わかたんかこれ 猿丸集第49歌その2 おぼつかなくも

前回(2019/9/9)、 「猿丸集第49歌その1 よぶこどり」と題して記しました。

今回、「猿丸集第49歌その2 おぼつかなくも」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第49歌 3-4-49歌とその類似歌

① 『猿丸集』の49番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-49歌 詞書なし(48歌の詞書と同じ:ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ)

をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

古今集にある類似歌 1-1-29歌  題しらず     よみ人しらず

      をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。しかし、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、次のステップに進みましょうと誘っている恋の歌であり、類似歌は、春がきて喜ぶ鳥を詠う歌です。

2.~4. 承前

古今集にある類似歌1-1-29歌は春歌上にあるので、その配列を最初に検討し、前回のブログ(2019/9/2付け)の付記1.の表を得た。検討の結果、概略次のことが判った。

第一 春歌上の部は、歌番号が奇数とその次の歌が対となって配列されている、と理解できる。

第二 それは、日常的な贈歌と返歌等また歌合という2組が爭うゲームにおいて二首ごとに勝負を付けることが既に確立していることなどの慣習に従ったからであろう。先行して編纂された『新撰万葉集』も和歌と漢詩で対となっている。

第三 春歌上の部の歌68首は、(ブログ(2018/10/1付け)で指摘した「現代の季語相当の語句」よりも)当時の感覚で「自然界の四季の運行と朝廷の行事などを示す語句を歌に用いて、歌を時間軸に添い配列している。

第四 そして68首は、時間軸に添った9つの歌群として配列されている。歌群に名前を付けるとつぎのとおり。()内に前回ブログ(2018/10/1付け)での歌群との対応を記す。

1-1-1歌~1-1-2歌:立春の歌群 (前回と同じ)

1-1-3歌~1-1-8歌:消えゆく雪の歌群 (雪とうぐひすの歌群を二分)

1-1-9歌~1-1-16歌:うぐひす来たるの歌群 (雪とうぐひすの歌群を二分)

1-1-17歌~1-1-22歌:若菜の歌群 (前回と同じ)

1-1-23歌~1-1-30歌:春すすむ歌群 (山野のみどりの歌群に鳥の歌群の3首に対応)

1-1-31歌~1-1-42歌:梅が咲く歌群 (鳥の歌群の1首と二分した香る梅の歌群)

1-1-43歌~1-1-48歌:梅が散る歌群 (香る梅の歌群を二分)

1-1-49歌~1-1-60歌:桜が咲く歌群 (咲き初め咲き盛る桜の歌群の大半)

1-1-61歌~1-1-68歌:桜を惜しむ歌群 

(咲き初め咲き盛る桜の歌群の残りと盛りを過ぎようとする桜の歌群)

第五 前回で指標とした現代の季語と当時の時節を代表する語句との違いは、その後の歌人の美意識の違いの一端を示しているのであろう。

第六 前回保留とした1-1-29歌の「視点1(時節)」は春(三春)であろう。「ゆぶこどり」は現代の季語を記す歳時記にないが、「囀り」は現代では春の季語である。平安時代においても春の歌に用いるのに違和感はないと思う。「よぶ」は「囀り」(春(三春))と言い換えられるので、時節は春(三春)となる。

第七 今回、付記1.の表において、保留としたままで検討したのは、1-1-29歌と1-1-30歌の「歌の主題」である。それは類似歌である1-1-29歌の理解のための前提として配列を検討しているからである。

第八 類似歌は、春すすむ歌群8首の7番目に配列されている。この歌群は、梅と桜と行事を除く春の景物を詠っている。また6番目の歌1-1-28歌の違和感解明が保留となっている。)

 

5.類似歌の検討その3 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

「どちらに行けばいいか案内もわからないような深い山の中で、不安そうに呼ぶような声で呼子鳥が鳴いていることよ。」(久曾神氏)

「地理不案内であっちへ行けばどこへ出るのか、こっちへ行けばどこへ行くのか、その見当もつかない山の中で、おぼつかなくも呼ぶ喚子鳥かな。」(『例解古語辞典』 立項した「たづき」の用例にあげる)

「(初句~三句)どこがどことも見当がつかない山の中に」(鈴木氏)

「あちらこちらの見当さえつきかねる山中で、誰かを呼ぶように頼りげなく鳴く呼小鳥であることよ。その声を聞くとそぞろ不安の念におそわれる。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

「あっちへ行けばどうで、こっちへ行けばどうという見当もつかない山中で、(どこで鳴いているのやら)まるで茫漠としたさまで呼ぶ呼子鳥よなあ。」(竹岡氏)

② 「よぶこどり」については、「古今伝授の秘伝の三鳥の一。諸説がある。ほととぎす・郭公などであろう。呼ぶような声で鳴く鳥。」(久曾神氏)とか、「カッコウの異名か。「呼ぶ」をかける。」(鈴木氏)とか「鳥の名。カッコウともいわれるが、不明。(季語としては)春。」(『例解古語辞典』)、「「呼ぶ」は動詞「呼ぶ」と「呼小鳥」の掛詞」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)という説明があります。竹岡氏は「呼ぶような声で鳴く鳥」と指摘しています。

③ 『萬葉集』に「よぶこどり」の用例を8首みつけましたので、ここに記します。

2-1-70歌:万葉仮名表記で「呼児鳥」

2-1-1423歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1451歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1717歌:万葉仮名表記で「呼児鳥」

2-1-1826歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1832歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1835歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1945歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

土屋文明氏は、2-1-70歌において「子、即ち人間を呼ぶように聞こえる鳥」とし、「郭公。山鳩等の類であろう」と指摘しています。

この8首では、「よびぞきこゆる」(2-1-70歌)、「なきわたる」(2-1-1717歌、2-1-1835歌)、「やへやまこえて」(2-1-1945歌)など、鳴きながら飛んでいる鳥、鳴き続けている鳥、が「よぶこどり」の一面と見えます。

④ 「おぼつかなし」とは、辞書につぎのようにあります。

「aはっきりしない、ぼんやりしている。b(ようすがわからないので)きがかりだ。不安だ。c待ち遠しい。もどかしい。」(『例解古語辞典』)

「aぼんやりしてよくみえない。光が不足ではっきりみえない。b音声について、ぼんやりして何の音かわからない。聞こえない。c対象の様子がはっきりしない。そのため不安である。dこちらからの働きかけに対し、相手の反応がない。e直接あうことができない。f気がかりであいたい。」など(『古典基礎語辞典』)

竹岡氏を除く訳例は、すべて、上の句の理解からみると、この下句における「おぼつかなし」を、「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安だ。」あるいは「対象の様子がはっきりしない。そのため不安である。」の意に該当させていると思えます。

竹岡氏は、『萬葉集』、『古今和歌集』、『土佐日記』、『枕草子』及び『名義抄』を考察し、「おぼつかなし」は「正体が把握できず、茫漠とした感じでとらえどころもなく、心もとないさま」をいう、と指摘しています。「不安」の思いは二の次の理解です。この歌は、「とらえどころもないような声で、その姿も見せず、どこからともなく鳴いているのが聞こえて来る感」を表わすのが「おぼつかなし」であり、この語が「この一首の中心である」と氏は指摘しています。

⑤ 春歌上の配列を検討したことからいうと、作中人物が不安を詠うとは思えません。五句にある「かな」は、詠嘆的に文を言いきるのに用いられる終助詞ですが、不安であるかどうかを必ずしも意味しません。そのため、竹岡氏以外の上記の訳例に納得がゆかないところです。

また、「よぶこどり」が今囀っているところが「山中」です。竹岡氏の場合、よぶこどりが「見当もつかない」山中にいるとすると、結局所在地あるいは行くべき所が判らないことになり、不安の感情が「よぶこどり」に生じていることになります。作中人物にとり「見当もつかない」山中であれば、「こっちへゆけばどう」というのが作中人物の行動となり、よぶこどりと共に「山中」にいることになり、よぶこどりの鳴き声を楽しむどころではないことになります。竹岡氏の訳例も気になります。

6.類似歌の検討その4 現代語訳を試みると

① この歌の文構成は、

文A (「しらず」の主語にあたるもの・者は)をちこちのたづきもしらず

文B (・・・知らぬ)山中に(それは)おぼつかなくもよぶこどり(なり)かな

と理解できます。

動詞は、文Aでは「しる」の一語、文Bは、「よぶ」を動詞と認めると、その一語です。この場合、「よぶ」は、動詞「(おぼつかなくも)よぶ」と鳥の名の一部を成す「よぶ」を掛けています。また文Bには断定の助動詞「なり」があります。

文Aは、この文の終わり方が「(しら)ぬ」と連体形であるので直近の名詞(文Bの山または山中)を修飾しています。文Bの主語は「それ」であり、作中人物が「耳にした鳴声を発している鳥たち」を指します。そして、名詞に詠嘆の助詞「かな」がついて終わっています。だから、この歌は、鳥の鳴き声を耳にした作中人物が、「あれは、よぶこどりだ」と確信して詠嘆的に呟いた瞬間を歌にしていると思えます。

文A及び文Bには推測・推量の助動詞がなく、類推の助詞もありません。そして、形容詞「おぼつかなし」には「不安そうである」という推測の意はなく、「不安である」等という断定して認識している意のみです。

作中人物は、姿ではなく鳴き声という聴覚の情報で「よぶこどり」と確実に判定し、鳴声を発した場所も指定したエリアが広いのですが確定する表現をしています。だから、「よぶこどり」は、どういう時に鳴くのか作中人物は事前に承知していたはずです。その状況を、初句から四句に推測・推量の結果ではない表現でしている、と理解できます。思っていた通りに鳴声が聞こえた、というのが、五句を名詞+「かな」としている理由ではないでしょうか。

② このため、久曾神氏の現代語訳は、意訳をしており、この歌は、文の構成に忠実ならば、「・・・・しているよぶこどりだなあ」あるいは、「・・・しているのがよぶこどりだなあ」という訳し方になるでしょう。

③ さて、初句にある「をちこち」を『例解古語辞典』は、空間的に遠方と手前の方をいう「あちらとこちら。あちらこちら。」と説明し、「をち」について「遠方・はるかかなた。」、「こち」について「a東風:春、東から吹く風。b此方:近称。方角を表わす語。あるいは「こちらへ」の略、等」と説明しています。

『古典基礎語辞典』は、「をちこち」も「をち」も立項していません。『角川古語大辭典』は、「をち」を「彼方・遠:aあちら。かなた。空間的に遠く隔たった地点。b現在から時間的に遠く隔たった時点。」とし、「をちこち」を、「aあちらこちら。あたり一帯。b将来の現在。今も行末も。」と説明しています。

このため、ここでは、空間的に遠方と手前の方をいうほかに、時空的に未来と現在をもいう語句として理解して検討します。

④ この歌の前後の配列をみると、春の進行を、柳など植物の葉の色が濃くなってくると詠ったあと、鳥の囀りを詠い、この歌となっています。そのため、この歌での「をちこち」は、進行する春を、空間的に遠方でも手前の方でも春の進行を認めることができる、という文脈で用いている、と思います。時空的に未来と現在を詠う歌をここに配列する必然性はありません。

⑤ 二句にある「たづき」には、「手段」「見当」のほか「様子」の意もあります(『例解古語辞典』)。ここでは、「をちこち」が、空間的の遠近の意なので「(をちこちの)様子」の意が妥当であろうと、思います。

⑥ 四句「おぼつかなくも」とは、この歌群の歌が春の喜び・楽しみを詠っている歌であるので、上記5.④で指摘したように、配列から言っても、作中人物が単なる不安を詠うとは思えません。たとえ不安を感じても喜びのなかでのちょっとした不安であろうと推測できます。

だから、この歌での「おぼつかなし」の意は、上記5.③に示した意のうち、「はっきりしない、ぼんやりしている。」あるいは「音声について、ぼんやりして何の音かわからない。聞こえない。」ではないでしょうか。

⑦ 五句にある「よぶこどり」とは、(前回2019/9/9付けのブログの)「3.⑦」に記したように、あちこちから聞こえてくる「囀っている鳥たち」と理解するのが素直であろうと思います。また、『萬葉集』の用例の意を引き継いでいます。

⑧ このような検討を踏まえ、配列を念頭に、1-1-29歌の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「遠い山なのか近い山なのか分からないが、山のほうから鳴き声が聞こえてくる。よく聞き分けられないが沢山の鳴いている鳥たちだなあ。(春を喜んでいる鳥なのだなあ。)」

このように、上記①で述べたように、作中人物は、この歌における「よぶこどり」が春を喜んでいる鳥であることを認めており、春は喜びの季節であることも認めたうえで、この歌を詠んでおり、何か感慨がこみあげてきたのでしょうか、詠嘆的に詠っている、と理解できます。

その感慨は、春の憂愁なのでしょうか。宿題です。

この歌は、よみ人しらずの歌です。元資料の歌の意が、不安を感じている訳例のようになる可能性を否定しませんが、『古今和歌集』の編纂者は、元資料の歌が、このように理解できるので、ここに配列していると思えます。

⑨ ちなみに、聞いた情報に基づいて詠んでいるほかの2首の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

この2首も、春の部に配列されていることに留意すべきです。(ともに、1-1-28歌の五句「我ぞふりゆく」という述懐に関して、次回に述べるような検討結果を受けた試案です。)

 

1-1-28歌は、題しらずの歌です。

「たくさんの鳥が、楽し気にさえずる春は、ものはすべて新しく改まるけれども、私だけは春がくるたびに感激が薄らいでゆくし、そして涙がとめどなくおちる。」

 

1-1-30歌は、詞書があります。

「(春に、)雁の声を聞いて、越の国へ着任した人を思って詠んだ歌     凡河内みつね

春がくれば雁はあのように北に帰るのだ。白雲が示すようなはっきりした道。そこを堂々とゆく雁に、貴方への便りを言付けたいものだ。」

 

1-1-28歌の作中人物の感慨は、1-1-29歌の作中人物の感慨と同じ春の憂愁なのでしょうか。

 

7.3-4-49歌のよぶこどり

① 3-4-49歌を、まず詞書から検討します。3-4-48歌と同じですので、3-4-48歌の検討結果を引用します。

「文をおくっている女が、大変素気ない接し方をするばかりという状況であったときに、春頃(送った歌)」

ふみのやりとりはしてくれるものの、先に進むのをじらしているのか、あるいはためらっているのかわからないという状態が続く女に、「あら。まあ。・・・」という歌を春頃作者は送ったところです。

② だから、この歌は、同一の詞書である3-4-48歌と同時か、3-4-48歌の返歌を貰えないままその次に女に送られた歌かと推測します。

さて、類似歌1-1-28歌の「よぶこどり」に、鈴木氏のいうように、「呼ぶ」意が掛かっているとみると、「よぶこどり」は、「呼ぶ」+「小(子)」+「鳥」でもあるので、その意はいくつか考えられます。その構成語の意を整理すると、次の表が得られます。

 

表 「よぶこどり」の構成語の意味の抜粋(『例解古語辞典』などより)    (2019/9/16現在)

意義分類

よぶ(呼ぶ)

どり(鳥)

A

(大声で声をかける)・呼び掛ける・囀る

接頭語「小」。「形が小さい」意を添える。

「鳥類の総称」の意

B

自分のところへ来させる。呼び寄せる。

名詞「子」。「人を、親愛の情をこめて呼ぶ語」

「相手の女」の意

C

名付ける。

接頭語「小」。「軽蔑したり、憎んだりする気持ち」を添える

「相手の周りの人々」の意

D

 

接頭語「小」。「分量が少ない」意を添える

「作中人物=作者」の意

E

 

接頭語「小」。「程度が少し」の意を添える

 

F

 

接頭語「小」。身分・地位の低い意を添える

 

 

詞書に記されている状況下で用いられる可能性のある「よぶこどり」の意を整理すると4案が残ります。

第一案 「呼ぶ」A+「こ」A+「どり」A:「呼びかけ合って囀っている鳥たち」であり、類似歌1-1-29歌の「よぶこどり」に同じ意。

第二案 「呼ぶ」B+「こ」B+「どり」B:「呼び寄せる可愛い子である貴方」(相手の女を指す)

第三案 「呼ぶ」A+「こ」C+「どり」C:「大声をあげている小憎らしい貴方の周りの人達」

第四案 「呼ぶ」A+「こ」F+「どり」D:「大声をあげている身分の低い私」(作中人物がへりくだっていう自称)

類似歌1-1-29歌の「よぶこどり」と同じように複数の意となるのは、上記の第一と第三だけです。そして、同一の詞書で相手の女に送られている2首のうちの1首がこの歌であるので、第一案であれば何かを掛けて用いる場合であり、掛けるのは第二案以下であると思います。そのため、第三案のみを候補とします。

「よぶこどり」が単数の意となる第二と第四も、『猿丸集』の編纂者が3-4-48歌まで同音異義の語句を多用していることから簡単に排除することができません。『萬葉集』以来の「鳴きながら飛んでいる鳥、鳴き続けている鳥」のイメージは、この3案にもあります。

この3案は更に検討を要します。

 

8.3-4-49歌の各案の現代語訳を試みると

① 最初に、「よぶこどり」の意が第二案の場合を試みます。

第二案の「よぶこどり」は、「「呼ぶ」B+「こ」B+「どり」Bの組み合わせであるので、おおよそ「呼び寄せる可愛い子である貴方(相手の女)」の意となります。

女との関係をさらに深めたい作中人物は、3-4-48歌で「あらすきかへしても見」ようとしている女と表現した相手に、「可愛い」と呼び掛けるのですから、四句「おぼつかなくも」は、「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安でもある」意より、「あらすきかへ」されても結果に自信満々であると思われる作中人物として「待ち遠しい。もどかしい。気がかりであいたいところでもある」、の意が適切でしょう。

あるいは、類似歌と同じように「よぶこどり」の修飾語として「よぶこどり」の心境の表現とすると、「対象の様子がはっきりしない。そのため不安である」意ともなります。

② 三句にある「山中に」、そのような「よぶこどり」がいるというのですから、「山中」の「山」とは、女の親族や女に仕えている指南役の女性たち、と理解することが可能になります。

だから、初句にある「をちこち」は、空間的な遠近を援用し、相手の女との関係の遠近を意味する、と理解し、「たづき」とは、作中人物と女の間にある問題の解決策(手段・3-4-48歌にいう「あらすきかへす」方法)の意とすると、

初句から三句は、「親族や指導役の女性の召使が「あらすきかへす」方法も知らずに集まっている中に居て」の意と理解できます。

③ そのため、歌全体の現代語を試みると、

「貴方との関係に遠近の差のある人達が「あらすきかへす」方法も知らずに集まっている中に居て、(私との距離が縮まらないので)「待ち遠しい。もどかしい。気がかりであいたい」ところの「呼び寄せる可愛い子である貴方なのだなあ。」」の意と理解できます。

あるいは、

「あれとかこれとかの心配事を解決する手段が判らない人達に囲まれ、山の中にいるような状態になり、この先に私との関係に不安を感じているよぶこどりさんだねえ。」

となります。

女との関係が、このような歌や文の往復の段階で留まっているのは、周囲の者の仕業であり、「あらすきかへす」までもなく私を信じていますよね、と訴えた歌、あるいは、「あらすきかへす」ことをすすめられるなどたいへんですえ、と慰めている歌となります。

④ 次に、第三案の「よぶこどり」は、「呼ぶ」A+「こ」C+「どり」Cの組み合わせであり、おおよそ「大声をあげている小憎らしい貴方の周りの人達」の意となります。具体には、親兄弟・女を指導等する役割で仕えている人たちを、暗喩している、という理解です。

四句「おぼつかなくも」は、よぶこどりにとり、作中人物との交際の進め方の「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安。」」という意が適切でしょう。

三句の「山中に」とは、女が「すきかへ」そうとする行為の数々を云い、その行為の数々を「をちこちのたづき」と表現したと、思えます。

⑤  そのため、「おぼつかなくも」はよぶこどりの心境の形容と理解して、歌全体の現代語を試みると、

「現在の対応と未来の対応(「すきかへす」こと)も暗中模索で、不安を感じつつ大声をあげている小憎らしい貴方の周りの人達だなあ」

となります。

二句にある「たづき」とは、「手段」の意です。

⑥ 次に第四案の「よぶこどり」は、「呼ぶ」A+「こ」F+「どり」Dの組み合わせであり、「大声をあげている身分の低い私」(作中人物)の意となります。

四句「おぼつかなくも」は、「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安だ。」意で、よぶこどりの心境をいうのでしょう。

初句にある「をちこち」は、空間的よりも時空的なことを指し、初句から三句は、「現在の対応と未来の対応(「すきかへす」こと)のやり方にも苦慮している最中」の意に理解できます。

⑦ そのため、歌全体の現代語を試みると、

「現在の対応と未来の対応(貴方がすきかへすこと)に対し、苦慮している状況下にあって(ようすがわからないので)きがかりだ。不安から大声をあげている身分の低い私ですよ。」

もうすこし言葉を選び現代語訳を試みると、

「あちらなのかこちらなのかどこかわかりません山の中で、もどかしい思いで貴方に呼び掛けている呼子鳥です(それが私です。)」

⑧ これらの案は、類似歌1-1-29歌の理解が諸氏の訳例のようであっても「よぶこどり」の理解は上記と共通なので成立します。

 

9.3-4-48歌との関係

① 同一の詞書のもとにある2首のうちのあとの方にある歌が、この歌です。

3-4-48歌は、この歌3-4-49歌から振り返ると、「すきかへして」ごらんなさい、と勧めているかにもとれます。または、女の周囲の人々に決断を促しているかにも見えます。

3-4-48歌の理解は一つの理解に落ち着きましたが、3-4-49歌の理解は上記のように幅があります。しかし、女との距離を縮めたい作中人物からみれば、これらの歌をどのように理解されても、女に想いを寄せているのが嘘偽りないことだと証明するものとなるよう、工夫しているはずです。

② 作者は、相手の女の側にも1-1-29歌を承知している人がいる、と思っていますので、この歌の類似歌における「よぶこどり」の意が、鳥たちの行動のうち「囀っている」状況の鳥を指して(前回のブログ(2019/9/9付け)の「4.⑧」参照)いるように、「囀る」を重視して3-4-49歌も理解されると、第三案が有力な現代語訳(試案)になります。この案は、女が「すきかへす」準備に当たっている人達の苦労に思いを馳せています。

また、第二案も第四案も、相手方を誹謗していると理解するのは難しい案の歌です。

③ だから、3-4-49歌の現代語訳を1案に絞り込むのは、『猿丸集』の編纂者は望んでいないのではないか、と思います。歌全体が二つの意を持つ歌を否定しているとは思えません。

④ それでも1案にするとするならば、詞書「ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ」の「はるころ」が、3-4-48歌の理解を促したように、この3-4-49歌も「はるころ」を重視して、理解したいと、思います。

春に田を「すきかへす」のは、田植の準備であり、その準備は大勢の人が通常は共同で行うものです。「よぶこどり」には「春」の田で仕事に勤しむ人々と同じように種々準備を進めている相手の女の周囲の人々を積極的に掛けているのではないか。

そのため、複数を意味する唯一の理解である、よぶこどり第三案を、ここでの現代語訳としたい、と思います。

⑤ 現代語訳を、詞書に従い、よぶこどり第三案で、上記「8.⑤」をベースに試みると、つぎのとおり。

「(「すきかへす」ため)あのことやこのことなど支度に大変であり、その進捗に不安を感じつつも大声をあげているちょっと憎みたくなる貴方の周りの人達だなあ。」

周りの人達も、歌や文の往復から早く踏み出せばよい、と考えているはずなので、このような「すきかへす」ことの準備はチャンスを逃すと考えているのではないか、という気持を言外に込めている歌です。

いずれにしても、よぶこどりの意がどの案でも、作中人物の自信は揺らいでいません。

 

10.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-39歌は、経緯を記していますが、類似歌は、題しらずで、まったく不明です。

② 二句にある「たづき」の、意が異なります。この歌は、「すきかへす」女の側の対応を指し、類似歌は、(山中の)様子を指しています。

③ 四句にある「おぼつかなし」の意が異なります。この歌は、「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安。」、の意であり、類似歌は、「はっきりしない、ぼんやりしている」、の意です。

