭に「あづさゆみ」とある歌(34)

① 『萬葉集』で句頭に「あづさ(の)ゆみ」とある歌について、「あづさゆみ」という語句がどのような語句と意味の上で強く結びついているかをみると、次の表のとおりである。 分類Aの歌は付記4.に記す。

分類

「あづさゆみ」が結びつく語

該当する歌の番号

事例数

A

引く

  98  99* 2510  2648 2841* 2999 3000 3002*

  8

B

音・(便りなどを)聞く

 207  207イ 217  314  534  4238

  6

C

はる(張る・春)

1833

  1

D

よる(寄る)

3002*  3509  3510*

  3

E

地名「引津」

1283  1934

  2

F

ますらをのいでたち表現

230   481  3316  3907  4118

  5

G

「すゑ」(末、地名の「すゑ」)

1742  2646  2997  2998  3001  3163 3510*

  7

H

部位を特定する修飾語

3  99*  2841*  3507  3589  4188

  6

 計

 

 

 38

注1)歌の番号は、『新編国歌大観』所載の『万葉集』の歌番号

注2)「*」は、ダブって各分類に計上している歌(各歌2分類ずつ)

注3)分類の概要つぎのとおり

分類Aは、弓の操作「引く」から「相手の気を引く」を導いて用いられている類である。

分類Bは、弓の操作から「音」の枕詞となっている類で、(便りなどを)聞くを導いている。

分類Cは、弓の操作「張る」から同音の「春」を導いている。

分類Dは、弓の操作により「弓の本と末がよるから」同音の「(近)寄る」を導いている。

分類Gは、弓に本と末があるのでその「末」から同音の「(空間的時間的に進む方向性と行きつく範囲・限界を意識した)物事の末)」(『古典基礎語辞典』)や地名の「すゑ」を導いている。

注4) ダブって各分類に計上している歌は、つぎのとおり。

2-1-99歌は、「あづさゆみ つら(H)をとりはけ ひく(A)ときは のちのこころを・・・」

2-1-2841歌は、「あづさゆみ ゆづか(H)まきかへ なかみさし さらにひく(A)とも・・・」また、「ゆづか」も句頭にある歌である。

2-1-3002歌は、「いまさらに なにをかおもはむ あづさゆみ ひきみ(A)ゆるへみ より(D)にしものを」

2-1-3510歌は、「あづさゆみ すゑ(G)はより(D)ねむ まさかこそ・・・」

② 『萬葉集』で句頭に「あづさのゆみ」とある歌は、2-1-3歌と2-1-3589歌の2首でありその他は「あづさゆみ」である。

2-1-3歌 天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌

   やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし・・・(・・・梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓・・・)

2-1-3589歌  防人歌  (ゆづかも句頭にある歌)

   置きて行かば妹はま愛し持ちて行く梓の弓の弓束にもがも 

(於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈之 母知弖由久 安都佐能由美乃 由都可尓母我毛)

付記3.『萬葉集』で句頭に「ゆづか」とある歌(4首)

① 句頭に「ゆづか」とある歌は、つぎのとおり。

2-1-1334歌 寄弓

みなぶちの ほそかはやまに たつまゆみ ゆづかまくまで(弓束級)  ひとにしらえじ

2-1-2841歌 (この類似歌) ゆづかまきかへ (弓束巻易

2-1-3506歌 相聞

かなしいもを ゆづかなべまき(由豆加奈倍麻伎) もころをの こととしいはば いやかたましに 

2-1-3589歌 防人歌

おきていかば いもはまかなし もちてゆく あづさのゆみの ゆづかにもがも((由都可尓母我毛))

 

付記4.『萬葉集』で句頭に「あづさ(の)ゆみ」があり、「ひく」の語がある歌は次の8首である。

2-1-98歌  あづさゆみ ひかばまにまに よらめども のちのこころを しりかてぬかも

     梓弓 引者随意 依目友 後心乎 知勝奴鴨   郎女

 2-1-99歌 あづさゆみ つらをとりはけ ひくひとは のちのこころを しるひとぞひく

     梓弓 都良絃取波気 引人者 後心乎 知人曽引   禅師

 2-1-2510歌 あづさゆみ ひきてゆるさず あらませば かかるこひには あはざらましも

     梓弓 引不許 有者 此有恋 不相  

 2-1-2648歌 あづさゆみ ひきみゆるへみ こずはこず こばこそをなぞ こずはこばそを

     梓弓 引見弛見 不来者不来 来者来其乎奈何 不来者来者其乎 

 2-1-2841歌 類似歌(本文1.に記す)