④ 五句の「よぶこどり」が含意する意味が異なります。この歌は、「ふみをやりける女」の周りの人々をも意味しますが、類似歌は、鳴いている自然界の鳥(複数)のみを意味します。

⑤ この結果、この歌は次のステップに進みましょうと誘っている恋の歌であり、類似歌は春がきて喜ぶ鳥を詠う歌です。

⑥ さて、次回は、春の歌として違和感をもった1-1-28歌について検討したい、と思います。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

(2019/9/16   上村 朋)

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第49歌その1 よぶこどり

前回(2019/9/2)、 「猿丸集第48歌その2 あら あら」と題して記しました。

今回、「猿丸集第49歌その1 よぶこどり」と題して、記します。(上村 朋)

(2019/9/16に、「よぶこどり」に関して一部追記) 

1. 『猿丸集』の第49歌 3-4-49歌とその類似歌

① 『猿丸集』の49番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-49歌 詞書なし(48歌の詞書と同じ:ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ)

をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

古今集にある類似歌 1-1-29歌  「題しらず     よみ人しらず

をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。しかし、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、次のステップに進みましょうと誘っている恋の歌であり、類似歌は、春がきて喜ぶ鳥を詠う歌です。

2.類似歌の検討その1 古今集巻第一の配列の特徴などから

① 古今集にある類似歌1-1-29歌は、巻第一春歌上にあります。その配列を最初に検討します。

春歌上の配列は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1付け)で一度検討しました。しかし、類似歌1-1-29歌の時節の推定を保留したうえの検討でした。

そのため、春歌上の配列を改めて検討することとします。

上記ブログ(2018/10/1付け)での検討方法は、「『古今和歌集』歌をその元資料の歌と比較するため、元資料を確定あるいは推定し、その元資料歌における現代の季語(季題)と詠われた(披露された)場を確認し、その後『古今和歌集』の巻第一春歌上の配列を検討する」というものでした。

その結果、上記ブログ(2018/10/1付け)の付記1.の「表 古今集巻第一春歌上の各歌の元資料の歌の推定その1~その4」(2018/10/1現在)を得たところです。

そして、巻第一春歌上の配列の基本は、「巻第四秋歌と同様に、現代の季語相当の語句とその語の状況を細分して歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、歌を並べている。」、と推測しました。

② この結論は、四季を官人が認識する指標としていたところの当時注目していた天文・動植物や朝廷の行事や慣習にあまり考慮せず、現代の季語を手掛かりにした検討結果であり、また歌の配列として一対の歌を単位としているかどうかも未検討です。

今回は、「現代の季語相当の語句」に替わり、官人が当時の季節・時節を表わす語句を歌や詞書に探り、その語句を用いて、春の歌として歌の主題、作中人物が訴えたいこと(情)及びそのため詠われている景(情を兼ねて詠っていても)を推測しました。そして、ブログ(2018/10/1付け)において推定したところの詠われている時節を参考に、歌群(案)を推測しました。

そうして得たのが、下記に記す付記1.の「表 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その1~その4」です。

③ そして下記のような検討をしたところ、次のことが配列に関して指摘できます。

第一 春歌上の部は、歌番号が奇数とその次の歌が対となって配列されている、と理解できる。

第二 それは、日常的に歌は贈歌と返歌や恋のやりとりで一対となりやすいこと、歌合という左右2組が爭うゲームにおいて二首ごとに勝負を付けることが既に確立しており、歌を番(つがい)で楽しむことが定着していたと思われること(ゲームとしては左右どちらの組が勝つかというもの)、遡れば、男女が歌を掛け合う歌垣という行事でも共通の題材や思いで競る(つまり対の歌と理解する風習)ことが多かったこと、などの慣習があったからである。また、先行して編纂された『新撰万葉集』も和歌と漢詩で対となっている。

また、『古今和歌集』の編纂者の一人である紀貫之の編纂した『新撰和歌』は、その部立の名も『古今和歌集』と異なり、対を意識しており、歌も2首一組を単位として配列している。

第三 春歌上の部の歌68首は、(ブログ(2018/10/1付け)で指摘した「現代の季語相当の語句」よりも)当時の感覚で「自然界の四季の推移と天の運行を示す語句を歌に用いて、歌を時間軸に添い配列している。さらに配列には朝廷の行事なども意識していると思われる。

第四 そして68首は、時間軸に添った9つの歌群として配列されている。歌群に名前を付けるとつぎのとおり。()内に前回ブログ(2018/10/1付け)での歌群との対応を記す。

1-1-1歌~1-1-2歌:立春の歌群 (前回と同じ)

1-1-3歌~1-1-8歌:消えゆく雪の歌群 (雪とうぐひすの歌群を二分)

1-1-9歌~1-1-16歌:うぐひす来たるの歌群 (雪とうぐひすの歌群を二分)

1-1-17歌~1-1-22歌:若菜の歌群 (前回と同じ)

1-1-23歌~1-1-30歌:春すすむ歌群 (山野のみどりの歌群に鳥の歌群の3首に対応)

1-1-31歌~1-1-42歌:梅が咲く歌群 (鳥の歌群の1首と二分した香る梅の歌群)

1-1-43歌~1-1-48歌:梅が散る歌群 (香る梅の歌群を二分)

1-1-49歌~1-1-60歌:桜咲く歌群 (咲き初め咲き盛る桜の歌群の大半)

1-1-61歌~1-1-68歌:桜惜しむ歌群 

(残りの咲き初め咲き盛る桜の歌群と盛りを過ぎようとする桜の歌群)

第五 前回で指標とした現代の季語と当時の時節を代表する語句との違いは、その後の歌人の美意識の違いの一端を示しているのであろう。

第六 前回保留とした1-1-29歌の「視点1(時節)」は春(三春)であろう。「ゆぶこどり」は現代の季語を記す歳時記にないが、「囀り」は現代では春の季語である。平安時代においても春の歌に用いるのに違和感はないと思う。「よぶ」は「囀り」(春(三春))と言い換えられるので、時節は春(三春)となる。

第七 今回、付記1.の表において、保留としたままで検討したのは、1-1-29歌と1-1-30歌の「作者が訴えたいこと」である。それは類似歌である1-1-29歌の理解のための前提として配列を検討しているからである。

第八 類似歌は、春すすむ歌群8首の7番目に配列されている。この歌群は、梅と桜と行事を除く春の景物を詠っている。

④ また、『古今和歌集』は、その巻の最初の歌と最後の歌に、その巻の内容に即した歌を配置してあるという諸氏の指摘も前回に続き確認しました。

春歌は、上下二巻ありますので、それぞれの最初の歌と最後の歌をみると、つぎのとおりです。

1-1-1歌:四季の春の最初の日(立春)を詠う、と詞書に明記している。

そして、暦の上の立春と心待ちした春の関係の変動を楽しんでいるかに見える歌となっている。

1-1-68歌:山里の桜(同じ花の種類でも気温等により通常は遅く咲く)が咲いているのを詠う。

そして、惜しみなく春を楽しみたいと詠う。

1-1-69歌:題しらずの歌で、山里の桜が散り始めるのを詠う。

そして、桜自身が、咲いている状態から自ら変化してみえる、と詠う。

1-1-134歌:「はるのはてのうた」、と詞書に明記している。(付記2.参照)

そして、桜の傍にいると今日でなくとも心安らかになる(明日からは違うのだ)と詠う。

このように、それぞれの詞書のもとで歌を理解すると、時節の進行は一方方向です。そして、この四首は春にあえたことを感謝し喜んでいるかの歌であります。だから他の歌もそのようなことにつながる歌であるであろう、と思います。

3.類似歌の検討その2 春すすむ歌群とその前後の歌群の検討

① 最初に、上記の2.③ 第四に示した歌群のうち、春すすむ歌群に属する歌の妥当性を確認します。この歌群は、1-1-23歌~1-1-30歌と示した理由を明らかにします。

1-1-23歌~1-1-30歌とこれらの歌の前後の一対の歌を、『新編国歌大観』から引用します。適宜現代語訳の例をも示します。

 

1-1-21歌  仁和のみかどみこにおましける時に、人にわかなたまひける御うた

君がため春ののにいでてわかなつむわが衣手に雪はふりつつ

「あなたにさしあげようと思って、春の野原に出て若菜を摘むとき、私の袖には雪がちらちらと降りかかっていました。」(久曾神氏)

氏は、「(当時貴族は)人に物を贈る時には、努力して得たことや、良いと思っていることを述べ、今日のように謙遜の辞はのべなかった」と指摘しています。

 

1-1-22歌  歌たてまつれとおほせられし時よみてたてまつれる     つらゆき

かすがののわかなつみにや白妙の袖ふりはへて人のゆくらむ

(現代語訳は割愛)

 

1-1-23歌  題しらず     在原行平朝臣

はるのきるかすみの衣ぬきをうすみ山風にこそみだるべらなれ

(同上)

 

1-1-24歌  寛平の御時きさいの宮の歌合によめる     源むねゆきの朝臣

ときはなる松のみどりも春くれば今ひとしをの色まさりけり

(同上)

 

1-1-25歌  歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる     つらゆき

わがせこが衣はるさめふるごとにのべのみどりぞいろまさりける

この歌の現代語訳は、これまでの方針に従い序詞も訳出します。例えば、

「わたしのいとしいおかたの衣を洗って張る――春雨が降るたんびに、野べの緑は、そら、色が増してきていた。」(竹岡氏)

 

1-1-26歌  (なし)(歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる     つらゆき)

あをやぎのいとよりかくる春しもぞみだれて花のほころびにける

この歌の現代語訳は、竹岡氏の理解に従います。花が散り始めている景を詠っています。

「青柳の、糸を撚って(枝に)掛けて張る、そんな春に限って、せっかくのその糸が乱れて、花(の衣)がほころびてしまうことだ。」

 

1-1-27歌  西大寺のほとりの柳をよめる     僧正 遍昭

あさみどりいとよりかけてしらつゆをたまにもぬける春の柳か

(現代語訳は割愛)

 

1-1-28歌  題しらず     よみ人しらず

ももちどりさへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞふり行く

(現代語訳は別途示す。五句「我ぞふりゆく」を諸氏は「私だけは古くなって行く」意としている。)

 

1-1-29歌  (上記1.に記す)

(現代語訳は別途示す)

 

1-1-30歌  かりのこゑをききてこしへまかりにける人を思ひてよめる     凡河内みつね

春くればかりかへるなり白雲のみちゆきぶりにことやつてまし

(現代語訳は別途示す)

 

1-1-31歌  帰る雁をよめる     伊勢

はるがすみたつを見すててゆくかりは花なきさとにすみやならへる

(現代語訳は割愛)

 

1-1-32歌  題しらず     よみ人しらず

折りつれば袖こそにほへ梅花有りとやここにうぐひすのなく

「先ほど梅の花を折りとったので、私の袖はこんなに香っているのである。それで梅の花が咲き匂っていると思っているのであろうか、ここでうぐいすが鳴いているよ。」(久曾神氏)

 

② 若菜つみの景は、2-1-18歌から2-1-22歌まで続いており、1-1-23歌からは山の景やまつのみどりなど樹木の景を詠う歌になります。また、1-1-21歌と1-1-22歌は若菜摘む喜びを詠い、参加した者の詠と参加した者たちを見ている者の詠となっています。次の2-1-23歌は、人のいる景でも若菜摘む景でもなく、一対とするならば、1-1-21歌と1-1-22歌のほうが良い。このことから1-1-22歌と1-1-23歌は別の歌群に属すると予測します。

また、雁を詠う歌が1-1-30歌から1-1-32歌まで続き、1-1-32歌は、既に詠ったことのある鴬が歌に登場します。1-1-31歌と1-1-32歌は花(梅の花)のある景です。花のある景はこの後1-1-48歌まであります。花を優先すると1-1-31歌以降が一つの歌群が有力な考えです。1-1-30歌と1-1-31歌の雁は、言付けをしたいほど信頼している景と花を避けようとしている景で信頼の有無で対比しているかにも見えます。1-1-30歌前後で別の歌群となることだけは十分予測できます。歌群の境の歌をさらに検討します。

③ これらの歌が詠っている景について、詞書とともに歌に用いられている語句及び当該歌の一部分のみからなる文に注目し(その文の暗喩などにはとらわれず)景を細かくみると、動植物の景の情報を直接得たとした場合の入手を視覚等に分かつと、つぎの表のように整理できます。そして歌の中の作中人物(主人公)が居る地点を、都の内外別に確認しました。

表 詠う景の細分内訳(1-1-21歌~1-1-32歌)   (2019/9/9現在)

歌番号等

詠う景の細分

都(宮中)の内外の別

植物

動物

その他

姿(見る)

香(匂う)

姿(見る)

鳴く(聞く)

姿(見る)

1-1-21

わかな

 

 

 

我&袖

1-1-22

わかな

 

 

 

人(若人)&袖

1-1-23

山々

 

 

 

霞&衣&山風

1-1-24

 

 

 

 

 内

1-1-25

野辺

 

 

 

雨&わがせこ

1-1-26

柳&花

 

 

 

 

 内

1-1-27

 

 

 

 

 内

1-1-28

 

 

 

ももちどり

我(老い人)

不定

1-1-29

山中

 

 

よぶこどり

 

1-1-30

 

 

 

白雲

 内

1-1-31

各種の花

 

 

1-1-32

 

 

 内

注)歌番号等:『新編国歌大観』の「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集の歌番号」

 

④ 1-1-21歌と1-1-22歌は、上記のように若菜つみの景の歌であり、人物が登場します。人物は以後途切れます。これをもって1-1-23歌を新たな歌群の最初の歌と仮定します。

⑤ その後、1-1-27歌まで植物の姿の景(視覚で得た景)を詠います。

1-1-28歌は、「囀る」と形容し、1-1-29歌は、「よぶこどり」という表現の「よぶ」に「呼ぶ」が掛かって仮定し、1-1-30歌は、「詞書」の「かりのこゑをききて」を考えると、みな鳴く鳥の景、つまり聴覚で得た景を詠います。また1-1-30歌五句の「ことやつてまし」は伝言つまり、雁の鳴き声ともとれます。

1-1-31歌は、鳥を視覚で得た景であり鳴き声を想定しなくともよい歌となっています。1-1-32歌は、また鳥を聴覚で得た景ですが鴬となります。鳥の歌は1-1-30歌で一区切りしているかもしれません。

一方季節の植物では緑の葉中心に1-1-30歌まで歌われ、1-1-31歌より花になり、その花は以後1-1-48歌まで続くことを考慮すると、1-1-31歌が新しい歌群の始まりと推測できます。

⑥ このように1-1-23歌から1-1-30歌を一つの歌群と捉えて、この前後の歌群との関係をみてみます。この歌群の前の歌は、草の若い芽が萌え出る歌であり、この歌群の歌が現代でも季語となる語(はる、まつのみどり、やなぎ)などを用いて春の景を述べ、そして、梅の咲き誇る景を詠う歌から始まる次の歌群が続いている、と概観できます。付記1.の表での歌群の区分はこれに従っています。

この歌群の順序からみると、この歌群の歌は、続々と樹木や草が繁りはじめている成長を喜びあるいはその楽しみを詠っているのではないか、と思います。

そうすると、その歌群にある鳥を詠む歌も、同じように動植物が成長する春の喜び・楽しみを詠っていると推測できます。

⑦ 1-1-28歌の「ももちどり」は、よみ人しらずの歌であるので、先行例としては、『萬葉集』の1首(2-1-3894歌)しかありません。その意は、3首(2-1-838歌、2-1-1063歌、2-1-4113歌)にある「ももとり」(万葉仮名「百鳥」)と同様に「たくさんのとり」でしたので、その意で下記の付記1.は整理しています。

1-1-29歌もよみ人しらずの歌ですが、「よぶこどり」の先行例はありません。

(注:『萬葉集』にあったので次回のブログ(2019/9/16付け)で紹介する(2019/9/16))

 「よぶ」を「囀り」ととらえた場合は、初句から三句で「よぶこどり」が居る場所が多岐に渡っているかに詠まれていますので、あちこちから聞こえる「囀っている鳥たち」と理解するのが素直であろうと思い、その意で下記の付記1.を整理しています。

 

4.類似歌の検討その3 春すすむ歌群のなかの鳥

① 歌群の確認が出来ましたので、付記1.の表で保留としているところを検討します。1-1-29歌と1-1-30歌の「歌の主題」欄です。

歌の主題ごとに対の2首は、どの歌群でも主題を浮かびあがらせるよう対比に工夫して配置されているようにみえますので、対となる歌を探します。対は1-1-28歌も対象となります。

1-1-28歌と1-1-29歌は、聴覚で得たものを詠う歌という共通点がありますが、奇数番号と次の歌が対となる、という原則からはこの2首は別々の歌の主題に分かれているはずですので、聴覚が関係しない要素によって対の歌があるはずです。

② 具体に1-1-28歌と対となる候補の歌1-1-27歌を検討します。この歌は、都にある西大寺の柳の景を詠んでいます。詠んでいる初句から四句にわたる柳の景は、詞書にいう「西大寺のほとりの柳」のみに生じる特有の現象ではありません。また「西大寺のほとりの柳」のみから感得する感慨でもありません。五句に作中人物がいうように(若木ではない)「春の柳」なら共通に生じる現象、人が感得する事柄です。歌の眼目は「春の柳」を詠うところにあります。

1-1-27歌は、「西大寺のほとりの柳」に、あるとき遭遇した実感を詠んでいるとの設定を詞書がしているところです。この設定は、元資料でもそうであったと思われます。竹岡氏は、この歌の作者僧正遍昭の『古今和歌集』記載の歌の詞書を調べ、「その(歌の)詠まれた場を説明した詞書がほとんどに付けられ」ており「撰者の作為ではなく、遍昭の歌には元来付いていたものであろうと思われる」と指摘しています。

元資料を離れても、『古今和歌集』におけるこの詞書は、「西大寺のほとりの柳」を、春のある日このように視界に入れて感じた・理解した、という歌と理解せよ、ということであるので、作中人物は、都にいることになります。

③ これに対して、よみひとしらずの歌1-1-28歌における、「ももちどり」が囀るところは、西大寺の周辺のような都ではなく、都の外の山をイメージできます。具体的には比叡山や、山荘・別荘を設けた都近くの山間です。

1-1-28歌の初句と二句の景は、聴覚(聞く)により得た景であり、それは作中人物の近くに「ももちどり」が近くに鳴いていれば直接作中人物は聞くことができますが、遠方の地で鳴く「ももちどり」を想定しているまたは伝聞で聞いたということも有り得ます。五句にある「我」の居る候補地は、そのため、上の表では、「不定」と表現しました。しかし、五句のためには初句と二句の景は、伝聞の情報(または既存の知識)で十分ですので、都に作中人物が居る、と理解してもよい、と思います。

しかし、「我ぞふりゆく」という作中人物の感慨が、「私だけは古くなってゆく」意では春の喜びを詠う歌として、物足りない、あるいは違和感があるものの、春の歌ではあります。

④ その違和感は別途検討することとして、1-1-27歌と1-1-28歌の共通点は、景として詠んでいる動植物の状況です。上記3.⑦で指摘したように「ももちどり」の春の喜び・楽しみを詠っているとすると、この2首は、官人だけでなく動植物も春を喜んでいる例を挙げている、と理解できる歌となりますます。そうすると、歌の主題は、例えば「日々に深まる」が想定できます。

情報を聴覚かどうかは関係ない歌の主題となりました。

⑤ つぎに1-1-29歌と対となる候補の歌1-1-30歌を検討します。

この歌は、帰る雁の景を詠んでおり、1-1-31歌と同じです。ただ、1-1-31歌は、「花」と和歌で表現している梅をなぜ雁は避けるのかと問うことは、梅の花を愛でている歌である、と理解できます。

その梅と親密な関係というより梅を好んでいる鴬が次の1-1-32歌に登場します。以後梅の景が登場する歌は1-1-48歌まで継続しています。1-1-32歌も1-1-33歌も梅を愛でています。梅を愛でる姿勢は1-1-31歌から変わっていません。これに対して、1-1-30歌は全く梅が登場しません。歌群の境は1-1-30歌と1-1-31歌の間にある可能性が高い、と思います。

うぐひすと梅の親密な関係は、既に詠まれており、改めて1-1-32歌で詠まれていることになります。そうすると1-1-32歌と1-1-31歌は梅を好くか好かないかの例を挙げていると理解して、1-1-33歌以降は梅の花より香を詠う歌として検討が可能です。

⑥ 1-1-31歌と1-1-30歌は雁の居る景を詠っています。しかし、梅の歌が以後だいぶ続いていることからも梅の景であるかどうかのほうを重要視してよい、と思います。

⑦ さて、一組前の1-1-27歌と1-1-28歌が「日々に深まる」という歌の主題のもとで喜ぶ動植物を各1首詠っている、とみることができますので、1-1-29歌と1-1-30歌は、春を満喫しようとする鳥とそれが止むを得ず出来ない鳥を対比している歌ではないか、と理解できます。

鳥であるならば、雁も含めて春は喜ばしいのですが、北の大地の神に呼び出されて雁は、止むを得ず日本を離れるという理解は、この歌群の中の1首となり得ます。

表の「作者が訴えたいこと」欄を保留していた1-1-29歌は「喜ぶ鳥」と、1-1-30歌を「無念の鳥」と推測し、1-1-30歌の「詠う景」欄の「飛ぶ鳥」を「呼び出される雁」と訂正したい、とます。

それには、情報入手の手段の差は二の次となります。

⑧ また、このような配列から、1-1-28歌の「ももちどり」は、どんどん緑が増してきているのに対比するには二三羽とか一種類の鳥ではなく、「もも(百)」も「ち(千)」もと数の多い状況を指すのに用いられていますので、この歌では「一種類ではない鳥が多数いる」状況を指している、と理解してよい、と思います。

万葉集」の用例による下記1.の表の整理は正しいと思います。

「よぶこどり」の実体も、「ももちどり」がそうであるならば、(少なくとも)1-1-29歌の「よぶこどり」も、「一種類ではない鳥が多数いて呼び合っている(かのような)」状況あるいは「一種類ではない鳥が多数いてそれぞれ関係なく鳴き続けている」状況を言っている、と思います。

⑨ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただきありがとうございます。

次回は、類似歌を検討します。

(2019/9/9   上村 朋)

付記1.古今集巻第一にある歌の検討一覧について

① 『新編国歌大観』による歌番号が奇数の歌とその次の偶数の歌が一組にされて配列されているかどうかを、確認した。

② そのため、歌の主題と歌での景を判定し、それにブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1付け)の付記1.にある「古今集巻第一春歌上の元資料の歌の判定表」の「(元資料の)歌での(現代の)季語」等をあわせて一覧としたのが以下の表1~4である。

③ 判定にあたって各歌の現代語訳は、久曾神氏の訳を基本とした。氏の理解に注を要する歌は「歌番号等」欄に「a」を付け表4の下段にまとめている注の「注3」に記した。

また「歌番号等」欄中の「*」は、よみ人しらずの歌である。

④ 「歌での(現代の)季語」欄の季語については、『平井照敏NHK出版季寄せ』(2001)による。

⑤ 1-1-29歌と1-1-30歌は、類似歌を含む対の歌なので、歌の主題は保留としている。本文4.⑦に記したように、検討の結果、1-1-29歌と1-1-30歌の「作者が訴えたいこと」は、「喜ぶ鳥」と「無念の鳥」、1-1-30歌の「詠う景」欄の「飛ぶ鳥」を「呼び出される雁」と訂正する。

表1 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その1 (1-1-1~1-1-20) (2019/9/9現在)

歌番号等

歌の主題

作中人物が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-1

立春

春を迎える戸惑い

年内立春(時系列・都)

こぞ・ことし

新年(こぞ・ことしによる)

第一

1-1-2

立春

春を迎える戸惑い

風(自然現象の先駆け例・山・鄙)

春立つ

初春

第一

1-1-3*

春いづこ

待ち遠しい

霞(都と吉野の対比・都)

はるかすみ

三春(雪は晩冬)

第二

1-1-4 a

春いずこ

待ち遠しい

氷融けず(山・鄙)

春(来)

うぐひす

初春(春来による)

第二

1-1-5 a*

春近づく

鴬の初声

梅の花を促す鴬の声

梅・うぐひす

初春(梅による)

第二

1-1-6 a

春近づく

鴬の初声

梅の花とみて鳴く鴬

春た(てば)

花・うぐひす

初春(初句の「春たてば」による)

第二

1-1-7 a*

雪消えゆく

それもうれしい

枝におく雪(自然)

(きへあへぬ)雪 花

晩冬(雪による)

第二

1-1-8

雪消えゆく

それもうれしい

頭上に戴く雪(人事)

春の日

(かしらの)雪

三春(春の日による)

第二

1-1-9

萌え出るもの

眼に見えるもの

木の芽ふくらみ花咲く

かすみ・はる

このめ

初春 (はるの雪(が)ふるにより初春とする)

第三

1-1-10

萌え出るもの

耳に入るもの

鴬だけは鳴いていない

春・花

うぐひす

初春(花は梅をいうので)

第三

1-1-11

春来たる

信じられない

鴬鳴かず(耳に)

春(来ぬ)

うぐひす

初春(春来ぬによる)

第三

1-1-12

春来たる

信じられる

風に氷とけだす(眼に)

はつ花

(とくる)こほり

仲春(はつ花による)

第三

1-1-13

鴬来ているはず

早く聞きたい

風に乗る梅の香

うぐひす

初春(花による)

第三

1-1-14

鴬来ているはず

確信する

鴬が鳴く

うぐひす

春(くる)

初春(春くるによる)

第三

1-1-15 a

山里に春

いや遅い

鴬鳴けど梅は未だ

春(たつ)

花(もにほはぬ)・うぐひす

初春(春たつによる)

第三

1-1-16 *

山里に春

やっときた

鴬鳴く

うぐひす

三春

第三

1-1-17 a*

春日野の野焼き

春を実感

春の野遊び

わかくさ

(かすかの)なやきそ

初春(なやきそによる)

第四

1-1-1 a8*

春日野の野焼き

春を実感

春の野遊び

わかな

新年

第四

1-1-19*

若菜つむ

喜び

都の若菜つみ

わかな

新年

第四

1-1-20 a*

若菜つむ

喜び

待っていた雨

はるさめ

わかな

新年(わかなによる)

第四

注)「a」等については表その4の注にまとめて記す。

表2 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その2 (1-1-21~1-1-40) (2019/9/9現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-21 a

若菜つむ

喜び

参加した

春のの

わかな

新年

第四

1-1-22 a

若菜つむ

喜び

大勢の参加者がみえる

わかな

新年

第四

1-1-23 a

春すすむ

新緑まぶしい

山の緑濃くなる(山)

はる

かすみ

三春

第五

1-1-24

春すすむ

 

新緑まぶしい

松の緑濃くなる(宮中)

まつのみどり

春(くる)

初春(春くるによる)

第五

1-1-25 a

春深まる

心はずむ

春雨

はるさめ

(のべの)みどり

三春(はるさめによる

第五

1-1-26 a

春深まる

心はずむ

青柳

あをやぎ

晩春(あをやぎと花による)

第五

1-1-27

日々に深まる

柳はうれしかろう

柳濃くなる(眼に入る)

(あさ)みどり

しらつゆ(三秋の季語)

晩春(柳による)

第五

1-1-28 a*

日々に深まる

鳥たちもうれしかろう

鳥次々鳴く(耳に聞く)

ももちどり

三春

第五

1-1-29 a*

山も深まる

保留

呼び合う鳥(よぶこどり)

無し

保留(よぶこどりが不明)

第五

1-1-30 a

山も深まる

保留

飛ぶ雁

かりかへる

仲春(かりかへるによる)

第五

1-1-31

梅咲き誇る

梅の花に近づけないもの

はるがすみ

(みすててゆく)かり

仲春(みすててゆくかりによる)

第六

1-1-32*

 

梅咲き誇る

 

梅の花に近づけるもの

うぐひす

初春(梅による)

第六

1-1-33*

梅の香

人にまどわされ

人の香をもらう梅

うめ

初春

第六

1-1-34*a

梅の香

人をまどわす

やどの梅

梅(の花)

初春

第六

1-1-35*

罪な梅

香がまどわす

立ち寄っただけの梅

梅(の花)

初春

第六

1-1-36 a

罪な梅

花がまどわす

かざす梅

うぐひす

梅(の花)

初春(梅による)

第六

1-1-37

折った梅

近付けばさらに感じる

折った梅

梅(の花)

初春

第六

1-1-38

折った梅

近付けばさらに感じる

贈る梅

梅(の花)

初春

第六

1-1-39

夜の梅の香

香りは高貴

闇夜でも

梅(の花)

初春(梅による)

第六

1-1-40

夜の梅の香

香りは高貴

月夜でも

月夜

梅(の花)

初春(梅による)

第六

注)「a」等については表その4の注にまとめて記す。

 

表3 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その3 (1-1-41~1-1-48) (2019/9/2現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-41

盛んな梅の香

夜も昼も

都での闇夜

春の夜

梅(の花)

初春(梅による)

第六

1-1-42

盛んな梅の香

昔も今も

鄙での夜

初春(貫之集の詞書によれば花は梅を言う)

第六

1-1-43

年年歳歳

変わらぬ梅

鏡のような流水

春・花

晩春(花=桜による)

第七

1-1-44

年年歳歳

常に散る

鏡くもる

晩春

第七

1-1-45

梅散る

形見なし

常に愛でていた

梅(のはな)

初春

第七

1-1-46 a*

梅散る

形見あり

袖の移り香

初春

第七

1-1-47

梅散って後

迷惑な香り

梅(の花)

初春

第七

1-1-48 *

梅散って後

欲しい香り

思い出

梅(の花)

初春

第七

注)「a」等については表その4の注にまとめて記す。

表4 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その3 (1-1-49~1-1-68) (2019/9/9現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-49

桜咲く

激励

若い桜木

春・さくら

 

晩春(桜による)

第八

1-1-50 a*

桜咲く

激励

高山の桜

さくら(花)

晩春

第八

1-1-51*

桜あちこちに

もの思い無し

山でも満開

山桜

はるかすみ

晩春

第八

1-1-52

桜あちこちに

もの思い無し

都(庭園の花瓶)でも満開

晩春

第八

1-1-53

桜満開

のどけからまし

桜無き世

さくら

晩春

第八

1-1-54*

桜満開

のどけからまし

さえぎるもの

さくら

晩春(さくらによる)

第八

1-1-55

春の錦

大発見

山の景

さくら

晩春

第八

1-1-56

春の錦

大発見

都の景

やなぎ

さくら

晩春

第八

1-1-57 a

見事な桜

毎年発見

都の桜

無し

初春(初句は梅)

第八

1-1-58 a

見事な桜

新しく発見

奧山の桜

はるかすみ

さくら

晩春

第八

1-1-59

遠山の桜

のどかだ、うららかだ

見誤る雲

さくら

晩春

第八

1-1-60

遠山の桜

のどかだ、うららかだ

見誤る雪

さくら

晩春(さくらによる)

第八

1-1-61

ながく咲け

飽きるほどみたい

うるふ月

さくら

晩春

第九

1-1-62 a*

ながく咲け

飽きるほどみたい

まれな訪れ

さくら

晩春

第九

1-1-63 a

花は散りやすい

明日は分からぬ

今日現在の花

晩冬(雪による)

第九

1-1-64 *

花は散りやすい

花は今を愛でたい

今日現在の花

さくら

晩春

第九

1-1-65 a*

散るときとなる

まだ楽しみたい

泊まる

さくら

晩春

第九

1-1-66 a

散るときとなる

まだ楽しみたい

染める

晩春

第九

1-1-67 a

散り始めの桜

惜しみなく楽しみたい

都の屋敷の桜

花見

晩春

第九

1-1-68

散り始めの桜

惜しみなく楽しみたい

山里の桜

さくら

晩春

第九

注1)「歌番号等」:『新編国歌大観』の巻数―その巻の歌集番号―その歌集の歌番号

注2)「*」:よみ人しらずの歌

注3)歌の注記(aを記した歌について)

1-1-4歌~1-1-6歌:梅の香を詠ってない点が、1-1-13歌や1-1-32歌以下の歌と異なる。

1-1-7歌:①梅の香を詠ってない点が、1-1-13歌や1-1-32歌以下の歌と異なる。②元資料の歌の三句「折りければ」を編纂者は配列の要請から「居りければ」として歌意を替えている。③竹岡氏の理解に従う。「愛情を、うぐいすはそんなに深くしみつかせて、梅の枝に居るもんだから、それで消えようとして消えやらぬ枝の雪が、そんなに花と見えるのであろう。」

1-1-15歌:①配列からいえば、都にきている春(1-1-13歌や1-1-14歌のように)が山には遅れている意の歌。②だから山に居る鴬は不満である。

1-1-17歌:①元資料の歌は、古今集のよみ人しらずの時代以来の伝承歌である。若い男女の集う機会に互いに朗詠した歌であり、地名「かすがの」は、差し替え自由の歌である。②官人がこの歌を承知しているのは、さらに宴等でも朗詠していた歌となっていたからである。③『古今和歌集』編纂者は、朝廷の年中行事の一つである子日の行事を念頭に、この歌をここに配列しているのではないか。④平城天皇が節会を廃止し曲宴を設け、嵯峨天皇は節会を復活させ、花の宴・子の日の宴などを朝廷の年中行事に加えている。

饗宴という、共同飲食儀礼は特に重視されている。⑤『例解古語辞典』によれば「子の日遊び」とは「正月の最初の子の日に、野に出て小松を引き抜いて庭に植えたり、若菜を摘んだりして遊宴をし、千代を祝うこと。また、その行事。」とある。

1-1-18歌:①二句「とぶひののもり」とは、「烽火で情報伝達する基地に詰める者達」の意で奈良時代春日野にもあった(『顕註密勘』など)。②作中人物は野遊びをしたい仲間を「とぶひののもり」と呼び掛けている。③久曾神氏の訳出に、作中人物の仲間への呼びかけを加える。

1-1-20歌:①序詞も訳出する。②竹岡氏の理解に従う。③年中行事に正月17日射礼 同18日賭弓がある。関係あるか。

1-1-21歌:①醍醐天皇の延喜年間には、子日の行事は朝廷の年中行事になっていた。それを念頭に朝廷内での若菜に関わる先例となる歌をここにおいたか。

1-1-22歌:①白い衣の袖の服は、官女が宮中で着るか。そうであれば、この歌の元資料の歌は、宮中の式典(は宴が重要であるがそれにおける)業務に忙しく立ち働く女官をいうか。②配列からいうと、1-1-21歌の次におかれているので、朝廷での宴で披露できる歌である。③さもなくば、久曾神氏も指摘する屏風歌が元資料の歌か。

1-1-23歌:①前歌1-1-23歌の三句にある「白妙の袖」が動き回っている印象を、三句の「かすみの衣」にもある。緑が基調の野山にいる男女を詠うか。②、子日の行事に関わる歌とも理解できる歌。

1-1-25歌:①序詞も訳出する。②竹岡氏の理解に従う。

1-1-26歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-28歌:①ももちどりとは、本文で指摘したようにたくさん鳥の意。竹岡氏は「各種の渡り鳥たち」と指摘する。②本文の「4.③と⑦」及び「〇.以降」(次次々回のブログに記載予定)などをみよ。③五句にある「ふりゆく」の「ふる」は、「あらたまる」の反対の概念。④この歌は春の部に相応しい歌として理解すべし。

1-1-29歌:猿丸集3-4-49歌の類似歌。本文の「5.以降」(次回のブログに記載予定)などをみよ。

1-1-30歌:①当時は地方勤務者の出立には見送りの宴などが必ず行われている。今、さらに言伝することは何か。都の今年の春の様子であろう。都で新たな任務に就いた人のことや自然の景の移り替わりであろうか。

1-1-34歌:①3-4-31歌の類似歌。②ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌その2 まつ人」(2018/10/9付け)の本文5.②に歌意を示す。

1-1-36歌:①ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌その2 まつ人」(2018/10/9付け)の本文5.②に示した歌意「梅の花を冠に挿したら梅の香で、若さが取り戻せるか」の後段は意訳である。

1-1-46歌:①竹岡氏の理解に従う。初句「梅がか」とは、「梅の香」と違い、抽出した梅の香りのみではなく、「梅の香りもそれを発散させる花も含めた空間をも一緒に傍にとどめておきたい気分」がある。「残すなら梅をそのまま残せば香も残るのだが」その方法はないものか、という思案しつつ詠った歌。②このような竹岡氏の理解に従った現代語訳を試みると「この香り高い梅をそのまま枝ごと袖に閉じ込められたなあ。春が過ぎ去ったとしても、梅の形見となろうものを」。③五句にある「かたみ」とは、「遠く離れている人や死別した人を思い出すよすがとなる品。その人の形を見るものという意」(竹岡氏)。④元資料の歌合には、『古今和歌集』編纂者4人の出詠している。作者がよみ人しらずとしている事情は不明。⑤元資料の歌と、三句で一字異なる(「は」を「ば」に編纂者改定か)

1-1-50歌:①猿丸集1-3-32歌の類似歌。②理解に2案ある。ブログ「猿丸集第32歌 さくらばな」(2019/10/16付け)本文4.参照

1-1-57歌:①五句の「あらたまる」のは桜。年ふるひとにとり毎年桜は感激あらた、の意。②元資料は加齢を実感する歌だが配列を重視するとこのように意が変わる。③「年ふる人を」は、1-1-28歌参照。④劉思芝の有名な「年々歳々花相似、歳々年々人不同(代悲白頭翁)」を踏まえた歌。⑤なお、視点1(時節)は元資料における時節。

1-1-58歌:①竹岡氏の理解に従う。②春霞が秘蔵している桜を誰が折ってきたのか、の意。②桜は女をも意味する。

1-1-62歌:①この歌は、桜と同じように飽きるほど見ていたい人を作中人物は待ち続けていた、の意。

②配列により元資料の詞書もほぼそのままで歌の意を替えている。③初句にある「あだ」の意は、「無駄な、真実のない」意と、美女の形容でなまめいた美しさ」の意がある。④初句と二句がさす語の候補は桜花とまれなる人。桜花ならば、古今集春上の歌。まれなる人ならば、元資料の歌(桜は作中人物をいう)。④元資料の歌は、「それでも桜花はじっとまれなる人を待っていた」と詠う。訪ねてきてくれた喜びあるいは、不満が先に口をついてでたのか不明の歌。⑥業平が返歌をしたならば、よみ人しらずの人は業平と同時代の人。

1-1-63歌:①元資料の歌は雪に馴染みが深い梅を詠う。②詞書「返し」とは編纂者の指示。③雪は降雪を指し、花が散るのを象徴している。④伊勢物語に捉われずに古今集の配列のなかにおいて理解するのがよい。⑤花が女をも指すならば、本当に待っていてくれたとは思えないという意がこの歌に生じている。

1-1-65歌:①3-4-51歌の類似歌。②桜は女をイメージ。3-4-51歌検討時確認する。③1-1-64歌と問答歌にみせているのは1-1-62歌と1-1-63歌と同じ理由。

1-1-66歌:①桜は女をイメージ ②桜姫葬送曲という竹岡氏の理解に従う。

1-1-67歌:①まじめに桜を見なかった人を憐れむとみる竹岡氏の理解に従う。

 

付記2.春歌の最後の歌1-1-134歌について

① 1-1-134歌は、詞書により、春歌の最後の歌となる資格を与えられている。

② 1-1-134歌の元資料は、『亨子院歌合』である。最初の本格的な晴儀の歌合。巻頭にある仮名文の最後に「題は二月三月四月なり」とある。詞書が「春 三月十首」とある最後(「春」の最後でもある)の歌(5-10-40歌)が1-1-134歌の元資料歌である。番う歌(5-10-39歌)は「ほかのはるとやあすはなりなむ」と詠い、暦日上の3月30日や3月31日を詠った歌となっていない。5-10-40歌も初句にある「けふのみ」とは、3月31日を意味してない。それは、暦の上の3月31日のみが、花の傍を立ち去りがたい理由になるのは当時も今も常識的に認めにくいからである。

③ 『亨子院歌合』には、番う歌ごと(二首ごと)の題の記載がない。歌合の主催者の意向か当時の慣例により、時系列に整理されている可能性がある。それからは、5-4-39歌と5-10-40歌には月末がふさわしい位置を与えられている、と理解できる。

歌のなかの動植物の名及びその状況(例えば5-4-35歌の「ちるやまぶき」)からも「三月ははての日」を詠んでいると限定できない。

④ 1-1-134歌が、「春の果て」(3月31日)の歌と理解して然るべきなのは、第一に「はるのはてのうた」、と詞書に記してあるからである。『古今和歌集』編纂者が、1-1-134歌を四季の春を詠う最後の歌としている。

⑤ なお、1-1-1歌は、詞書に依存せず、立春を題材にしていることが歌のみで判る。

 (付記終り  2019/9/9   上村 朋)

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第48歌 その2 あら あら

前回(2019/8/26)、 「猿丸集第48歌その1 あらを田」と題して記しました。

今回、「猿丸集第48歌 その2 あら あら」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第48歌 3-4-48歌とその類似歌

① 『猿丸集』の48番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-48歌  ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ

        あらをだをあらすきかへしかへしても見てこそやまめ人のこころを

古今集にある類似歌

1-1-817歌  題しらず           よみ人しらず」

    あらを田をあらすきかへしかへしても人のこころを見てこそやまめ

 

② 清濁抜きの平仮名表記をして、一方の歌の四句と五句を入れ替えると同じとなります。しかし、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、相手の女の気を引いている歌であり、類似歌は、熟慮した決意を披露している歌です。

2.~4.承前

(現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討することとし、当該歌集(古今集 巻第十五)における配列を確認した。その結果

第一 奇数番号の歌とその次の歌は、配列の上では一組として扱われている可能性が高い。

例えば、1-1-747歌と1-1-748歌は、「私を避けて身を隠したのはなぜだろう」ということを相手に問いかけている歌と括れるし、1-1-809歌と1-1-810歌は、「諦めないでいる」ということを相手に伝えている歌と括れる。

第二 巻第十五にある歌は、二人の仲が客観的には元に戻れないような状況以降に対応する歌として編纂されている。

第三 相手におくることを前提として詠んでいる歌と理解できる配列になっている。元資料が詠まれた事情が優先されていない。

第四 元資料の歌の意を優先した配列でもない。久曽神氏のいう「離れ行く恋」という括りが妥当である。

第五 歌群は少なくとも9群に整理できる。そして名前をつけてみた。

1-1-747歌~1-1-754歌 意に反して遠ざけられた歌群

1-1-755歌~1-1-762歌 それでも信じている歌群

1-1-763歌~1-1-774歌 疑いが増してきた歌群

1-1-775歌~1-1-782歌 仲を絶たれたと観念した歌群

1-1-783歌~1-1-794歌 希望を持ちたい歌群

1-1-795歌~1-1-802歌 全く音信もない歌群

1-1-803歌~1-1-816歌 秋(飽き)に悩む歌群

1-1-817歌~1-1-824歌 熟慮の歌群 (1-1-817歌は、仮置き)

1-1-825歌~1-1-828歌 振り返る歌群

第六 類似歌1-1-817歌は歌群の最初の歌という整理になったので、前後の歌の再確認を要す。

 なお、1-1-817歌は、仮置きであり、「あらを田」を「荒れた田」とする竹岡氏の理解による整理である。

 

5.類似歌の前後の歌の再検討 その2

① 1-1-817歌の前後の歌で1-1-814歌まで確認したとろ、前回の付記2.の表の訂正はありませんでした。

② 1-1-815歌より確認を続けます。

1-1-815歌  題しらず     よみ人しらず

   夕されば人なきとこを打ちはらひなげかむためとなれるわがみか

「夕方がやってくると、人のいない寝床だのにそれを、つい今までどおりに塵を払い、思いのままにならぬのを嘆こうがためとなっている。この我が身か!」(竹岡氏)

 五句を重視して理解したい。未だに迎える準備をしては嘆いている我が身を、作者は冷静に、あるいは、悔しく思っている歌です。そのように準備をして嘆くまでが習い性となっており、その手順が省けないのですから、寄物はその習い性、即ち「手立て」とみました。

 

1-1-816歌  題しらず     よみ人しらず

   わたつみのわが身こす浪立返りあまのすむてふうらみつるかな

「あのつれなくなってしまった人を、私は繰り返し繰り返し、深く深く恨んだことであるよ。」(久曾神氏)

 氏は、初句と二句は「立ちかへり」にかかる序詞として訳出していません。

「海の、波自身の身を越す波が、立っては返り、海人の住むという浦を見ている。――私も、(忘れている気持ちの上に又してもおっかぶせるように)もとの思いにたちもどって恨むことよなあ。」(竹岡氏)

 氏は、諸注すべて正解に達していない歌のひとつ、と指摘しています。

白波が立つ景は、通常とは異なる景です。台風とかその余波のような、自然が猛威を振るっている景です。この歌は、波が自らの波頭を崩して前方の波も巻き込みつつ浜に打ちあがるのが、信頼を置いていた相手による作者への来訪忌避をはじめとした数々の仕打ちにみえ、次第に憤怒をも感じてきたかの詠い方です。

 竹岡氏は、二句「わが身こす浪」とは、「波自身が、自らの波頭を崩しつつ前の波を巻き込んで次々と浜辺に押し寄せる様子」を形容し、「忘れていた失恋の恨みがぶり返してあの時の気持ちに戻るという心象風景を表現している」と指摘し、「1-1-1093歌を本歌とした歌ではない」としています。

「うらむ」という語句は、1-1-807歌や1-1-814歌にも用いられていますが、この歌は「うらみつるかな」と五句にあり、作者の作詠時点における思いの結論になっており、1-1-807歌や1-1-814歌と明らかに違う語句の使い方であり、1-1-815歌までの歌が諦めか、無理やり納得しようとしているかにみえるのに比べても違う歌です。

 このまま身を引くようなことは、悔いを残すと思っているかの詠いぶりであり、この歌が歌群の切れ目に位置するかに見えます。

 寄物は、繰り返し繰り返し前の波を次々巻き込む白い波頭であり、それが作者に思い出させる「手立て」とみました。

 この歌までが、「秋(飽き)に悩む歌群」(1-1-803歌~1-1-816歌)とこの検討で括ったなかの歌です。

 

1-1-817歌 (歌は上記1.に記す)

 ここでは、「あらを田」を荒れた小田と理解し、(古今集の多くの例があるように)上二句の“景”が下の“情”の具象(譬喩又は象徴)となっている、と理解している竹岡氏の現代語訳により、配列を検討します(私の現代語訳(試案)は、下記7.に示す)。氏は、「このままでは、まだ、もしやあの人はやっぱり私を思っているのではあるまいかといった未練がいつまでも残って、失恋したとは言い聞かせながらも、すっきりと思いきれない(作中人物)」の歌と指摘しています。

 この歌の元資料は、『古今和歌集』のよみ人しらずの時代からの伝承歌であり、寄物は、相手の男の「働く場(である田)」をとっていると思います。

 竹岡氏の現代語訳はつぎのとおり。

「荒れた田を粗く鋤き返し――こんなに鋤き返しひっくり返してでもあの人の心(の中)をとくと見てとったその上でこそ(私の気持ちも)清算したいんだが。」(竹岡氏)

 

1-1-818歌  題しらず     よみ人しらず

   有そ海の浜のまさごとたのめしは忘るる事のかずにぞ有りける

「荒波の打ち寄せる浜の砂のごとく無数であると、私を頼みに思わせたが、今になって見ると、その無数というのは、私との誓約を忘れる度の数であったことよ。」(久曾神氏)