 2-1-2999歌 あづさゆみ ひきみゆるへみ おもひみて すでにこころは よりにしものを

     梓弓 引見緩見 思見而 既心歯 因尓思物乎

 2-1-3000歌 あづさゆみ ひきてゆるへぬ ますらをや こひといふものを しのびかねてむ

     梓弓 引而緩 大夫哉 恋云物乎  忍不得牟

 2-1-3002歌 いまさらに なにをかおもはむ あづさゆみ ひきみゆるへみ よりにしものを

     今更 何壮鹿将念 梓弓 引見弛見 縁西鬼乎

(付記終り 2018/9/17   上村 朋) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第28歌その2 やまのかげ

前回(2018/9/3)、 「猿丸集第28歌その1 類似歌の歌集」と題して記しました。

今回、「猿丸集第28歌その2 やまのかげ」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第28 3-4-28歌とその類似歌

① 『猿丸集』の28番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-28歌  物へゆきけるみちに、ひぐらしのなきけるをききて

ひぐらしのなきつるなへに日はくれぬとおもへばやまのかげにぞありける

 

3-4-28の類似歌  1-1-204歌   題しらず         よみ人知らず 

ひぐらしのなきつるなへに日はくれぬと思ふは山のかげにぞありける   

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、四句の一部と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、夕方の外出時の出来事の歌であり、類似歌は、夕方近くの建物内の出来事の歌です。

 

2.~5.承前

6.類似歌の検討その5 前後の歌から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌から、検討します。

類似歌は 『古今和歌集』巻第四秋歌上にあるので、巻記載の歌とその元資料とを前回(2018/9/3)検討しました。

その結果、つぎのようなことがわかりました。

     古今和歌集』の巻第四秋歌上にある歌の元資料の各歌は、現代の俳句の季語の区分でいうと初秋の歌と雁を含めた三秋の歌となり、80首すべてを初秋の歌として配列し得る歌である。

     古今和歌集』の巻第四秋歌上は、元資料の歌を、現代の俳句の季語相当の秋の景物を選び、それに寄せて新たな詞書のもとに元資料の歌を順に配列している。

・ その景物ごとの歌の集りを歌群と称すると、歌群ごとに歌の内容は独立している。最初の歌群は立秋の歌であり巻第一春歌上に倣っている。

・ 類似歌を含む歌群(きりぎりす等虫に寄せる歌:1-1-196歌~1-1-205歌)の最初の一首には「・・・きりぎりすのなきけるをききてよめる」とあり、その後に題しらずの歌が8首続く。ひぐらしに寄せる歌は2首だけで最後に並んで記載されている。類似歌とその前後の歌とのつながりは、各歌の内容でみなければならない。

今回、それをまず検討します。

② 類似歌を含む歌群の前後の歌群での配列をみると、一つ前の歌群(月に寄せる歌:1-1-189歌~1-1-195歌)は、月を見ての感興を詠う5首のあとに、月そのものへの推測1首と月の光の恩恵の歌1首の順になっています。

 次の歌群(かりといなおほせとりに寄せる歌:1-1-206歌~1-1-213歌)では、初雁の鳴き声自体への感興、いなおほせどりが鳴き寄せた雁への感興、雁の到来の早いことへの感興の歌となり、最後の歌は雁の鳴き声を自分の身に重ねての感興の歌です。いずれも、歌群の最初と最後の歌では、だいぶ内容が異なっています。この巻の最初の歌群(立秋の歌)でも、最後の一首のみ二時点を比較しているおり、又、七夕伝説に寄り添う歌群でも、最後の2首は後朝の歌となり、歌群のはじめと終わりの歌は趣を異にしています。

③ この類似歌を含む歌群(「きりぎりす等虫に寄せる歌:1-1-196歌~1-1-205歌)の歌は、すべて虫が鳴いている景の歌です。鳴く虫が順次変わります。歌にある現代の季語( 『平井照敏NHK出版季寄せ』(2001)による。前回(2019/9/3)のブログ付記1.参照。)を『新編国歌大観』記載の歌より示すと、つぎのとおり。