 この歌は、『古今和歌集』の仮名序において、「たとへ歌」の例として挙げられている歌にもとづく歌です。その例歌は興福寺延年舞唱歌だそうです(竹岡氏)。

 歌の配列を重視すると、前の歌(1-1-817歌)のように相手との精算のため思い出したところ、いかに裏切られてきたか、あやふやな対応であったか、を再確認したという歌と言えます。この歌も元資料は、『古今和歌集』のよみ人しらずの時代からの伝承歌であり、寄物は、相手の男の「働く場(である浜)」であると思います。

 

1-1-819歌  題しらず     よみ人しらず

   葦辺より雲ゐをさして行く雁のいやとほざかるわが身かなしも

 久曾神氏は、三句までは「とほざかる」にかかる序詞として訳出せず、「雲井は禁中をたとえることが多いがそれまで考える必要はあるまい」、と指摘しています。

 竹岡氏は、三句までを景として訳出しており、「景の遠ざかる=情の遠ざかる」という理解をしており、それにより、検討すると、寄物は、「飛ぶ雁」であり、秋の景の一つです。

 

1-1-820歌  題しらず     よみ人しらず

   しぐれつつもみづるよりも事のはの心の秋にあふぞわびしき

「しぐれがはらはらと降ってはもみじしていく、それよりも、言の葉が心の飽きという秋に会う方が、みじめなのさ。」(竹岡氏)

 寄物は、「色替わる木の葉」であり、秋の景の一つです。

 

1-1-821歌  題しらず     よみ人しらず

   秋風のふきとふきぬるむさしのはなべて草ばの色かはりけり

 久曾神氏は、「この歌は恋歌に部類されているのだから867歌をも考え五句に愛人の心がわりを見るべきであろう。」と指摘しています。

 竹岡氏は、「全く叙景歌として通用する歌を恋の歌として恋部に入れていることに注目すべきである。初句~三句に大自然の勢いをくみとりたい。あの人の心が今やまさにそんな手の施しようのない状態になってしまって、それが、私に対するあの人の目つきや言葉や動作などすべてにはっきり示されている、というのである。恋復活の望み無し。」と指摘しています。寄物は秋の景であり、「秋の風にあう武蔵野」です。それが心境を象徴しています。

 

1-1-822歌  題しらず     小町

   あきかぜにあふたのみこそかなしけれわが身むなしくなりぬと思へば

「はげしい秋風に吹きまくられる稲の実は悲しいことであるよ。せっかくの実がこぼれてからになってしまうと思うので(深く頼みにしていたのに、あの方に飽きられてしまうのが悲しいことである。今まで親しくしていた私が、このまま空しく朽ち果ててしまうのかと思うので。」(久曾神氏)

 氏は、「表と裏が明確にわかれておらず、序詞・枕詞とすることもできないので、自然と人事とにわけて見るほうがよかろう。」と指摘しています。

 寄物は、秋の景となる「風にあう田の実」ではないでしょうか。

 

1-1-823歌  題しらず     平貞文

   秋風の吹きうらがへすくずのはのうらみてもなほうらめしきかな

「私に飽いて私から離れ去ってしまった恋人は、いくら恨んでも、やはり恨めしいことであるよ。」(久曾神氏)

 氏は、「初句から三句は「うらみて」にかかる序詞。しかし、「秋風」に「飽き」をひびかせ、「うらがへす」に「こころがわり」をほのめかしている。」と指摘しています。寄物は、「秋の風」です。

 この歌は、「うら」と言う同音異義の語を、二句では葉を風が「裏がえす」、四句では「葉の裏をみても(心変わりした貴方の心の内」、五句では「怨む」、と使い分けています。

 

1-1-824歌  題しらず     よみ人しらず

   あきといへばよそにぞききしあだ人の我をふるせる名にこそ有りけれ

「人々が「秋」と言えば、今まで私にはまったく関係もないよそごととして聞いていたが、今になって見ると、それは、あの浮気者が私をおもちゃにして、見捨てて行ってしまった「飽き」という言葉であったよ。」(久曾神氏)

 寄物は、「飽き」に通じる同音異義語である「秋」そのものです。

③ このように、1-1-824歌まで、付記1の表の訂正は必要ありませんでした。

 

6.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

「繰り返し繰り返し、あの人の本心を見定めて、それから、私はきっぱりとあきらめてしまいましょう。」(久曾神氏)

 氏は、初句~二句は「かへす」の序詞として訳出していません。

竹岡氏は上記5.②に記したように、あらを田は、荒れた田と理解し、「新開の田は当時「あらきだ」といった。上句の“景”が下の“情”の具象(譬喩又は象徴)となっている」と指摘しています。

 なお、下句は、誹諧歌の部にある1-1-1050歌とまったく同じです。「うらめし」で恋五の歌、「あさまし」で誹諧歌と、部を異にしています。

② 鈴木宏子氏は、3-4-48歌に関して「あらを田とは、新小田であり新しく開墾した田。荒小田と解する説もある。」、「あらすきかへしとは、荒く鍬き返すように」の意と解説しています。(『和歌文学大系18 猿丸集』(1998))

③ 配列を重視すれば、男が相手にしなくなっている段階での歌であり、“景”の設定として新しい田を作者が選ぶとは思えません。

 

7.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① 初句にある「あらを田」とは、「荒小田」であり、荒廃した田の意です。作者を構わなくなった、優しい心を持っていない男を指し、作者の相手の男の謂いです。新しい小田では、譬喩になりません。なお、「あら」はこの歌では接頭語であり、初句では、荒れた意を、二句では、勢いのはげしい意(『明解古語辞典』)となります。

② 二句にある「すきかへす」とは、動詞「鋤く」の連用形+動詞「返す」の終止形です。

「鋤く」とは鍬で耕す意であり、「返す」とは、「もとの状態にもどす、初めの所や持ち主へ戻す」とか「返事をする」(『例解古語辞典』)意があります。このため、「すきかへす」とは、「田地と見なす土地を、鋤きで耕し、種や苗を植えられる状態にする(戻す)ための一動作をいい、「繰り返す」意は含まれていないと思います。

古今和歌集』で「かへす」と言う語句のある歌に、1-1-42歌、1-1-395歌および1-1-554歌がありますが、いずれも「繰り返す」意ととらなくてよい歌です。

③ この歌では、「すきかへしかへしても」と「かへす」を繰り返すことにより、「あらを田」を何回も耕して苗を育てられるような状態を目ざしている一連の作業をイメージするとともに、相手の男の返事を何回も求める意をこの語句に込めています。

④ この歌の三句までの田に関する仕事の景は、竹岡氏が指摘するように、三句以下の「心を見たい」という作者の意志(竹岡氏のいう「情」)の比喩または象徴となっています。田を鋤くのは、来年の稔りのためです。相手の心を確かめるのは二人一緒にこれからも歩めるかどうかの見極めです。

⑤ 五句の「みてこそやまめ」は、係結びです。「め」は推量の助動詞「む」の已然形です。

「こそ・・・め」という係結びなので、その意は、「そうするのが、またそうあるのが当然だ、適当だ」(『例解古語辞典』)と、作中人物は判断しています。

⑥ この歌の前後の配列をみるとつぎのとおりです。

 類似歌の前の歌1-1-811歌以降1-1-816歌は、わが身の行動や心のうちを、相手に伝言したい(あるいは直接歌を受け取ってくれなくとも、そのような歌を詠んだと風聞で伝わってほしい)という歌であり、相手の行動や心の内を確認したいと、詠っていません。それに対して、この歌は、心の内を確かめようと決意を述べています。それもおずおずとではなく当然のこととして言っており、1-1-816歌の作者のスタンスより行動的です。

 類似歌後の1-1-818歌以降1-1-822歌までは、相手に心変わりをしたではないかと問う詠う歌であり、相手に返事を求めている歌です。1-1-823歌と1-1-824歌は、1-1-822歌などの問いに対して作者に心を向けた返事の無いのをなじりあるいは恨んでいる歌ともとれます。1-1-823歌での「うら」と言う語句をしつこく用いているのは、印象的であり、1-1-817歌の相手を確かめたい気持ちもなえているかのような歌になっています。

⑦ 歌群を想定すると、このように1-1-816歌とこの類似歌(1-1-817歌)が境であるように見えます。

 先にみたこの巻第十五の歌の配列と歌群の整理は、この歌の前後においては付記1の表のとおりと思います。この歌1-1-817歌から1-1-824歌までを「熟慮の歌群」と名付けたいと思います。

⑧ 現代語訳を、配列を(前後の歌の意のつながりを)考慮し、試みると、

「荒れてしまっている田は、もとの状態に戻すのが当然であり、勢いよく鍬きを振るいそして鋤き返して春の農作業の準備をするように、色々試すことをしてでも、あの人の心の中をしっかり見定めてから私も思い切るのがいいわね。」

 この歌の作中人物は、この歌の前後の作中人物と同様に女を想像します。しかし、「あらを田」を鋤くのはまず男の仕事であり、自らの働く場での行為を、と詠った歌とも理解が可能であり、よみ人しらずの伝承歌であるので作中人物は男であってもおかしくありません。

 作中人物が男女どちらであっても、この配列における歌意は変らりません。

 

8.3-4-48歌の詞書の検討

① 3-4-48歌を、まず詞書から検討します。

② 「ふみやりける女」とは、交際前提で手紙のやりとりをしている女、という意です。つまり文通から先に踏み出してくれない女、となります。

③ この歌をおくった時期を、詞書に「はるころ」と明記しています。類似歌は、題しらずの歌であり、時期について触れていません。

 類似歌で詠う「あらを田をすきかへす」時期とは、現在でいうと土地改良をしている段階とか、休耕田を再び稲作用の田に戻すまでの段階の作業をする時期と推測します。それは秋の収穫が終わって、働き手に時間的余裕が生まれている時が最盛期の作業と推測できます。

「はるころ」とは、この歌の詞書としては、「稲を刈った田を翌年の春に田植の準備として耕起するころ」ということであり、歌の初句の意味の内容を示唆しています。(「あらを田」と言う語句の検討は歌の検討で行います。)

④ 「つれなかりける」とは、形容詞「連れ無し」の未然形+(進行持続を示す)完了の助動詞「り」の連用形+回想の助動詞「けり」の連体形です。「連れ無し」とは、二つの事物の間に何のつながりもないさまが原義であり、「働きかけに反応がない。無情である」、「事態に対して何気ない様子。無表情である」などの意があります。

⑤ 3-4-48歌の詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「文をおくっている女が、大変素気ない接し方をするばかりという状況であったときに、春頃(送った歌)」

 

9.3-4-48歌の現代語訳を試みると

① 詞書によれば、「女のつれなかりける」状況を打開しようとしてこの歌をおくっていると理解できます。類似歌のようにうらめしいことが続いて「見定める」というイメージとは異なります。

 また、詞書に「はるころ」と時期を指定しているところを見ると、作者は類似歌を承知していて、それを利用した歌を女に送った、とみられます。

② 「はるころ」送ったということは、その時節の農作業を景にとり詠っていることになります。春の田植の準備としての耕起作業を「すきかへす」と言っている、とみてよい、と思います。

③ そうすると、初句「あらを田を」とは、

感動詞「あら」+名詞「を田」+格助詞「を」

と理解したほうが良い。

 二句「あらすきかへし」も感動詞「あら」+動詞「すきかへす」

と理解すると、詞書に添う意となりそうです。

④ 四句と五句「みてこそやまめ人のこころを」は、単に順序を入れ替えた語句ではなく、

「みてこそや まめ人の こころを」

と読むことができます。「や」は疑問の助詞です。

⑤ 3-4-48歌の文の構成は

 文A  あら を田を あら すきかへし みてこそや

 文B (みてこそや) まめ人の こころを

からこの歌は成ると理解できます。

⑥ 3-4-48歌の現代語訳を、詞書に従い試みると、つぎのとおり。

「あれまあ。田を、あれまあ、勢いよく鋤き返し鋤き起こしするように、私をよくよく見てからということですか。このように実直な男である私の心を。(そんなに鍬き起こさなくとも、苗はすぐ植えることができるのですよ)。」

 

10.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-48歌は、詠む事情を記しており、類似歌1-1-817歌は、題しらずとあるだけです。しかし類似歌の歌意は、配列等から誤解が生じません。

② 初句と二句にある「あら」の意が異なります。この歌の「あら」は、感動詞であり、類似歌のそれは、接頭語で「粗・荒」の意です。

③ 四句と五句の語順が異なります。この歌は、「見てこそや まめ人の こころを」であり、これに対して類似歌は「人のこころを 見てこそやまめ」となっています。

 この歌の「まめ」は、形容動詞「まめなり」の語幹であり、類似歌の「(や)まめ」は、動詞「止む」の未然形+推量の助動詞「む」の已然形です。

④ この結果、この歌は、相手の女の気をやんわりと引いている歌であり、類似歌は、熟慮した決意を披露している歌です。

⑤ さて、『猿丸集』の次の歌は、このような歌です。

3-4-49歌  詞書なし(3-4-48歌に同じ)

   をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

 

類似歌は

1-1-29歌  題しらず      よみ人しらず (巻第一 春歌上)

   をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな

 この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

 ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

(2019/9/2   上村 朋)

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第48歌 その1 あらを田

前回(2019/8/12)、 「猿丸集第47歌その4 暁のゆふつけ鳥」と題して記しました。

今回、「猿丸集第48歌 その1 あらを田」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第48歌 3-4-48歌とその類似歌

① 『猿丸集』の48番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-48歌  ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ

あらをだをあらすきかへしかへしても見てこそやまめ人のこころを

古今集にある類似歌

1-1-817歌  題しらず           よみ人しらず」

      あらを田をあらすきかへしかへしても人のこころを見てこそやまめ

 

② 清濁抜きの平仮名表記をして、一方の歌の四句と五句を入れ替えると同じとなります。しかし、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、相手の女の気を引いている歌であり、類似歌は、熟慮した決意を披露している歌です。

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌から検討します。

古今集にある類似歌1-1-817歌は、『古今和歌集』巻第十五恋歌五にある歌です。下記の検討結果では熟慮の歌群(1-1-817歌~1-1-824歌)」の最初に置かれている歌となりました。

② 『猿丸集』歌の類似歌で、『古今和歌集』の恋五にある歌は、3-4-17歌の類似歌にありました(1-1-760歌)。その検討の際、巻頭歌1-1-747歌から1-1-769歌までを対象に、作中の主人公の性別、歌の趣意、恋の段階、主な寄物、などを確認しました。

奇数番号歌と偶数番号歌が対となっているか否かの検討をしていませんし、恋五の歌全てを対象としていませんでしたので、ここで改めて検討します。

③ ここで、恋の部の全体の構造をも概観しておきます。

古今和歌集』の恋部の構造について、新井栄蔵氏が、恋一から恋四に対して恋五が置かれており、恋一の冒頭部と恋四の末尾部との間の作者・歌の対応がある、と指摘しています(『国語国文』四三の六)。

久曾神昇氏は、「恋部は、人事題材のうち事件過程に関する短歌であり、恋愛の過程に従って約50項に類別しているようであるが、明確に断言しがたい」と指摘しています。

『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』では、恋の部は、「恋人たちの心理をうたったものが、恋愛の進行過程にしたがって配列されている」(巻第十一頭書の頭注)が、「恋愛心理の時間的進行を正確にとらえることの困難さのためか、それほど顕密になされていない」(同書「解説・二『古今集の成立』」)と指摘しています。

新日本古典文学大系 5 古今和歌集』では、「恋ふ」とは「離れていて慕う心を親子・友人の場合を含めていうがここ(恋の部)には「つま」に対するものを集める」(巻十一頭書の脚注)として、(恋の部は)「恋という一種の極限状況によって人のあり方を代表させその特定の状況における人の思いを述べる歌を、それぞれに整理し配置している」(同書・解説)と指摘しています。なお、恋一と二は契りを結ぶまでの逢わずして慕う恋、恋三と四は契りを結んで後に逢えないで恋慕い苦しむ情念をよむ、契りを結んで後になお慕い思う恋を集めた部、としています。

④ そして恋五については、久曾神氏は、「離れ行く恋」の巻としています。更なる細分を、「再び逢はぬ恋、厭はれる恋・・・忘られて久しき恋、あきらめる恋」など15区分の例を示していますが、「類似した歌が多く、且つ解釈によっても相違するので、撰者の意図を明確に知ることは困難である」(付記1.参照)と指摘しています。ともかく1-1-817歌は・・・の中の一首となります。

『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』では、恋五に頭注して「恋愛が終わった後の、さまざまの心理をうたった歌を収める。初めの30首ほどは比較的新しい恋愛の思い出であって、相手を恨むようなものが多い。その次の10数首はもっと古い恋愛で、作者の感情はすでに諦め、または懐かしみの情に変わっている。だが多くの場合、愛の破綻でよけいに苦しむのは女性で、古代中国詩の棄婦と変わっていなかった。喜びや悲しみを乗り越えた静かな境地に達するが、それは季節の最後に万物に安息を与える冬が訪れるのに似ている」とあります。これより推測すると、1-1-817歌は、「だが多くの場合」以降の歌群にあたると、思われます。

新日本古典文学大系 5 古今和歌集』では「恋五は、時間的・心理的に距離をおいて、相手を、自分を、そして二人の間柄を見つめ、さらには恋というものを見つめてよむ歌を集める。多義的で余情のある哀切な歌が多い」と指摘しています。また歌群として「わが身は」の歌群(1-1-747~1-1-757歌)、「逢うことも間遠になって」の歌群(1-1-758~1-1-780歌)、「人心は」の歌群(1-1-781~1-1-804歌)、「わが身悲しも」の歌群(1-1-805~1-1-819歌)、「心の秋」の歌群(1-1-820~1-1-824歌)、「よしや世の中」の歌群(1-1-825~1-1-828歌)」を示しています。

⑤ 編纂者が編纂方針の詳細を記していないので、歌群の捉え方に種々案のあることが判ります。このため、各歌を検討して恋五(巻第十五)の配列を検討してみます。

巻第十五は、長文の詞書のある在原業平朝臣の1-1-747歌で始まり、「題しらず よみ人しらず」の1-1-828歌で終ります。『古今和歌集』は、その巻の最初の歌と最後の歌に、その巻の内容に即した歌を配置してあると諸氏も指摘しています。この巻でもその2首をあわせて検討することから始めます。

⑥ 久曾神氏は、仮名序に業平の歌を「その心あまりて、言葉たらず」と評しているのを参照して見るべきである」と指摘し、(1-1-747歌は)「自然は変らず人事の我も同じだが今年は肝心の女性がいない」、と詠う余情体の歌であると解説しています。「恋愛の過程」としては、詞書にあるように「物言ひわたりけるける」後に本意ではないが逢えなくなり暫くして翌年春となった時点であり、その時点が作詠時点でもあります。

竹岡氏によると、1-1-747歌は、古来、大別すると二種類の解釈が行われていて、月も春も昨年とは変った感がするのに、わが身だけは昨年のままだと解釈する説と、月と春も(自分の身も)、昨年のとおりで変わってはいないのに、恋人のいなくなった自分だけは去年と同じでありながら変わっていて(又は恋人だけが変わっていて)と解するものがあり、「その帰趨も知らぬ状態」であるそうです。発想のしかたは漢詩に由来しているかもしれませんが、さようなことを思わしめないほどに詠嘆が切実で端的である、と評しています。恋愛の過程としては、詞書に明瞭に記してあるので、久曾神氏と同じ理解です。

⑦ 最後に位置する1-1-828歌を、久曾神氏は、「離れてしまった恋であろう」、と評しています。恋愛の過程としては、1-1-747歌の時点より後であり、何度かの恋愛の経験をした後の時点(恋愛の過程のすべてを何度か経験した後の時点)と思われます。

竹岡氏によると、四種類の解釈があり、多くがその1種類の解であるが「難解な歌」と評し、「(恋の部の)最後のとじめの歌らしく山だの河だのと大きく出て、歌がらも大柄で、つき離して一種の諦観あるいは悟入の気分で(恋の部を)終了するのである」と論じています。氏の現代語訳を示すとつぎのとおり。

「流れては、妹山と背山との中に激流となって落下する吉野河――妹・背の仲はそんなもの(人生を流れていく間には、夫婦の間に激しい吉野河が落下するようなトラブルだってあるもの)、よしよし、ままよ、それが世の中さ。」

氏は、「夫婦というものが、一生の間、あの妹山と背山のように連れ添うて向かい合っていると、たまりたまったものが二人の間に滝のように激しく流れ落ちることだってあるもので、それがこの世の中さ、という気持」(を詠う)と評しています。

当時の官人の婚姻形態からみれば、男の通い婚であり、恋愛の相手は、複数、同時進行もあったと十分推測できるので、夫婦が特定の男女一組のみを意味するのではないと思えます。このため、恋愛の過程としては、久曾神氏と同じ時点を氏も言っている、と考えられます。

⑧ この2首をみると、恋の部は作詠時点が一方向に進んでいるように配列している、と仮定すると、恋の部の五番目である巻第十五にある最初の歌は、「本意ではなく別れさせられた後の歌であり、最後の歌は、幾つもの恋を経験した人物が自分の経験を含めて男女の仲を振り返って詠んでいる歌となっています。恋の部が時系列に配列されているならば、巻第十五の歌は、すべて、客観的には恋が一旦終わっているとみなし得るしかし作中人物はそのように了解していない段階の歌ではないか、と推測できます。俗にいえば、元の鞘に戻る事に望みを抱いている人物の作詠した歌で構成されている、と言えます。この仮定の上で各歌を検討します。

 

3.巻第十五の歌すべての検討

① 上記2.⑧の仮定のうえで、巻第十五にある歌全てを対象に、配列を検討します。

久曾神氏の『古今和歌集』(講談社学術文庫)を参考に、その歌の作者の自覚、恋歌としての相手に作者が訴えたいこと、詠うにあたり利用しているもの(寄物)を抽出し、奇数番号の歌とその次の歌とをペアと理解してよいかどうかをみてみます。

歌の理解は、いわゆる枕詞に用いている文字にも意義を認める従来の方法を踏襲しますので、久曾神氏の現代語訳では不足する場合などがあり、それを補い検討を加えた結果を、付記2.の「表 古今集巻十五にある歌の分析 その1~3」にまとめました。

但し、1-1-817歌は、「あらを田」を「荒れた田」とする竹岡氏の理解による整理であり、仮置きです。(1-1-817歌は次回検討します。)

そして歌群の有無と分類とを試みたところ、いくつかに分類可能であったので、上記の表に記しています。

② 付記2.の表から、次のことが指摘できます。

第一 奇数番号の歌とその次の歌は、配列の上では一組として扱われている可能性が高い。

例えば、1-1-747歌と1-1-748歌は、「私を避けて身を隠したのはなぜだろう」ということを相手に問いかけている歌と括れるし、1-1-809歌と1-1-810歌は、「諦めないでいる」ということを相手に伝えている歌と括れる。

第二 巻第十五にある歌は、二人の仲が客観的には元に戻れないような状況以降に対応する歌として編纂されている。すべての歌が上記2.⑧の仮定のうちで理解できた。

第三 相手におくることを前提として詠んでいる歌と理解できる配列になっている。元資料が詠まれた事情が優先されていない。

第四 元資料の歌の意を優先した配列ではない。久曽神氏のいう「離れ行く恋」という括りが妥当である。

第五 歌群は少なくとも9群に整理できる。そして名前をつけてみた。

1-1-747歌~1-1-754歌 意に反して遠ざけられた歌群

1-1-755歌~1-1-762歌 それでも信じている歌群

1-1-763歌~1-1-774歌 疑いが増してきた歌群

1-1-775歌~1-1-782歌 仲を絶たれたと観念した歌群

1-1-783歌~1-1-794歌 希望を持ちたい歌群

1-1-795歌~1-1-802歌 全く音信もない歌群

1-1-803歌~1-1-816歌 秋(飽き)に悩む歌群

1-1-817歌~1-1-824歌 熟慮の歌群 (1-1-817歌は、仮置き)

1-1-825歌~1-1-828歌 振り返る歌群

第六 類似歌1-1-817歌は歌群の最初の歌という整理になったので、前後の歌の再確認を要す。

 

③ 巻第十五の歌の理解を『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』が、「恋愛が終わった後の・・・」と捉えているのは、妥当ではない、と思います。『新日本古典文学大系5 古今和歌集』が、「時間的、心理的に距離をおいて・・・」としているのは、恋の進行過程に触れていないのが物足りないのですが、この理解は可能なのが、巻第十五であろうと思います。

 

4.類似歌の前後の歌の再検討 その1

① 類似歌1-1-817歌と対の歌およびその前後の歌3組(計4組14首)を検討します。

1-1-811歌  題しらず     よみ人しらず

それをだに思ふ事とてわがやどを見きとないひそ人のきかくに

「せめて、それだけでも、私を思ってくださるしるしとして、私の家を見たとは言ってくださいますな。世間の人が聞きますから。」(久曾神氏)

久曾神氏は、「関係が絶えてしまったとなれば、世間ていをはばかり、せめてうわさの立たないようにしたいのであり、「わがやどを見き」と言わないだけでも消極的ではあるが、思いやりとなるのである」と指摘しています。

この歌の初句にある「それ」は、作者が強く意識していること、即ち「わがやどを見き」ということを指しています。この巻の歌が先にみたように、上記「3.② 第二」で指摘したように、二人の仲が客観的には元に戻れないような状況以降に対応する歌として編纂されているので、やんわりと「昔の自慢話などするな、迷惑である」、と申し入れている歌にとれます。「寄物」は「おもいやり」としたが、マナーは守れという要求に近いでしょう。

 

1-1-812歌  題しらず     よみ人しらず

逢ふ事のもはらたえぬる時にこそ人のこひしきこともしりけれ

「逢うということが、まったく絶え果ててしまった時になってはじめて、いとしい人が恋しいということも、ほんとうにわかるのであるよ。」(久曾神氏) 

この歌は、嘆いている歌ではありません。はっきり別れたとなると、さばさばするどころか、あの人が懐かしく愛情あふれる人であったことを改めて作者は感じているところです。それは今までとは違う恋の終り方であり、怨むこともなく友として交際できる別れ方であったのでしょうか。それを教えてくれたのがあの人のおもいやりであったのだ、と知ったことだった、と作者は詠っています。作者はこのような事の成り行きに相手を必死にたてて自ら納得しようとしています。1-1-811歌の作者と、相手の評価が、全然異なります。寄物は「おもいやり」ではないか。

 

1-1-813歌  題しらず     よみ人しらず

わびはつる時さへ物の悲しきはいづこをしのぶ涙なるらむ

「いとしい人に忘れられ、わび果ててしまった今になっても、まだ悲しく思うのは、あの人のどこに未練があって恋い忍ぶ涙であろうか。」(久曾神氏)

氏は、「わびはつる」とは「あきらめきってしまう」意と説明しています。

この歌は、五句が「心なるらん」となって後撰集に伊勢の歌(1-2-937歌)としてあります。『古今和歌集』の編纂者は、元資料の作者名(伊勢)をわざわざ伏せている、と思われます。それは元資料での作詠事情よりもこの歌集の配列の中でこの歌を理解せよという指示であろう、と思います。配列からは、1-1-811歌も1-1-812歌も二人の仲は終わったかかもしれない(あるいは戻ることはない)、と作者が判断している時点が作詠時点である、と歌からは想定できます。そのさきにこの歌1-1-813歌があるので、元資料における伊勢と相手との関係を決めつけているものではない、という編纂者の立場を表わしているのではないでしょうか。「涙がでるのだから別れたのだよ、と自ら言い聞かせていると理解して、寄物は涙という「手立て」とみます。

 

1-1-814歌  題しらず     藤原おきかぜ

怨みてもなきてもいはむ方ぞなきかがみに見ゆる影ならずして

久曾神氏は、「訴えるべき所はどこにもない。鏡に映る自分の影以外は」と理解しています。作者は事態を必死に理性的に捉えようとしており、寄物は「手立て」(鏡)と理解できます。

 

② ここまでの歌で、付記2.の表の訂正はありません。

1-1-815歌以降は、次回に記します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

(2019/8/26   上村 朋)

付記1.久曾神氏の指摘する古今集各部の排列の特徴

① 久曾神氏は、『古今和歌集成立論 研究篇』(風間書房)の「第二編第二章第二節」で、「部類精神」(撰者の考えていた大系)を論じた後「和歌の排列」を論じている。

② 各部・各巻のなかで「細分せられた同種の歌が詠作年代順に排列せられてゐる」と指摘し、それに気づかず、語句の類似、前後関係、背景の推察などによって、文芸評論的に考へるのは、作品評価としては興味が深いが、撰者の意図を遥かに超越しているものである」と指摘している。

③ (各巻を)具体的に見ると、特色があり相違しているとして、部類ごとに論じている。

④ しかしながら、「細分せられた同種」に関する諸氏の意見は、本文で引用したように未だ不定である。

⑤ よみ人しらずの歌の注目すると、春歌上において素性法師は、氏の示す一つの区分のなかでよみ人しらずの歌の間に置かれている。(1-1-5~1-1-8歌、1-1-46~1-1-48歌)。業平にも同じ例がある(1-1-62~1-164歌)。貫之にもある(1-1-121-~1-1-125歌)。

⑥ 各歌の理解と撰者の意図の解明が待たれるところである。未だ論議の対象である。私は、今、「当時の語句の意味・使い方、前後関係、元資料の歌との関係」などを確認しつつ作品を理解しようとおり、「部類精神」に適う理解を目ざしている。

付記2.古今集巻十五にある歌の配列について

表1 古今集巻十五にある歌の分析 その1 (2019/8/26現在)

歌番号等

作者の自覚

相手に作者が訴えたいこと

寄物

歌群

1-1-747

既に仲を絶たれた

私を避けて身を隠したのはなぜだろう

四季の景(春の月)

第一

1-1-748 *

既に仲を絶たれた

私を避けて身を隠したかのようになったのはなぜだろう

四季の景(秋のすすき)

第一

1-1-749

近付けない

あいたかった

おもはむ人(みんなが思う人)

第一

1-1-750

近付けない

あいたい

おもはむ人(まだいない)

第一

1-1-751 *

近付けない

邪険にしないで

余所の人(天上の住人)

第一

1-1-752

近付けない

邪険にしないで

余所の人(魅力ある自分)

第一

1-1-753

近付けない

眼にはいらないようだ

晴れやか(快晴)

第一

1-1-754 *

近付けない

眼にはいらないようだ

晴れやか(相手は人気者)

第一

1-1-755 *

誰も寄ってこない

本心ですか

海(海草の浮く海浜

第二

1-1-756 *

誰も寄ってこない

本心ですか

海(袖にできる涙の海)

第二

1-1-757

逢えない状況が続く

来てください

めづらしきもの(時期外れの白露)

第二

1-1-758

逢えない状況が続く

来てください

めづらしきもの(日常の衣ではない粗い海女の衣)

第二

1-1-759

逢えない状況が続く

それでも頼りにしている

河(淀河 常に表流水有り)

第二

1-1-760 *

逢えない状況が続く

それでも頼りにしている

河(みなせ河 伏流水が主)

第二

1-1-761

逢えない状況が続く

それでも待っている

動物(しぎ)

 

第二

1-1-762 *

逢えない状況が続く

それでも待っている

植物(玉かづら)

第二

1-1-763

絶たれたか

私に飽きたのか

涙(しぐれのように)

第三

1-1-764

絶たれたか

私に飽きたのか

涙(山の井のように)

第三

1-1-765

絶たれたか

本当に逢うのが難しいのか

忘草(種 これから私が忘れるために)

第三

1-1-766

絶たれたか

本当に逢うのが難しいのか

夢でも逢えない

忘草(茂った状況 今忘れたい)

第三

1-1-767

絶たれたか

夢でも逢えない

遠い存在ではないはず

夢(みる)

第三

1-1-768

絶たれたか

遠い存在ではないはず

夢(みない)

第三

1-1-769 *

絶たれたか

貴方を頼りに一人居るのみ

訪れのない家(捨てられた家)

第三

1-1-770 *

絶たれたか

貴方を頼りに一人居るのみ

訪れのない家(来る人のない家)

第三

1-1-771

絶たれたか

それでも待機している

ひぐらし(泣いている・静的)

第三

1-1-772

絶たれたか

それでも待機している

ひぐらし(動的)

第三

1-1-773

絶たれたか

まだ待つ気持ちが強い

今日一日(蜘蛛にもすがる)

第三

1-1-774

絶たれたか

まだ待つ気持ちが強い

今日一日(すがるものもない)

第三

1-1-775

既に絶たれた

それでも期待してしまう

年月(月に一度でも)

第四

1-1-776

既に絶たれた

それでも期待してしまう

年月(年に2回ぐらいでも)

第四

注1)「歌番号等」:『新編国歌大観』の巻番号―その巻の歌集番号―その歌集の歌番号

 なお、表1~表4の注記を以下ここにまとめて記す。

注2)歌の分析は、久曾神昇氏の『古今和歌集』(講談社学術文庫)を参考に筆者が分析した。さらに諸氏の意見を参照して分析した歌には、「歌番号等」欄に「*」を付した。その歌意等は注6)に記す。

注3)「自覚」:相手との関係を作者が自覚している内容。

注4)「相手に作者が訴えたいこと」:歌の趣旨や相手に伝えたい(問いたい)内容。

注5)「寄物」:作者が、「自覚」に関して譬喩・象徴としていると思われるもの。

注6)「*」を歌番号等に付した歌の注

1-1-748歌:『伊勢集』記載の歌は、元資料の歌とし、古今集記載の歌としては配列を優先した理解をして判定した。

1-1-751歌:初句「ひさかたも」を「この地上ではなく」と訳出する。

1-1-754歌:初句も訳出する。

1-1-755歌:特定の個人を指して、「遊びで近づいているからいや」といっている。

1-1-756歌:①「物思ふ」のは本心と思えないから。

1-1-760歌:①3-4-17歌の類似歌であり、3-4-17歌の検討時(ブログ「わかたんかこれ猿丸集第17歌その1 みなせがは」(2018/6/4付け))、この歌の前後の配列を検討した。②その際の現代語訳(試案)に従う。

1-1-762歌:①初句に「つるがどこまでも伸びるかづらのような仲と思っていたが」の意がある。

1-1-769歌:①「ふるやのつま」とは、「古家の軒の端」と「捨てられた(訪れの途絶えた)屋敷に居る妻」の意とを重ねている。

1-1-770歌:① 出入りの道もなくなったら、行くに行けない。「みち」には航路の意もあるので牛車も舟も寄りつけない(訪れのない)家は、通う男がいなくなった女性その人を意味する。

1-1-778歌:三句「すみのえ」も訳出する。

1-1-779歌:初句「すみのえ」も訳出する。

1-1-784歌:初句「天雲」も訳出する。

1-1-786歌:初句「唐衣」も訳出する。

1-1-809歌:「つれなき」とは、「かはりはてたる後の事」(『両度聞書』)。

1-1-810歌:世間ていを思うと悲しくなるのではなく、既に世間に知られていることを逆手にとって相手の翻意を迫る歌。

1-1-812歌:①人を恋することの意味を教えてもらったと感謝している歌。②それは、必死に自ら納得しようとしている姿でもある。

1-1-815歌:五句にある「わがみか」とは、そのような行動で自分を慰める自分が悔しい。

1-1-816歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-817歌:①「あらを田」を「荒れた田」とする竹岡氏の理解に従う。②この歌は3-4-48歌の類似歌なので、改めて検討する。竹岡氏の理解における分析結果として表に示しており、いわば仮置きの段階である。

1-1-819歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-820歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-823歌:序詞も訳出する。

1-1-825歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-826歌:①ながらの橋は当時杭だけ残り使用できない状態。②架け替え修繕を待っていたら時が経ちすぎる。

1-1-828歌:竹岡氏の理解に従う。

 

注7)「歌群」の分類は試案である。

 

表2 古今集巻十五にある歌の分析 その2 (2019/8/26現在)

歌番号等

作者の自覚

相手に作者が訴えたいこと

寄物

歌群

1-1-777

既に絶たれた

待つのは苦しい

まつ(秋風が吹くように期待しているが)

第四

1-1-778 *

既に絶たれた

待つのは苦しい

まつ(松ではないがながく待っている)

第四

1-1-779 *

 

既に絶たれた

それでも待ち望んでいる

まつ(住之江の浜の松)

第四

1-1-780

既に絶たれた

それでも待ち望んでいる

まつ(三輪山の松)

第四

1-1-781

既に絶たれた

人は変わり果てるか

飽きに通じる秋の風物(野風とはぎ)

第四

1-1-782

既に絶たれた

人は変わり果てるか

飽きに通じる秋の風物(時雨)

第四

1-1-783

止むを得ぬ中断

変わらず(強く)思っている

ただようもの(木の葉)

第五

1-1-784 *

止むを得ぬ中断

変わらず(強く)思っている

ただようもの(天雲)

第五

1-1-785

止むを得ぬ中断

貴方に慣れたら

空を渡るもの(風)

第五

1-1-786 *

止むを得ぬ中断

貴方に慣れたら

空を渡るもの(渡来品である唐衣)

第五

1-1-787

既に絶たれた

何故つれなくなるの

飽きに通じる秋の風物(風)

第五

1-1-788

既に絶たれた

何故つれなくなるの

飽きに通じる秋の風物(木の葉)

第五

1-1-789

行き来途絶える

捨てられて恨めしい

おもひ(見返したい)

第五

1-1-790

行き来途絶える

捨てられて恨めしい

おもひ(離れがたい)

第五

1-1-791

既に絶たれた

もう逢えないのは残念

はかないもの(冬枯れの野)

第五

1-1-792

既に絶たれた

もう逢えないのは残念

はかないもの(水の泡)

第五

1-1-793

絶たれたか

縁があるはず

河(みなせ河 水無しと表面上みえるだけ)

第五

1-1-794

絶たれたか

縁があるはず

河(吉野河 常に流れている)

第五

1-1-795

未だ音信なし

人の心は勝手だ(貴方)

染物(花染め褪めやすい)

第六

1-1-796

未だ音信なし

人の心は勝手だ(私)

染物(染めなければ褪ない)

第六

1-1-797

未だ音信なし

人の心は変わりやすい(貴方も)

花(色が移ろいやすい)

第六

1-1-798

未だ音信なし

人の心は変わりやすい(貴方も)

花(散るのが花)

第六

1-1-799

未だ音信なし

別れたことを認める

花(ちる花)

第六

1-1-800

未だ音信なし

別れたことを認める

花(咲く花)

第六

注1)「歌番号等」、「*」など:表1の注に記す。

 

表3 古今集巻十五にある歌の分析 その3 (2019/8/26現在)

歌番号等

作者の自覚

相手に作者がいいたいこと

寄物

 

1-1-801

未だ音信なし

原因は忘れ草か

忘れ草(対策を講じたい)

第六

1-1-802

未だ音信なし

原因は忘れ草か

忘れ草(対策なし)

第六

1-1-803

未だ音信なし

原因が分からなく、憂い

秋の風物(稲)

第七

1-1-804

未だ音信なし

原因が分からなく、憂い

秋の風物(はつかり

第七

1-1-805

未だ音信なし

うしと思ふ

暇なしの景(涙止まらず)

第七

1-1-806

未だ音信なし

うしと思ふ

暇なしの景(生きながらえる)

第七

1-1-807

既に絶たれた

身から出た錆と思う

我(虫の名:われから)

第七

1-1-808

既に絶たれた

身から出た錆と思う

我(我が身)

第七

1-1-809 *

既に絶たれた

諦めきれないでいる

今(ひとり涙する)

第七

1-1-810 *

既に絶たれた

諦めきれないでいる

今(人が話題にして)

第七

1-1-811

既に絶たれた

既に終わったと承知した

おもいやり(マナーは守れ)

第七

1-1-812 *

既に絶たれた

既に終わったと承知した

おもいやり(相手に感謝・必死に納得しようとしている)

第七

1-1-813

既に絶たれた

自分を説得している

手立て(涙)

第七

1-1-814

既に絶たれた

自分を説得している

手立て(鏡のみ)

第七

1-1-815 *

既に絶たれた

繰り返し思う

手立て(習い性)

第七

1-1-816 *

既に絶たれた

繰り返し思う

手立て(立かえる波)

第七

1-1-817 *

再び考えみた

裏切られてきたが

働く場(あらを田)

第八

1-1-818

再び考えみた

裏切られてきたが

働く場(浜)

第八

1-1-819 *

再び考えみた

遠ざかる

秋の景(飛ぶ雁)

第八

1-1-820 *

再び考えみた

遠ざかる

秋の景(色替わる木の葉)

第八

1-1-821

再び考えみた

原因は心変わりだ

秋の景(風にあう武蔵野)

第八

1-1-822

再び考えみた

原因は心変わりだ

秋の景(風にあう田の実)

第八

1-1-823 *

再び考えみた

うらめしい

秋の景(飽き風)

第八

1-1-824

再び考えみた

うらめしい

秋(秋ということば)

第八

1-1-825 *

年を経て

捨てられてからも恋しいまま年が経った

橋(うじ橋 中断してから)

第九

1-1-826 *

年を経て

捨てられてからも恋しいまま年が経った

橋(使えないながらの橋 長く待っても)

第九

1-1-827

年を経て

もう逢う機会もないのであろうとあきらめている

水の流れ(乗ればまたあうかも)

第九

1-1-828 *

年を経て

もう逢う機会もないのであろうとあきらめている

水の流れ(流れは割くものだ)

第九

注1)「歌番号等」、「*」など:表1の注に記す。

(付記終り 2019/8/26   上村 朋)

 

 

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第47歌その4 暁のゆふつけ鳥

前回(2019/8/5)、 「猿丸集第47歌その3 からころもは着用者も」と題して記しました。

今回、「猿丸集第47歌その4 暁のゆふつけ鳥」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第47 3-4-47歌とその類似歌

① 『猿丸集』の47番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-47歌  あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける

   たがみそぎゆふつけどりかからころもたつたのやまにをりはへてなく

 

その類似歌は、古今集にある1-1-995歌です。

題しらず      よみ人しらず」

   たがみそぎゆふつけ鳥か韓衣たつたの山にをりはへてなく

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。

③ それでもこれらの歌は、趣旨が違う歌です。この歌は、男が昔知っていた女を表面上励ましている歌であり、類似歌は、逢えない状況が打開できた男の歌です。(この歌の趣旨が検討の末上記にかわりました)

 

2.~18.承前

(最初に、類似歌を当該歌集の配列から検討した。さらに類似歌を検討したところ1-1-993歌~1-1-996歌は、執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群といえる。類似歌等については、用いている「みそぎ」、「ゆふつけ鳥」等の語句について、用例に基づき、類似歌等の推定した作詠時点における意を確認し、現代語訳(試案)をつぎのとおり得た。

類似歌(1-1-995歌)

「誰がみそぎをして祈願したか(それは私である)。そして、あふさかで「ゆふつけ鳥」がないたのだ!一冬だけの使い捨てのからころも(外套)のような存在の私は、大きな壁のような「たつたのやま」を越えることができるのだ、大声をあげて喜んでいるのだ。(ご下命に応える目途がたった。)」

類似歌の元資料の歌

「誰がみそぎをして祈願したか(それは私である)。そして、あふさかで「ゆふつけ鳥」がないたのだ!だから、一冬だけの使い捨てのからころも(外套)のように思っていた私は、たつたのやまで繰り返し大声をあげているのだ。壁を越えることができたのだ。」

 

19.3-4-47歌の現代語訳の例

① 『和歌文学大系18 猿丸集』(鈴木宏子校注 1998)では、詞書にある「あひしれりける女」とは、知人の女、の意としています。

そして、初句~二句は「誰が禊をして木綿を付けた鳥なのか」。と訳し、「たつたのやま」は大和国の歌枕であり、「からころも」は竜田にかかる枕詞としています。五句にある「をりはへて」は、「ずっと続けて」の意としています。

② 鈴木氏は、ゆふつけ鳥が「鶏」であるとこの歌の注釈で断言していません。禊とゆふつけ鳥との関係も説明していません。また、1-1-995歌との違いを認めていないようです。

 

20.3-4-47歌の詞書

① 3-4-47歌を、詞書から検討します。前回試みた現代語訳(試案)(ブログ「わかたんかこれの日記猿丸集からのヒントその2」(2017/11/27付け))を、歌も含めて全面的に再検討します。

② 『猿丸集』の詞書における「あひしる」という表現については、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第1歌 詞書とあひしりたりける人」(2018/1/22付け)で検討したことがあります。同時代に成立した歌集として多数の例がある三代集(但し『拾遺和歌集』には無し)と一例があった『伊勢物語』より推察すると、『猿丸集』の編纂者は、「あひしる」の表現に気を配っており、「(あひしる)人」の意味は一つに限っている」、ということでした。

そして、3-4-5歌の詞書の「あひしりたりける女」とは、「(詠嘆の気持ちをこめて言うのだが)交際していたことのある女」、の意となり、「別れた女」の意と理解しました。詞書の現代語訳(試案)では、「以前交際していたことのある、あの女(の家)」としたところです。

3-4-29歌の詞書は、3-4-47歌の詞書と同じあひしれりける女」であり、馴れ親しんでいたことのある女、男からいうと昔通っていた女、男女の間柄であった女、の意と理解しました。詞書の現代語訳(試案)では、「男女の間柄であった女」としたところです。

③ 「あひしる」は、互いに親しむ・交際する、の意(『例解古語辞典』)であり、「けり」は伝聞の意を表わし、過去の事実をさしますので、「あひしれりける女」とは、表面的には「互いに親しんでいた女」となります。

この3-4-47歌の詞書をみると、その女性が「人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ」という「けしき」を作者が読み取っているので、作者と「あひしれりける女」との関係は、今は疎遠になっているのは確かであり、3-4-29歌と同じ意と理解できます。女官として勤務上親しくしていただけではなくて、個人的に対面できたことのある女性でしょう。

即ち、この歌の詞書の「あひしれりける女」とは、「以前、懇ろであった女性」の意です。

④ 詞書の「あひしれりける女の」の「の」は、格助詞で主語であることを明示しています。

文の構成としては、

A:あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきける

B(Aという)けしきを見ていひける

となり、文Aの主語は「あひしれりける女」、述語は「なげきける」であり、その理由を、誰かが「人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ」と推測した文にしてはさんでいます。「人」は特定の人物を念頭においているものの固有名詞をさけた表現方法のひとつです。

Bの主語は、文Aが既知であるので、文Aで理由を推測した「誰か」です。述語は、「見て」と「いひける」となります。「いひける」結果は歌であるので、その「誰か」は、歌の作者でもあります。(前回は、この「誰か」は、この歌を「書きつけた人」でもある、と記しましたが、その表現は「詠んだ人」か「書き留めて猿丸集に記載した人」か明確ではありませんでした。)

Bの主語である「誰か」は、「見」た後「いふ」と言う行動に出るには、他の選択肢を捨てた決断があったのだと思います。その経緯・理由に文Bは直接触れていません。「見る」と「いふ」は多義語であるので、そこにヒントがあるかもしれません。

⑤ なお、詞書が、「いひ(ける)」で終わっているのは、『猿丸集』ではこの歌だけです。この『猿丸集』で一番多いのは「よめる」であり11首(詞書がかかる歌でいうと14首)あります。そのうち「見てよめる」で終わっているのは、1首(3-4-32歌)です。「・・・さくらのさきけるを見てよめる」とあります。

また、詞書が、「見て」で終わっているのは、4首あり、「(花や流水)を見て」が3首、「(なくなりにけるところ)を見て」が1首(3-4-45歌)です。この3-4-45歌の詞書の「見て」は、「(よく知っている人が、亡くなられ、一人となった夫人を)思いやって(詠んだ歌)」と訳したところです。