1-1-196歌 蟋蟀(きりぎりす)  秋の夜

1-1-197歌  むし   秋の夜   

1-1-198歌  きりぎりす  あき萩        

1-1-199歌  むし  秋の夜、つゆ、   

1-1-200歌  松虫      

1-1-201歌  松虫   秋のの  

1-1-202歌  松虫  あきのの  

1-1-203歌  松虫  もみぢ   

1-1-204歌  ひぐらし

1-1-205歌  ひぐらし

④ 単に「虫」とある歌は前歌の虫(きりぎりす)と理解できます。(元資料の歌をそのようにとれるように編纂者が並べている、と判断してよい)。

 これをみると、最初の歌1-1-196歌から、2首ずつ対となる歌を並べているかに見えます。

 即ち、最初の2首は、きりぎりす(現在のこおろぎ)が一晩中鳴くのと自分の思いの長いことを重ねて詠っています。この2首のそれぞれの元資料は、共に知的遊戯の強い歌です(前回(2019/9/3)のブログ付記3.の表2参照。以下同じ)。

次の1-1-198歌と1-1-199歌は、虫のほか、もう一つの季語とあわせ、きりぎりすが一晩中鳴く理由を推測しており、最初の2首とは異なる趣旨の歌となっています。元資料は、それぞれよみ人しらずの歌なので、官人である歌人が記録した歌ですから、記録した官人が連なることができる宴席で朗詠する価値のある歌であったということです。元々は集団の場の民衆歌であり、一方が他方に謡いかけた歌ではないかと推測します。1-1-198歌は、『猿丸集』第38歌の類似歌でもありますので、検討して下記12.に記しているように、「あき萩は鹿の妻となったがこおろぎ同様私は妻に(なるべき人に)行き合えていないで今年の秋は悲しい」の意を含み、この歌を承けた1-1-199歌は、「露はこおろぎにとり辛いだろう(私にも涙流れる秋の夜はつらい)」と1-1-198歌の作者に同調しています。この2首が並んでいるのでこのような理解もできるところです。

次の2首(1-1-200歌と1-1-201歌)は、松虫の「松」に人を「待つ」の意を掛け、待っている人の立場と来訪者の立場の歌を並べかつ悲しさを催させる鳴き声と人を暖かく呼ぶ鳴き声との対比をさせています。ともに元資料は相聞歌です。

最後の2首(1-1-204歌と1-1-205歌)は、下記7.以下のような検討をしたところ、季語のひぐらしの鳴くのを聞く作者の居る場所は同じで夕方に寄せた歌ですが、詠っている作者の感興が異なります。前者の元資料は知的遊戯の強い歌であり、後者のそれは相聞歌にもなり得る歌です。

⑤ また、1-1-196歌から1-1-203歌までは夜の景ですが、最後の2首は、夜の景ではない歌です。これからも、1-1-204歌と1-1-205歌は松虫の景の歌と同様に、対の歌としてここに編纂者はおいている、と理解できます。

⑥ なお、ヒグラシは、セミの一種であり、『世界大百科事典』によれば、「平地~1500mくらいの山地に広くみられ、薄暗い林中にすみ、特にスギ・ヒノキ植林地域に多い。おもに明け方と夕方に鳴くが、日中でも降雨前やガスが濃くかかったときにはよく鳴く。鳴き声は、高音でキキキ・・・、あるいはカナカナ・・・と聞こえ、カナカナなる別名がある」セミです。

 

7.類似歌の検討その6 現代語訳の例

① ひぐらしを詠う2首に関する諸氏の現代語訳の例を示します。

② 2-1-204

     ひぐらしが鳴きはじめるとともに、暗くなって日が暮れたな、と思ったのは、そうではなくて実は山かげに入ったのであった。」(久曾神氏

     「蜩が鳴きはじめたのと同じくして、日が暮れたな、と思ったのは、その時私がいたのが山陰だったからなのだ。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

③ 久曾神氏は、二句を「なきつるなべに」として訳注し、「なべに」は「同時に、とともに」の意とし、「鳴いたちょうどその折」としています。さらに、氏は「歩いているうちに、ひぐらしが鳴きはじめ・・・」と説明しています。