⑤ そのほかこの詞書には、多岐にわたる語義を持つ語句があるので確認をしておきます。

第一 動詞「かたらふ」(語らふ)は、『例解古語辞典』につぎのようにあります(以下も同じ)。

a 語り合う・互いに話す。

b 親しく交際する。

c 男女がいいかわす。

d 説いて仲間に入れる。

e 頼み込む、相談をもちかける。

第二 また、詞書にある「なげきけるけしきを見て」の動詞「なげく」には、次のような意があります。

a ため息をつく。

b 悲しむ・また悲しんで泣く。

c 請い願う・哀訴する。

第三 同「なげきけるけしきを見て」の動詞「見る」には、次のような意があります。

a視覚に入れる・見る。

b思う・解釈する。

c(異性として)世話をする。

d経験する。

e見定める。見計らう。

f取扱う。処置する。

第四 動詞「いふ」(言ふ)には次のような意があります。

aことばを口にする・言う。

bうわさをする。

c呼ぶ。

d言い寄る・求愛する。

e詩歌を吟じる・口づさむ。

f 獣や鳥などが鳴く。g(・・・だとして)区別する・わきまえる。

⑥ さて、歌は、文Aの状況を文Bの主語である「誰か」(以後作者と言い換えます)が「みていひける」成果品です。文Aの状況は女のある状態であるので、男女の間の歌とすれば作者は男性となります。文Aの状況を男性としてどのように受け止めたのかによって詠いぶりが変わると思います。「見る」ことで得た情報を作者の既に持っている情報と突き合わせて(或るひとつに結実した)「けしき」というある段階であると判断し、自分の意向と相手の出方を予想して歌に仕上げた結果が、この歌です。

だから、この詞書において男性の作者における動詞「みる」の意は、上記のうち、「a視覚に入れる・見る。」「b思う・解釈する。」「e見定める。見計らう。」が有力となります。そして文Aという情報に接して「けしきをみて」といっているので、「みる」の意は、単に視覚に捉えるではなく、状況を把握する意と推測できますので、上記aは対象外となります。それから「かたらふ」も「d説いて仲間に入れる。」を除く4案が予想でき、他の語句も整理すると、つぎの表のようになります。

  表3-4-47歌の詞書における主たる語句の現代語訳候補の表 (2019/8/5現在)

語句

1案

2案

3案

4案

あひしれりける女

懇ろであった女

 

 

 

人をかたらひて

ある人と語りあって

ある人と親しく交際して

ある人と男女の仲を言いかわして

ある人に、あることで頼み込んで

おもふさま

思いどおりの状態

 

 

 

なげきける

ため息をついていた

悲しみに沈んでいた

悲しんで泣いていた

(誰かに)哀訴していた

けしき

ようす 態度

きげん

意向 考え

受け 覚え

見て

思う・解釈する。

見定める・見計らう

 

 

いひける

ことばを口にする・言う(歌にしてふと口にしてしまった)

言い寄った

詩歌を吟じた(知っている歌を口づさんでしまった

 

注1)この表は、ブログ「わかたんかこれの日記猿丸集からのヒントその2」(2017/11/27))で作成した表を改定した。

 ここまでの『猿丸集』の歌で、男女の仲の歌の傾向からいうと、「いひける」の理解においては、第3案の「詩歌を吟じた」は、除外できます。この歌集で唯一「いひける」と表現されていることは、他の歌とは状況が異なると理解できます。「いふ」と同類の語句に、『猿丸集』の詞書の結びの語句として一番多い語句である「よむ」があります。「詠む」と漢字をあてて「和歌をつくる」意となっており、当然相手におくっています。

『猿丸集』ですので、「詩歌を吟じた」ではなくとも「いふ」は、「よめる」という結びではないことを意識すれば第1案の「ことばを口にする・言う(歌にしてふと口にしてしまった)」がベターであり、第2案のような、和歌を詠む以外の行為が含まれる意を加えなくてもよい、とも思えます。

しかし、男女の仲の歌の多い『猿丸集』なので、第2案に理解されても作者として拒むつもりはないのではないでしょうか。激励の言葉としておくるならば、詞書はこのように婉曲な表現にしない方法があります。「いひける」という表現はこの二つの案の一方に決めつけていない表現であると、といえます。

また、「見て」には、「いひける」の第1案にも第2案にも添う意があります。

⑨ 詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「以前、懇ろであった女性が、ある人と親しく交際していても、希望したように事が運ばなかったようで、いつもいつも溜息をついている、というので、(その女に)言った(歌)」

 

21.『猿21丸集』編纂時の語句の理解

① 『猿丸集』は、三代集の時代に編纂された歌集です。『新編国歌大観』の「解題」によると、公任の三十六人撰の成立(1006~1009頃)以前に存在していたとみられる歌集です。

『猿丸集』の類似歌には、『古今和歌集』の歌が多数ありますので、『猿丸集』の編纂時点は『古今和歌集』編纂時(例えば905年)以後から公任の三十六人撰の成立(1006~1009年頃)以前となります。

先に、三代集の歌をも対象にして50年ごとに用例を整理し当時の語句の意を検討しました。(付記1.参照) 『猿丸集』の編纂時点は、そのうち901~1050年に限られます。

② 主な語句について、901~1050年の意は次のようになります。(付記1.参照)

第一 「みそぎ」は、「罪に対してはらいをする」や「神に接する資格・許しを得る」の意もありますが、「民間行事の夏越しの祓と言う行事」が優勢となっています。「祭主として祈願する」意の用例がありません。

第二 「ゆふつけとり」は、夕方に鳴いてかつ「逢う」意を含む「あふさかのゆふつけとり」の意のみが943年頃までであり、その後は、暁という後朝の朝に鳴く「ゆふつけとり」の意も併用されてきています。

第三 「からころも」は、「官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着耐用年数1年未満の材料・製法の衣も含む)」の意の例と、その防寒外套にその着用者の意を重ねている例が同数13例あり、女性の意を加えた例が4例あります。

第四 「たつたやま」は、都の西方にある山であり、13例が「たつたのかは」と同様「紅葉」ととともに詠まれており、3例が「紅葉」を意識していない例であり2例が「なき名のみたつたの山」、1例が「ぬす人のたつたの山」と詠まれています。

③ このうち、「ゆふつけとり」の意は、これから逢う前に夕方なく鳥「あふさかのゆふつけとり」と、逢って後の後朝の朝鳴く鶏とでは、歌の意がだいぶ異なってくるのではないかと予想できます。

詞書によれば、女はある特定の人と親しく交際しているので、その人と逢うのに大変な努力を要することで悩んでいる訳ではなく、その後のことで悩んでいる、と推測できます。その悩みとは、逢う頻度が期待するほどないとか、その人の正室との関係調整などでの不満などを、想像します。

そうすると、女は、その人と親しくしているのですから、何かの例示・示唆として「ゆふつけ鳥」を用いるならば、「あふさかのゆふつけとり」より、逢って後の後朝の朝鳴く鶏の意のほうが、女の悩みに関係しやすいのではないか、と思います。

 

22.3-4-47歌の現代語訳を試みると

 この歌の文の構成を、検討します。

初句「たがみそぎ」の「たが」は連語であり、「誰が」または「誰の」の意です。この初句のみで、一文を成す疑問文です。初句に言う「みそぎ」は、「罪に対してはらいをする」意または「民間行事の夏越しの祓と言う行事」を指していると思えるので、「(あふさかの)ゆふつけ鳥」や暁の鶏など鳴く鳥の存在が当時必須ではなく、二句とは別の文となっていてしかるべきです。

② 二句「ゆふつけ鳥か」の「か」が終助詞であれば、二句と三句以下とは別の独立した文である、ということになり、二句のみで一文を成し、終助詞の用法から感嘆文か疑問文かになります。

そして、三句以下は、明示されていない主語が「なく」ということを、普通に叙述している文です。

「ゆふつけ鳥」という語句の意が、上記「21.②」の第二のどちらであってもかまいません。このような理解を三文案と以下いうことにします。

③ 二句「ゆふつけ鳥か」の「か」が係助詞であるならば、二句と三句以下が一つの文を成す可能性が大です。その文の主語と述語の候補は、「ゆふつけ鳥」と「(をりはへて)なく」となります。このような理解を二文案と以下いうこととします。

係助詞の「か」の用法には、

「確かな事がらかどうかについて、心の中で疑っている意を表わす」

「相手に対して、問いたずねる意を表わす」

「疑いまたは問いたずねる形式で述べた事がらに、自ら打ち消す気持ちを込めて、いわゆる反語として用いる」

があります。(『例解古語辞典』)

詞書にいう「いひける」からは、疑問あるいは問いで歌を終えるのがちょっときにかかります。

④ さて、歌の理解は、詞書に従うことになります。

詞書によれば、作者は、女が溜息をつくとか、悲嘆にくれているという事情を、人づてに得ています。そして考慮の結果この歌を「あひしれりける女」(以前、懇ろであった女性)におくっています。

当時女性と対面できたら恋のステップを一つも二つも上がったとみなせますから、作者がその女と対面して事情を知るようなことはあり得ないことです。

人づてに聞いた事がらから、作者は、その女にとっては「みそぎ」もしたいほどの状況だと想像できたのでしょう。

「あひしれりける女」の状況を知った作者には、どのような気持ちが動くのでしょうか(前回の検討を再考しました)。

感情a 紳士的にあるいは好意をもって接する。即ち同情をしてなんとかしてやりたい、または勇気づけたい。

感情b 今は関係のない女性なので傍観者の好奇心から、勝手なアイデアを言いたい。

感情c 今も好意をもっている女性なので、この際女との関係を改めて築きたい。

ここまでの『猿丸集』の男女の仲の歌の傾向からいうと、作者が傍観者の立場の歌は場違いであり、詞書の語句「いふ」からは、感情cを秘めて感情aの立場で詠うのではないか。

 そのため、この歌の構成が三文案の場合、

最初の文(初句)の文「たがみそぎ」の「みそぎ」は、上記「21.② 第一」に示した当時の意のうち、「民間行事の夏越しの祓と言う行事」ではなく「罪に対してはらいをする」や「神に接する資格・許しを得る」の意であり、みそぎをして「厄払いのおはらいをしたい気分かね」とその女性に問いかけている疑問文であり、

次の文(二句)の文「ゆふつけとりか」は、その厄払いの対象を、後朝の朝にあたる暁に鳴く「ゆふつけとり」という表現で、婉曲に詞書にいう女が「(かたらひている)人の件」か、とさらに女に問う疑問文であり、

三番目の文(三句以下)は、この歌で唯一の動詞(作者の行為)があるので、二句までに述べた状況認識に対する作者の決意か確信を直截に表現している主語と述語を明記した普通の文章です。「からころも」が主語となるので、女性の意を含む「からころも」であろうと思います。「たつたのやま」は、「紅葉のたつたの山」が第一候補となります。

⑥ この歌が二文案の場合、

次の文(二句以下)に、この歌で唯一の動詞(作者の行為)があるので、作者の決意か確信を叙述している文となるはずです。その理由を述べているのが最初の文(初句)の文「たがみそぎ」です。このように端的に言っているので、それは、何かの略称か引用文ではないのか。

その候補は、当時著名な歌で「たがみそぎ」と詠っている歌か、「みそぎ」を詠っている歌に求めることになります。『猿丸集』の編纂時点を考慮すると、その候補は『萬葉集』と三代集にある歌が有力です。

しかし「たがみそぎ」とある歌は類似歌1-1-995歌しかなく、句頭に「みそぎ」とある歌は3首、句中に「みそぎ」とある歌は「せしみそぎ」とある歌が1首しかありません。

1-1-501 第十一恋歌一   題しらず      読人しらず

恋せじとみたらし河にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも

(みそぎは、「祭主が祈願する」意)

1-2-162 第四 夏   返し      よみ人しらず

ゆふだすきかけてもいふなあだ人の葵てふなはみそぎにぞせし

(みそぎは「罪に対してはらいをする」意)

1-2-216 第四 夏   みな月ふたつありけるとし      よみ人(しらず)

たなばたはあまのかはらをななかへりのちのみそかをみそぎにはせよ

(みそぎは「民間行事の夏越しの祓」の意

1-3-293歌 第五 賀   承平四年、中宮の賀し侍りける屏風      参議伊衡

みそぎして思ふ事をぞ祈りつるやほよろずよの神のまにまに 

(みそぎは「神の接遇する資格・許しを得る」意)

詞書の女は「人とかたらふ中」であり、逢う頻度などに悩んでいる女性です。このため、1-1-501歌は「逢う」ことに関する歌であり例示するには不適切と思わますが、男女の間の悩みの一つとくくれば可能性があります。1-2-162歌の作中人物とは男女の仲のステップが全然違いますので、適切ではないであろうと思います。1-2-216歌などもいかがでしょうか。

次に二文案の次の文(二句以下)を検討します。

二句の主語である「ゆふつけ鳥」が、「あふさかのゆふつけとり」では「たつたのやま」で鳴くと詠むのが解せません。「暁の鶏」が鳴くのは、「たつたのやま」との因縁が薄すぎます。

結局これらのことから、二文案よりは、三文案が妥当であろうと思います。

⑦ 前回の現代語訳(試案)は全面的に改めたいと思います。上記の三文案となります。三句の「からころも」(三番目の文の主語)は、少数の用例がある女性の代名詞です。

厄払いのおはらいをしたい気分かね。それは暁に鳴く鶏が関係するのかね。からころもさん、貴方に似合う山である「たつたの山」で声をあげ続けているよ。(お困りのようですね。)

この歌は、女を激励している歌です。女が諦めたとき、作者自身に頼るきっかけの歌(便り)を送ったということです。

23.この歌と類似歌とのちがいなど

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-47歌は詠む経緯を記し、類似歌1-1-995歌は「題しらず」で経緯不明です。

② ゆふつけ鳥の意味するところが変化しています。この歌は、「ゆふつけ」に鳴く「あふさかのゆふつけ鳥」であり、類似歌は、暁に鳴く鶏です。

③ 歌は三つの文章から共に成っていますが、二番目の文(二句)が、この歌は疑問文であり、類似歌は感嘆文です。

④ たつたの山の意味するところが異なっています。この歌は、女性にも喩えることができる紅葉がきれいな山であり、類似歌は、障害物の象徴です。

⑤ この結果、この歌は、男が昔知っていた女を励ましている歌であり、類似歌は、逢えない状況が打開できた男の歌です。

⑥ そして、詞書と歌から、この歌の「ゆふつけとり」の意が暁の鶏であったので、『猿丸集』の編纂が、作詠時点を943年以前と推計した1-10-821歌の作詠以降であることが判りました。

 さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

 3-4-48歌 ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ

     あらをだをあらすきかへしかへしても見てこそやまめ人のこころを

 

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

夏休みをとってから、次回、上記の歌を中心に記します。

2019/8/12   上村 朋)

付記1.語句の検討のブログは、つぎのとおり。ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌 その2 あふさかのゆふつけ鳥」(2019/7/28付け)に記した。

①みそぎ:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌 その2 あふさかのゆふつけ鳥」(2019/7/28付け)の「9.⑥」

②「ゆふつけとり」:同上ブログ「10.③」 

③「からころも」:同上ブログ「11.②」

④「たつたのやま」:「わかたんかこれの日記 所在地不定の河と山」(2017/6/25付け)の「表 三代集における「たつたのやま」表記の歌」

(付記終り  2019/8/12     上村 朋)

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第47歌その3 からころもは着用者も

前回(2019/7/29」、「猿丸集第47歌 その2 あふさかのゆふつけとり」と題して記しました。

今回、「猿丸集第47歌その3 からころもは着用者も」と題して、類似歌について記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第47 3-4-47歌とその類似歌

① 『猿丸集』の47番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-47歌  あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける

   たがみそぎゆふつけどりかからころもたつたのやまにをりはへてなく

 

その類似歌は、古今集にある1-1-995歌です。

題しらず      よみ人しらず」

   たがみそぎゆふつけ鳥か韓衣たつたの山にをりはへてなく

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。

③ それでもこれらの歌は、趣旨が違う歌です。この歌は、男が昔知っていた女を誘っている歌であり、類似歌は、逢えない状況が打開できた男の歌です(今回の検討で「昔知っていた」(女)を加え、類似歌の「予測」を改めました)。

 

2.~15. 承前

(最初に、類似歌を当該歌集の配列から検討した。類似歌の前後10首を検討し、巻第十八は失意逆境の歌群であることを前提に、1-1-993歌~1-1-996歌(未検討の1-1-995歌は保留)は、執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群とみなせた。次に、1-1-994歌と1-1-995歌の作詠時点でもある古今集よみ人しらずの時代とその前後の時代ごとの「たつた(の)山」そのほかの語句に関して当時の用例に基づき変遷を確認した。そのうえで、1-1-995歌を構成する文の検討を行った(下記に再掲)。

また、類似歌1-1-995歌の諸氏の現代語訳例に対する疑問点をあげた。次の5点である。

第一 雑下の部の歌は失意逆境の歌群(久曾神氏)というが、どのような点でそれを認めているのか

第二 歌の中で主役となっているとみえるゆふつけ鳥が、「ながなが鳴」いたり「時節到来とばかり鳴く」のは何を言わんとしているか示唆もない

第三 「ゆふつけ鳥」と「あふさか(山)」の関係を不問にしている

第四 「たつた山」のイメージが、前回(2019/7/22付けのブログ)検討した結果とだいぶ異なる

第五 初句「たがみそぎ」、三句「からころも」を省いて現代語訳している例があるが、31文字しかない和歌において、5字も7字も省いても意が通じる場合もあるものの、この歌ではいかがか

 

(再掲) 15.類似歌について現代語訳を試みると その1 

① 『古今和歌集』の配列と語句の検討を踏まえ、「題しらず」という詞書に従うと、類似歌1-1-995歌の現代語訳の前回の試み(2017/11/27のブログ)は誤りでしたので、改訳したい、と思います。

② 語句の意は、元資料の歌としては古今集のよみ人しらずの時代の意ですが、『古今和歌集』の歌ですのでその編纂者の理解している意となります。

③ この歌の文の構成をみてみます。

初句「たがみそぎ」の「たが」は連語であり、「誰が」または「誰の」の意です。

当時の「みそぎ」には、「(あふさかの)ゆふつけ鳥」など鳴く鳥の存在が必須ではないので、初句と二句は関係ない語句であり、別々の事がらを述べている(二つの文である)、と理解できます。

そうすると、この初句のみで、一文を成す疑問文です。

二句「ゆふつけ鳥か」の「か」は、終助詞あるいは疑問の助詞の係助詞です。終助詞と理解すると、この句のみで、一文を成します。係助詞と理解すると三句以下とともに一文を成す可能性があります。この場合、主語がゆふつけ鳥になり、「ゆふつけ鳥」と言う表現が「あふさかのゆふつけ鳥」の略称(いうなれば既に一種の歌語)と知っている者にとって、その鳥が「たつたの山」で鳴くと詠むのは常識外れです。『古今和歌集』の編纂者の時代もそうでした。だから、二句は三句以下とも別の独立した文である、ということになります。(この点が前回と異なります)

このため、「か」は終助詞であり、二句のみで一文をなします。

終助詞「か」は、体言などにつき、感動文、疑問文として気持ちを添える意があります。『明解古語辞典』には「感動を表わす「か」(の用例)は和歌に集中する」ともあります。

三句以下は、そうなると、明示されていない主語が「なく」という叙述を普通にしている文です。

以上の三つの文からこの歌は成る、とみることができます。

16.類似歌について現代語訳を試みると その2

① 最初の文(初句)は、主語が明確されておらず、二句も同じです。また、初句の「みそぎ」をしている人も明記されていません。

だから初句を詠みだしているこの歌の作者と最初の文の主語の関係も分からないままです。

それらを解明するヒントは、『古今和歌集』の配列と詞書と用いている語句にもあるはずです。

② 最初に配列から検討します。久曾神氏の論をベースに、『古今和歌集』巻第十八を位置づけ、991歌~1000歌の配列を検討し、「1-1-993歌~1-1-996歌(未検討の1-1-995歌は保留する)は、執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群」を構成すると指摘しました(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集47歌 その1 失意逆境の歌か」(2019/7/20付け)の7.④)。この歌の歌意がこれに添うであろう、と予想できます(これを、ヒント1ということにします)。

配列上奇数番号の歌とその次の歌の共通性を言うには、雑下にある歌全ての検討後のこと(ブログ同上(2019/7/20付け)の7.⑤)ですが、少なくともこの歌の前後においては共通性がありますので、この歌1-1-995歌と1-1-996歌に共通性がある、と予想します(ヒント2)。

また、前歌1-1-994歌に続けて用いている語句「たつたのやま」は、作詠時点が同じ時代であれば、共通のイメージを持っているはずです(ヒント3)。

③ 次に、詞書を検討します。

一般に、『古今和歌集』記載の「題しらずよみ人しらずの歌」は、伝承歌の可能性が高く、多くの諸氏がそのように断言しています。つまり849年以前の作詠時点です(ヒント4)。伝承される所以は、使い勝手のよい便利な恋の歌として実際に用いられていたか、官人の宴席の愛唱歌に相応しいか、のどちらかであると、思います。

恋の歌であるならば、恋人にしたい人に働きかけている歌ですから、歌をおくる相手を元資料の作者は想定しています(ヒント5)。また、恋の歌であれば宴席の愛唱歌になる可能性もあります。

④ 次に用いている語句を検討します。

「ゆふつけとり」のイメージについて時代を追った成果(付記1.参照)からいうと、「あふさかのゆふつけ鳥」を詠い込んだ歌なので、『古今和歌集』の編纂者の手元にあった元資料の歌は、伝承歌でも恋の歌ではないでしょうか(ヒント6)。つまり1-1-995歌は、この元資料の歌を、配列により編纂者の意図を加えている歌となっている、と理解できます(ヒント7)。

② 以上のヒントは、1-1-995歌の理解のためのヒントです。元資料の歌に関するヒントは、そのうち、ヒント3からヒント6であり、まとめると、

「作詠時点が849年以前の歌で、相手を特定している恋の歌」

が元資料の歌となります。元資料の歌を検討したうえで、この歌1-1-995歌を検討することとします。

 

17.元資料の歌

① 最初の文(初句)の現代語訳(試案)候補には、「たが」の意により、

「誰のみそぎか」(以下初句A案と称します)、

「誰がみそぎをするか(あるいは、したか)」(初句B案)

2案があります。初句A案の文の主語は明記されてない代名詞「それ」となります。初句B案の文の主語は「た(誰)」と明記されています。どちらの案も、「みそぎ」をしたのは「た(誰)」とぼかされています。なお、「みそぎ」の意は「祭主として祈願する」ことです。(付記1.参照)

しかしながらヒント6とヒント5から作者とこの歌をおくる相手に関係ない第三者を歌に登場させる必然性はありませんので、「た(誰)」は、作者かこの歌をおくる相手と予想できます。作者は、相手の行動をまだ詳しく知り得ないからこの歌を送り、互いに知り得るような関係になろうとしているところなので、結局「た(誰)」の有力候補は作者となります。

最初の文(初句)は、だから、作者自身の行動を訴えている文ではないかと推測します。「神に祈願したぞ」ということを反語形式で述べている文ではないか。

② 次の文(二句)「ゆふつけ鳥か」の「か」は、体言などにつき、感動文、疑問文として気持ちを添える意の終助詞なので、二句の現代語訳(試案)候補としては、

「みそぎ」の効果は、「あふさかのゆふつけとりの鳴き声に現れたのだ」と感動している(二句感動案)

「みそぎ」の効果は、「あふさかのゆふつけとりの鳴き声に反映しないのか」と疑問を呈している(二句疑問案)

2案があります。どちらの案でも二句は、作者の感想・判断と思えます。

③ 三番目の文(三句以下)も、主語ははっきりしていませんが、述語は「(をりはへて)なく」と明記されています。この歌で、唯一の動詞です。

ヒント6により恋の歌ですので、作者はこの歌で相手に自分の気持ち訴えているはずですが、二番目の文までにそれは強く表現されていません。三番目の文にあるこの唯一の動詞「なく」に気持ちを込めているようにみえます。そうすると、「なく」主体は作者か、作者を示唆するものである、というのが望ましくなります。

三つの文で構成するこの歌は、最初の文で自分の行動をとりあげ、次の文でその効果を自分で評価し、三番目の文で自分の思いを述べようとしている、と理解するのが一番素直です。つまり、作者自身が行ったことを反語で示しその期待する結果(の予想)を感動文か疑問文で示したあと、決意か確信を直截に表現して相手に訴えた歌が、この歌となります。恋の歌のテクニックとして異端のものでありません。