『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』では、四句にある「思へば」に校注を施し、古写本には「見しは」、「見れば」、「思ふは」とあるものもあるが、どれもだいたい同意義である。としています。そして、「山でも斜面の南側なら、ヒグラシが鳴きはじめても急に暗くならない。そういう細かな観察ができたのは、山中かその近くで暮らしていた人であろう。この歌では、私が山陰にいるのだとも、蝉が鳴いている場所が山陰だったも解せる。」と説明しています。

この訳例の注釈には疑問がありますので、さらに検討します。

④ ひぐらしを詠うもう1首の歌は次の歌です。その現代語訳の例を示します。

1-1-205     題しらず    よみ人しらず

     ひぐらしのなく山里のゆふぐれは風よりほかにとふ人もなし

     「蜩が鳴きしきる山里の夕暮時には、風以外にはただ一人の人さえ私を訪ねてくれない。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

⑤ 風が擬人化されています。風の訪れを楽しんでいるかにも理解できる歌です。1-1-204歌との共通点はひぐらしと夕暮の2項目ありますが、同一の感興を詠った歌ではありません。ヒグラシに寄せて、1-1-204歌はある瞬間の出来事を詠い、1-1-205歌は時間単位というよりも日数で数えるほどの長い時間に渡る出来事を詠っています。この訳例は、妥当なものである、と思います。

 

8.類似歌の検討その7 現代語訳を試みると

① 類似歌1-1-204歌の訳例は、作者の居るところに関して違和感があります。巻第四秋歌には外出中の歌も無いわけではありませんが、その歌の詞書で、外出時の歌であるのを明らかにしています。この類似歌の詞書は、「題しらず」であり、『古今和歌集』編纂者は作詠事情を伏せてしまっています。この歌は、巻第四秋歌上に配列されているのですから、何も作詠事情を語らないのは羈旅(外出中)の歌ではない、という編纂者の意図がみえます。

また、室外に作者が居たのならば、空模様や近くの山に関する視覚の情報が、なぜ忘られたのか、なぜ遅れたのかの理由がこれらの訳例と説明ではわかりません。

作者は、建物内にいて詠みました。あるいは庭に居て詠んだのではないでしょうか。(なお、外出中の歌と仮定した検討は後で行います)。

② 夕暮という状況は、ひぐらしの鳴き声で招き寄せられるものではありません。夕暮になればひぐらしは鳴きだしやすい、というだけです。ひぐらし日中でも降雨前やガスが濃くかかったときにはよく鳴くそうなので、夕方と判断するのに、ひぐらし鳴き声を聞いた者は、当然の如く夕暮かどうかの確認の情報を更に得ようとすることになります。それが出来る位置に作者は居るはずです。外出中であればひぐらし鳴き声と同時に(さらにその前から)周囲に関する視覚情報を得ており、それを忘れて夕方かと判断するのは腑に落ちません。

③ 作者の判断を、時間を追って推理すると、眼をつむっていなければ、何かのきっかけでヒグラシの鳴き声と周囲の暗くなったのを同時に認識し、そして夕方になったと一旦判断し、その次に、居る場所が室内なので(あるいは直接室外を直ちに確かめられない姿勢なので)、夕方である確実な情報を室外に求めたところ、そうではない情報を得て、夕方ではないと改めて判断した、という順になります。

 眼をつむっていたとすると、ヒグラシの鳴き声で眠りから覚め(覚醒し)つつ、夕方になったかと推理し、周囲の暗さの程度を判断して納得し、その次に、居る場所が室内なので、さらに確実な情報を室外に求め、視覚情報に接して後にそうではなかったと判断し、はっきりと目が覚めた、という順になります。

 しかし、後者はあり得ることですが、前者のように、何かに集中していた感のある場面での歌という理解が妥当であると思います。当時の官人の執務体制からいうと、午後は私的な時間帯です。