歌を構成する三つの文をみると、最初の文(初句)には2案が残り、次の文(二句)も2案あり、歌で何を言いたいのか宙ぶらりんです。したがって、三番目の文により初句と二句の意に誤解が生じないようにしなければなりません。

そうすると、三番目の文(三句以降)ではっきりと「なく」のが何者かを明らかにするのが良い方策です。作者を示唆する語句(多分名詞か代名詞か)の候補として、最初の語句(三句の「からころも」)に、注目することになります。「からころも」はその着用者をも指す例が『萬葉集』以来あり、『古今和歌集』編纂後にもあるからです。

④ 先の語句の検討(付記1.参照)から、「からころも」は次のことが指摘できます。

第一 700年代の「からころも」を詠う歌は『萬葉集』に7首のうち、3首において「からころも」(いうなれば耐用年数1年未満となってしまっている防寒用外套)を着るチャンスが多い男性をも指していました。

第二 701~850年代の「からころも」は、三代集にある5例の歌のうち、からころもの意は700年代と同じ単独に用いている歌が3首、衣裳の美称の意が1首のほか、『萬葉集』に引き続き着用者をも指している例が1首あります。

第三 推定作詠時点以降である851~800年代の「からころも」は三代集にある2首の歌のうち、からころもの意を単独に用いている歌は1首、単に衣裳の美称の意が1首あります。

第四 901~950年代でみると24例のうち、単独に用いている歌が9首ありますが着用者をも指している歌9首あります。

これをみると、「からころも」が着用者をも指す用い方は『萬葉集』以来伝統的にある、と理解でき、ヒント4の作詠時点の点からも、この元資料の歌の「からころも」にも十分その可能性があります。

⑤ 一例をここで追加したいと思います。作詠時点がこの元資料の後代(901~950歌が作詠時点)である1-1-410歌です。これまで、単独の意と整理してきましたが、再度検討すると、「からころも」が着用者をも指して作者は用いているのだと理解したほうが妻を思う気持が強く表れ、歌意に適うと思われることに気が付きました。(付記2.参照)。

1-1-410歌は次のような歌です。

1-1-410歌 あづまの方へ友とする人ひとりふたりいざなひていきけり、みかはのくにやつはしというふ所にいたれりけるに、その河のほとりにかきつばたいとおもしろくさけりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふもじをくのかしらにすゑてたびの心をよまむとてよめる            在原業平朝臣

唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ

この歌の三句にある「つま」は、作者在原業平朝臣の妻を意味しています。その「つま」を形容している語句は、「なれにし(つま)」だけではなく「きつつなれにし(つま)」であり、誰が「なれ」ているかと言えば、作者以外の人であるはずがありません。

「きつつなれにし(つま)」の「つつ」は接続助詞であるので、動詞「来」と動詞「成る・慣る」は、同時進行のことであり密接に関係している行為として詠っていることになります。

動詞「来」には、「来る」と「行く(目的地に自分がいる立場でいう)」の意があります。

「きつつなれにし(つま)」とは、「ともに(人生の)目的地まで歩んで行きかつ親しみも深くなっている(妻)」の意であり、子供達の活動をサポートするなど仲のよい夫婦像のイメージが浮かびます。自分が一緒であったことを「からころも」に込めることができるのですから、現代語訳の際省くのが惜しい語句が「からころも」です。

⑥ さて元資料の歌の検討に戻ります。「からころも」が着用者である男性の作者の代名詞であるので、三番目の文の意は、「からころも(の着用者である作者)が(をりはへて)なく」ということになります。そして、初句は、反語で(いずれでも可能ですがここでは)初句B案とし、二句は、二句感動案とする、恋の歌となります。次の文(二句)の「ゆふつけとりか」ということは、逢うを示唆する鳴声を聞いたということであり、相手の女性側の便りをもらった、ということを婉曲言っていることになります。

⑦ この元資料の歌の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「誰がみそぎをして祈願したか(それは私である)。そして、「あふさかのゆふつけ鳥」がないたのだ!だから、(相手からみれば)一冬だけの使い捨てのからころも(外套)のような存在かと沈んでいた私は、たつたのやまで繰り返し声をあげているのだ。壁を越えることができたのだ。」

作中人物(この歌では作者自身に重なる)が、「みそぎ」をするという初句を発する根拠は何なのかと考えてみると、恋の歌であるので、進展を確信した時点か、あきらめ切れないと迫る時点に作中人物がいるのではないか、と推測します。前者の例がこの元資料の歌であり、後者の例は『古今和歌集』の恋の部の歌1-1-501歌(およびその元資料)ではないでしょうか。この元資料の歌と1-1-501歌(の元資料の歌)は作詠時点が同時代と推計している歌です。

 

18.類似歌について現代語訳を試みると その3

① この歌1-1-995歌は、『古今和歌集』雑下の部に、編纂者によって配列された歌であるので、上記の元資料の歌に先の残っているヒント(1と2と7)を考慮して検討します。

「たつたのやま」の意は、元資料の歌の作詠時点でも『古今和歌集』編纂者の時代でも壁の意を強調し、抽象的な・実際の所在地を問わない(「あふさかやま」と対を成した)「たつたのやま」となっています。1-1-994歌における「たつたのやま」も比喩的な意味が歌において重きをなしていました。(付記1.参照)

1-1-994歌において作者の相手である男性は、「たつたのやま」を越えて帰っていっていますが、また「たつたのやま」を越えて作者の許に戻ってくると作者は確信して詠んでいます。

ヒント7より、1-1-994歌の直後にある1-1-995歌は、「たつたのやま」を「越えた」(逢うことができる)喜びを詠っている、という配列上にあるといっておかしくありません。そして「たつたのやま」は、恋の分岐点を指し、良い方向に進んだことが、作者が「をりはへてなく」原因である、と推測します。

② 念のため、1-1-995歌として配列した古今和歌集』編纂者の認識・イメージしていた語句の意味を確認します。

「みそぎ」という語句のイメージは、元資料の歌の作詠時点以前より第一に「祭主として祈願する」意および「罪に対してはらいをする」意が続いています。(付記1.参照)

「あふさか」表記のない1-1-995歌の「ゆふつけとり」は古今和歌集』編纂者の時代もあふさかのゆふつけとり」の意です。その日の夕方以降「逢う」期待を夕方に鳴いている鳥に込めた語句であり、鶏という限定はありません。

「からころも」の意が「外套」の意と「それの着用者」の意であるのも変わりませんが、更に衣裳(美称)の意と外来の服の意に女性の意をもっています。

③ 改めて1-1-995歌としての文の構成をみてみます。主な語句の意は、上記②のように元資料の歌の作詠時点と変わっていないので、元資料の歌の文の構成と変わりません。

即ち、この歌は三つの文から成ります。

初句のみで、一文を成し、疑問文です。

二句のみで、一文を成し、「ゆふつけ鳥か」の「か」は、終助詞であり、「ゆふつけとり」は、「あふさか」で鳴いてこそ詠われるのであり、感動文あるいは、疑問文です。

三句以下は、明示されていない主語が「なく」という叙述を普通にしている文です。

④ 1-1-995歌として現代語訳を、ヒント(1と27)をも踏まえ試みると、つぎのとおり。

「誰がみそぎをして祈願したか(それは私である)。そして、あふさかで「ゆふつけ鳥」がないたのだ!一冬だけの使い捨てのからころも(外套)のような存在の私は、大きな壁のような「たつたのやま」を越えることができるのだ、大声をあげて喜んでいるのだ。(ご下命に応える目途がたった。)」

⑤ 上記「2.~15.承前」であげた諸氏の現代語訳例への疑問を解消した現代語訳(試案)となりました。事項別には次のとおり。

第一 この歌は、みそぎしてまで恋が進展するよう邁進していたが、便りを得たと詠い、「執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群」にあっておかしくない歌となっている。

第二 ゆふつけ鳥が、「ながなが鳴」いたり「時節到来とばかり鳴く」のは「あふさかのゆふつけ鳥」なの恋の前進を示し、作者の喜びの表現である。

第三 「ゆふつけ鳥」と「あふさか(山)」の深い関係を利用して歌を詠んでいる。「ゆふつけ鳥」が鳴く意は、「あふさかのゆふつけ鳥」なのでほかの歌の場合と変わらない。この歌において、たつたの山で鳴いているのは、作者自身である。

第四 「たつた山」のイメージが、前回(2019/7/22付けのブログ)検討した結果と同じである。

第五 初句「たがみそぎ」、三句「からころも」の意を十分利用した歌であり、現代語訳には省けなかった。

萬葉集』と『古今和歌集』という和歌集に関しての寓意は、1-1-996歌と共通に詠う「鳥」が『古今和歌集』を、恋の成就が、和歌の隆盛ひいては天皇を中心とした律令の世界の隆盛を暗喩しているとおもいます。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、3-4-47歌を中心に記し、類似歌との違いを確認します。

2019/8/5  上村 朋)。

付記1.語句の検討について

① 「みそぎ」については、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌その2 あふさかのゆふつけとり」(2019/7/29付け)の「9.」にまとめている。

② 「ゆふつけとり」については、ブログ「同上」(2019/7/29付け)の「10.」にまとめている。

③ 「からころも」については、ブログ「同上」(2019/7/29付け)の「11.」にまとめている。

④ 1-1-994歌の「たつたのやま」については、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌その1 失意逆境の歌か」(2019/7/22付け)の「6.」に記している。

 

付記2.1-1-410歌の初句から三句について

① 1-1-410歌は、『古今和歌集』巻第九 羈旅歌 にある歌である。『新編国歌大観』より引用する。

1-1-410歌 あづまの方へ友とする人ひとりふたりいざなひていきけり、みかはのくにやつはしというふ所にいたれりけるに、その河のほとりにかきつばたいとおもしろくさけりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふもじをくのかしらにすゑてたびの心をよまむとてよめる               在原業平朝臣

唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ

② 初句「からころも」とは、『萬葉集』以来の「からころも」の意で用いられており、旅行用の外套の意にその着用者をも意味している。

③ 二句「きつつなれにし(妻)」とは、動詞「来」の連用形「き」+接続助詞「つつ」+動詞「なる」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」+過去の助動詞「き」の連体形「き」となる。

④ 二句にある語句の意を、『例解古語辞典』より引用する。

動詞「来」の意は、「来る」と「行く(目的地に自分がいる立場でいう)」がある。

接続助詞「つつ」の意は、連用修飾語や接続語をつくる助詞であり、aおおもとは、動作の反復・継続して行われている気持ちを表わすのに用いる。b二つの動作・作用が同時に行われることを表わす場合などもある。

動詞「なる」に漢字も交えた表現でみると、次のよういくつかある。

成る:四段活用。aできあがる。b変化してある状態になる。

業る:四段活用。生業とする。

鳴る:四段活用。音が出る・ひびく。

慣る・馴る:下二段活用。a慣れる。b親しむ・うち解ける。

萎る:下二段活用。衣服がよれよれになる。使い古す。

過去の助動詞「き」。単に、ある事実が過去にあったということを表わすのではなく、過去のことを、確かにあったこととして思い起こす気持ちを表わすのがおおもとの用法であり、a話し手自身の直接体験を回想して述べる。b話し手の経験と無関係に、過去の事実を、確かにあったこととして述べる。

⑤ 詞書の趣旨は、「作者とその友人が京より東の方面に出向き、三河国の八橋というところで休憩した際「かきつはた」の五文字を句の初字として、旅中の心持を詠もうということで詠んだ歌」ということである。つまり、公務ではないと思われる旅行において、都を出発し(言葉遣いも異なる地を意識しつつある)旅中の心持を詠んだ歌が、この歌である。作者の業平の実際の行動であったかどうかは定かなことではない。このように、『古今和歌集』編纂者は詠う場面を設定した、ということである。

この歌は、作者が同じである1-1-294歌と同類の歌であり、詞書に従った題詠である。

⑥ 初句~二句を「唐衣きつつなれにき」とみればその主語は、「からころも」(着用者)である。

⑦ 初句~三句の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「旅行用の外套が着馴れて褄がよれよれになるほど都から離れてしまった(「からころも着つつ萎れにし(つま)」。私(唐衣)にはここまで共に歩んできて(来つつ)、親しんだ(慣れにし)妻がいるのだが、」

旅行用の外套が十日かそこらで着馴れて褄がよれよれになるのは早すぎます。それでも耐用期間が短いので京からいかに離れた辺鄙な場所まで来たかのイメージは、伝わります。「からころも」が外国からの衣裳の意であると、そのような服を着馴れてよれよれになる、という形容は美的センスが無さすぎます。

⑧ 和歌全体の現代語訳を試みると、次のとおり。

「旅行用の外套が着馴れて褄がよれよれになるほど都から離れてしまった。私にはここまで共に歩んできて、親しんでいる妻がいるのだが、今回は一緒の旅行でもなく、遠くから想うだけであり、はるばるとこの地にまで来てしまったことを感慨ふかく思うことである。」

⑩ この歌の現代語訳の例を示す。

豪華な衣も何度も着ると柔らかくなって身に馴れるものであるが、私にもそのように馴れ親しんだ妻が都にいるので、はるばるとやって来たこの旅がいっそうしみじみと思われることであるよ。」(片桐洋一氏古今和歌集全評釈』(講談社1998/2)

「都には長く連れ添って親しくなった妻がいるので、はるばると遠くここまで来た旅を感慨ふかく思うことであるよ。」(久曾神昇氏『古今和歌集』(講談社学術文庫))

(付記終り。2019/8/5    上村 朋)

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第47歌その2 あふさかのゆふつけ鳥

前回(2019/7/22」、「猿丸集第47歌 その1 失意逆境の歌か」と題して記しました。

今回、「猿丸集第47歌その2 ふさかのゆふつけ鳥」と題して、類似歌に関して記します。(上村 朋)

. 『猿丸集』の第47 3-4-47歌とその類似歌

① 『猿丸集』の47番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-47歌  あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける

   たがみそぎゆふつけどりかからころもたつたのやまにをりはへてなく

 

その類似歌は、古今集にある1-1-995歌です。

題しらず      よみ人しらず

   たがみそぎゆふつけ鳥か韓衣たつたの山にをりはへてなく

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。

③ それでもこれらの歌は、趣旨が違う歌です。この歌は、男が昔知っていた女を誘っている歌であり、類似歌は、男が逢えない状況を打開しようとしている歌です(今回の検討で、この歌に「昔知っていた」(女)を加え、類似歌では「予測」を改めました)。

 

2.~7.承前

(最初に、類似歌を当該歌集の配列から検討した。類似歌の前後10首を検討し、巻第十八は失意逆境の歌群であることを前提に、1-1-993歌~1-1-996歌(未検討の1-1-995歌は保留)は、執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群とみなせた。また、1-1-994歌と1-1-995歌の作詠時点でもある古今集よみ人しらずの時代における「たつた(の)山」の意を確認した。)

 

8.類似歌の現代語訳の例

① 類似歌1-1-995の前後の配列上の検討が終わったので、次に類似歌について、検討します。

最初に、類似歌について、諸氏の現代語訳の例を示します。

「あれは木綿つけ鳥(鶏)であろうか、立田山にながながと鳴きつづけているが。」久曾神昇氏『古今和歌集』(講談社学術文庫

「「ゆふつけ」鳥という名がついているからには「木綿」(ゆふ)を付けているのだろうが、いったい誰のみそぎの木綿を付けた鳥が、あのように竜田の山に、時節到来とばかり鳴くのか。」(竹岡正夫氏『古今和歌集全評釈』(右文書院1983補訂版))

② 久曾神氏は次のように指摘しています。

A たがみそぎ」とは、だれのみそぎの木綿(ゆふ)であるか、の意。次の「ゆふつけ鳥」にかかる枕詞。

B 「からころも」(唐衣)とは、衣を裁つ意で、「たつた」にかかる枕詞。

C 「たつたの山」とは、立田山。大和国河内国との交通路に当たる山。

D 「をりはへて」とは、長くひきのばしての意。

E 「ゆふつけ鳥」とは、祭礼のときに木綿(ゆふ)をつけた鳥の意で、鶏をいう。『俊頼髄脳』『綺語抄』『和歌童蒙抄』『袖中抄』などをはじめ、平安時代の歌学書などに諸説が見える。・・・四境祭によって鶏の異名となったと見るのがよかろう。闘鶏の時に木綿をつけたとか、白い尾長鶏とする説もあるが、古歌の歌詞から見るに鶏とするのがよい。

③ 竹岡氏は、次のように指摘しています。

A 1-1-994歌が「風吹けば沖の白波立つ=竜田山」と言葉の上での序があったのを受けて、同様に「誰がみそぎ木綿付け=夕つけ鳥」と言葉の上だけの序を置いている。

B 1-1-994歌で「君が一人越ゆらむ」とある、その「君」がこの歌では今、一人で竜田山を越えていて、夕つけに鳴く鳥の声を聞いてこの歌を詠んでいる趣にもなっている。

C 「唐衣」は、「たつ(裁つ)」の枕詞であるが同時に上の「みそぎ」、「木綿(ゆふ)」と縁があるのであろう。「禊」で「木綿」の「衣」を着用するのである。

D 「夕つけ」を「木綿付け」と見立てたのは、竜田山の神厳な雰囲気から思いつかれたものであろう。

E (古今・後撰の)ゆふつけ鳥」は、「夕つけ」(夕方)に鳴く鳥の意。なく鳥の種類は、各歌(の場面場面)により推測。ここでは、「夕つけ(夕がた)」に鳴く鳥のこと。逢坂の関などには鶏が飼われていたようであるから、その鶏のことを言っているのであろうが、竜田山では・・・夕方になると鳴く鳥の類かとも考えられる。

F 二句の「ゆふつけ鳥か」の「か」は、「誰が・・・か・・・」と詠う歌の例よりみて末尾の「鳴く」と係り結びの関係にある。この歌は「ゆふつけ鳥」が主語である。

G 「みそぎ」とは、川原などで水によって身を浄め、罪や穢れを祓い落すことをいう。(1-1-501歌の釈において)

なお、竹岡氏は、「たつたやま」について語釈していません。その位置を図に示しています(現在の龍田大社付近の図)。

⑤ 2例の現代語訳をみると、次の点が疑問です。

第一 『古今和歌集』巻十八雑下の部の歌は、失意逆境の歌群(久曾神氏)というが、どのような点でそれを認めているのか

第二 歌の中で主役となっているとみえるゆふつけ鳥が、「ながなが鳴い」たり「時節到来とばかり鳴く」のは何を言わんとしているか示唆もない

第三 「ゆふつけ鳥」と「あふさか(山)」の関係を不問にしている

第四 「たつた山」のイメージが、前回(2019/7/22付けのブログ)検討した結果とだいぶ異なる

第五 三句「からころも」に加え初句「たがみそぎ」も省いて現代語訳している例があるが、31文字しかない和歌において、5字も10字も省いても意が通じる場合もあるものの、この歌ではいかがか

⑥ ここまでの『猿丸集』の検討は、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものである、という考え、和歌集の撰者は、自らの意図で歌を取捨選択し歌集を作っていること(その和歌集における歌の意図と元資料の作者の意図とは別であるということ)、を前提として行ってきました。

それにより、各歌の理解が十分出来、その前提を認めない場合の歌の理解は、その歌集に置かれた歌としては不十分であることが多々ありました。

だから、用いている語句に関して当時の用例に基づき得た成果を踏まえ、この歌も、この前提で検討をしたいと思います。

 

9.歌の語句の当時のイメージ みそぎ

① 類似歌1-1-995歌に用いられている語句で一度検討した語句は、次のとおりです(付記1.参照)。

初句にある、みそぎ

二句にある、ゆふつけ鳥

三句にある、からころも

四句にある、たつたの山

五句にある、をりはへて

たつたの山やゆふつけ鳥と関係が深い、あふさか(山)

② 「当時」とは、1-1-995歌が詠まれたと推定している時点、即ち『古今和歌集』のいわゆる「よみ人しらずの作者の時代」を指します。『古今和歌集』の編纂者の活躍した時代がこの後に続いています。「当時のイメージ」とは、その語句について当時の歌人の共通理解を言います。その語句のイメージは、当然次の時代にも引き継がれますし、その語句にはあらたなイメージ、派生したイメージが付加されたり、状況の変化で一新している場合もあります。

そのため、次の時代である『古今和歌集』の編纂者の活躍した時代のイメージも比較のため、ここに改めて確認をすることとします。

③ 語句ごとに検討します。

初句にある「みそぎ」という語句を用いた『萬葉集』歌は、『新編国歌大観』において5首あり、「祭主として祈願する」意が3首、「罪に対してはらいをする」意が2首でした。

「はらへ等」の語句を用いた『萬葉集』歌は、4首あり、「祭主として祈願する」意が1首、及び「羽を羽ばたく」「治める・掃討する」意が3首でした。

合計9首すべて701年~750年の間に詠まれた歌です。(付記2.の①参照)

④ 「みそぎ」の意が、「祭主として祈願する」ということは、「祭主として祈願する」ことがメインの行為(あるいは行事)の略称として、最初に行うところの霊的に心身を清める行為(狭義の「みそぎ」)の通称「みそぎ」を用いている、ということです。メインの行為(あるは行事)については、歌や詞書で判断することになりますので、「みそぎ」の意はいくつもあることになります。少なくとも、和歌にみる「みそぎ」とはメインの行為の略称の場合があるということです。

「祭主として祈願する」場合、それを含む一連の宗教的あるいは民俗的行事とは、行う場所(祭場)を用意し霊的に清め、供物を用意し、狭義の「みそぎ」を済ませた者が、神の接遇する資格・許しを得」た後、何らかの祈願をする宗教的行為をし、これまでの一連の行為の終了を神に告げ、その場所の霊性を除くまでを言います。直会を含む場合も簡略化している場合もあります。

一般に「祭主として祈願する」場合は、水辺における祭場を必須としている訳ではありません。

狭義の「みそぎ」とは、現代においては、水を用いる場合が多く、(神道式の)幣ではらってもらうことを含める場合があります。

⑤ 次に、三代集で「みそぎ」という語句を用いた歌は8首あります。(付記2.の①参照)

作詠時点が801年~850年と推計した歌は、2首あり、「祭主として祈願する」意の歌が1首(1-1-501歌付記2.の②参照)と類似歌1-1-995歌です(その意を今は保留します)。

851年~900年の歌は、ありません。

901年~950年の歌は3首あり、「罪に対してはらう」意と「民間行事の夏越しの祓と言う行事」の意と「神の接遇する資格・許しを得る」意が各1首です。

951~1050年の歌は3首あり、「民間行事の夏越しの祓と言う行事」の意が1首と「朝廷の特定儀礼」の意が2首です。「祭主として祈願する」意の歌はありません。

三代集で「はらへ等」と言う語句を用いた歌は13首あり、「民間行事の夏越しの祓と言う行事」の意が4首と「喪明けのはらへ」の意が1首と、「羽ばたく等」の意が8首です。「はらへ等」と言う語句で「祭主として祈願する」意の歌はありません

⑥ これから、「みそぎ」という語句のイメージは、付記2.の①の表にあるように701年~750年の間の「祭主として祈願する」意および「罪に対してはらいをする」意のみから、901年~950年には、「民間行事の夏越しの祓と言う行事」の意が加わり、951~1050年には「朝廷の特定儀礼」の名にもなった、という拡大をみることができます。

「罪に対してはらう」意は「神の接遇する資格・許しを得る」意とともに自らの穢れを落とすという意が通底にある行為であり、また、「民間行事の夏越しの祓と言う行事」の行為の基本には「罪・穢れを払いおとす・身から遠ざける」行為があります。

なお、『貫之集』をみると、「みそき」表記の歌が3首あり、「はらへ」表記の歌5首とともにいずれも屏風歌でかつ「民間行事の夏越しの祓」を意味しています(付記4.参照)。 また「みそく」と「はらふ」と表記のある歌が1首(3-19-353歌)は、「祭主として祈願する」意です。これらはすべて作詠時点は901~950年です。