④ もう一つ、この歌には居場所に関する情報があります。「やまかげ」が居場所に近い、ということです。

官人の生活する寝殿造りは南面した造りになっています。官人(とその家族)の通常居る場所は、その建物(寝殿)で廂の内側にある御簾で仕切られたなかであり、場合によってはさらに屏風や几帳などで囲った空間です。そこに居て視覚に入る山蔭は庭の築山の蔭くらいです。築山は作者が居る建物を覆う蔭はつくれません。しかし、『猿丸集』の類似歌がある三代集でも庭の築山の「蔭」を詠った歌を知りません。作者が視覚情報により判断している「やまかげ」が建物の近くに生じるのは、建物そのものが実際の山に近い山寺とか山荘とかに限られます。元上司や親しくさせていただいている上流貴族を作者が訪ねたか、自ら参籠したかの際の出来事がこの歌であった可能性が高くなります。

元上司などを訪ねた場合は、庭に背を向けて伺候している立場の者(当然廂の外側に座を占める)が作者となり得ます。夕方になったかと発言し、指示を受け振り返って庭をみた時の経験を詠った歌がこの類似歌であると思います。類似歌の元資料の歌はあるいはそのような設定のもとに詠った歌であると思います。題しらずとされているので、経験か設定かの一方に決めることができません。

 参籠の場合も、同様に庭に背を向けていた者が作者となります。

⑤ 四句「とおもふは」は、「副詞「と」+動詞「おもふ」の終止形+係助詞「は」です。(日が暮れた)と作者が思ったのは、の意です。

⑥ 四句と五句にまたがる「やまのかげに」は、庭に接している山に太陽が隠れた結果直射日光が射さなくなった状況、という意となります。

⑦ 官人の生活の中にこの歌を詠む機会があることが確認できました。部立が秋歌である歌の詞書のもとで現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「ヒグラシが鳴くのだから同時に日が暮れたのだと判断したことは、誤りで、(庭に目に移すと、)日が山の陰に入ったからであった。」 

 1-1-204歌と1-1-205歌は、夕方になる前の時間帯と夕方の歌ですが、同一の感興を詠った歌ではありません。『古今和歌集編纂者は、類似歌を含む歌群(きりぎりす等虫に寄せる歌:1-1-196歌~1-1-205歌)の最後に、共通点として「ひぐらし」(「日暗し」の時間帯であり当然「夜ではない」)を詠う歌を、ここに並べておいたのだと思います。

⑧ 念のため、外出中の歌と仮定した検討を行います。

秋歌として置かれていることを重視しなければ、巻第四秋歌には外出中の歌も無いわけではありませんので、外出時の歌としての理解を編纂者が排除していないかもしれません。最初に、そのような事例があり得るかを検討します。

外出時、作者が目をつむっていなければ、周囲の明るさに関する視覚情報は常に得ているはずです。その上でひぐらしが鳴き出したという聴覚情報を得るのですから、一瞬その視覚情報を失ったとしたらこの歌のようなことは有り得ます。「一瞬その視覚情報を失う」ことが恥ずべきことで無ければ歌に詠み披露するでしょう。だから作者が騎馬で外出中であるならば、山蔭を移動中であった時ひぐらしの鳴き声を聞き、暫くして山蔭を出た、という場合が有り得ます(例えば左右の山が迫る谷筋の曲がりくねった道で日向に出たという場合あるいは空をふと見上げた場合)。

牛車で外出していたならば周囲の明るさに関する視覚情報が間接的になるので有り得ます。

だから、外出中での歌が元資料であったのかもしれません。

現代語訳を試みると、騎馬の場合を想定すると、つぎのとおり。

 「ヒグラシが鳴くのだから同時に日が暮れたのだと判断したことは、(道を曲がると日があたったので気が付いたのだが)山の陰に私が居たからであった。」 

また、この歌は、披露された場合その経緯も話題にされるような知的遊戯性の強い歌ですので、室内か室外は話題のひとつであります。元資料の作詠事情を伏せたのにも一理あります。

いづれにしても、ここまでの『猿丸集』の歌が類似歌と異なる設定で詠まれていることに注目すると、作者の居る場所に関しては3-4-28歌の検討後に結論を得ても良い、と思います。

 

3-4-28歌の詞書の検討

① 3-4-28歌を、まず詞書から検討します。

 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「ある所へ行く途中で、ヒグラシが鳴いたのを聞いて(詠んだ歌)」

③ 類似歌と違い、外出中の歌、と詞書に明記しています。

 

10.3-4-28歌の現代語訳を試みると

① 作者のいるところを考察します。この歌の作者も、ひぐらしの鳴き声(聴覚で得た情報)で「日が暮れた」と判断し、次に視覚で得た情報でその判断を確認したところ誤りであったと認識しています。

詞書によれば、外出中ですので、聴覚情報と視覚情報にタイムラグが生じ得るのは、空を直接見ることができる乗馬や徒歩での外出ではなく、覆いのある乗り物である牛車(ぎっしゃ、うしぐるま)に乗っての外出となります。(付記1.参照)

② 四句にある(日はくれぬ)「とおもへば」は、「副詞「と」+動詞「思ふ」の已然形+接続助詞「ば」」であり、「ば」は以下に述べる事がらに気がついた意であり、ここでは、(日が暮れた)とそのように思ったが、そうではなく以下の判断が正しいようだ、ということです。

③ 牛車に乗っていた作者は、聴覚情報の次に得た視覚情報により「やまのかげにぞありける」という結論をどうやって得たのでしょうか。

 四句と五句にまたがる「やまのかげ」とは、(牛車の車の)「輻(や)の間にみえる鹿毛(馬)(と騎乗の人物)によってできた蔭」、の意です。「輻(や)」とは、「轂(こしき)」とまわりの輪をつなぐ棒で放射状に並んでいはるものをいいます。

 鹿毛とは、馬の毛色の名前であり馬を指す代名詞でもあります。茶褐色で、たてがみ・尾・四肢の下部などが黒い馬のことです。

 夕方に近づけば、ヒグラシは鳴き出す可能性が増しますし、人の影も長くなります。その時間帯の外出で、牛車を追い越してゆく騎乗の人物がいた光景の歌です。多分、作者が牛車に乗っていたところヒグラシが鳴きだしたとき騎乗の人物が何人も通りすぎる影が牛車の窓をよぎった、という光景における歌であると思います。

実景は、交差点を曲がるとき築地等による影もあって連続して陽射しが遮られたのかと思いますが、類似歌を承知している『猿丸集』編纂者がアレンジしてみたのがこの歌である、と思います。

④ 詞書に従い、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「ヒグラシの鳴き声とともに、日が暮れたと思っていたら、それは私の乗っている牛車の輻(や)の間にみえる鹿毛(馬)の人馬一体の陰が(窓を通じて)私のところに伸びてきたものであった。

⑤ このような現代語訳(試案)に比較すると、類似歌は、秋歌としてわざわざ詞書を「題しらず」としているので室内に居ても詠むことができる歌となっている理解の方が知的遊戯が発揮されておりすぐれている、と思います。

 

11.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-28歌は、外出中の歌であることを明記し、類似歌1-1-204歌は、詠う事情に全く触れていません。

③ 四句と五句にまたがる「やまのかげ」の意が異なります。この歌は、(牛車の車の)「輻(や)の間にみえる鹿毛(と騎乗の人物)の影」、の意であり、類似歌は、「太陽光が山に遮られたための明るさの変化」、の意です。

④ 結果として、この歌は、夕方の牛車での出来事を詠い、類似歌は、夕方に至る前の時間帯の建物にいた者が出会った出来事を詠います。

⑤ この歌とその類似歌とは歌意が異なる、というのは、これまでの『猿丸集』歌とその類似歌の関係がつづいていることになります。

 

12.同じ歌群の1-1-198歌の検討

① 1-1-198歌は、この類似歌(1-1-204歌)を含む歌群(「きりぎりす等虫に寄せる歌(1-1-196歌~1-1-205歌 )にあり、『猿丸集』第38歌の類似歌です。この類似歌の配列からの考察に資するため、ここで、この歌群の歌としての検討をしておきます。(第38歌との対比等は別途行います。)

 1-1-198歌 「題しらず  よみ人しらず」    巻第四  秋歌上

     あき萩も色づきぬればきりぎりすわがねぬごとやよるはかなしき

 

② 現代語訳の例を示します。

  • ・ 「秋萩も色づいて秋も深くなったので、こおろぎも、私が悲しくて夜も眠れないように、夜は悲しいのであろうか、こんなに鳴きしきっているが。」(久曾神氏)
  • ・ 「秋は深くなり、萩の葉も色づいてきたので、そこに鳴くこおろぎは私が寝られないのと同様に、やはり夜が悲しくて一晩じゅう鳴き明かしているのだろうよ。(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