⑦ 1-1-995歌の推計作詠時点は、801年~850年ですので、その当時の「みそぎ」という語句のイメージは、『萬葉集』歌以来の「祭主として祈願する」の意の「みそぎ」が主流であった、と思われます。

⑧ この歌のように「みそぎ」とゆふつけ鳥」と言う語句が共に用いられている歌は、『新編国歌大観』全体では10首しかありません。勅撰集には「たがみそぎ ゆふつけ鳥か・・・」と詠うこの類似歌1-1-995歌しかなく、3-4-47歌を除くと年代順には『壬二集』にある3-132-732歌(1215年の順徳院名所百首における詠)がその次に詠まれています。

 

10.歌の語句の当時のイメージ ゆふつけ鳥

① 「ゆふつけ」あるいは「ゆふつくる」と表記した歌は、『新編国歌大観』記載の歌では、採用した推計方法の限界から作詠時点が849年以前としか推計できない次の3首が最古の歌であり、清濁抜きの平仮名表記でみると、みな「ゆふつけとり」表記です。

1-1-536歌 相坂のゆふつけどりもわがごとく人やこひしきねのみなくらむ

1-1-634歌 こひこひてまれにこよひぞ相坂のゆふつけ鳥はなかずもあらなむ

1-1-995歌 たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣たつたの山にをりはへてなく

このように、『萬葉集』には「ゆふつけとり」表記の歌がありません。

② この3首を含めて、「ゆふつけ」あるいは「ゆふつくる」と表記した歌は、1050年までには一旦終焉しました。この間に22首あります。この22首には、鳥が「なく」行為を詠んでいる歌が16首あります。「なく」とは、歌の本文に「なく(鳴く)・告ぐ・こゑたつ・きこゆ・ひと声」の表現がある、という意です。

③ この16首を、作詠時点順にみると、「なく」時間帯と「ゆふ」に掛る詞に変遷があります。

第一に、最古の歌から923年以前と推計した歌(5-417-21歌)までの7首は、時点が不明か夕方に「なく」歌であり、そしてすべて「ゆふ」表記に夕方の意が掛かっていて不合理ではありません。そして「ゆふつけとり」のみの表記が「あふさかのゆふつけとり」の意と決めかねる歌は、「あふさか」表記のない1-1-995歌だけです。さらに、「あふさかのゆふつけとり」は、季節を気にせず鳴き続けています。

また、作中人物は「逢ふ」前の(あるいは逢えると信じてよい)時点で、詠っています。但し、1-1-995歌を留保します。

第二に、8番目に古い943年以前と推計した1-10-821歌と9番目の951年以前と推計した歌5-416-188歌は、暁に「なく」歌であり、歌の鳥の名に夕方の意を掛けているのは不自然です。そしてこの2首における「ゆふつけ」(鳥)は、「あふさかの」と形容されていません。

1-10-821歌は、歌合における 「暁別」 と題する歌であり、その題から鳥の「鳴く」時間帯が作者にとり所与のものであったことが分かります。だから、ゆふつけ鳥が初めて暁に鳴いた歌となり、積極的に「あふさかの」という形容を「ゆふつけとり」にしなくなった最初の歌でもあり、「ゆふつけとり」と表記した後朝の朝おくる歌としても最初の歌です。また、『大和物語』119段の5-416-188歌も、歌に「暁」と「なく」を明記してある歌です。

1-10-821歌 『続後撰和歌集』 兵部卿元良親王家歌合に、暁別   よみ人しらず

したひものゆふつけ鳥のこゑたててけさのわかれにわれぞなきぬる

5-416-188歌 『大和物語』 149段 (直前の地の文)えあふまじきことやありけむ、えあはざりければ、かへりにけり。さて、朝に、男のもとよりいひおこせたりける。

あか月はなくゆふつけのわびごゑにおとらぬねをぞなきてかへりし

第三に、10番目となる955年以前と推計した1-2-982歌以降は、7首のうち3首が、暁に「なく」歌であり、かつ作中人物が「逢ひて」後の時点の状況を詠っており、そしてその3首は「ゆふ」表記に夕方の意が掛かっているのは不自然であったり、「夕」の表現をわざわざするという工夫を凝らしています。

④ 「ゆふつけ」表記に含意する詞は、最古の歌の「夕べ」から始まり、1-10-821歌で「結ふ」、(967以前の作詠時点と推計した)3-23-26歌で「木綿」(ゆふ)が加わりました。「ゆふつけとり」は、1-10-821歌以降、暁に鳴く鶏の意が定着してゆきます。

⑤この1-1-995歌の作詠時点の頃及び『古今和歌集』編纂時は、上記③の第一の時期に該当し、「ゆふつけとり」表記は、原則「あふさかのゆふつけとり」を意味しており、その日の夕方以降「逢う」ことを期待した意を含意した(期待を込めた)夕方に鳴いている鳥の意であり、鶏という限定はありません。

しかし「あふさか」という地名との関係が不明なのが1-1-995歌です。

⑥ 「あふさかのゆふつけとり」と11文字も費やすのですから、(作者であり、鑑賞者でもある)歌人たち共通の認識があったはずです。そして略称が作れなくて文字数をなかなか減らせなかったと思われます。

⑦ なお、「ゆふつけ」表記あるいは「ゆふつくる」表記の歌にはゆふつけ鳥を意味しない歌もあり、単に「夕べ」、「木綿を付ける」意の歌が各々1首、5首あります。

 

11.歌の語句の当時のイメージ からころも

① 「からころも」については、片岡智子氏が三代集を含めて検討した成果に基づいています。

② 700年代の「からころも」は、官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着耐用年数1年未満の材料・製法の衣も含む)を指します。

また、耐用年数が短いので親しいものがよく新調してあげる(裁つ場合もある)、ということになります。

③ 「からころも」を詠う歌は萬葉集』に7首あり、728年以前と推計する歌から755年以前と推計する歌までです。

「からころも すそ(裾)・・・」と詠う歌が4首、「からこもろ きみにうちきせ(着る)・きなら(着馴らす)・きなし」が3首あり、「たつたの山」に掛かる歌が1首あります。さらに今回確認すると3首は男が「からころも」を着ている状況を詠っています(2-1-2626歌、2-1-2690歌、2-1-4425歌)。

④ 「からころも」を詠う歌は三代集に39首あります。今回再検討すると次のように変わりました(付記3.参照)。

作詠時点の推計が850以前は5首、「からころも」の意は700年代と同じの歌が2首、それにからころも着用者の意を含ませた歌が1首、それに衣裳の意を含ませた歌が1首と、今検討対象の1-1-995歌です。

851年~900年は2首、「からころも」の意は700年代と同じが1首、単純に衣裳の美称の意の歌1首です。後者は、上記のような意から生まれるとは思えない意です。女性むけの外国産の衣(韓衣)を指しているのではないか。

901年~950年は24首、「からころも」の意は700年代と同じが9首、それに女性の意を含ませた歌が4首、それに着用者の意を含ませた歌が9首あり、衣裳の美称の意が1首、外来の服の意に女性の意を含ませた歌が1首です。

これは、「からころも」の意に、700年代の延長上に、着用者を指すことが増え、女性むけの外国産の衣(韓衣)の意が拡大した、ということになります。平安時代の女官の正装である上着の上に着る「からぎぬ」に連なると思えます。

951年~1000年が8首、「からころも」の意は700年代と同じが4首、それに着用者の意を含ませた歌が4首です。

着用者の意を含ませた歌の1例を示します。

後撰和歌集』 巻第十 恋二  1-2-622歌 女につかはしける       よみ人しらず

終夜ぬれてわびつる唐衣相坂山にみちまどひして

⑤ 「からころも たつたのやま」という表記のある歌は、『萬葉集』と三代集で5首あります。作詠時点順にいうと、

最初が2-1-2198歌(738年以前 巻十 秋雑歌 詠黄葉  よみ人しらず)、

次に1-1-995歌(849年以前 巻十八 雑  よみ人しらず)、

三番目以降は1-2-359歌(905年以前 巻七 秋  よみ人しらず)、1-2-383歌(905以前 巻七 秋  よみ人しらず)、1-2-386歌(945年以前 巻七 秋  つらゆき)です。

類似歌1-1-995歌以外の4首は、秋の紅葉を詠んでいます。この4首において、「からころもたつ」とは、「からころも」という衣(防寒用の外套)を所定の形に仕立てる(裁つ)意、となり、仕立てた衣を「たつたのやま」に見立てていることになります。そのため、季節感もあるものであり、毎年秋に新調されて、着馴れて結局着つぶしてしまう衣が、紅葉の山が出現しそして落葉の山へと移ることの比喩となり得ています。類似歌1-1-995歌は部立が雑の部にある歌であり「紅葉したたつたのやま」を詠んでいると断言できません。

⑥ また、「たつ」は、「裁つ・立つ・発つ・(噂が)起つ」などの意がある同音異義語ですが、「からころも」がもともと外套という衣類の一種であって「ころも」の総称・美称に容易に変容できたことから「たつ(裁つ)・裾・袖・衣・たもと」にも「からころも」は掛かるように(抽象化し枕詞的に)なっていっています。

⑦ これをみると、からころもの意は700年代と同じ意のみの歌が17首と4割を超えていますが、それに着用者の意を含めている歌が、850年以前からあり14首と4割近くあります。

 この結果、1-1-995歌が詠われた時代の「からころも」の意は、700年代と同じ意であり、それに着用者の意を含む場合もあるのが判りました。

『例解古語辞典』には「からころも」を立項し、枕詞のほか「からぎぬ」と同じとし「平安時代以後の女官の正装。」と説明していますが、そのような意に変わる以前の時代が、古今集のよみ人しらずの時代と言えます。

 

12.歌の語句の当時のイメージ たつた山

① 「たつた(の)山」については、前回の検討時に次のように確認しました。(付記1.参照)

② 「たつた(の)山」と詠う『萬葉集』の歌は作詠時点がみな700年代ですが、既に、阻む壁の意を強調し、「たつ」に「発つ」「起つ」を掛けて用いられており、「たつた(の)山」という実際の山地の名のほかにそれから離れて抽象的な・実際の所在地を問わない「たつたの山」として(逢うことを予想できる)相坂(山)ではないところの代表地名として万葉集時代に選びとられていたと思われます。

二人の仲を断つ(切り離す・隔てる)意をこめた「たつたの山」が家持作の2-1-3953歌にあります。

③ 『古今和歌集』のよみ人知らずの時代もそれを受け継ぎ、「あふさかやま」と対を成して、たつたの山も抽象化されてきていたのではないか。1-1-994歌においても、そのとおりでした。

④ なお、『古今和歌集』編纂者が活躍する頃、寝殿造りという建物における屏風の需要に対応して万葉集時代その山地の紅葉も詠われている(かつ平安京の西方にある)「たつた(の)山」の山中に、紅葉の映える河として「たつたかは」が創出され、その後その紅葉が「たつた(の)山」にも適用されました(但し、『古今和歌集』の歌には紅葉が詠われていません)。

 

13.歌の語句の当時のイメージ をりはへて

① 「をりはへて」と言う表記は、『萬葉集』にありません。

② 古今和歌集』の成立時点を905年とすると、この年以前に詠まれたと思われる歌の4首にこの表現があり、この「たがみそぎ・・・」の歌)1首だけでゆふつけ鳥がなき、ほかの3首ではほととぎすがなく、と詠まれています。

③ 三代集における「をりはへてなく」とは、一フレーズの時間が長いというよりも、飽きないでそのフレーズを繰り返している状況を指しています。「声ふりたてて」も同じ状況を指しています。

④ しかしながら、ブログ「わかたんかこれの日記 猿丸集からのヒントその1」(2017/11/20)で検討したように、三代集の連語の例のほか、「「をりはへて」の「をり」を、「居り」と「折り」、「はへ」を「延へ(て)」と「這へ(て)」とする理解があります。

例えば、「(たつたのやまに)居りつづけ(延へて)、鳴いている。」とか「(たつたのやまに)居り、心にかけて(延へて)、鳴いている。」とか、連語より、鳴く鳥の行動描写が細かくなります。今、「あふさかのゆふつけ鳥」が「たつたの山」に来て鳴かないのであれば、「鳴き方」の描写と割り切ってもよい、と思いますので、その場合は、連語のみの意として差支えないと思います。

⑤ このように、1-1-995歌の作詠時点の前後、「をりはへて」は同じ意です。

 

14.歌の語句の当時のイメージ あふさか(山)

① 萬葉集』に「あふさか」とある6首は、「あふさかやま」という表記が5首、「あふさかを(うちいでてみればあふみのみ・・・)という表記が1首です。そしてそのうち3首に「逢ふ」意を掛けています。「あふさかやま」の抽象化が始まっている、とみられます。

② 三代集の「あふさかのゆふつけとり」は、850年以前のよみ人しらずの時代から詠まれており。表記した歌5首すべてが「(貴方に)逢ふ」を掛けており、作中人物が「逢ふ」であろうと予測している時間帯の前に「ふつけとり」が鳴いています。つまり、夕方になって作中人物の感情の高まりを表わし、あるいは予祝をするように鳴いていると聞きなしています。

そして、901~950年に歌人は創意工夫して(あふに反するような)あふさかの関を詠み始めています。

③ また、「あふさか(の)やま」と表記された三代集記載の歌10首はすべてに「逢ふ」意が掛かっています。

③ 「あふさか」の景物と言う捉え方をすると、「山」は『萬葉集』の時代からあり、「ゆふつけとり」が、849年以前の1-1-536歌などで生まれ、その時代に、関も「しみつ」(清水)も生れましたが、関の流行は901~950年代です。

④ 1-1-995歌が詠われた頃も、『古今和歌集』の編纂時も、同じ意味合いでした。

 

15.類似歌について現代語訳を試みると その1

① 『古今和歌集』の配列と語句の検討を踏まえ、「題しらず」という詞書に従うと、類似歌1-1-995歌の現代語訳の前回の試み(2017/11/27のブログ)は誤りでしたので、改訳したい、と思います。

② 語句の意は、元資料の歌としては古今集のよみ人しらずの時代の意ですが、『古今和歌集』の歌ですのでその編纂者の理解している意となります。

③ この歌の文の構成をみてみます。

初句「たがみそぎ」の「たが」は連語であり、「誰が」または「誰の」の意です。

当時の「みそぎ」には、「(あふさかの)ゆふつけ鳥」など鳴く鳥の存在が必須ではないので、初句と二句は関係ない語句であり、別々の事がらを述べている(二つの文である)、と理解できます。

そうすると、この初句のみで、一文を成す疑問文です。

二句「ゆふつけ鳥か」の「か」は、終助詞あるいは疑問の助詞の係助詞です。終助詞と理解すると、この句のみで、一文を成します。係助詞と理解すると三句以下とともに一文を成す可能性があります。この場合、主語がゆふつけ鳥になり、「ゆふつけ鳥」と言う表現が「あふさかのゆふつけ鳥」の略称(いうなれば既に一種の歌語)と知っている者にとって、その鳥が「たつたの山」で鳴くと詠むのは常識外れです。『古今和歌集』の編纂者の時代もそうでした。だから、二句は三句以下とも別の独立した文である、ということになります。(この点が前回と異なります)

このため、「か」は終助詞であり、二句のみで一文をなします。

終助詞「か」は、体言などにつき、感動文、疑問文として気持ちを添える意があります。『明解古語辞典』には「感動を表わす「か」(の用例)は和歌に集中する」ともあります。

三句以下は、そうなると、明示されていない主語が「なく」という叙述を普通にしている文です。

以上の三つの文からこの歌は成る、とみることができます。

④ 各文ごとの検討を、次回、行うこととします

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

3-4-47歌を中心に記します。

2019/7/29  上村 朋)。

付記1.語句検討の前提・経緯・結果を記すブログについて

① 1-1-995歌の疑問から始まった和歌検討の前提・経緯・結果は、「わかたんかこれの日記 ・・・」(2017/yy/zz)と題した上村 朋のブログに記してある。(自2017/3/24 2017/12/28

② それを今回再確認した結果、一部別の結論に至ったり改訳したりした部分がある。本文の当該箇所でその旨を断っている。

③ 語句ごとに検討結果を総括あるいは概要を述べているブログの一端を記す。

「みそぎ」:ブログ「わかたんかこれの日記 みそぎの現代語訳の例」(2017/7/17)

ブログ「わかたんかこれの日記 三代集のみそぎのはらへ」(2017/8/21)

「ゆふつけ鳥」:ブログ「わかたんかこれの日記 ゆふつけ鳥は最初の200年に20首」(2017/3/31)

ブログ「わかたんかこれの日記 ゆふつけとりは2種類」(2017/5/1)

「からころも」:ブログ「わかたんかこれの日記 万葉集からころも」(2017/5/8)

ブログ「わかたんかこれの日記 からころも+たつ 女人往生」(2017/5/22)

「たつたの山」:ブログ「わかたんかこれの日記 所在地不定の河と山」(2017/6/26

ブログ「わかたんかこれの日記  配列からみる古今集994歌」(2017/12/18

ブログ「わかたんかこれの日記  配列からみる古今集1000歌」(2017/12/25

さらに、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌 その1 失意逆境の歌か」(2019/7/22

「をりはへて」:ブログ「わかたんかこれの日記 ほととぎすも をりはへてなく」(2017/4/7)

「あふさか」:ブログ「わかたんかこれの日記 平安初期のあふさかその2」(2017/4/27)

ブログ「わかたんかこれの日記 ゆふつけとりは2種類」(2017/5/1)

付記2.『萬葉集』と三代集の「みそき」表記「はらへ等」表記歌について

① 作詠年代で「みそき」表記「はらへ等」表記歌を整理すると、次の表のとおり。

表 『萬葉集』と三代集の「みそき」表記「はらへ等」表記歌の作詠時点別「現代語訳の作業仮説の表」のイメージ別一覧 (2017/8/3現在)

期間

語句「みそぎ」と「はらへ等」のイメージ

西暦

神の接遇する資格・許しを得る

罪に対してはらいをする

祭主が祈願

民間行事の夏越しの祓

喪明けのはらへ

羽ばたく・治める・掃討する

朝廷の特定儀礼

保留

(首)

701~750

 

2-1-629

2-1-629イ

2-1-423

2-1-953

2-1-2407

2-1-4055

 

 

2-1-199

2-1-1748

2-1-4278

 

 

 9

~850

 

 

1-1-501

 

 

 

 

1-1-995

 2

851~900

 

 

 

 

 

 

 

 

 0

901~950

 

 

 

 

 

 

1-3-293

 

 

 

 

 

 

1-2-162

 

 

 

 

 

 

1-2-215

1-2-216

1-3-133

 

1-1-416

1-1-733

1-2-275

1-2-478

1-2-770

1-2-771

 

 

11

951~1000

 

 

 

1-3-292

1-3-595

1-3-134

1-3-1291

1-3-254

 

1-3-594

1-3-662

 

 7

1001~1050

 

 

 

 

 

1-3-1341

 

 

 1

三代集の計(首)

 1 (1)

 1 (1)

 1 (1)

 

6 (2)

 1

8

 2 (2)

 1 (1)

21

(8)

注1)歌番号等は『新編国歌大観』による。

注2)この表は、ブログ「わかたんかこれの日記 三代集のみそぎとはらへ」(2017/8/21付け)記載の「表 『萬葉集』と三代集の「みそき」表記「はらへ等」表記歌の作詠時点別「現代語訳の作業仮説の表」のイメージ別一覧 (2017/8/3現在)」による。「イメージ」は、ブログ「わかたんかこれの日記 「みそぎの現代語訳の例」(2017/7/17)記載の「現代語訳の作業仮説の表」による。

注3)1—01-995歌は分類を「保留」とした。今後検討する。

注4)赤字の歌番号等の歌は、「みそき」表記のある歌である。そのほかは「はらへ等」表記の歌である。

注5)作詠時点の推定は、ブログ「わかたんかこれの日記 ゆふつけ鳥は 最初の200年に22首」(2017/3/31付け)記載の「作詠時点の推計方法」に従う。

 

② 1-1-995歌と同じ時代の歌1-1-501歌は、つぎのような歌である。ブログ「わかたんかこれ 2017/6/24」で検討した。当時の伝承歌である。

     題しらず                よみ人しらず

恋せじとみたらし河にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも

A この歌は、推定した作詠時点順でいうと、勅撰集において最古の「みそき」表記のある歌の一つ。

ここでの「みそき」表記は、初句の「恋せじ」ということを目的とした一連の行為全体を「みそぎ」と称していると理解できる。その「みそき」表記の行為は神に対して行われたものであるからこそ、神が受けなかったといえるのであり、単におのれのけがれを除くための水を用いるという「みそぎ」の意ではなく、「恋せじ」という祈願の一形態である。だから罪も穢れも不問となっている。

B 現代語訳(試案)はつぎのとおり。

「貴方への恋慕を断ち切ろうと、清い川で私はみそぎをして神に祈った。だが、未だにあなたに逢えないのをうらめしく思っている自分がいる。これは神が私の願いを聴いてくれなかったということらしい。(あなたと私が結びつく運命だとそっと知らせてくれた気がする。)」

C (配列から言えば)まだ逢わせてもらえない人におくる歌。単に相手に言い寄っている段階で、言葉で脅している、あるいは、この歌をみてもらいたい相手にやんわりと迫っている歌。手紙などの点検役をしている侍女のもとに、この歌だけでも相手に読み上げてほしいという口上を伴って届けられたこともあるような実用の歌だったのではないか。それが伝承歌として残った所以かもしれない。

 

付記3.三代集の「からころも」表記歌の再検討結果

① 今回現代語訳(試案)を再検討した。また、時期区分の誤りを正し、再集計した。

表 「からころも」表記のある三代集の歌の「からころも」の意味別作詠時期別分類(2019/7/28現在)

時期

外套の意(官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着

衣裳(美称)の意

外来の服の意

歌数の計(首)

単独

衣裳も

女性も

着用者も

 

女性も

 

~850

1-1-515

1-1-865

1-1-995*

 

1-2-729(冬嗣)

 

1-1-375

 

 

 

  5

851~900

1-1-410(業平)

 

 

 

1-1-572(つらゆき)

 

  2

901~950

1-1-576(ただふさ)1-1-786(かげのりのおほきみ)

1-2-313

1-2-359

1-2-383

1-2-1329

1-3-149(つらゆき)

1-2-386(つらゆき)

1-2-660(つらゆき)

 

1-2-539

1-2-948

1-2-1317(女)

1-2-1316

(公忠)

 

1-2-622

1-2-713

1-2-848

1-2-849

1-2-1328

1-1-519

1-2-529(桂のみこ)

1-3-327(つらゆき)

1-2-746(右近)

1-1-808 (いなば)

1-1-697(つらゆき)

 24

951~1000

1-2-1114(雅正)

1-3-1189

1-3-321

1-3-326(三条太后宮)

 

 

1-2-804(源巨城)

1-3-703

1-3-704

1-3-1225

 

 

 

  8

歌数(首)

 17

  1

 

  4

 14

 

  2

 

  1

 

39

注1)歌番号等は『新編国歌大観』による。

注2)*印の1-1-995歌は、仮に「外套(単独)」に整理している。

注3)「からころも」の意味の分類は次のとおり

・外套:700年代におけるから「からころも」の定義:官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着

・衣裳(美称):上記の外套の意を含まず、衣裳一般の美称。(外来の服の意を除く)

・外来の服:上記の外套や衣裳の意を含まず、外来した美麗な服

・衣装も:外套の意のほか衣裳一般の意あり。

・女性も:外套の意のほか女性の意あり。

・着用者も:外套の意のほかその外套を着ている人の意あり。

注4)赤数字の歌番号等の歌以外の作者は、よみ人しらず、である。

付記4.『貫之集』の「みそき」等表記の歌について

① 清濁抜きの平仮名表記「みそき」とある歌

 3-19-11歌 3-19-37歌 3-19-403

但し、3-19-37歌については、朝廷の晴儀として住之江に行く要件を想定していれば「みそき」はその晴儀(朝廷の特定儀礼)か。

② 同様に「はらへ」とある歌

 3-19-107歌、3-19-132歌、3-19-363歌 3-19-529歌、3-19-539

(付記終り。2019/7/29    上村 朋)