③ 語句について、検討します。

初句「あき萩も」の「萩」は、1-1-216歌などにも、鹿とあわせて詠まれているように、「あき萩」とは花が咲いている時期の萩の意であり、萩の花とは雄鹿の花妻を指す言葉であることをこの歌でも連想させます。「も」は、元資料の歌では、「秋萩やその他の草も」、の意で、色づくものが多くあることを作者が認識していることを示しています。観賞用に鉢植えしている萩ではなく、秋の野原にある萩に言及したのであり、野原では諸々の花が同時に咲き、それぞれ散ってゆく景が、「も」によって浮かび上がります。

古今和歌集』の巻第四におかれている歌としても、それで良い、と思います。

二句に「いろづきぬれば」とは、動詞「いろづく」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の已然形+助詞「ば」です。「ば」は、順接の確定条件を表わします。

④ 元資料の歌としてこの歌は、多くのものが生じているものを、順に三つ言い出しています。最初に、色づいてる萩その他の秋の花が咲きその時期が終ること、だから「きりぎりす」が沢山鳴きだしていること、そして作者には寝られない夜が続いていること、の3点です。

 言い換えると、萩は既に鹿の妻となり、そのほかの花も結ばれて実となっていったのであり、思い定めていた女性もそのほかの女性もそれぞれ結ばれてしまったこと、それが叶わず失敗した男が多く居てみな泣いていること、(泣くだけでなく)皆も私と同様寝るに寝られない夜をこの秋過ごしていること、の3点を暗示しています。そして五句で失敗した男は皆「悲しい」と詠っています。

 よみ人しらずの伝承歌は、相聞の歌が多いが、それにもう一つ意を重ねることができた歌が官人の愛唱歌となったのではないかと、推定します。

 『古今和歌集』には、見立ての歌が多いと諸氏が指摘しています。知的な関心と情緒的な関心から見立てている、といわれています。

⑤ この歌は 一見、四季の花の一つを例にして官人としての秋の感慨を詠っていますが、元資料の歌では、男同士慰め合った歌であり、集団の場では相手方の集団(女)に、可愛そうとおもったら何とかしてくれ、と謡いかけた歌と想像します。1-1-220歌も相聞歌であることを想起してください。

⑥ 『古今和歌集』の元資料としての歌は、相聞歌であったが、古今集の作者の時代、1-1-188歌のように「秋の思ひ」は、すべての物の運命を思うことに通じる「思ひ」であるなどという認識から、選ばれて愛唱されたのがこの歌ではないか、と思います。

 

⑦ 現代語訳を試みると、次のとおり。

「(鹿の妻である)秋萩もほかの花も色づいて秋も深くなってしまったので、こおろぎも、私が悲しくて夜も眠れないように、(相手のいない)夜は悲しいので一晩じゅう鳴き明かしているのだろうよ。」

 

 

 

 

⑧ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-29歌 あひしれりける女、ひさしくなかたえておとづれたりけるによみてやりける

     あづさゆみゆづかあらためなかひさしひかずもひきもきみがまにまに

 

類似歌 2-1-2841歌。巻十一のうちの 「譬喩(2839~) 」 

左注に「右一首、弓に寄せて思ひを譬へたるなり」とある。

     あづさゆみ ゆづかまきかへ なかみさし さらにひくとも きみがまにまに

 (梓弓 弓束巻易 中見刺 更雖引 君之随意)

 

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

  ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

 (2018/9/10  上村 朋)

付記1.牛車(ぎっしゃ・うしぐるま)について

① 『王朝文学文化歴史辞典』の「交通」の項によれば、牛車とは、人が座る台に轅(ながえ)と呼ばれる二本の棒を渡し、車をとりつけ、それを牛に引かせるようにした乗り物。牛車の種類は乗り手の身分や用途によって多岐にわたる。前後には簾がかかり、後ろから乗り、前から降りる。左右は窓(物見という)以外ふさがれている。定員は4人までで向かい合って座る。

② 『年中行事絵巻』によると、行幸の行列を牛車に乗って見てもよい。窓の高さにまで車が描かれている(「朝行幸」の巻)。行列には騎馬の者がいる。高貴の方の公式行事に使用する牛車には窓(物見という)がない(「関白賀茂詣」の巻)。

(付記終り 2018/9/10   上村 朋)